『オリエント』 42-2(2001):104-124

「アブドッラフマン・ワヒドのイスラーム政治観」

Islamic Politics in the thought of Abdurrahman Wahid

 

                    

中田  

  Nakata Koh

 

                         

ABSTRACT       This article analyzes the Islamic political thought of Abudurrahman Wahid through the reading of his essays in Mengurai Hubungan Agama dan Negara(1999), and other books.

        Abdurrahman Wahid states that he approaches the state-religion relation socio-culturally. The aim of this approach is not establishing Islamic state directly through their penetration into the goverment which is often adopted by Islamic reformist groups, but the socio-cultural reform in a long term through NGO or mass religious organizations such as NU and Muhammadiyyah.

       According to him, the present constitutinal regime of Indonesia is legitimized as Dār ªulÆ (state of truce), in which Islam is not institutionalized by the government, however the freedom of the muslims to practice their religion is guaranteed.

       He says, “the conception of Dār ªulÆ is so fruitful as to solve a lot of contemporary ploblems if only it is understood properly and fully developed," although his understanding of the concept of Dār ªulÆ is different from what the classical fiqh literatures defined, i.e., a state which has the truce with Dār Islām.

       Abdurrahman Wahid rejects the Islamist demand for the establishment of the Islamic state in Indonesia, saying that it is contrary to the traditional Shāfi‘µ legal theory of Dār ªulÆ. But his rejection of Islamic state seems to be the result of his negative assessment on the level of Islamic knowledge among Indonesian muslims as well. He says, “We are still in the process of establishing TawƵd (ke-Esa-an Allah) and are not so far from it" and “we must start our social reform from the society which is still in the stage of Jāhilµya, where the people know only TawƵd and nothing more."      Thus, according to his bitter perception, what Indonesian society needs now is not the establishment of Islamic state enacting Islamic laws but the popularization of the teaching of TawƵd through socio-cultural reform based on Islamic universal moral values.

 

 

  21世紀の日本・インドネシア関係の初頭を飾った「味の素」事件において,アブドッラフマン・ワヒド前大統領が「味の素」がハラール(イスラーム法上合法)である,と発言したことは,改めて彼がイスラーム学者でもあったことを思い起こさせ,インドネシアにおける国家とイスラームの関係の正確な認識の必要性を再認識させるものでもあった。

 アブドッラフマン・ワヒド(以後,A.W.と略記)はインドネシア最大のイスラーム団体NU(ナフダトゥルウラマー)の事務総長(1984-99),著名なコラムニスト,民主化運動のイデオローグとして,その政治論は既に内外の多くのインドネシア研究者の注目を集めていた。

 インドネシア地域研究はインドネシア語のみならず,オランダ語,諸地方語の習得等,長い年月を要するトレーニングを必要とするため, 「インドネシア地域のイスラームに関心を持つ研究者は,インドネシアを学ぶうちにその重要性に気づくというケースが多い。逆にイスラームに関心を持つ研究者がインドネシアに取り組むというケースは稀のようである。」(1)と指摘される通り,インドネシア・イスラーム思想に関するイスラーム学からのアプローチは極めて少ない。しかし本稿において明らかにされるようにA.W.の思想は伝統イスラーム学を下敷きにしており,それを参照することによって初めて彼の思想の「独自性」を析出し,同時にその「妥当性」を問うことが可能となる。そこで本稿の目的は,将来のより本格的なインドネシアのイスラーム政治思想研究の準備作業として,次章で見るように現代インドネシアの最も重要なイスラーム政治思想家の一人とみなされるA.W.を取り上げ,インドネシア地域研究を補助ディシプリンとしてその成果を利用しつつも,A.W.が大統領就任以前に宗教と政治について論じたテキストに依拠し,彼の政治観をイスラーム学の視点から分析することにある。

 

.分析の視座

 

  「政治的エリートやイスラーム知識人の間では・・・毀誉褒貶相半ばしている」(2)と言われるA.W.の思想の分析にあたっては先ず,従来の欧米及びインドネシアの研究者の評価を概観する必要がある。(3)

 A.W.の実弟サラフディン・ワヒドは,パンチャシラ(建国5原則)の唯一至高神信仰(Ketuhanan Yang Maha Esa)条項に世俗主義的解釈と宗教的解釈が存在することを指摘し(4),インドネシアの政治地図の中でメガワティと闘争民主党を世俗ナショナリスト,NU(ナフダトルウラマー)をイスラーム・ナショナリストと位置づけた上で,ダクラス E.ラメジ(5)に従ってA.W.を「民主的,世俗的,ナショナリスト」と評している(6)

 ロバート W.ヘフナーは,「A.W.がムスリムが政治に関わってはならない,と信じていたなどとは信じない」(7)と,「文化的イスラーム」と「政治的イスラーム」という二分法の有効性を否定し,民主化に貢献しうる政治的イスラームの一形態としての「市民的イスラーム(civil Islam)」概念を提唱し(8),A.W.をこの「市民的イスラームの擁護者とみなすのが最善であろう」 (9)と述べている。

 またA.W.の政治論のエッセイ集『宗教と国家の関係の分析』の編者のカチュン・マリジャンは序文において,現代のイスラーム政治思想を,(1)イスラームと政治の政教一致,(2)イスラームと政治は別物だが(dibedakan),分離(dipisahkan)は出来ず,相関しており,特に倫理道徳的側面において重なり合う,と考える立場,(3)両者は重なり合わず完全に分離すべきとの世俗主義,の3つに分類した上で,A.W.を(2)か,(2)と(3)の中間の立場と位置づけ,世俗主義者との評価を否定している。(10)またTh.スマルタナは,「インドネシアの多元的社会の現実とイスラーム的見解をいかに調和させるか」との問題に答え,モハンマド・ハサンとアフマド・スカルノの間での二者択一的対立的論争の克服に努め「イスラームとナショナリズムの新しいジン・テーゼを達成した」知識人としてヌルコリシュ・マジドとA.W.の二人の名前を挙げている(11).

 以上の評価を見る限りにおいても,A.W.のナショナリズム,民主主義の擁護については既に評価が定まっているが,イスラームと国家の関係についての彼の思想については先行研究もほとんどなく,なお研究の余地があるように思われる。

 本稿の扱う期間の大半は「新体制」と呼ばれるスハルト時代であり,厳しい言論統制が敷かれており,当然,A.W.の発言も言論統制下の自己規制が働いていたものと考えなければならない。しかし本稿はそうした自己規制の可能性に留意しつつも,思想研究の立場から,基本的にA.W.の言葉を額面どおりに受けとめ,彼が古典イスラーム学の政治理論を,民主主義,ナショナリズム等の近代西欧的政治理念を出来る限り接合すべく努めた,との前提に立ってテキスト解釈を進めることにする。なおイスラームのNU的理解においては,規範的-主体的定式化は原則的にイスラーム学の古典に依拠して行われるため,その分析にあたっては,シャーフィイー派法学の原典を参照する(12)

 

.インドネシアのイスラーム

  A.W.によれば東南アジアのイスラーム指導者たちは,イスラーム法を立法の基礎としようとの理想を抱かず,「人間の作成した現代の法律の至高性を承認している」(13)

 そしてA.W.はパキスタン,バングラディシュ,マレーシア,エジプト等においては,イスラーム法の施行の障害が非イスラーム勢力によって引き起こされているのに対して,インドネシアではイスラームの「脱イデオロギー化(meninggalkan idologi Islam)」がイスラーム運動(NU)の中から自生的に生じたことがインドネシアのイスラームの特徴であるとする。(14)

 そしてこの特殊東南アジア的,あるいは特殊インドネシア的イスラームは,以下に見るようにこの地域の歴史の産物に他ならない。A.W.はイスラーム到来以前からのヌサントラにおける政教関係を総括した後,いかなる民族も自らの歴史を完全に離れて新しい発展を遂げることはできないが故に,歴史を知ることは,現在における態度決定のためにも重要であると述べ,タウフィク・アブドッラの議論に依拠しつつ,ヌサントラにおける政教関係の展開は一様ではなく,地方別に以下の4つの類型が存在した,と指摘する。

(1) アチェ・モデル 小さな村が,町,王国の首都に発展したアチェのパレラクやサムデラ・パサイ等。元々,村の段階で,異教徒がおらず,村で行われていた法がそもそもイスラーム法であり,村が王国に発展した時に自然と,そのイスラーム法が国法となった。そこにはイスラーム法と対立する慣習法がそもそも存在しないので,イスラーム法と慣習法の対立も生じ得なかった。

(2) ミナン・モデル イスラーム法にしろ慣習法にせよ強制的に施行しうるような強力な中央集権権力の存在しなかった西スマトラ等で,国家によるイスラーム法施行の試みは社会によって拒絶された。オランダとのパドリ戦争の結果,1836年に,「慣習法(adat)はイスラーム法(syara')に基づき,イスラーム法はクルアーン(Kitabullah)に基づく」との定式化による両者の妥協がはかられたが,実際にはイスラーム法の尊重はリップサービスに過ぎず,慣習法が行われた。

(3) ゴア・モデル イスラーム到来以前に慣習を法制化していた強力な王国が存在し,後にムスリム商人やウラマーなどによりイスラームが齎され,旧来の前イスラーム的慣習を否定することなく,既存の王国が漸進的にイスラーム化していったゴア王国(現マレーシア半島内)等。ここではイスラーム化以前からの確固たる正当性を有する王国にイスラームが浸透していったため,イスラーム法は慣習法を否定せず,両者の衝突も生じなかった。

(4) ジャワモデル 土俗信仰,ヒンドー教,仏教の混淆体系が,今日ではジャワ本来の文化と考えられている宮廷文化となり,公式宗教と並ぶ,影の宗教(agama bayangan)となり,人々は敬虔なムスリム(santri)となるも,ジャワ的王に従うも自由であった。この類型は,マタラム王国成立以来,400-500年の歴史を有する(15)

以上の4類型を挙げた後,A.W.は,ヌサントラにおいて国家と宗教の関係は,国家がイスラームを含む諸宗教に合法性(legitimitas)を授与する替わりに,国民の大半の信ずるイスラームが国家に正当性を付与する,という双方向性を有すものと把握されていたと述べ,こうした歴史的事情の帰結として,「国家はイスラームと敵対しない限り,イスラーム国家となる必要はない」と結論する(Mengurai,109)。

 A.W.は前近代におけるイスラーム国家イデオロギーの不在をインドネシアのイスラームに内在する特殊インドネシア的特徴として把握し,それをヌサントラのイスラーム受容史に即してその必然性を「経験的-客観的」に理論化した。

 そしてA.W.はシャーフィイーが地方的慣習を重んじ,「地方的諸要素をクルアーン,ハディースの聖典の法源に加えて見事に接合した」(Mengurai,88)と述べ,地方的特殊性をイスラーム法学的に擁護し,長年にわたって外来の要素を積極的に受け入れてきたインドネシアの折衷的(eclectic)伝統を肯定しているのである(Mengurai,90)。

 

.ナショナリズムと国民国家

 前章ではA.W.の考える特殊インドネシア的イスラームを説明したが,本章では,インドネシア・ナショナリズムをめぐるA.W.の言説をてがかりに,イスラームの普遍性の問題とインドネシア的イスラームの関係を考える。

 A.W.はインドネシアに輸入されたイデオロギーを(1)世俗主義イデオロギー,(2)普遍主義イデオロギーに大別する。世俗主義イデオロギーとは,「宗教が政治生活を左右する一大要素になるべきではない」との思想であり,ナショナリズム,資本主義,社会主義,共産主義がこの世俗主義イデオロギーに数えられる。

 他方,普遍主義イデオロギーとは,宗教が政治生活の主要素となること,あるいは神権国家を望むイデオロギーを意味する(Mengurai, 83)。

 このようにA.W.にとって,ナショナリズムは世俗主義イデオロギーの一形態であるが,イスラームの普遍主義とナショナリズムの排他主義の論理必然的とも言える矛盾は明確に意識されている。A.W.は言う。「全ての時代,そして人類に通用する宗教の普遍主義は実際にしばしばナショナリズム,あるいは一つの民族がその生を保持するべきだとの見解と衝突する」 (Mengurai,313)。

 より具体的にイスラームの内実を見るとき,その矛盾はますます明白になる。「クルアーンの意味では,『民族(bangsa)』とはただ同じ地域に住む『エスニシティを同じくする者(satuan etnis)』に過ぎなかった。ところが,現代の『国民(kebangsaan)』の理念は別の意味を有している。つまりナショナリズムのイデオロギーに支えられた『政治的統一体(satuan politis)』なのである。そしてこの意味の転換こそが『国民国家(negara bangsa)』なのである。 ・・・イスラームと民族主義とを接合しようとする時の最大の問題は,『超国家的(supernational)』とも言えるイスラームの性格にある。全ての宗教とおなじく,イスラームは人類全体に手を差し伸べており,エスニシティの系譜など顧慮しない。当然,ナショナリズムのイデオロギー構築の中にイスラームの諸価値を挿入することは大変難しい。」 (Mengurai,72-73)

 「イスラームには民族的紐帯の余地はない」として「民族主義(kebangsaan)」の理念を否定する立場を,A.W.は「非常に偏狭な形式主義」と批判し(Mengurai,301-302),ナショナリズムを全面否定してイスラーム国家樹立に固執することは現実性に欠け,逆にイスラームの理念を全て放棄することも,国民の生活にアパシー(政治的無関心)をもたらすので,共に非生産的である,とする(Mengurai,73)。

 そこでA.W.はこの問題の解決に対して,制度論としての理論的解決をいわば棚上げし,機能的アプローチを提唱する。機能的とは,「イスラームが機能する社会の形態がどうであれ,その社会成員の福利を重視する生活観としてイスラームを見ること」(Mengurai,74),つまりイスラームを理想主義的社会国家体制の構成原理としてではなく,いかなる体制の国家においてであれ人類の福祉を増進する普遍的な諸価値を実現する社会倫理,とみなすことを意味する(cf., Mengurai,75-77)。

 1985年の時点では,A.W.は「国民国家」の概念は歴史的に全く新しいため,イスラームはそもそも相当する明確な概念を有しておらず,自分たちの定式化次第である,と述べている。(Mengurai, p.83)

 しかしICMI(インドネシア・ムスリム知識人協会)設立(1990年末)後に書かれた「イスラーム,専制,民主化」においては,A.W.は過去20年の間に,イスラーム諸勢力の「民族/国民(bangsa)」に対する見解が,それ以前とは異なり,以下の二つの考えに収斂し二極化した,と述べる。

 第一は,イスラームが排他的組織になってはならず,イスラーム色を消し,包括的な国民運動に統合されねばならない,との立場で,「国民の諸問題解決に宗教から(dari)取り組む」というスローガンに要約される。

 第二は,国家を通じてイスラームの教えを国民の政治生活の中に反映させるべき,との立場であり,「国民の問題解決に宗教によって(dengan)取り組む」と纏められる。 

 そしてA.W.によると,第一が,NU及びムハンマディヤの取った立場であり(Mengurai,182-183),またそれはA.W.自身の立場と言うことができよう。

 ここには,イスラームとナショナリズムの対立は既に解消され,「国民国家」の存在は自明視されそのアンチテーゼとしてのイスラーム国家は姿を消し,争点は,直接的な国策としてのイスラームの適用か,間接的なイスラームの精神の社会への反映か,つまり前置詞「dengan(with)」と「dari(from)」の微妙なニュアンスの差異程度にまで極小化された,とのA.W.の現状認識を見て取ることができる。

 そしてこのA.W.による「国民国家」の現実の追認は,イスラーム法学が伝統的に政権の分立を容認しており(Mengurai,57),また今日では統一世界イスラーム国家の樹立を唱える者はマウドゥーディー以外にいない(Mengurai,267),との彼のイスラーム法学的認識に支えられているのである。

 

 

.国家と社会

 

  ナショナリズムは西欧近代的「国民国家」の概念の存在を前提とする。しかしそのような「国家」の概念は,「前近代」の東南アジアにもイスラームにも存在しなかった。

 現代アラビア語では国家に相当する単語は「daula(tun)」である。 A.W.はクルアーンにおいて重要であったのは法と共同体であって国家ではなかったことを確認する。

 「社会に対するイスラームの基本概念は法(hukmu)であって国家(daulatu)ではない。・・・イスラームは本来,意図的に『国家(kenegaraan)』概念を洗練しなかった。あるのは『宗教共同体(komunitas agama)』である。『汝らは人々の中に出現さしめられた最善の(宗教)共同体(ummat)である』(クルアーン3章110節)。『最善の(宗教)共同体』であり,『最善の国家(daulat)』でもなければ『最善の共和国(jumuhuriyyat)』,『最善の王国(mamlakat)』でもないのである。」 (Mengurai,86-87)

  れゆえイスラームにおいては,宗教共同体-社会が国家から相対的に自立した権力を有し,一義的なイスラーム法の担い手となる。

 「イスラームにおける『自治(kepimpinan itu sendiri)』の意味を理解するためには,イスラームにおける最大の社会的統一体の概念に目を向けねばならない。その社会的統一体はウンマ,あるいは共同体である。・・・

 このようなウンマの理解が,国家権力(wewenang kenegaraan)だけが権力を独占することを非常に困難にしている。」(Mengurai,230)。

 「イスラームの教えの全てが国家によって法制化されるわけではない。むしろ宗教(イスラーム法)の範疇に入る生の非常に多くの側面は,ただ社会の成員の自覚に委ねられた道徳的指針としてのみ実践されるのである。」(Mengurai,76)

 我々はA.W.の「国家」,「社会」の用語の多義性に注意を払わねばならない。A.W.が,「イスラームと国家(negara)の関係」を語る場合,「国家」によって意味されているのは,「『新秩序政権』によって代表されるもの」である(16)

 「もし宗教(keagamaan)と政治(kenegaraan)の諸問題において政府(pemerintah)と社会の間で権力(wewenang)の分離が生じたなら,本当に国家(negara)は世俗的になるのであろうか? このような権力の分離の意味での世俗化(sekularisasi)は世俗主義(sekuralisme)や世俗化状況(situasi sekuler)とは明確に区別されねばならない。なぜならその前提には宗教と国家の間に全く関係が存在しないからである。」(Mengurai,347)との言葉において,A.W.は「政府(pemerintah)」と「国家(negara)」を慎重に区別し,政教分離が政府と社会の機能分化であるならば,国家自体が世俗国家となるのではない,と述べている。宗教事項から撤退するべき「国家」が狭義の「国家」,即ち「政府」であるなら,そのことは広義の「国家」自体の「世俗化」を必ずしも帰結しないのである。つまりA.W.の用語においては,上位の概念として全体社会の意味での広義の「社会」及び,それと重なり合う広義の「国家」の概念があり,そしてこの広義の「社会」,あるいは「国家」が,狭義の「国家」即ち「政府」と狭義の「社会」である「市民社会」に分化することになるのである(17)

 A.W.は「宗教の分離の問題(Masalah Segregasi Agama)」において,近代化後のインドネシアのあるべき政教関係を,この狭義の国家としての政府と宗教と関係をいかに規定するかに焦点を絞って,以下のように3つに整理して論じている。

(1)宗教生活における政府の権限(tangan pemerintah)を最小化し,宗教運動の政治化を抑止し,政府内の既存の宗教組織も,宗教の独立性確保のために切り離されるべきである。

(2)大巡礼の催行や家族法訴訟等本質的に国家的な問題以外は,現在のような政府の宗教生活への直接介入は廃止し,宗教団体に移管する。

(3)宗教における政府の全ての活動は,現在のような宗教間の分裂を促進する方向でなく,国民統合の強化の方向を志向すべきである(cf., Mengurai,319)。

というのは宗教が国家機構内に組み込まれると宗教生活のダイナミズム,思想の自由,寛容性が失われ,宗教生活の官僚化,セクト主義の弊害が生じ(cf., Mengurai,319-320),また国家の過度のイスラーム化は,宗教の独立性,ダイナミズムを失わせ,国家による宗教のコントロール,操縦を容易にさせるからである(Mengurai,194)。

 A.W.はスハルト政権崩壊後の1998年の『宗教と国家の定式化を求める』において,国家と宗教(イスラーム)の関係に対する対応を(1)統合的(inklisif),(2)現実容認的(fakultatif),(3)対抗的(konfrontatif)の3種に分類している。

(1)統合的とは,イスラームの公的地位を完全に抹消し,イスラームの教えと国家の事柄を関係を完全に無くするものである。ムスリムが国家との関係において,ムスリムであるとしても,それはただ社会の文化的背景がそうであるからにすぎない。

(2)現実容認的と対応は,議会か国民協議会で自派(イスラーム派)が大勢を占めればイスラーム法の法制化を進めるが,さもなければイスラームの教義に反した現状も容認する。

(3)対抗的反応とは,現状を反イスラーム的と断ずる全面否定である(cf., Mengurai,67)。

 この論文においてA.W.は上記の3つの立場に価値判断を下していないが,彼自身の立場はスハルト政権崩壊以前の1992年の時点で書いた『イスラーム,独裁主義,民主主義』の中に表明されている。この論文でA.W.は,イスラーム運動の政府に対する態度を,(1)政権との融和,政権内に入り込むこと自体を最優先し,そのためには民主化や正義の樹立は後回しにするICMI(インドネシア・ムスリム知識人協会)等の立場,(2)改革を優先し,政権への参入は二の次と考えるNUや民主フォーラムなどの立場,の二つの立場があるとした上で,更に後者の改革派の立場を更に,(a)政治-社会的,(b)文化的,(c)社会-文化的,の3つのアプローチに分ける。

(a)政治-社会的アプローチに関しては,A.W.は固有名を挙げていないが,「既存の権力機構への参入の必要を強調」し,「イスラームの利益を信条としイスラーム連帯を紐帯」とする,反-キリスト教,反-華人の排他的アプローチである,と述べている。

(b)の文化的アプローチとは,組織的制度化によってではなく,日常的事柄におけるイスラーム文化の普及,拡大を目指すものである。ヌルコリシュ・マジドの「パラマディナ基金」が,この例にあたるが,A.W.は,非組織的ではあっても排他的であることにおいては,(a)政治-社会的アプローチと同様であると述べる。

(c)の社会-文化的アプローチとは,「思想,文化装置を発展させる態度を第一義に考えながらも,目標とする文化理念に適合的な社会構成のシステム形成の方策によって補完する」ものである。このアプローチは権力機構の内部に入り込むか否かは重要ではなく,むしろNGOや大衆的イスラーム社会団体を通じて,長期的な変革を目指すものでり,A.W.自身の属するNUやムハンマディヤがこの例とされており,これがA.W.自身の立場となるのである(Mengurai,187-189)。

 A.W.によると,このような国家と社会の関係はイスラーム史における常態であり,またウラマーの立場でもあった。「イスラーム共同体は常にその教義の厳格な制度化を拒否してきた。イスラーム共同体が発展したところではどこでもウラマーは,ムスリム共同体の生活を一様に制度化しなかった。カーディー(宗教法裁判官)等の公職に就くウラマーも居たが,政権の外にあった者の方が遥かに多かった。非公式的な指導者として,彼ら(ウラマー)は独立の社会組織を通じて活動出来たのである。」(Mengurai, 256-257)インドネシア近現代史においても,1935年の蘭領東インドの支配の承認,45年の対オランダ・ジハード宣言,1984年のパンチャシラ承認などのNUの重大決定は国家機関としてではなく,あくまでも宗教団体としてなされたものだったのである(Mengurai,349-350)。

 A.W.は、ホメイニーの「法学者の統治」論を否定しているが、A.W.が,「万事の決定者たる大統領(国家元首)が同時にウラマーであることは不可能である」(Mengurai, 84)と述べているのも,ウラマーは国家の外部にあるイスラーム社会の指導者であるべきである,との彼の社会観の帰結であると考えられよう。

 

 

.法学的現状規定

 

 以上,我々はインドネシアの政教関係に関するA.W.の言説を分析したが,本章では,A.W.がイスラーム法学の論理の枠組の中でいかに現状を規定しているかを考察する。

 A.W.は19世紀にイエメンで著されたシャーフィイー派法学書『導きを求める者の望み(Bughyah al-Mustarshidin)』に依拠し,同派では,世界は(1)ダール・イスラーム(イスラーム国家:negara Islam),(2)ダール・ハルブ(戦時敵性国家:negara perang),(3)ダール・スルフ(和平/緩衝国家:negara damai/sangga)に3分されるとし,以下のように述べる。

 「イスラーム国家は外敵の攻撃から防衛されねばならない。なぜならそれは,イスラームのシャリーア(聖法)の国法としての施行を初めとする,イスラームにおける国家の諸理念に由来する規範的,機能的存在だからである。

 戦時敵性国家,あるいは反イスラーム国家とは戦わねばならない。なぜならイスラーム国家の生存にとって危険であり,またそれゆえイスラームのシャリーアの国法としての施行の停止をもたらすからである。

 和平/緩衝国家は防衛されねばならない。なぜならシャリーアは国法として法制化されてはいないが,(宗教法[fiqh],あるいは社会倫理の領域で)その国内のムスリム共同体(qaum)によって実践されているからである。」 (Mengurai,340)

 そしてA.W.によると,NUはこのシャーフィイー派の国家観に基づき1945年の建国時に「パンチャシラをイデオロギーとするインドネシア国家を,イスラーム国家でもなく,イスラームに敵対する国家でもなく,多かれ少なかれダール・スルフ,あるいは和平/緩衝国家のカテゴリーに属するものとして受け入れた」(Mengurai,340-341)のである。

 なぜならパンチャシラは「多くの宗教の信者たちの間に深刻な衝突が生じないための宗教間の交通整理をしているだけ(Mengurai,99)であり,「スハルトもNUの長老たちにイスラーム共同体(umat)にその宗教のシャリーアを実践する権利を保証しており,パンチャシラは信者に各自の宗教的義務を実践する権利を保障しているだけであり,イスラームや他の宗教の上にあるのではない」(Mengurai,92)からである。

 A.W.は「NUのパンチャシラの容認の理由は決して政治ではない。・・・NUはシャリーア的思考に基づいてパンチャシラを受け入れたのである。」(Mengurai,369)とパンチャシラの承認が戦略的決定ではなく,主義主張の原則に基づくものであることを強調し,「NUの辞書によると,我々はイスラームに忠実であるためには,国家に忠実でなくてはならない」(Mengurai,369)と述べる。

 こうして,イスラーム法を積極的に施行しないがムスリムにイスラーム法の実践を保証するとされるパンチャシラ国家インドネシアは,ダール・スルフ(和平/緩衝国家)としてイスラーム法学的に支配の正当性を与えられるのである。(18)

 A.W.はダール・スルフを「完全に達成できないものは,だからからといって全面放棄してならない(Maa laa yudraku kulluhu laa yutraku ba'adluhu)」との法格言(qawāØid)によって正当化しており(Mengurai, 341),一見すると,ダール・スルフはダール・イスラームへの過渡期の次善の状態として位置づけられているように思われる(19)。しかしA.W.は「ダール・スルフの概念は,正しく理解され十分に真摯に展開されるなら今日的問題(tantangan zaman)の多くに答えることができるだけの生産性のある概念である」(Mengurai,348)と述べ,ダール・スルフを現状規定のキーワードと見做しており,ダール・スルフはダール・イスラームへの過渡期という以上にそれ自体として肯定的な評価を与えられている。

 A.W.にとってダール・スルフがダール・イスラームへの過渡期としてではなく,それ自体として正当性を有することは,「宗教の領域において政府が宗教の機能の公式制度化への不当な要求は,シャーフィイー派を奉ずるスンナ派の理解するところの和平/緩衝国家(ダール・スルフ)の原理に背く」(Mengurai,347)と述べ,シャーフィイー派法学に基づき,国家のイスラーム化要求を退けていることのうちにも窺われる。そして「将来において,イスラームのシャリーアに違背していようとも,基本的人権を我々の国法の法源(bahan dari hukum nasional kita)としよう」(20)とのA.W.の言葉も,A.W.が将来にわたってもイスラーム法を国法とする,即ちダール・イスラームを志向する意図がないことを物語っている。

 A.W.の用語においては「国家」の語には広義の「国家」と狭義の「国家」,即ち「政府」の両義があることは既に見た。広義の「国家」としてのインドネシアがイスラーム法学上「ダール・スルフ」として規定されるとするなら,狭義の「国家」としてのインドネシアの政体はどうなるのであろうか。

 A.W.はアリー・アブド・アル-ラーズィクと共に,クルアーンも預言者ムハンマドのスンナも特定の政体の樹立を命じていないと考える(cf., Mengurai,63-64)。「フィクフの法(イスラーム法学)に敵対しない国家の行為(perilaku negara)の形が守られている限り,政府の形式はNUにとって問題とはならない」(Mengurai,333)とA.W.が述べているのもそのためであり,近代西欧的な分類に基づいて政体が共和制であるか,王制であるか,といったことは,国家のイスラーム性にとって本質的問題ではないのである。

 法人概念を有さない古典イスラーム法学において,国家論とはカリフ論に他ならなかった。イマーム(=カリフ)を「国家装置(perangkat)」(Mengurai,53)と訳す時,A.W.もこのイスラーム法学の伝統に従っている。それゆえA.W.がインドネシア共和国をイスラーム法学的にいかに規定しているかは,「ワリー・アル-アムル アル-ダルーリー ビ・アル-シャウカ(軍事力を持つがゆえにやむを得ず認められる統治者)(pemegang pemerintahan sementara dengan kekuasan penuh)」との共和国大統領に関するNUの判断の中に見いだすことができる。A.W.はNUの判断を援用し「インドネシア共和国大統領は承認されなばならない。なぜなら国家は既に存在しており,統治する者が必要であるから。しかしその地位は暫定的なものである(最後の審判の日に至るまで)。なぜなら彼は(カリフ選出の)権限のあるウラマーによって選出されたのではなく,他の手続きによって(地位に就いて)いるので,フィクフの法的観点からは,完全な正当性(keabasahan)を有さないからである。しかし,彼が十分な覇権を有する(berkuasa)ため,彼の権力(kekuasaan)は確定的に正当に実効力を有するのである(tetap harus efektif)。」 (Mengurai,330-331)と述べ,共和国政府の正当性を論証しているからである。

 このようにA.W.は広義の「国家」としてのインドネシアを,イスラーム法学的に,「イスラーム国家」と「戦時敵性国家」の中間にあり,ある種の正当性を認めるべき「ダール・スルフ(和平/緩衝国家)とみなす一方,狭義の「国家」である「政権」についても,欠格ではあるが実効支配ゆえに暫定的に認められた覇者(ワリー・アル-アムル アル-ダルーリー ビ・アル-シャウカ)の統治として,その正当性を承認したのである。

 

 

.インドネシア・イスラーム社会観

 

 以上に見たように,A.W.は思想家としてインドネシアの政教関係を歴史的,社会的に分析すると同時に,ウラマーの一人としてその現状をイスラーム法学的にも規定している。

 覇者の支配の正当性についてはスンナ派法学の伝統であるが,A.W.の法学的現状規定における鍵である「ダール・スルフ」概念に対する彼の理解は法学テキストの考証学的読解に基づくものとは言い難い。そこで本章では,イスラーム法学書の古典としてはジャワに言及のある極めて稀な例であり,A.W.が依拠している『導きを求める者の望み(Bughyah al-Mustarshidµn)』の「安全保障,講和,人頭税章」の該当箇所を以下に訳出し,A.W.の「ダール・スルフ」論と比較検討する。

 

  在住ムスリムが一時であれ,ダール・ハルブの民に対する自衛力を獲得した土地はダール・イスラームになり,その時点以降,その法規定が適用される。もし不信仰者によるムスリムの征服,ムスリムの入国の妨害,ムスリムの追放などにより,ムスリムの自衛力が失われた場合,その時,その地は法規定上ではなく(Æukman),見かけ上(­¹ratan)ダール・ハルブになる。それゆえバタビヤ,いやジャワの大部分が不信仰者以前にムスリムによって支配されていたが故にダール・イスラームであることが知られている。

 (ムハンマド・ブン・スライーン・アル-クルディー・アル-マダニーの設問)

 不信仰の地にムスリムが居住すること(の法的判断)には以下の4つのケースがある。

(1)ムスリムの勝利は望めないが,不信仰(に陥ること)から身を守り,不信仰者たちから離れて暮らすことができるために,(居住が)義務(lāzimah)である場合。なぜならば彼ら(ムスリム)の居住(している限りその)地はダール・イスラームであるが,彼らが逃避すればその地はダール・ハルブに転化してしまうからである。

(2)自らの宗教(イスラーム)を公然と行う(aÃhara)ことができ,その地でイスラームへの改宗が期待できるために,(居住が)推奨される(mand¹bah)場合。

(3)自らの宗教(イスラーム)を公然と行うことはできるが,その地でイスラームへの改宗が期待できないために,(居住の)自粛が望ましい(makr¹hah)場合。

(4)自らの宗教(イスラーム)を公然と行うこともできないために,(居住が)禁じられる(maÆr¹mah)場合。

 最後のケースの場合,もし宗教(イスラーム)とイスラーム刑法(Æud¹d)等のムスリムの諸法規を公然と行えば,不信仰の統治者がその地をイスラームの裁きに委ねずかえってその地を蹂躙し,その地が荒廃させられムスリムが殺戮されるような場合には,彼ら(不信仰者たち)の許に居住することは禁じられ,逃避が不可能で(居残が)大目に見られる者以外は逃避が義務となる。・・・(21)

 

 引用箇所には,「ダール・イスラーム」と「ダール・ハルブ」の語しか現れず,「ダール・スルフ」の語は用いられていないが,それが本来の古典イスラーム法学の用語法である。「ダール・スルフ」とは,ダール・ハルブの下位カテゴリーであり,引用文中では,イスラーム法的にムスリムの合法的居住が可能な(1)から(3)までの場合がほぼそれに当たるが,定義としてはムナウィル・シャザリの「非ムスリムが(多数派として)住み支配しているが,ダール・イスラームとの間に友好条約が締結されている土地」(22)との定義がより正確である。

 つまりダール・スルフとは,第一に非ムスリムが支配者として君臨する土地であって,しかしながらダール・イスラームと休戦協定があるか,少なくとも直接の交戦中ではないかで,ムスリムに宗教的自治が許されている場合を言うのである。

 つまりダール・イスラームとの外交関係を今は不問に付したとしても,ダール・スルフは非ムスリムの支配地である,という点において,オランダの植民地支配下には適用可能であっても,独立後のインドネシアについては適用は難しい。また『導きを求める者の望み』が「イスラーム刑法等のムスリムの諸法規」と明言しているように,イスラーム刑法の適用の有無がムスリムによるイスラームの実践の可否のメルクマールとなっていることからも,A.W.の「シャリーアは・・・その国内のムスリム共同体によって実践されている」というダール・スルフの定義によっても,イスラーム刑法がムスリムの間でも全く施行されていないインドネシアの現状は,ダール・スルフの範疇には入らない。

 またなによりも,イスラーム法学上なるほどダール・スルフは一応の正当性が与えられてはいるが,それはダール・イスラームに戻すべく努力すべき対象,過渡期の存在としてであり,もとよりダール・イスラームに優越するものではなく,ダール・スルフの現状維持のために国家のダール・イスラーム化を拒否するA.W.の議論を正当化するものではない。

 つまりA.W.の「ダール・スルフ」論は,古典イスラーム法学の正しい解釈とは言い難く(23),また国家のイスラーム化の拒絶を導くには十分ではない。A.W.のイスラーム国家化の否定には,ダール・スルフ論以外に,別の論理が必要とされる。

 私見によると,それはA.W.のインドネシアのイスラーム社会に対する冷めた見方の帰結であるように思われる。A.W.はインドネシアのイスラームの固有性を擁護するナショナリストであるが,それは彼がインドネシアのイスラームの在り方を手放しで肯定していることを意味しない。むしろA.W.によると,インドネシア社会はまだイスラームの知識が浸透しておらず,ジャワに初めてイスラームを伝えた9聖人の時代(16世紀)の状況と殆ど変わらない。インドネシアにおける「イスラーム化」が言われて久しい1998年の時点においてもなお,A.W.は述べている。「インドネシアのイスラームはまだ9聖人の時代からそう隔たらない人々に対して(布教のために)闘っている。」 (Mengurai, p.67)

 それゆえ彼の現状認識では,インドネシア社会のイスラーム化は,まだその最低限のタウヒード(唯一神信仰)の確立が求められている水準にある。「我々はまだタウヒード(ke-Esa-an Allah)の確立の段階にあり,そこからさほど離れていない。」 (Mengurai,67)

 「インドネシアの教育部門はイスラームとは名ばかりで,人々はイスラーム方式で生まれ,割礼を施され,結婚し,葬られるが,それ以上にはイスラームについて何も知らない。」(24)それゆえインドネシア社会はタウヒード以外には何も知らない段階にあり,それゆえ社会改造はタウヒードから出発しなければならないことになる。 A.W.は言う。「タウヒード以外の万事において無明(Jahiliyah)としか思えない,他の事は何も知らない社会から,社会改革を行わなければならないのである。」(Mengurai,296)

 A.W.が,唯一至高神の概念さえあれば,そこにはなにがしかのイスラーム性を認めるべきだとの最小限主義(pandangan minimalis)を唱え(Mengurai,65),また「(イスラームの布教の)闘いは最低限に低めなくてはならない(harus diredusir hingga ke batas terendah)」(Mengurai,67)と述べるのも,この現状認識に基づいてのことである。

 イスラーム学において,タウヒードとは神学の基礎であり,神学の理解はイスラーム法を学び,実践する前段階となる。つまり,インドネシアのイスラームの現状がタウヒード以外はすべて無明に過ぎず,まだタウヒードの確立の段階にあるということは,まだイスラーム法を施行することはおろか,それを論ずる段階にもない,ということを含意する。

 このように考えるなら,A.W.が国家のイスラーム化,イスラームの法制化を拒否する理由も理解可能となる。それは現在のインドネシアのイスラーム社会が,施行できるまでにイスラーム法を理解する段階にまで達していない,との認識に基づくのである。

 A.W.の目に映るインドネシアの「イスラーム化」の実態は,,宗教儀礼のみを励行しクルアーン読誦大会等を開催して悦に入って贅沢に耽っているウラマー,異教徒に経済発展で勝つためにイスラームの強化を目指すと称するインテリ,大学のキャンパスやモスクでのオルグ活動の成功に酔いしれる若者たちのあさましい姿でしかなかった。彼らは皆,物質主義に毒されてイスラームの精神性を見失いながら,その自覚さえなく,イスラーム化を成し遂げたと錯覚しているだけに過ぎないのである(cf. Mengurai,244-245)。

 A.W.が国家(=政府)からの市民社会の自立の必要を唱え,イスラーム法の施行をイスラーム社会に委ねるべきであると説くのも,イスラーム社会への信頼に基づくものではない。(25)むしろそれはインドネシアのイスラーム社会がイスラームの理解を欠く「無明」の社会であるとの苦い認識に基づき,イスラームを理解していると錯覚した者たちが国家権力を握ってイスラームに恣意的解釈を施し強権的に適用することからイスラームを守り,自分たち真のウラマーの指導の力が及ぶ「市民社会」の中にイスラームを封じ込め,教育とNGO活動を通じて長期的視野に立って漸進的に真のイスラームの啓蒙を進めていこう,との姿勢の現れであるように思われる。

 

結論

 A.W.は,インドネシアはイスラーム国家とはなるべきではなく,政府は積極的には宗教に直接介入せず,信徒の宗教の自由の保障と宗教間の対立の調整という消極的な役割に甘んじ,イスラームの実践はイスラーム社会に委ねるべきである,とする。そしてそれはパンチャシラ国家の理念でもあり,政府と市民社会の役割分業であり,国家の世俗化とは区別されるべきものである。

 A.W.はパンチャシラ国家の在り方を,インドネシアの歴史的事情に即したものであると同時に,シャーフィイー法学のダール・スルフの範疇に入る正当な統治形態であるとする。そしてA.W.がこのようなイスラーム政治理論に到達した背景には,タウヒード以外の万事において「無明(Jahiliyah)」とのインドネシアのイスラーム社会に対するウラマーの一人としての苦い現状認識があるものと思われる。

 NUはイスラーム学の古典を尊重する伝統派と呼び慣わされているが,その学問的方法論の文献学的に厳密な研究は進んでいない。本研究は,NUの代表的な思想家の一人であるA.W.のイスラーム法に関する言説を,古典法学書と対照することによって,彼のイスラーム法解釈の問題性を浮かび上がらせ,イスラーム団体としてのNUの性格の理解のために,この方向での更なる研究の推進が必要であることを明らかにすることができたと考える。

付記 本研究は,松下国際財団の2000年度の研究助成を得て行った「マレー世界におけるイスラーム復興現象の中でイスラーム法学者が政治思想運動において果たした役割に関する他地域との比較研究」の一部である)

 



(1) 小林寧子「インドネシア・イスラーム研究の半世紀 - 「地域研究」と「イスラーム学」のはざま - 」『東南アジア研究』37/2 (1999), 191.

(2) 中村光男「グス・ドゥルの思想と戦略的方向転換」『外交フォーラム』(2000/3), 29.

(3) マウムン・ムロド・アル-ブレベスィーは,研究者9名のA.W.に対する評価を,ネオ・モダニスト(Fachru Aly, Bachtiar Effendy, Greg Baron, Andres Uhlin),現地主義者(William Liddle),イスラーム近代化(Moeslem Abdurrahman),実質主義(M.Syafi'i Anawr),文化主義(Arief Affandy),新ヒューマニズム展開者(dedi Jamaluddin Malik),と纏めた上で,自らはA.W.を「文化-構造主義者」と規定している。 Cf. Ma'mun Murod al-Brebesy, Menyingkap Pemikiran Politik Gus Dur & Amien Rais tentang Negara, Jakarta, 1999, 339.

(4) Salahuddin Wahid, “K.H.A.Wahid Hasyim, Pancasila, dan Islam,” Sahar L.Hassan, Kuat Sukardiyono, Dadi M.H.Basri(ed.), Memilih Partai Islam, Jakarta, 1998, 231.

(5) Douglas E.RamageはPolitics in Indonesia : Democracy, Islam and the Ideology of Tolerance(1995)において,A.W.に「進歩的,開放的,自由主義的な,並外れた寛容・多元主義イデオロギーの第一人者」との評価を与えていると言われる。 Cf. Hajriyant Y. Thohari, “Politik Islam Generasi Baru Jilid Dua," Memilih Partai Islam, 164.

(6) Salahuddin Wahid, “NU, Gus Dur, dan Megawati,” Memilih Partai Islam, 238-240.

(7) Robert W.Hefner, “Civil Islam and the Challenge of Multicultural Society”, Kultur 1/1 (2000), 86.

(8) Cf. ibid., p.88.

(9) Ibid., p.84.

(10) Kacung Marijian, Ma'mun Muraod al-Brabesy(ed)., Abudurrahman Wahid, Mengurai Hubungan Agama dan Negara, Jakarta, 1999, 11. 以後, 同書におけるA.W.のエッセイの引用注は煩雑を避けるために,本文中にMenguraiと頁数を略記することをもって替える。

(11)  Th. Sumartana, “Politik Islam dan Pluralisme Bangsa,”Abu Zahra(ed.), Politik demi Tuhan, Bandung, 1999, 118.

(12) マウムンは「万事をフィクフ(イスラーム法),とのアプローチ(pendekatan seraba fiqh)がA.W.の思想のキーワードとなる」と述べ,A.W.の思想のイスラーム法への準拠の重要性を指摘するが,その妥当性の検証を行っていない。 Cf. Ma'mun Murod al-Brebesy, op.cit., 159.

(13) Abudurrahman Wahid, “Islam di Asia Tenggara”, Politik demi Tuhan, 197. 但し,東南アジアとして名を挙げている国はタイとフィリピンのみで,マレーシアはむしろパターンに反する例として名が挙がっており,東南アジアの概念は曖昧である。

(14) Cf. ibid., 195-196.

(15) Cf. Mengurai, 106-109, Abudurrahman Wahid, “Hindari Negara Berasumsi Agama,” Imam Anshori Salah(ed.), Islam, Negara, dan Demokrasi, Jakarta, 1999, 46-47.

(16) この図式において,国家=スハルト政権はイスラーム勢力に対立するものとして把握されているが,A.W.自身,1970年代には国軍が敵であっため不可能であったイスラーム勢力の政権内部への浸透が,スハルトのイスラーム化促進政策によって国軍にまで及ぶ国家機構のイスラーム化が進み,国家とイスラーム勢力の関係が複雑化したと考えているため,このような単純な図式的把握の限界もまた認められねばならない。 cf. Mengurai, 189, 286-287.

(17) NUとA.W.の市民社会論については,見市建「インドネシアにおける『イスラーム市民社会論』の二大潮流」『国際協力論集』8/2,(2000),172-175頁参照。なお,見市氏(日本学術研究会特別研究員)からは,本稿の草稿の段階で貴重なコメントをいただいた。

(18) A.W.によると,国家とイスラームの関係については,(a)特殊イスラーム的国家(negara yang khusus Islam),(b)イスラームを公式宗教とするが,それ自体がイスラーム国家ではあるわけではない国家,(c)国家と宗教の関係の憲法上の規定はないが,国家によってシャリーアの実践の権利が与えられている国家,の3類型が存在し,インドネシアは第3類型にあたる。(Mengurai, 291-292)。

(19) マウムンはこの解釈を取る。Cf. Ma'mun Murod al-Brebesy, op.cit., 169.

(20) Sahar L.Hassan, Memilih Partai Islam, 236

(21)ØAlawµ, Bughyah al-Mustarshidµn, Cairo, 1952, 254-255.

(22) Munawir Sjadzali, “Kembali ke Piagam Madinah,” Politik demi Tuhan, 333.

(23) A.W.のイスラーム学の知識には不正確さが目立つ。例えばこの『導きを求める者の望み(Bughyah al-Mustarshidµn)』の著者をA.W.はハサン・アル-ハドラミーと述べているが(cf. Mengurai, 339),正しくはアブド・アル-ラフマーン・ブン・ムハンマド・ブン・フサイン・ブン・ウマル・バー・アラウイー・アル-ハドラミー(1886/7年没)である。またアリー・アブド・アル-ラーズィクの著作名を「Islam wa Qaw±Ôid al-Sulthan」と述べているのは,「al-Islām wa U­¹l al-Åukm」が正しい(cf. Mengurai, p.63)。

(24) Abudurrahman Wahid, “Presiden dan Agama,” Politik demi Tuhan, 302.

(25) それはA.W.は民主主義者であるが,それもまた民衆に対する信頼に基づくものでないことと表裏の関係にある。彼は総選挙を控えた1998年の論考「インドネシアの民主主義の将来」においても「真の民主主義の出現はまだ不可能である」と確信していると述べ,「我々の伝統は健全な政治文化を生み出していない」と断言している。 Mengurai, 221.