京都案内

黄檗山万福寺
壬生寺と島原(日本最初の公認花街)
東寺(教王護国寺)
東山七条
東福寺
伏見稲荷(お稲荷さん)
伏見界隈
不動川砂防歴史公園
源氏物語ミュージアム
石清水八幡宮
井出町
浄瑠璃寺
お千代・半兵衛の比翼塚
平家物語と山城
寺田イモ

黄檗山万福寺

 今回の「京都もまだまだ」は、宇治の万福寺を訪問しました。JR奈良線の黄檗駅、 京阪宇治線の黄檗駅ともに便利です。駅をおりて東に数分といった近さ。このお寺の 堂塔伽藍は見ごたえがあります。比較的新しく創建されたことと中国風寺院といった ことが関係しているのかも知れません。写真は山門・本堂とお寺の案内図です。

 黄檗山万福寺は、隠元禅師が中国福建省の故郷にちなんでつけた名前です。 1658年に長崎の興福寺(南京寺)に招かれ、やがて崇福寺(福州寺)を創建します。 当時鎖国とはいえ来航した中国船は数多く、中国人商人や日本人バイヤーがあふれて いました。諸大名の家宝はこれらの将来品が多数を占めているように見受けられます。 隠元禅師の来日も、黄檗宗の権威である文化人の招聘と考えるのが自然かも知れません。

 禅宗僧侶の奔走で京都に招待されて富田に滞在し、やがて御水尾法皇や徳川家綱な どの尊崇をえて、現在の宇治に万福寺を創建した次第です。通路の入り口が円形であった り、建物の内部に四角な煉瓦がしきつめられていたり、座るのではなく机と椅子の部屋で あったり、食事をしらせる魚板を「カイバン」と発音したり、かなり変わっています。 故郷中国・福州の伝統を忠実に守ったわけでしょう。

 インゲン豆も禅師の名にちなんだもので、関西ではフジマメ、関東ではサンドマメ の意味だとか、莢を食べるもの、マメを食べるもの、マメを乾燥させてたべるものとか 種類もおおいようです。万福寺の普茶料理は有名で、食べた方も多いことでしょう。 精進料理だけでなく食材や調理法など、禅宗のもたらした食文化は意外と大きな影響を 与えているように思われます。

壬生寺と島原(日本最初の公認花街)

 今回の「京都もまだまだ」は、山陰線・丹波口駅の南北に位置する壬生寺と島原を 尋ねました。四条大宮から西・坊城通りを下ると壬生寺です。(写真参照)このお寺の 創建は奈良時代と伝えられ、鎌倉時代の円覚上人の時代に興隆します。円覚上人は、 パントマイムの宗教劇・持斎融通念仏を工夫し、仏教を広めたそうです。のち能や物語 を取り込んでレパートリーを広げ、これが現代の壬生狂言に発展しました。    壬生狂言も有名ですが、来訪者の目的はやはり新撰組でしょう。北にある八木邸は 新撰組の屯所でした。居間には芹沢鴨暗殺の刀傷があり、ガイドさんの説明も聞くことが できます。のち新撰組が大所帯になって壬生寺は、剣技やオランダ式兵法の訓練所になり ました。来年の大河ドラマのテーマにもなり、新撰組人気は高まっていくよう。

 新撰組では誰がお好み?吉村寛一郎ですって!「壬生義士伝」(浅田次郎原作)ですね。 南部藩の下級藩士を辞め、新撰組隊士として出稼ぎをするお父さん。徳川に恩顧を感じ、 朝廷の錦の御旗に敢然と立ちむかう義士。一昔前の典型的なお父さんの姿そのもの。 厳しい時代を生きているお父さんたちへのエールでしょうか。頑張れ!お父さん!

 敗者の新撰組は、北海道まで落ち延びていきます。函館の五稜郭で、土方歳三は陸軍奉 行並になり、函館港へ救援に行く途中戦死します。歳三最後の地の石碑まであるのには驚 きました。函館山の麓には碧血碑もあり、賊軍の戦死者を祀っています。日本人の判官び いきは歴史的な現象でしょうか。

 さて話を京都に戻して、島原の大門をご覧ください。(写真) 丹波口駅の東南に島原 (花街)があります。江戸の吉原、京都の島原、大阪の新町は日本の三大遊郭と言われて いました。大門を入ってすぐ右手に置屋の輪違え屋さんがあり、突き当りに揚屋の角屋さんが現存しています。花魁道中も復活したそうですから、機会があれば見に行きましょう。

東寺(教王護国寺)

 今回の「京都もまだまだ」は、東寺(教王護国寺)に来ました。近鉄東寺から東に 2・300米の近さです。京都駅からも東寺からも、五重塔がよく見えますね。あのお寺 です。世界文化遺産に登録されています。東寺のいわれは、平安遷都後国家鎮護のため 羅城門の左右に東寺・西寺を置いたことによります。嵯峨天皇に頂戴した空海は、ここを 真言密教の根本道場として「教王護国寺」と名づけました。

 よく目にはいる五重塔は、877年の完成。現在のそれは1644年徳川家光によって再建 されました。高さ57米で、日本で最も高い五重塔です。同じく国宝の金堂は豊臣秀頼の 発願で建てられています。現在の南大門は三十三間堂の西大門を購入して移築したもの。 歴史の重さを感じさせる建築群ですね。

 写真の講堂は、大日如来を中心に五仏、左右に五菩薩・五明王がならび、その周囲に 四天王・梵天・帝釈天の21体の仏像が安置されています。空海が密教の教えを表した 立体曼荼羅(密教浄土の世界)だそうです。お土産には、両界曼荼羅の下敷きなどいかが でしょう。本物を「空海と高野山」展で拝見しましたが、その大きさに圧倒されました。

 東寺の東隣にあった綜藝種智院にふれないわけにはいきません。庶民も入学できた私立 大学です。当時の大学(平安京)・国学(地方)のカリキュラムは儒教教育中心でしたが、 ここでは儒教・道教・仏教を教授していたそうです。この大学の特徴は、@教育の機会均 等A綜合教育B完全給費制の3点です。空海の理念は、いまもなお実現しているとはいえ ないようですね。

 弘法大師・空海の命日21日は、「弘法さん」です。境内に露店があふれ、骨董品・陶器・ 植木・古本などからガラクタまで何でも売られています。12月21日は「終い弘法」として 年末の報道でおなじみでしょう。毎月25日の「天神さん」(北野天満宮)とともに古都の 代表的な縁日なのです。京都に学ぶ学生として一度は訪れたいところですね。

東山七条

 今回の「京都もまだまだ」は、東山七条を訪ねました。今回から東山を北にさかのぼる予定でいます。京阪七条をおりて東に向かうとすぐ京都国立博物館に到着します。写真は春・秋の特別展覧会に利用される旧館。東京の迎賓館(旧赤坂離宮)を設計した片山東熊の作品で、奈良国立博物館旧館も同じです。休館日は月曜日で、第二と第四土曜日は無料観覧日になっているのでどうぞご利用ください。

 新館は常設展ですが、ここの名品は見ごたえ十分!絵画の名品を少し紹介しましょう。「山越阿弥陀図」「餓鬼草子」「病草子」「雪舟の天の橋立図」「俵屋宗達の風神雷神図屏風」など贅沢三昧でこれを眼福という。教科書でおなじみの作品ばかり。絵画から陶磁・彫刻・書跡・染織・漆工・金工など目標を決めなければ時間が足りません。いやー、京都に来てえがったー。

 七条通りをへだてた三十三間堂(蓮華王院)は修学旅行の定番。千手観音坐像の両脇に千躰の千手観音立像は圧巻。ここを東に突き当ると真言宗智山派の総本山・智積院です。高野山の興行大師(覚鑁)が根来に根本道場をつくり、後に秀吉に滅ぼされ、最後にこの地に智積院をもうけ一派を伝承しました。静かな時間の中で名勝庭園を眺めるのもいいのですが、長谷川等伯の障壁画が手に触れる近さで拝観できるという至福もあり。

 博物館の南を百メートル北に行くと、豊国神社と方広寺跡。神社の正面は伏見城から移築した桃山風のきらびやかな門です。瓢箪型の絵馬や願掛けが一杯!この門の北に方広寺の釣鐘だけが残っています。神社の正面・西にむいて左手に写真の耳塚が目に入ります。秀吉の朝鮮出兵で犠牲になった朝鮮人の耳(実際は鼻)を集めて供養した塚です。敵を殺して報奨をもらうという野蛮な風習はいまだ廃れていないようですね。

東福寺

 今回の「京都もまだまだ」は、東福寺に来ました。京阪電車・JR奈良線の東福寺で降りて南に少し下がります。数分で東福寺の北門に着きます。そこからさらに南に数分歩くと屋根つきの立派な橋が見えてくるでしょう。その橋から東に見える橋が有名な通天橋です。京都の紅葉狩りの名所ですから写真や新聞で見たことがある人も多いことでしょう。

 本堂や三門(写真・国宝)は見上げるばかりの大きさです。奈良の東大寺と興福寺の名前をとって東福寺と名づけただけのことはあります。方丈の枯山水は鎌倉時代の手法を用いたそうで、ゆっくり観賞したいもの。開山は聖一国師こと円爾弁円ですが、この人の経歴が面白いので紹介しましょう。今の静岡市の生まれです。5歳で久能寺にはいり、日本各地で修行しています。

 日本のお寺には飽き足らず、34歳で宋に留学します。当時の明州・今の寧波(ニンポー)の天童寺(道元も修行)や杭州の霊隠寺など名刹で修行し、40歳で博多に戻ります。崇福寺(写真)・承天寺など博多の禅寺の開山として迎えられ、うどん・そば・酒饅頭を伝えたと言われています。博多の禅寺・祭り・食文化の恩人と言ってもいいかもしれません。

 藤原(九条)道家の招きで東福寺の開山となります。やがて故郷に錦を飾った時、お茶の実を植えてそれが静岡茶の祖になったと伝えられています。弘法大師伝説にも似て聖一国師の貢献は偉大です。昔の留学僧は、学問はもちろん中国文化の伝承者でもあったという次第です。前回にも書きましたが、お茶や食事文化にはたした禅宗の役割を再評価する必要がありそうです。

伏見稲荷(お稲荷さん)

 今回の「京都もまだまだ」は、お稲荷さんに来ました。京阪電車の伏見稲荷(急行 停車)でおりるか、JR奈良線の稲荷駅でおりると便利です。東へ少し歩けばもうお稲荷 さんです。写真は本殿を写したもの。全国どこにでもあるお稲荷さんの総本社、ちなみに 日本三大稲荷を、伏見稲荷、祐徳稲荷(佐賀県鹿島市)、豊川稲荷(愛知県豊川市)と 紹介するガイドブックもあります。

 祐徳稲荷は鍋島公の勧請、豊川稲荷も東海道の整備とともに栄えたようでともに江戸 時代になってからの名所です。ところが伏見稲荷は山城の国風土記に「伊奈利」の名が 説明され、和銅4年(711年)に秦伊呂具が稲荷山に三柱の神を祀ったのが起源とされて いますから、時代ははるかに遡るわけです。稲荷山は山そのものを信仰の対象とする秦氏の神奈備山だったのです。

 お稲荷さんとくればキツネを連想しますが、この関係がすっきりしません。説明は複数 あります。稲荷三神は食物の神つまり御餞津(みけつ)神なので、その「みけつ」が なまり御狐(みけつね)、三狐(みきつね)になったという説。またキツネは神使であり、 とりわけ田の神の神使としてふさわしいという説などがあります。(神使のキツネはフツーのキツネではなく、霊獣としての白狐)

 年中行事は多いようです。2月の初午大祭は起源を偲ぶ祭事で、京都初春の最初の神事として稲荷山は人で一杯になったそうです。4月・5月の稲荷祭りも盛大で葵祭り・祇園祭りとともに三大祭りと称された時代もありました。11月には火焚祭りと御神楽もあります。 全体としてみれば、播種蔡・田植祭・抜穂祭・新嘗祭など米作にかかわる神事が多いよう に見受けられます。

 稲荷信仰は、文字どおり五穀豊穣を祈ることだったんですね。したがって全国津々浦々にお稲荷さんがある訳です。お稲荷さんのメッセンジャーがキツネさん。キツネさんの ご機嫌をとるためのお駄賃が油揚げという次第。写真は赤い鳥居の通路ですが、白いキツネといい組み合わせです。秋の稲荷山はあなたを癒してくれることでしょう。

伏見界隈

 今回の「京都もまだまだ」は、伏見を訪れました。近鉄は桃山御陵前、京阪は伏見・桃山か中書島が便利でしょう。京阪中書島を降りて、駅前の商店街を北に向かい豪川を 渡ってすぐ左手に寺田屋があります。写真の左に史跡寺田屋とあるのが分かりますか?
 幕末の寺田屋騒動や竜馬の脱出劇はおなじみです。薩摩の勤皇派・有馬新七らは島津久光上洛の機会に決起をはかるものの、同じ薩摩藩士によって斬殺されてしまいます。幕末の血なまぐさい事件の始まりです。またここに泊まっていた竜馬は幕府の追っ手に取り巻かれますが、入浴中のお登勢の機転で救われます。『竜馬がゆく』にどちらも詳しく書かれていますので、梅雨の日にでもお読みください。
 寺田屋の位置は伏見港のほぼ真中で、たくさんの問屋や商店・宿屋などがひしめいている。ここから川沿いを西に100メートルも行くと角倉了以の顕彰碑が目にいるでしょう。高瀬川と豪川の合流点である。了以は河川交通の恩人であり、京都では大堰川の改修や この高瀬川の開削で貢献している。鴎外の『高瀬舟』思い出す人も多いことでしょう。
 寺田屋に戻って東に50メートルも行くと月桂冠大倉記念館が見えてきます。風格のある建物ですね。ここでは酒造りや日本酒の歴史を紹介しています。月曜が休館日で料金は300円(ただしお土産として純米酒一合ビン付き)。伏見はなんといっても灘とならぶ酒どころ。先日の新聞では、純米酒日本一がここ伏見からでていました。この近辺には鳥せい本店や黄桜カッパカントリーなどおいしい飲み屋さんが多いところでもある。ゼミやクラブのコンパ、仲のいいお友達同士やおしゃべり仲間、時には先生や職員さんに声をかけて行きませんか。京都で学べる幸せを感じられる、ひとときでもあります。

不動川砂防歴史公園

 今回の「京都もまだまだ」は、山城町の北にある不動川砂防歴史公園をご案内しましょう。国道24号線から不動川をすこしさかのぼれば不動川運動公園にでます。そこをさらに2キロさかのぼれば目的地につきます。往復5キロほどのハイキングコースになります。

 日本の国づくりは、治山・治水に始まり治山・治水に終わるといってもいいと思います。治山とは森を守る運動、治水とは洪水を防ぐ運動であり、いま風の言い方では生態系を守る運動です。江戸から幕末にかけて日本各地は荒廃のきわみにあり、ここ山城も例外ではありませんでした。森が荒廃し、大雨が降ればすぐ洪水でした。

 そこに登場するのがお助けマン、ヨハネス・デレーケ。「あらゆる土地は神がおつくりになったが、オランダの土地だけはオランダ人がつくった」という、優秀な土木技師。不動川の上流に写真のような堅牢な石畳の堤防をつくったのです。「上流を大切に」「木を切ってはいけません」がデレーケの決まり文句だったそうです。

 彼の活躍の舞台は山城地方だけではなく、淀川の河川改修・信濃川の河川改修から木曽川・長良川・揖斐川下流の堤防工事にいたるまで、驚異的な仕事ぶりです。長良川締め切り堤防が一望できる桑名の九華公園の端にも、彼をたたえるパネルがあります。大阪の活躍は、「デレーケ物語」(ふるさと都・夢づくり協議会)というマンガ本になっているほど。

 かまびすしい国防論議が新聞紙上をにぎわせていますが、本当の国防はもくもくと国づくり(治山・治水)にいそしむデレーケたちであり、デレーケにつづく人々なのです。子孫に緑をもたらすため山に苗木を植えつづけるお爺さんであり、治水のきわみ・お米をつくりつづけるお婆さんであり、農林・漁業の大切さに気づき始めたお父さんやお母さんなのです。第一次産業を軽視しつづけた日本人は、未来の人類のため先人の知恵に学び、方向転換をする時期にさしかかっているように思えるのです。

源氏物語ミュージアム

 今回の「京都もまだまだ」は、宇治に来ました。源氏物語ミュージアムと平等院の鳳凰堂です。源氏物語ミュージアムは、京阪宇治駅をすこしもどり東に5分の好位置にあります。常設展示室では、牛車や六条院の縮小模型などがあり、映像展示室では、半時間おきに映画「浮船」(篠田正浩監督)を上映しています。人形を使用した不思議な雰囲気をもった映画といえるでしょう。その他に図書室やパソコンコーナー・喫茶室も用意されていて楽しめそう。

 宇治は昔から奈良・京都を結ぶ交通の要衝ですが、喜撰法師が詠んだ歌で有名になったようです。

「わが庵は 都のたつみ 鹿ぞすむ よを宇治山と 人はいうなり」

「世を憂し」と宇治は掛詞になりますが、都の貴公子たちの別業(別荘)になり、同時に「世を憂し」とする仏教修行の地ともなりました。平等院の鳳凰堂は源融の宇治院を、藤原道長が購入しその息子の頼道が鳳凰堂に整備したものです。

 源氏物語の終章「宇治十帖」は、宇治川の両岸が舞台となっています。光源氏の末子薫と孫にあたる匂宮、八宮の姫君にあたる大君と中君さらに浮船のあいだにかわされる関係が主軸になって展開します。光源氏が亡くなってその余光が感じられはしますが、その光も徐々に消えていく寂しさがひとしおです。浮船の入水と尼僧生活はその駄目押しみたいですね。

 宇治はますます宗教的な雰囲気が濃厚になります。最後はやはり平等院の鳳凰堂で阿弥陀仏の慈悲にすがるより仕方ありません。権謀術数で倒れた京都政界の有象無象たち、時代はすこし下り宇治川合戦で命を失った多数の兵士たち、「世を憂し」と宇治に避難した老若男女たちの冥福を祈り、今はレプリカしかない飛雲仏の妙なる楽の音に耳を傾けようではありませんか。お土産グッズの豊富さもお帰りの楽しみです。

石清水八幡宮

今回の「京都もまだまだ」は、石清水八幡宮と松花堂庭園・美術館を訪ねました。京阪電車の八幡駅を降りると男山ケーブルが50メートル先に目に付きます。数分で山上駅ですが、まずは左手の展望台に登ってください。桂川・宇治川・木津川の三川をはじめ向かいに天王山がてにとるよう!案内にしたがうと数分で石清水八幡宮の本殿に到着します。宇佐・鶴岡とともに日本三大八幡のひとつです。(ここは宇佐を勧請し、鶴岡は石清水を勧請)社殿は徳川家光公造営の八幡造ですべて重文だそうです。朱色の社殿が青空に映えてきれいですねー。

 本殿の参道を降りていくと男山を半周して高良神社にでてきます。この参道も、緑は多いし景色もいいので、お勧めでしょう。高良神社は徒然草52段に登場する「先達はあらまほしき事なり」と、石清水八幡宮と間違えられて有名になった訳です。

 ここから南に1キロ下がれば、松花堂庭園・美術館に到着です。ここも石清水八幡宮の社家・泉坊書院にあたるそうです。松花堂とは松花堂昭乗の茶室・松花堂の名前ですが、いまでは松花堂弁当で知られています。農民の種入れの盆を、昭乗が一工夫しタバコ盆や弁当入れに見立てた結果です。その弁当入れの箱が松花堂弁当として広がったんですねー。まあ趣味人としては満足かもしれません。

 もともと、石清水八幡宮の社僧であり最高位にまでのぼりつめ書・画・茶・和歌などにすぐれた趣味人でした。書は「寛永の三筆」と称され、茶人として小堀遠州・沢庵和尚などと交流し、松花堂は文化サロンの様相をていしたと言われます。時代は遡りますが一休和尚と通ずるところのある文化人と言えそうです。

 庭園の散策もお勧めします。写真は茶室・梅隠ですがとなりは茶室・松隠がつづいています。真中に茶室・松花堂が絢爛といったおもむきで鎮座しているのです。珍しい竹40種、茶花として珍重される椿200種も御覧になれます。(椿は中国語で茶花・山茶花と称されています。中国とりわけ雲南原産のものが多いようです)

 椿園の奥に女郎花塚があるのをお見逃しなく!八幡に住む小野頼風を慕う都の女が男の誠意を疑い放生川に身を投げてしまいます。男は亡がらを塚に葬りますが、そこから女郎花が咲き乱れ、男もこの世のはかなさに入水してなくなります。この男女の悲恋を世の人々が哀れに思い、男塚・女塚をつくったのです。(謡曲百番の「女郎花」)

井出町

 今回の「京都もまだまだ」は、木津川の向こう側・井手町を紹介しよう。

井手町の歴史に欠かせないのは、奈良時代の左大臣橘諸兄である。当地には橘諸兄ゆかりの史跡が多いのである。玉津岡神社や井堤寺跡などがそれにあたる。井手町を二分して流れる玉川の堤に山吹を植えたのも諸兄だと伝えられている。小野小町の歌は、有名である。

 色も香もなつかしきかな蛙なく

       井出の渡りの山吹の花

 古今和歌集には「蛙鳴くいでのやまぶきちりにけり 花のさかりにあわましものを」(読人しらず)の歌がある。この段階で井出の地名は、山吹や蛙と一緒にイメージされるようになったのである。時代が下って新古今和歌集の

あしびきの山吹の花散りにけり

 井出のかわずは今や鳴くらん

などの歌は、井出・山吹・蛙の三点セットからなる典型であろう。同じく新古今に「山城の井出の玉水手に汲みて たのみしかいもなき世なりけり」という歌があるが、井出と玉水のイメージの結合である。

 王朝人の和歌のイメージを継承した人々の中に俳人がいる。芭蕉俳句集(岩波文庫)に二句とられている。

 山城へ井出の駕籠かるしぐれかな

 山吹や井出の長者を年の宿

芭蕉を師と仰いだ蕪村にも井出を詠んだ俳句がある。

 山吹や井出を流るる鉋屑(かんなくず)

 葱洗う流れもちかし井出の里

前者の俳句は、古典に造詣の深い蕪村ならではの作品であると思われる。興味のある方は袋草子をお読みいただきたい。写真は井手町舎の裏を流れる玉川を撮ったものである。

 

浄瑠璃寺

今回の「京都もまだまだ」は、奈良と見なされてはいるものの京都の一番南にある浄瑠璃時と岩船寺を訪問しました。近鉄奈良駅からバスにのると約30分で到着。春は菜の花畑がうつくしく、初夏はあやめや睡蓮がきれいで、秋はもちろん紅葉の名所でもあります。秋はおいしい柿や自然薯さらに焼き芋なども魅力の一つでしょうね。

 浄瑠璃寺は九体寺とも呼ばれています。写真に写っている本堂に定朝様といわれる阿弥陀如来像が九体安置されているからです。この寺は貴族たちの極楽浄土を体現したお寺でもあるのです。夏至は太陽が東の三重塔から登り、正午には池の大石の真上に移動し、夕方は本堂正面の薬師如来座像のうしろに沈む構造になっています。前々回に紹介した平等院鳳凰堂と同じ、ある時間帯に太陽光線が本尊を照らし出す仕掛けなんですね。(エジプトの太陽神殿やカンボジアのアンコールワットと同じ仕掛けで、これは世界共通でしょう。)

 堀辰雄のエッセイに「浄瑠璃寺の春」があります。この寺の古びたようすと案内する娘を視野に入れながら次のように思いをはせる彼。「自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融け込んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって・・・いはば、第二の自然が発生する。」時間が視野にはいると、古びたお寺も異なる輝き

につつまれるようです。

 浄瑠璃寺から岩船寺にすすむ道は、ハイキングコースとして有名です。1時間もかかりませんが、コース沿いに岩に刻まれた石仏もあり、目を楽しませてくれます。修行僧が隠れすんだ時に彫った石仏だそうです。神や仏を確認するため、あるいは身近に感じるためさまざまの修行がなされたのでしょうが、岩や大石に仏のすがたを刻むこともその修行の一形態であったことが分かります。(インドや中国の石窟も規模こそ違え同じ形態ですね。)

 岩船寺は、初夏のあじさい・秋の紅葉で知られています。行基の開いたお寺であり、以前は大規模な寺院だったようですが、鎌倉時代の大火で大半が消失し、現在の規模になったそうです。木津川をはさんで恭仁宮跡や海住山寺とも向き合っていて、古代は重要な位置を占めていたことが分かります。都会からすこし離れて、ゆったりした時間を過ごしたい方のおすすめコースです。

 

お千代・半兵衛の比翼塚

 今回の「京都もまだまだ」は、新祝園の来迎寺を訪ねてみました。新祝園駅の南西の丘に大きなお寺が見えます。電車からは本堂の大屋根が見える程度です。お寺の周囲はすべてお墓ばかり。お寺の門を入るとすぐ左手に、「お千代・半兵衛の比翼塚」があります。比翼塚で有名なお寺なので、二人の墓を入り口に移したそうな。

 お千代・半兵衛!? 聞いたことないねー。名前から判断すると江戸時代の人かな?正解!江戸時代の人です。夫婦心中をし、近松門左衛門の「心中宵庚申」で取り上げられ世間の人々の涙をさそいました。ここにお墓があるのは、お千代の実家がここにあり、裕福な農家であったからでしょう。

 夫婦心中!? それ何? 息子・娘が家庭内暴力をふるい、あまりの激しさに両親が自殺!違います。分かった!? 夫婦のどちらかが寝たきり老人になって介抱疲れから二人で自殺!イエイエそれも違います。じゃあこれしかない!親父がリストラされノイローゼになってお母(カン)を道連れに自殺! 違うのです。なんといまどきの若者は殺伐とした時代にくらしていることか。

 二人は純愛を貫いたのです。義理と人情の板ばさみ、残された道は心中しかなかったと言えましょう。話はこうです!お千代は、男運の悪いさだめで、二度の出戻り(離婚して実家に帰る)。今度こそはと誓った相手が八百屋半兵衛!武士の出なれども、八百屋の養子。武士のプライドと商人の誠実さを兼ね備えたいい男。二人は似合いのカップルで、子供までできて、幸せに向けて一直線。しかし世の中そうは問屋がおろしません。

敵役(かたきやく)は、半兵衛の義理の鬼婆。嫁・姑の地獄図会がお決まりのコース。昔は「親には孝」で、お姑さんの威力は絶対であった!? たくさんのお嫁さんが泣いて過ごし、自分がお姑さんになるや、今度はいじめる側にまわったんですね。(なんだ!俺たちのクラブと同じじゃない。後輩のあいだはいじめられ、先輩になると後輩をいじめるケースだろう。)鬼婆はお千代をいじめ抜いて、最後には離婚をさせようとします。

 半兵衛は恩義のある義理ママには逆らえません。封建時代のお利巧さんは、アツアツのお千代とも別れられない。いわゆる義理と人情の板ばさみ!皆さんが半兵衛だと、どうします?言うまでもなく、お母(カン)を蹴飛ばし、お千代坊とさっさと別居でしょうね。いや、鬼婆の言いなりになって、お千代坊とさよならの手を振る現代のお利巧さんかも・・。

 「名残もなつの。薄衣。鶯の巣に育てられ。子で子にならぬほととぎす。我も二八の年月を。養い親に育てられ。子で子にならず振捨てて死にに行身は人ならぬ。死出の田長かほととぎす。」

 

京都もまだまだ(平家物語と山城)

 今回の「京都もまだまだ」は、平家物語にかかわる旧跡を訪ねてみよう。

高倉の宮(以仁王・後白河天皇の第三皇子)が令旨をだして平家追討を呼びかけたのが、敵の知るところとなり、宮は追われる身となる。都から三井寺、三井寺から南都へとおちのびようとする高倉の宮。しかし平家の追撃は速く、宇治川・平等院の戦いとなる。宮は少数のお供をともない一路南都へ急ぐ。「案のごとく宮は三十騎ばかりで落ちさせ給ひけるを、光明山の鳥居のまへにて追っつきたてまつり、雨の降るように射まひらせければ、いずれが矢とはおぼえねど、宮の左の御そば腹に矢一すじ立ちければ、御馬より落ちさせ給て、御くびとられさせ給ひけり。」

 記述の光明山寺跡が、井出町と山城町の境にある高倉神社である。宇治から急いだ高倉の宮は、山背古道をとりJR奈良線の玉水駅の南で討ち取られたことになる。この大事件は、平家が滅亡の道をたどるターニングポイントでもあった。 高倉の宮を迎え入れようとした南都の大衆(だいしゅ)を朝敵としたことから戦になり、平重衡を大将とした平家の軍勢は奈良を焼き払ったのである。放たれた火で大仏殿は焼け落ち、その二階に避難した千七百余人は阿鼻叫喚のなかで焼け死んだ。大仏も焼け落ちて頭部は地面に転がっていたという。

 この仏敵である重衡が、一の谷の合戦でめのと子にも見捨てられて囚われの身となり、南都に身柄をわたされて処刑されたのが木津川の南、JR奈良線の東側にある安福寺である。木津駅をおりて北に100m。「『一念阿弥陀仏、即滅無量罪、願くは、逆縁をもって順縁とし、只今の最後の念仏によって、九品托生をとぐべし』とて、高声に十念となへつつ、くびをのべてぞきらせられける。日頃の悪行はさる事なれども、いまのありさまを見たてまつるに、数千人の大衆も、守護の武士も、みな涙をぞ流しける。」

 大将であった重衡も囚われてみればただの人。鎌倉から奈良へ護送される途中、日野に住む北の方と涙・涙の別れをはたし、地獄に落ちる恐怖から逃れるため阿弥陀仏にひたすらすがろうとするその心は哀れでもある。平家物語の冒頭にある「盛者必衰のことはり」の典型であり、「奢れる人も久しからず、唯春の世の夢の如し。たけき者も遂にはほろびぬ。」を地で生きた人物といえよう。写真は緑につつまれた高倉神社と木津川南側にある安福寺境内の平重衡供養塔である。

 

京都もまだまだ 寺田イモ

 今回の「京都もまだまだ」は城陽市の長池を訪ねました。JR奈良線の長池駅の近くに大蓮寺というお寺があります。このお寺の境内に「芋宗匠」こと島利兵衛のお墓があるのです。(写真参照)サツマイモの形をしたお墓が分かりますか?島利兵衛はサツマイモを京都に紹介した恩人なのです。

 サツマイモの原産地は南米のアンデス山脈といわれています。スペインを経由してフィリピンに伝わり、大陸の福建省で歓迎され、すぐに琉球で生産されるようになりました。島沿いに薩摩に伝えられて、やがてサツマイモと呼ばれた訳です。薩摩に流刑されていた島利兵衛が、種イモを貰い受けて京都に紹介したそうです。日本各地にサツマイモを紹介した恩人の社寺や記念碑がたくさんあるのです。

 「芋代官」と称されたのは石見の国の代官・井戸正明。飢饉に苦しむ住民を見捨てておけず、幕府の許可をへないで蔵米を分け与えたり、サツマイモをこの地に紹介したりと、善政を施した訳です。しかし官僚主義は例外を認めません。幕府のお咎めを受け、井戸は蟄居先で自殺して果てるのです。恩恵を受けた住民は神社や記念碑を造営して、井戸の功績をたたえた次第。

 井戸の死は無駄にはなりませんでした。一粒の麦ならぬ一個のサツマイモは幕府の関心を引き、青木昆陽の小石川薬草園での実験につながるのです。昆陽自身の考えも、飢饉に苦しむ伊豆七島の住民救済にあったとのこと。サツマイモの普及は何よりも飢饉対策のホームランであったといえるでしょう。サツマイモの普及した地方は餓死者をださずにすみましたが、サツマイモを知らなかった地方では多数の餓死者をだしたそうです。

 そう、サツマイモのパワーはすごいのです。単位面積あたりのエネルギー生産力は、国内の食用作物中第一位!また単位面積あたりの収穫量も日本はダントツで世界一位!サツマイモの主成分は糖質で、ビタミンも豊富。食物繊維も豊富で、カロチン・カリウムなどもあります。中国の「本草綱目」もサツマイモを滋養食品・長寿食品として絶賛しているのです。

 城陽の「寺田イモ」はおいしいお芋として有名です。これも島利兵衛の想いを大切にしてきた寺田住民の努力の結晶といえるでしょう。写真の松屋さんは、島利兵衛のお墓を維持し、寺田イモのお菓子作りを続けてきた老舗です。お寄りの節にはイモ羊羹でも!