中田考、「イスラーム解放党のカリフ革命論=Islamic
Liberation Party and its Caliphal Revolution Theory」、『イスラム世界49』、1997年 7月、38-58頁。
イスラーム解放党のカリフ革命論
Islamic Liberation
Party and its Caliphal Revolution Theory
中田 考
NAKATA Ko
ABSTRACT The origins
of the Jihad-revolution theory wide-spread in the current Arab world trace back
to three main sources; (1) Takfµr-Jihad theory by lbn Taimµya (d. 1328), (2) Jahilµya theory by Saiyid Qu»b (d. 1966),and (3) Caliphal revolution theory by ILP (Islarnic Liberation
Party) .
This article analyzes the latest developments of the
caliphal revolution theory by ILP and clarifies its characteristics.
In ILP (Islamic Liberation party) Ùs Weltanschauung, they divide the world into two parts :
one is D±r al = Isl±m (homeland of Islam) , where laws of Islam govern the people and muslim
authorities maintain the security; the other is D±r al = Kufr (homeland of unbelief) where laws of kufr
govern the people and non-muslim authorities maintain the security.
The present muslim world is D±r al = Kufr because laws of Islam do not govern the
people any longer, though muslirn authorities still maintain the security in
the great majority of countries.
In its “ILPÙs Method of Changing (Manhaj Åizb al = Tahrµr fµ al = Taghyµr)” , on which the Jordanian State Security Court based its judgment in the
case of Mu Ùta that ILP had adopted the strategy of violence, ILP divides the process
of re-establishment of the caliphate into three stages:
1 . Stage of cultivation : ILP diffuses its teachings
secretly among individuals.
2 . Stage of interaction with society : In this stage,
ILP propagates this teachings publicly and struggles against current regimes.
But it does not resort to violence, because deposing the ruler who rules by
non-Islamic laws is not obligatory in D±r al = Kufr.
3 . Stage of seizure of power : ILP grasps the power
through request of assistance to various armed forces. ILP invented this third
stage after it had failed to establish the caliphate as scheduled in the forty
years since the party's f oundation.
ILP is duly defined as a Jihad-revolutionary group,
because it shares the conviction that overthrowing of non-Islamic regimes by
force is necessary with other groups.
However, ILP is different from other Jihad-revolutionary
groups in the following two attitudes.
1 . ILP does not regard military confrontation with the
regime as obligatory in D±r al = Kufr, while other
Jihad-revolutionary groups do not differenciate D±r al = Islam from D±r al = Kufr in this respect.
This enables ILP to deal with the regime more flexibly than others.
2 . Different from the other groups which belong to Sunni
ultra-orthodox Salafµ school, ILP has little anti-Shiite orientation. This lack of Sunni
ultra-orthodoxism enabled ILP to organize the Caliph Conference where Shiite Åizb All±h of
1 序
筆者は拙稿〈ジハード(聖戦)論再考〉(1992年)において,アラブ諸国における「水面下での『革命のジハード論』の受容の動きにこそ注意を払う必要があろう[1]」と指摘した。1970年代未以来エジプトの「ジハード団」,「イスラーム集団」の理論家たちによって練り上げられてきた「革命のジハード論」は,90年代に入り,エジプトのイスラーム主義武装闘争派のサークルを越え,アルジェリアの「武装イスラーム集団」,リビヤの「イスラーム戦闘集団」等の反政府武闘争の指導理念となったばかりでなく,アラブ世界全域のイスラーム主義者の間に浸透しつつあり,今や特定の組織の思想ではなく,イスラーム主義者の共有する常識にすらなりつつある。
94年のリヤド国家警備隊施設爆破事件の実行犯4人に理論的影響を与えたとされるイサーム・ターヒル・アル=ムカッタスィー(パレスチナ人)とヨルダンでの獄中でインタビューを行った《アル=ワサト》誌の以下の分析は,革命のジハード論の浸透状況を的確に言い当てている。「アル・ムカッタスィーは,彼の集まりを組織と呼ぶことを拒否している。調書を読む限りでは(爆破犯)4人の若者も同様である。ここに危険が潜んでいる。この思想(革命のジハード論)は,媒体を特定しない『原則』(mabdaÙghair tawass»µ)に立脚している。つまりその思想を抱く者がそれに納得しさえすれば,その結論の判断,決定,実行は,その当人にゆだねられており,組織的な指導部(marjaØ tanõmµ)の指令を必要としないのである[2]。」
私見によると「革命のジハード論」は思想史的には3つの源泉を有する。第1は,ワッハーブ派の解釈を経て普及したイブン・タイミーヤのタクフィール(背教認定)・ジハード論であり,第2は,サイイド・クトゥブのジャーヒリーヤ(無明)論である。そして第3が,本稿で取り上げる「解放党」(通称イスラーム解放党)のカリフ革命論である。
解放党のカリフ革命論は,「革命のジハード論」の先駆としての思想史的意義を有するのみならず,現在も「革命のジハード論」の最も洗練されたヴァリアントとして影響力を強めつつある。本稿の目的は,その重要性にも拘わらず実態が殆ど知られておらず現代の「ハワーリジュ派」とも呼ばれる[3]「解放党」の組織と活動に光を当て,その「革命」思想[4]を思想史的に分析し「革命のジハード論」の系譜に位置づけることにある。
2 解放党の組織と歴史
(1) 解放党とは
解放党は,イスラーム国家の樹立とエルサルムの解放という二つの目的をもって結成された,と言われる[5]。解放党の自己定義によると,解放党とは「政党であり,その実践は政治,その原理はイスラームである。そして解放党は,ウンマがイスラームを自らの課題として引き受けるようになることを目指し,カリフ国家再興,アッラーフの啓示に基づく統治の実現に向けてウンマを率いるために,ウンマの中で,そしてウンマと共に行動する。解放党は政治団体であり,精神修養団体でも,学術団体でも,教育団体でも,慈善団体でもない。イスラーム的思考様式がその身体の精神,その中核,その生の核心である[6]。」
(2) 創立に至るナブハーニーの前半生
解放党の創立者タキー・アル・ディーン・アル・ナブハーニーは,1909年あるいは10年ハイファ近郊のイジュズィム村に生まれた[7]。高名なイスラーム学者でありガーディリー教団のスーフィーでもあった母方祖父ユースフ・イスマーイール・アル=ナブハーニーの薫陶を受ける[8]。28年にエジプトに留学しアズハル高校に入学し,32年ダール・アル・ウルームとアズハル大学を卒業する。同年に帰国し,ハイファの公立学校とイスラーム学校で,イスラーム学を教える。38年にはハイファ・イスラーム法廷書記長(raÙµs kitab b±sh k±tib)に任命され,40年には同判事補に昇進する。45年にはアル・ラムのイスラーム法廷判事,48年にはエルサレムのイスラーム法廷判事(上告法廷審査員)に任命される。50年にはエルサレム地方議会立候補のため判事を辞職したが,結果的には落選する。判事辞職後,ナブハーニーはエルサレムからアンマーンに移住し,51年には再びイスラーム学部の講師となるが,翌年には解放党の結成のために辞職する[9]。解放党結成以前ナブハーニーはハサン・アル=バンナーと接触を持ち,サイイド・クトゥブの影響を受けたが,ムスリム同胞団に加入したことはなかった[10]。一方でナブハーニーはアラブ民族主義者であり,バアス党のアブド=アッラーフ・アル=タルの腹心でもあったが,バアス党においては目立った活躍はしなかった[11]。またナブハーニーはエルサレムのムフティーであったファイサル・アル=フサイニーとも関係を有しており,フサイニーは解放党結成にあたってナブハーニーを財政的に援助したとも言われている[12]。
(3) 創立
1949年ナブハーニーはエルサレムで解放党を結成したが,政党結成許可の申請を試みたため50年と51年の2度にわたって逮捕された[13]。52年には解放党の結成を公式に宣言し内務省に政党登録を申請するが,翌53年に却下された。53年に内務省に提出した申請書書類では,党首はナブハーニー,ダーウード・ハムダーンが副党首・書記,ガーニム・アブドが会計局長となっており,民主的運営が謳われていたが,申請却下後,党の運営は独裁的になっていった。54年には解放党はヨルダン国会議員選挙に5名の候補を立てて参加したが,当選したのはアフマド・ダーウールのみであった。ダーウールは56年の選挙でも解放党から唯一人再選されたが,58年には他の議員8名と共に議席を剥奪され,次いで2年の禁固刑の判決を受け投獄される。以後,解放党は選挙に参加していない。
政党登録申請の拒否後,解放党は公的には政治活動を禁じられており,モスクでの説教の禁止,教職からの追放,逮捕,国外追放などヨルダン治安当局から様々な弾圧を被った。ナブハーニー自身は53年にはダマスカスヘの移住を余儀なくされ,間もなくレバノンに再移住した。レバノンでは58年までは政治的自由を享受したが,その後治安当局からの締め付けが厳しくなり,62年に至るまで潜伏生活を送った。55年,58年,64年には,エルサレムでの活動は休止状態に追い込まれた。解放党の中央指導部は60年代初頭にエルサレムからアンマンに移ったが,実務機関は53年にナブハーニーと共にダマス,56,59年にはベイルートに移っていた。ナブハーニーは77年に死亡するが,入院時にも偽名を使っていたと言われる。なおナブハーニー逝去の後,アブド・アル=カディーム・ザッルームが党首の座を継ぎ,現在に至っている。
解放党は長年,非合法組織として地下活動を強いられていたが,ヨルダンで政治自由化が実現した89年,解放党にも政治自由が与えられた。そこで35年以上の沈黙の後に,解放党のスポークスマンのアター・アブー・アル=ラシュタが内外の記者を集めて自由な記者会見を行ったのである[14]。
(4) 組織と活動
解放党はシリア,イラク,レバノン,トルコに地域(mah±llµya)支部をおくが,中央指導部は,常任の監督官,あるいは査察使派遣を通じて,地域支部の活動を指導する[15]。
大都市には5名から8名の構成員からなる地区(iq1µmµya)委員会が設置される。地区委員会の日常業務は教育,党員リクルート,支部との連絡調整である。党員資格は(1)ムスリムであり,(2)15歳以上であり,(3)他の政治組織に所蔵していないこと,であるが,通常3年にわたる解放党の原則の学習を終え,保秘能力の試験を受けた後に入党が許可される。党の財政は党員からの寄付及びナフハーニーの著者の売上によって賄われる。党の活動には,モスクでの説教,議会活動(58年迄)。学校での教宣,出版物の配布(53~55年には新聞発行),学習サークルの設立,一般集会の開催などがある。学習サークルは,週例会と月例会があり,週例会は1回2時間であり,初心者は『イスラムの制度(Niñm al=Isl±m)』,『政党構成(al=Takattul al=Åizbµ)』,『解放党の諸概念(Maf±hµm Åizb al=TaÆrµr)』の順に党の教科書を読み進み,月例会は1回1時間から2時間であり,今ての常員に出席が義務づけられる。
また解放党は民衆に対するイスラーム教育,党の思想の教宣に加えて,社会・経済学者,政治家,国家元首などの「有力者(ah1
a1=Æall wa a1=Øaqd)」への教宣を重視する。というのは,これらの「有力者」にクーデターを勧め,成功すれば解放党指導部の権力を委譲し,カリフ国家樹立を宣言するのが,解放党の政治的目標だからである[16]。
(5) 反政府活動
解放党は現体制の打倒とカリフ国家再興を唱導するため,アラブ諸国では活動を禁止され,様々な弾圧を受けている。
60年イラクでは,イラクの解放党の指導者の一人アブド・アル=アズィーズ・アル=バドリーが政府当局の拷問により殺害された。彼はイラク現代史上最初のイスラーム運動の殉教者となった[17]。69年にはヨルダン,72年にはイラク,73年にはエジプトで,その他にもチュニス,アルジェリア,スーダンでもクーデター未遂事作を起こした[18]。83年にはチュニジア,リビヤ,85年にはエジプトで解放党貝が逮捕された。チュニジアでは非合法団体加盟容疑で34人の党貝が逮捕されたが,うち19名が軍人であった。チュニジアではその後小康状態が続いた。90年,91年には再び弾圧が強化された[19]。91年には解放党はロンドンでアメリカ軍によるイラク攻撃の非難とカリフ国家宣言のために会議を開催する[20]。
ヨルダンでは93年,フサイン国王暗殺未遂容疑で,解放党幹部2名,ムウタ大学上官学生5名,国王親衛隊将校1名が逮捕された[21]。
93年5月にはサウディアラビアで反体制組織CDLR(イスラーム法的権利擁護委員会)が結成されるが,そのスポークスマン・ムハンマド・アル=マスアリーは元解放党員であった。CDLRは結成と同時にサウディ治安当局の弾圧を受け,アル=マスアリーを始め,主だったメンバーは逮捕される。94年には釈放されたアル=マスアリーらがロンドンに移住し,CDLRはロンドンを本拠に活動を再開する[22]。解放党はロンドンで94年,95年とカリフ国家宣言のための「カリフ会議」を開催し,いずれも内外から約1万人の参加者を集めた[23]。
96年には解放党英国支部長バクリー及び解放党との共闘路線を取るスポークスマンのアル=マスアリーとムスリム同胞団系のサアド・ファギーフ所長が衝突し,アル・ファギーフはCDLRを脱退し,以後CDLRは解放党色を強める[24]。バクリーは解放党から独立し「亡命者(muh±jir¹n)」と組織する。この「亡命者」は,解放党,CDLRと緊密な関係を保ちつつ,解放党から「カリフ会議」を引き継ぎ,エジプトのジハード団,イスラーム集団,「アフガーン・アラブ」の指導者ウサーマ・ブン・ラーディンらスンナ派イスラーム主義武装闘争派,及びアルジェリアのFIS,パレスチナのイッズ・ディーン・アル=カッサーム部隊,レバノンのヒズブ・アッラーなどを糾合し,イスラーム主義諸組織の合作を図っており,解放党の分派というよりも,別動隊のように思われる[25]。
3 解放党の思想
(1) 一般的特徴
解放党は政党である。それゆえ解放党の研究領域の重心が広義の政治にあるのはむしろ当然である。しかしその一方で解放党は伝統イスラーム諸学についても明確に独自の立場を打ち出している。
神学に対しては,ナブハーニーは,その主著『イスラーム的人格』の中でそれをクルアーンとスンナからの逸脱,外来の哲学の影響の産物である[26]とした上で,「神学者の方法論の誤り」と題する章を立て,「それ(神学者の方法論)は正しくない方法論であり,その実践は信仰の強化も齋さないばかりか,考察も考察の深化も齋さない[27]」と述べ,全面否定の立場を取る。
またナブハーニーは,法学に対しては,法学祖たちとその直弟子の時代を「イスラーム法の黄金期」とした上で,「イスラーム法学の没落」と題する章を設け,「あらゆる手を尽くして,それぞれの祖師,それぞれの学派の学者たちに従うこと,自分たちの学派の各論,原論を擁護することへの専心」によって,「法学者たちが,第一の源泉であるクルアーンとハディースから逸脱し」,その結果の法学の衰退が生じた,と述べ,学派主義を批判している[28]。この解放党の神学及び,法学の学派主義の批判は,現代のサラフィー主義者と共通する特徴である。しかし以下の3点で解放党は,イブン・タイミーヤ(d.1328)の流れを汲むワッハーブ派等の現代のサラファー主義の主流の「スンナ派超正統主義者」とは異なっている。第1に,ナブハーニーが,シーア派12イマーム派法学祖ジャアファル・サーディク(d・765)とシーア派ザイド派渚学祖ザイド・ブン・アル・ハサン(d.740)をスンナ派法学祖アブー・ハニーファ(d.767),マーリク(d.795),アル=シャーフィイー(d.820),イブン・ハンバル(d.855)と同列に並べている点である[29]。サラフィー主義「スンナ派超正統主義者」は,ジャアファル・アル=サーディクやザイド・ブン・アル=ハサンを権威ある法学祖とは認めない。第2に,4法学祖を含めて,過去の法学者の見解を殆ど引用しないことである。「スンナ派超主統主義者」は,4法学祖,及びイブン・タイミーヤ,イブン・アル・カイイム(d.1350),アル・シャウカーニー(d.1834)等の過去の「スンナ派超正統主義者」の先人たちの「正統」な継承者であるとの自らの立場を立証するために,先人たちの見解の引用を多用する議論のスタイルを取る。第3に,スーフィズム批判の欠如であり,解放党にはスーフィズムについての言及は一切ない。スーフィズムは伝統イスラーム諸学の要石であり,伝統イスラーム諸学の全領域にわたる「自前」の再構築を試みている解放党のスーフィズムに関する沈黙は,スーフィズムを主要敵とする現代のサラフィー主義「スンナ派超正統主義者」の執拗なスーフィズム批判と対比する時,顕著な相違をなしている。
(2) 解放党の政治理論
解放党の憲法草案の総則第1条は,「イスラームの信条(Øaqµda)が,国家の基礎である……」と,イスラーム国家がイデオロギー国家であることを明言する[30]。統治制度については,第15条において「統治システムは単一(waÆda)システムであり,連邦(ittƱdµ)制度ではない」と述べ,連邦制を否定することによってイスラーム国家の単一性を再確認し,第20条では「(1)主権(siy±da)はイスラーム法(sharØ)に帰属し,人民にではない。(2)権力(su1»±n)はウンマに属する。(3)ただ一人の国家元首の任命がムスリムの義務である。(4)イスラーム法の立法化(tabannµ aÆk±m sharصya)は国家元首のみの大権であり,彼が憲法ほか全ての法律を制定する。」との4大原則を定める[31]。
解放党の政治理論においては,この4原則はイスラーム国家の必要不可欠な構成要件であり,そのうち1つでも欠ければ,その国家はもはやイスラーム国家ではない[32]。国家元首については,「国家元首こそ,権力とイスラーム法の執行に於いて,ウンマの代理となる。」(第29条)ちなみに元首の資格は(1)男性,(2)ムスリム,(3)自由人,(4)成人,(5)正気,(6)義人であることの6つであり(第38条),シューラ(諮問)議会が元首候補名簿を提示し選挙を行い最多票を獲得した者が元首に選任される(第38条)。
またムスリム国民と元首の関係は「理性を有する成人ムスリム男女は国家元首選出とそのバイア(忠誠誓約)の権利を有するが,非ムスリムはその権利を有しない。」(第31条)。「バイアが締結される人々のバイアによって国家元首契約が締結されれば,その時点で,他の者のバイアは『服従のバイア』であって『締結のバイア』ではなくなり,反逆の可能性の考えられる者全員にそれ(服従のバイア)が課される。」(第32条[33])解放党の目的はカリフ国家の再興にある。解放党憲法にあるイスラーム国家とは即ちカリフ国家であり[34],元首とはカリフに他ならず,カリフこそがイスラーム国家の要である。「解放党は,カリフの付随物とみなされる[35]。」解放党の政治論においては,国家とはカリフに他ならないのである。「国家の元首とは,即ち国家であり,国家に属する全ての権限を有する」(第39条)のである[36]。「カリフの存在の重要性(ahammµya a1=khil±fa)を論証するために,解放党は『(カリフヘの)バイア(忠誠誓約)無しに2晩を過ごすことはムスリムには許されない。ムスリムがカリフ不在のまま3日間を過ごせば,一人のカリフにバイアを行うまで,全貝が罪に陥ることになる。そしてカリフの任命に努め,その任命に至るまで行動を続けない限り,この罪が免じられることはない。』と主張する[37]」。
このように解放党の国家論はカリフ論に集約され,従ってその革命論もカリフ論に基礎を置いているのである。
4 解放党の革命論
(1) 《解放党の変革の方法》
1994年1月16日,ヨルダンの国家治安法廷は,解放党によるフサイン国王暗殺未遂事件,いわゆる「ムウタ事件[38]」の裁判で,10人に死刑,3人に終身刑4人に5年の禁固刑を言い渡した。この裁判で,解放党の武力闘争への路線変更を示すものとして,容疑者の有罪の証拠の一つとして採用されたのが,解放党の出版物《解放党の変革の方法(Manhaj
Åizb al=TaÆrµr fµ al=Taghyµr)》である。解放党は,裁判所による《解放党の享革の方法》の文脈を無視した断章取義の引用が同書の内容を歪曲するものであると非難する。つまり「為政者の不信仰が明らかになった場合に武力による放伐(mun±badha bi-saif)が許される」との趣旨の箇所は引用しながら,不信仰の為政者の放伐が許されるのはイスラーム国家においてのみであり,今日のイスラーム世界にはイスラーム国家は存在しない以上,「ムスリムの国々の現在の為政者たちの武力による放伐は許されない(l± yaj¹z)」,との趣旨の箇所を無視している,と解放党は判決に反論を加えているのである[39]。そこで本章では,《解放党の変革の方法》の革命の論理を明らかにし,解放党の路線
変更の有無を検証する。
(2)「イスラームの居住圏」と「不信仰の居住圏」
解放党の政治論によると,今日のイスラーム諸地域は,イスラーム法上,全域が「不信仰の居住圏(d±r al=kufr)」・あるいは「戦争の居住圏(d±r al=Æarb)」とみなされる。「不信仰の居住圏」とは,「イスラームの居住圏(d±r al=Isl±m)」の対立概念である。「イスラームの居住圏」とは,「イスラームの法規に則って統治され,その治安がイスラームの安全保障(am±n),つまりムスリムのスルタンの安全保障に基づいている居住圏」であり,逆に通用している法がイスラームの法規でないか,あるいは非ムスリムによって治安が保たれているなら,その土地はたとえ住民の殆とがムスリムであろうとも「イスラームの居住圏」ではなく,「不信仰の居住圏」である[40]。 そして今日のムスリム諸国は,「イスラームの居住圏」の第2条件である「ムスリム権力による治安の維持」は,その絶対多数において満たされているが,第1条件「イスラーム法による統治」実現されていないために「イスラームの居住権」ではなく「不信仰の居住権」なのである[41]。
解放党はイスラーム的生活,ムスリム社会の再現にはカリフ国家の再興が不可欠であり,従ってカリフ国家の再興,カリフ任命は,ムスリム共同体にとって「死命を制する課題(qa½µya maµrµya)」と考える[42]。カリフ国家の再興の実現は個人の努力のみにのっては不可能であり,集団行動が必要である。また必要とされるのは政治的行動であって,慈善活動,禁欲修行,啓蒙警世,勧善懲悪,修身,世直しの訴えなどとは厳密に区別されなくてはならい[43]。ウンマの死命を制する課題であるカリフ国家再興に従事する「政党」としての解放党の存在が要請される所以である。
(2) 革命の方法論
解放党は,唯一の場合を除き,為政者の放伐を認めない。それは背教であり,為政者の背教とは,不信仰の諸法規に則る統治である。「為政者が明白な不信仰を示した,つまり不信仰の諸法規に則って統治を行うか,あるいは域内に不信仰が蔓延するのを放置した場合には,その為政者との戦闘,彼に対する武装蜂起(ishh±r sil±Æ),奪権闘争(mun±zaØ Æukm)が義務となる[44]。但し,放伐が義務となるのは,放伐が可能であり,かつそれが「イスラームの居住圏」においてである場合のみである。「為政者に対する武装蜂起,戦闘,奪権闘争が義務となるのは,蓋然的にであれ為政者を排除する力を有する場合のみである。また為政者が明白な不信仰を示した場合に,為政者への武装蜂起,戦闘が義務となるのは,その地が『イスラームの居住圏』であり,イスラームの諸法規が施行されていた場合である。…中略…もしその地が『不信仰の居住圏』であり,イスラームの諸法規が施行されていない場合には,その地のムスリムを支配する為政者の排除は,『助勢(nura)』の方法によることになる[45]。…」ここで言う「助勢」の方法とは,「不信仰の居住圏」の「イスラームの居住圏」への転化のための3つの段階の最終段階で採られる方法論である。
解放党は,マディーナにおけるイスラーム国家建設にいたる預言者の足跡の分析から,イスラーム国家建設の過程を以下の3つの段階に分ける。第1は「啓蒙(tathqµf)」段階であり,ムスリム個人個人に党の思想を広める。文化面に限定され,党の原則を理解した個人により党組織(khtla)ができれば第2段階に移行する。この第1段階での教宣活動は秘密裏に行われる。
第2段階は「対社会活動(taf±Øul maØaumma)」段階であり,①サークル文化活動,②公開文化活動,③イデオロギー闘争,④政治闘争,⑤公共福祉活動などを行う。この第2段階では教宣活動は公然と行われる。
第3は,「奪権(istil±m Æukm)」段階であり,教宣活動の庇護とカリフ国家樹立・政権奪取のために,実力者(q±dir¹n)への「助勢要請(»alab nura)」を行う[46]。
第2段階における,政治闘争にはイスラーム世界に影響力を維持している異教徒の植民地主義諸国家との闘争と並んで,アラブ・イスラーム諸国の支配者との闘争も含まれる。しかしこの段階での政治闘争は,「為政者たちに対する実力行使(aØm±l m±ddµya)には及ばない」。それはマッカにおいては(平和的)宣教のみしか行わなかった預言者ムハンマドに倣ってのことである[47]。
(3) 助勢要請
《解放党の変革の方法》は,第1段階,第2段階に加えて,第3段階,即ち,「奪権」段階,「助勢要請」段階を考えるに至った理由を,「社会とウンマが戦いを前にして停滞してしまったため,党が預言者の足跡を改めて再検討した」結果,と述べている[48]。解放党は当初,カリフ国家再興に要する期間を,預言者が宣教を開始してからマディーナにイスラーム国家を建設するまでの13年と設定していたとも言われ[49],またナブハーニーはカリフ国家再興には30年は要しない,と語っていたとも言われる[50]。バグダーディーは,「助勢援助」の対象は,解放党による奪権を実現させるものでありさえすれば,誰でもよく,国家元首,部族長,軍部などで有り得る,と述べている[51]。
カリフ国家の再興のための奪権は,最低でも現行の国民国家体制の枠組みにおける「国家」のレベルでの権力の掌握であると考えられる。というのは1960年の時点でナブハーニーは,以下のように述べているからである。「イスラーム世界の現存のいかなる国(qa»ar)も,カリフにバイア(忠誠誓約)を捧げる資格があり,それによってカリフ位は締結される。それゆえイスラーム諸国の一カ国がカリフにバイアを行えば,彼のカリフ位は締結される。そしてその(カリフ在住め)国の国民のバイアによってカリフ位が締結された後には,彼に服従のバイアを行うことが,全てのムスリムの義務となる。それはその国(qa»ar)がエジプト,トルコ,インドネシアのような大国であろうと,カタールやカメルーンのような小国であろうとも同じである[52]」。
カリフ国家再興が「国家」権力の奪取を前提とする以上,「国家元首」以外の実力者をも視野に入れた解放党の「助勢要請」は,クーデターによる国家権力の奪取の可能性を排除するものではない。従って《解放党の変革の方法》が,イスラーム国家不在の現状での,「為政者たちの武力による放伐は許されない」としている,との解放党の主張は説得力を欠くように思われる。というのは,同書が否定しているのは,非イスラーム国家における背教の為政者の放伐の「義務」であって,その「合法性」ではない,つまり,非イスラーム国家においては放伐が義務ではなくとも,必ずしもそれが許されないことにはならないからである。またなるほど,同書は第2段階の対社会活動の政治闘争は,実力行使に及ばない,と明言しているが,第3段階の「助勢要請」については何も述べていない。そして解放党が,カリフ国家再興過程論に第3の「助勢要請」段階を導入したのは,当初の予定期間内のカリフ国家再興の失敗による深刻な理論的危機に直面し,2段階論の見直しを迫られてのことである以上,「助勢要請」は,第2段階の政治闘争とは質的に異なる行為でなくてはならず,従って第3段階の「助勢援助」を第2段階の「非武力」政治闘争の延長上に位置付けることにはむしろ無理があるのである。また解放党の分派である「亡命者」のバタリーは「助勢援助」を直裁に「軍事クーデターを実行するための武装勢力(q¹w±t musallaÆa)への助勢要請」と説明している[53]。
以上の考察から,解放党のカリフ国家再興論への「助勢要請」段階の導入は,カリフ国家樹立の具体的手段としてクーデターによる奪権に焦点を定めたものと解すべきことが明らかになったと言えよう。但し,《解放党の変革の方法》が,軍事クーデターに期待をかける解放党の立場を明らかにしているとしても,それが解放党の路線変更と言えるか否かは微妙である。なぜならば軍事クーデターへの期待が事実であったとしても,その主体はあくまでも軍部であり,解放党自体は武装闘争には手を染めず,啓蒙,教宣活動に専念しているとも考えられ,その意味では,解放党は従来通りの非武装闘争路線を貫いているとも言えるからである。
5結論
バタリーは「(我々)イスラーム主義諸集団は全て,不信仰の体制の実力による打倒の必要については,完全な一致を見ている[54]」と述べている。解放党は,現代のイスラーム世界を「不信仰の居住圏」とみなし,カリフ国家再興のために現体制の打倒を訴える。それゆえ解放党のカリフ国家再興論は「革命のジハード論」の一変種と呼ばれてしかるべきであろう。解放党と他のイスラーム主義武装闘争派の合作は,この現状認識と闘争目標の共通性によって初めて可能となったのである。一方で,不信仰の体制の打倒を目標としながらも,解放党は他のイスラーム主義武装闘争派とは自覚的に区別された戦術を採っている。バタリーは以下のように述べている。
「カリフ会議では,『亡命者』運動は,『助勢要請の準備段階としての啓蒙』,即ち『大衆の啓蒙,次いで軍事クーデターを実行するための武装勢力への助勢要請』の諸潮流を代表し,エジプトの『ジハード組織(tanõm)[55]』とウサーマ・ブン・ラーディンのジハード組織は『対決(muw±jaha)』,即ち『権力と対決』路線の諸団体の思想を代表する。……『ジハード組織』は,諸政府,諸体制と打倒のために,権力との製法(muw±jaha)路線を採る。…中略…『亡命者』と『解放党』は権力との対決路線は採らず,いかなる衝突(ad±m)も起こさず,『武装勢力への助勢要請の準備段階としての啓蒙路線』を採るのみである[56]。」
バタリーの言葉が正しいとすれば,解放党は,軍事クーデターによる奪権を目標に掲げてはいるが,現時点ではまだ権力との衝突を避け,大衆の啓蒙に活動に専念している,と考えられる。
解放党と『ジハード組織』のこの戦術の違いは,解放党の独自の「不信仰の居住圏」論に由来している。即ち,解放党と『ジハード組織』は,イスラーム法に基づく統治の不在によるイスラーム国家の不在の現状認識を共有する。しかしイスラーム法に背いた統治を行う「背教」の為政者の放伐の義務に「イスラームの帰住圏」と「不信仰の居住圏」の間での差異を認めない「ジハード組織」と異なり,解放党は,背教の為政者の放伐は「イスラームの居住圏」においては義務であるが,「不信仰の居住圏」では義務ではないと考える。この法学上の立場の違いが,解放党をして,現体制により「柔軟」に対応することを可能ならしめているのである。
また解放党は即述のように,「ジハード組織」などのサラフィー主義「スンナ派超正統主義者」と比べて党派性が薄い。これはサラフィー主義者のネットワークを越えたイスラーム主義運動との連帯を容易にしており,解放党の「亡命者」が「カリフ会議」の名の下にシーア派のヒズブ・アッラーをも糾合することが出来たのも,この党派性の薄さゆえと思われる。イスラーム主義武装闘争派の活動が国際化し,カリフ国家再興闘争の大同団結へと収叙しつつある現在,カリフ国家再興を存在理由として一貫した活動を続けてきた解放党の理論と行動をよりいっそう注意深く見守る必要があろう。
別表:文献リスト
解放党の出版物はナブハーニーを中心とした党員の共同作業の色彩が強く,著者名はそれ程重要ではないが1,本稿では便宜上名義上の著者別に並べる。
ナブハーニーの作品(1)から(8)までは1949年から52年までの間に出版されている2。但しal=Shakhµya al=Ial±mµyaについては,52年この初版の後,翌53年に同じ題名で全く違った内容の全面改訂版が出版されている。ナブハーニーの著作リストはウバイディーの前掲書に拠る3。但しUsusu al=Nah½a はバグダーディーがナブハーニーが52~53年の間に出版したとしている著作であり,Muqaddima al=Dust¹r au al=Asb±b al=M¹jiba la-hu, Maf±hµm Siy±sa Åizb al=TaƵr(バグダーティーではMaf±hµm As±sµyaとなっているが誤植と思われる), NaÃar±t Siy±sµya, SurØa al=Badµha al=Tafkµr の出版年もバグダーディーの前掲書に(3)よる。ナブハーニーの著作以外の文献は,ウバイディーが前掲書中に名を挙げているa1=Sabb±tµnのTarµq al=ØIzzaを除き筆者が収集したものである。またThe Rode to Victoryの巻末の解放党の文献リストはアラビア語文献23冊の英文題名を挙げているが,Presence
of MindとHizb ut-Tahrirはアラビア語の原書の存在を確認出来なかった。
マフムード・アル・ハーリディーは正規の党員ではないと言われるが,参照文献の大半がナブハーニーの著作であることからも,解放党系の思想家であることは間違いない。80年代後半から始まるとみられる解放党の英語の出版活動の開始は,5億人の人口を抱えるインド亜大陸とマレー語世界の方が人口1億6千万に過ぎないアラブ世界よりカリフ国家樹立の前衛たるにより相応しいと考えるウマル・バタリーの考えを反映しているものと思われる。というのはインド亜大陸,マレー語世界ではアラビア語より英語の方がより通用度が高いからである。バタリーは85年にロンドンに移住し党支部を開設しているが,a1=Khi1afah
Pub1icationの出版物には出版年の記載が無いため正確な活動開始時期は不明である4。しかし例外的に1989年と出版年が記されているKhilafah
is th Answerには,他の出版物の多くの巻末に記されている出版リストが無く,この作品は最初期のものと考えられる。なおKaifa
Hudimat al=Khil±faにはトルコ語訳も存在する。
Iアラビア語文献
1.MuÆammad Taqµy a1=Dµn al=Nabh±nµ
(1)《社会の組織化(Tanõ, al=MujtamaØ)》[49~52]
(2)《パレスチナの救済(Inq±dh Filas»µn)》[49~52]
(3)《アラブの使命(Ris±la al=ØArab》[49~52]
(4)《イスラームの制度(Niñm al=Isl±m)》[49~52]
(5)《イスラームの統治制度(Niñm al=Åukm fµ al=Isl±m)》[49~52]
(6)《イスラームの社会制度(al=Niñm al=Ijtim±Øµ fµ al=Isl±m)》[49~51]
(7)《イスラームの経済制度(al=Niñm al=Iqti±dµ fµ al=Isl±m)》[49~52]
(8)《イスラーム国家(al=Daula al=Isl±mµya)》[49~52]
(9)《イスラーム的人格(al=Shakhµya al=Isl±mµya)》[52~53]
(10)《覚醒の基礎(Usus al=Nah½a)》
(ll)《党の構成(al=Takattul al=Åizbµ)》
(12)《解放党の諸概念(Maf±hµm Åizbµ)》
(13)《イスラーム憲法(al=Dust¹r al=Isl±mµ)》
(14)《憲法序文,或いはその必要の諸理由(Muqaddima al=Dust¹r au al=Asb±b al=Mujiba la-hu)》[63]
(15)《解放党の政治の諸概念(Maf±hµm Siy±sa Åizb al=TaÆrir)》(3vo1) [63]
(16)《政治的見解(NaÃar±t Siy±sµya)》[73]
(17)《イスラーム世界への熱い呼びかけ(Nid± űarr il± al=ذlam al=Isl±mµ)》
(18)《カリフ制度(al=Khil±fa)》
(19)《ファイル(al=Dausµya)》
(20)《直感の迅速(SurØa al=Badµha)》[76]
(21)《出発点(Nuq»a al=In»il±q)》
(22)《社会参加(Dukh¹l al=MujtamaØ)》
(23)《エジプトの武装化(TasallauÆ Mir)》
(24)《エジプト・シリア・イエメン二国間協定(al=Ittif±qiya al=Thun±Ùµya al=Mirµya al=S¹rµya al=Yamanµya)》
(25)《パレスチナ問題の英米的解決(Åall Qa½µya Fias»µn Øal± al=ºarµqa al=Amrµqµya wa al=Inklµzµya)》
(26)《アイゼンハワー・ドクトリンに関する政治的空白理論(NaÃarµya al=Fµy±gh al=Siy±sµ Æawla Mashr¹Ø Ayzinh±ur)》
(27)《マルクシュ主義社会主義批判(Naq½ al=Ishtir±kµya al=M±rkusµya)》
(28)《刑罰制度(Niñm al=ØUq¹b±t)》
(29)《礼拝の諸規定(AÆk±m al=ªal±》
(30)《イスラーム的思考(al=Fikr al=Isl±mµ)》
(31)《考究(al=Tafkµr)》[73]
2.AÆmad a1=D±Ø¹r
(1)《証拠法(AÆk±m al=Bayyin±t)》[65]
(2)《民法批判(Naq½ al=Q±n¹n al=Madanµ)》[55]
3. ØAbd al=ØAzµz al=Badrµ
《イスラームの社会主義に対する判断(Åukm al=Isl±m fµ al=Ishtir±kµya)》[62(脱稿)]
4. ØAbd al=Rahman al=M±likµ
《理想的経済政策(al=Siy±sa al=Iqti±dµya al=Muthl±)》[63]
5. ØAbd al=Qadµm Za11¹m
(1)《民主主義はその採用,施行,宣伝が禁じられる不信仰の制度である(al=Dµmuqr±»µya Niñm Kuhr YaÆrumu Akhdh-h± au Ta»bµq-h± au al=DaØwa ilai-h±)》[90(脱稿)]
(2)《貨幣-《カリフ国家の国富》の抜粋(al=Nuq¹d, min Kit±b al=Amw±l fµ Daula al=Khil±fa)》
(3)《如何にしてカリフ国家は崩壊せしめられたか(Kaifa Hudimat al=Khil±fa)》[62]
6. ØAta Ab¹ a1=Rashta
《経済危機一その実態とイスラーム的観点からその処方(al=Azm±t al=Iqti±dµya W±qµØ-h± wa Muرlaja-h± min Wijha NaÃar al=Isl±m)》
7. űfià ª±liÆ
《宣教のクルアーンの方法(Nahj al=QurÙ±n fµ al=DaØwa)》[92]
8. MuÆammad AÆmad a1=D±Ø¹r
《銀行利子,利息の規定に関する虚言への反論(Radd Øal± Muftaray±t Æaula Åukm al=Rib± wa Faw±Ùid al=Bun¹k)》[92]
9. Y¹suf AÆmad MuÆammad al=Sabb±tµn
(1)《イスラームの信条とそのムスリムの生活への影響(al=ØAqµda al=Isl±mµya wa °th±r-h± fµ Åay± al=Muslimµn)》[85]
(2)《栄光への道(ºarµq al=ØIzza)》
10. 無記名
(1)《解放党の変革の方法(Manhaj Åizb al=TaÆrµr fµ al=Taghyµr)》
(2)《カリフ国家の国富(Al=Amw±l fµ Daula al=Khil±fa)》
ll. MaÆm¹d al=Kh±lidµ
(1)《イスラーム文化の思想的基盤(al=U¹l al=Fikrµya li-al=Thaq±fa al=Isl±mµya)》(3.vol.)
[83]
(2)《イスラームの司法制度(Niñm al=Qa½±Ù fµ al=Isl±m)》[83]
(3)《イスラーム政治思想におけるカリフ制度の教え(MaØalim al=Khil±fa fµ al=Fikr al=Siy±sµ al=Isl±mµ)》[84]
(4)《イスラームの統治制度の諸原則(Qaw±Ùid Niñm al=Åukm fµ al=Isl±m)》
[80]
(5)《イスラームの正しい理解のための研究シリーズ(Silsila Dir±s±t min ajl Fahm ªaÆµÆ li-al=Isl±m)[89]
①《イスラーム政治思想における忠誠誓約(al=BaiØa fµ al=Fikr al=Siy±sµ al=Isl±mµ)》
②《現代紙幣の喜捨(Zak± al=Nuq¹d al=Waraqa al=Muرira)》
③《考究こそイスラーム共同体の覚醒への道の出発点である(al=Tafkµr Bid±ya al=ºarµq il± Nah½a al=Umma al=Isl±mµya)》
④《イスラームにおける経済の社会学(S¹sµw¹lujµya al=Iqri±d fµ al=Isl±m)》
⑤《イスラームの考究と研究の方法論における信条と神学(al=ØAqµda wa ØIlm al=Kal±m fµ Man±hij al=BaÆth wa al=Tafkµr al=Isl±mµ》
⑥《イスラームにおける諮問議会制度(Niñm al=Sh¹r± fµ al=Isl±m)》
⑦《資本主義に対するイスラームの判断(Åukm al=Isl±m fµ al=RaÙs-m±lµya)》
⑧《イスラームにおける経済の概念(Mafh¹m al=Iqti±d fµ al=Isl±m)》
⑨《イスラーム法に照らしての西欧民主主義(al=Dimuqr±»µya al=Gharbµya fµ ½¹Ù al=SharµØa al=Isl±mµya)》
II 英語文献
1. Omar Bakri Mohammed
(1) The Hidden Power of the Islamic
Nation
(2) The Political Struggle for
Islam
(3) A Nation without a Cause is
like Body without a Soul
2.Jamal Harwood:Faith and Progress(Belief and Isl±m)
3.Yamin Zakaria:Religion & Politics – Can the be Separated ?
4.Salim Fredericks:What is Society
5.Members of Hizb ut-Tahrir:The Road to Victory
6.無記名
(1)Khilafah is The Answer
[89]
(2)The Seal of The Prophet
(3)Hizb ut-Tahrir
(4)The Khilafa
(5)The Way for The Revival
(6)An Introduction to Economy in
Isl±m
(7)Political Parties
(8) Political Parties
(9) Business and Company
Structure in Isl±m
(10)How to Perform Prayer
(ll)How to Perform Haj
(12)How to Observe Ramadhan
(13)Why Islam Declares Way
against Insurnce
[1]拙稿,<ジハード(聖戦)論再考〉,《オリエント》,第3巻第1号,1992年,28頁。
[2] al-Wasa», No. 235, 29/ 7/ 1996, p. 10.
[3] バグダーディーは,当人たちの著作の精密な読解によらず,むしろ論敵に筆になる二次資料に基づいて語られることが多いことから,解放党を抹殺された「異端」ハワーリジュ派になぞらえ「現代のハワーリジュ」と呼んでいる。cf., AÆmad al=Baghd±dµ, Åizab al=Tarµr-Dir±sa fµ al=Daula al=Isl±mµya, al=Kuwait, 1994,pp.6-7.一般に反体制運動の思想研究が直面する最初の問題は,一次資料の不足とその入手の困難にあるが,解放党は例外的に豊富な文献の入手が可能であり,先行研究によってナブハーニーの初期の作品については出版年代も明らかにされている。そこで先行研究をも参考にしつつ,筆者の知り得た限りでの解放党文献のリストを作成し,別表として掲げる。
[4]本稿では,「体制の急激な根本的変革」という程度の意味で「革命」の語を用いる。
[5] cf., David Commins,
“Taqµ a1=Dµn al=Nabh±nµ and the Is1amic Liberation Party”, The
Muslim World,xol. LXXXI. No3-4. 1991, p. 194. 解放党自身,カリフ国家の消滅,イスラエルの建国というムスリムにとっての今世紀の2つの大きな衝撃的事件を契機として同党が誕生した,と述べている。cf.,
Manhaj Åizb al-TaƵr fµ al-Taghrµr,n, p., n. d., pp.14-15.
[6] a1=Baghd±dµ, op. cit.,p. 19, Åizba al-Tahrir,p. 1.
[7] ØAuni a1=JadduÙ a1=ØUbaidµ, Åizb al=TaÆrµr al=Isl±mµ-ØAr½ T±rµkh/Dir±sa ØAmma, n. p., 1992, op. cit.,p.45.
[8] ibid., pp. 38, 45-46.
[9] ibid.,pp.47-50.
[10] コミンスはナブハーニーをムスリム同胞団の脱退者としているが,ウバイディーと彼の研究書に序文を寄せたアブド・アル=アズィーズ・アル=ハイヤートは,ナブハーニーの同胞団入団を否定している。cf., Commins, op.
cot., p. 194, al=ØUbaidµ, op. cit., pp. 17, 53, 81.クトゥブの思想的影響については,cf.,
al=ØUbaidµ, op. cit., pp. 102-111.
[11] cf., a1=Baghd±dµ, op. cit.,p.10.
[12] ウバイディーは,ナブハーニーとフサイニーの関係は学問上の盟友師弟関係に過ぎず,フサイニーによる資金援助説はなかったとしている。cf.,
a1=ØUbaidµ, op. cit.,pp. 82-85.
[13] ウバイディー,コミンスは,解放党創立を52年としているが,ウバイディーは同時に結成を49年とするズィヤード・サラームによる反証をも収録している。本稿はズィヤード説を採った。cf., a1=ØUbaidµ, op. cit., pp. 125, 139,
Commins, op. cit., p, 194.
[14] cf., a1=ØUbaidµ, op. cit.,pp.
52-64, 77, 88-89, 111-114.
[15] ウバイディーはアラブ諸国全てに地域支部があったとも言う。cf., ibid., pp.65,89.
[16] cf., ibid., pp. 86-98. 解放党の奪権戦略については後述。
[17] cf., Joyce N. Wiley, The
Islamic Movement of Iraqi ShiØas, Boulder London, 19,
92, pp. 23, 40, 46.
[18]一部は公表されていない。cf., a1=Ubaidµ, op. cit., p. 65. 但し73年にエジプトでクーデターの準備を開始し,74年に士官学校占拠事件を起こしたサーリフ・サリーヤは解放党の脱党者であり,74年のクーデター未遂事件は正確には解放党の活動とは言えない。cf.,
David Sagiv, Fundamentalism and Intellctuals in Egypt 1973-1993, London,1995,pp.50-51.
拙稿,〈エジプトのジハード団〉,《中東研究》,1992年,No.362,p.13.
[19] cf., Francois Burgat & William Dowe11,
The Islamic Movement in North Africa, Austin, 1993, p. 202.
[20] al=Wasa», 1996/ 9/ 23, p. 20.
[21] cf.,
al=Åay±, 1993/ 9/ 10. また1996年9月22日付《アル・ハヤー》によると,エルサルムの「岩のモスク」で解放党員がフサイン国王の名の記された大理石の石板を破壊した。
[22]拙稿,〈サウジアラビア・バハレーンのイスラーム運動の現状〉,《GCC諸国における宗教勢力の実態調査》,中東調査会,1995年3月,4-7頁参照。
[23] cf., 小杉泰編,《イスラームに何がおきているか》,
平凡社, 1996年, p. 323, al=Wasa», 1996/ 9/ 23, p. 20.
[24] cf., al=Åay±, 1996/ 3/ 6, 3/ 9, 3/ 11.
[25] 「カリフ会議」自体は,アラブ諸国の妨害により開催中止になったが,FISからはアリー・ビルハーツジュー,ヒズブ・アッラーからはムハンマド・フサイン・ファドル・アッラーが「カリフ会議」にビデオを送った,と言われている。cf,
al=Wasa» , 1996/ 9/ 23, pp. 20-21, Rose El Youssef, 1996/ 8/ 26, p. 5, 9/ 9, pp.
22-25. バタリー自身,「亡命者」を解放党の「延長(imtid±d)」と呼んでいる。cf., al=Åay±, 1996/ 9/ 5.
[26] cf.,
al=Shakhµya, vo1. 1, pp. 35-41.《イルサム的性格》第1部:〈人格(al=Shakhsµya)〉であるが,刷版の方が大部であるので,《イスラーム的性格》旧版と思われる。本稿では第1部の見出しに囲み,本書をal=Shakhµyaと呼ぶ。
[27] ibid., p. 41.
[28] ナブハーニーによると,法学の衰退はヒジュラ暦3世紀に始まったが,6世紀末,7世紀初頭までは,部分的な発展も見られ,完全な衰退は7世紀初頭以降となる。cf.,
ibid., p. 317. なおクルアーン解釈学,ハディース学,法学基礎論については,ナブハーニーはそれらの概要を要約するのみで,神学,法学に対するような批判は行っていない。
[29] cf.,
ibid., pp. 313-315.
[30] Niñm al=Isl±m, n. p., n. d., p. 80.
[31] ibid., p.
83. 「『唯一人のカリフの擁立』の第一原則に力点が置かれるが,これらの原則の一つでも欠ければ,国家はそのイスラーム性を失う」と解説し,バグダーディーは,これらの4原則の中でもイスラーム国家の単一性を最重要原則とみなしている。a1=Baghd±dµ, op. cit., pp. 32-33.
[32] cf., Muqaddimb
al=Dust¹r al=Asb±b al=M¹jiba la-hu, n. p., n. d., p. 105.なおイスラーム的統治の4原則については,拙稿〈イスラーム主義とシャリーア〉,《イスラーム「原理主義」とは何か》,岩波書店,1996年,100-102頁参照,「締結のバイア」と「服従のバイア」の区別については,拙稿〈現代イスラームのバイア論(1)〉,《日本サウディアラビア協会報》,
No. 147. 1990年. p. 6-7参照。
[33] Niñm al=Isl±m, pp. 85-87.
[34] Dir±sa al=Fiqh (vol. 3.)(al=Shakhsµya al=Isl±mµya [旧版]), n. p., n. d., p. 90. (26)参照。
[35] al=Baghdadµ, op. cit., p. 31.
[36] Niñm al=Isl±m, pp. 86-87.
[37]al=Baghd±dµ, op. cit., p.
32.
[38](21)参照。
[39]解放党1994年1月22日付声明参照。
[40] cf., Manhaj Åizb al=TaÆrµr fµ al=Taghyµr, p. 5. cf., Dir±sa al=Fiqh(vol. 3.), pp. 214-217.
この「イスラームの居住圏」の定義自体は,伝統イスラーム法学の概念を構成を忠実に継承しており,新奇なものではない。例えば『英亜対訳法学者用語辞典』も「イスラームの居住圏」を「ムスリムが支配し,安全に暮らし,イスラームの諸制度によって統治されている土地」と定義している。QalØajµ Qunaibµ, MuØjam Lugha al=Fuqah±, Bair¹t, 1993, p. 205. 解放党に特徴的なのは,この定義自体ではなく,イスラーム世界の現状の「イスラームの居住圏」と「不信仰の居住圏」の二項対立的把握である。
[41] Manhaj Åizb al=TaÆrµr fµ al=Taghyµr.p. 8.
[42] ibid., pp. 15-16.
[43] ibid., pp. 17-25.
[44] ibid., p. 23.
[45] ibid., pp. 24-25.
[46] cf., ibid., pp. 38-46.
[47] cf.,
ibid., pp. 43-44. 3段階論については,cf., a1=ØUbaidµ, op. cit., p, 117, a1=Baghd±dµ, op. cit., pp, 27-29.
[48] manhaj
Åizb al=TaÆrµr fµ al=Taghyµr,p. 44.
[49] cf., al=Baghd±dµ, op. cit., p. 29, al=Ubaidµ, op. cit., p. 118.
[50] cf., a1=Baghd±dµ, op. cit., p. 29.
[52] al=Khil±fa, n. p., n. d., p. 19.
[53] Rose
El Youssef, 1996/
9/ 9, p. 23.
[54] ibid., p. 23.
[55] 「ジハード組織」とはサダト暗殺当時のエジプトの「ジハード団」と「イスラーム集団」の連合体を指したが,その解体後も,両者を総称して「ジハード組織」と呼ぶことがある。
[56]Rose El Youssef, 1996/ 9/ 9, pp. 23-24.
1 ナブハーニーが下書の後に幹部と共に検討し最終稿に纏めることがある一方,自著を他の党幹部の名を借りて出版することもあった。cf., a1=ØUbaidµ, op. cit., p. 99.いずれにしても解放党は思想的に一枚岩であり,ナブハーニーの死後も,変化は見られない。cf., AÆmad al=Baghd±dµ, op. cit., p. 21.
2 cf., al=ØUbaidµ, op. cit., pp. 123-124.
3 cf., ibid., pp.
123-124. cf., a1=Baghd±dµ, op. cit., pp. 11-12.なおバグダーディーはMuqqaddima al=Dust¹r au al=Asb±b al=M¹jiba la-hu, Maf±hµm Siy±sa Åizb al=TaÆrµr,N±Ãar±t Siy±sµyaはナブハーニーの著作ではなく解放党の作品だとしている。またウバイディーは AÆk±m al=Bayyin±tはナブハーニーがAÆmad al=D±Ø¹rの名を借り出版したとして同書をナブハーニーの著作に含めているが,本稿では同書はAÆmad al=D±Ø¹rの著作とした。cf., al=ØUbaidµ, op. cit., p. 99. 同様にal=Siy±sa al=Iqti±dµya al=Muthl±, Kaifa Hudimat al=Khil±faもウバイディーはナブハーニーの著としといるが,本稿ではそれぞれ, ØAbd al=Rahman a1=M±likµ ØAbd a1=Qadµm Zall¹mの著作に教える。
4 cf., al=Åay±, 1996/9/5.