【20世紀歴代大統領一覧


ウィリアム・マキンリー William McKinley(1843−1901) 共和党

第25代大統領(1897−1901)

マキンリーはオハイオ州で生まれ、南北戦争では、北軍として戦った。彼は1876年に共和党の下院議員となり、関税政策を重視した。国内市場の拡大と高賃金を生み出すには、高い関税を定めて、低価格の外国製品をアメリカ市場から締め出せばいいと考えた。産業資本家、マーク・ハンナの支援によって、彼は1891年オハイオ州知事に当選し96年民主党のウィリアム・J・ブラウンとの激烈な選挙戦の末大統領となった。彼はディングリー関税法を定め、税率をかつてない高さに引き上げた。彼の人柄と遊説、ハンナの支援によりアメリカを巧みに操り支持を得た。95年のキューバ革命によってアメリカ国民はスペインへの反感を募らせたが、マキンリーは当初参戦の意志はなく平和的交渉を行った。しかし結局は世論に負け98年参戦し、短期間で勝利を収めた。その後の領土問題で反帝国主義者と併合賛成派が争ったが、結局マキンリーはフィリピン併合を選んだ。ほかにも、プエルトリコ、グアムもアメリカに割譲され、また1899,1900年の門戸開放宣言で中国に勢力圏を持つ列強諸国に対してアメリカの権利と特権を侵害しないよう明記した。こうして、彼の求めたアメリカ貿易発展は成功した。マキンリーは1900年の大統領選で再度ブライアンと争い勝ったが、新しい保護領統治問題、関税革などへの問題に立ち向かうまもなく1901年無政府主義者によって射殺された。 上へ


セオドア・ローズヴェルト  Theodore Roosevelt (1858−1919) 共和党

第26代大統領(1901−1909)

ルーズヴェルトは1882年に、ニューヨーク州下院議員となり、1898年米西戦争では義勇兵団「荒馬乗り」を組織し、キューバに遠征し絶大な支持を得て帰国する。同じ年ニューヨーク州知事になり、1900年共和党から副大統領となり01年マキンリーが暗殺されたため42歳の若さで大統領となった。彼は工業化された社会の中で公共の利益を守ろうとした最初の大統領だった。彼は公正な政策をモットーとし、金融界の王者J.P.モーガンらの北西部の鉄道独占の企てを反トラスト法を適用して、阻止するなど、他にもトラストに対する45の訴訟を起こした。彼は労働者の側に立ち権限を行使した。

外交面では世界情勢に注目しアメリカの大国としての地位を確保するとともに、国際関係の安定のために影響力を行使すべきだと考えた。1903年、パナマ革命に乗じて、運河地帯の永久租借権を獲得し、またアメリカがラテンアメリカ諸国にも干渉する権利を持つというモンロー主義の拡大解釈を行った。彼のモロッコ危機に対する平和的解決、日露戦争の仲裁に対する功績から1906年ノーベル平和賞を得る。

彼は他にも、国立公園の数を2倍に増やすなど、自然資源の保全に大きな役割を果たした。

彼は改革者として、強い力を発揮し人気は高かったが、軍国主義適精神と、排外的愛国主義のため、人々の尊敬の的とはならなかった。 上へ


タフト  Taft.W.H (1857−1930) 共和党

第27代大統領(1909−1913)

タフトは判事の子として生まれ、若くから法律家を志していた。1901年フィリピン総督に任命され、その気さくな性格とフィリピンの行政を住民本位で行おうとする姿勢はフィリピン人の尊敬と人気を得た。そして1908年前大統領ローズヴェルトの協力もあって大統領となる。しかしタフトは、ローズヴェルトの政策を、全面的に継承したわけではなかった。特にルーズヴェルトの行った、憲法の枠を超えた自然環境保護の分野では、それを促進しようとはせず、見直しを進めた。こうしたことから、ローズヴェルト時代に発展していた共和党の進歩的勢力と対立するようになっていった。

外交面では、ローズヴェルトが東アジアにおける日本の力を黙認していたのに対し、タフトは東アジアへの積極的な介入政策を取り、パナマ運河などカリブ海地域においては、アメリカに好意を持つ勢力に軍を派遣し、その維持に努めるドル外交を進めた。1912年の大統領選では、新たに革新党を結成し出馬したローズヴェルトと民主党のウィルソンとの3つ巴の戦いに敗れ再選は果たせなかった。その後タフトは連邦最高裁判所首席判事になるなど、法律家として生きた。

タフトは大胆で独創的なローズヴェルトの後を継ぐには独創性に欠けていたし、アメリカが工業化していく過程でおこった社会的、経済的変化に対して、目立った成果を上げることができなかった。 上へ


ウッドロー・ウィルソン  Woodrow Wilson (1856−1924) 民主党

第28代大統領(1913−1921)

長老派牧師の子として厳格に育てられたウィルソンは、法律、政治学を学び、1910年ニュージャージー州の民主党から知事となった。1912年内政革新の旗印を掲げ大統領に当選する。就任後は、関税の引き下げ、連邦準備制度の創設(これによって政府管理の銀行制度が創設された)独占禁止政策の強化など、後のアメリカに大きな意義を持つ法律を次々と制定した。

1914年ヨーロッパで第1次大戦が始まるとウィルソンは中立を宣言した。16年にはアメリカを戦争から守ったということが支持され大統領に再選を果たす。しかしドイツがアメリカ船に潜水艦攻撃を始めるとついに17年対独宣戦を決めた。その中彼は18年1月に世界平和のための「14ヶ条」を発表する。これは国際秩序再建のために彼の重視した14ヶ条で、自由主義的、資本主義的な世界秩序を訴え、秘密条約の撤廃、諸国民の自決権の尊重、開放的国際経済の発展、軍縮と平和のための国際組織の創設などの項目を含んでいた。彼は理想の実現のために努力し、国際連盟の規約を作成した。しかし、アメリカにおいてはこのヴェルサイユ条約は認められず1920年の大統領選には健康状態が悪く出馬できず、アメリカの国際連盟加盟を果たすことができなかった。

ウィルソンは最後に失敗したとはいえ自由主義的民主主義の国際秩序という考えを世界に示した。(逆にそれは、アメリカの秩序を政治的軍事的力を後ろ盾に、世界に押し付けようと世界中の国に介入した迷惑なもの、ともとることができるのだが)  上へ


ウォレン・ガマリエル・ハーディング Harding,warren Gamaliel (1865−1923) 共和党

第29第大統領(1921−1923)  

オハイオ州コーシャー、現在のブルーミング.グローブ近くの生まれ。先祖は1624年プリマスに上陸したイングランド出身の家系で、1820年一家はオハイオに移住、アイベリアにあるオハイオ・セントラル・カレッジ卒業。教師をした後、マリオン・デモクラティック・ミラー紙に週給1ドルで働いたが、共和党の政治家を支持した理由でくびになり、友人と破産した週刊誌ミラースターを買収して編集・発行人となった。銀行の娘と結婚し、1914年州選出上院議員に当選。1920年共和党の大統領候補としてフロント・ポーチ・キャンペーン居座り型選挙運動を展開して当選。「常態への復帰」をスローガンに政治を行った。1923年シアトルに旅行中、原因不明の急病にかかり、急死。ニックネームに「ダークホースの候補者」がある。 上へ


カルビン・ジョン・クーリッジ Coorigi,jhon Calvin   (1872−1933) 共和党

第30代大統領(1925−1929)

バーモント州プリマスの生まれ、アーモスト・カレッジを卒業。1920年ハーディング大統領のもとで副大統領、23年ハーディング大統領の急死の後を継いで大統領に昇格した。1919年ボストンの警察官がストライキに突入したときはマサチューセッツ州知事の職にあったが、断固たる態度でこれを収拾し、全米市民の賛同を得た。口数が少なく、「寡黙のカル」のニックネームがある。 上へ


ハーバート・クラーク・フーバー Hoover,Hervert Clark (1874−1964) 共和党

第31代大統領(1929−1933) 

アイオワ州ウエスト・ブランチ生まれ。父が若死し、1885年オレゴン州ニュウバーグの叔父のところへいき叔父が校長のニュウバーグ・カレッジに入学。苦学して卒業後、鉱山技術者として会社を作り、百万長者になった。第一次世界大戦中のベルギーに食料を援助する仕事で功績を上げ、1917年には食糧庁長官となり、ザ・シーフ親分のあだ名がついた。このころ、汚れたときに裏がえして着用できるワンピースタイプの仕事着がはやり、フーバーエプロンと呼ばれた。第一次世界大戦の終わりごろに、ヨーロッパでは肉なし、小麦なしの日がつづいた。フーバーは食料を節約し、食料なしですますことを進めたため、 フーバライズ節約するという言葉ができた。また食料消費節約主義をフーバリズムという。戦後、ヨーロッパの貧しい子供たちに救いの手を差し伸べて、the Friend of Helpnessthe 困っている子供の友、Man of Great Heart人間味のある人といわれた。大統領就任とともに大恐慌が始まり、その対策の一つとして1930年代に主要都市の町外れに失業収容住宅地区をつくった。これをフーバービルという。1932年の大統領選では民主党候補フランクリン・ローズヴェルトに敗れた。クエーカー教徒であった。   上へ


フランクリン・D・ローズヴェルト Franklin D・Roosevelt (1882−1945) 民主党

第32代大統領 (1933−1945) ハーバード大卒。

第26代大統領セオドア・ローズヴェルトとは親戚筋に当たる(フランクリンの妻エリノアの叔父がセオドア)。ニューヨーク州上院議員、その後同州知事を経て、1932年の大統領選挙で対立候補であった前期大統領フーバーを破り、翌年の33年に第32代目合衆国大統領に就任する。 就任と同年の‘33年より社会保障と経済復興をメインとした政策、ニューディールを唱え、開始する。その後四選し、第二次大戦期のアメリカのリーダーとして活躍する。 大戦には‘41年の日本軍による真珠湾攻撃を機に参戦。以後アメリカは対日ミッドウェイ戦や、対独ノルマンディー上陸作戦などで勝利を収める。連合国のリーダーの一人として、イギリス、中華民国、ソビエトなどと協力。(’43カサブランカ会談、カイロ宣言、テヘラン会談。‘45ヤルタ会談) しかし、終戦を前にして、‘45年4月12日、ジョージア州ウォールスプリングで病死。 上へ


トルーマン 民主党

第33代大統領(1945−1953)

1884年、ミズーリ州生まれ。上院議員(民主党)を経て44年、副大統領に当選。454月、ローズヴェルト大統領の急死によって大統領の地位につく。

彼は様々な意味で前大統領の政策を受け継いだといえる。第二次大戦中にはポツダム会談において戦後処理方針決定に参加し、広島・長崎への原爆投下を決定した。内政面ではニューディール政策を継承した「フェア・ディール」政策を打ち出した。これは大統領の「アメリカ国民は全て政府の公正な処置(フェア・ディール)を期待する権利を持つ」と言う宣言に基づくもので、これにより (1)労働攻勢基準法の改正による最低賃金を引き上げ、(2)公共住宅法制定によるスラム地区の再開発と低所得者用の公共住宅を建設、(3)社会保障法を改正し、受益者層を拡大などが実現された。しかし、公民権法の制定が見送られるなど、戦後の保守化、反共の風潮の中で前進はわずかなものにすぎず、朝鮮戦争が始まると戦時体制の中に消えてしまう。

外交面では後のアメリカ外交戦略の基礎を築いたといえるだろう。トルーマン・ドクトリンに基づき、ギリシアとトルコの内戦を共産主義の「間接侵略」だと訴え、反共陣営に対する援助を行うことで対ソ強硬路線の基礎を定めた。ここで提示された反共優先の姿勢が冷戦の長期化を招き、そして核兵器による軍事的優位・圧倒的な経済的優位に基づくパクス・アメリカーナの世界を築いていくことになる。 上へ


アイゼンハウアー Eisenhower1890-1969 共和党

34代大統領(1953−1961)

朝鮮戦争の解決を約束して選挙に勝利。第二次世界大戦中の連合軍最高司令官。

国内ではフェア・ディール政策を継承し、基本的には大企業優先の政策がとられ、大陸間弾道弾や人工衛星の開発に成功したものの、ソ連に遅れをとったことから、軍と大企業との結合による「軍産複合体」が肥大化した。1959年にはアラスカとハワイが州に昇格し、合衆国は50州となった。

対外的には国務長官ダレスの巻き返し政策(冷戦に対処するための対共産圏強硬政策)を推進したが、朝鮮休戦協定(1954)、ジュネーブ休戦協定(1954)ジュネーブ4巨頭会談(1955)、フルシチョフ訪米などで「雪どけ」をも前進させた。

また、ヨーロッパでは、地域統合の動きを支援し、軍事面では西ドイツ再軍備と欧州防衛共同体(EDC)の設立を目指した。アイゼンハウアー・ドクトリン(1957)は、中東をアメリカの勢力圏として再編成するため、中東への経済支援と「国際共産主義」の「露骨な軍事侵略」に対しては米軍を派遣すると表明したもので、587月にはレバノン内乱に軍事介入を行った。 上へ


ジョン・F・ケネディ John F. Kennedy 民主党

第35代大統領(1961−1963)

1960年、大統領に当選した民主党のケネディは弱冠43歳、しかも国内では少数派のカトリック教徒であった。彼は50年代後半の停滞を払拭すべく「未知の機会と危険が待ち受けるニューフロンティア」を掲げ、若く強いアメリカを標榜した。しかしケネディの政策は国内外への積極的姿勢にもかかわらず、冷戦下の東西対立という二元的思考に捕われ海外の共産圏との戦いに目が向けられがちであり、国内の諸問題への取り組みは現状肯定的なものに留まったと言える。そして631122日、ケネディは遊説先のダラスで暗殺される。彼の人気は生前よりも死後高まった。晩年の人種平等、冷戦緩和の訴えに加え、上品で華やかでハンサムな、おとぎ話に出てくるような大統領だとアメリカ国民は追憶した。 上へ


ジョンソン Lyndon Baines Johnson  民主党

第36代大統領(1963−1969)

ケネディがダラスで凶弾に倒れた後、副大統領のジョンソンが大統領に昇格した。彼は故ケネディの未完の計画を事実上すべて議会で通過させ、実現させてしまった。その最たるものが1964年公民権法である。勢いづいたジョンソンはケネディやローズヴェルトにも成し得なかった「偉大な社会」計画を掲げ、老人の健康保険制度の創設、教育に対する最初の全面的な支援計画である初等中等教育法、マイノリティーの公民権を拡大保護する投票権法、移民の出身国による差別撤廃を規定した移民法改正、さらには経済弱者の再教育、職の発見、社会奉仕などを含んだ「貧困との戦い」等の国内福祉諸政策を立法化させた。しかし、対外的にはヴェトナム戦争への軍事介入を拡大し、戦争の長期化、戦死者の増加に対する反戦運動を招く。そして国内の諸改革とヴェトナム戦争への深入りといういわゆる「バターも大砲も」といった政策がアメリカの財政基盤を大きく揺るがすことになった。 上へ


ニクソン Richard M. Nixon 共和党

第37代大統領(1969−1973)

共和党のニクソンは50年代以来のリベラルな政策が社会の法と秩序を混乱させたとして、国内問題については急激な改革を求めず、穏健で保守的な政治路線を基本に敷いた。対外に関しては、ヴェトナム介入批判の世論もあって彼は「ニクソン・ドクトリン」を発表し、アジアにおける軍事的役割を縮小する一方で外交を活用することによってアメリカの主導権を保とうとした。ニクソンの中国・ソ連訪問、ヴェトナム和平交渉はこうした共産圏との緊張緩和の表れであった。しかしジョンソン以来続くインフレがドルショックを招き、追い討ちをかけるように石油危機が国内経済の不振を進行させた。そしてニクソン自身もウォーターゲート事件で国民の不信感を煽り、現職中に辞任するという前代未聞の事態に追い込まれた。 上へ
ジェラルド・R・フォード 共和党

第38代大統領(1974〜1976)

エール大学大学院卒業。大統領就任直後に前大統領であるニクソンの恩赦を決定したために市民の支持率は低めだった。大統領任期中に辞任したニクソン前大統領の政策路線をそのまま継ぎ、現職大統領として最初の日本訪問を果たした。上へ


ジミ−・カーター 民主党

第39代大統領(1974〜1980)

庶民性・政治の清潔さを強調し、閣僚に女性2人(うち一人は黒人)を起用するなど、注目を集める人事を行った。またベトナム戦争の徴兵忌避者を全面恩赦し、病院や学校での障害者差別を禁止するなど人権の尊重や人種性別での差別など社会問題では革新的政策を取る一方、経 済問題には保守的な立場に向かった。

対外政策では「人権尊重」の立場を強く打ち出したが、主張が首尾一貫せず、結果としてソ連政府の反発を買い、また西側諸国でも外交圧力として受け取られるようになった。だが、中国との正式な国交樹立を打ちたて、ソ連とのSALTU(第2時戦略兵器制限条約)に調印した功績は大きい。  

そのカーター政権に翳りが差したのは、1979年のテヘランの米国大使館襲撃事件が起きたときに、ホメイニ政権がその犯人たちを支持したため に、アメリカのカーター政権が動けなくなってしまったことから始まる。アメリカ市民に危機管理能力を疑われたカーター政権は、ソ連のアフガニスタン 侵攻によりソ連との外交政策の進路を変更、SALTUの議会での審議棚上げ、モスクワ五輪の参加拒否を決定せざるを得なくなった。 また、カーターは議会に支持基盤を持たなかったために、カーターの保守的な経済政策は議会を通ることが非常に困難であった。上へ


ロナルド・レーガン Ronald Reagan   共和党

第40代大統領(1981−1989)

1911年イリノイ州でアイルランド移民一世の子として生まれる。ユーレカカレッジを卒業。36年ラジオのスポーツアナウンサーとして売り出す。37年には映画の世界に入り戦後だけでも22本の作品に出演する。57年以降映画界から離れる。54年−62年にテレビの『ゼネラル・エレクトリック劇場』の司会を務め、人気を博す。

1962年共和党入り。66年−74年、カリフォルニア州知事を2期8年務める。76年大統領選の党指名を現職のフォードと争い敗れる。

80年党指名をブッシュ、ドールと争って勝ち、カーターと大統領選を戦う。カーター大統領には国内の景気対策やエネルギー対策の失敗、そしてイランのアメリカ大使館人質事件、ソ連のアフガン侵攻などによって世間の不評が強まっていた。そこでレーガンは「強いアメリカ」を強調し世論を味方につけカーターを破った。レーガンはその「強いアメリカ」を83年グレナダ進行、86年のリビア空爆、87年のペルシア湾への艦船派遣によって示し続けた。対ソ的には83年にSDIをもってソ連の核の無力化を計画した。しかし85年12月のジュネーブでの米ソ首脳会談を皮切りに包括的軍縮方式に同意し、度重なる会談によって緊張緩和の道を探った。

対内的には連邦政府職員の大幅削減、エネルギー省廃止、福祉支出の削減、大幅減税、金融引締めなど一連のレーガノミックス政策を行ったが結果的に「双子の赤字」を招いた。

現在はアルツハイマー病との闘病生活を続けている。 上へ


ジョージ・ブッシュ George W Bush   共和党

第41代大統領(1989−1993)

1924年マサチューセッツ州に生まれる。第二次世界大戦では海軍に志願、太平洋戦線で戦う。戦後イェール大学を卒業。

66年連邦下院議員に当選。ニクソン政権下の71年−73年には国連大使、フォード政権下では74年−75年にアメリカ中国事務所長、76年−77年にはアメリカ中央情報局(CIA)所長を歴任。81年からレーガン政権下で二期にわたって副大統領職に就く。

88年大統領選に当選。就任後は東西間の緊張緩和路線を継承。89年にはマルタ島でソ連ゴルバチョフと会談し冷戦の終結を宣言した。一方で地域紛争に積極的に介入。89年にはパナマに軍を派遣しノリエガ大統領を逮捕。またサウジアラビアにも軍隊を派遣した。91年には多国籍軍の主力としてイラクと戦い、92年にはソマリアの内戦にも介入した。

その間国内経済は停滞し91年には失業率は7%に達した。レーガン政権から続く「双子の赤字」も改善の兆しを見せなかった。また、92年4月のロサンゼルス暴動で社会不安が増大し、11月の大統領選挙でクリントン候補に敗れた。 上へ


ビル・クリントン Bill Clinton 共和党

第42代大統領(1993−)

第二次大戦後生まれ初の大統領

ビル・クリントンは1946年アーカンソー州ホープに生まれた。1968年ジョージタウン大学を卒業後オックスフォード大学で修士課程を終える。1973年イェール大学で法学博士号を取得した。1975年にヒラリー・ロダムと結婚。

1977年−79年にアーカンソー州の検事総長を務め、1979年−81年、83年−92年には同州の知事を務める。

1992年に大統領選に当選した後は、積極的に冷戦終結後の国際問題に取り組む。主なものとして1993年の第二次戦略核兵器削減条約(STARTU)調印、1994年の北米自由貿易協定(NAFTA)の発行、1995年のヴェトナムとの国交正常化などが挙げられる。対内的には経済再生を第一の目標とする一方、94年にはブレイディ法(短銃規制法)などを発効させた。

1996年の再選以後はその指導力に次第にかげりが見え始めた。第一の要因としては98年の不倫もみ消し疑惑があり、その他にも98年末からの無計画なイラク空爆や99年のコソボ問題への介入における中途半端な結果、2000年9月の中東和平問題解決の失敗など が挙げられる。また経済再生は実現したものの、当初の目標であった貧富の格差の解消は未だ達成されていない。 上へ