中田考、「規範と存在一イブン・タイミーヤ神学の言語的基礎一」、島薗進、鶴岡賀雄編、『宗教とことば一宗教思想研究の新しい地平一』、1993年、pp.149-167

6章規範と存在

一イブン・タイミーヤ神学の言語的基礎一

                      中田考

 

1 序

タキーユッディーン・イブン・タイミーヤ(通称イブン・タイミーヤ)1263,シリアのハッラーンに著名な学者の家系に生まれた。彼は幼少時より,父シハーブッディーン・イブン・タイミーヤ,おじファフルッディーン・イブン・タイミーヤからハディース学,クルアーン注釈学,イスラーム法学などを学んだ。イブン・タイミーヤはこうしたイスラーム諸学を修めたのみならず,哲学、神学などをも研究した。イブン・タイミーヤは幼少時より秀才の誉れ高く,1283年父シハーブッディーンが死んだ時,既に彼はイスラーム諸学に精通しているとみなされており,1284年父の後を襲ってハディース学の教授職につき講義,説教を行う傍ら,精力的に著作活動をも行った。

イブン・タイミーヤの時代は,十字軍,タタール(モンゴール)の侵攻などの政治的混乱の時代であった。また文化,社会的にも彼の生きた13,14世紀は,十字軍,タタール侵攻に呼応したシーア諸派の活動に加え,アシュアリー派神学,存在一性論学派など,本来イスラームに存在しなかった思考様式の浸透,法学の硬直化,聖書「崇拝」などの異教的習慣の蔓延など,イスラーム世界は多くの問題を抱えてきた。

イブン・タイミーヤはイスラーム世界が正しいイスラームから逸脱しているとの自覚にたち,真のイスラームヘ立ち帰ることを説く。イブン・タイミーヤは真のイスラームは,クルアーンと預言者ムハンマドの言行を収めたハディースによって明らかにされていると考える。したがって後世になって紛込んだ來雑物を排し,「初期教父(salaf)」のように原点たるクルアーンとハディースを直接自らの指針とすることこそ,真のイスラームの実現への道となるのである。

イブン・タイミーヤにとってイスラームは単なる思弁ではなく,生き方そのものでなければならなかった。それゆえ彼は書斎の学者であるにとどまらず,タタール軍のダマスクス包囲に際しては,軍人やイスラーム学者などの町の指導者層が逃亡した後も,市民と共に町に踏止まり,タタール王との交渉にあたり市民の安全を守るべく努めた。その後もタタールの侵攻に際しては,ジハード(聖戦)の法布告を出し,自らもマムルーク朝のスルターン・ナースィル(在位1294-5,1299-1309,1309-41)と共に遠征に参加し,軍の士気を鼓舞した。こうしてイブン・タイミーヤはスルターン・ナースィルの信任を得,一時期,その諮問を受けて政策の立案にも携わった。

イブン・タイミーヤはその生涯をかけて,クルアーン,バディースヘの直接の「回帰」を説き続けたが,それは当然当時の既存の神学,法学,スーフィズムなどの在り方を批判することを意味した。そのためイブン・タイミーヤは宗教エスタブリッシュメントの怒りを買うことになり,度々「異端審問」にかかり投獄,釈放を繰り返した末,1328年獄中にて波乱の生涯を閉じた。

イブン・タイミーヤは後世のイスラーム改革思想に多大な影響を与えており,非イスラーム圏でも近年彼に関する個別研究が進みつつある。彼は数百点を数える作品を残したと言われ,その多くが既に公刊されている。しかし彼はその殆んどにおいてクルアーン,ハディースを引用しつつ,真のイスラームを歪曲する物の誤謬,邪説を論駁するという著述スタイルを取っており,自分自身の「思想」を体系的に解き明かすことには主たる関心を示していない[1]。それ故,個々の問題についてのイブン・タイミーヤの見解に関する研究は蓄積されつつあるにも拘らず,彼の「思想」の基本構造は見失われたままであるように思われる。

イブン・タイミーヤは狭い意味でのイスラーム神学者ではない。しかしイスラーム神学者,哲学者のものとは全く異なるとの自覚に立ったアッラーと世界の関係についての明確なビジョンを持っていた,という意味で筆者はイブン・タイミーヤの「神学」を語ることが許されると考える。本稿はイブン・タイミーヤの「神学」の基本理念を彼の言語観との関係において考察したい。

 

2 アシュアリー派神学の世界観

 

イブン・タイミーヤ「神学」の世界観の特質を明らかにするためには,それをイスラーム神学者の世界観と対照しなくてはならない。そこで本章ではまずイスラーム・スンナ派の代表的神学であると言われるアシュアリー派の神学の基本構造を略述する。

アシュアリー派神学は,アル=アシュアリー(d.935)を名祖とする。しかし一口にアシュアリー派と言っても,アル=アシュアリーから現在までの間には,その内容に大きな変化が生じている。そこで本章ではアシュアリー派「神学」と「哲学」の融合期に位置すると目され,イブン・タイミーヤにもしばしば引用されるファフルッディーン・アッ=ラーズィー(d.1210)の世界観を取上げる。

アッ=ラーズィーによると存在者(mauj¹d),その本質(Æaqµqa)からして「非在(Øadam)」であることが有得ないものと,本質的に「非在」でありうるものに分れる。そして「本質(Æaqµqa)からして非在であることがありえないもの」は「自体的(li-dh±ti-hi)必然存在者」と呼ばれ,「本質的に非在でありうるもの」は「自体的可能存在者」と呼ばれる。そしてこの「自体的必然存在者」こそが「アッラー」に他ならず,存在者のうちでアッラーを除いたもの,即ち自体的可能存在者の総体が「世界」である。

自体的可能存在者は,それだけで存在しうる「自立者(q±Ùim bi-nafsi-hi)」と,他者に宿って初めて存在しうる「他立者(q±Ùim bi-ghairi-hi)」に分れる。自立者は「空間を占めるもの(mutÆaiyiz)

」と「空間を占めないもの」に分れるが「空間を占めるもの」は,「分割可能なもの」と,「不可分のもの」に分れる。この「分割可能なもの」は「物体」と呼ばれ,「不可分なもの」は「原子(jauhar fard)」と呼ばれる。また自立者のうち「空間を占めないもの」が「霊的存在(jauhar r¹Æ±nµ)」である。そして他立者とは「偶有(Øara½)」のことであるが,偶有が「空間を占めるもの」に宿る(Ʊll)とき,それは物的偶有であり,「空間を超えたもの」に宿る場合が霊的偶有なのである。よってアッ=ラーズィーの世界観は,以下のように纏めることが出来る[2]

*存在者の分類

I.自体的必然者(=アッラー)

II.自体的可能者(=世界)

1.自立者

A.空間を占めるもの

a.分割可能なもの(=物体)

b.不可分なもの(=原子)

B.空間を占めないもの(=霊的存在)

2.他立者(=偶有)

A.「空間を占めるもの」に宿るもの(=物的偶有)

B.「空間を占めないもの」に宿るもの(=霊的偶有)

「存在者」のこの分類整序を世界観の基本的な枠組みとし,アシュアリー派神学はこの枠組の中で,創造主の存在,無始性,唯一性,無比性,アッラーによる世界の無からの創造の証明,哲学の論駁などを行っていくのである。

ところがイブン・タイミーヤはこうした神学の枠組みを根底から否定する。彼は「物体」,「原子」,「偶有」などの概念構成の有効性自体を否定しているからである。

サラフ(初期教父)やイスラーム諸学の学匠たちが神学を非難したのは,単に神学が「原子」,「物体」,「偶有」などの専門用語を創出したという理由からではない。むしろそれらの語が肯定される場合も,否定される場合も,曖昧で多義的であるため,神学者たちがそうした語を用いて行う論証,判断に,非難すべき虚偽が生じるため,それを禁止しなくてはならないの

である[3]

サラフの言語使用を理想とするイブン・タイミーヤにとって,アシュアリー派神学の世界観は,サラフの正しい言語使用を逸脱した新奇な思考様式,誤った概念構成の産物の1つなのである。

 

3 タウヒード論

 

イスラームは「アッラーの他に神は無し」との信仰告白に明らかなように,一神教の純粋形態として,神の唯一性をその根本教義とする。それゆえイスラームの学問区分の中で「神学(Øi1m a1=kal±m)」は,別名「タウヒード(一化)の学(Øilm at=tauƵd)」とも呼ばれる[4]

イブン・タイミーヤは,小著ながら彼の思想を知る上で重要なar=Ris±la at=tadmurµya(『タドムル書簡』)の中で神学者のタウヒード理解を批判して言う。

神学や学問論(naÃar)の書物の中でタウヒードを立証する神学者の多くが意図しているのは,タウヒードを三種類に分類することである。

彼等は,「アッラーは本体(dh±t)に於いて部分を有さず唯一である」,「アッラーは属性に於いて同類を有さず,唯一である」,「アッラーは行為に於いて協力者を有さず,唯一である」と言う。

そしてこの三種類のタウヒードの中で,神学者の中心的主題となるのは,第三の行為に於けるタウヒードである。そしてそれは「世界の創造者がアッラー唯一者であること」を意味し,彼等は「矛盾による論証」などの議論を用いてそれを証明しようとするのである。

彼等はそれ[アッラーが唯一の世界の創造者であることの証明]こそ求められているタウヒードであり,それが我々の「アッラーの他に神は無し」との信仰告白の言葉の意味であると考え,「神性(il±hµya)」の意味を「創造を為す力(qudra Øal± al=ikhtir±Ù)」であると見做すに至っているのである[5]

イブン・タイミーヤによると,神学者のタウヒードとは,創造者がアッラー唯一者であることの証明である。ところがイブン・タイミーヤによると,そもそも「神」の語は「創造者」を意味しない。「創造者」の意味に相当するアラビア語はむしろ「主(rabb)」なのであり,「神」とは「崇拝されるべき者(ma Øb¹d)」を意味するのである。そして使徒ムハンマドの宣教に対して,アッラーが創造を司る「主」であることに関しては,当初より多神教徒のアラブも認めていたのである。それゆえ使徒ムハンマドが改めて伝えなければならなかった使信とは,「崇拝されるべき者」がアッラー唯一者であり,人間の崇拝行為が全てアッラーのみに捧げられなければならないということだったのである[6]

イブン・タイミーヤは神学者のタウヒード三分法に替えて,自らのタウヒード二分法を呈示する。それが「主性に於けるタウヒード」と「神性に於けるタウヒード」との区分である。「主性に於けるタウヒード」とはアッラーが唯一の創造者であるとの認識であり,「神性に於けるタウヒード」とはアッラー唯一者のみに崇拝を帰すこと,即ちアッラーのみの命に服することを意味するのである。

そしてイブン・タイミーヤは,神学,哲学の議論のみならず,アッラーと世界の同一を説き,それをもって真知とする神秘主義の諸形態をも全て「主性に於けるタウヒード」として一括する。そして彼によると「主性に於けるタウヒード」の次元に止まる限り,いかなる理論的精緻化もタウヒードの完成とはならず何の意味もない。それどころかそのようなことによっては,人はそもそもムスリムとなることすら出来ないのである。つまりイスラームは,「主性に於けるタウヒード」とは質的に異なる別の原理が必要とするのであり,それが「神性に於けるタウヒード」なのである。

このようにイブン・タイミーヤは,イスラームを「主性に於けるタウヒード」と「神性に於けるタウヒード」という質的に異なる2つのタウヒードの結合として把握しなおす。言替えれば,「主性に於けるタウヒード」とは理論の地平,「神性に於けるタウヒード」とは実践の地平であり,両者の問には断絶があり,理論面でのタウヒードをいかに深化しようとも,それが自動的に実践面でのタウヒードの達成を保証するわけではないということである。イブン・タイミーヤは実践面でのタウヒードをイスラームの本質とし実践に優位を置く形で,タウヒードを理論と実践に二重化して再定式したのである。

 

4 叙述と要求

 

前章で我々はイブン・タイミーヤの理論と実践の二重のタウヒード概念を見た。そしてこの二重のタウヒード理解は彼の問題意識に対応しているのである。

『タドムル書簡』の冒頭に於いてイブン・タイミーヤは言う。

私は,答えねばならない御方(スルターン・ナースィル?)から,幾度かの「審問」で私がタウヒードと(アッラーの)属性,そしてシャリーアと予定について語ったことの内容について著作をするよう求められた。それはこの二つの基本問題が,万人が正しく理解していなければならないにも拘らず,多くの混乱があり,それを正す緊急の必要があるからである。

一中略一

夕ウヒードと属性の問題についての議論は,肯定か否定がいずれかの叙述(khabar)の問題である。他方,シャリーアと予定についての議論は,指向(ir±da),愛と嫌悪,反発(bagh½)という(形での)肯定か否定のいずれかの要求(»alab),意思(ir±da)の問題なのである。一中略一

第一の基本問題について言えば,それは属性に於けるタウヒードであり,この問題に於ける原則は,肯定,否定のいずれかに於いても,アッラー御自身とその諸使徒が描写した通りにアッラーを描写することである。つまりアッラーが御自身について認められたこと[諸属性]は認め,御自身について(帰することを)否定したこと[諸属性]は否定することである。

一中略一

第二の基本問題について言えば崇拝のタウヒードであり,それはシャリーアと予定(qadar)の双方の信仰を含むものである。それ故我々は,「アッラーの創造とアッラーの命令を共に信ずることが必要である」,と言うのである。つまりアッラーが万物の創造者,,王であることの信仰が必要であり,一中略一またアッラーが同位者を配すことなく彼唯一者を崇拝することを命じたことの信仰が必要なのである[7]

イブン・タイミーヤはまず,イスラームの基本的問題を「タウヒード,属性」問題と「シャリーア,予定」問題の2つに整理する。ただしここでの「タウヒード」は神学者の用法,つまり狭く「主性に於けるタウヒード」の意味で用いられていると解きねばならない。なぜなら第2,「シャリーア,予定」問題が,「崇拝のタウヒード」として説明されており,「崇拝のタウヒード」とは前章で見た「神性に於けるタウヒード」であるからである。

「タウヒード,属性」問題とは,一見両立しないかに見えるアッラーの無比性と諸属性の共存を指し,それを調和的に説明することは純理論的問題と見做されうる。一方「シャリーア,予定」問題とは,万象がアッラーのカ(qudra)と予定(qadar)に成るなら,何故人間がシャリーアに従う,ということが意味をもつのか,換言すれば神の全能と人間の自由の問題,即ち一種の神義論である。イブン・タイミーヤはこの問題を,1の「タウヒード,属性」問題とは異質

の問題として把握する。つまり「シャリーア,予定」問題は純理論的問題として処理することは出来ず,理論一実践問題として解決されなくてはならないのである。イブン・タイミーヤは「タウヒード,属性」問題と「シャリーア,予定」問題の区別を,「叙述」と,「要求」および「意思」の区別に基礎づける。ところがこの区別は,以下に見るようにアラブ修辞学意味論の文の区分に基づいているのである。

アラブ修辞学の意味論は言述を,事態との一致を基準に「真一偽」を言うことの出来る「叙述文(khabar)」と「真一偽」を言うことの出来ない「叙想文(insh±Ù)[非叙述文]」に大別する。さらに「叙想文」は「要求(的叙想)(talabµ)」と「非要求(的叙想)(ghair talabµ)」に分れる。     「要求文」とは命令,願望,質問,呼掛けなどで,発話の時点で聞き手の反応を求める類の文であり,「非要求文」とは,それ以外の文全てを指し,アラブ修辞学は,契約,誓い,驚嘆,希望,賛美,非難などの文をこの非要求文に分類するが,「非要求文」は「語り手の『意志』に関る文」と言うこともできよう[8]。そしてイブン・タイミーヤもNaq½ al=man»iq(『論理学批判』)の中でこの分類に沿って「言葉には『叙述文』と,命令と禁止のような『叙想文』がある」[9]と述べ,言葉を「叙述文」と「叙想文」に分けており,また「叙想文」は「命令」,「禁止」のような「要求文」に代表されているのである。

以上からイブン・タイミーヤの「叙述」と「要求」,「意思」の二分法が,アラブ修辞学の意味論の言う「叙述文」と「要求文」に対応していることが明らかになった。「言述」の機能が「叙述文」に尽されないとの前提に立つアラブ修辞学の意味論はある意味で,言語使用の分析に基づき「叙述文」をモデルとする哲学を批判した分析哲学等の思考を先取りするものと言える。したがってアラブ修辞学の意味論を踏襲するイブン・タイミーヤの「神学」批判,「タウヒード」論の再構築の試みもまた,「叙述文」をモデルとする哲学の批判の一種として,哲学史の文脈の中に位置付けることが可能なのである。

 

5 アッラーの「意思」

 

前章で見た通り「シャリーア,予定」問題は,イブン・タイミーヤにとって,「タウヒード,属性」問題と並ぶ最重要問題であった。彼にとって「シャリーア,予定」問題が重要なのは,アッラーの「予定」の意味を取違えると,「万象が全能のアッラーの意思(ir±da)に基づく創造の結果である以上,シャリーアに背く人間の行為もまたアッラーの意思されたものであり,従ってアッラーの嘉されるところである」などの誤った考えが生じ,ひいてはシャリーアの存在の意味が見失われる危険があるからである。

世界の万象がアッラーの意思による被造物であることはイブン・タイミーヤにとっても当然の前提である。しかしイブン・タイミーヤはそれを理由に,アッラーの意思されたものであることから,世界が等質なものであるとは考えない。彼は以下のように言い,アッラーの意思に二種類を区別する。

アッラーの「意思」は二種類ある。第一が「存在意思(al=ir±da al=kaunµya)[10]であり,これは意思の対象の生起を必然たらしめる意思であり,「アッラーが意思されるものは生起し,意思されないものは生起しない」,と言われるのはこの意味での「意思」である。一中略一第二が,「規範意思(al=ir±da ash=sharصya)[11]であり,これは対角への愛,満悦, またそれ(対象となる行為)を行った者たちへの愛,満悦であり,アッラーは彼等に良い報酬をもって報われるのである。一中略一

従って分類は四分法となる。

第一は二つの「意思」が同時に関わるものであり,これは存在するもののうちの「良い行い(al=aØm±l a­=­±liÆa)であり,アッラーはそれを「宗教」,「規範」として意思され,それを命じ,愛し,嘉され,またアッラーは存在として意思されたゆえ,それは生起するのであり,もしそうされなければ,存在しなかったのである。

第二は,「宗教意思」のみの関わるものであり,それはアッラーが命じられた「良い行い」であるが,不信仰者や悪人がそれに背いたのである。これらは全て宗教としての意思であり,それが生起すると,しないとに係わらずアッラーはそれを愛で,嘉されるのである。

第三が,「存在意思」のみの関わったものであり,非一倫理的行為(mub±Æ±t)[12]や背神行為などで,アッラーが命じられなかったが決定し(qaddara)決意された(shaÙ)事象である。アッラーはそれらを命じられず,嘉されず,愛てられない。なぜならアッラーは不品行を命じられることはなく,その僕たちの不信仰を嘉されることはないからである。しかしアッラーの決意(mashµÙa),,創造がなければそれらは生起せず,存在しなかったのである。なぜならアッラーが意思されるものは生起し,意思されないものは生起しないからである。

第四が「存在意思」も「宗教一規範意思」も関わらなかったもので,実際には生起しなかった非一倫理行為,背神行為の類いである[13]

イブン・タイミーヤはアッラーの意思に「存在意思」と「宗教一規範意思」を区別する。そして「意思」の対象という観点から見ると,人間の行為の可能世界はそれぞれの有無の組合わせに応じて四分される。それは「存在意思」の有無と「宗教一規範」の有無がそれぞれが独立であることを示している。即ち「存在」することは,「宗教一規範」的に正しいことを必ずしも意味しないからである。

「世界」は確かにアッラーの意思によって生成する。しかしアッラーの意思を「存在意思」と,それとは異質の原理としての「宗教一規範意思」に区別する時,「宗教一規範意思」の関与の有無が問題となる人間行為が,「世界」から明確に分節されるのである。

 

6 存在と規範

 

「存在」と「宗教=規範(dµn=sharØ)」のアッラーのこの区分は,より大きな広がりを持つ。イブン・タイミーヤは言う。

「命令一宗教一信仰的真理(a1=Æaqµq al=amrµya ad=dµnµya al=µm±nµya)」と「創造一予定一存在的真理(a1=Æaq±Øiq al=khalqµsa al=qadarµya al=kaunµya)」を混同している者が多いが,誉むべきかな,いと高きアッラーには,創造(kharq)と命令(amr)が帰されるのである。一中略一誉むべきかな彼こそ万物の創造者,,王であり,彼の他に創造者はなく,彼をおいて主はいない。アッラーが意思されたものは生起し,意思されないものは生起しないのである。運動も静止も,存在は全てアッラー一の運命(qa½±Ø),予定,決定,,創造に成るのである。そしてまた誉むべきかなアッラーは彼への服従,その諸使徒への服従を命じ,彼への反抗,諸使徒への反抗を禁じ,タウヒードとイフラース[こころを尽しアッラーに仕えること]を命じ,アッラーの他に別の神を崇めることを禁じられたのである[14]

「存在」と「宗教一規範」は認識主体,即ち人問にとっては,2つの「真理」であり,またそれはアッラーの権能,或いは行為の相から見られる時,「創造」と「命令」となる。ところが「創造」と「命令」,「存在」と「規範」のこの区分こそはイブン・タイミーヤの世界観にとって基礎的区別であり,彼が「創造」と「命令」とを単に対照的に把握している訳ではないことは,「アッラーの『定め(Æukm)』には二種類ある。「創造」と「命令」である。」[15]との彼の言葉に明瞭となる。イブン・タイミーヤは,「創造」と「命令」を,アッラーと「世界」

との関係が集約される2つの原理と考えているのである。それ故イブン・タイミーヤはクルアーンの中で用いられているアッラーの「意思」,「命(めい)(amr),「決定」,「許容」,「禁止(taÆrµm),「派遣(baØth),「遣使(irs±l),「設定(jaØl)」などの言葉には,いずれも「存在」的意味での用法と,「宗教」的意味での用法の2つがあり,区別されねばならないと言う。

まず「意思」の語の場合,「アッラーが導かれようと意思(・・)された者には,その者の胸をイスラームに向けて広げられ,迷うに任せられようと意思(・・)された者には,その胸を,天に登ろうとしているかのように狭め苦しめられる」(6:125)が「存在」的用法,「アッラーは汝らに苦難を与えられようと意思(・・)されるのではない。ただ汝らを浄め,汝らへの恵みを全うしようと意思(・・)されるのみ。おそらく汝らは感謝するであろう。」(5:6)が「宗教」的用法となる。「命」の語の場合,「アッラーの(),もし彼が何かを意思すれば,ただ『有れ』と言われるのみ。そうすればそれは生起するのである。」(36:82)が「存在」的用法,「アッラーは信託物をその信託者に返還すること,裁判を行う時は正義をもって裁くことを命じ(・・)られた。汝らへのアッラーの御諭しのいかに素晴らしいことか。まことにアッラーは全てを聞きみそなわす御方。」(4:58)が「宗教」的用法となる。「許容」では「魔法を使う者らも,アッラーが許容(・・)されなければ,魔法によって誰一人害することは出来ない」(2:102)が「存在」的用法であり,

「アッラーが許容(・・)されない教えを定めることの出来るアッラーに比肩する者が,彼等の許には居るとでもいうのか」(42:21)が「宗教」的用法となる。「決定」については「アッラーが何かの命を決定(・・)される時は,ただそれに『有れ』と言われるのみ。そうすればそれは有るのである。」(40:68)が「存在」的用法であり,「汝の主は,汝らが彼以外を崇拝しないようにと決定(・・)された」(17:23)が「宗教」的用法となる。「派遣」は,「その第一の約束が成就した時,我々は我が僕の中で獰猛な者らを汝に派遣(・・)したが彼等は家々を荒らしまわり,こうして約束は成就したのである」(17:5)が「存在」的用法であり,「我々はアッラーを崇拝し,邪神から遠ざかるために全ての共同体に使徒を派遣(・・)した」(16:36)が「宗教」的用法となる。「遣使」については「汝らは我等が不信仰者たち,彼等を煽動させるために悪魔たちを遣使(・・)したのを見ないのか」(19:83)が「存在」的用法であり,「我等はヌーフ(ノア)をその民に遣使(・・)した」(73:15)が「宗教」的用法である。「設定」は,「我等は彼等を地獄へ道案内人に設定(・・)した(28:41)」が「存在」的用法,「我等は汝ら全てに定めと道を設定(・・)した」(5:48)が「宗教」的用法である。「禁止」については「その地は汝らに40年の間禁止(・・)された地となったため,彼等は大地を彷徨う」(5:26)が「存在」的用法であり,「我は汝らに死肉,,豚肉,アッラー以外に捧げられたものを禁止(・・)した」(5:3)が「宗教」的用法となるのである[16]

このようにイブン・タイミーヤは,クルアーンのアッラーの様々な行為の描写にそれぞれ「存在」的用法と「宗教」的用法があることを明らかにした。それはアッラーの「創造」「命令」の行為の結果が,「存在」と「宗教」であるからである。そしてこれまでの議論から明らかなように,この文脈での「宗教」とは「宗教規範」に他ならず,「宗教」は「規範」と言い換えることが出来る。したがってイブン・タイミーヤはアッラーの意思の現象する姿を,「存在」と「規範」の2つに還元したと言うことが出来るが,これが「存在」と「規範」の区別がイブン・タイミーヤの世界観にとって基礎的である,という所以なのである。即ち人間は常に,「事実的なるもの」と「規範的なるもの」に同時に対面しているとの認識が,彼の世界観を特徴付けているのである。

 

7 力と予定

 

前章では「存在」と「規範」の区別がイブン・タイミーヤの世界観にとって基礎的であることを明らかにした。しかしクルアーンの述べるアッラーの世界への関わり方は,天地創造,人間の創造,使徒の派遣,諸啓典の啓示,世界の終末,信仰者への愛と報い,不信の彼への怒りと懲罰等々,様々なのであり,クルアーン自体には,それを「創造」と「命令」に還元し,その顕れを「存在」と「規範」として二元的に把握する必然性は一見存在しない。したがって「存在」と「規範」の二分法は自明のものではないのであり,イブン・タイミーヤがその立場を取るに至ったのは何らかの「理由」がなければならない。

「存在」と「規範」を峻別するイブン・タイミーヤの思考法は,彼の言語観の帰結と考えることが出来る。なぜなら既述「叙述文」と「要求文」の区別と,「存在」と「規範」の二元論の間には対応関係があるからである。即ち「叙述文」と「要求文」の二分法は,「客観的」に真偽を言うことの出来る「事実」を扱う「叙述文」の働きと,意思を持つ相手に訴える「要求文」の機能の違いを本質的相違とみなすことからのみ生れる。ところがアッラーの「創造」と「命令」,「存在」と「規範」の区別も実は,「創造」,「存在」が世界の万象の生起の事実に価値中立的に関わるのに対し,「命令」,「規範」とは呼掛けに答える意思を持つ存在としての人間にのみ関わる点にある,つまり意思的存在への関与性をそのメルクマールとして構成されているからである。

そしてイブン・タイミーヤはアッラーの全能,予定の観念から,「人間が行うことは,そうなるようにアッラーに定められているのであり,それ以外のことをする『カ』は備わっていないのだ」とし,人間の「カ」を否定する見解を批判し,「力」の観念に2つの意味があると言う。

「カ」の語は二つの意味を持つ。

第一は行為を可能とする(mu­aÆÆiÆa)規範的「カ」であり,この意味での「力」が(アッラーの)命令と禁止(の賦課)の根拠となるのである。

第二は行為を必然とする(m¹jiba)予定的「カ」であり,それは予定された行為と同時に存在し,行為がその力の「存在」に後続するわけではないのである[17]

この規範的「カ」は行為に先行し,行為の実行と不履行のいずれをも選びうる「カ」である。しかしこの規範的「カ」の存在だけからでは,行為の実行は帰結されない。行為の実行には完全な力に加えて,決断(的意思)(a1=ir±da al=j±zima)が必要であり,両者が揃って初めてそれは完全原因(al=Øilla at=t±mma)となるが,これが第二の意味の予定的「カ」であり,それは行為と同時に存在しなくてはならないのである[18]

それでは「意思」と「カ」を持つ行為主体として,人間はアッラーの「創造」,「命令」或いは「存在」と「規範」を前にしていかなる対応をすべきであるか。イブン・タイミーヤは,アーダム(アダム)とムーサー(モーゼ)についての次の伝承を手掛りにこの問題に答える。

アーダムとムーサーが議論をし,ムーサーが言った。

「アーダムよ。あなたはアッラーが,その御霊を吹込まれ手ずからお造りになられた人類の始祖であり,天使さえあなたに脆拝したのではありませんか。それなのになぜあなたは,自分自身,ひいては我々まで楽園から追放することになるようなまねをしたのですか」

アーダムはムーサーに答えて言った。

「ムーサーよ。あなたにはアッラーが直接声をおかけになり,律法をお定めになられた。それなのに,その律法の中に『アーダムはその主に背き,過誤を犯した』と繰り返し書かれていること,そしてそれが書かれたのは私が創造される以前のことであったのを,あなたは知らないのか。」

こうしてアーダムはムーサーを論駁したのである。

この伝承の「アーダムが予定を口実に自己の犯した罪を免責したのだ」との解釈をイブン・タイミーヤは退ける。彼は先ずムーサーがアーダムを問詰めたのは,アーダムが犯した罪についてではなく,その結果子孫に生じた楽園喪失の災難であることを確認した上で言う。

アーダムがムーサーを「予定」を理由に論駁したのは,災難(が生じたことについての非難)に対してであって,(を犯したこと)についてではないのである。アッラーは忍耐と敬虔(taqw±)を命じられているのであるが,この問題は「忍耐」の問題であって「敬虔」の問題ではないのである。アッラーは言われる。「忍耐せよ。まことにアッラーの約束は真実である。そして汝の罪の赦しを請え。」(40:55)

こうしてアッラーは災難にあっては忍耐,犯した罪に対して罪の赦しを請うことを命じられたのである。そしてこの「命令」と「予定」の矛盾の問題について人々は混乱に陥っているのである[19]

イブン・タイミーヤの用語法では「創造一存在一予定」と「命令一宗教一規範」とが対となるが,イブン・タイミーヤは「予定」と「命令」,即ち「存在」と「規範」の区分に,新たな二項対立を対応させる。それが「災難」と「罪」「忍耐」と「敬虔」である。「災難」とは自己の力の及ばないところで生じたことであり「予定」に属し,「忍耐」が求められる。一方「罪」は自己の行為であり,アッラーの「命令」に対応する。それ故,罪もそれがアッラーの「創造」になるという意味では,当然「予定」のうちにはいるにも拘らず,規範関与的事象として,「予定」の他の事象とは存在論的に異なるため,それが「予定」であると言うことは許されず,「敬虔な悔い改め」という別の態度が求められるのである。

 

8 結論

イブン・タイミーヤは,タウヒードを「主性に於けるタウヒード」と「神性に於けるタウヒード」に分類し,イスラームの使信の本質を,「神性に於けるタウヒード」であると考える。そしてこのタウヒードの二分法は,アッラーには「創造者」と,「崇拝対象」との相互に還元不能な二側面があり,それぞれが人間に相異なるタウヒードを要請するとの彼のアッラー理解に基く。

イブン・タイミーヤは,イスラームの基本問題を,「属性,タウヒード」問題と「予定,シャリーア」問題に纏める。前者は「叙述文」の処理が問題であり,純理論的に解決されうる。一方後者は,「要求文」の処理が問題となるため,単なる理論的処理のみでは不十分であり,その実践が要求される。つまり「主性に於けるタウヒード」は「叙述文」の問題であり,「神性に於けるタウヒード」は「要求文」の問題なのである。

そして「神性に於けるタウヒード」の実現には,「要求文」の問題として,何が人間に要求されているのか,換言すればアッラーの「意思」とは何かが,まず明らかにされねばならない。即ちアッラーの「意思」には「存在」意思と「規範」意思の二種類があり,両者が混同されてはならず,人間に求められているのは「規範」意思に適う行為であることが明らかにされる必要があるのである。

「創造者」,「崇拝対象」というアッラーの2つの側面は,アッラーの世界との関わり方に,「創造」と,「命令」即ち規範定立という2つのパターンがあることに対応する。「存在」と「規範」とは,「創造」と「命令」,「存在意思」と「規範意思」の顕れである。そして人間の言述が叙述文と共に要求文を有するということは,人間がアッラーの「創造」,「存在意思」のみならず,「命令」,「規範意思」を担う主体であることを意味しているのである。

人間は意思と行為を為すカを有する存在としてアッラーの「創造」と「命令」に立会う。そして世界に生起する事象が,自らの力を越えるものとして「予定」と言われねばならないのに対し,自己の行為に対しては,それを「予定」と言うことは出来ない。それは人間の行為が,アッラーの「存在」意思のみならず「規範」意思の対象であるという意味において,規範関与的事象として他の事象から存在論的に区別されることに基づく。しかしイブン・タイミーヤは「人間の行為がアッラーの『予定』ではない」,と言うわけではない。彼は「自己の行為を『予定』と呼んではならない」と言うのである。つまり「予定,シャリーア」問題は純理論的問題,即ち「叙述文」で表現される問題ではないため,実践的に解決せねばならない,即ち「要求法」の形で解決が与えられねばならないからである。

神学者の世界観において,「世界」は創造者たるアッラーの「被造物」である。そして「世界」は,抽象的な「原子」,「偶有」などに分析,解消されるのであり,そこには主体としての人間が入る余地はどこにも存在しない。その意味で神学者の世界観は「客観的」,或は「機械論的」と言うことが出来よう。

一方イブン・タイミーヤの世界観においては,「アッラー」は「創造者」と「規範定立者」の2つの側面を合せ持ち,人間は意思する主体として,アッラーの「存在」意思と「規範」意思の顕れである「存在事象」と「シャリーア」に対峙する。即ちイブン・タイミーヤにとって自己との関わりとの視点を欠いて「世界」を論ずることはそもそも意味を持たないのである。「世界」とは,彼方なるアッラーの意思の顕現としての「存在事象」と「シャリーア」の現前において主体としての自己の意思,行為の問われる「場」としてのみ存在するのである。

それ故イブン・タイミーヤの世界観は,「主観的」,或は「主体的」世界観と呼び得る。そしてそれは「存在的なもの」,と「規範的なもの」,或は「非意思的なもの」と「意思的なもの」の二元論を基礎としているのであり,その二元論は言述に「叙述文」と「要求文」を区別する意味論をモデルとすると考えられるのである。



[1] イスラーム文化とは,クルアーン,ハディースという聖典を核とする重層的な解釈の蓄積の総体に他ならない。そしてイスラーム文化を担ってきた「学者」たちが問題とするのは,預言者ムハンマドを通じて啓示された真理をいかに正しく継承しているかであり,自己の「思想」のオリジナリティーなどではない。つまり我々の考えるような「独自な思想」などというものは,彼等には本来無縁な概念なのである。したがってイスラーム文化をその固有の文脈において理解するためには,従来の西欧的な思想研究の方法は有効性を持たないが,本稿ではこの問題には立入らない。

[2] Fakhr ad=Dµn ar=Razµ,U­¹l ad=dµn,Beirut,1984,pq31-33, al=Arbaصn,Cairo,1986,pp.19-23「霊的存在」,「霊的偶有」を認める点にファフルッディーン・アッ=ラーズィーにおける神学と哲学,スーフィズムの融合の明瞭な徴を見ることができる。なおイスラーム神学については,井筒俊彦『イスラーム思想史』岩波書店,1975,W.モンゴメリー・ワット『イスラムの神学と哲学』福島保夫訳,紀伊國屋書店,1976年参照。

[3] Ibn Taimµya,Muw±faqa ­aƵh al=manq¹l wa ­arµÆ al=ma Øq¹l, vol.1,Beirut.1985,p.54.イブン・タイミーヤの神学,哲学批判については拙稿「イブン・タイミーヤの釈義論」,『日本サウディアラビア協会報』,198811,No,139,4-9,参照。

[4] イブン・タイミーヤのタウヒード論については拙稿「サラフィー主義のタウヒード論」,『日本サウディアラビア協会報」,19895,No.142,1-7,参照。

[5] Ibn Taimµya,ar=Ris±la at=tadmurµya,Cairo,1387(A.H.),p.57.

[6] ibid., pp.59-60.

[7] ibid.,pp.3,4,52.

[8] アラブ修辞学については拙稿「アラブ修辞学」,『日本サウディアラビア協会報」198711,No.133.1-8,参照。但しアラブ修辞学の表現論に関してはイブン・タイミーヤは徹底して批判的である。拙稿「ハディース遵奉者の論理一イブン・タイミーヤの転義批判」『オリエント』32-2(1990)を参照。

[9] Ibn Taimµya,Naq½ al=Man»iq, Cairo,1951,p-72.

[10]

[11] ここで「規範」,「規範的」と訳したsharm ØsharÙµは本来,「イスラームの教えの総体」を指すが,狭義には「イスラーム法」を指す。

[12] イスラーム法上,善でも悪でもない行為。

[13] Ibn Taimµya, Majm¹ Øa ar=ras±Ùil al=kubr±,Vol. 2, Beirut,n.d.: pp.76-78.

[14] Ibn Taimµya,Furq±n,Beirut,1982,p.53.

[15]  Ibn Taimµya,Majm¹ Øa ar=ras±Ùil al=kubr±,Vol.2,p.116.

[16]  Ibn Taimµya,Furq±n,Beirut,1982,pp.60-63.なお,彼は「言葉」についても二意あると言っているが,クルアーンからは例を引いていない。

[17] Ibn Taimµya,Majm ¹Øa ar=ras±Ùil al=kubr±,Vol.1,p.366.

[18] Ibn Taimµya,Minh±jas=sunna,Vol.1,Beirut,u.d.,pp.274-5

[19] Ibn Taimµya,Majm¹ Øa ar=ras±Ùil al=kubr±,p.99.