中田考、「マレーシア・PAS(汎マレー・イスラーム党)とウラマーの指導」、『山口大学哲学研究 第9巻』、2000年。
Pan-Malaysia
Islamic Party and its ØUlam±Ùs Leadership
Abstract
PAS was founded as a political party which
advocates Malay-nationalism and Islamism in 1951. But it has strengthend its
inclination to Islamic universalism gradually in the current of Dakwa movements
and it established the leadership of ØUlam±Ù after the reformation of its organization
concluding with the the triumph of its Islamist camp and
the ouster
of Malay-nationalist wing from its leadership of ØUlam±Ù,in 1982/3.
Since the establishment of the leadership
of Ulam±Ù, PAS succeeded in a conversion from Malay-nationalist
party to Islamic universalist one, and from the radical to the moderat at the
same time. its Supreme Leader Nik AbdulAziz, an Islamic jurist, became the Prime
Minster of State of Kelantan 1990, and in the general election in 1999, its
Vice President AbdulHadi Awang, another Isiamic jurist, was elected as the
Prime Minster of State of Terengganu.
Since the success of Islamic revolution in
Iran in 1979, PAS is the only political party in Sunni Musli
Accordingly PAS is deserving of more attention
and study for estimating the future of the relationship between Isiamism and
democratization in the Sunni Musli
マレーシア・PAS(汎マレー・イスラーム党)とウラマーの指導
中田考
序
1999年11月のマレーシア国会/州議会選挙ではPAS(汎マレーシア・イスラーム党)が、国会で8議席から27議席に議席数を大幅に伸ばし、地方選でも15州のうち従来のクランタン州に加えトレンガヌ州の州政権を奪う大躍進を見せた。
しかし欧米のイスラーム地域研究においてもPASにはモノグラフが存在せず、また1999年選挙に対する欧米のジャーナリズムの反応も、アンワル・イブラヒムと匡眠正義党に報道が集中し、野党連合「オルタナティブ戦線」の主役PASについては殆ど報じられることがなかった。
そこで本稿は、PAS史上の転機とされる1982/3年のウラマー(イスラーム学者)の指導の確立に焦点を当てつつ研究の遅れているPASの運動と思想を紹介することを目的とする。
なおPASの正式名称は「マレー全土イスラーム連盟(Persatuan Islam Sa-Tanhan
Melayu)」(1951-1971)から「イスラーム党(Partai Islam)」(1971-73)(但しこの「イスラーム党」の名称は政府の公認を得られなかった)、「汎マレーシア・イスラーム党(Partai
Islam Se-Malaysia)」(1973~)に変わっているが、本稿では現行の略称PASに統一する。
1.PASの歴史
PASの歴史は通常(1)第1期:50年代末-70年代初頭、(2)第2期170年初頭-70年代末、(3)第3期70年代末-98年、の3期に分けられる(『インドネシア・マレーシアにおけるムスリム・アイデンティティーと中東地域との人的・経済的関係に関する調査研究』、社会問題研究所、1998年、84頁)。そこで本章ではPASの前史に触れた後、この区分に従って現在に至るPASの歩みを概観する。なお1999年の選挙の結果については、PASの現状分析として、章を改めて論じる。
(1)結党前史
先ず、現行のPASの公式サイトの「歴史(sejarah)」(2000/7/10現在)の記述によると、PAS結党の由来は以下の通りである。
この改革運動は、最初のマレー人政党に浸透するほどにマレー社会に影響を与えるまでになった。それは1945年10月に設立された全マレー・マレー民族党(Partai
Kebangsan Melayu Se-Malaya)、通称MNPである。その影響力の重要性に鑑み、MNPは党内にイスラーム陣営(sayap)、分派(bahagian)を組織した。このイスラーム陣営、あるいは分派が「全マレー・イスラーム最高評議会)MATA(Maji1is
Agama Tertinggi Se-Malaya)設立の任を負い、そして今度はそれが1948年3月14日のセマンゴル山でのムスリム党(Hizbul Muslimin)に結実したのである。
しかしこのムスリム党の歴史は長くは続かなかった。当時のUMINOの指導者ダト・オン・ジャアファルの要求により、イギリスがムスリム党の禁止を宣告し、その指導者たちを逮捕したからである。ダト・オン・ジャアファルは、ムスリム党のことを「赤色イスラーム党」である、つまり危険な共産党の影響を広めようとしている、と述べた。彼はムスリム党の結成を「山からの脅威」とも呼んだ。というのはそれがペラクのセマンゴル山で結成されたからである。
ムスリム党の活動は、1948年6月の非常事態令によって終わったが、その支持者たらの間での不屈の奮闘精神は、1951年11月24日のPAS結党へと道を開いたのである(http://www.parti-pas-org/)。
このようにPASの「正史」は、PASをMATA-ムスリム党の系譜上に位置づけているが、フンストンの『マレーシアにおけるマレー人の政治』は、むしろPASをUMNOの分派とみなしている。そこで同書に基づきPAS結党の過程を以下に再構成しよう。
MNPは当初よりイスラーム主義者と世俗主義者の間に亀裂があり、その両派の抗争により、MNPのイスラーム派の代表であったDr.ブルハヌッディン・アル=ヘルミー党首が辞任し顧間の地位に退いた[Funston
1980:87]。1947年3月Dr.ブルハヌッディンは改革派イスラーム学校「マドラサ・アル=エフヤー・アルーシャリーフ」校長アブー・バクル・アル=バキルと共に、全マレー・イスラーム経済会議を開催し、上記のMATAとPEPERMAS(全マレー・マレー経済センター)の結成を決議した[Funston
1980:88]。1948年3月のMATAの第4回大会で、①独立、②イスラーム社会建設、③マレーのイスラーム国家化、を主目的にムスリム党の結成が合意され、アブー・バクル・アル=バキルが党首に選出された[Funston
1980:89-91]しかし全ての政治活動を禁止した1948年の非常事態令によってアブー・バクル・アル=バキル党首他6名の最高幹部が逮捕されムスリム党は解党させられた[Funston
1980:91]。
一方でUMNOは1950年2月全国からイスラーム指導者を集めた国民会議を主催し、UMNOの内部組織として全マレー・ウラマー連盟(Persatuan
Ulama-ulama Sa-Malaya)を結成した。しかしこの全マレー・ウラマー連盟はUMNO色が強すぎたためマレーの全ウラマーの糾合という目的を達することができなかった。そこで次いでUMNOは独立のイスラーム政党設立のために、当時のUMNOイストム局長Hj.アフマド・フアド・ブン・ハサンを長とする党憲章起草委員会を設立し、51年11月24日Hj.アフマド・フアドを党首としてPASが正式に発足したのである[Funston
1980:91]。
我々は、PASの公式ホームページと『マレーシアにおけるマレー人の政治』の記述から、PAS結成前夜にムスリム党とUMNOの間に主導権争いがあり、1948年のイギリスによる非常事態令とムスリム党幹都の逮捕により、UMNOの主導下にPASが設立された経緯を読み取ることができる。
(2)第1期
イギリスによる非常事態令によるムスリム党幹都の逮捕により、1951年、PASはUMNOの指導下に創立されたが、旧ムスリム党幹部が政界に復帰しPASに加わることにより、創設期のPASはその性格を全く変えることになる。
1952年の時点ではPASは会員数も5000人を越えず、主としてセマンゴルのみの地方団体であり、今日の中心であるクランタンとトレンガヌに勢力を広げるのは1953-56年以降である[Funston,
1980:94]。結党当時のPASは、そのメンバーの殆どはUMNOの指導者たちであり、政党とは名ばかりで実質はUMNOの下部機関の慈善団体であった。しかしその状態に対して53年には内部改革運動が始まり1954年8月の総会では会則が改正され、党幹部の他の政治団体の役職の兼職禁止が決定され、初代党首Hj.アフマド・フアドが辞任した他、UMNO系幹部の大半はUMNOに戻った。一方で53年の改革運動と共に、旧ムスリム党党首アブ・バクルの私設秘書ムハンマド・アスリを初め、ハディル・ハティブ、オスマン・ハムザ、バハルディン・ラティフら旧ムスリム党幹部がPASに入党した[Funston
1980:95]。
1955年には党員の他の政党への加盟が全面的に禁止され、PASは初めて公認政党として総選挙に臨んだ、結局この選挙でマレー連合党が53議席中52議席を獲得したが、PASは野党の中で唯一議席を獲得し、その存在感を示した[Funston
1980:95]。
また56年には党総会旧MNP初代党首Dr.ブルハヌッディン・アル=ヘルミーが党首に選出されたが、彼に続き旧MNP「世俗派」からもPASへの入党が相次いだ[Funston
1980:95-96]。
このようにして56年までにはPASは当初のUMNO色を一掃し、MNP-旧ムスリム党の後継政党としての性格を確立した。
1959年総選挙でPASは国会で13議席を取り野党第1党となり[荻野 1996:7]、クランタンとトレンガヌ州で州政権を握った。
1964年の国会議員選挙ではPASは9議席にとどまった[荻野 1996:96]。1965年にはDr.ブルハヌッディン党首が、スカルノの対決政策によるインドネシアとの対立に際してインドネシア側についたとの容疑で逮捕され[Funston
1980:120]、当時副党首であったムハンマド・アスリが党首代行に就任した。
こうして迎えた1969年総選挙ではPASは国会で12議席を獲得(野党第二党)し、クランタンの州政権を維持した。
総選挙直後の5月13日、華人とマレー人の衝突により196人の死者を出したいわゆる5月13日事件が発生する。この事件の後非常事態令が宣言され、議会は解散され国家運営評議会が実権を握り、7月30日には市民権、国語としてのマレー語、マレー人の特権、スルタンの地位などについての公的な議論を禁ずる緊急条例を公布し、8月31日には①神への信仰、②国王、国家への忠誠、③憲法の遵守、④法による統治と基本的人権の尊重、(5)良識ある行動と徳性、の国家5原則を発表した[荻野
1996:127-128]。
(3)第2期
この非常事態令下でPAS党首ムハンマド・アスリは、UMNOのラザク首相による国民戦線構想に参加を決めた。国民戦線加盟は1972年のPAS総会で賛成142-反対50で可決されたが、加盟は党指導者の一部の脱党を招来した[Funston
1980:245]。
1973年PASは国民戦線に加盟したが、同年にはPAS元青年部長ムハンマド・ファフルディンが「文化革命」を称し、執行部の汚職を告発する文書を回覧した。ムンマド・ファフルディンらは執行部により除名され、自由連盟党を結成したが議会に議席を持つには至らなかった[Funston
1980:246]。
PASは国民戦線に加人し1974年選挙に臨み、国会で22議席を握り、クランタン州議会選挙でも勝利した。しかしクランタンでは州首相の座をめぐってPASの推すワン・イスマイルとUMNOのラザク首相が推すムハンマド・ナジルの対立か生じ、ムハンマド・ナジルが首相の座についたが、その後両者の対立が表面化し、PASは1977年の党大会でムハンマド・ナジルを除名し、同年12月15日、国民戦線からの脱退を宣言しUMNOとの連立を解消した。PASを除名されたナジルは全マレー・イスラーム戦線党(Barisan
Jemaah Islam Se-Malaysla:BERJASA)を結成し、PASは更に分裂した。この党分裂の中で迎えた78年の州議会選挙では、BERJASAが11議席を取る一方で、PASは36議席中2議席しか取れない惨敗を喫し、独立以来保持してきたクランタンの州政権を失った[荻野
1996:149-151]。
従来PAS党員は、高い地位を得ても尊大にならず以前と変わらぬ質素な生活を送り献身的で清廉である、との信頼をえていた。
しかし1969年以降、状況は変化し、党幹部の中には、豪勢な大邸宅を建て、マレー民族衣装から欧風のスーツに着替え、ゴルフ・クラブの会員になるなど奢侈に流れる者が現れ、献身的で清廉とのPASのイメージには傷が付いた[Funston
1980-246]。
(4)第3期
1982年総選挙は、67年の州議会選挙当選以来、州民の信頼厚く78年選挙でも議席を保持していたPASクランタン総裁(Pesuruhjaya)ニゥ・アズィズ(Nik
AbdulAziz:本稿では略称ニゥ・アズィズを用いる)師が自ら陣頭指揮を取り、国会で4議席、州議会で1O議席を取るまでに党勢を回復した[Sulaiman 1999:85]ニゥ・アズィズ師は1968年以来、PASのウラマー局(Dewan
Ulama)の
長を努めるアーリム(イスラーム学者)でもあった[Funston
1980:198]。
1983年には、ウラマーの指導体制への障害となっていた党内の「非イスラーム派」のムハンマド・アスリ党首が解任され、彼を支持する13人の「マレー・イスラーム民族主義者」が除名され、彼らはムハンマド・アスリを党首とする新党「新」ムスリム党(Hizbl
Muslimin:HAMIM)を創立した[Salleh 1999:54,87,93]。HAMIMは国民戦線の一角を占めて、86年選挙に参加し国会に1議席を占めた[荻野
1996:183]。また同年5月の総会でユースフ・ラワー師(2000年没)が新党首に選出され、同師を支えるニゥ・アズィズ師(現PAS最高指導者[Mursyidulam]、クランタン州首相)、ファズィル・ヌール(現PAS党首)師、アブドルバディ・アワン(現PAS副党首、トレンガヌ州首相)師らによりウラマー諮問評議会(Majlis
Syura Ulamak)が新設され、ここにPASの「ウラマーの指導」体制が確立した[Salleh 1999:54,Sulaiman 1999:88]。
1984年11月9日、与党政府は暴力によってイスラーム国家を樹立しようとする運動に警告を発し、PASの「不信の徒」キャンペーンを批判する自書を発表した[荻野 1996:181]。
1986年の総選挙ではPASはクランタン州議会では11議席を獲得したが、国会では1議席にまで議席を減らした[Sulaiman
1999:94]。
ニゥ・アズイズ師は1990年選挙に向けてHAMIM、BERJASA、及び89年にUMONOから分裂した「46年精神(Semangat
46)」党との連立を成立させたが(Biografi,p.106)、PAS内部でこれに反対する分子が「PAS改革グループ(Kumpulan Islah Pas:別称PAS51)」を組織した[Sulaiman
1999:94]。
1990年総選挙ではPASはHAMIM、BERJASA、Semangat46と共にウンマ連合隊列(Angkatan
Perpudaan Ummah:APU)を形成して選挙に臨み、国会では7議席、クランタン州議会では24議席を獲得し、クランタン州ではAPUとしては39議席全てを制し、ニゥ・アズィズ師が州首相に選ばれ、州政権を奪回した[Sulaiman
1999:110、荻野 1996:193]。なおニゥ・アズィズ師はユースフ・ラワー師の後を継いでPAS最高指導者に就任する。
1995年選挙ではPASは国会で7議席、クランタン州では24議席を獲得し、クランタン州政権を維持した[荻野
1996:223]。
2.PASのイデオロギーと組織
(1)イデオロギー
現行のPASの公式サイトの「歴史(sejarah)」(2000/6/30現在)の記述によると、PASの公式イデオロギーは以下の通りである。
我が間にイスラーム的生活の諸価値と諸規範が内部で実現されており、アッラーフの御満悦を希求する一つの社会、政府を樹立するために闘う。
イスラームの尊厳と国家の独立と主権を護る。闘争の目的を達成するために、PASは後述(第6章)の諸事業を行う。
言葉と、文筆と、行動による布教により、人類共同体を、アッラーフのシャリーアとその使徒のスンナヘと誘う。
アキーダ(信条)とシャリーア(聖法)としてのイスラームのために闘い(memperjangkan)、政治と国家に関わる指針と、事業の中での諸価値のイスラーム化を知らしめ、政府、行政、経済、社会、学習、教育を含む全ての分野での公正と進歩を樹立する。
政治生沽と健全で幸福な社会を維持するため、人民の間にイスラームの同胞意識を育成、強化し、連帯感を育む。
イスラームの人生観、生の概念のために闘い、紹介し、理解させるために、諸団体、諸組織、諸個人を招き、動員する。
社会、政治、経済的公正、国家の類の諸組織、制度を改善し、イスラームのウンマと全ての人民の利益の保護のために、様々な企画を整え、実行する。
PASと目標と対立しない諸団体、諸組織、諸個人とは、良いことであれば、国法に背かない限り、連帯、協力する。
マレーシア語を実用における唯一の公用語として維持した上で、クルアーンの言語(アラビア語)の普及に努める。
国の文化がイスラームの教えに反しない諸価値に基づくようになるように努める。
この国の中の諸民族(kaum)の間に調和を作り出すことを軽視することなく、この国の中のイスラームのウンマの権利と利益のために闘う。
平和を維持し、基本的人権を保証し、人類ウンマの中のあらゆる種類の不正、虚偽、隷属、圧政を阻止するため、国際連合と他の合法的な諸団体に参加、協力する。
内外におけるPASの目標の全てを達成するために党則と国法の範囲内であらゆる事業と処置を行う。(http://www.parti-pas.org/)
PASのイデオロギーは、他党への批判を抑制し、党派や民族を越えて全てのムスリムを越えた連帯を目指す1972年の「イスラーム同胞意識の新戦略」宣言以降、劇的に変化したと言われている[Funston
1980:244]。現行のイデオロギーは72年の変更を反映したものとなっている。
なお、イデオロギーのより詳細な検討は、次章以下で行う。
(2)組織
現行のPASの公式サイトの「指導部(Kepimpian)」によるとPASの指導部の構成は以下の通りである。
(a)ウラマー諮問評議会(Majhlis
Syura Ulama)
PASの最高意思決定機関はウラマー諮問評議会であり、党の「基本設計者、案内人の機能を果たす(berfungsi
sebagai pembuat dan pemandu dasar parti)」と位置づけられる。
ウラマー諮問評議会は、最高指導者を長に、党首(Presiden)、副党首(Timbalan)、2名の党首代理(Nalb)、書記長(Setiausaha
Agung)、出納長(Bendahari)、及びウラマー局局長、青年局局長、婦人局局長からなる。
(b)PAS本部(PAS Pusat)
党の最高執行機関が、PAS本部であり、党首を長とし、常任議長(Pengerusi Tetap)、副党首、副常任議長、党首代理(1名)、執行委員(Ahli Jawatankuasa)(12名)、監査役(Pemeriksa Kira-Kira)(2名)からなる。
(c)ウラマー局(Dewan Ulama)
ウラマー局は、「PAS内部の最高部局でありウラマーの諸問題を統括する(Dewantertinggi di
dalam Pas mengendalikan hal ehwal ulama)」。
ウラマー局は、局長(Ketua)の他に、常任議長、副常任議長、局長代理、執行委員(6名)、監査役(2名)からなる。
(d)青年局(Dewan Pemuda)
青年局は青年問題を司り、局長の他に、常任議長、副常任議長、局長代理、執行委員(10名)、監査役(2名)からなる。
(e)婦人局(Dewan Muslimat)
婦人局は婦人問題を司り、局長の他に、常任議長、副常任議長、局長代理、執行委員(1O名)、監査役(2名)からなる。
この現行の組織構成は、創立時の最高意思決定機関であった中央執行部(National Exective)を、最高意思決定機関たるウラマー諮問評議会とその執行機関としての党本部に分割、改組したものである。1982年にウラマー諮問評議会が設立される以前の、旧中央執行都は、党首、副党首、党首代理、ウラマー局局長、青年局局長、婦人局局長、書記長、出納長の8名の役職者と公選の12名の執行委員の20名で構成されていた[Funston
1980:190]。
党の最小構成単位は「分会(Sub-Burach)」であり、「支部」の管轄区内で15名以上の党員が集まれば、支部執行部の認可の下に、「分会」を設立することができる。
10O名以上の党員が集まれば、中央執行部の認可の下に「支部」を設立することができる。「支部」は各「分会」の長と代表委員、及びその「支部」執行委員から構成される。
党の最高議決機関である党総会は、この支部が単位となり、各支部から支部長と2名の代表委員が出席する[Funston
1980:188-189]。
党員数は51年の結党の時点では5,OOO人を越えなかったが、1961年の時点では約30,000人、1969年の時点では約100,OOO人にまで増加していた[Funston
1980:194,195]。
1982年の改組以前においては、PASにおけるウラマーの役割は、名目的なものに過ぎなかった。PASの幹部たちはウラマー局の影響力を否定しており、ウラマー局の役割は積極的にイニシアティブを取って政策決定に介入することではなく、党の方針に正当性を与えることであった。68年にニゥ・アズィズ師がウラマー局局長に選出されたのも、非常に保守的な前任者に手を焼いた執行部の意向が働いていたとも言われている[Funston
1980:194]。
1982年の党指導部改組による「ウラマーの指導の確立」による組織上の主たる変化を纏めると以下のようになる。
①中央執行部の上に、ウラマーをメンバーとするウラマー諮問評議会が置かれ、このウラマー諮問評議会が、党の最高意志決定機関となった。
②ウラマー諮問評議会の議長が、最高指導者となり、党首の上にたつ党の最高位となった。
③旧来のウラマー局が、党の下部組織の中での最高の機関として位置づけられた。
PASにおける「ウラマーの指導」は、党の政策決定、運営における指導権に止まらない。1990年に最高指導者ニゥ・アズィズ師がクランタン州首相、1999年に副党首アブドルハディ・アワン師がトレンガヌ州首相になり、現実政治においてもウラマーが州政権の実務を取り仕切ることになり、PASにおける「ウラマーの指導」が名実ともに実現したのである。
3.ウラマーの指導確立以前のPASの政治思想
本章では、先ずウラマーの指導確立以前のPAS党首、ブルハヌディン・ヘルミーとムハンマド・アスリの経歴と思想を概観した後、この時期のPASの政治思想の特徴を纏める。
(1)ブルハヌッディン・ヘルミー
Dr.ブルハヌッディンはスマトラ出身の小農民の子として1911年ペラクに生まれた。少年期は敬暖なスーフイーであった父親から教育を受けたが、24-26年にスマトラのイスラーム学校、27年にペナンのイスラーム学校マドラサ・アル=マショル・アスラミヤに通った後、28年にはインドのアリーガル大学に留学した。アリーガル大学では最初、ホメオパシー医学、次いで哲学を学んだ。
Dr.ブルハヌッディンはインドでの反英独立闘争、その後、パレスチナでの反英イスラエル樹立構想闘争に参加し投獄された後、シンガポールを経由して37年にマレーシアに帰国した。
スマトラ、ペナンのイスラーム学校、アリーガル大学は強いイスラーム改革派(近代主義)的傾向を有しており、40年まではDr.ブルハヌッディンはイスラーム改革主義(近代主義)者であったが、哲学とマレーシアヘのイスラーム布教史の研究の結果、スーフィズムに回帰した。
1937年の帰国後、Dr.ブルハヌッディンは教師、ジャーナリスト、医療土として活動しながら、雑誌『Taman
Bahagia(至福の園)」の発行により英当局に逮捕され、釈放の後、急進的な青年マレー連合(KMM:Kesatuan Mekayu Muda)に関与した。
日本占領期には日本軍属のマレー慣習文化顧問に任命され、占領末期にインドネシア半島人民連合(KRIS:Kesatuan
Rakyat Indonesia Semenanjong)が設立されるとその指導者の一人となった。彼は、結果的には流産に終わったが、2名のマレーシア代表の一人としてスカルノ、ハッタとの間で1945年8月12日の「大インドネシア(Indonesia
Raya)」の枠組内でマレーシアの独立宣言を行うとのとの合意に達した。
英国支配の復活後、Dr.ブルハヌッディンはMNPの党首代理に任命され、1946年には党首となったが、既述のように党内の世俗主義陣営の台頭により顧問に退いた。
彼はMATAやイスラーム党の創設にも関与したが、実際にはこれらの組織には加入しなかった。55年には反UMUNO全マレー青年会議の代表に選ばれ、1956年にはPAS党首に就任した。
1965年、前述の通り、Dr.ブルハヌッディンは、インドネシアとの共謀容疑で逮捕され、66年には釈放されたが健康を害し、69年死去した。
Dr、ブルハヌッディンはPASの組織化、実務運営面ではなく、イデオロギー面で大きな役割を果たした。
彼は個人的には敬愛なムスリムであったが、政治的には、イスラーム自体というよりも、マレー民族主義、反帝国主義をむしろ重視した。彼はスカルノの影響を受け、イスラーム、民族主義、社会主義の融合を目指した[Funston
1980:118-120]。
(2)モハンマド・アスリ
モハンマド・アスリは1923年クランタン州の州都コタ・バルにマレー・イスラーム学校教師の子として生まれた。モハンマド・アスリはマレー学校での中等教育を終えた後、イスラーム学校のマレー語教師、ジャーナリストとして活動するかたわら、MNP、イスラーム党に参加し、イスラーム党では党首の私設秘書官に就任した。イスラーム党の禁止後はしばらく政界を離れていたが、1953年PASに入党し54年にはクランタンとトレンガヌの事務局長兼監査役となった。 54年総選挙での大勝利、クランタン、トレンガヌ両州の州政権獲得は彼の政治手腕によるものと評価されている。56年には中央執行委員に選出され、1961年には副党首、64年には党首代行となり、71年には党首に就任した。公職においては64年から、73年に中央政府土地鉱物大臣に任命されるまでクランタン州首相を勤めた。
モハンマド・アスリの政治的立場は当初より、イスラーム改革主義とマレー民族主義であったが、彼のイスラーム改革主義は、思想的には月並みでしかなかった。彼の名声はマレー民族主義によるもので、マレー語公用語化、マレー語教育重視、マレー人経済の保護政策の一貫した主張により、マレー大学人の多くの支持を取り付け、またマレー人の礼儀作法を体現した優雅な物腰によってマレー人の間でカリスマ的人気を得たことによる[Funston
1980:123-125]。
(3)PASのマレー民族主義
以上に概観したDr.ブルハヌッディン、及びモハンマド・アスリの経歴と思想からも明らかなように、ウラマーの指導が確立する以前のPASは第一義的にはマレー民族主義政党であり、イスラームはむしろそれに付随するものであった。
とは言え、マレー語公用語化、マレー語教育の重視、マレー人経済の保護等の政策は、程度の差こそあれ、同じくマレー民族主義に立脚する与党UMNO(統.マレー人国民組織)の政策とも共通する。そこで本節ではこの時期のPASに独白と思われる汎マレー主義について略述しよう。
Dr.ブルハヌッディンがマレーシアとインドネシアを統合する「大インドネシア(Indonesia
Raya)」構想を抱いていたことは、既に述べたが、それは現在のマレーシア、インドネシア、フィリピン、及びタイ南部4州が歴史的にマレー地域を構成した、との彼の認識に基づく[Funston
1980:140-141]。
「人インドネシア」概念及び、タイ南部4州を含む「大マレー(Melayu Raya)」の概念が、PASの汎マレー主義の目標であった。
「大インドネシア」への言及は1959年の党声明で削除されており、「大マレーにいての見解も公表されることはまれであったが、Dr.ブルハヌッディンは少なくともタイ南部4州の「自治」を求めており[Funston
1980:140-141]、副党首ズルキフリ・ビン・モハンマドはタイ南部4州のマレーシアヘの併合[Funston 1980:145]、マレー半島、インドネシア、ボルネオ等の統合の希望を表明していた[Funston
1980:122]。
「大インドネシア」、「大マレー」構想は、Dr、ブルハヌッディンの逮捕からも分かる通り、国の主権を脅かす危険なテーマであるため、表面化することはまれであったが、「大マレー/インドネシア」こそがPASの汎マレー主義の究極の目標であった。
4.ニゥ・アズィズ師の人と思想
本章では現PAS最高指導者ニゥ・グアズィズ師の伝記に拠り、現在のPASの「ウラマーの指導」の政治思想の特徴とその背景を明らかにする。
(1)ニゥ・アズィズ師の経歴
ニゥ・アズィズは1931年、クランタンのラシャの家系のイスラーム学者の家に生まれた。ニゥ・アズィズは父親に学んだほか、トレンガヌ州のポンドク(イスラーム寄宿学校)でイスラーム教育を受けた後、1952年インドのデオバンド大学に留学し、高名なハディース(預言者ムハンマドの言行録)学者でスーフィーの導師でもあったフサイン・アフマド・アル=マダニー師に師事し、57年に同大学を卒業した。その後パキスタンに渡りクルアーン解釈学を学んだ後、エジプトのアズハル大学に人学した。アズハルではアラビア語課程修了後、イスラーム法学部に入学しシャーフィイー派法学を学び61年に卒業した後、進学を断念し家庭の事情でマレーシアに帰国した[Sulaiman
1999:15-17]。
帰国後はタルビヤ・マルディア宗教中学校、彼の父の経営するダルルアンワル宗教学校の教師、成人教育クラスの監督官、コタ・バルのムアハド・ムハンマディ宗教中学校の教官等を勤めた。彼の教育の出発点は、校舎もカリキュラムもない貧しい村の青空学校であった[Sulaiman
1999:18-20, 29-30]。
政界人りのきっかけは、1967年PASの州議会議員アフマド・アブドッラーが死去した欠員が生じたため行われた選挙において後任としてプンカラン・チェパ選挙区から立候補し当選したことで、68年にはフサイン・ラフマンの後任としてPAS中央ウラマー局長に選出され、78年にはPASクランタン総裁となり、1990年にはクランタン州首相となり現在に至っている[Sulaiman
1999:18-21]。
(2)ウラマーの指導
ニゥ・アズィズ師の伝記を書いたジャマル・ムハンマド・ロクマン・スライマンは、『イスラーム史百科事典』に基づき、ウラマーを「クルアーン解釈学、イスラーム法学、バディース学、神学及びイスラーム学の諸分野の専門家」[Sulaiman
1999:37]と定義する。
ウラマーに対するこの理解はイスラーム学の伝統に削ったものであるが、これは、クルアーーンとハディースのみが全てのムスリムが理解し従うべきイスラームの真の指針であり「我々は皆、ウラマーである」[Funston
1980:145]とのウラマーの指導の確立以前のPASの見解との完全な決別を示している。
前述のように1982年以前においては、PASの幹部たちはウラマー局のPASの意志決定における影響力を否定していた。しかしそれ以降ウラマーの指導は制度面においてのみならず、理論的にも確立される。
ジャマルは「ウラマーは預言者たちの相続人である」とのバディースを引用し、「ウラマーは預言者たち、特にアッラーフの使徒ムハンマド(S.W.)の次に位置する特別な地位を与えられている。アッラーフの使徒ムハンマド(S.W.)の逝去後、彼らウラマーの肩に宣教を広め、ウンマを指導し統治(mentadbir)する責任が負わされたのである。それゆえウラマーたちはアッラーフの使徒ムハンマド(S.W.)によって遺言された権能と全ての信託の相続権を有する相続人とみなされてしかるべきである。」[Su1aiman
1999:38]と述べ、預言者の政治的後継者としてのウラマー集団の統治権を論証する。
一見して明らかなイラン・イスラーム革命のホメイニーの「ヴェラーヤテ・ファギーフ(法学者の監督権)」理論との関係については、ニゥ・アズィズ師が、1984年の議会で「私白身はイランに行ったことはないが、イランのウラマーたちには負うところがある。また私はスーフィズムと哲学についてはアル=ガザーリー(1111年没)、古典イスラーム学についてはサアドッディーン・アル=タフタザーニー(1389年没)等に負うところがある。」[S1aiman
1999:89]と、その影響を否定していない。
PASは結党以来、イスラーム学校教師、及びウラマーを支持基盤としてきたが、彼らは思想的に一枚岩ではない。フンストンも既に「アル=アズハル(エジプトのイスラーム大学)の卒業生等は近代主義的傾向がある。(ウラマー局の保守主義者たちの支持を得た)保守主義者たちは草の根レベルでの党の根幹であるが、実権のあるいかなる地位につくにも極めて限られた機会しか有していない。」[Funston
1980:195]と、近代主義と保守主義の間の対立の存在を指摘している。
デオバンド大学、アズハル大学留学の経歴からも、ニゥ・アズィズ師のスンナ派伝統主義の枠内でのイスラーム改革主義学的背景が読み取れるが、次節では同師の思想の基本構図を明らかにしよう。
(3)ニゥ・アズィズ師のイスラーム観
ニゥ・アズィズ師はイスラーム教育を(a)信条(Øakidah)、(b)イスラーム法(Syariah Islamiyyah)、(c)スーフィズム(tassawuf)、(d)政治とイスラーム思想、の4つの領域に分類する。そこでここではそれぞれの内容を概観し、ニゥ・アズィズ師の思想の一般的傾向性を把握しよう。
(a)信条
ニゥ・アズィズ師の信条には、実践を伴わない信仰を否定する行動主義、逸脱(bidØah)と迷信(khurafat)への非難の2点にイスラーム改革主義の影響が伺える。
逸脱(bidØah)と迷信(khurafat)の非難は、デオバンド学派、ワッハーブ派などのスンナ派復古正統主義と共通するが、その起源をヒンドゥー教の影響とし、伝統的スーフィズムの名指しの直接的非難を避けている点で、折伏指向の強い戦闘的デオバンド学派、スンナ派復古正統主義とは一線を画してもいる[Sulaiman
1999:45-46]。
(b)イスラーム法
イスラーム法の中での「善の命令と悪の阻止」の強調は[Sulaiman 1999:46-47]、「善の命令と悪の阻止」を法体系の中に組み込んでこなかったスンナ派法学の伝統よりも、「善の命令と悪の阻止」を組み込んだシーア派、特にそれを政治化したホメイニー師以降のシーア派、及び「善の命令と悪の阻止」を社会改革の中心理念に据えたスンナ派復古正統主義の考えに近い。
またイスラーム法の社会的側面として、姦通、醜行、誘惑を避けるために親戚以外の男女の隔離を例に挙げているのも、スンナ派復古正統主義に共通する特徴である[Su1aiman
1999:46]。シャリーアの学習ではクルアーンとハディースに重点が置かれ、特定の法学派(特にマレーシアで一般的なシャーフィイー派)の学説の遵守は説かれない[Su1aiman
1999:48]。
ちなみにイスラーム法の施行については、1993年にクランタン州議会がイスラーム刑法の導入を議決したが、実施には連邦憲法が障害となり実施に至っていない[佐藤
1996:207]。
(C)スーフィズム
ニゥ・アズイズ師によるスーフィズムの解説は全て、アル=ガザーリー(d.1111)の『宗教諸学の再生』に拠っている[Su1aiman
1999:53]。
彼は『宗教諸学の再生』に則り、学問と信条、次いで浄化、礼拝、喜捨、巡礼等のイスラーム法上の義務行為、次いで瞑想(dikr)や祈願(duØaÙ)などのスーフィズムの行、という教育の順序を明らかにしている[Sulaiman 1999:53]。
スーフィズムの中でも特定の教団の祖師でなくアル=ガザーリー、特にその著作の中でも中庸をえた『宗教詩学の再生』を重視する態度から、ニゥ・アズィズ師のスーフィズムが特定の教団を偏重しないデオハシディー学派の改革スーフィズムの流れを汲むことが窺われるが、同時に時祷(wird)が「スーフィズムの真髄(inti)」と位置づけられていることから、その改革スーフィズムが伝統的な日々の修行形式の実践を重視していることも読み取れる[Sulaiman
1999:53][1]。
(d)政治とイスラーム思想
イスラーム国家樹立(daulah Islamiyah)はイスラーム法上の義務であり[Slaiman 1999:88]、そのためイスラーム教徒は自律的な一つの社会(masyarakat)、国家(negara)、丈明(ketamadunman)のモデルの樹立に努めねばならない。このイスラームの統治は預言者(S.W.)と正統カリフ以来実現されてきたが、オスマン・トルコ帝国において没落した[Su1aiman
1999:54]。
この失われたイスラームの統治の再興のために、様々な障害に抗して奮戦しているのが、ハサン・アル=バンナー、サイイド・クトゥブら、エジプトのムスリム同胞団である[Sulaiman
1999:55]。
「あるPASの指導者によると、イスラームの支配権力の掌握はジハードと同じく連帯義務(fard kif±yah)である、またあるPASのシンパによるとイスラーム国家の樹立は個人的義務(fard Øain)をも意味していることになる。」[Sellah 1999:52]。
またニゥ・アズィズ師は、サイイド・クトゥブの『道標』等の著作、「及びジハードや政治等の問題を扱ったクルアーンの節を解説したインドネシアのバパ・ナスィルの著作」のような「イスラームの闘士たち(pejung)」の著作をマレーシアに翻訳、紹介した、と述べているが[Sulaimn
1999:77]、そこにはインドシアのイスラーム主義者の影響、及びイスラーム国家樹立の方法論における急進派との理論的親近性も窺うことができる。
(4)綱紀粛正
既述の通り、PASは従来、清貧、廉直が謳い文句であったが、ムハンマド・アスリ時代には俗化傾向にあった。
このような状況下でニゥ・アズィズ師は、縁故主義を止め[Slaiman 1999:83-84]、州首相の給与の一部を返還し、行政における虚礼、浪費を廃するなど綱紀粛正に努めた[Su1aiman 1999:118-122]。
その結果としてPASは信頼を回復し、「PASはUMNOと違って中央政府を握ってもいないし産業界とは決して仲良しではありませんから、いわゆる汚職などの噂とは無縁の政党です」(「よくわかる99年マレーシア総選挙の解説と結果分析及び各政党のお話し」『マレーシアを批評するコラム』http:/www.big.or.jp/~aochan/co1um/thisweek.html)との評価を確立するに至っている[2]。
5.PASの現在
マレーシアでは1969年の人種暴動、所謂「5月13日事件」を機にダウワ(宣教)運動と総称されるイスラーム覚醒運動が発生する。そこで本章では、1970年代以降のダウワ運動の歴史を概観した後、ダウワ運動とPASの関係を押さえ、アンワル・イブラヒム解任、逮捕後の展開と1999年選挙におけるPASの躍進とその意義について論じる。
(1)ダウワ運動
ダウワ運動は様々な運動、組織の総称であるが、その代表的なものとしては、(a)マレーシア・イスラーム青年運動(ABIM:Angkata
Belia Islam Malaysia)、(b)ダールルアルカム(Darul Arqam)、(c)イスラーム代表評議会(IRC:Islamic Representative
Counci1)[1991年にマレーシア改革協会(JIM:Jamaah Is1ah Ma1aysia)に改編]、(d)マレーシア・イスラーム福祉協会(Perkim:Perbuhan
Kebajikan is1am Malaysia)、(e)マレー武術諸流派(si1at)、(f)伝道協会(Jam±Øat-i Tabµgh)、(g)イスラーム共和国(Is1amic Republic)等がある。
1969年8月、マラヤ大学での民族ムスリム学生協会によるABIMの創設がダウワ運動の端緒とみなされている。ABIMは71年には公式に登録され、「イスラームの原則に基づく社会の建設」をモットーに70年代半ばに勢力を仰はしたが、同時に70年代にダウワ運動は上記のように多様に分化する。
シャムスル.A.Bは80年代をダウワ運動の「本流化」の時代と名付ける。
ダウワ運動の「本流化」は、1981年の国内的にマレーシアのイスラーム化、対外的にイスラーム諸国との連帯の政策を取ったマハティール首相の登場により推進された。
76/7年頃迄はムスリム学生国民協会は文科系の学生によって支配されていたが、この時期を境に、74年にイギリスで中東と南アジアのイスラーム主義グループの影響を受けて設立されたIRCが、マレーシアの大学で新たに理系の学生を中心としたより宗教的にピューリタン的なダウワ運動として勢力を伸ばし始めた。
82年のウラマーの指導の確立後、マレー民族主義色を薄め、より普遍的なイスラーム路線を取るようになったPASとこの学生運動IRCとの結合を脅威とみなしたマハティール政権は、ダウワ運動と対決する道ではなく、より穏健なABIMを取り込むダウワ運動の「本流化」政策を選んだ。
マハティール政権はABIMの創立者アンワルを宗教省副大臣(後に農業大臣、教育大臣、財務大臣、副首相を歴任)に迎えた。アンワルはABIMにおける目標であったイスラーム医療センター、イスラーム大学の設立などをマハティール政権内で実現し、マハティール政権の「ABIM化」と呼ばれる事態を現出したのである[Shamusul
1997:215-217]。
このダウワ運動の「本流化」政策によって、シャムスルがマハティール政権に対して、ムハンマド・シュクリ・サレフがダウワ運動について、それぞれ「それ(マハティール政権)は、(ダウワ運動の)穏健な構成員を取り込むことで、過去十年間にわたって深刻な衝突を回避しつつ、急進的な運動を押さえ込んできた」[Shamusul
1997:220]、「最初、1970年代、80年代には、それ(ダウワ運動:lslamic Revivahsm)は声高で批判的、対決的なアプローチを用いた急進的な運動として生まれたが、過去15年間、少なくとも1998年9月2日にアンワル・イブラヒム前副首相が解任されるまでは、より寛大で妥協的な運動に柔軟化していっていた」[Salleh
1999:44]と述べている通り、少なくとも98年のアンワル・イブラヒムの解任事件までは、マハティール政権はダウワ運動の押さえ込みに成功したと評価されている。
(2)PASとダウワ運動
ダウワ運動は1969年の「5月13日事件」を契機に発生したと言われるが、PASもまたこの事件への対応をめぐって民族派とイスラーム派の路線対立が顕在化し分裂を繰り返したが、最終的にイスラーム派が勝利しウラマーの指導体制が確立した。
PASはダウワ運動の一部ではなかったが、PASとダウワ運動の多くはクルアーンとスンナを憲法としたイスラーム国家の樹立という主目標を共有していた[Shamusul
1997:220]。そこで以下に個別の運動とPASとの関係を見ていこう。
上述のダウワ運動の中で学生を中心とするグルーブはマレーシア・イスラーム青年運動(ABIM)、イスラーム代表評議会(IRC)[後にマレーシア改革協会(JIM)と改称]、イスラーム共和国である。
PASと並ぶマハティール政権に対する「脅威」は、ダウワ運動の中ではABIMであった[Shamusul
1997:220]。
ABIMとPASにはかってより一定の協力関係があった[Nash 1991:711]。ABIMの創立者アンワル・イブラヒムは「PASから選挙に立つと言われていた」が、入党交渉の際、PASが用意したポストに不満があったっため、マハティール首相の切り崩しによって結局UMNOに取り込まれることになった[佐藤
1996:205]。
ABIM第4代会長アフマド・アザム・アブドッラフマンは「アンワルのUMNO加人は戦略問題であり、ABIMの穏健化を象徴しており」、「強い支持の手がアンワルに、そしてそれゆえに政府にも伸ばされねばならない」と述べ、ABIMが引続きアンワルを支持しており、マハティール政権支持はその結果であることを明らかにしていた[Salleh 1999:50]。
それゆえアンワルの解任、同性愛容疑での逮捕後、ABIMの幹部4人が治安維持法によって逮捕されると(http//www.net.cybercom/aliran/ms980922.html)、ABIMのアフマド会長が「政権は彼らを逮捕するいかなる正当な根拠も有しておらず、このISAの濫用は基本的人権とイスラームの教えの入間の尊厳に反する、とABlMは考える」と非難した、とPASの機関紙『運動(Harakah)』は擬している(http:www.jaran/pas/haraka/a19981023/1O/22b2m26.html)。マハティール政権とABIMの蜜月の終わりである。
ISAによる逮捕はABIM幹部だけでなく、ABIMと競合していたJIMのサアアリ・スイギブ会長(http://www.jaran/pas/haraka/a19981023/1O/22b2m26.html)、マレーシア民族ムスリム学生協会(Ma1aysian National Muslim Students Associatin)会長まで(http://www.net/cybercom/aliran/ms980922.html)も含んでいた。
JIMの前身IRAはPASと類似したイスラーム主義的傾向を有していたが[Shamusul 1997:217]、改編後のJIMはむしろ改良主義的傾向を強めイスラーム国家樹立に急進的なPASとの距離は開いていた[Salleh
1999:51]。
学生運動の中でPASに近かったのは、「PASと緊密な同盟を組んだ」イスラーム共和国によって支配されたマレーシア・イスラーム大学生連盟(PMIUM:Persatuan
Mahasiswa Islam Universitisi Malaya)であった。このマレーシア・イスラーム大学生連盟は以前はABIMの支配下にあったもので、イスラームとダウワ活動において最も影響力のある学生組織であった[Nash
1991:712]。
他のダウワ運動としては、マレーシア・イスラーム福祉協会(Perkim)は、初代首相でUMNO第二代総裁アブドッラフマン・プトラが1960年に華人や先住民へのイスラームの普及のために作った組織で、政府やUMN0支持を得ている穏健な組織であり[荻野
1996:158-159]であり、政府に対する脅威ではない[Shamusul 1997:236]。
マレー武術諸流派(si1at)については、最大流派のナスルルハックは1987年の時点で会員30万人のうちの11万4千人がPASの本拠クランタン出身であったが、指導者がカリフを名乗り会員のカリフヘの忠誠を求めたとされることから、PASとの組織としての繋がりはないと思われる[荻野
1996:162-163]。一方1980年には、拘留中のPAS党員が78年にイスラーム国家樹立のためのPASの秘密組織として「アッラーの道の前衛組織/Perubuhan
Angkatan Sabilullah)」を結成したと述べたとの当局発表に対して、PAS書記長が「アッラーの道の前衛組織」はクダ州のマレー武術団体であってPASとは無関係、との声明を発していることから、PAS党員とマレー武術団体の一部との非公式な交流、成員の重複の存在は推定される[3]。
伝道協会は一貫して非政治的運動であり[Salleh 1999:46-47]、当然PASとも組織的関係はない。しかし「その非論争的性格は村のウラマーたちにも違和感を与えておらず」[Nash
1991:712]、クダやクランタンの農民の間にも浸透していることから、PASとは部分的重複と競合の双方の可能性は考えられる[荻野 1996:163-164]。
「ダールルアルカム」は元PAS青年部に所属していたアシュアリー・ムハンマドが1968年に創設した運動であった[佐藤
1996:202]。ダールルアルカムはアシュアリーがPASから脱退して創設した出自からして反PAS的性格を有したのみならず、PASと競合して「大衆に浸透し得る公衆志向の運動」と見做されていた[Salleh
1999:50]。そこでマハティール政権は、「うるさいイスラーム勢力の野党であるPASのカを減殺する効果を、彼らに期待して」「政治的志向の少なかった」ダールルアルカムを、「自党の票田として取り込もうとの意図」をもってUMNOの党員を加人させるなど、取込みを計り当初良好な関係を保っていたが、ダールルアルカムが政権に脅威となるほどの経済力を蓄えると、アシュアリーが政治的野心を示し始めたとの疑いが生じると、94年マハティール政権は一転ダールルアルカムを非合法化しアシュアリーらを逮捕した[佐藤
1996:208-210]。
ダールルアルカムとPASのみが「大衆に浸透し得る公衆志向の運動」であったため、「ダールルアルカムが公的生活から姿を消すことを強いられたので、大衆は他に殆ど選択肢がなくなり、PASは期せずして戦略的に有利な地位に立てつことになった」[Salleh
1999:57-58]。
またPASは、上記のダウワ運動に属さない独立のフリーランスのムフティー(教義回答者)、イマーム(礼拝導師)等、有名、無名の布教師たちに発言の場を提供し、こうした布教師たちに対するマレー人衆の支持をもPASに集めることに成功している[Salleh
1999:56]。
このようにPASはダールルアルカムの非合法化による競合運動の消滅と、フリーランスの布教師たちとの提携により、大衆的支持を増す一方、学生運動に関しても「イスラーム共和国」の影響下のPMIUMのみならず、アンワル逮捕後はISA廃止要求運動においてABIM、JIMとも共闘体制を築くことに成功したが、最後の問題については次節でより詳しく扱う。
(3)アンワル・イブラヒムの解任/逮捕後の展開
既述のようにISAによるアンワル・イブラヒムの解任/逮捕は、ABIMの活動家、JIM会長、マレーシア民族ムスリム学生協会会長の逮捕にまで及び、広範な学生の反政府運動を引き起こした。これらの学生運動を糾合したものが、アンワルの妻ワン・アジザが1994年に創設した国民正義党である。
PASは当初から機関紙『運動』紙上で、アンワル、学生運動の指導者たちの逮捕を不当逮捕、人権蹂躙と批判するキャンペーンをはっていたが、1999年選挙に備え国民正義党の結成により同党との選挙協カに発展する。
こうしてISAによる学生運動指導者の逮捕により、PASと国民正義党との協力を通じて、シュクルルが「政府の考えでは、学生を基盤とするダウワ運動とPASとの結合は政治的に危険である」[Shamusul
1997:217]と述べていた事態が実現することになり、その結果が冒頭でも述べたPASの大躍進であった。
選挙結果をマレー人(ムスリム)に限って見た場合、マレー人(ムスリム)が人口の90%以上を占めるトレンガヌ州(95.3%)、クランタン州(94.O%)(『インドネシア・マレーシアにおけるムスリム・アイデンティティー』73頁)ではトレンガヌ州においては同会定数8議席中8議席、州議会定数32議席中28議席、クランタン州では国会定数14議席中13議席、州議会定数43議席中41議席を
獲得するという圧倒的勝利であった(「よくわかる99年マレーシア総選挙」)。
1999年選挙のもう一つの特徴は華人を支持母体とする民主行動党(DAP)との連立である。確かにウラマーの指導の確立後、1990年の総選挙でもPASは「46年精神」及びDAPと野党連合Gagasan
Rakya(人民の構想)を結成していたがマハティール政権反対の1点のみで纏まったもので政策の一致点がなかったのに対し[荻野 1996:193]、1999年のPAS、国民正義党、DAP、マレーシア人民党の連合「アルタナティブ戦線」は統一公約を定めた直接的協力関係であった。ここに従来の民族利益を主たる対立軸とする従来の政党配置から、「政治改革か現状維持かを主たる対立軸として政党連合が並立する状況」への変化が生まれ、「政権交代が可能」な責任野党としての野党連合が誕生したことになり、「PASとDAPの双方を包含する本格的な野党連合の成立は、マレーシア政治史において同期的」[中村
2000:45]との評価を受ける政治状況が生じたのである。
結論
「1983年のウラマー(イスラーム学者)の指導下に入って以降、PASはその急進主義を和らげてきた」[Salleh
1999:44]と言われる通り、ウラマーの指導の確立後、PASはマレー民族主義政党からイスラーム的普遍主義政党に脱皮すると同時に、急進路線から穏健な現実主義路線への転換にも成功した。
その結果としてPASはイスラーム主義の文脈の中で「政府の外部で独立して生き残るように見える単独のイスラーム政党であり唯一のイスラーム運動」[Salleh
1999:58]との評価を得た。また華人を支持基盤とするDAPとの連立を果たし偏狭なマレー民族主義政党とのイメージを払拭すると同時に、民主主義、基本的人権の擁護を掲げ欧米の受けもよい国民正義党と連立し、機関紙『運動』を通じて「政治的中立の原則を持たず、明確に与党支持の立場をとる主要メディアに飽き足らない人々」[中村
2000:46]を糾合し、政権獲得を視野に収め得る責任野党へと変身を遂げた。
PASはクランタン州で1959年から78年、9O年から現在に至るまで州政権を担当した実績がある。69年の華人とマレー人の衝突で196人の死者を出した「5月13日事件」も、PAS治下のクランタン州には飛び火せず、少数派の華人への迫害も生じていない。これはイスラーム政党の統治が、少数派の異教徒への迫害を招<、という主張に対する最も雄弁な反証となっている。
また82年以来の党内におけるウラマーの指導の確立の後の90年のクランタン州政権奪回、ニゥ・アズィズ師の州政権担当後の99年総選挙での大躍進は、同師の在任中の実績に裏付けられたウラマーの政治実務能力、政権担当能力を民衆が認めたことを証ししている。
1979年のホメイニー師の「ウラマーの監督権」理論によるイスラーム革命の成功以来、東南アジアのスンナ派世界でも、州レベルでは1992年にフィリピンでマヒド・モティラン師がオンピア党首として南ラナオ州知事に当選し、同政レベルでは99年にインドネシアで国民覚醒党を率いるアブドッラフマン・ワヒド師が大統領に当選を果たすなど、民主的選挙によるウラマーの政権獲得現象が生じている。しかしこうした東南アジアのウラマーの政権獲得現象の中でも、
オンピア党も国民覚醒党もウラマーの指導権、イスラーム国家樹立を公式に党是としているわけではないのに対して、PASは政党として「公式に」ウラマーの指導体制を制度化し、イスラーム国家の樹立を政策目標に掲げている点で極めてユニークである。
以上、本稿は、世界のイスラーム復興現象と民主化の双方の文脈におけるPAS研究の重要性を示すことができたかと思う。
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1997, pp. 207-227.
3. 報告書
『インドネシア・マレーシアにおけるムスリム・アイデンティティーと中東地域との人的・経済的関係に関する調査研究』社会問題研究所、1998年。
4.インターネソト・ホームページ
(1)「よくわかる99年マレーシア総選挙の解説と結果分析及び各政党のお話し」『マレーシアを批評するコラム』http://www.big.or.jp/~aochan/colum/thisweek.html。
(2)http://www.patri-oas.org/.
(3)http://www.net/cybercom/aliran/ms980922.html.
(4)http://www.jaran/pas/haraka/a19981023/lO/22b2m26.html.
(5)http://www.net/cybercom/aliran/s980922.html.
[1] ニゥ・アズイズ師自身は特定のスーフィー教団には属していない、と言われる。
[2] PASの批判キャンペーンを繰り返す政府系紙ですら、ニゥ・アズィズ師が質
素で人々の敬愛を集めている(a charming anda simple man)ことは認めており(New Straits Times, 2000/8/8)、州首相の地位にありながら清掃員に交じって率先してコタバル空港の掃除に励むニゥ・アズィズ師の写真が掲載されもする(New Straits Times, 2000/8/8)。
[3] 2000年7月にペラ州で大量の武器を略奪しテロ事件を引き起こしたイスラーム主義武装闘争集団「アル=マウーナ」もシラトを取り入れていたと言われ(Berita
Minggu, 2000/7/23)、またそのメンバーの多くがPAS党員であったとも言われている(New Sunday Times,
2000/7/23)。