中田考、「イスラーム法学に於けるカリフ論の展開」、日本オリエント学会、オリエント、第33巻 第2号、1990年、pp. 79-95。
イスラーム法学に於けるカリフ論の展開
中田考*
現在イスラーム世界は、西欧帝国主義列強の植民地化によるウンマの分断、世俗主義、政教分離主義にたつトルコ共和国の成立、カリフ制の消滅という未曾有の事態に直面し、新たた政治理念を模索しつつある。現代のイスラーム政治論は、西欧による植民地化という外傷体験を経ることにより、西欧的政治理念を先取りし、尚かつその限界を越えるものとしての、あるべき「イスラーム的政治」の姿を描く、という方向性を強いられることになった。その結果それは、西欧的政治観とは異なるイスラームに独自な政治理念を抽出しようとの外見にも拘らず、「民主主義」、「法治主義」、「人民主権」、「平等」などをキーワードとする古典的西欧政治学の枠組みの申で、「イスラーム的」政治理念を「再構成」せざるをえないことになる。即ち現代のイスラーム政治論は、旧来の「イスラーム諸学」の知的遺産を、西欧的政治学の枠組みに当はめて切取り、再構成したものなのである。そしてこのような再構成の素材となったのは、先ずクルアーン、スンナ、及び正統カリフたちの言行録であり、ついでイスラーム神学、法学[1]のテキストに他ならない。
I.方法と対象
クルアーン、スンナ、正統カリフの言行録は、整合性、一貫性は内在するにせよ、歴史的には、文脈を異とする様々な状況下に成立したテキストの集成である。従ってそれらの諸テキストの解釈は、ムスリムであると、非ムスリムであるとを問わず、どのような立場に立つにせよ解釈者の解釈枠組みに全面的に依存せざるを得ず、従って「神学的」議論となる宿命にあり、「学問的」、「客観的」に正当との合意が達成されることは極めて困難である。
一方イスラーム神学、及び法学のテキストは、一人の「作者」の作品であり、またクルアーン、スンナ、正統カリフの言行録というテキストの集成を前にしての、前者に於いては「論理的整合化」、後者に於いては「実践的規範導出」という明確な目的をもった反省的体系的思索の産物、そして特定のディスィプリンを共有する学者団の存在に基礎をおく集団的営為の産物として、明確な内構造を有している。それ故、神学、法学テキストは解釈者の解釈枠組みから相対的に独立した形でそれ自体の構造を抽出し、その構造に即して解釈することが可能であり、従って間主観的に妥当な解釈を得ることが、比較的に容易であると考えられる。
ところが現代のイスラーム政治論は、クルアーン、スンナ、正統カリフの言行録などから、「あるべきイスラームの政治像」を直接に抽出することに急であり、伝統的イスラーム学の中で、イスラーム的政治がどのように表現されてきたかを「学問的」に明らかにする作業を怠ってきたように思われる。しかし過去への真摯な反省なくして生産的な再構築はあり得ない。そこで本稿では、「あるべきイスラーム的政治像」が現代に於いていかなる表現を取るべきかを考えるための準備作業の一つとして、「近代」以前に於ける「伝統的」イスラームの政治思想の展開のスケッチを試みたい。
元来イスラームの学問伝統の中で政治学は独立の学問分野とはならなかった。そして我々の政治学あるいは政治論の近似的な等価物を、従来のイスラーム学の中に見出すとすれば、それは「カリフ論」[2]となる。イスラーム学の「カリフ論」は主として神学と法学の中で論じられるが、キリスト教の場合と異なり、そもそもイスラーム学の主軸とたるのは神学ではなく、法学である。更に「政治」が実践的概念であるとすれば、イスラームの政治思想を知るためには先ず、法学の「カリフ論」が何であるかを明らかにする必要がある。しかしイスラームの学問の中で、神学者は同時に法学者でもあったこともあり、従来の研究はイスラーム神学の議論と法学の議論を厳密に区別せず、al-M±wardµ
(d.450)の Al-AÆk±m
as-sul»±nµyaのような独立の作品と共に、イスラーム神学のカリフ論を、法学、あるいは法学者のカリフ論として扱う傾向があった。しかし学問区分としては神学と法学は厳密に区別されており、その混同は慎まねばならないと筆者は考える。そこで本稿は考察対象領域を、イスラーム法学に限定する。またカリフ論は、カリフ位の締結、カリフの任務、カリフの廃位などの諸問題を扱うが、以下ではカリフ論の中核をなすカリフ位の締結問題に焦点を絞り、その展開を歴史的に跡付ける。
「イスラーム法学についての標準的なテキストは殆ど例外なく政府についての、いくつかの章を設けており、幾人かの著述家はこの主題の専門書を著している[3]」とのバーナード・ルイスの言葉にみられるように、西欧の研究はカリフ論が法学の一部である、との前提に立つ。しかしムスリム世界の研究ではサソフーリーが「我々の法学者は、カリフ政体(niñm
Æuk¹ma
a1-khil±fa)の問題を、法学書に独立の章を立てず、神学書の章立ての最後に挿入した付録として扱ってきた[4]」と述べているように、カリフ論が法学的主題とならなかったとの指摘も存在する。そこで我々は予見を排し、先ずそもそもカリフ論がイスラーム法学の領域に属するのか、との問題から出発しよう。そしてもし属するとすれば、それはイスラーム法学の中でいかなる位置を占めるのか、もまた同時に分析されねばならない。それゆえ本稿では、カリフ=政治論の専門書のみでなく、イバーダート(儀礼規定)、ムアーマラート(社会行為規定)を包括する一般的な法学書を可能な限り参照する。
II.カリフ論の法学化の始まり
ヒジュラ暦2、3世紀のハナフィー派のal-Shaib±ni (d. 189)の Kit±b
al-Åujja,
シャーフィイー派の、ash-Sh±fiص
(d. 204) の al-Umm, Muzanµ
(d.264) のMukhtaar
al-Muzanµ
はまだ、独自の著作というより先人の言説の集成の性格が強い。それゆえ我々はハナフィー派の a»-ºaƱwµ
(d. 321) のMukhtaar
a»-ºaƱwµ, al-Qud¹rµ
(d. 428) の Mukhtaar
al-Qud¹rµ、シャーフィイー派のar-R±zµ
(d. 395) のÅilya al-fuqah±Ù、マーリキー派のIbn űrith
(d. 361) の U¹l
al-futy±、Ibn
a1-Jall±b
(d. 378) のat-TafrµØ、al-Qairaw±ni (d. 389) のar-Ris±la、ハンバリー派のa1-Khiraqµ
(d.334) の Mukhtaar al-Khiraqµ
などの規範体系として整理された4、5世紀前半の4法学派の「法学綱要」から考察を始めよう。
カリフの職務規定については、ハナフィー派の Ab¹
Y¹s¹f
(d. 187) の Kit±b
al-Khar±j,
シャイバーニーの Kit±b
as-Siyar al-kabµr
だとが、既にその法学化に先鞭をつけており、上記の法学書にも、例えば戦利品の分配について、「カリフは戦利品を分け、その五分の一を(孤児、貧者、旅人のために)取り分け、残る五分の四を兵士に分配する[5]」などの表現で、その一部が既に組込まれている。しかしこれらの法学書はまだ、カリフ位の締結自体を論じてはいない。つまり「カリフ」概念はこれらの書では、前反省的に自明のものとされており、法学的に厳密な定義を要するとは考えられていない、という意味でまだ完全な意味では法的概念とはなっていないのである。
法的に「カリフ」概念を包括的かつ、厳密に規定しようとした現存する最古の作品は
シャーフィイー派のマーワルディー(d. 450)及びハンバリー派のAb¹
YaØl±
(d. 458)の同名の書 al-AÆk±m
as-sul»±nµya
であろう。
マーワルディーは、彼のカリフ観を al-AÆk±m
as-sul»±nµya
の序文に、以下のように端的に述べる。
いと強きアッラーは、ウンマ〔イスラーム共同体〕に指導者を任じ、彼に預言者の職務を継がせ、彼によってミッラ〔イスラーム共同体〕を守り給う。そして啓示されたイスラームの教えが世に実現され、議論が一つの従われるべき決断に収斂するため、アッラーは彼に政治を委ねたのである。それゆえカリフ位は、それによって、ミッラの諸原則が定まり、ウンマの利害が調整される基礎であり、公的事柄はカリフ位によって確定され、各種の権威(wil±ya)
はカリフ位から発する (adarat)のである[6]。
アブー・ヤァラーは、彼のカリフ観を明言していないが、両書はほぼ同一の構成を取り、それによると、カリフを立てることは、啓示によって義務付けられており、その義務の形態としては集団的義務である。即ちカリフ位が空位となると、ウンマの中からカリフ選挙人(ahl a1-ikhtiy±r)
及び、カリフ有資格者(ahl al-im±ma)
という二集団が選別されねばならないことになる。
ついでマーワルディーとアブー・ヤァラーはカリフ選挙人とカリフ有資格者のそれぞれの資格を規定する。選挙人の条件としては両者は共に、1.公正 (Øad±la)、2.カリフの満たすべき諸資格についての知識、3.カリフに相応しい候補者の腹案を持つことの三つをあげる。カリフ侯補者の条件はマーワルディーに於いては七つで、1.公正さ、2.イスラームの知識、3.聴覚、視覚、発話能力の健全、4.運動能力、身体的健康、5.政治的見識、6.武勇、7.クライシュ族の出自、であるが、アブー・ヤァラーは、1.クライシュ族の出自、2.裁判官となりうる資格をもつこと、即ち自由、成人、正気、イスラーム的知識、公正さを兼備えること、3.戦争、政治、ハッド刑を私情を交えず執行なうこと、ウンマの防衛に剛毅であること、4.イスラーム的知識、宗教心 (dµn)
に於いてウンマの中で最も卓越した者の一人であることの四つを数える。
両者によると、カリフ位は「解き結ぶ者(ahl al-Æall
wa al-Øaqd)
」による選挙か、前任のカリフによる後継指名のいずれかによって締結される(inØaqada)。
「解き結ぶ者」による選挙によるカリフ位の締結とは、より正確には「解き結ぶ者」則ち選挙人が、カリフ有資格者の中から一人を選び、彼との間に「バイア〔忠誠の契約〕」を交すことによって成立する。
マーワルディーは「解き結ぶ者」の定足数については法学者間の見解の相違を挙げるだけで自らの判断を示さず、選挙人の同意を欠くカリフの後継指名の有効性については、カリフ位は締結され、選挙人団の同意は問題とならないとする。一方アブー・ヤブラーは、選挙人の定足数については「選挙でカリフ位が締結されるのは、『解き結ぶ者』の大半(jumh¹r)
によるのでなければ締結されない」とする。
また彼は支配(qahr)と征服(ghalaba)によるカリフ位の締結を認めず、前任カリフによる後継指名についても、マーワルディーと異なり、前任カリフの後継指名自体と、前任カリフ逝去後の後継指名を受けたカリフとウンマとの「バイア」を区別し「その指名自体(nafs al-
Øahd)によって、指名をうけた者のカリフ位が締結されるのではなく、ムスリムたちの指名によってのみ締結されるのである」と述べている[7]。
以上のようにアブー・ヤァラーではマーワルディーと比べ「『解き結ぶ者』による選挙」の実質を守ろうとする理想主義的色彩が強いのが目につくが、両 al-AÆk±m
as-sul»±nµya
は同一の論理構成を持っており、それは以後のカリフ論の法学化の方向を決定するものとなる。即ち、以後カリフの概念規定、あるいは「誰が真のカリフとしてウンマの服従を要求しうるのか」とのカリフの正当性への闇への答えは、カリフ有資格者の諸条件及びカリフ位の正当な締結形式の規定をもってなされることになるのである。
次いで現れるシャーフィイー派のIm±m
al-Åaramain
al-Juwainµ
(d.478)の al-Ghiy±thµは基本的にはal-AÆk±m
as-sul»±nµyaの跡をなぞりつつも、重要な改訂を加えている。
ジュワイニーによると選挙人条件として確定しているのは、女性、奴隷、無学者、庇護民(ahl adh-dhimma)でないことであり、バイアに必要な人数は確定することは出来ない。カリフ有資格者の条件としては、A.身体的条件として、視聴覚、発話能力、B.自然的条件として、1.クライシュ族の出自、2.男性、3.自由、4.理性、5.成人、C.後天的条件として、1.イスラーム的知識、2.敬度、3.重要事項に於ける統率力を挙げる。また彼は更にそれらの条件は、1、独立(istiq±l)と、2.(クライツユ族の)出自にまとめられると言う。
またジュワイニーは、カリフ位の締結は、選挙によるとし、後継者の指名もその一つのバリエーションに数える。
またジュワイニーはカリフが就任後資格の一部を失った場合について論じ、カリフの本質的要件を「能力(kif±ya)」〔シャリーアから見て正しい判断を施行する能力〕に還元し、能力がある限り、そのカリフ位は正当であるとする。
このようにジュワイニーは、カリフ資格条件を1.独立と2.出自の二つ、最終的には「能力」に、カリフ位締結形式を「選挙」に整理したのである。
しかしジュワイニーの独創は、こうした議論を展開した第一部に次いで、条件に適う正当なカリフの不在時を論ずる第二部にあり、以下にそれを要約する。
資格を満し選挙人によって選ばれた正当なカリフの不在時に、自ら覇を唱える者が現れた場合についてであるが、それは自ら覇を唱える者が、1、カリフ資格条件を満し適格である場合、2.カリフ資格条件は満さないが能力を持つ場合、3.カリフ位に適格でなく、しかも能力、胆力(najda)も持たない場合に分かれる。1.のカリフ適格者である場合には、適格者が一人だけの場合は、選挙人有資格者が不在の場合は真のカリフであり、そうでない場合も、彼がカリフに推戴されるべきである、あるいは服従の義務があるという意味でカリフである。他方、覇を唱える者が多数の場合には、そのうちの誰かにカリフ位が締結されるためには、選挙と忠誠契約が必要である。2.のカリフ条件を満さないが能力を有する者である場合は、彼が権力を独占しており、他の追随を許さない場合は彼がカリフに推戴されねばならない。3.のカリフ位に適格てない上に能力も胆力もない場合については、万事はイスラーム学者に委ねられ、イスラーム学者集団が指導者となるべきである[8]。
このように、ジュワイニーはal-AÆk±m
as-sul»±nµyaのカリフ条件、締結要件を整理し、正当なカリフの不在の可能性を認め、正当たカリフの不在時の覇者の規定を与え、更に覇者不在の想定の下では、イスラーム学者への政治の委任をも理論化したのである。
III.ハンバリー派、シャーフィイー派法学に於けるカリフ論の展開
しかしこうしたマーワルディー、アブー・ヤァラー、ジュワイニーらのカリフ位の法学化の試みは、即法学の構造の中に組込まれたわけではない。なぜならハナフィー派のas-
Sughdµ(d.461)のan-Nutaf、as-Sarakhshµ(d.483)のal-Mabs¹»、as-Samarqandµ(d.539)のTuÆfa
al-fuqah±Ù、al-Buk±rµ(d.546)のMaƱsin
al-isl±m、a1-K±s±nµ(d.587)のBad±ÙiØ
a-an±ÙiØ、Q±dµ
Kh±n(d.592)のal-Fat±w±
al-Kh±nµya、a1-Marghµn±nµ(d.593)のal-Hid±ya、シャーフィイー派のAb¹
Shuj±Ø(d.486)のal-Gh±ya、al-Ghaz±rµ(d.505)のal-Wsjµz、a1-Qaff±l(d.507)のÅuly±
al-Øulam±Ù、マーリキー派のIbn ØAbd
a1-Barr(d.463)のal-K±fµ、al-B±jµ(d.494)のal-Muntaq±、Ibn Rushd(Ab¹
a1-Walµd)(d.520)のal-Bay±n
wa at-taƵl、Ibn Rushd(a1-Åafµd)(d.595)のBid±ya
al-mujtahidなど5世紀中葉から6世紀の法学書は、シャーフィイー派のash-Shµr±zµ(d.476)のat-Tanbµhを除き[9]、カリフ資格条件、カリフ位締結形式をまだ論じていないからである。
カリフ論の法学化に於いて重要なのは7世紀のハンバリー派のIbn Qud±ma(d.630)、シャーフィイー派のan-Nawawµ(d.676)である。
イブン・クダーマは、「叛徒討伐章」に於いて、「内乱(baghy)」を、
アブー・バクル〔のカリフ位締結の場合〕のようにムスリムのイジニ。マーアによってであれ、アブー・バクルによるウマルの指名のように、前任カリフの指名によってであれ、アブドゥ=ル=マリク・ブン・マルワーン〔ウマイヤ朝5代カリフ〕の場合のように、自分に従いカリフと呼ばせるまでに人々を支配することによってであれ、カリフ位が確立された(thubitat)全ての者について、背き戦うことは禁じられている[10]。
と、規定した。つまりイブン・クダーマは、内乱の概念規定をするため、「カリフ」に定義を与えたのであるが、それは正当なカリフ位締結形式を、1.イジュマーア、2.後継指名、3.支配、の三つの形式として規定することによってだったのである。そしてそれは、彼以降のハンバリー派法学者に継承され、ハンバリー派ではカリフ論は「叛徒討伐」章に組込まれることになる。
またナワウィーは、「叛徒」章の中に「カリフ条件」節を設け、
カリフの条件とはムジュタヒド〔法源に遡り法判断を下す能力のある者〕、勇士、及び見識、聴力、視力、発話能力の持主であることである。
またカリフ位は、先ずバイアによって締結される。より正確には集まることの容易な学者、諸侯(ruÙas±Ù)、有力者(wuj¹h
an-n±s)などの「解き結ぶ者」のバイアであり、「解き結ぶ者」の条件は、(裁判での)証人となりうる条件と同じなのである。
また(前任の)カリフの後継指名によっても締結され、カリフがその問題を人々の協議に任せたなら、それは後継指名と同等なのであり、その者たちのいずれか一人に落着くことになるのである。
また(前述の)諸条件を満たす者が、自ら覇権を握ること(istiyl±Ù)によっても締結される。尤もより正確には、その者が、邪悪な人間(f±siq)、イスラーム的教養に欠ける人間(j±hil)であってもやはりカリフ位は締結されるのである[11]。
と述べ、カリフをその資格条件とカリフ位締結形式によって定義しているのである。
このように7世紀にはハンバリー派とシャーフィイー派の著名な法学書が、共に内乱規定のためのカリフの定義の要請から、前者に於いてはカリフ位締結形式、後者に於いては締結形式と資格条件を法学に組込むことになった。
しかし尚この時期に於いても、ハンバリー派のAb¹
a1-Barak±t(d.652)のal-Mukht±r、マーリキー派のIbn ØAs±kir(d.732)のIrsh±d
as-s±lik、Ibn Juzaiy(d.741)のQaw±nµn
al-aÆk±m、ハナフィー派のIbn Maud¹d(d.682)のal-Mukht±r 、al-Ikhtiy±r、an-Nasafµ(d.710)のal-Kunzなどにはまだ、カリフ論は現れていない。
このころイスラーム法学は既に「注釈の時代」と呼ぶべき時代にはいりつつあり、各学派とも、オリジナルな作品は減り、過去に編まれた「綱要」の逐語的注解(sharÆ)及び、その注解に付された脚注(Ʊshiya)などの比率が高くなっていた。特にシャーフィイー派では、ナワウィーのMinh±j
a»-»±libµnに多くの注解書、脚注が現れたが、それらはナワウィーの挙げるカリフ資格条件、カリフ位締結形式を、先人の論を借りて敷衍するのみで、そのまま継承しており、重要な変革、付加は存在しない。但しバイアに関してはMuÆammad
ar-Ramlµ
(d.1004)の注解Nih±ya
al-muÆt±j、及びash-Sharaw±nµ(12/3c?)によるTuÆfa
al-muÆt±jの脚注は、「解き結ぶ者以外の『人々(Øaw±mm)』のバイアには意味(Øibra)がない」と言い、Sulaim±n al-Jama1(d.1254)のMinh±j
a»-»ull±bの脚注も、「人々のバイアでは十分てない」と述べ、一般
民衆がカリフ選出に無縁であることを再確認している[12]。
8世紀にはシャーフィイー派ではIbn Jam±Øa(d.733)が、統治規則に関しTaÆrµr
al-aÆk±mを著しているが、カリフ論に関してイブン・ジャマーアは、ナワウィーの整理に何ものもつけ加えていない。またハンバリー派ではIbn Taimµya(d.728)が独白の政治論as-Siy±sa
ash-sharصya
を著すが、イブン・タイミーヤは法学的意味でのカリフ制度自体を認めておらず、従ってカリフ資格条件、カリフ位締結形式を一切論じていない。
ハンバリー派ではイブン・クダーマでは3つであったカリフ位締結形式は、a1-Mard±wµ
(d.855)のal-In±fではイジュティハード〔「解き結ぶ者」の一部によるイジュティハードによるカリフ最適格者選出〕が加わり、更にAb¹
an-Naj±(d.960)のal-Iqn±Øは、「カリフ選出を前任カリフから委ねられた参議たちによる協議」を別に立てた。従ってハンバリー派では、最終的にはカリフ位締緒形式は、1.イジュマーア、2.後継指名、3.征服、4.イジュティハード、5.勅選参議の協議の5つとなった。またはカリフ資格条件はal-In±fに既に現れ、ハンバリー派でもカリフの定義は、カリフ位締結形式と、カリフ資格条件によって与えることになるが、al-Iqn±Øに於いてカリフ資格条件は最終的に、「就任に際し、クライシュ族の出身者、成人、正気、聴力、視力、発話能力の持主、奴隷でも、解放予定奴隷でもない自由人、男性、公正者、イスラーム学者、見識者、有能者であることであり、またその限りに於いて」となった[13]。
IV.マーリキー派、ハナフィー派法学に於けるカリフ論の展開
マーリキー派法学がカリフ論を組み込むのに与えるところが大きかったと思われるのはこれも後に多くの注釈の対象となるMukhtaar
Khalµl が、「裁判官」章に
裁判官は、1.公正な人間、2.男性、3.健常者(fa»in)、4.ムジュタヒド、ムジュタヒドがみつからない場合にはムヵツリド〔法源から直接法判断を演舞する資格を欠き先達に倣う法学者〕のなかで最も秀れた者、でなければならない。またカリフはそれに加えてクライシュ族の出身でなければならない[14]。
と、カリフ資格条件を挿入したことである。Mukhtaar
Khalµl のal-Mauw±q(d.897)による注解at-T±j
wa al-ikhlµlは、「内乱」章に於いて、ハリールの、「カリフに背く集団」との「叛徒」の定義を注釈し、「カリフ位確定の規定は神学とハディース学に述べられており、Ab¹
al-MaØ-
±lµ〔ジュワイニー〕はal-L¹m±Øを『カリフ位の諸条件』節で締括っている」と言いつつも、上述のカリフ資格条件に加え、「困難に対処する胆力と能力」を付加している。またal-Bann±nµ
(d.1194)は、Mukhtaar
Khalµlの脚注űshiya al-Bann±nµに於いて、「内乱」章の「カリフ」を注釈し、カリフ位は、1.有資格者への前任のカリフの後継指名、2、人民に対する支配(taghauub
)、3.『解き結ぶ者』による、a.裁判官の資格条件の諸条件、b.クライシュ族の出自、c.困難、厄災に対処する危機管理能力の三つを備えた者へのバイアの三つの要件により確定されるとした[15]。こうしてマーリキー派に於いてもカリフ位はカリフ資格条件とカリフ位締結形式により定義されることになるが、マウワークもカリフ規定が神学とハディース学の課題であると言っているように、マーリキー派では、カリフ論の法学化は遅れて始まる。また彼等の法学書には、後代になってもal-Qairaw±nµのar-Ris±laの諸注解のようにカリフ論を組込まないものが多く、またそのカリフ論もシャーフィイー派に追随するのみで独自た展開は見られない。
ハナフィー派では、8、9、10世紀のa1-B±bartµ(d.786)によるal-Hid±yaの注解al-ØIndµyaと、そのSaØdµ(d.945)による脚注űshiya Øal±
al-ØIn±ya, Ibn al-Bazz±z(d.827)のal-Fat±w±
al-Bazz±zµya, Ibn al-Hum±m(d.861)によるal-Hid±yaの注解FatÆ
al-qadµr, Manl±
Khusr-
au(d.885)のGhurar al-aÆk±mとその自注al-Durar al-Æukk±m, al-Åal±bµ(d.956)のMultaq±
al-abÆurにはカリフ論は存在しないが、Multaq±
al-abÆurの10/11世紀のat-Tamart±shµ
(d.1004)による注解Tanwµr
al-ab±r、及びD±m±d
Afandµ(d.1040)による注解MajmaØ
al-anhurは、「叛徒」章で、
カリフがカリフになるのは、1.貴人(ashr±f)、有力者(aØy±n)とのバイア契約締緒と、2.その支配力(qahr)、威力(jabar¹t)を恐れさせて臣下(raصya)たちに彼の命令(Æukm)を貫徹(yunaffidhu)することによって、である。それゆえ、もし人々がバイアをしても、彼の力が弱く支配を貫徹できないなら、彼はカリフとはならないのである。もし彼がバイア契約締結により統治者になり、その後不正な政治を行っても、彼に支配力、勢力がある限り、廃位されることはない[16]。
と、カリフ位確立形式によって「真のカリフ」を定義している。またal-Åakafµ(d.1088)によるTanwµr
al-ab±rの注釈ad-Durr al-mukht±rは、「礼拝」の書の「指導者職(im±ma)」節で、指導者職に小指導者〔礼拝の指導者〕と大指導者〔カリフ〕を区別し、
カリフには、ムスリム、自由人、男性、正気、成人、有能、クライシュ族の出身であることが条件付けられており、ハーシム家、あるいはアリー家の出であること、無謬であることは条件ではない。悪人の擁立は好ましくなく、内戦の恐れがなければ廃位されるべきであるが、(先ず)彼に行いを正すよう呼掛けねばならない。ともあれ必要上から覇者(mutaghallib)の権威(sul»ana)は正当である(taiÆÆu)[17]。
と言い、ハナフィー派法学にもカリフ資格条件が現れる。しかしIbn ذbidµn(d.1252)によるad-Durr al-mukht±rの注釈Radd al-Mukht±rは、ad-Durr al-mukht±rの「彼の支配の貫徹によって」の句を、「バイア契約の締結の存在に加え、命令の貫徹が条件付けられているのであり、また明らかに、後継指名の場合も同様なのである。いや、バイア契約や後継指名などなくとも、覇権(taghallub)、命令の貫徹、支配によって彼はカリフになるのである[18]」と注釈している。
このようにハナフィー派では、カリフ論の法学化は独自の展開を示している。つまりハナフィー派でも、カリフ論は、「叛徒」章にカリフ位締結形式を組込むことから始まったが、その内容は他学派と本質的に異なっているのである。即ち、他学派では、「支配」は「選挙」、あるいは「バイア」や「後継指名」などと並ぶ形式の一つとして択一的にとらえられている。ところがハナフィー派では、タマルダーシーでも、「支配」は「バイア」と相補的なものであり、不可欠な要件として把握されており、更にイブン・アービディーンでは「バイア」と「支配」を対比したうえで、「支配」こそカリフ位の本質であると結論しているのである。
V.結論
以上、我々はスンナ派四法学派に於けるカリフ論の展開を概観したが、最後に暫定的な結論をもって本稿のまとめとしたい[19]。
イスラーム法学は、その初期に於いてはカリフ位の締結を法学の主題とは考えなかった。カリフ論の法学化は、シャーフィイー派のマーワルディー、ハンバリー派のアブー・ヤァラーのal-AÆk±m
as-sul»±nµyaをもって始まる。シャーフィイー派、ハンバリー派は、概ね間もなくそれを受入れることになり、彼等の法学書はカリフ論を組込むことになった。やや遅れてマーリキー法学もシャーフィイー派のカリフ論を導入するが、それが大勢となったとは言切れない。一方ハナフィー派では、法学書にカリフ論が現れるのは他学派に比べ大幅に遅く、内容的にもかたり異なる。
al-AÆk±m
as-sul»±nµyaは、カリフ位を、ツーア派の「神意による指名(na)」理論のアンチ・テーゼとして、「選挙」によるものとし、カリフ位締結の形式としての「選挙」を、一定の条件を満たす選挙人集団「解き結ぶ者」が、カリフ有資格者申から一人を選びバイアを交わすこと、及び前任カリフが有資格者の中から後継者を選び指名すること、として定式化した。つまりal-AÆk±m
as-sul»±nµyaは就任手続きの合法性をもって、カリフ位の正当性の根拠としたのである。そして後代のシャーフィイー派、ハンバリー派、マーリキー派法学は、カリフの定義を、カリフ資格条件とカリフ位締結形式によって与えるという枠組みに於いては、マーワルディーとアブー・ヤァラーのal-AÆk±m
as-sul»±nµyaを継承したが、「支配」によるカリフを認める点に於いて、決定的に異なることになったのである。
カリフ論の理論化について言えば、ジュワイニーが、カリフ位締結形式を選挙、カリフ資格条件を最終的に「能力」に纏め、理論的還元、整理を試みた。しかしその後の展開は、ハンバリー派のカリフ位締結形式が、イジュティハードを「解き結ぶ者」による選挙から、「勅選参議の協議」をカリフの後継指名から区別し、締結形式がむしろ逆に細分されたことに見られるように、資格条件、締結形式の還元、整理の方向は取らなかった。
一方ハナフィー派は独自の展開を見せ、先ず「バイア」と「支配」を相補的にとらえる視点を提出し、次いでカリフの本質的要件を「支配」に還元したのである。
最後に、四法学派が共通してカリフ論を内乱規定の一部として法学に組込んだことの意味が看過されてはならない。つまりイスラーム法学のカリフ論は、服従が義務付けられ反乱を禁しられる存在としてのカリフの正当性を弁ずる機能を果し、al-AÆk±m
as-sul»±nµyaは、カリフの正当性を彼の就任手続きによって定義する枠組みを準備したのである。そして後の法学はその枠組みを継承したうえで、力による支配を、カリフ位締結形式の一つとして認めることになった。ところがカリフ位の締結形式がその正当性を保証するとし、力による支配をその合法的な締結形式の一つと認めることは、要するに既存のいかなる体制をも正当化することに他ならないのである。
イスラーム法学のカリフ論は結果的に、民衆を政治から疎外し、受動的な服従を説く体制擁護のイデオロギーとなった。そしてその欠陥は私見によれば、カリフの正当性をその就任手続きの合法性に求める静態的な概念構成自体にあると思われる。従って伝統的イスラーム法学のカリフ論の構成自体の再点検なしには、カリフ論の有効な再構築は不可能なのである[20]。
[1] ここで言うイスラーム神学、法学とは、スンナ派神学、スンナ派法学を指す。
[2] Erwin I. J. Rosenthal, Political Thought in Medieval Islmam, Cambridge, 1955, p.3参照。またイスラーム法学は、「カリフ」を指して通常im±mの語を用いるが、本稿では、慣用に従い、im±mを「カリフ」と訳す。なお本稿では、参考文献の出版年を原則的に西暦で示したのを除き、全てヒジュラ暦を用いる。
[3] Bernard Lewis, The Political Language of Islam, Chicago, 1988, p.
28.
[4] ØAbd ar-Razz±q AÆmad as-Sanh¹ri, Fiqh al-Khil±fa wa Ta»awwur-h±, Cairo, 1989, p. 62.
[5] ØAbd Allah Mu»af± al-Mar±ghµ, ØAbd a1-Q±dir Y¹suf, ash-Shih±b (Mukhtaar al-Qud¹rµ の注釈書), Cairo, 1948, vo1.3, p. 160.
[6] al-M±wardµ,
al-AÆk±m
as-sul»±nµya,
Kuwait, 1989, pp. 1-2.
[7] ibid., pp. 3-13. al-Farr±Ù, al-AÆk±m as-sul»±nµya, Beirut, 1983, pp. 19-25.
[8] cf. Im±ma
al-Åaramain, al-Ghiy±thµ,
n. p., 1401 (h), pp. 54, 59-91, 313, 316-329, 391-392, 但し、ジュワイニーの能力、独立の概念は、法的イジュティバードの能力であるのか、その判断を執行する実力であるのかは必ずしも明確ではない。cf. ibid.,
pp. 86, 90.
[9] at-Tanbµhは「犯罪(jin±y±t)」の書の最後に「スルターンの定法(±d±b)」章を置き、「カリフ位は前任のカリフの任命によるか、イジュティハードを行い得る者の集団のイジュマーアによる任命のいずれかによってしか締結されない」、「カリフは男性、成人、正気、公正であり、イスラーム法の知識があり、臣民の諸事、ウンマの諸任務に関わる職務を執行する能力があり、クライシュ族の出身でなければならず、それらの条件の一つでも欠ければその任命は有効でなく、任命の後に条件のどれかを失うならそのカリフ位は無効となる」と言う。at-Tanbµh,
Cairo, 1951, pp. 151-152.
[10] Ibn Qudam±,
al-K±fµ,
Beirut, 1982, vo1. 4, p. 146.
[11] MuÆammad
ash-Sharbµnµ,
Mughnµ
al-muÆt±j(Minh±j
a»-»±libµnの標準的注釈の一つ), Cairo,
1958, vol. 4, pp. 129-132. またナワウィーには更に詳細なRau½a
a»-t±libµnの著もあり、先人の説をより網羅的に紹介しているが、その要旨は、Minh±jの記述に尽きている。そしてMinh±j
Rau½aはそれぞれar-R±fiص(d.623)のal-MuÆarrar、及びSharÆ
al-wajµzの要約であり、従ってシャーフィイー派法学書のカリフ論の確立は少なくともラーフィイーにまでは逃れるものと思われるが、残念ながら筆者はal-MuÆarrar、及びSharÆ
al-wajµzを参照することが出来なかった。
[12] MuÆammad
ar-Ramlµ,
Nih±ya
al-muÆt±j(Minh±j
a»-»a±linµnの注解), Cairo, 1967, vol. 7, p. 410,
Haw±shµ
Ibn Q±sim
wa ash-Sharaw±nµ(Minh±j
a»-»±libµnの注解TuÆfa
al-muÆt±jの脚注), Beirut,
n. d., vol.9, p.76, al-Jamal Øal± sharÆ
al-Minh±j(Minh±j
a»-»±libµnの要約Minh±j
a»-»ull±bの注解),
Beirut, n.d., vo1.5, 119.
[13] al-Mard±wµ,
al-In±f,
Beirut, 1957, vol. 10, P. 310, al-Bah¹tµ, Kashsh±f
al-qin±Ø(al-Iqn±Ø
の注解), Beirut,
1982, vo1.6, pp. 158-160.
[14] Khalµl,
Mukhtaar Khalµl,
Cairo, n. d., p. 293.
[15]a1-Åa»»±b,
Maw±hib
al-jalµl(Mukhtaar
Khalµlの注解) n. p., 1978, vol. 6, p. 276. SharÆ
az-Zarq±nµ
( Mukhtaar Khalµlの注解),
Beirut, 1978, vol. 8, p.60.
[16] űshiya Ibn ذbidµn(=Radd al-Mukht±r), Cairo, 1966, vol. 4,
p. 263. 〔at-Tamart±shµの注解の欄〕、D±m±d
°fandµ,
Majm¹Ø
al-anhur, Beirut, n. d., vol. 1, p. 699. 但しat-Tamart±shµ、D±m±d
°fandµのこの記述は、スルタン(sult±n)の語をカリフ(im±m)と替えただけで、ほぼ文字通り、Q±½µ
Kh±n
(d.592)のal-Fat±w±
al-Kh±nµyaの言葉の借用である。cf. al-Fat±w±
al-Hindµya,
Beirut, 1986, vol.
3, p. 584.
[17] űshiya Ibn ذbµdµn, vol. 1, pp. 548-9〔al-Åak±fµの注釈の欄〕.
[18] ibid., vol. 4, p. 263〔Ibn ذbidµnの注釈の欄〕.
[19]本稿は、現代のイスラーム法の研究書の引用する著名な作品の殆どに加え、更に筆者の手にし得たスンナ派の一般的な法学書の全てを参照した。しかしイスラーム法学は、文字通り万巻の書が編まれており、ここで参照し得た刊本はそのごく一部に過ぎず、早急な判断は慎まねばならない。従ってここでの結論はあくまでも、将来の研究による改訂を待つ暫定的なものであるに過ぎない。
[20] この法学のカリフ論の枠組みの解体、再構築を過去に於いて試みたのが、イブン・タイミーヤであるが、本稿では紙面の制約から割愛せざるをえなかった。イブン・タイミーヤのカリフ論については稿を改めて論じたい。
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付録:スンナ派法学書学派別カリフ位締結形式資格条件言及リスト |
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űshiyaが「注」であるのに対し、sharÆは「逐語的注釈」であり、原則的には前者を「脚注」、後者を「注解」と訳し分けたが、űshiyaの中にも、逐語的注釈と呼びうるものもあり、「注解」と訳した場合もある。脚注に関しては、一によって本文に従うことを示し、特に、本文に無い締結形式、資格条件を付加している場合にのみ○を記した。 |
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書名 (通称) |
著者名 (通称) |
形式 |
資格 |
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○Åilya al-fuqah±Ù |
ar-R±zµ(d. 395) |
× |
× |
|
○al-Muhadhdh±b |
ash-Shµr±zµ(d. 476) |
× |
× |
|
○at-Tanbµh |
ash-Shµr±zµ |
○ |
○ |
|
○al-Gh±ya |
Ab¹ Shuj±Ø(d. 488) |
× |
× |
|
☆注解(1) Kif±ya al-akhy±r |
al-Åinµ(d. 829) |
× |
× |
|
☆注解(2) SharÆ al-Gh±ya |
Ibn Q±sim(d. 918) |
× |
× |
|
☆注解 űshiya SharÆ al-Gh±ya |
al-Birm±wµ(d.
1160) |
× |
× |
|
★脚注 Taq±rµr űshiya SharÆ al-Gh±ya |
al-Inb±dµ(d.
1313) |
ー |
ー |
|
☆注解(3) al-Iqn±Ø |
|
|
|
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○al-Wajµz |
ash-Sharbµnµ(d. 977) |
○ |
○ |
|
☆注解 SharÆ al-Wajµz(未見) |
ar-R±fiص(d. 623) |
? |
? |
|
△要約 Rau½a a»-»±lµbµn |
an-Nawawµ(d. 676) |
○ |
○ |
|
△要約 Rau½ a»-»±lib |
Ibn al-Muqrµ(d. 837) |
○ |
○ |
|
☆ 注解 Asn± al-Ma»±lib |
al-An±rµ(d. 925) |
○ |
○ |
|
★ 脚注 űshiya Asn± al-ma»±lib |
AÆmad al-Ramlµ(d. 971) |
ー |
ー |
|
○Åulya al-Øulam±Ù |
al-Qaff±l(d. 507) |
|
|
|
○Minh±j a»-»±libµn |
al-Nawawµ |
× |
× |
|
☆注解(1) Kunz ar-r±ghibµn |
al-MaÆallµ(d. 864) |
○ |
○ |
|
☆注解(2) SharÆ al-Minh±j |
ØUmira(d. 957) |
○ |
○ |
|
☆注解(3) TuÆfa a»-»±lib |
al-Haitamµ(d.974) |
○ |
○ |
|
★脚注(1) űshiya Ibn Q±sim |
Ibn Q±sim al-ØAbb±dµ(d. 11c) |
ー |
ー |
|
★脚注(2) űshiya ash-Sharaw±nµ |
ash-Sharaw±nµ(d.
12/13c) |
ー |
ー |
|
☆注解(4) Mughnµ al-muÆt±j |
ash-Sharbµnµ |
○ |
○ |
|
☆注解(5) Nih±ya al-muÆt±j |
MuÆammad al-Ramlµ(d. 1004) |
○ |
○ |
|
★脚注(1) űshiya |
ash-Shabramillµ(d. 1087) |
ー |
ー |
|
★脚注(2) űshiya |
ar-Rashµdµ(d.
1096) |
ー |
ー |
|
☆注解(6) SharÆ al-Minh±j |
al-Qaly¹bµ(d.
1069) |
ー |
ー |
|
☆注解(7) as-Sar±j al-wahh±j |
al-Ghamr±wµ(d. 14c) |
○ |
○ |
|
☆注解(8) Z±d al-muÆt±j |
al-Kauhajµ(1318~) |
○ |
○ |
|
△要約Minh±j a»-»ull±b |
an-An±rµ |
○ |
○ |
|
☆注解(1) FatÆ al-wahh±b |
al-An±rµ |
○ |
○ |
|
☆注解(2) SharÆ al-Minh±j |
al-Jam±l(d. 1204) |
○ |
○ |
|
○ØUmda as-s±lik |
Ibn al-Naqµd(d. 769) |
× |
× |
|
☆注解(1) Fai½ al-il±h al-m±lik |
ØUmar
Barak±t(d. 13/14c) |
× |
× |
|
☆注解(2) Anw±r al-mas±lik |
al-Ghamr±wµ |
× |
× |
|
○ al-Irsh±d |
Ibn al-Muqrµ |
○ |
× |
|
☆注解 FatÆ al-jaw±d |
al-Haitamµ |
○ |
○ |
|
○Zub±d |
Ibn Rasl±n(d. 844) |
× |
× |
|
☆注解(1) Maw±hib a-amad |
al-Fashnµ(d. 978) |
○ |
○ |
|
☆注解(2) Gh±ya al-bay±n |
MuÆammad al-R±mlµ |
○ |
○ |
|
○TaÆrµr at-TanqµÆ |
an-An±rµ |
× |
× |
|
☆注解(1) TuÆfa a»-»ull±b |
an-An±rµ |
× |
× |
|
☆注解(2) űshiya ash-Sharq±wµ |
ash-Sharq±wµ(d. 1227) |
× |
× |
|
○Qurra al-Øain |
al-Milµb±rµ(d. 993) |
× |
× |
|
☆注解(1) FatÆ al-muصn |
al-Milµb±rµ |
× |
× |
|
☆注解(2) Iرna a»-»±libµn |
Sha»±(d. 1310) |
× |
× |
|
○Bughya al-mustarshidµn |
B±Øalawµ(d.
1283) |
○ |
○ |
|
○al-Fiqh al-muyassar |
AÆmad Ø´s± ذsh¹r(d. 1410) |
× |
× |
|
2.ハンバリー派 |
|
|
|
|
○Mukhtaar al-Khiraqµ |
al-Khiraqµ(d. 334) |
× |
× |
|
☆注解 al-Mughnµ |
Ibn Qud±ma(d. 625) |
○ |
× |
|
○al-ØUmda |
Ibn Qud±ma |
× |
× |
|
○al-K±fµ |
Ibn Qud±ma |
○ |
× |
|
○al-MuqnµØ |
Ibn Qud±ma |
× |
× |
|
☆注解(1) al-SharÆ al-kabµr |
Ibn Qud±ma al-Muqaddasµ(d. 682) |
○ |
× |
|
△要約 Mukhtaar al-SharÆ |
Ibn ØAbd al-Wahh±b(d. 1206) |
○ |
× |
|
☆注解(2) al-MubdiØ |
Ibr±hµm Ibn MufliÆ(d. 884) |
× |
× |
|
△要約 Z±d al-MustaqniØ |
Ab¹ an-Naj±(d. 960) |
× |
× |
|
☆注解 al-Rau½ al-murbiØ |
al-Bah¹tµ(d. 1051) |
× |
○ |
|
★脚注 as-Salsabµl |
al-Bulaihµ(1331~) |
× |
○ |
|
○al-MuÆarrar |
Ab¹ al-Barak±t(d. 652) |
× |
|