『中東研究』 No.461, pp.2-21, 2000/4

トルコのイスラーム主義「ヌルジュ」運動   - フェトフッラージュを中心に

                                               

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 19996月、フェトフッラー・ギュレンがイスラーム国家樹立のために政府転覆の陰謀を企てたとしてトルコ国家治安裁判所が捜査を開始したとの報道が世界を駆け巡った。

 フェトフッラー・ギュレンの信奉者の集団を、トルコ語ではフェトフッラージュ(フェトフッラー主義者)と呼ぶ。このフェトフッラージュは、サイド・ヌルスィ(1876-1960)を教祖とするヌルジュと呼ばれるイスラーム主義運動体の分派の一つでもある。

 ヌルジュは、トルコ第二のイスラーム勢力とも見做される重要な存在でありながら、エルバカンの運動(国民秩序党-国民救済党-福祉党-美徳党)等と比べて、世界的にも研究は遅れており、その実態は本邦でも殆ど知られていない。

 本稿ではルシェン・チャクルによる現代トルコのイスラーム主義諸運動のルポルタージュ『徴とスローガン - トルコにおけるイスラームの組織構成(Ru©en akõr, Ayet ve Slogan - TŸrkiyaÙde Ûslami Olu©umlar, Metis Yayõnlar, 1990)』に主として依拠して、現在は30以上に分裂していると言われる分派の中でも『新亜細亜』派と双璧をなすフェトフッラージュを中心にヌルジュ運動を概観する[1]

 本題に入る前に、イスラーム主義運動の研究に纏わる二重の方法論的困難を指摘しておかねばならない。

 第一に、イスラームには、本来、綱領、加入/脱会手続、成員の権利義務の規定、意志決定手続、役職/組織図、といったハードな構造を備えた「公式」の組織といったものがそもそも存在しないことにある。「聖職者」を媒介としないムスリム信徒個々人のアッラーフへの直接的帰依がイスラームの特徴であるが、イスラーム運動の組織原理もまた同型である。預言者ムハンマドと信徒たち個々人の忠誠の誓い(バイア)をモデルに、イスラーム史を通じて、様々なイスラーム運動体は一般的に、師弟、カリスマ的指導者と信奉者のパーソナルな関係を基礎とする柔構造を組織原理としてきた。それは国家制度においてイスラーム世界が早くから整った官僚制を発達させてきたことと顕著な対立を示している。これは一応政党組織を取るエルバカンの運動にしても同様で、形式的な政党の名称、政治綱領、規約、メンバーシップ等は副次的意味しか持たず、重要なのはエルバカンというカリスマ的指導者のパーソナリティーであり、その信奉者の彼に対するパーソナルな支持のネットワークである。このような柔構造の組織の研究においては、組織の綱領、名簿、帳簿等を調べて、そのイデオロギー、成員数、資金源を知る、といった西欧型の組織の研究においては一定の有効性を持つ「客観的」方法論は殆ど使用に耐えない。

 一方で、現在のイスラーム世界では、伝統的な指導者と信奉者のパーソナルな関係(バイア・モデル)を越えて、近代西欧的組織原理を採用した宗教団体に脱皮しようとの試みもまた広範に見られる。

 第二の問題は、このような「近代的」団体に対して、国家が「国民統合を脅かす」、「宗教の政治的利用を阻止する」などの口実で、イスラームを掲げる宗教団体の設立を禁じるか、「政治的」行動に大幅な制限を加えていることである。つまり、このような状況下ではイスラーム団体は、公認を受けようと思うと、本音を隠した建前の綱領を定めることを強いられたり、非合法組織とされ地下活動を余儀なくされることになり、外部の研究者には実体の把握が困難になるのである。ヌルジュ運動の研究にも、この二重の困難が当てはまる。

 

1.ヌルスィとヌルジュ

 ヌルジュとは教祖のヌルスィの名とその作品名『レサレ・ヌル(光の書簡)』に因んだ名称であるが、基本的に他称であり、ヌルジュという名前を冠した団体がどこかにあるわけではなく、そのメンバーシップも極めて曖昧である[2]

 ヌルスィは1876年、ビトゥリス県ヌルスにクルド系の貧しい宗教学者の息子として生まれ、伝統的な宗教教育を受け、ナクシュバンディー教団に加入した。共和国成立後、1925年のクルド人ナクシュバンディー教団のイスラーム国家樹立運動(シャイフ・サイドの反乱)に連座したとして逮捕されるが、民主党が1950年に政権を取ると釈放される。その後も、宗教の政治的利用の疑いをかけられ、何回も逮捕され審理されたが無罪となり放免され、1960年死去する。

 ヌルジュとは、ヌルスィの生前においては、彼の高弟を核とする信奉者の緩やかな集合体であった。彼らはヌルスィの死後も、師の遺志を継いで、彼の思想を広めるための出版、教育活動を中核とする運動を続けていったが、本稿で扱うのは主としてヌルスィ死後のヌルジュ運動の展開である。

 『新世代』派(後述)のイデオローグであるサファ・ミュルセルは、ヌルスィが(1)ムスリム大衆全体を対象として、その信仰を防衛強化し、西欧のイデオロギー的武器である科学を自家薬籠中のものとしてイスラーム的科学の装甲を施すこと、(2)高度に洗練された信条と強い同胞意識を持つエリート集団、即ちヌルジュ学徒の育成、の二つの仕事を成し遂げた、と評価する[『徴とスローガン』、83頁参照。以下[]内は同書該当頁]。またミュルセルはヌルスィの原則を彼の大著『ベディユッザマン・サイド・ヌルスィと国家哲学』の中で(1)万事をイスラーム的観点から見ること、(2)あるがままの事実を直視する現実主義、(3)説明の方法論としての実証主義、(4)空論ではなく経験に根差した知識に基づく理論の生活の実践への適用、(5)西欧のテクノロジーの成果とイスラームの間の弁証法的止揚、ジンテーゼの達成、(6)主観的評価を越えた客観性の獲得、(7)社会進化論、の七つに纏める[83頁参照]。なお、自分の使命を担う核となることを期待して育成したヌルジュ学徒の規模について、ヌルスィは、裁判において、「50万人の献身的信徒(fedakar)」を擁する、と述べている[87頁参照]

 またヌルジュの目標については、トルコ人研究者イフサーン・ウシュクは、(1)人々の信仰の強化、国家と宗教を脅かす無神論と共産主義との闘い、(2)政治に関わらず科学的実証主義による『レサレ・ヌル(光の書簡)』の普及に専念すること、(3)個人と社会への奉仕、等の11の項目に纏めている[84-85頁参照]

 1960年にヌルスィが死んだ時、彼のカリスマは引き継ぐだけの唯一の指導者はおらず、ヌルジュは集団指導体制に移行する[88頁参照]

 当時のイスラーム主義者の間では、出版活動を宗教運動に結び付けるという発想は皆無に近かった。ところがヌルジュは『レサレ・ヌル(光の書簡)』の出版、普及活動に加えて、雑誌、新聞の発行により、マスメディアに進出した。 1960527日の軍事クーデターによるイスラームに対する弾圧への反撃を意図し、最初にイズミルで『二股の剣(ZŸlfikar)』、次いで『同胞愛(Uhuvet)』新聞を発行し、戒厳令司令部による度重なる発禁措置の中で、1967年にヌルスィの高弟の一人ズュバイル・グュンデザルプが当時としては大胆な論説で広く注目を集めた週刊『連合(ittihad)』紙を発行した(1971年軍事クーデターにより無期発禁処分)

 そして1970年には大衆にアピールする手段として画期的な日刊紙『新亜細亜(Yeni Asya)』が発行された。『新亜細亜』は発刊の目的を以下のように自己規定する。(1)合議(isti©re)の重視、(2)万難を排しての民主主義の擁護、(3)反民主主義勢力との対決、(4)無神論と共産主義の正体の暴露、(5)言論での説得による人権と人道の擁護、(6)イスラームを政治に利用せず、かつ誰にも利用させないこと、(7)自由主義陣営との民間交流促進のための思想的基礎付、(8)キリスト教の宗教者との連帯の模索、(9)上記の出版目的に反する広告のボイコット、(10)銀行の広告のボイコット。

 イスラーム主義者のマスメディア進出の先駆として、ヌルジュはムスリム篤信家たちの間で尊敬を集め名声を博した。しかしこの時期に内部分裂もまた始まったのである[89頁参照]

 

2.70年代の分裂

 ヌルジュは『レサレ・ヌル(光の書簡)』を参照し、指針を求めることを合意事項としたが、それ以外においては、(1)信仰の神髄の解明、(2)(ヌルスィの支持した)民主党の使命を継承した保守系政党の支持、(3)宗務国家公務員の育成、(4)内外の反無神論、反共勢力との共闘、(5)『レサレ・ヌル(光の書簡)』の重版、といった基本路線の強調点の違いにより、ヌルスィに代わるカリスマ的権威の不在により、次第に路線の違いが顕在化し、1970年代には様々な分派に分裂することになる[85-86頁参照]

 

(1)「書家派」

 1962年、最初に派を割ったのは、ウスパルトのオスマン・トルコ語書家ヒュスレヴ・アルトンバシャクである。分裂の原因は、本来アラビア文字表記のオスマン・トルコ語で書かれた『レサレ・ヌル(光の書簡)』を現代トルコ語に直してラテン文字で転写することに対する反対であり、彼に従う者たちは、「書家派(Yazõcõlar)」と呼ばれた。彼らの活動はオスマン・トルコ語表記の『レサレ・ヌル(光の書簡)』の出版に限られており、社会的重要性を失っていったと言われるが、現在もアンカラ市内に約20の寄宿学習塾を有している[89頁参照][3]

 

(2)エルバカン支持グループ

 次いで、ヌルジュの伝統的な民主党の「民主的使命」支持路線を捨て、ナクシュバンディー教団員が多数を占めるエルバカンの国家秩序党支持に回ったA.タヴフィク・パクス[4]、スディ・レシャト・サルハン、ギュンヅズ・セヴィルゲン等が分離した。このグループは、国家秩序党の解体後、後継の国家救済党を支持したが、国家救済党が不倶戴天の敵である共和人民党と連立するに及んで、国家救済党を支持し続けたグループと、連立を野合と批判しエルバカンを見限ったグループに更に分裂した[89頁参照]

 

(3)「勝利(Zafer)-「砦(Sur)」派

 1970年代半ばに、主流の『新亜細亜』グループの政治への深入り、民主党-正義党への肩入れ、「科学的実証主義に基づく信仰の神髄の解明」という本来の使命からの逸脱を批判して、新たな雑誌『勝利(Zafer)』『砦(Sur)』を創刊したグループが生まれた。

 『勝利』は1975年にチュルダヴ出版社から、『砦』は翌年サカルヤ教育慈善基金(Eãitim Vakf)から刊行され、両者は科学的実証主義を共有する。一方で『勝利』誌が、画像や図表を多用してイスラームの奇跡性の証明を強調する等、宗教的象徴主義と実証科学の結合に特化した紙面作りをしているのに対し、『砦』誌は、メフメト・シェヴカト・エイギ、ヘキムオウル・イスマイル、ヴェジュディ・ビュルン等のイスラーム主義者のサークル外の有名右派著述家を編集委員に迎え、「国家主義的イスラーム主義路線(devletci bir islami izgi)」を取り、日常の社会・政治問題も扱うようになった。また『砦』はEC(当時)の加盟を推進する立場から、「反動、イマーム・ハティーブ学院、アヤソフィア・モスク」等のイスラーム主義者が争点とする問題においては局外に立った[113-114頁参照]

 『勝利』と『砦』は共に党派性を排し、イスラーム・シンパの広範な読者を対象として、彼らにイスラームの普及に役立つ現代科学思想の資料・情報を提供することを編集方針としており、ヌルジュを越えた読者層を獲得している[114-115頁参照]

 1970年台半ばにはフェトフッラージュもまたヌルジュ主流から脱退することになるが、フェトフッラージュについては別途後述する。

 

3.80年軍事クーデター以降の分裂

 共和国成立後のトルコは1960年、1971(書簡クーデター)1980年と3回の軍事クーデターを経験している。1970年のクーデターにおいては、ヌルジュは共産主義の脅威の阻止、の観点から軍部を支持した。しかしその後の新体制が「民主の使命」を擁護するとの期待を裏切られ、クーデターは不倶戴天の敵である共和人民党を利するのみであったとの危機感から、反軍部に態度を変えた[90頁参照]

 

(1)『新亜細亜』-『新世代』のデミレル支持

 『新亜細亜』は、エルバカンの政党(国家秩序党-国家救済党)を、篤信者を幻惑し、体制内の民主主義勢力を弱体化させる目的で宗教的外観で偽装した政党と見做し、体制内の民主主義勢力と大衆の目に、そのからくりを暴くことを目指し、国家救済党と共和人民党の連立阻止に努めた。

 『新亜細亜』は反共、反猥褻文書キャンペーンを繰り広げる傍ら、1977年選挙では正義党支援のプロパガンダを行い、1980年軍事クーデターに連なる政局の混迷期には、共和人民党(エジェヴィト党首)に厳しい批判を浴びせる一方で、正義党とデミレルへの全面的支持の論陣を張り続けた。

 軍事クーデターの約1か月後、戒厳令下で『新亜細亜』は発禁処分となる。『新亜細亜』発禁に伴い、編集部は新しい雑誌『新世代(Yeni Nasil)』の創刊を準備した。間もなく『新亜細亜』は解禁されるが、編集部は既定の方針通りに『新世代』の創刊を決定する。

 『新亜細亜』に代わった『新世代』は、政党の解散、クーデター首脳ケナン・エヴレンの宗教問題への干渉、スカーフ禁令、1982年憲法草案、新政党法、MGK(国家安全委員会)の拒否権、大トルコ党の解党、新選挙法等の軍部の政策に対して、「合法的かつ理性的(me©ruØ ve mekul)」な形での批判キャンペーンを行った[90-91頁参照]

 ヌルジュの正道党支持は、ヌルスィの民主党支持を根拠に、民主党の後継政党である正道党を支持したものであるが、クーデターとアナーキーに反対し、より多くのイスラーム化を求めて既得の限られた宗教の自由をも失い元も子も無くすことを恐れ、現状維持を望む保守主義であり、そのためには強い国家が必要とされたのであり、デミレルと民主党への支持もそのためであった[95頁参照]。デミレルへの支持は、デミレルの著作『憲法と国政』、『デミエル、民主主義を語る』、『進歩の精神的方向』、『イスラームと民主主義』、『デミエル、GAP(南東アナドリア・プロジェクト)を語る』、『若者と教育』等が新亜細亜出版から刊行されている程であった。そもそもそれらは『新亜細亜』とその系列誌に掲載されたものを纏めたものであり、彼らのオピニオン・リーダー誌『橋』には重要な時事問題についてデミレルとのインタビュー記事が掲載されないことは稀であった[94頁参照] 現状維持、保守主義の『新亜細』-『新世代』グループは、国際問題においても、ヌルスィの共産主義と無神論との対決、キリスト教との連帯路線を継承し、アメリカとNATOを支持した。またイラン革命に対しても、力によるイスラーム化のために直接的権力追求はイスラームの原則である正義(アダーラ)に反し不正をもたらすとし、イランの武力革命はシーア派のものでしかなくスンナ派では認められないとして、急進的ホメイニ主義にも否定的であった[96-97頁参照]

 このような『新亜細』-『新世代』の保守路線を『企画(Giri©im)』誌は、「イスラームと民主主義の間の架橋の努力」[94]と要言している。

 

(2)クルクンジ・ホジャの脱退

 1980年軍事クーデターの後、ヌルジュのホジャ(僧正)として知られていたメフメト・クルクンジが、デミレルと正義党の唱える「民主の使命」の空念仏と、それに躍らされた『新亜細亜』-『新世代』グループを激しく批判し、派を割った。

 クルクンジ・ホジャは、ヌルジュ・アンカラ閥の多くのインテリの支持を集めて分派したが、彼らは祖国党支持の右翼イスラーム主義集団となった[91-92頁参照]

 

(3)クルアーン党

 1989年にはヌルジュの分派「開-(Med-Zehra)」クラブによって『宣教(Dava)』誌が創刊された。この派は既に以前から主流の『新亜細亜』-『新世代』グループから離れていたが、1980年にはソズレル(御言葉)出版社の現代トルコ語版『レサレ・ヌル(光の書簡)』が原文に忠実でないと批判し、自らテヌヴィル(啓蒙)出版社を興し、『レサレ・ヌル(光の書簡)』刊行事業に参入すると同時に活動領域を広げていた。

 彼らはヌルジュ主流の体制順応-現状維持の姿勢を批判し、彼らの逸脱を正して、ヌルスィの「科学的実証主義に基づく信仰の神髄の解明」の本旨への回帰を目指し、『宣教』誌の中で自ら「クルアーン党」を自称した。 クルアーン党によると、ヌルスィはクルアーンに基づく全てのムスリムの共有財産である普遍的な運動を創始したのであり、ヌル学派とは本来、クルアーン党であったものを、ヌルジュの諸派がヌルスィの名声を独占しようとして、彼の教えをヌルジュだけのものに矮小化したのである。クルアーン党はヌルスィの思想を正しく紹介するために、『宣教』に毎号一定の頁を裂いてヌルスィの言葉を紹介し、他の記事の中でも彼の言葉の引用を多用した。

 クルアーン党は、クルアーンの運動としてのヌルスィの教えを狭いヌルジュ・サークルを越えて全てのムスリムに知らしめることを目指した。しかし彼らはヌルスィのメッセージに忠実であろうとするあまり難解な古オスマン・トルコ語風の文体と暗号のような象徴表現を用いることによって、彼らの仕事を古典教養を欠く一般の現代のトルコ人に受け入れがたいものにしている、というジレンマを抱えることになった。

 またクルアーン党は他のヌルジュ諸派が、ヌルスィが政教分離を説いたと考えるのを、ムスリムが権力を握ったマディーナ期の教えを無視し、ムスリムが少数派であったマッカ期の教えを国家論に誤って適用するものだとして批判し、政教分離を否定し、シャリーア(イスラーム法)の完全施行の必要を訴え、ヌルジュの最も急進的な分派となった[122-125]

 

(4)メフメト・メチネルと『企画』

 ヌルジュの分派の中でも、トルコの若いインテリの間に多くの支持者を集めたのが、メフメト・メチネルに従うグループである。メフメト・メチネルは1985年から90年にかけて『企画』誌を発行したが、それは批判理論、穏健イスラームに対する反乱、西欧の社会学の混合体であった[5]

 

(5)『新世代』宮廷クーデター

 1987年刊行の『近代史百科事典』は、『新亜細亜』グループのデミレルと正道党への熱狂的支持を記している。 しかし199013日、『新世代』及び系列雑誌『橋(kšpr )』、『我らが家族(Bizim Aile)』、『親友(Cankarde©)』等の主だった書き手たちが、突然解雇された。

 これは『新世代』の社主らによる一種の「宮廷クーデター」と見做された。メフメト・クツルラル、ムスタファ・カプラン、ビュンヤミン・アテシュ、ブルハン・ボズゲイクら、ヌルジュの著述家たちは、この事件を、『新世代』の社主らが、この新聞の反祖国党、反公式イデオロギー政策から国家権力との融和政策へと路線転回を望んで「宮廷クーデター」を起こした、と考えている。

『新世代』の正道党から祖国党への乗り換えについて、居残った『新世代』の主筆サファ・ミュルサルは、正道党とその「民主の使命」への支持を止めたわけではなく、「王よりも王党的な」デミレルへの支持は、デミレルのためにもヌルジュのためにもならないからであり、露骨でないより目立たぬ形で「民主の使命」を擁護するためであり、また新聞を偏狭な党の機関紙的なものでなく、大衆紙に脱皮するため、と説明している。

 しかし追放組は事件を祖国党の陰謀と見做しており、115日には自ら『新亜細亜』を再刊し、『橋』、『我らが家族』、『親友』も自らの手で発行を継続することになった[92-93頁参照]

 『新亜細亜』-『新世代』グループは、『新世代』グループと新『新亜細亜』グループに分裂した後、『新世代』は支持政党こそ祖国党に替わったものの、現状維持の保守路線を継続し、新『新亜細亜』は伝統的な正道党支持を続けているが、結局のところ、両陣営ともに今や既存体制の秩序の一部に取り込まれていった[98頁参照]

 なお19998月のトルコの地震の後、新『新亜細亜』の記者ムハンマド・クトゥルラルが、アンカラでのサイド・ヌルスィの没後39年記念会場で著作『軍事都市ジョルジュクでの地震の発生は偶然に非ず』を配布し、地震の原因が軍部によるヒジャーブ着用女性等のイスラーム主義者への迫害に対する神罰である、と述べたため、宗教騒擾、軍部侮辱容疑で国家治安法廷で審理を受けることになった[6]

 

4.フェトフッラージュ

 マスメディアを通じてヌルスィの思想を広める、とのヌルジュの戦略は功を奏し、ヌルスィの名は人口に膾炙し、ヌルスィはトルコのイスラーム主義者全ての尊敬を勝ち得ることになった。一方で、いたずらにヌルスィを神聖視し、ヌルスィにばかり気を取られ、他の事象に関心の薄いヌルジュは、世界のイスラーム運動の進展から取り残されていった。

 結果的に、ヌルジュは世俗主義者たちから「古典的反動主義者」の烙印を押されることは免れるようになったが、内部分裂も相俟って、総じてトルコのイスラーム主義戦線の内部での全国レベルでの影響力は失った、との評価を受けている[98頁参照]

 そうした情勢を踏まえて、本章では、ヌルジュの他の派とは運動方針において、顕著な相違を見せながら、今日大きな社会勢力となっているフェトフッラージュについて概観する。

 フェトフッラージュとはフェトフッラー・ギュレンの信奉者集団を意味する。ギュレンはエルズルム出身でヌルジュのホジャとして、1970年代初頭にイズミルのボルノヴァ地区での説教で頭角を現した。カセットテープに録音された彼の大声量の雄弁な説教は、ダビングを重ねて人づてに普及していった。

 ギュレンは1970年代半ばには取り巻きを増やし、実業家たちの広範な支持を得たことに勇を得て、ヌルジュ主流から離れ、独立した。この時期のギュレンは、正義党を支持するヌルジュと袂を分かち、国家救済党支持に回ったが、1980124日には一転して国家救済党に対する厳しい批判演説を行った。いずれにしてもギュレンにとってどの政党を支持するかはそれほど重要ではなく、自己の組織の形成が最重要課題であった[103頁参照]

 フェトフッラージュは、ヌルジュに対して人々が抱く否定的イメージの偏見を避けるため、自らヌルジュとは決して名乗らない。それはヌルスィの言葉を引用する時さえ、ヌルスィの名前を出さない程であり[103頁参照]、ヌルジュ内部でも「そもそもギュレンは最初からヌルジュ学徒ではなかったのだ」などの批判も存在している[97頁参照]

 ギュレンは、(1)慈善基金の設立、(2)雑誌の出版、(3)学齢期の児童向けの学校と同じだけの比重のある私塾の開設、等の事業の創設を側近に課したが、組織形成当初、ギュレン自身、自らのカリスマを発揮して、雑誌記事の執筆、学生への講義に自ら取り組んだ[113頁参照]

 ギュレンの戦略は、ヌルジュ色を極力抑え慈悲、寛容、希望などの普遍的な理想を象徴的に語り、目立たぬ形で知らず知らずに社会に感化を及ぼしつつ浸透して行く、というものであった[101頁参照]1978年にフェトフッラージュがイズミルの「トルコ教師慈善基金出版」から創刊した雑誌『浸潤(Sõzõnt )』の名は、まさにこの戦略に相応しい誌名と言えよう。

 『浸潤』は、イスラームの宗教誌というよりも、TBÛTAK(トルコ科学技術研究協会)の『科学とテクノロジー』との競合を目指しており、例えば1989年の見出しを見ると、『メフメト征服王時代の宗教と内心の自由』のような論考と共に、『飛行機における燃料消費』といったScience Newsの記事のトルコ語訳のような欧米誌からの翻訳が掲載されている[100-101頁参照]

 「自分たちの文化を守りつつ西欧の科学を受け入れる」[108]ことを目標とするフェトフッラージュの『浸潤』の主題は西欧、西欧思想であり、『浸潤』の社説は欧米起源の外来語を多用し、モンテスキュー、ゲーテ、ビスマルク、ギデー、サルトル、ニーチェといった名前が見られる[102頁参照]

 目立たず知らない間に社会に浸透する、との方針から、ギュレンは政治的には国家にひたすらに恭順を示している。

 例えば1977年の全国規模の高等イスラーム学院ボイコットにおいても、ギュレンは「イスラームの教えの中にはボイコットなどというものはない」とのファトワー(教義判断)を示し、ボイコットに参加しなかった[103頁参照]

 またギュレンは19802月の説教では、アナーキスト、テロリストとして指名手配された者を軍と警察に通報しない者はアッラーフの前で責任を負わされる、として、「諜報機関に通報せよ、公安に通報せよ、軍に通報せよ、首相に通報せよ、大統領府に通報せよ。軍に発砲する者が法廷で有罪にされないならば、国家も国民も立ち行かない」との演説を行い[103-104頁参照]、同年912日の軍事クーデターでも、「絶望的(無政府)状況を救った救世主」として軍の行動を称えた[100頁参照]

 但し、『浸潤』は雑誌自体としては、ギュレンの政治的姿勢とは一線を画しており、『浸潤』は『勝利』と同じく直接的に政治にかかわることなく、ヌルスィの「実証科学に基づき信仰の神髄を説き明かす」という側面を継承する編集方針を取っている[100頁参照]

 19861226日付『論点(Nokta)』誌は、『中央に浸透する宗教集団(Orduya Sõzan Dinci Grup)』と題する記事で、『浸潤』を評して「我々の発行する科学・文学・倫理雑誌『浸潤』は政治・イデオロギー・国民的統合・団結を破壊し、国民的倫理的価値への脅威、攻撃となるようないかなる記事も決して載せない」[99-100頁参照]と述べている。

 1986年にフェトフッラージュは、日刊紙『時代(Zaman)』を創刊する。創刊当初の『時代』紙は、イスラーム主義知識人が、どの団体、分派にも片寄らず好きな話題を好きな形式で自由に語る場としての紙面作りをしたが、それはトルコにおける無党派の独立のイスラーム主義知識人層の形成に貢献した。

 その後『時代』は、ごく短期間、スポンサーに対する不満分子によって急進化したが、メフメト・シャヴケト・エイギ体制下で、右派路線に落ち着いた。ギュレンはその間、慎重に時間をかけて『時代』誌を、祖国党・官製イデオロギー支持へと誘導し、自己の影響下に収めていったのである[102-103頁参照]

  ギュレンの権力に対する妥協主義を如実に示す事例として、女性のスカーフ着用を批判した19891126日、イズミルのヒサル・モスクで行われた演説(他の35のモスクでテキスト回覧)があげられる。女性のスカーフ着用は、イスラーム主義者たちの間でコンセンサスが成立し共闘することのできる数少ない問題であったが、ギュレンは、「スカーフを被っている女性たちの大半は、夫が後進的なためで(erkek gerikalanlar)、もともと髪など出していた女たちである」と確信的に言い切り、「(宗教的)反動に対する急進的敵対者(hõzlõ irtica dŸ©Ÿmanlar)」でさえ敢えて行わなかったような厳しい批判を行った[105頁参照]

 イスラーム主義を自称しながら権力に追随し国際問題に関しても反共を口実に「親米路線」を取るギュレンは、特にヒサル・モスク演説以降、イスラーム主義陣営内部から様々な批判を浴びている。

 たとえば「超戦闘的」イスラーム主義誌『白-(Ak-Doãu©)』は、彼らの同志が監獄で拷問にあった際に拷問吏から『我が国トルコで最も偉大な人物フェトフッラー・ギュレンは我々の仲間だ。お前や、お前たちは、間違っている。』と言われた、とのエピソードを紹介し、『時代』を旧ソ連の官報『プラウダ』になぞらえて非難し、ギュレンに相応しいのは、CIAの「『知的で好ましい(Ilmlõ ve Olumlu)』ムスリム局・トルコ室長」か、トルコ共和国宗務長官ぐらいだ、と皮肉っている[105-107頁参照]

 このような徹底した権力への帰順の姿勢にもかかわらず、ギュレンが世俗主義の牙城の軍部の全幅の信頼を得てはおらず、疑いの目で見られているのも事実である。

 1980年の軍事クーデターの後には、『浸潤』誌上での公式なクーデター支持、賛美にもかかわらずギュレンはイズミルの戒厳令法廷の被疑者名簿に名を連ね、結局訴追を免れたが、嫌疑が晴れるまで身を隠すことを強いられた。

 また1986年に『論点』誌が報じたところによると、クレリ軍事高校で33名、ブルサ・イシュクラル軍事高校で16名、イズミル・マルテペ軍事高校で17名の学生が、ギュレンとの繋がりを理由に退学になり、100名以上が警告を受け、下士官養成学校でも同様な事件が起きている[102頁参照]

 チャクルの『徴とスローガン』の記述は1990年をもって終わっているため、最後にフェトフッラージュを中心にヌルジュを取材した邦字紙記事(1997720日付『中日新聞』「トルコイスラム主義の行方 3」に則って1990年代以降のフェトフッラージュを動きを纏めておこう。

 フェトフッラージュは新聞、雑誌のみならず、独自の病院や資本金5億ドルを越え急成長を遂げているアスヤ・フィナンスのような金融機関も有しており、1997年の時点で、メンバーの概数は300万人と言われている。

 マスコミ進出については1993年にはラジオ、テレビ局[7]を開局し、衛星放送も行っている。教育に関してもアジア、アフリカを含め国内外に200校以上の学校を設立しているが、1996年には国内に総合大学も開設した。政治においては政教分離路線を堅持し、イスラーム主義を全面に掲げて政権についた福祉党には批判的で、福祉党政権崩壊を「民意の表れ」として歓迎した。一方で、19975月に福祉党政権が、軍の圧力により、「イスラーム主義に染まった」とされる将校100名を追放したが、その大半はヌルジュのメンバーであったとも言われている。

 

結語

 本稿では、ヌルスィ死後のヌルジュの発展と分裂を、特にフェトフッラージュの運動に焦点をあてつつ概観した。

 その結果、世俗主義政権の弾圧下のイスラーム主義運動は、たとえヌルスィを共通の師とし『レサレ・ヌル』という同じテキストを共有するヌルジュのような団体でさえ、生き残り戦略をめぐって分裂しいかに多様な姿を取り得るかが明らかになった。

 また政教分離を掲げ、既成秩序と体制の擁護を唱え、世俗主義軍事国家体制にギリギリまで妥協することによって勢力の拡大に一定の成功を収めたフェトフッラージュのようなグループでさえなお、軍部の完全に受け入れる所とはなっていないことは、トルコにおけるイスラームと世俗主義の間の断絶の深刻さを物語っていると言えよう。

 



[1]粕谷元氏のインターネット上の海外出張報告による。 http//jambo.africa.kyoto-u.ac.jp/~asia/ias/98/kaigai98-kasuya/html 粕谷氏によると、現在ヌルジュは全国に約2万の寄宿学習塾(dershane)を有する。

[2] 粕谷は(1)の報告で、19987-8月にヌルジュの一分派「ヤズジュ(書家派)」の間で行ったフィールドワークによって、相続人(varis)-愛人(sevgili)-dost(親友)-同胞(karde©)-学生(talebe)というヌルジュのヒエラルキーの存在を確認している。

[3]書家派の現状については(1)の粕谷の報告参照。

[4] A.タヴフィク・パクスの指導によって、ヌルジュ「書家派」も「国家救済党」(「国家秩序党」の後継政党)の支持に回ったと言われる。 cf., Seufert, GŸnter, Politisher Islam in der TŸrkei, Stuttgart:Steiner,1997, p.142.

[5] cf., ¨erif Mardin, The Nakshibendi Order of Turkey, Martin E. Marty, R.Scott Appleby(ed.),Fundamentalisms and the State, Chicago-London, 1993, pp.220, 229.

 なお、マルディンはヌルジュの分派の一つにエレンキョイ・グループを数えているが、エレンキョイ・グループはむしろナクシュバンディー教団の導師マフムド・サミ・ラマザン・オウル(1892-1984)の弟子集団である。 cf., The Nakshibendi Order of Turkey", p.230, Ayet ve Slogan, pp.56-60.

[6] cf., al= Åay, 1999/10/13.

[7] 「智き道テレビ(Saman Yolu TV)」が『時代』の傘下にあると言われる。cf.,Politisher Islam in der TŸrkei, p.147.