20世紀アメリカ年代別解説

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1900年代の解説

19世紀後半の目覚しい工業化の進展により、アメリカのGNPは、1890年から 1929年までに3倍に増えた。こうして工業化した社会は資本と生産の集中を生 み、巨大化した企業による独占が進むようになった。これらの企業によって新しく中 産層が生まれ、独占資本主義のもとで起こった数多い社会問題に対して、政府権力の 積極的な介入によってそれらの対策に取り組もうとする革新主義が生まれた。ローズヴルトタフトウィルソン政権は革新主義政権であり、全国政治の場で、多くの利 害を妨げる悪いトラストの規制、輸出入に対する関税問題、鉄道規制など様々な改革 運動に着手していった。

この時期、アメリカへの移民の流入は大量で、1901−10年までの10年間に 880万人が流入した。彼らの多くは安い労働力を求めていた都市部に住み、急速な 工業化の一助となった。その反面、低賃金、スラム化など、それぞれの抱える社会事 情、環境から、様々な社会問題を引き起こすきっかけともなった。 対外的には、19世紀終わりになってそれまでの大陸内での膨張、発展が一段落市、 資本主義の発展と、深刻な不況に直面し海外に積極的に進出していこうとする帝国主 義が生まれた。1898年の米西戦争での勝利でアメリカはスペインから、カリブ海 から西太平洋にかけての植民地を得、大国として国際舞台に躍り出た。また中国関係 では、門戸開放宣言をし、西欧各国の中国の争奪戦に参加し、アメリカの世界政策の 一角をになった。ローズヴェルトは、西欧列強に対し勢力を均衡させようとする外交を進め、ウィルソンは、自由主義的・民主主義の国際秩序という理念を掲げて世界各国の諸問題に向けて介入していった。

第一次大戦では、アメリカは中立を宣言していたが、英仏の側に立ちドイツのUボー ト攻撃をきっかけに参戦し、ウィルソンは「14ヶ条」の平和提案をし、自由主義 的、資本主義的な世界秩序を目指した。この大戦でアメリカは政治・軍事面で、連合 国の勝利に寄与し、戦後の再建にも主導的な役割を果たし世界に大きな影響力を持つ ようになった。また経済的にも、戦中の西欧各国への物資の輸出によって債務国から 債権国に転じ、イギリスと並んでアメリカは、資本主義社会の中心へと成り上がって いくことに成功した。 上へ

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狂乱の20年代

この時代は、革新主義第一次大戦、大恐慌とニューディールによって前後を区切られており、アメリカ史に特異な位置を占めてきた。実際この10年の多くを通じて、アメリカ社会は未曾有の繁栄を享受した。農村的・宗教的で、生産と倹約を強調する社会が、急速に都会的で世俗的な、余暇と娯楽と休息を重視する社会へと変貌を遂げた。

大戦直後のアメリカは社会不安と反動の時代に移り、労働者の激しい反発とストライキ、資本家の弾圧が広がった。「レッド・スケア」の頂点となるのは、20年の司法省による赤狩りである。この波は、労働者・社会主義者・急進派に襲いかかり、人種差別の感情や移民規制の声も高まった。また、中産階級の女性による参政権獲得運動は、キャリー・キャット率いる全米女性参政権協会の政府への戦時協力といった穏健な活動との相乗効果に、大戦中の女性の社会進出も加わり、ついに、別名アンソニー修正、憲法修正第19条で,女性参政権hは成立した。

急激に価値観の転換が進むが、伝統的価値観も容易に死滅しなかった。繊維・鉄道・石炭など、斜陽化を余儀なくされつつある産業に従事する労働者や、生産規模の小さい農民は、繁栄と享楽的封用に取り残された。特に農民の新時代への抵抗は、一種の文化闘争の体をなし、根本主義(ファンダメンタリズム)というかたちをとった。根本主義とは、本来宗教と科学の調和・宗教の社会的責務を強調する、近代主義神学を批判して、今世紀初頭に現れた保守的神学である。聖書の字義どうりの解釈を主張するこの立場は、戦後の保守的風潮の中で進化論を標的に立法運動を展開した。彼らは州レベルで進化論教育禁止法を画策した。テネシー州において、憲法修正第一条の(信仰・言論出版の自由)の蹂躪を憂慮するアメリカ市民的自由擁護連盟が法廷闘争を提案し、スコープス裁判を起こした。被告側の勝利に終わり、進化論教育禁止法制定の動きに歯止めをかけるが、宗教的風潮は衰え なかった。伝統的価値に基づく国民再生の努力は、禁酒法や移民制限法も生み出した。

一方、大衆消費文化は、フォード自動車がその道を切り開いた。それに並んで、映画、ラジオ、大衆紙など新たなマスメディアも革新的な影響を及ぼした。27年の、リンドバーグによる大西洋横断飛行成功に象徴されるように、アメリカは「小春日和の時代」を迎える。ジャズやスポーツ観戦が娯楽として楽しまれた。

しかし、この繁栄も29年10月の株価の大暴落であっけなくついえ去った、27年以降の過熱した株価投機ブームは、株価の自動調整メカニズムを狂わせて株価を暴騰させていた。その根本的理由は、工業生産力が消費者の購買欲をはるかに上回っていたことにある。政府は楽観的な未投資を繰り返したが、景気回復の兆しは現れなかった。 上へ

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1930年代

1929年10月24日、ニューヨーク株式市場で突然に大量の売りが出て、株が大幅に値下がりした。いわゆる「暗黒の木曜日」、世界恐慌の始まりであった。アメリカの工業生産は'33年にはピーク時の4割に減少し、失業者は同年には1283万人(当時の全米労働者の4人に1人)になった。世界貿易は、各国の関税引き上げや、保護貿易に転じたことから低落、縮小をたどっていった。1930年代に入り、フーバー政権は失業対策や金融復興に取組むが、小規模なものであった。

1933年に新たに大統領に就任したF・ローズヴェルトは、ニューディール政策を唱え、金融、失業対策、農業、工業、産業、社会保障などに関する振興政策を次々と打ち出していった。ローズヴェルトは一部の保守派や財界人に「ニューディールは"左傾"している」と非難されながらも、政策開始以来、アメリカ経済を復興させていった。 

1930年代、アメリカの対外関係は、フーバー政権下ではいわゆる孤立主義的傾向が強く、日本の中国における「満州国」成立も、直接アメリカの権益を侵すものではないとしていた。大恐慌下には、イデオロギー的にソ連に反対していた政財界も、重化学工業化を進めるソ連は貿易拡大の可能性をもつ望ましい市場と、見方を一転し、1933年11月、新しく発足されたばかりのローズヴェルト政権はソ連を承認、国交を樹立した。しかし両国間の貿易はほとんど発展しなかった。'35年伝統的な孤立主義から中立法を制定し、全ての交戦国への武器輸出を禁止するが、'39年第二次大戦が始まると、武器禁輸条項を廃止し、イギリス、フランスへ武器を提供し、連合国寄りの姿勢をとった。一方で、合衆国自体は、出来る限り参戦しないという態度をとっていた。

1930年代は大恐慌にはじまり、その脱出を計った「ニューディールの10年」でもあった。ニューディール政府は「ビッグ・ガバメント」として、広い範囲にわたって国民の生活に関与していった。しかし当時のアメリカではそれは否定されるべきものではなく恐慌から抜けるためのものとして人々に肯定され歓迎されたのである。こうして「ニューディール体制」が形成され、第二次大戦とその後のアメリカを形作ったといわれている。  上へ

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1940年代

「われわれは民主主義の偉大な兵器庫にならねばならぬ」―1940年12月,ローズヴェルト大統領はこのように宣言したが,40年代のアメリカはこれに従って行動したと言うことが出来る。1939年,ナチスがソ連へ侵攻し,第二次世界大戦が始まる。アメリカは日本軍の真珠湾攻撃の翌日,41年12月9日に参戦を正式に宣言した。

戦時中の軍需生産の下で生産は伸び,大恐慌以来の不況は解消され,失業率は激減した。この繁栄とは対照的に,日系アメリカ人は苦境に置かれていた。42年,ローズベルト行政命令9066を発し,「敵性外国人」がエリス島を含む7州の11のキャンプに強制収容された。収容された者のうち,ドイツ系やイタリア系も含まれてはいたが,その大部分は日系人であった。43年,この行政命令は最高裁により合憲と判断された

やがてヨーロッパでの戦局は連合軍の優位へと傾き,45年5月,ドイツが降伏した。太平洋戦線でもアメリカの優位が決定的なものとなっていった。同年7月〜8月には,トルーマン,チャーチル,スターリンによるポツダム会談が開かれ,ドイツの戦後処理方針と日本の降伏条件・戦後処理方針が討議され,日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言が出された。しかし,日本はそれをすぐに受け入れず,45年8月の広島と長崎への原爆投下,ソ連の対日参戦宣言を経て降伏した。

大戦後,他の国が多かれ少なかれ戦災を受けていたのに対し,アメリカ国内はほとんど被害を受けておらず,高い水準での経済成長が続いていた。従って戦後の世界秩序の中心となったのはごく自然な成り行きと言えるだろう。

さて,政治面では保守主義が主流になり,共産主義の陰謀の危機が強調されるようになった。ソ連に対する封じ込め政策の口火を切ったのがトルーマン=ドクトリン(1947年3月)である。6月には西欧の経済復興援助をうたったマーシャル=プランが発表され,共産圏に対するアメリカ・西欧諸国の結束は49年の北大西洋条約機構(NATO)で固められる。   上へ

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1950年代のアメリカ

50年代は表面的には比較的安定した時代とみえるが、統制的、全体主義的国家であったアメリカ社会内部では深刻な問題をはらんでいた。

53年までのアメリカ大統領トルーマンは、冷戦のなかでトルーマン=ドクトリンを宣言し、外には共産党封じ込めを、内にはニューディール政策の小型版ともいえるフェアディール政策をとっていたが、共和党上院議員のジョーゼフ・マッカーシーは、トルーマンの中国政策の失敗に乗じてマッカーシズム(「赤狩り」)を主導し、多くのアメリカ人を恐怖に陥れていた。これは、リベラル派の官吏・外交官・軍人・文化人などを、全て共産主義者と決め付けて追放するというアメリカのソ連憎悪の意識が反共ヒステリーとなって表れたものである。また、もの言わぬ民衆(サイレントマジョリティー)が、郊外族を気取り、物質主義的繁栄を享受しながらも、核戦争の恐怖におびえた時代であった。繁栄はテレビを始め、家電製品や大型車に象徴され、ロックンロールなど新たな大衆文化も成立し、「パクス・アメリカーナ」は絶頂期に至ったが、大衆にはその繁栄の影に何が隠されているかはまだわからないままだった。

ドミノ理論(東南アジアの一国が共産化すると次々に周辺諸国もそうなるから阻止すべきだという理論)は、朝鮮戦争出兵、いずれ訪れるヴェトナム戦争へとアメリカを着実に向かわせており、53年にはソ連首相であったスターリンは死去するが、59年にアメリカからほんの目と鼻の先のキューバではカストロが政権を樹立し、社会主義を掲げて反米を謳い、ソ連よりになってアメリカを脅かしはじめた(キューバ革命)。また、1955年12月のアラバマ州モントゴメリーの黒人によるバスボイコット事件に端を発し、56年のアラバマ大学への黒人学生の入学の騒動(2月)、公立学校の人種統合を求める最高裁の判決に対する南部出身議員の抗議(3月)57年アーカンソー州リトルロックで黒人高校生の入学を巡って暴動が発生(9月)58年知事がリトルロック高校を封鎖する(9月)などの事件が起こり、南部での黒人問題も表面化してきた。   上へ

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1960年代

60年代始めのイメージは 希望とエネルギーに満ちている。それは61年大統領に就任した若きケネディに象徴されるかのようだ。多かれ少なかれアメリカ国民は新しい時代の到来を意識していた。非雇用率は65年までの間5〜6%に止まり、インフレは起こったとしても1、2%だった。国民総生産は約36%伸び、給料は20%も上がった。60年代のアメリカは経済的には豊かな社会であった。 しかし、現実に裕福だったのは白人中産階級が主で、その下には人種差別、貧困にあえぐ黒人がいた。彼らは坐り込み、フリーダムライド、デモ行進などの公民権運動に本格的に乗り出した。非暴力主義を説くマーチン・ルーサー・キング牧師やブラックパワーを唱えるマルコムXが特に彼ら黒人のリーダーだった。64年にジョンソンは歴史的な公民権改正法を議会に通過させるが、その後人種差別がなくなったかというとそうではなかった。その事実に怒った黒人は、白人との共存とは決別して暴動などを起こした。 また黒人の公民権運動に触発されて、学生運動、大学紛争など白人青年層の動きもあった。彼らはニューレフト(新左翼)と呼ばれる。中でも学生団体SDS(民主社会を求める学生たち)は全国の大学に支部をもつほどに至る。「若者」が一つのキーワードになった。ちょうど戦後のベビー・ブーム世代が60年代には20前後の若者になった。その結果彼らは自らを少年から大人に成長する過渡期的存在から切り離し、自前の文化を創出した。それは政治から音楽、ファッションまで含む大きな動きだった。そこさらさらに女性運動やゲイ運動が起こった。ただし若者が皆この潮流にあったわけではない。むしろ少数派だったといえるが、60年代は黒人、少数派の若者、女性などマイノリティの動きが際立っていたのだ。さらにマスメディアによって彼らが全米に、そして全世界に広く報道されたのも大きな意味をもつ。 国外に対してアメリカはその強さを示そうと躍起になった。キューバ危機ではソ連に対する優位を保つことに成功したが、宇宙開発ではソ連に遅れをとっていた。ロケットの技術力は軍事兵器の水準と同義であるから、ソ連に負けじとアメリカはアポロ宇宙計画に代表される開発に入れ込んだ。ベトナム戦争ではそうしたアメリカの傲慢さがあまりに目立ち、国内で若者を中心とした反戦運動を呼び起し、長引く戦争の中で世論さえもアメリカ軍の行動に懐疑的になった。 そしてマスメディアの発達が60年代の様様な側面を映し出し、全米中のテレビに拡大されたのだ。またそれに応じて報道する側もされる側もこの機会を利用した。ケネディのテレビ演説、暗殺の場面、ベトナム戦争の惨劇の映像などはその格好の例であった。 60年代末はその始まりとは打って変わって暗いイメージがつきまとう。相変わらず差別を受けている黒人たちの暴動、学生運動も対抗文化も暴力に走って衰退、ベトナム反戦の世論にたいして依然戦争を継続させる国家。

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1970年代のアメリカ概説                

1970年代のアメリカは、内政外交共に問題山積の状態からスタートした。 まず経済面においては、1960年代に起こったベトナム戦争ならびに高度成長政策に影響され、物価が高騰傾向になり、インフレが進んだ。 そして何より社会に影響を与えていたのは、人種差別問題やベトナム戦争批判などに始まる世論の分裂、黒人暴動や大学紛争などの運動の拡大と激化と、頻発する要人の暗殺であった。 これらの動きはアメリカ社会の変革を求めるエネルギーの発露であったが、南部のみならず、北部大都市を背景とした人種差別の根深さや泥沼化したベトナム戦争を背景に、 社会の亀裂や対立は険悪になり、犯罪の増加なども見られるようになった。 対外経済においてもその10年前から問題となっていた国際収支の赤字は改善の兆候が見られず、むしろ戦争の泥沼化による戦費の増大と旺盛な海外投資により悪化の一途をたどり、60年代末ごろには赤字幅が47億ドルに達し、金保有量も100億ドルまで減少するなど、ドル危機も末期的状態を呈していた。

1970年代最初の大統領はリチャード・M・ニクソン(1969〜1973)であったが、彼にはこの状況を打開する以上に、泥沼化したベトナム戦争を、いかに終結させるかが最大の課題となった。 彼の任期中には、初の米中首脳会談が実現した。また、対ソ外交においても積極的な動きを見せ核戦力についての幾つかの協定を結んだ。しかし、その任期の最後に彼はウォーターゲート事件を起こし、史上初めての辞任した大統領となったのである。 その後を継いだのがフォード大統領(1974〜1977)であったが、彼は前大統領の政策を継続する路線をとり、引き続き国内の不況とインフレの同時進行(スタグフレーション)を食い止めるべく政策を打ち出したが、エネルギー危機と重なり、対策を立てづらい状況に陥ってしまった。また国際政治においても議会で軍事援助を否認され、対ソ関係にも行き詰まりが生じつつあった。

そうした中で、次の大統領となったのはジェイムズ・E・カーター(1977〜1981)であった。 カーターはそれまでの政治中枢から遠ざかっていたと言う短所を逆手に取り、清廉で改革的なイメージをアピールし、大統領選挙に出馬した。 投票率は有権者全体の53.5%と言う低さではあったが、全州を精力的に遊説したカーターに票が集まった。  大統領に当選したカーターが行った事は、エネルギー対策と経済不況に対する対策、 そして新しい人権と自由を重要視した外交政策であった。 この中でエネルギー対策、及びそれに付随する環境保護政策では成功しているが、 慢性的不況の打開の失敗、そしてカーターが強く主張した人権外交は強く刺激しただけではなく、同盟国からも圧力と感じられ、不評を買った。 カーターの長所が清潔さ、誠実さなら、短所はその政策の一貫性の無さであった。 人権外交の趣旨もその途中で何度も針路変更を行い、信用が薄れてしまう結果となった。人権外交は、「個人の人権を海外で擁護するもの」 とカーターは語っていたが、 その言葉は当初から違っていた。担当閣僚に冷戦主義者の国際政治学者を据え、 閣内でも批判する声が起こった。  そのような外交の結果、ニクソン大統領が苦心して和らげていた冷戦状態は 息を吹き返し、再び政策が外交より軍事重視の傾向を取るようになった。 外交により合衆国の優位を主張し、以前に合衆国が保持していた軍事的優勢を取り戻そうと望んでいたアメリカ人にとって、カーターの政策は満足の行くものではなく、 カーターの支持率は年々下がる一方であった。  そして、1980年のロナルド・レーガンとの大統領選挙において、カーターは敗退したのである。 アメリカにとっての1970年代は不況と戦後処理に追われた10年間であったが、 その結果は、その10年間の間には出せなかった。 しかし、確実に冷戦や社会の矛盾などは解消への方向を見出し、80年代の解決を待つ事となる。   上へ

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1980年代の解説

1980年代のアメリカは「強いアメリカ」をスローガンに大統領に就任したレーガンとその政権によるところが大きい。インフレによる国内経済の不安定さと、日本やドイツに対する経済の国際競争力の低下は、一連のレーガノ・ミックス政策による景気拡大によって克服されたに見えた。しかし、87年のブラック・マンデーや「双子の赤字」に象徴されるように、経済は完全には立ち直っておらず、その完全復活は90年代を待たねばならなかった。

一方で外交面ではスローガン通り「強いアメリカ」を展開した。まず83年に戦略防衛構想を発表。これはソ連の核攻撃を宇宙空間で食い止める技術を開発する事によって、ソ連の核兵器を無力化しようとする壮大な計画であった。この計画は、アメリカにとっては膨大な軍事費を強いられる代物でもあったが、結果として、ソ連の経済崩壊を誘発せしめ、冷戦をアメリカ主導で終結させることが出来た要因の一つであった。

対ソ外交が、85年あたりから冷戦終結にむけて協調を図るようになって行ったのに対して、第三世界への軍事的圧力は変化しつつも維持され続けた。その変化とは共産主義政権への介入から、テロ支援国家や単なる地域紛争への介入に移っていったということである。83年のグレナダ侵攻と86年のリビア空爆がその典型といえる。アメリカの武力介入は湾岸戦争以後、意味をなさなくなるが、それは90年代においてである。80年代は「強いアメリカ」の存在によって、それ以前の冷戦下での代理戦争の時代と、それ以後の各地での泥沼の紛争や内戦の時代の間の限定的な安定の時代と言えるのではないだろうか。

88年同じ共和党のブッシュが大統領選に勝ち、アメリカはブッシュ政権下で80年代を終える事となった。この80年代の終わりは冷戦の終わりでもあった。20世紀初頭に端をなす、強大な共産主義勢力の旋風を20世紀最後の10年に持ち越させなかったことは、これからも歴史的に一定の評価を与えられていくであろう。しかし、冷戦後吹き荒れた新たな旋風に90年代アメリカは翻弄されていくことになる。

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1990年代の解説

90年代に入り、アメリカは先ずその冷戦後の混乱の序章である湾岸戦争(91年)に90年代も世界の警察であり続けることを示すため参戦した。しかし、中東での主導権を握ろうとするフセイン政権を結局は崩壊させることが出来ず、出だしから中東問題に大きな禍根を残すこととなった。ブッシュ政権は、92年のロサンゼル暴動などの社会不安の中で93年、民主党のクリントン政権へと替わった。

クリントン政権において「強いアメリカ」の存在感は次第に薄れていったように思える。レーガン期のSDIはソ連に負けないという明確な意思の下で行われ、それなりの成果を出してきたが、93年に共和党勢力によって無理矢理打ち出す羽目となったTMDは、本腰が入っていないせいかその影響力を発揮できずにいる。それ以外にも92年12月にブッシュ政権が行ったソマリア派兵を就任してすぐに中止、撤退したことや、中国に妥協して「戦略パートナーシップ」を打ちだしたこと、あるいは94年に北朝鮮への経済制裁を見送り、妥協したことや近年では99年の中途半端なユーゴ空爆、そして突発的なイラク空爆、更には2000年の中東和平介入の失敗など、90年代のアメリカの外交的損失は甚大である。ただ一方で、93年の第二次戦略兵器削減条約調印や95年のベトナムとの国交樹立などの成果も見られた。

90年代のアメリカにおいてやはり特筆すべきは、その経済の繁栄ではないだろうか。「双子の赤字」の中で誕生したクリントン政権は外交よりむしろ、国内の経済再建を最大の目標とし励んだように思える。「情報スーパーハイウェイ」構想を始め多くの産業政策を実施し、ベンチャーを育てる基盤を整備し情報通信分野における国際競争力を発展させた。その結果アメリカはこれまでの自動車を中心とする産業構造から、情報通信産業やサービス業を中心とする産業構造への転換を成し得たのである。またアジア地域への輸出を強化した点もクリントン政権の経済政策の大きな特徴の一つと言える。

98年の一連の不倫もみ消し騒動で、アメリカ合衆国における国民が描く大統領像は大きく変化した感がある。21世紀の最初の大統領を決める選挙に国民の半数が投票しなかったことも、この国における大統領のあり方に何らかの変化が起こったことを示している。21世紀のアメリカに90年代のアメリカの変革がどのように作用していくのだろうか。

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