湾岸戦争後のサウジアラビア

中田 考

 

 

サウジアラビアの総人口約千八百万人のうち約五百万人は外国人労働者である。またイスラーム世界の二大聖地マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)を擁する同国には例年巡礼月には、世界各国から百万人を越える巡礼者が集まる。

しかしこれだけの数の外国人が国内に存在するにもかかわらず、同国は世界でも最も実情の知られていない国でもある。

アラブ社会は一般に客人を歓待する社会である。しかしサウジ人は、開放的で国際的な近隣アラブ諸国の人々と違い、著しく閉鎖的な人々である。

その原因の一つには、ひたすら生真面目に厳格で、排他的なワッハーブ派の教義の影響が挙げられよう。

また未だに出身部族をアイデンティティーの中心に据えるメンタリーティーが、外部の人間に理解しにくいことも、彼らを閉鎖的に見せる一因ともなっている。

決して「近代的」とはいえない極めて特殊な国内事情が外の世界に知られることを、サウード王家が嫌っている、といった政治的要因も、サウジを必要以上に謎めいた国にしている。

しかし湾岸戦争によって、数十万人もの多国籍軍と同時にCNNなどの西欧の報道機関の入国を許し、従来は殆ど知られることのなかった同国社会の実情が世界に知られることになった。

 

統治基本法を発布して初の憲政を開始。諮問評議会も開設

 

現在のサウジアラビアは豊富な石油収入の分配によって国民の高福祉を保証する分配国家である。サウジアラビアは初代国王アブド・アル-アジズと次代のサウド王の時代には、部族制度を基盤とする伝統的家産制国家の特色を色濃く残していたが、ファイサル王、ハリド王、ファハド王の三代にわたる近代化への努力の結果、巨大な官僚機構を擁する中央集権型の近代官僚国家へと漸進的に脱皮を遂げた。

しかし湾岸戦争以前のサウジアラビアは、クルアーン(コーラン)とスンナ(預言者ムハンマドの範例・慣行)こそ憲法である、との建前により、憲法典は成文化されず、また部族社会の伝統的な合議・陳情システムであるシューラー(諮問一制度の存在を口実に、西欧的な議会の開設も許してこなかった。

ところが湾岸危機以降の内外からの「民主化」圧力の下で一九九二年、ファハド国王は欽定憲法にあたる統治基本法を発布した。この統治基本法は、クルアーンとスンナが憲法であり全ての権力の源泉であるとの立教を堅持しつつも、統治形態、国民の権利と義務、司法権、行政権、立法権の所在などを明文化したものであり、サウジにおける憲政の開始を告げる画期的なものとなった。

またファハド国王は、統治基本法と同時に諮問評議会を発布し、一九九三年には勅選の議長、副議長に続いて議員六十名を任命し諮問評議会を開設した。こうしてサウジアラビアにも不十分ながらも国民の声を国政に反映させる機関が制度化されたのである。

 

衛星放違が一挙に普及し、外国製の娯楽番組が茶の間に氾濫

 

一九七〇年代にサウジは石油価格の急騰により莫大な富を蓄積した。ところが一九八○年代にはいると石油価格の落ち込みを背景に、同国の国家収人は激減し、また一九八一年には一万七千ドルを越えていた一人当たりGDPも一九九二年には約七千五百ドルと半減した。

財政に関しても一九八三年以来九五年まで上二年間にわたって赤字財政を続けている。特に湾岸戦争により海外資産の三分の一近い約五百五十億ドルとも言われる巨額の出費を強いられたサウジ政府は、歳出削減、緊縮財政を余儀なくされた。

しかし財政緊縮による人件費の削減は公務員の雇用の頭打ちをもたらす。そもそもサウジの労働力化率は三〇%代あまりしかなく、世界でも最低の水準時にあったが、更にサウジ社会は一八歳未満の若年層が人口の六割を占めるため、若年層の雇用機会創出は政府の緊急の課題である。

それゆえ国有企業の民営化、外国人労働者をサウジ人に代える労働力のサウジ化政策が十分な成功を収めていない現状において、緊縮財政によって公務員雇用がサウジ人の

若年層を吸収できなくなれば、失業問題が顕在化し、近い将来に深刻な社会問題となることも考えられる。

湾岸危機に際してサウジは多国籍軍の進駐を容認したが、肌も露な女性兵士の運転する車が国内を疾走する姿は、女性が顔と手を除く全身を覆うことが義務づけられ車の運転も許可されないサウジ社会に大きな衝撃を与え、運転許可を求めるサウジ女性がデモを行う、といった事態さえも生じた。

また湾岸危機によって、正しい情勢分析を行うために必要な情報がサウジの官製報道によっては全く提供されないことが露呈され、その結果として衛星放送が国民の間に一挙に普及し、当局の検閲の及ばない西側発のニュース報道のみならず、イスラームの映像倫理に反する外国製の娯楽番組などの映像が無制限に一般サウジ家庭の茶の間に届けられるようになった。

一方でこのような湾岸戦争による西欧文化の流入による社会変化は、ワッハーブ派宗教界の反発と危機感を煽り、急激な西欧化への反動として宗教界を中心とした西欧文化への拒否反応も表面化することになった。

 

イスラーム主義改革運動の台頭と、弾圧をばねにした運動の急進化

 

湾岸危機に独力で対処できずアメリカの援助に頼ったことは、二大聖地の守護者としてのサウード王家の威信を著しく傷つけた。王家の権威の低下に伴って、イスラーム主義者及び民主勢力の双方から、内政・外交の改革を求める一連の請願書、建白書などが提出され、王家に対する不満が一挙に噴出した。

こうした改革を求める声に対して、ファハド国王は統治基本法の発布、諮問評議会の開設などの政治機構改革に着手し、また長年の懸案であった親イラン・シーア派反体制運動との和解を達成した。一方で国政の一層のイスラーム化を求めるイスラーム主義の改革運動には弾圧をもって臨み、改革派の説教師や知識人たちの多くに対して公職追放や投獄などの厳しい処置を取った。

しかしこのイスラーム主義改革運動に対する弾圧は、改革運動の急進化を招来し、一九九五年十一月にはリヤドの米軍事顧問団の駐在する国家警備隊施設で爆破事件が発生した。この事件はエジプト、アルジェリアでのイスラーム主義反政府武装闘争派の影響を受けたサウジ人のイスラーム主義武装闘争派の若者が引き起こしたものであった。

湾岸戦争はサウジアラビアの情報鎖国体制に風穴をあけ、急激な西欧文化の流入、国民の政治意識の高揚、イスラーム主義反体制派の急進化などの社会変化をもたらした。そしてこれらの変化は、衛星放送やインターネットの普及などによる国境を越えた世界規模での情報ネットワークの形成とも連動しているため、今後一層加速されることも予想される。