イスラーム法の存立構造
ハンバリー派フィクフ神事編
Ⅰ フィクフとは何か
1.フィクフとは何か
(1)フィクフの定義
「フィクフ(fiqh)」とは、「理解する、知る」を意味するアラビア語語根「F-Q-H」の動名詞形であり、語源的には「理解」を意味する(注1)。
預言者ムハンマドとその直弟子たちの時代には「フィクフ」の語は、宗教的文脈においてはイスラームの教えについての深い理解を意味した。
ヒジュラ暦2世紀の半ばに没したハナフィー学派の学祖アブー・ハニーファ(d.150/767)のアキーダ(信仰論)に於ける著作は『大フィクフ(al=Fiqh al=Akbar)』と命名されており、この時代においてもまだ「フィクフ」の語がイスラームの理解一般を指していたことを示している(注2)。
その後イスラーム諸学が細分化し、クルアーン学、ハディース(預言者の言行録)学、アキーダ(信仰論)、アラビア語学などが独立の学問として成立していく過程で「フィクフ」の語は特に行為規範を扱う学問を指すようになる。
この後世の用法に於ける「フィクフ」を、伝統的イスラーム学は、「個別的な典拠(adillatu-hā al=tafīlīyah)から演繹されたシャリーアに基く行為諸規範(al=aÆkām al=sharÔīya al=Ôamalīya)の学(Ôilm)」と定義する(注3)。
「フィクフ」の語は本来、右の定義にあるように「学問」を意味するが、フィクフの学問の成果である規範体系も「フィクフ」の名によって呼ばれることもある。それゆえ本書でも「フィクフ」の語を「学問」、及び「規範体系」の意味で両義的に用いる。
(2)フィクフとシャリーア
「個別的な典拠から演繹されたシャリーアに基づく行為諸規範の学」との定義は、フィクフとシャリーアが相関概念であることを示している。
シャリーアとは、「アッラーフから啓示された宗教(al=dīn al=munazzal min Ôind Allāh)」を意味する(注4)。
イスラームに関する日本語文献では、フィクフとシャリーアの双方に「イスラーム法」の訳語が当てられている場合が多い。しかしフィクフとシャリーアは別の概念であり、また「イスラーム法」の訳語はどちらに対しても適当とは言えない。
シャリーアは、フィクフの主題である行為規範のみならず、アッラーフへの信頼、忍耐、親孝行、同胞愛、弱者救済、勧善懲悪などの修身、道徳、アッラーフの本質、属性及び、天使、復活、天国、火獄などの不可視界についての記述、天地創造、過去の諸民族と諸預言者の歴史などを包括するアッラーフの御教え自体、即ちクルアーンと真正のスンナ(預言者の言行)の教えの総体である。このような「シャリーア」の概念が西欧の「法」概念と全く異質であることは言を俟たない。
天啓のシャリーアはアッラーフの神意の顕れであり絶対無謬である。一方フィクフはこのシャリーアを解釈し行為規範を演繹する学者の知的営みであり、あくまでも人為の産物に過ぎず、神意に適っているとの保証はない。シャリーアの理解をめぐってイスラーム史上、多くのフィクフの学派が生まれているのはこのためである(注5)。
フィクフとは一義的にはシャリーア解釈の知的営みであり、紛争解決手段としての裁判規範たることを必ずしも前提とするわけではない。西欧的な意味で「法」にあたるものは、むしろカリフの定めた行政命令(カーヌーン、ファルマーン)である。
フィクフはシャリーア(=アッラーフの神意)の解釈をその任務とする。それゆえたとえフィクフの行為規範と部分的に符合することがあろうとも、神意への服従を目的とせず、シャリーア以外のものを法源とするイスラーム世界の国々の現行の「法律」は決して「イスラーム法」ではない(注6)。
それゆえシャリーアは言うに及ばずフィクフとイスラーム世界の国々の現行の法律を混同し、「イスラーム法」の名の下に共に論ずることは厳に慎まなくてはならないのである。
(3)フィクフの発生とその必要性
アッラーフは文盲の商人ムハンマドを神の使徒として選ばれた。
クルアーンの言葉は決して難解な学術用語ではなく、また使徒ムハンマドも平明な言葉と表現で教えを説いた。
しかし言葉は発せられた具体的状況を離れて記録された言葉となり、時空を超えて人々に伝えられていくとき、必然的に当初の自明性を失う定めにある。クルアーンとハディース(ムハンマドの言行録)といえどもこの運命を逃れることはできない。
文法的にはアラビア語の「命令法」は、きわめて明晰に識別できる形式を有しているが、クルアーンの命令法表現を全てアッラーフの命令であると考えることができるかというと、そうではない。
5章2節の「 ・・・ しかし汝らが巡礼の潔斎を解いた後では、狩りを行え・・・」の「狩りを行え」の語は文法的には命令法であっても、狩りが命じられているわけではなく、巡礼の潔斎中は禁じられていた狩猟が潔斎を解いた後には解禁される、との許可を意味する。
71章28節の「 ・・・わが主よ、我を許せ ・・・」の「我を許せ」も文法的には命令法であっても、アッラーフに対する命令であろうはずはなく、祈願を意味する(注7)。
またクルアーンは23年にわたって段階的に啓示されたものであり、初期の啓示が後期の啓示によって補完された、あるいは変更を被った場合もある。
飲酒に関するクルアーンの4章43節の「信仰する者よ。汝らは酩酊している時には、(酔いが覚めて)自分が何を話しているのか自覚できるようになるまでは、礼拝に近付いてはならない・・・」の啓示は、泥酔して礼拝を行うことを禁じただけであったが、5章90節の「信仰する者よ、酒、賭博、偶像、賭矢は、不浄な悪魔の業である。それゆえそれを遠ざけよ。・・・」の啓示が下るに至って、酒は全面的に禁止されることになったと言われている。
クルアーンの章句の正確な意味を知るためは、アラビア語の語彙、文法の正確な知識のみでは十分ではなく、アラビア語の表現法、修辞法に通じ、クルアーンの啓示の下った状況の記録を調べその年代を確定するなどの研究が必要となる(注8)。テキスト自体が確定していない預言者のハディースについてはなおさらである(注9)。
預言者とその薫陶を受けた直弟子たちが世を去ると共に、クルアーンとハディースの意味の自明性が失われる。またイスラーム世界の拡大、多様な慣習を有する異民族のイスラーム化によってウンマ(イスラーム共同体)の同質性が崩れ、同時にクルアーンとスンナに直接の教示がない問題が発生するようになった。フィクフの成立は、こうした歴史的事態に対応しているのである。
それゆえフィクフの成立と展開に、近代西欧的な「学問の進歩」のイメージを投影することは慎まなくてはならない。イスラーム史上、最善の世代は預言者の直弟子の世代であり、次善の世代は更にその弟子の世代、即ち預言者の孫弟子の世代である(注10)。光源から遠ざかるにつれて光が弱まるように、時代を下るにつれて知と信仰は失われる。フィクフの展開とは、知と信仰の衰弱を補うための営為であり、フィクフの整備と洗練は、イスラームの理解の深化ではなく、イスラームの理解の喪失に歯止めをかけようとの努力の結晶に他ならないのである。フィクフの価値はその努力の真摯さにのみ存ずるのである。
(4)フィクフの主題
フィクフの目的は行為規範の定立にあるが、その領域は人間生活の全領域に及ぶ。
章立ての詳細は、『ザード・アル=ムスタクニウ(満足を求める者の糧)』の目次に譲り、本章ではフィクフの基本的区分のみを挙げる。
フィクフは(a)イバーダート(神事≒宗教儀礼)と(b)ムアーマラート(人事≒社会関係行為)は大別されるが(注11)、学者によってはムアーマラートに更にいくつかの下位区分を設けている。
例えば現代の高名な法学者アル=ズハイリーの『イスラームのフィクフとその典拠』は、フィクフの領域を、(a)イバーダート、(b)ムアーマラート、(c)ウクーバート(刑法)、に3分している(注12)。
また『アル=ファトフ アル=ラッバーニー(主による勝利)』(注13)の分類によると、フィクフは、(a)イバーダート、(b)ムアーマラート、(c)アクディヤとイフカーム(司法)、(d)アフワール・シャフスィーヤとアーダート(身分法と慣習)、に大別される(注14)。
しかし章立ての細部に相違はあっても、第1章を「儀礼的浄化」にあて、以下、礼拝、喜捨、斎戒、巡礼と、先ずイバーダートを順に論じ、その後にムアーマラートに移ることは、学派を超えてフィクフの確立した著述スタイルとなっている。
またフィクフも後期になると、ハナフィー派の『解明の光り(Nūr al=νāÆ)』、マーリキー派の『修行者の導き(Murshid al=Sālik)』、シャーフィイー派の『シャーフィー派学者たちのフィクフにおけるハドラミー序論(al=Muqaddima al=Kha½ramīya fī Fiqh al=Sād al=ShāfiÔīyah)』のように初学者向けにイバーダートのみを纏めた綱要がフィクフ入門の名で編まれるようになる。このことからもイバーダートがフィクフの最重要領域であることが理解できる(注15)。
このようにフィクフにおいては、「個人の良心の問題」である宗教儀礼の細則の規定のような西欧の「法」概念には馴染まない問題が最重要課題となっている。このことだけからもイスラームの「フィクフ」を「イスラーム法」と訳すことが誤解を招きやすく、慎重を要することが理解されるであろう。
(5)フィクフと国家
ヨーロッパ起源の法哲学に於いても「法」の概念規定には見解の対立がある。ヨーロッパ法の伝統においても、「法」は狭義の法律のみならず、行政命令、判例、慣習法等を含む概念である。しかし現代の「法」観念に於いては、「法」概念のモデルは国家の制定した「法律」であるということができよう(注16)。
一方でフィクフが考察の対象とするシャリーアは、人間に対する神授の啓示であり、理念的にシャリーアが国家に優越することは自明とされている。イスラームに於いてはシャリーアが国家の目的、形態、機能を規定するのであり、国家がシャリーアを制定するわけではない(注17)。
「シャリーアの国家に対する優越」は単なる理念ではない。歴史的にも国家によるシャリーアの解釈の独占は決して生じなかったし、カリフの行政命令であるカーヌーン、ファルマーンが、シャリーアの地位にとってかわることもなかった(注18)。
西欧帝国主義の植民地支配の遺制である近代国家制度によってイスラーム世界が分断された現代においても事情は変わらない。現在でも国のいかんを問わず敬虔なイスラーム教徒の師弟は、幼少時よりアラビア語のフィクフの古典を教科書として用いてシャリーアを学んでいるのである。
「シャリーアの国家に対する優越」の理念は、国境を越えた普遍的イスラーム文明圏の構築を可能とした。また「シャリーアの国家に対する優越」の理念の存在は、シャリーアに照らして既存の国家体制を批判することを可能とし、イスラーム共同体に常なる自己革新の契機を提供しているのである(注19)。
近代西欧法の効力が最終的には国家の強制力、即ち軍事力、警察力を背景にした強制執行、刑罰による威嚇を拠り所にしているのに対し、シャリーアの権威はアッラーフへの信仰、死後の審判への信仰に由来する。
フィクフの中で、現世の国家権力による罰則が定められているものは、むしろ例外である。アッラーフと人間の関係を定めるイバーダート(宗教儀礼)の殆どには罰則の規定がなく、西欧法では刑法で罰せられる詐欺、横領、恐喝などにも罰則の定めはない(注20)。また有名な豚肉の禁止、利子の禁止なども、特に罰則が定められているわけではない。フィクフの行為規範の遵守は、基本的にあくまでも個々人の内心の信仰にかかっているのである(注21)。
(6)フィクフの平等主義
イスラームは国家のみならず、いかなる組織、いかなる個人にもシャリーアの独占的解釈権を与えない。イスラームにはアッラーフと信徒を仲介する聖職者もいなければ、無謬の教皇も公会議も存在しない(注22)。
フィクフを修めた者をファキーフと呼ぶが、誰がファキーフであるかを決める公的機関は存在せず、ファキーフには「公的」資格はなく、位階制度が存在するわけでもない。
またファキーフはカトリックの神父のようにミサや結婚などの「秘蹟」を執り行ったり神と信徒を仲介して信徒の罪を許したりする権能を有することもない。また仏教の僧侶のようにファキーフへの布施によって信徒が功徳を得るということもない。
またキリスト教や仏教では神父や僧侶のような聖職者には、妻帯の禁止のような平信徒にはない特別な規律が課されるが、イスラームに於いてはファキーフのみに課される特別な規律、戒律は存在せず、フィクフの規定は全てのムスリムに平等に適用される。
フィクフの平等主義はファキーフと信徒の関係に於いてだけではなく、権力者と民衆の関係に於いても貫徹される。礼拝、喜捨、斎戒、巡礼などの義務を課され、飲酒、姦通、金の装飾、絹の衣装の着用を禁じられるなど、フィクフの規定に服する点に於いて、イスラーム国家の元首であるカリフといえども、他のムスリムと何ら異なるところはないのである。
(7)フィクフの歴史
イスラームの征服に伴い、多くの教友たちが預言者の町マディーナを離れ新たな征服地へと移住し、預言者の教えをイスラーム世界の隅々にまで広めていった。
預言者とその直弟子(教友)たちの時代にあってはイスラームは信仰と知と行為の統合体であった。しかしこのイスラームの統合性は時代の経過と共に解体し、修行道と学問と政治に分化し、更に学問も細分化されてゆく(注23)。
教友たちの次の世代には、マディーナ、クーファ、バスラ、マッカ、シリア、エジプトなどにフィクフの専門家として名を残した学者たちが現れた。中でも最も有力であったのはマディーナ学派とクーファ学派であった。マディーナ学派は預言者と教友たちの伝統を伝える学風で、その代表がマディーナの7フィクフ学者と呼ばれたサイード・ブン・ムサイイブ(d.94)、ウルワ・ブン・ズバイル(d.94)、アブー・バクル・ブン・アブド・アル=ラフマーン・アル=マフズーミー(d.94)、ウバイド・アッラーフ・ブン・アブド・アッラーフ・ブン・ウトゥバ・ブン・マスウード(d.98)、ハーリジャ・ブン・ザイド・ブン・サービト(d.99)、アル=カースィム・ブン・ムハンマド・ブン・アビー・バクル(d.107)、スライマーン・ブン・ヤサール(d.108)である。一方クーファ学派は自由裁量(raÕy)を多用することで知られており、その代表はイブラヒーム・アル=ナハイー(d.96/715)であった(注24)。
しかしフィクフが独立の学問として次第に形を整えるのは、アブー・ハニーファ(d.150/767)、マーリク・ブン・アナス(d.179/795)、アル=シャーフィイー(d.204/820)、アフマド・ブン・ハンバル(d.241/855)らスンナ派フィクフの学祖たちの生きたヒジュラ暦2世紀から3世紀にかけてである。但しこの時代にあってはフィクフとハディース学はまだ明確には分離していない(注25)。
彼等のフィクフに於ける教説をその弟子たちが保存し、それを奉じてそれぞれの「学派」を形成するようになり、学祖とその高弟たちの研究の成果が学派の通説として「フィクフ綱要(matn)」の形に纏られるのはヒジュラ歴3、4世紀であり、フィクフの基礎概念が反省的に定義され、術語が確定するのもこの時代である(注26)。従って独立の学問としてのフィクフの研究パラダイムが確立されたのは、ヒジュラ暦3、4世紀であると言うことができよう。
フィクフの成立後、それぞれの学派において個別の問題を扱った専門書、また新たな研究を踏まえて古典「綱要」を解説する「注釈」、更にその「注釈」を解説する「脚注」、フィクフの学説を集大成した「フィクフ大全」、「フィクフ大全」を再度まとめ直した新たな「要約」、また人々のフィクフに関する質問に対する大学者の回答(ファトワー)をフィクフの章立てに編集した「ファトワー集」などが編まれるようになった(注27)。
「イジュティハード(自由推論)の門は閉ざされた」などとも言い慣わされるように、ヒジュラ暦3、4世紀以来、既存の学派の権威は固定し、もはや新しい学派は生まれえず、「古典」フィクフは「完成期」に入ったものとみなされた(注28)。
この意味では「前近代」のフィクフの歴史を一括して「学派共存期」と呼ぶことも出来る。
(8)フィクフの現在
ヒジュラ14-15世紀にかけてフィクフは新しい展開を見せつつある。学派の権威、拘束性を否定、あるいは学派間の相違を解消しようする「復古主義(salafīyah)」、あるいは「非学派主義(lā-madhhabīyah) 」と言われる潮流の顕在化である。
学派の権威を否定し、クルアーンとスンナへの回帰を唱える「復古主義」の主張は「学派共存期」においてもアフル・アル=ハディース(ハディース遵奉者)の一部の学者の間には底流として存在した(注29)。しかしこの「復古主義」がイスラーム世界全体に普及するのは、ムハンマド・アブドゥフ(西暦1905年没)とその弟子ラシード・リダー(西暦1935年没)の率いた「マナール学派」の啓蒙活動及び、(第3次)サウディアラビア王国の建国によるワッハーブ派の宣教によるところが大きい(注30)。
いずれの学派の立場にも拘束されない「復古主義」に立脚する「非-学派的」著作の増加と並んで、異なる学派の学説を網羅する「通-学派的」作品の成立、あるいは国家プロジェクトによる「フィクフ百科辞典」編纂の試みなども、現代における学派の権威、拘束性の稀薄化を示す現象のうちに数えられよう(注31)。
フィクフの「学派共存期」が終りを告げるのか、学派共存体制が維持・再編されるかについては、現時点では結論を下すことはできない。しかし現在フィクフが変革の過程にあることは否定できない事実である。
学派主義の退潮以外の現代フィクフの学問状況の特徴としては、フィクフ文献出版の飛躍的増大、フィクフの学問領域の拡大、フィクフ教育の西欧化、西欧法学の概念構成のフィクフへの浸透、非ムスリム・オリエンタリストのフィクフ研究への参入などが挙げられよう(注32)。
出版、印刷技術の革新がフィクフに影響を及ぼしたように、現在進みつつある情報処理、通信手段の進歩、IT化、グローバル化もまたフィクフに変革を促しつつある。一方で先進技術への過度の依然は、教育制度の「世俗化」と相俟って、フィクフの「宗教性」を稀薄化する危険性をも蔵しているように思われる。
注
(注1) 例えば、「彼等は言った。『シュアイブよ、私たちはおまえの言うことの殆どを理解できない(mā nafqahu)…』」(クルアーン11章91節) 。
(注2) ÔUmar Salmān al=Ashqar, Tārīkh al=Fiqh al=Islāmī(『フィクフの歴史』), Kuwait, 1989,pp.11-15.
(注3) この定義はアル=シャーフィイーに遡ると言われる。cf. Wahba al=ZuÆailī, al=Fiqh al=Islāmī wa Adillatu-hu, Dimashq, 1989, vol.1, p16,ÔUmar Salmān al=Ashqar, op. cit., p.16.
「典拠(dalīl, Æujjah)」とは、アッラーフの御言葉であるクルアーン、ハディース等を指すが、何がフィクフの「典拠」とされるべきかは「フィクフ基礎論(uūl al=fiqh)」において論じられる。
(注4) cf. ibid., p.18.
(注5) 「シャリーア」と「フィクフ」の違いについては、ibid., pp.18-20 参照。
アル=シャアラーニー(1560年没、シャーフィイー派フィクフ学者)は言う。
修行者(insān mutaÔabbid)、あるいは職を有する信者(muÕmin muÆtarif) は、クルアーンとスンナに明言されたことだけを行っていれば十分であり、(クルアーンとスンナから推論によって)演繹されたことを行う必要はない。なぜなら演繹されたことの全てが、いと高きアッラーフの無謬のシャリーア(sharÔmaÔūm)ではないからであり、それ故に(ファキーフの間にも)見解の対立が生じているのである。
・・・ 中略 ・・・ 知る必要があるのは、いと高きアッラーフが明文で定められたことだけである。なぜなら(アッラーフの)僕が最後の審判で審問されるのは、それを知っているかどうかだけだからである。というのはそれらの内容は「何かを成せ。何かを避けよ。」といった(明瞭な)ものであり、誰でも苦労なく理解でき、その習得にために仕事を投げ出し長期間を費やさねばならないようなものではなく、どんなに学のない民衆でも悩まず理解できるのである。
ムジュタヒド(独自の推論でフィクフの規範の演繹を行う学者)の学匠(aÕimmah)たちが定めたものについては(事情は)異なり、誰も最後の審判の場でそれについて審問されることはない。またその理解は困難であり、見ての通り、仕事を投げ出し長期間を費やさねばならないのである。
ÔAbd al=Wahhāb al=ShaÔrānī,
al=Durr al=Manthūr fī al=ÔUlūm
al=Mashhūrah(『よく知られた(イスラーム)諸学の神髄に関する散りばめられた真珠』),Beirut, Cairo, n.d., pp.36-37.
ムスリムが従うべきはシャリーアであって、フィクフではない。両者の混同は厳に慎まなければならない。しかしフィクフが、シャリーアに従って生きようとの先人たちの14世紀にわたる真摯な知的努力の蓄積の結晶である以上、その成果を無視し顧みないというのも正しい態度とは言えないであろう。
ちなみに現存するフィクフの学派は、ハナフィー派、マーリキー派、シャーフィイー派、ハンバリー派のスンナ派4学派、12イマーム派(ジャアファリー派)、ザイディー派のシーア派2学派、ハワーリジュ派の流れを汲むと言われるイバーディー派の7学派であるが、本章では原則的にイスラームの主流派であるスンナ派のフィクフのみを扱う。
(注6) 例えばイスラエルでは、ムスリムに適用される家族法はフィクフの規定とかなりな程度まで一致している。またオスマン帝国の『法典(al=Majallah)』の一部は、現在に至るまでイスラエルで、部分的な修正を施されたのみで通用している。しかしそれらの法規の妥当根拠が、アッラーフの命令たることでない以上、それらの法規は決して「イスラーム法」ではない。理念上、シャリーアの至高性を掲げるサウディアラビアを除いて、イスラーム世界諸国の法規についてもイスラエルのムスリム家族法と同じことが言える。
イスラエルにおける所謂「イスラーム法」の施行については、cf., Robert H.
Eisenman, Islamic Law in
(注7) イブン・バドラーンによるとアラビア語の命令法には22の異なった用法がある。 cf.,
ÔAbd al=Qādir bn Badrān al=Dimashqī, al=Madkhal ilā Madhhab al=Imām AÆmad bn Åanbal,
(注8) 例えば古典フィクフ基礎論の標準的教科書であるアル=バイダーウィー(d.685/1286)の『基礎論の知識に関する到達の道(Minhāj al=Wuūl fī MaÔrifa ÔIlm al=Uūl)』の構成は、
フィクフ基礎論とフィクフの判断の定義などを論ずる序論、
第1部:クルアーン、
第2部:スンナ、
第3部:イジュマーゥ(合意)、
第4部:キヤース(類推)、
第5部:異論のある典拠、
第6部:対等と選択、
第7部:イジュティハード(裁量)とイフターゥ(裁定布告)、となっている。
さらに第1部を例に取ると、第1部:クルアーン、は以下のように5章に分かれる。
第1章:語; 意味設定、 語の分類、 派生、 同義、 多義、 本義と比喩、 難解語の 対立、 文字、 語の表意の形態、
第2章:命令と禁止; 命令語、 命令法、 禁止、
第3章:普遍と特殊; 普遍、 特殊、 特殊化、
第4章:明瞭と不明瞭; 明瞭語、 不明瞭語、 要明瞭者、
第5章:廃棄者と被廃棄者; 廃棄、 廃棄者と被廃棄者。
フィクフ基礎論については、イブン・ザイヌッデーン著/村田幸子訳『イスラーム法理論序説』(岩波書店、1985年),アブドル=ワッハーブ・ハッラーフ著/中村廣治郎訳『イスラムの法』(東京大学出版会、1984年)参照。
(注9) 現行のウスマーン本クルアーン(一般にエジプト版ウスマーン本クルアーンとして流布しているのはハフスがアースィムから伝えた読唱法に則って読唱記号が付されたものであり、ウスマーン本そのものではない)が預言者ムハンマドに啓示されたままの原形を保っていることが文献学的に証明されており、従ってクルアーンのテキストの真正性が確立されているのに対し、預言者の言行録であるハディースに関しては、最も権威があるとされるアル=ブハーリーのハディース集成に収録されたハディースですら偽作である可能性が原則的に排除されず、現在に至るまでハディース学者の間で真偽の確定作業が続けられている。
(注10) イスラームの歴史観によると、預言者の直弟子の世代が最善の世代であり、その後ウンマは次第に堕落するが、ウンマが堕落を極めた段階で、マフディー(救世主)が現れ、次いでイーサー(イエス・キリスト)が再臨する。従ってイスラームは巨視的には「下降史観」を取る。しかし他方では、各世紀の初めに「ムジャッディド(宗教改革者)」が現れる、とのハディースに基づく、「改革」の思想も存在する。それゆえ微視的にはイスラーム史が直線的に下降線を辿ると把握されているわけではない。
(注11) cf., ÔUmar Salmān al=Ashqar, op. cit., p.20.
(注12) cf., Wahba
al=ZuÆailī,op. cit., vol.1, p.81.
(注13) ハンバリー学派の名祖アフマド・ブン・ハンバルによる伝承者別分類ハディース集成『アル=ムスナド(遡及伝承)』を、現代のハディース学者アフマド・アル=バンナーが主題別に再編集したもの。
(注14) cf., AÆmad ‘Abd
al=RaÆmān al=Bannā, al=FatÆ al=Rabbānī, Cairo, nd., vol.1, pp.25-26.
(注15) オリエンタリズムの「イスラーム法」研究を代表するシャハトの『イスラーム法入門』は、イバーダートの全体を非-法的要素として彼の「イスラーム法」の概説から完全に削除している。 cf., Joseph Schacht, An Introduction to Islamic Law,
シャハト以降の欧米の「イスラーム法」研究は概ねシャハトの先例にならっているが、このような方法論的前提は、イスラームの「法思想」の内在的理解の妨げにしかなるまい。なおこうした前提は、欧米の非ムスリム・オリエンタリストのみではなく、ムスリム・オリエンタリストにも共有されている。例えば、cf., Asaf A.A.Fyzee, Outlines of Muhammadan Law, Delhi, 1976.
(注16) 自然法法哲学、法社会学、法史学、法人類学、比較法学等はこの限りではない。
(注17) フィクフは法人概念を認めないため、正確にはシャリーアの規定するのは、ウンマの首長であるカリフの使命、職務、条件等である。但し現代のフィクフ学者の中には、フィクフの規定の中に「法人概念」を見出だそうとする研究者も存在する。しかしその立場に立った場合でさえ、フィクフにおける法人概念は極めて未発達であり、「ワクフ」などの限られた領域においてのみその萌芽が認められ得るのみである。cf., Wahba al=Zuhailī,Juhūd Taqnīn al=Fiqh al=Islāmī, Beirut, 1987, pp.71-87.
なおシャリーアの一般的性格については、イブン・タイミーヤ(湯川武、中田考共訳)、『イスラーム政治論』、日本サウディアラビア協会、1991年、160-172頁(付録1.シャリーアとは)、柳橋博之、「比較法上のイスラーム」、竹下政孝編、『イスラームの思考回路』〈講座イスラーム世界4〉、栄光教育文化研究所、1995年3月、73-104頁参照。
(注18) シャリーアの解釈の国家による独占、「立法化」の初めての試みは、シャリーアの法典化の実験であった1876年のオスマン帝国の『法典(al=Majallah)』の編纂である。『法典』は商法、訴訟法のハナフィー学派の学説を項目別に1851条に整理したものであった。『法典』はオスマン帝国の滅亡まで帝国領域内で適用されたが、決してシャリーアの権威を得ることはなく、またフィクフの領域においても『法典』が伝統的フィクフに取って代わることはなかった。 cf., ÔUmar Salmān al=Ashqar, op. cit., pp.193-194.
なおいわゆる「イスラーム諸国」の民法、家族法などの一部にフィクフの諸規定が部分的に取入れられている事態は、フィクフの法典化とは区別されなければならない。
フィクフとアラブ諸国の実定法の関係については、cf., Wahba al=ZuÆailī,Juhūd Taqnīn
al=Fiqh al=Islāmī, ªubÆī MaÆmaānī, al=Au½ā‘al=Tashrī‘īyah fī al=Duwal al=‘Arabīya, Beirut,1981.
(注19) イスラームには「悪法も法」との実定法思想が生まれる余地はない。西洋では自然法思想が中世の王政の批判の理論的基礎となったが、国家と法の関係に於いてイスラームのシャリーアは西欧の自然法に構造的に対応しているのである。
(注20) たとえば太陽の南中時に礼拝を行うこと、犠牲祭の日に斎戒を行うことは禁じられているが、いずれも罰則規定はない。但し義務の礼拝の故意の不履行自体は、ハッド(法定)刑犯罪の一つである背教罪に該当するため、背教罪の死刑が適用される。
またイバーダートの中にも贖罪の規定があるものもある。たとえばラマダーン月の斎戒中に故意に禁を破ったものに、斎戒を破った1日について、(a)奴隷の身請け(解放)、(b)連続2か月間の斎戒、(c)60人の貧者に食事を施すこと、のいずれかによる贖罪が定められている。しかしこうした贖罪の実行はやはり当人の責任にまかされており、その履行の強制が国家の義務とはされていない点で、やはり実定法上の罰則規定とは区別される。
フィクフに刑の規定のある犯罪はハッド(法定)刑犯罪と呼ばれる(1)窃盗、(2)姦通、(3)強盗、(4)飲酒、(5)姦通誣告、(6)背教(及び7番目として内乱を含める場合もある)のみである(傷害、殺人は被害者の遺族に、同害報復か損害賠償か赦免かの選択権がある)。但し刑法における厳密な罪刑法定主義の原則はフィクフに存在せず、刑罰の定めのない罪に関しては、独自の判断で適当な懲罰を課す権限がカリフおよびその代理人に与えられている。
(注21) 争いが裁判所に持ち込まれた場合でさえ、アッラーフへの畏怖が、シャリーアの実効性を支える基盤となっていたことが、歴史資料からも立証されている。
多くの訴訟において、原告も被告も共に証拠を有さず、被告は誓いを立てることによって勝訴する機会を与えられているのに、自動的に敗訴するにも拘わらずそれ(誓い)を拒否しているのである。こうした拒否は時には死刑を求刑する殺人罪の起訴にもつながる。こうした訴訟においては動機付けの力が本当に、罪の意識、あるいはアッラーフへの恐れであることは明白である。こうした状況は我々の文書においてあまりに普通であった・・・・・・。
ある贈与された財産をめぐる訴訟では、約13年にわたって長引いた結果、最終的に相手に対して誓いを立てることによって決定されることになった。それゆえ煩雑な、そしておそらくは多くの出費を強いたであろう13年にわたる紛争の末に、一方が誓いを立てることによって自動的に勝訴することが出来ることになったのである。ところが自動的に敗訴することになるにもかかわらず彼は(誓いを)拒否したのである。 Haim Gerber, State, Society and
Law in Islam,
(注22) シーア派では預言者ムハンマドの後継者であるイマームは無謬であるとされるため、イマームがシャリーアの独占的解釈権を有する。しかしシーア派の絶対多数を占める12イマーム派の教義では、12代イマームはヒジュラ暦329(西暦940)年に姿を隠しており、最後の審判の前まで信徒の前に姿を現すことはないとされているため、現時点ではシャリーアの独占的解釈者は事実上存在せず、この点に関しスンナ派との間に実質的相違はない。
またシーア派には、アーヤ・アッラーフ・アル=ウズマー(アッラーフの最大の徴)、アーヤ・アッラーフ(アッラーフの徴)、フッジャ・アル=イスラーム(イスラームの証)などの位階が存在するが、これらの位階制度が整備されたのは最近のことであり、「フィクフ学者の統治論」を国是とするイラン・イスラーム共和国においてさえ、これらの位階認定権を独占的に所有する特定の国家機関が存在するわけでもない。
またスンナ派においてもシーア派においても、フィクフ学者がフィクフ学者と認定されるのは、自分の直接の師匠であるフィクフ学者からの個人的な免許皆伝(ijāza)の授与によってのみである。フィクフの教授システムについては、cf., George Makdisi, The Rise of Colleges, Edinburgh, 1981, pp.9-34.
(注23) 預言者の高弟たちは、清廉潔白な知事、裁判官、軍司令官、宣教師、求道者、などの役割を一個の人格の中に統合していた。しかし時代が経つにつれ、信仰の純化を求める者は禁欲修行者、神秘家に、学問を追及する者はイスラーム諸学の学者に、政治に関わる者は、軍人、官僚になるといった職業分化が進みに、全ての徳を一身に兼ね備えたムスリムの存在は希になっていった。
(注24) cf., ÔUmar Salmān al=Ashqar, op. cit., pp.80-87.
特定の方法論を有する大フィクフ学者を名祖と仰ぐスンナ派4学派の成立以前には、マディーナ、クーファ、シリアなどに地方の慣習を反映した地方の強い学派が存在していたというのが通説である。詳しくは、cf., Joseph Schacht, The Origins of Muhammadan Jurisprudence, Oxford, 1950, N.J.Coulson, A History of Islamic Law, Edinburgh, 1964, ÔUmar Salmān al=Ashqar, op.cit..
(注25) 現存する最古のフィクフの作品はザイド派の名祖アル=イマーム・ザイド(d.122/740) の『ハディース集成(al=MajmūÔ fī al=Åadīth)』と『フィクフ集成(al=MajmūÔ fī al=Fiqh)』を弟子のウマル・アル=ワースィティーが編集した『集成(al=MajmūÔ)』と言われる。cf., Wahba
al=ZuÆailī,Marja‘ al=‘Ulūm al=Islāmīyah, Dimashq,
1992, p.545.
アブー・ハニーファについては、フィクフの著作が現存しない一方で、ハディース学の業績である『遡及伝承(al=Musnad)』は伝えられている。またマーリクの『平坦な道(al=Muwa»»aÕ)』はハディース集成及びその注釈という性格の作品であり、アフマドの主著『遡及伝承(al=Musnad)』は純然たるハディース集成である。またフィクフの書の体裁を整えているアル=シャーフィイーの『母典(Kitāb al=Umm)』もまだハディース集成の色彩を色濃く残している。
スンナ派6ハディース正伝集と呼ばれる『サヒーフ・アル=ブハーリー(d.256/879)』、『サヒーフ・ムスリム(d.261/870)』、『スナン・アブー・ダーウード(d.275/889)』、『スナン・アル=ナサーイー(d.303/910)』、『スナン・イブン・マージャ(d.273/887)』、『サヒーフ・アル=ティルミズィー(d.279/892)』が成立するのもヒジュラ暦3世紀である。そしてこれらの書の章立てがいずれもフィクフの章立てにほぼ対応していることも、ハディースの集成とフィクフの成立の間に密接な関係があったことを窺わせている。初期のフィクフの性格については、cf. Norman Calder, Studies in Early Muslim Jurisprudence,
またヒジュラ4世紀の資料によると、当時はまだハンバリー派がフィクフの学派であるのか、ハディース学者の集団であるのかについて評価が分かれていた。 cf., George Makdisi, The Rise of Colleges, Edinburgh, 1981, pp.3-4.
(注26) ハナフィー派のal=ºaƱwiī(d.321)のMukhtaar al=ºaÆāwī、シャーフィイー派のal=Muzanī(d.264)のMukhtaar al=Muzanī、Ibn Zakariyā al=Rāzī(d.395)のÅilya al=FuqahāÕ、マーリキー派のal=Khashnī(d.361)のUūl al=Futyā、al=Qairawānī(d.389)のal=Risālah 、ハンバリー派のal=Khiraqī(d.334)のMukhtaar al=Khiraqīなど。
またフィクフの基礎付け、概念の定義などを行う「フィクフ基礎論(uūl al=fiqh)」もまた西暦10世紀(ヒジュラ暦3/4世紀)に成立した。 cf., Wawl B. Hallaq, “ Was al=ShafiÕi the Master Architect of Islamic Jurisprudence? ", International Journal of Middle East Studies, vol.25, 1993, pp.587-605.
ムハンマド・ファーディルは、主として、マーリキー派とシャーフィイー派の例に基づき、綱要(Mukhtaar)の成立をヒジュラ暦7/8世紀とし、それは法的安定性の要求から学派の見解を統一するためであり、それゆえヒジュラ暦7/8世紀以降には、重要な綱要は編まれていない、と述べているが、間違いである。 cf., Mohammad Fadel, “ The Social Logic of Taqlīd and the Rise of the Mukhtaar ", Islamic Law and Society, vol.3, No.2, 1996, pp.227, 232.
ハンバリー派を例にとっても、最も権威あるMukhtaar al=Khiraqīはヒジュラ暦4世紀に既に成立しており、7/8世紀以降も、10世紀のZād al=MustaqniÔ,al=IqnāÔ、10/11世紀のDalīl al=ºālib、ÔUmdah al=Rāghib、Akhar al=Mukhtaarātなどのオリジナルな綱要が編まれており、他学派についても同様である。
(注27) このような展開については、ハンバリー学派についての例を次章で詳しく論ずる。
(注28) 一方イブン・ジャリール・アル=タバリー(d.310/923)に従うタバリー学派、ダーウード・アル=ザーヒリー(d.269/882)に従うザーヒリー学派等は、この間に消滅した。ヒジュラ暦3世紀の始めまでに、特定のフィクフ学者を奉ずる約500の学派が消滅したとも言われる。 cf., George Makdisi, op.cit, p.2.
(注29) 中でもイブン・タイミーヤ(d.726/1326)、イブン・アル=カイイム(d.751/1350)、ムハンマド・ブン・アブド・アル=ワッハーブ(d.1206/1792) などが有名である。
(注30) 「マナール」学派は、雑誌『アル=マナール』によって、「サラフィーヤ(復古主義)」の思想を広くイスラーム世界全体に伝え、イブン・タイミーヤの多数の著作を刊行した。ワッハーブ派の宣教は、イブン・タイミーヤとムハンマド・ブン・アブド・アル=ワッハーブの著作を理論的基礎とする「復古主義」であるが、ワッハーブ派の宣教を建国理念とする「宣教国家」がイスラームの2大聖地メッカ、マディーナを擁するアラビア半島に成立したことは、現代の「復古主義」の普及の主要な要因の一つになっている。
(注31) 現代のフィクフ各論の作品の殆どは、特定の学派的立場から書かれてはおらず、非学派的であるか、通-学派的でるかのいずれかである。
フィクフ総論の「非-学派主的」作品の代表的作としてはSaiyid ªābiqのFiqh al=Sunna(スンナによるフィクフ)(全3巻)、MuÆammad Bakr IsmāÔīl、al=Fiqh al=Wā½iÆ min al=Kitāb wa al=Sunna(クルアーンとスンナに基づく明快なフィクフ)(全2巻)、Abū Bakr al=JazāÕirīのMinhāj al=Muslim(ムスリムの道)(同書は信仰論、倫理学も含む)、Yūsf al=Qar½āwīのAl=Åarām wa al=Åalāl al=Islāmī(イスラームの許容するものと禁ずるもの、ÔAbd al=Qādir ÔA»aのHadhā Åarām wa Hadhā Åalāl(これは許容されたもの、これは禁じられたもの)、AÆmad MuÆammad ÔAssāfのal=Åarām wa al=Åalāl fī al=Islām(イスラームに於いて許容されたものと禁じられたもの、「通-学派的」作品としては Wahba al=ZuÆailī, al=Fiqh al=Islāmī wa Adillatu-hu(フィクフとその典拠)(全8巻)、ÔAbd al=RaÆmān al=JaziīrīのKitāb al=Fiqh Ôalā al=Madhāhib al=ArbaÔah(4学派のフィクフの書)(全5巻)、AÆmad MuÆammad ÔAssāfのal=Ahmām al=Fiqhīyah fī al=Madhāhib al=ArbaÔah(4学派のフィクフの諸規定)(全2巻)、MuÆammad Jawād MughnīyaのKitāb al=Fiqh Ôalā al=Madhāhib al=Khamsa(5学派のフィクフの書)などがある。
また「フィクフ百科事典」の編纂としては、エジプトの「イスラーム問題最高会議」による版と、クウェイトのワクフ省による版がある。 cf., ÔUmar Salmān al=Ashqar, op. cit., pp.205-208.
なおフィクフの現状ついては小杉泰著『現代中東とイスラーム政治』昭和堂、1994年、第8章.2.「イスラーム法学のルネサンス」参照。
(注32) フィクフ文献の増大は、イスラーム圏での大衆教育の普及に伴うフィクフ文献購読者層の拡大に対応しており、新しい業績が量産されているばかりでなく、写本の校訂、古典の復刻版の刊行も盛んである。
フィクフの領域の拡大の例としては、イスラーム政治学とイスラーム経済学の成立を挙げることができる。
現代のイスラーム世界ではフィクフの専門教育は、近代的大学制度に組み込まれ、シャリーア学部で行われている。その結果、生徒の選抜、講義、卒業などのシステムが他の自然、社会、人文科学の学部と横並びとなり、師と弟子との人格的関係に支えられたフィクフの伝統的な口伝による免許皆伝方式の教育は、イランのホーゼ・エルミーエ、インドネシアのプサントレン、インド亜大陸のマドラサなどを除いて、消滅の危機に瀕している。
西欧による植民地支配を被ったイスラーム世界の国々は、独立後も西欧法系の実定法を採用したため、裁判官や弁護士は大学の法学部の卒業生からリクルートされている。ところが法学部では通常実定法、西欧法と並んでフィクフが教えられている。それゆえ今日では法学者によるフィクフ研究が増えつつあり、特にムアーマラートの分野では西欧法学の概念構成のフィクフへの応用が試みられている。
また19世紀以来の非ムスリム・オリエンタリストによる文献目録の作成、写本の校訂・出版などの業績はフィクフの研究に大きく貢献している。他方、初期フィクフの歴史に関して現行のハディースの大半を偽作と断ずるJoseph ShachtのThe Origins of Muhammadan Jurisprudence (ムハンマド教法学の起源)のような研究はイスラーム圏では否定的評価を受けている。
なおオリエンタリストによる「イスラーム法」の研究動向の現状を概観するには、三浦徹、東長靖、黒木英充編、『イスラーム研究ハンドブック』、栄光教育文化研究所、1995年、23-28頁(柳橋博之「法学」)が便利である。
(注33)スンナ派イスラームの最高学府アズハルのWebpage,
Islam Online.netのような国際的なイスラーム関連のWebpageは、フィクフに関する問題についての解答欄を有している。また市販のコンピューターソフトウェアとしても95冊の古典フィクフ関連文献を収録したHarf社のJāmiÔ al=Fiqh al=Islāmiなど各種CD-ROMが出版されている。
2.フィクフの基本概念
フィクフは西欧的な意味での「法」とも「道徳」とも異なる性格を有する。それゆえフィクフを理解するためには、先ずフィクフの前提となっている概念を知る必要がある。そこで本章では、フィクフの理解の助けとなるように、その特徴的なイジュティハード(独自裁量)、ファトワー(教義回答)の概念、義務、人間の範疇について概観する。
(1) イジュティハード
フィクフの規範は「法」とは異なり紛争解決の手段ではない。そして学問としてのフィクフは行為規範定立の学である前に、クルアーンとスンナの解釈学である。
フィクフの規範はシャリーア、つまりクルアーンとスンナの教えから演繹されなくてはならない。クルアーンとスンナに明文の規定の存在しない問題に関して、自分自身の判断でフィクフの規範を演繹する作業をイジュティハードと呼ぶ。
イジュティハードの語義は「最善を尽くすこと」である。旅先でキブラの方向が分からない場合に、太陽や星の位置を頼りにキブラの方向を推測することがイジュティハードと呼ばれるのは、言葉の本来の意味に近い。どの瞬間においても、アッラーフの御心に添うべく自分の知識と能力の限りにおいて「最善を尽くすこと」としてのイジュティハードは、全てのムスリムにとっての義務である。
しかしフィクフの専門用語としてのイジュティハード、つまりクルアーンとスンナから導出され、理念的に全てのムスリムを拘束することを意図する「普遍的」な行為規範を定立する行為としてのイジュティハードは誰にでも許されるわけではない。イジュティハードの行使の条件の考察はフィクフ基礎論の仕事である。
フィクフ基礎論学者たちは、イジュティハードの条件として、様々な資格を挙げている。ここでは一例として、ハンバリー派のフィクフ基礎論学者であり、カイロのカーディー(裁判官)を務めたIbn al=Åamdān(d.603)の『ファトワー(教義回答)、ファトワーを発布する者(muftī)、ファトワーを求める者(mustaftī)の性質』に従ってムジュタヒドの資格を纏めよう。
クルアーンとスンナの中の行為規範関連事項を熟知していること。
それには以下のような事柄が含まれる。
(a)字義通りに解釈すべき本義(Æaqīqa)と字義通りに解釈できない転義(majāz)
(b)命令(amr)と禁止(nahy)
(c)包括的な規定(mujmal)とそれを説明する規定(mubīn)
(d)明確な規定(muÆkam)と曖昧な規定(mutashābih)
(e)一般規定(Ôāmm)と特殊規定(khā)
(d)無条件規定(mu»laq)と限定規定(muqaiyad)
(e)先の規定を廃棄する規定(nāsikh)(後法)と廃棄された規定(mansūkh)(前法)
(f)例外(mustathnā)と原則(mustathnā min-hu)
(g)真正なスンナ(aÆīÆ)と瑕疵のあるスンナ(saqīm)
(h)不特定多数の伝える(tawātur)スンナと個人の伝えるスンナ(āÆaād)
(i)預言者から直接誰が伝えたかが知られているスンナ(musnad)預言者の直弟子の伝承者が不明なスンナ(mursal)
(j)伝承者の系譜の連鎖が(預言者(#)迄)つながっているスンナ(muttail)と連鎖の途切れているスンナ(munqatiÔ)
(k)イスラーム史上の全ての世代のフィクフの規定に関する全ての争論と合意事項についての知識。
(l)論拠となるもの(adilla)と争点(shubha)と両者の相違の知識
(m)類推とその諸条件と関連事項の知識
(n)ヒジャーズ地方、イエメン、シリア、イラク及び辺境でのそれぞれのアラビア語の方言と語法の知識。( cf., AÆmad bn al=Åamdān al=Åarrānī al=Åanbalī, ªifa al=Fatwā wa al=Muftī wa al=Mustaftī, Bairūt-Dimashq, 1397, p.16.)
イジュティハードのこれらの全ての条件を満たした者は、無条件的ムジュタヒド(イジュティハード行使者)と呼ばれる。フィクフの専門用語としての完全なイジュティハードは、この無条件ムジュタヒドにして初めて行うことができるのである。
無条件ムジュタヒドは他のファキーフ(フィクフ学者)・ムジュタヒドの意見に拘束されることなく完全に独自の判断でフィクフの規範を演繹することが許される。
「無条件ムジュタヒド」にはスンナ派フィクフの4学祖はアブー・ハニーファ、マーリク、アル=シャーフィイー、アフマド・ブン・ハンバル、また4学祖と同世代のアル=アウザーイー(d.157)やスフヤーン・アル=サウリー(d.161)、ダーウード・アル=ザーヒリー、イブン・ジャリール・アル=タバリーなどのフィクフの巨匠たちが含まれる。
イジュティハードの語義は「最善を尽くすこと」である。イジュティハードの全ての条件を満たさず無条件ムジュタヒドのレベルに達しない者にとっては、フィクフの規範の演繹の独自の方法論を打ち立てた過去の無条件ムジュタヒドの判断に従うこともまた、彼のイジュティハードである。
無条件ムジュタヒドのいずれかの規範演繹の方法論に倣いその判断に倣う学者の集団が学派(madhhab)である。それぞれの学派内の学説の全てに通じている学者が学派内ムジュタヒドである。学派内ムジュタヒドは学派の学説の範囲内でイジュティハードを行うことが許されるが、学派内ムジュタヒドを更に細分することもある。
スンナ派の現存する4学派はハナフィー派、シャーフィイー派、マーリキー派、ハンバリー派の4学派であるが、無条件ムジュタヒドのレベルに達しない学者がこれら既存の4学派のいずれかに帰属する必要があるか否かについては議論がある。学派拘束の問題は現代のフィクフ学者の間の最大の争点と言っても過言ではない。
しかしここで注意すべき派、学派への帰属義務はフィクフ学者にのみ関わる話題である、ということである。フィクフの教養を欠く無学者(jāhil)にはそもそも学派への帰属自体が存在せず、理解できる範囲で知っているクルアーンとスンナの明文に従えばよく、またそれも不可能であればファキーフに相談することも許され、それが彼のイジュティハードなのである。
(2)ファトワー
前節で述べた通り、フィクフとは第一義的にはクルアーンとスンナの解釈学であり、全てのムスリムはクルアーンとスンナに自らの行為の指針を求めなければならない。いわゆるイジュティハードの義務である。しかし現実には、イスラーム学の専門用語としての「イジュティハード」を行いうるのは一定の学識を備えたイスラーム学者のみであり、学者ならぬ「平信徒(j±hil, Ô±mmµ)」は、自らイジュティハードを行うことなく専門家に相談することが多い。このような質問に対する回答が「ファトワー(教義回答)」と呼ばれる。
ファトワーの原義は,「説明」,「解説」であり,イスラーム学の専門用語としての「ファトワー」もイスラーム法にかかわる問題に限らず,神学,信条,道徳などあらゆる分野についての問題に対するイスラーム的観点からの判断を含む。しかしイスラーム世界での質問の多くが行為規範,すなわちフィクフに関する問題であるため,各法学派の学説に通じた法学者がファトワーを求められることが多く,またファトワーについての主題的な学問的考察は,イスラーム学の伝統の中では法学基礎論の枠組みの中で行われてきた事実があり,したがって,ファトワーをフィクフの重要概念に数えることも許されよう。
古典イスラーム学の定義によると「ファトワー」を発布する資格を有する者,すなわち「ムフティー」とは,前節で述べたムジュタヒドに他ならないが,ムフティーの条件にはイスラーム学の学識と並んで現実の認識が必要とされる。
ハンバリー派法学者イブン・アル=カイイムはそのフィクフ基礎論の著作の中で,ムフティーにしろ裁判官にしろ,2種類の知を欠いてはファトワーも判決も発することはできない。第1は現実の事態(w±qiÔ)の理解である……第2がその現実の事態において何が義務であるかの理解であり,それはアッラーフがその事態に関してその書クルアーンの中でか,あるいはその使徒の口を通して定めた規範の理解なのである。」(Ibn Qayyim al=Jauzµyah,
AÔl±m al=MuwaqqiÔµn, Beir¹t, 1955, vol.1, part1, pp.87-88)と述べ,ファトワーを発するには単にフィクフの規定を知っているのみで十分ではなく,まず現実の事態の正しい認識が必要であることを強調している。
イブン・アル=カイイムが彼の師イブン・タイミーヤから伝える以下の逸話は,フィクフの細則のみに囚われた視野の狭い者には正しいファトワーを発することができず,イスラーム法の原則を踏まえた上で大所高所からの問題の背景を見通し総合的に最善の判断を下す必要があることの好例と言えよう。
私は「イスラームの師表」イブン・タイミーヤが,以下の話を度々語るのを聞いたものである。
「タタール人による占領時代,私(イブン・タイミーヤ)がハンバリー派の同学の一人と共に,タタール人の一団が酒を飲んでいるところに通りかかったところ,私の同行者が彼らを咎めようとした。そこで私はこう言って彼を阻止した。
『アッラーフが酒を禁じ給うたのは,酒がアッラーフを念ずること,礼拝から遠ざけるからに他ならない。ところが彼らタタール人に関しては,酒は殺人,児童誘拐,金品強奪から彼らを遠ざけているのだ。だから彼を(殺人,誘拐,強盗より社会にとってより害の少ない酒宴に耽るままに)放っておきなさい(ibid, vol2, part3, p.16)
イブン・タイミーヤはその国法学の書に於いて,いかなる種類の酒であれ一滴たりとも飲むことは許されない,と厳しく飲酒を禁じているが,一般的行為範疇に妥当する法的規定を明らかにすることと,それを現実の事態に適応することとは全く別の問題なのである。ムスリムとは名ばかりで市民に暴虐を働く残酷な異民族占領軍であったタタール人たちの飲酒に関しては,飲酒の禁止の規定を適用するよりも,彼らが酒を飲むと浮かれ騒ぐだけで市民に害を及ぼさないなら,ムスリムの生命と家族と財産の保護というより上位のフィクフの大原則を適用すべきであると,イブン・タイミーヤは,目前の「飲酒」ではなく,より大きな「暴力集団とその馴化」を事態の本質と捉えてフィクフの観点から問題を構成したのである。
ムフティーにはイスラーム学の学識が条件となるが,条件となる学識について「誰がムフティーに相応しいか」を判断することができるのは,本来はそうした学識を有するイスラーム学者だけである。しかしそもそもムフティーを必要とするのは,そのような学識を欠く「平信徒」である。ところが,既存の通り,イスラームにはシャリーアの独占的解釈権を有するいかなる個人も,階級も存在せず,また国家であれ国際組織であれ,ムフティーを「公認」する「権威」を有するいかなる機関も存在しないため,「平信徒」は「政治・宗教的権威」に頼ることなく自らのムフティーを「自由」に選ばざるをえないことになる。
今日のイスラーム世界では,国家の支配者たちが「最高ムフティー」を任命することが一般的である。ところが,現在のイスラーム世界にはカリフが存在しないため,イスラーム世界全体で「公式」に認められた唯一の最高ムフティーは存在しえず,国家単位の「最高ムフティー」が並存しているのである。もちろん,フィクフの観点からは,こうした「最高ムフティー」には特別な権威はなく,「平信徒」は国内においても必ずしも「自国」の最高ムフティーに従う必要はなく,また「外国」にファトワーを求めることも許される。また彼ら「最高ムフティー」たちだけでなく,いかなるムフティーの回答であれ,質問者以外を拘束しないのはもとより,当の質問者であれ,当人が納得しなり限り,その回答に従う義務はない。
ファトワーには特定の形式は存在せず,またどこの国に属する誰であれどこの国の誰をムフティーに選んでも構わない。現代におけるファトワーの例として,著者がたまたま知己を得たシリアの最高ムフティーに対して行った2件のファトワーの請求と回答例を以下に掲げておこう。
例1(訳)
慈悲深く慈愛遍きアッラーフの御名において
アブー・アル=ヌール・イスラーム学院
質問:
新人ムスリムの初学者には、特定の法学派の見解に従うことが義務となりますか?
ファトワー請求者:Dr.ハサン中田考
回答:
イスラームはムスリムに特定の法学派の見解に従うことを義務づけてはいない。ただしイスラームはムスリムたちが、博識なウラマーゥから宗教を学ぶことを義務づけている。それゆえアッラーフは「汝らが知らなければ、学識者に尋ねよ」(1)と仰せられているのである。ムスリムの初学者の従うべき見解は、その者のムフティーの見解である。
ヒジュラ暦1418年11月2日―西暦1998年3月1日ダマスカス
Dr.アル=シャイフ・アフマド・クフタロー
シリア共和国最高ムフティー
イフターゥ最高評議会議長/アブー・アル=ヌール・イスラーム大学学長
(1)クルアーン21「預言者達」章7節
例2(訳)
慈悲深く慈愛遍きアッラーフの御名において
アブー・アル=ヌール・イスラーム学院
質問:
ワフバ・アル=ズハイリー博士はその著『イスラーム法とその典拠』3巻689項において、「キリスト教国からの輸入肉は、たとえ屠殺時にアッラーフの名前が唱えられていなくても、食用が許される」と述べています。それでは、シャリーアに則って屠殺した肉が多少の負担で入手可能な場合でも、店で市販されているアメリカやオーストリアからの輸入肉の食用は許されるのでしょうか?
ファトワー請求者:Dr.ハサン中田考
回答:
「啓典の民の食物は汝らに許されている」(1)との至高なるアッラーフの御言葉の一般原則に基づき、キリスト教国からの輸入肉は食用が許され、それを食べることに問題はない。
啓典の民の屠殺肉にはアッラーフの御名を唱えることは条件とはならない。また同様に「ある男が預言者の許にやって来て「アッラーフの使徒様、我々の中の一人の男が屠殺するのに至高なるアッラーフの皆を唱えるのを忘れたのを知っておられますか?」と尋ねた時、彼は「アッラーフの御名は全てのムスリムの心中に存在する」と答えられた(2)とのハディースに基づき、ムスリムの屠殺肉にもアッラーフの御名を唱えることは条件とはならない(3)。
それゆえ啓典の民の屠殺肉を食べることには全く問題はない。またムスリムは負担になるなら、ムスリムによる屠殺肉の購入が義務として課されることはない。
ヒジュラ暦1418年11月2日―西暦1998年3月1日ダマスカス
Dr.アル=シャイル・アフマド・クフタロー
シリア共和国最高ムフティー
イフターゥ最高評議会議長/アブー・アル=ヌール・イスラーム大学学長
(1) クルアーン5「食卓」章5節
(2) 『ナスブアル=ラーヤ(ハナフィー派法学書)4巻182頁』
(3)
『ムグニー・アル=ムフタージュ(シャーフィイー派法学書)』6巻95頁以降
(3) フィクフの義務範疇
法には大別して2つのタイプのルールがある。義務を課すルールと権能を付与するルールである。フィクフも義務を課すルールと権能を付与するルールの双方を扱う。
先ず義務を課すルールであるが、フィクフにおいては、義務は5段階に分類される。
イスラームの教えの根幹はアッラーフのみに崇拝を捧げることであり、最大の義務はアッラーフのみを唯一の神と認めることであり、最大の罪は偶像崇拝である。人の行いの価値には差があるが、人間には全ての行為類型の価値を網羅的に定めることはできない。そこでフィクフは行為を 義務行為、 推奨行為、 合法行為、 自粛行為、 禁止行為の5つの範疇に整理する。
(1)義務行為
義務行為(wājib、far½)とは、行わなければ来世で罰を受ける行為である。1日に5回の定時礼拝、ラマダーン月の日中の断食などが義務行為である。
(2)推奨行為
推奨行為(mustaÆabb、mandūb、sunnah)とは、行わなくとも来世で罰は受けないが、行えば来世で報奨が得られる行為である。病人を見舞うこと、傷害の加害者に対する同害報復と賠償の請求を取り下げることなどが推奨行為である。アラビア語ではmustaÆabb、mandūb、sunnahなどの同義語があるが『満悦を求める者の糧』の翻訳では原則的にムスタハッブに統一した。ちなみにイスラーム学の用語ではスンナとはアッラーフの使徒のスンナ(言行)を意味するが、フィクフの規定で「スンナ」と言えば、アッラーフの使徒の言行によって勧告されている行為の中でも義務ではないものを指す。
(3)合法行為
合法行為(mubāÆ、jāÕiz)とは、行っても行わなくとも来世で罰も報奨もない行為である。合繊の服を着る、玄米を食べる、木造住宅に住むなど、フィクフに特に規定のない衣食住などの日常行為は全て合法行為となる。
(4)自粛行為
自粛行為(makrūh)とは、行っても来世で罰は受けないが、自粛して避ければ来世で報奨が得られる行為である。正当な理由のない離婚や食用トカゲの肉を食べることなどが自粛行為の例となる。
(5)禁止行為
禁止行為(Æarām)とは、行えば来世で罰を受ける行為である。飲酒や婚外交渉などが禁止行為である。
フィクフにおいては「義務を課すルール」は、我々の考える法と道徳を共に含んでいる。またフィクフにおいては「義務を課すルール」は、国家権力による制裁ではなく、アッラーフによる来世での制裁と報奨によって定義されている。フィクフの定める現世での国家による制裁の規定は、強盗、窃盗、飲酒、姦通、誣告、内乱、背教に対するハッド(法定刑)、内乱と、殺人、傷害に対するキサース(同害報復刑)に限られている。
またファイクは、一部の義務の不履行、禁止行為の侵犯に償い(kaffārh, fidyah)を定めている。
巡礼を例にとると、巡礼の儀には複雑な義務と禁忌があるが、その全てを完全に行わなければ巡礼が成立しない訳ではなく、救済措置としての償いが定められている。例えば巡礼月の10日の夜はムズダリファの地での夜明かしが義務であるが、これに遅れたか、あるいは夜半前に通り過ぎてしまった場合には、羊一頭の犠牲が償いとなる。また巡礼には狩猟が禁じられているが、狩猟の禁を犯した場合には、獲物と等価格の家畜を犠牲に捧げることが償いとして課される。
償いはあくまでも犯してしまった罪の償いであって、償いが定められているからといって、後で償えばよい、といって義務を怠ったり禁忌を破ることが許されているわけではない。
フィクフにおける償いの規定は、斎戒や誓願を破った場合、「ズィハール」離婚の取り消し等に限られる特例措置である。イスラームには「善行は悪行を帳消しにする」との原則があるが、クルアーンとスンナに明文のある「償い」を除いて善行と悪行の貸借帳簿を作ることはフィクフの関心の外にある。
フィクフは、義務-禁止を規定するのみならず、浄-不浄をも規定する。
不浄とされるものには排泄物、豚肉、死肉、血、経血、悪露等がある。また性交、背教、発狂等も儀礼的浄化を必要とする不浄とみなされる。豚肉、死肉、酒などの不浄物は、そもそも接触自体が原則的に禁じられる。排泄、月経、出産、性交等による生理現象による不浄はそれ自体が禁じられるわけでは勿論なく、その状態で礼拝等の儀礼行為を行うことが禁じられる。これらの不浄は儀礼的浄化によって解消される。儀礼的浄化は、不浄物を取り除いた後に、水によって清めるのが原則であり、手足、顔、頭のみの洗浄と、全身を洗う沐浴の2種類がある。
また礼拝、斎戒、巡礼などの儀礼を行う間は、忌みの状態に入り、普段は許されている行為の一部が禁じられる。例としては、礼拝中のお喋りの禁止、斎戒中の日中の飲食の禁止、巡礼の狩猟の禁止等が挙げられる。
「権能を与えるルール」に適った行為は「有効(aÆīÆ)」であるが、不適格な行為は「無効(bā»il)」となる。行為が有効であるためには、「構成要件(rukn)」が満たされている必要がある。また行為が有効であるためには、行為の時点で必要な「条件(shar»)」がそろっていなければならない。
行為が有効であるためには、構成要件と条件を共に満たさなくてならない。構成要件を欠くか、条件を満たしていない行為は儀礼行為であれ社会関係行為であれ無効である。構成要件と条件の違いは、構成要件が行為の不可欠な要素であるのに対して、条件はその行為とは別個の事象であることである。礼拝を例にとると、跪拝することや、立ってクルアーンの「開扉の章」を読むことは礼拝の構成要件であるが、事前に穢れの浄化を行うこと、恥部を隠すこと等は礼拝が有効であるために条件である。
また婚姻の構成要件は新郎の側からの申出と新婦の側の受諾であるが、二人の証人を立てること、両者が婚姻禁止関係にないこと、女性の後見人の同意は婚姻が有効であるための条件である。
また有効な契約には解約ができない確定契約(lāzim)と解約が可能な未確定(jāÕiz)契約がある。
売買契約は、両当事者が契約の場に同席している間は、解約が可能である。契約にあたって予め解約期間を条件付けた場合はその期間が過ぎるまでは、その契約は確定しない。また婚姻契約は床入れによって初めて確定する。
他方寄託者の側からの解約が常に可能な信託のような契約は、未確定契約と呼ばれる。
礼拝、斎戒、巡礼などの義務は定刻内に行われなくてはならない。定刻内に行われた場合が「定刻内履行(adāÕ)」である。しかし定刻内に行われなかった場合にも履行義務は消滅しない。定刻を逃した義務を定刻外に行った場合が「定刻後履行(qa½āÕ)」である。
巡礼の定刻外履行は翌年の定刻、つまり巡礼月を待たなくてはならない。しかし礼拝、斎戒の定刻外履行は違い、例えばファジュル(夜明け前)の礼拝の定刻外履行は翌日のファジュルではなく、日の出後のなるべく早い時間であり、ラマダーン月の斎戒の定刻外履行は、翌年のラマダーン月の前に済ませなくてはならない。
(4)フィクフと人
この世に同一の人間は二人と存在しない。人は生まれてから死ぬまでの間に不断に変化する。それゆえ人間が共同生活を行うためには、年齢、性別などを基準に「人」をいくつかの範疇に分類し、それぞれの義務と権利を定める必要が生じる。
イスラームは極めて平等主義的な宗教であり、フィクフの規定は原則としては万人に平等に適用される。しかしそれはフィクフが全ての「人」を無条件に同一のものとして扱うことを意味しない。
フィクフの規定は、通常「心身の健常な自由人成人男性ムスリム」の理念型を念頭において構成されている。しかし一方でフィクフは年齢、性別、判断力、自由度、血統、人格等を基準に「人」を範疇化し、一部の規定に差異を設けている。
(1) 年齢
(a)胎児
胎児はある時期を越えると「人」とみなされる。従ってムスリムの両親か片親がムスリムの場合は、流産の胎児の遺体にもイスラーム式の葬儀を行い、ムスリム墓地に埋葬することが義務となる。
また胎児の生命は尊重されるので、妊婦の死罪が確定した場合には出産まで刑の執行が猶予される。
胎児は出生と同時に権利能力を得るため、乳児にも遺産相続権などの権利が生じる。乳児が成人するまでその生命、財産を正しく管理することは後見人の義務となる。
(b)幼児
幼児は母親と暮らす権利を有す。子供が幼児の間は奴隷の婢であっても、その子供と別々に売ることは許されない。また両親が離婚した場合、幼児は母親と暮らすことを選択することができる。
(c)小児
物心(tamyµz)のついた小児は、礼拝や斎戒などの儀礼に参加することができるようになる。小児の儀礼は有効であり、アッラーフからの褒賞を得るが、成人するまでは儀礼の参加は義務とはならないので、怠っても来世における罰はない。但し小児に対して父親が体罰によって礼拝の「躾け」を行うことは認められる。
また小児は、状況によっては法廷での証言なども認められる。
(d)成人
子供が性的に成熟すると成人(bāligh)である。成人すると義務能力者(mukallaf)となり、全ての義務を負い、違反すると罰を受けることになる。
(e)行為能力者
自分で危なげなく取引を行えるだけの社会経験を積む年齢に達した者が行為能力者(rashµd)である。子供は行為能力者となると後見人の手を離れる。
(f)老人
老人になると、斎戒の義務が免除され、女性の服装規定が緩和されるなど、若干の義務が免ぜられる。しかし原則的には心身が健康である限り、老人は権利、義務において行為能力者とみなされる。
(2)性別
宗教儀礼、商行為、刑罰などフィクフの殆ど領域においては男女の権利、義務は若干の例外規定を除いて同等である。しかし婚姻、離婚、相続などの身分法、服装規定などにおいては男女の役割、権利、義務の差は明白である。一般的に男性は女性に比べて大きな権利を有する一方で、重い義務を負う。
(a)男性
男性はジハードの出生、金曜集団礼拝参加の義務など女性にない義務が生じる。一方で国家構成法の分野ではカリフ位のように男性しか就けない職務があり、また法廷においては男性の証言は女性の証言以上の価値がある。
身分法では男女の権利、義務の違いは明白である。婚資の支払い、結婚後の妻子の扶養が男性のみの義務である一方で、男性のみに4人の配偶者をもつ権利、一方的離婚権があり、男子の相続分が女子の相続分の2倍であるなど男性の優位が認められている。
(b)女性
宗教儀礼においては女性には月経、出産などに伴い礼拝の免除など特別な規定がある。身分法上は女性は婚姻に際して婚資を受け取る。他方、婚姻契約には後見者の同意を必要とし、また女性の側から離婚を申し出る場合には離婚の成立には裁判官の同意が必要である。
(c)両性具有
フィクフは男性であるか女性であるかが明確でない者を両性具有(khunthā)と呼ぶ。両性具有者は、いずれか一方の性徴がはっきり勝る場合は、勝った性の規定に準ずる。真性両性具有者の規定の原則は、男女のどちらであっても差し支えないように慎重(iÆtiyā»)を期することである。例えば礼拝では真正両性具有者は男性の列と女性の列の中間に立つ。また真正両性具有者は、女性には許されているが男性には禁じられている絹や金を身につけることは自粛すべきとされる。
(3)判断力
十全な判断力を有する成人は「理性人(Õāqil)」と呼ぶ。もっともフィクフのÕāqilの語感は哲学的な「理性人」というよりもむしろ「常識を弁えた大人」に近いものであるため、翻訳の中では適宜訳しわけている。
フィクフが「理性人」に達しないとみなす範疇には以下のような者が入る。
(a)未成年
未成年はまだ十分な理性を有さないとみなされるため義務を免除される。未成年とは既述の幼児、小児を指す。
(b)愚者(maÕtūh)
愚者は所有権、相続権などの権利能力は有するが、行為能力、義務能力はないと見做される。民事の契約は、後見人が行い、宗教儀礼や刑罰は免じられる。
(c)禁治産者(safīh)
浪費癖があるなど、財産の管理能力がないとみなされる者は「禁治産者」と呼ばれる。禁治産者の契約は後見人によって解約できる。
(d)狂人(majnūn)
狂人の規定は愚者に準じる。しかし愚者と違って狂人は時に正気に戻ることもありうる、とみなされており、正気の間は理性人と同じ義務と権利が生じる。しかし再び発狂すれば、正気の間に犯した罪の罰の執行は次に正気に戻るまで猶予される。
(4)自由度
奴隷は財産権を有さず、その扶養は所有者の義務となる。一般に奴隷は自由人に比べて権利が少ない反面、義務が軽減される。例えば奴隷にはジハード参戦、集団礼拝参加、巡礼は義務とならない。また自由人女性は顔と手を除く前身をヴェールで覆わねばならないが、婢は自由人男性と同様に臍から膝までを覆えば済む。奴隷にも結婚は認められているが、自由人とは結婚できない。但し婢の子供が主人の認知を受ければ、その婢は解放される。
奴隷の中でも、自分自身の稼ぎによって将来自らを身請けするとの契約を主人と結んだ「自己身請契約奴隷(mukātab)」、主人たちの一部から解放された共有奴隷「部分解放奴隷(mubaÕÕa½)」、主人が死んだ時点で解放されることを約束された「解放予定奴隷(mudabbar)」等は一般の奴隷より「自由度」が高く、権利も大きい。
解放奴隷は自由人の規定に準じる。但し相続や後見などにおいて、解放奴隷と元主人の関係が親族関係に擬される場合が若干ある。
(5)血統
フィクフは若干の領域で、特定の血統に特別な規定を設けている。フィクフの認める血統はアッラーフの使徒の子孫、クライシュ族、アラブ出身部族である。また婚姻においては血統が考慮され、後見人が家柄の劣る花婿候補との婚姻を決めた場合には女性には婚姻契約破棄の血統がある。なおこのフィクフで言う血統は男系出自を指し、言語や肌の色とは無関係である。
(a)アッラーフの使徒の子孫、
アッラーフの使徒の娘ファーティマの男系の子孫は一般にサイイド(主人)、シャリーフ(貴人)の尊称で呼ばれ、イスラーム社会では非常な尊敬を受けている。しかしフィクフがアッラーフの使徒の子孫に定める規定は特権ではなく、アッラーフの使徒の子孫はザカー(法定喜捨)の配分を受けてはならない、との禁止のみである。但しシーア派フィクフによると、アッラーフの使徒の子孫は5分の1税の配分を受ける。
(b)クライシュ族
クライシュ族とは、アッラーフの使徒の時代のマッカの貴族であり、使徒の出身部族ハーシム家もクライシュ族の支族でした。このクライシュ族の出自がカリフの資格条件となる。
(c)アラブ
婚姻においては女性に対する男性の「釣り合い」が求められる。後見人が「釣り合い」の取れない花婿候補との婚姻を決めた場合には女性には婚姻契約破棄の権利がある。「釣り合い」には資産、信仰などと並んで血統が考慮され、アラブ女性は後見者の決めた非アラブ男性との婚姻を拒否することができる。
(6)人格
カリフや裁判官などの一部の「公職」には、良きムスリムとしての人格(Õadāla)が求められる。また商行為や裁判において証人となるためにも、公正な良きムスリムであることが必要とされる。