イブン・タイミーヤの実践哲学
東京大学大学院人文科学研究科
宗教学宗教史学専門課程(イスラム学専攻) 人 9 0 8 4
中田 考
目次
序章
第1章 研究史
第2章 基礎概念
第3章 言語論、釈義論
第4章 神義論
第5章 行為論
第6章 結論
付録 研究史年表
Bibliography
序章
この論文はIbn Taimiya(d. 728 / 1328)の実践哲学の研究となる。イブン・タイミーヤはイスラームの宗教改革者(mujaddid)[1]とでも言うべき人物であり、サウディアラビヤ建国の元となった18世紀のワッハーブ派運動以来、現代に至る迄イスラームの原点回帰運動に多大なインスピレーションを与え続けている重要な思想家である[2]。また西欧のイスラーム研究者の間でも、不幸な誤解の時代も終り堅実な紹介論文が蓄積され漸くその全貌が明らかになりつつある。しかし哲学、神学批判から法学、クルアーン釈義学に至る膨大な著作と法難(miÆan)、ジハード参加、マムルーク朝スルターンの政策諮問等の波乱万丈の生涯を貫く論理は未だ十分に研究されてきたとは言えない。
筆者は卒業論文に於いてイブン・タイミーヤの政治哲学を扱ったが、その結果彼の政治論が他のムスリム思想家のものと大きく異っていることが判明した[3]。そしてその相違の由来を理解するためには、彼の政治論の基礎にあるものを理解する必要があることが痛感された。
そこでこの論文に於ける我々の目的は、彼の残した著作に即して個々の思想を語ることではなく、むしろ彼の全思想を生み出す元となったもの、或いは彼の生涯をつき動かしたものを明らかにすることにある。我々はそれを仮に実践哲学と呼ぶことにしよう。それが実践哲学と呼ばれるのは行為に関わるポジティブな主張のみが問題とされ、従来問題とされてきた彼のポレミックの詳細に立ち入ることが意識的に避けられたためであり、また実践哲学と呼ばれるのは伝統的イスラーム諸学の領域に囚われないメタ・レベルの問題が扱われるためである。
本稿で提示されるのは問題の性質上あくまでも筆者のイブン・タイミーヤ解釈であり、目指されるのは歴史学や文献学ではなく解釈学となる。
シュライエルマッヘルからディルタイを経てガーダマー、リクールに至る大陸系の解釈学の展開の歴史を跡づける必要はここではあるまい。[4]以下の解釈学に於ける共通の了解を確認しておくだけで足りよう。
「解釈は解釈者と彼が携わる著者の個性が二つの比較できないような事実として 対立してはいないということによって成立するのではない。そうではなくて、同じ生の連関のなかにあるので(ないしは、同じ生の連関のなかにある限り)、両者が、問題になっている。あるいは、論ぜられている事柄に対して同じ生の関係を持っていることによって成り立つのである。テキストのなかで問題であるような、あるいはテキストがそれに向って問われているような事柄に対するこの関係が、理解の前提である。[5]」
「もはやわれわれは、テキストの背後に隠れている他者やその心理的思考を探求すること、として解釈学を定義できず、また解釈というものを、構造の分解にだけ還元してしまうまいとすれば、いったい何を解釈すべきであるのか。それに対して私はこう答えよう。解釈するとは、テキストのまえに展開する世界内存在というものを露呈させることである、と。[6]」
ここで語るのはイブン・タイミーヤではなく私である。イブン・タイミーヤの思想を知りたいと欲する者は自らイブン・タイミーヤを読むが良い、テキストは読まれるべくしてそこにある。私が語るのはイブン・タイミーヤの語ったことではなく語らなかったことである。
とはいえ、テキストの知識が共有されているとは事実上言えない群盲象を撫でるのが如きイスラム学の現状にあっては筆者の解釈のみを語ることは許されまい。従って本稿ではイブン・タイミーヤのテキストを紹介しつつそれに即して筆者の解釈を提示するという方法を採らざるを得ない。しかし解釈の妥当性はイブン・タイミーヤがそれを語ったかは否か、ということに求められてはならないのは言う迄もなく、それが彼に意図されていたかどうか、という問題とも無関係である。端的に言って作者の意図となるものはどこにも存在しない[7]。或いはテキストこそ作者の意図の全てなのである。解釈の妥当性はイブン・タイミーヤのテキストが彼の問題とした事柄についての我々自身の理解として整合的に解釈されうるか否かにかかっているのである。
勿論、それは我々がテキストを恣意的に解釈しても良いということではない。むしろ事情は全く逆である。我々は先ず、テキストが字義通りに真理であるという仮定から出発しなくてはならない。テキストが未知の真理を我々に齎すのでなければ何故我々はテキストについて語るのか。
客観性、普遍性を僣称する「科学」、「実証主義的学問」などという名の我々の時代の先入見がテキストの真理性要求の前に疑問に付されること、つまり我々の歴史的相対性が自覚されること、ここにこそ異文化理解の学としてのイスラム学の存在価値があるのである。
イブン・タイミーヤは解釈(tarjama)に単なる語の翻訳と辞書的説明のレベルに加えて、語られた事柄の真理性の証明のレベルを区別する[8]。
彼のクルアーン釈義はクルアーンの意味が語られている事柄の自己の理解となる迄徹底して遂行される。しかし自己の先入見とテキストの明文が衝突する時、道を譲らねばならないのは自己の先入見なのである[9]。イブン・タイミーヤの哲学、神学、スーフィズムに対する戦いは自己の普遍妥当性、絶対的真理性を主張する理性(maØq¹l)や神智(maØrifa)の名の彼の時代の先入見に対する戦いなのである。人間の理性は有限であり歴史的制約を免れることはできない。啓示の完全な理解は存在しない。その真の意味は歴史に終わり、最後の審判を俟って初めて明かされるのである
イブン・タイミーヤがクルアーン・スンナの釈義に於いて最も強硬な字義解釈主義にたつハンバリー派に属すると同時に中世イスラームにあっておそらく唯一人、万人のイジュティハードの義務を説いた思想家であったことは忘れてはならない[10]。
自己の問題としてテキストの語る事柄を解釈することは恣意性とは無縁である。むしろテキストが文字通りに真実であるとみなされるが故に、我々はテキストに忠実であり、その語る事柄の意味を徹底的に考え抜くことが可能となるのである。
本稿の構成は以下の六章より成る。
第一章では西欧イスラム学に於けるこれ迄のイブン・タイミーヤ研究史を通観する。
第二章ではイスラーム思想上重要な位置を占めイブン・タイミーヤの特徴をよく表わすタウヒード、ファナー、存在の三つの概念が紹介される。
第三章では彼の釈義論、言語論が分析され従来頑迷な聖典墨守者、無知蒙昧主義者などと呼びならわされてきた字義解釈主義の基礎に極めてリアリスッティックで首尾一貫した強靭な理論が存在することが明らかにされる。
第四章では、善と悪に関する彼の議論に即してイブン・タイミーヤによる神義論の解決を見る。
第五章では、アッラーの予定についての彼の議論を手がかりに、その行為論、意志論、人間論が分析される。
第六章では以上の議論からの暫定的な結論が提示され、今後の展望が述べられる。
著者は本稿に於いて殊更にムスリムの立場を主張・擁護することはしなかったが敢えてそれを隠すこともしなかった。
イスラームはムスリムの生の全てを規定しスンニ派信徒は皆アッラーの証人として自らの信ずる真理を証言する義務を負う。
イスラーム研究に於いてムスリムはムスリムたることを止めることはできない。ムスリムのイスラーム研究はそれ自体ムスリム文化の一部であり、イスラム学であると同時にイスラム学の対象とならざるを得ないのである[11]。
ムスリム文化は人類共通の遺産であり、いかなる立場からの研究も拒否されてはなるまい。著者は拙稿で、ムスリムが徒に護教に走ることも信仰を隠すこともなく自然態で語るスタイルを生み出すべく努めた。その当否は歴史の審判を待つよりあるまい。
[1] Umaruddinは宗教改革者の条件を1).宗教、科学、政治上の革命をもたらし、2).独自の思想を説き、3).苦難を耐え忍び大義のために生命の危機も辞さぬ者と規定し、イブン・タイミーヤだけがイスラーム史上完全な意味で宗教改革者の名に値すると言う。
“Ibn Taimµya as a Thinker and Reformer”,p. 726.
[2] Laoust, “Le rformisme orthodoxe des ((Salafiya))”, pp.181-182, Essai, pp. 533-575, “L’influence d’Ibn Taymiyya”, pp. 28-30.
[3]拙稿、「イブン・タイミーヤの政治哲学」(未発表)
[4]便利な概説書として麻生建、『解釈学』。基本文献のリーディングスとしてはO・ペゲラー、『解釈学の根本問題』がある。
[5]ブルトマン、「解釈学の問題」、pp. 287-288。
[6]リクール、「疎隔の解釈学的機能」、p. 192。
[7]作者の意図を解釈の規範に据えようと試みる数少ない解釈学者Hirschに於いてさえ作者の意図の概念は極めて曖昧であり、作者は自己の意識していないことを意味することさえでき、Validity in Interpretation, p.22、又、彼の言う作者には神や詩神も含まれる。p.126.
[8]Naq½ al-man»iq, pp. 97-98.
[9]この点が彼をガザーリーから分かつ。
al-Julainid, al-im±m Ibn Taimµya, pp. 251-254.
[10]as-Siy±sa ash-sharصya, p.167.従って彼のイジュティハードの概念は法律的概念として捉えるだけでは不十分なのである。
[11]筆者の専門とするイブン・タイミーヤ研究に於いても西欧語で書かれたものだけでもムスリムの手になる研究は3分の1を超え、アラビア語、ウルドゥー語のものを含むと半数以上となる。