イスラームにおける救済論の構造

Structure of Soteriology in Islam

 

Prof. Dr. Hassan Ko Nakata

(School of Theology, Doshisha Univ.)

 

序.

古今の世界の宗教や哲学には「救済論」と一括して呼び慣わされる問題系が存在する。イスラームも例外ではなく、独自の「救済論」が存在する。本稿の目的は、イスラームの思想体系の中における救済論の構造とその内容の分析、そして現代世界、特に東アジアにおける宣教論的意義を明らかにすることである。

 

1.「救済論」の類型

本論に入る前に、宗教や哲学における「救済」概念の多様性を確認しよう。

「救済論」においては、ユダヤ教、キリスト教、イスラームなど、善悪の最終根拠としての「神」の概念を有する宗教においては「罪と罰」からの「他力」の救いが強調されるが、仏教のように悟りと知恵を究極的価値とする宗教においては、現世における「自力」による苦悩からの救いが目標となりがちである。しかしこの二つのタイプの宗教の両者の対比はあくまでも理念的なものであり、前者にもアル=ガザーリー(al=Ghazālī, d.1111)の『迷誤からの救い(al-Munidh min al-¼alāl)』における回心のような迷過の苦悩からの救いの概念があり、後者にも浄土系仏教の人格神的「阿弥陀仏」による穢土・地獄から浄土への他力の救済のような考えが見出される。また「罪」と「苦悩」は必ずしも排他的ではなく、「罪」がそれ自体として「苦」である、あるいは「苦」を生み出す、という観念も広く知られている一方で、「罪」は「罰」を受けることによって、「苦」となる、という考えも存在する。「罪」が即「苦」であるなら、罪からの救いは苦からの救いの一変種となり、罪と罰が相関概念であった場合も同様である。

 

2.最後の審判、火獄からの救済としての楽園

イスラームはユダヤ教、キリスト教と全知全能の唯一神の概念と、「最後の審判」の観念を共有する。しかし最後の審判による罪に対する罰の観念は、ユダヤ教、キリスト教においては、必ずしも中心的教義の一つとは言えないが、イスラームにおいては最後の審判は(1)神、(2)天使、(3)啓典、(4)使徒、(5)最後の審判、(6)予定、に纏められる基本教理たる6信の一つであり、教義の中心に位置する。

クルアーンの精髄であるその開端章は「審判の日の主宰者」と明示している。つまり、イスラームにおいて、最後の審判における罪に対する罰は、いかなる些細な罪をも見逃すことがないばかりか行動の裏にある心の裡まで見通し自らの判決を貫徹される全知全能の神による審判によって下されるがゆえに、人間の力によっては逃れることができない責苦として、救済を必要とすることになるのである。

 アラビア語で「救済」を意味する単語は三子音「n-j-w」から派生した「najāh」である。このうち唯一の名詞用法で定冠詞のついた「al-najāh(救済)」は、「我が民よ、私がお前たちを救済(al-najāh)へと呼び招いているというのに、おまえたちが私を火獄に呼び招いているとは、どうしたことか(يا قوم ما لي أدعوكم إلى النجاة وتدعونني إلى النار...)(40章41節)において、「火獄」と対になっていることから理解されるとおり、「火獄からの救済」を意味する。そして「火獄からの救済」とは前の節で「・・・信仰者であって善を行った男と女の者があれば、それらの者は楽園に入る(... ومن عمل صالحا من ذكر أو أنثى وهو مؤمن  فأولئك يدخلون الجنة...)」(40章40節)とあるように「楽園」に他ならないのである。

 来世での火獄での懲罰こそ、「最大の懲罰」と呼ばれるものである[1]。来世での懲罰は、現世での懲罰、試練とは比較にならないほど厳しく、永続する。「まことに来世の懲罰はより厳しくより永続する(ولعذاب الآخرة أشد وأبقى)」(20章17節)

 来世での懲罰は、その圧倒的な過酷さと永続性によってそれとの比較において現世の懲罰を相対的に無化する機能を果たす。それゆえクルアーンに「火獄の徒党と楽園の徒党は等しくない(لا يستوي أصحاب النار وأصحاب الجنة)」[2](59章20節)とあるように、イスラームにおいて来世での永遠の懲罰と、それからの救済との間には質的な断絶が存在する。なぜならばそれはマイナス無限大とプラス無限大の間の絶対的な格差だからである。その無限の差に比較するなら、現世における人々の幸福と不幸などは相対的な取るに足らない些細な格差として、無化されるのである。

 イスラームにおける救済とはなによりも来世における火獄の懲罰からの救済と、楽園に入ることなのである。

 

3.信仰と行為

 既述のように信仰者で善行を行った者には楽園があり、「いや、悪を稼ぎ、過誤が取り囲んだ者たちは、彼らこそ獄火の住人・・・」(بلى من كسب سيئة وأحاطت به خطيئته فألئك أصحاب النار هم فيها خابدون)(2:81).

 

(2章81節)とある通り、獄火の罰は、悪行に対して課される。

 イスラームは、信仰と行為、内面と外面を二項対立的に把握し、外面的行為の価値を否定する発想を取らない。

 「まことに信仰し善行に勤しむ者には尽きせぬ褒賞がある(إن الذين آمنوا وعملوا الصالحات لهم أجل غير ممنوع)」(41章8節、84章25節、95章6節)

 信仰は善行を伴って完成する。クルアーン全編を通じて繰り返される基調低音である。全き信仰は善行となって現れ、善行を伴わない信仰は不完全である。

 しかし信仰と善行のどちらが救済の要件であるか、との問題設定を敢えて行うとすれば、疑念の余地なくそれは信仰である。クルアーンの聖句に「まことに偽信者は火獄の最下層にいる(إن المتافقين في الدرك الأسفل من النار)」(4章145節)と言われるとおり、信仰のない偽善者が地獄の最下層に落とされるのに対してムスリムの信仰者は以下のハディースにあるとおり、たとえ姦通や窃盗の大罪を犯そうとも、アッラーフ以外に神はない、との信仰の上に死ぬ限り、天国に入る。この意味では戒律ではなく信仰こそが救済の条件である。

預言者は「『アッラーフの他に神はない』と言い、その状態で死んだ僕は、楽園に入らずにはいない」と言われた。アブー・ザッルが「たとえ姦通しても、窃盗を犯してもですか」と尋ねると「たとえ姦通しても、窃盗を犯してもである」と答えられた。

 قال النبي ما من عبد قال لا إلا إلا الله ثم مات على ذلك إلا دخل الجنة قلت(أبو ذر) وإن زنى وإن سرق قال وإن زنى وإن سرق (البخاري: اللباس)

信仰は救済の条件であり、信仰を欠けば外面的には善行と見える行為をいかに積み重ねようとも楽園に入ることできず、また信仰さえあればいかなる悪を犯そうとも最終的には楽園に入ることができる。しかし信仰によって楽園を約束されたとしても、それは必ずしも火獄の懲罰を受けないことを意味しない。「ともあれ、私の名誉、栄光、威厳、そして権力にかけて申すが、『アッラー以外に神はない』と告白した者を私は必ず火獄から連れ出すであろう(ولكن وعزتي وكبريائي وعظمتي لأخرجن من قال لا إله إلا الله (أخرجه مسلم))」との『サヒーフ・ムスリム』のハディース中のアッラーフの御言葉にあるように、一旦獄火に落とされた者が信仰によって救済されることもあるからである。

 イスラームにおいては来世における火獄の懲罰からの救済であることは既に述べたが、火獄からの救済には、そもそも火獄に入らず楽園に直行する、というパターンと、一旦火獄に入れられた後で楽園に救い出される、という二つのパターンがあることになり、したがってムスリムは信仰を持つだけでは飽きたらず、火獄の罰を免れて楽園に直行するために、信仰に加えて善行を重ねることを志向することになる。

 

4.イスラームの行為規範学の枠組み

この意味において、イスラーム法学は救済のためのマニュアルとも言える。イスラーム法学は、来世での報償と懲罰をもって行為を定義し、以下の5範疇に分類する。                                    

(1)義務行為:それを行うことで報酬を得、それを行わないことで罰を受ける行為。(ما يثاب على فعله، ويعاقب على تركه

(2)推奨行為それを行うことで報酬を得、それを行わなくとも罰されることはない行為。ما يثاب عليه، ولا يعاقب على تركه                         

(3)禁止行為:それを行わないことで報酬を得、それを行うことで罰される行為である。(ما يثاب على تركه، ويعاقب على فعله)                         

(4)自粛行為それを行わないことで報酬を得るが、それを行っても罰されることはない行為。ما يثاب على تركه ولى يعاقب على فعله                    

(5)合法行為とは:それを行っても報酬を得ず、それを行わなくとも罰されることはない行為。(ما لا يثاب على فعله، ولا يعاقب على على تركه[3]                      

最後の審判においては生前の行為が、この5範疇の分類によって評価、清算され、善行が悪行に優った者は楽園の報償に授かり、悪行が優った者は獄火の懲罰を蒙る。

ただし、最後の審判の清算において、悪行に対してはそれに相当する懲罰しかないのに対して、善は加算される。「善を行った者には、10倍の報償がある。しかし悪を行った者は、それ相当の応報しか受けず、不正に扱われることはない」(6章160節)(فمن جاء بالحسنة فله عشر أمثالها ومن جاء بالسيئة فلا يُجزَى إلا مثلها وهم لا يُظلمون)また悪行と懲罰の関係は、仏教におけるような因果応報の関係ではなく、あくまでも人格神たるアッラーフの自由な御意志による決定である。それゆえ罰に値する悪を犯した者も必ずしも獄火の懲罰を蒙るとは限らず、アッラーフのお赦しがあれば救済に与る。「アッラーフは多神崇拝は赦し給わないが、それ以外のことは御望みの者に対しては赦し給う」(4章116節)

上述の通り、イスラーム法学は行為を5範疇に分けているが、この聖句にある通り、多神崇拝がないことが、救済の条件であり、多神崇拝を行った者はいかなる善行を積もうとも救済に与ることはない。上述のように信仰の存在が、ポジティブな形での救済の条件であるとするなら、多神崇拝の非在はネガティブな形での救済の条件と言えよう。つまり、イスラームにおいて、多神崇拝のみが信仰と両立せず救済の可能性を閉ざす好意とされており、それ以外の義務行為の不作為、禁止行為への違反は、信仰の喪失を帰結しないのである。

イスラームにおける行為の範疇は、実際には上記の5範疇に、それを行えば永遠の獄火の懲罰を蒙り救済の可能性が閉ざされる行為であるところの多神崇拝を加えた6つの範疇があることになる。従ってイスラームにおいて、信徒は、信仰を持ち、多神崇拝を決して犯さず、義務行為を欠かさず行い、推奨行為をできる範囲で行い、禁止行為は行わず、自粛行為はなるべく避け、合法行為は自由に行うことによって、火獄の懲罰を免れるべく最後の審判での清算に備えるのが、救済論の基本構図となる。

 

5.悪行と災厄、善行と幸運の相殺

 救済はアッラーフの御意思による御業ではあるが、以上に明らかにした通りに、イスラームにおける救済論の基本構図は、救済は個人の信仰と善行にかかわる。この意味において、イスラームは、神を前にして独りで立つ主体としての個人の責任を強調する行動倫理の宗教と言える。

  しかしイスラームの救済論にはこの基本構図から外れる要素もまた存在する。

第一に、最後の審判における清算は、善行と悪行という人間の行為だけではなく、生前の幸福と不幸が加味されることである。生前の善行と悪行が、来世での報償と懲罰に変換されたように、善行と悪行は、生前の幸福と不幸とも変換可能なのである。したがって、以下のハディースが示すとおり、生前に蒙った不幸は、最後の審判では善行に加算され、あるいは悪行を相殺し、来世での懲罰を軽減、あるいは報償を加増し、逆に生前の幸福は、来世での報償を軽減、あるいは懲罰を加増する。「信仰者の蒙った苦悩、悲嘆、病苦などはなんであれ、悩みとなる気がかりでさえ、彼の悪行の償いにならないものはない(ما من شيء يصيب المؤمن من نصب ولاحزن ولاوصب حتى الهم يهمه إلا يكفر عنه سئاته)」(الترمذي, الجنائز عن رسول الله)

 またアル=ハーキムの伝えるハディースによると、ジブリール(大天使ガブリエル)は預言者ムハンマドに述べた。

「海の孤島の山頂で500年にわたり勤行に明け暮れ、跪拝したまま御許に召されるように主に祈った行者がいた。 - ジブリールは続けて言った。 - 我々は天を登り降りしていて、彼が復活の日に甦らされ、威光限りなきアッラーの御前に立たされるのを知った。威光限りなきアッラーは彼に、『我が慈悲により我が僕を楽園に入れよ』と(天使たちに)命じた。ところが彼は3度にわたって『我が主よ、私の行いによってにして下さい』と求めた。そこでアッラーは天使に、『我が僕のために、彼に対する我が恵みと彼の行為を天秤にかけよ』と命じ給うた。すると目を授けた恵みだけで500年間の崇拝の重さに達してしまい、身体の残りの部分の恵みの分が余ってしまった。アッラーは、『我が僕を火獄に入れよ』と(天使に)命じ給い、彼は火獄に引き立てられた。そこで彼が『あなたの御慈悲によって楽園に入れて下さい。あなたの御慈悲によって楽園に入れて下さい。』と呼び求めると、アッラーは彼を楽園に入れ給うた。」

ジブリールは、この話を語り終えた後、ムハンマドに「ムハンマドよ、万事はアッラーの慈悲によるのである」と述べた。[4] ( أن جبرائيل أخبره أن عابدا عبد الله على رأس جبل في البحر خمسمائة سنة ثم سأل ربه أن يقبضه وهو ساجد. قال: فنحن نمر عليه إذا هبطنا وعرجنا ونجد في العلم أنه يبعث يوم القيامة فيوقف بين يدي الله عز وجل فيقوله عز وجل أدخلوا عبدي الجنة برحمتي فيقول العبد يا ربي بعملي ثلاث مرات ثم يقول الله للملئكة قاسوا عبدي بنعمتي عليه وبعمله فيجدون نعمة البصر قد أحاطت بعبادة خمسمائة سنة وبقيت نعم الجسد له فيقول أدخلوا عبدي النار فيجر إلى النار فينادي ربه برحمتك أدخلني الجنة برحمتك أدخلني الجنة فيدخله الجنة. قال جبرائيل إنما الأشياء برحمة الله يامحمد.)(أخرجه الحاكم)

 

6.執成し

 救済における厳格な個人責任主義に反するもうひとつの事項は執成しの存在である。 

イスラームにおいてあくまでも救済の主体はアッラーであり、アッラー御独りの大権、専管事項である。救済は当人の自力作善によって達成しうるものでもなければ、天使であれ人間であれ他者を救済する権能を有する者はアッラーをおいて他には一切存在しない。しかしこの究極の唯一神教たるイスラームにもアッラーに対する救済の執り成しの概念は存在する。

 クルアーンにおける執り成しをめぐる表現は、「その日、慈悲深き御方がお許しを与え言葉を嘉納し給うた者を除き、執り成しは役に立たない(يومئذ لا تنفع الشفاعة إلا من أذن له الرحمن ورضي له قولا)」(20章109節)のように、執り成しの有効性がアッラーの決定にかかっており、それを欠いてはいかなる執り成しも無益であること、即ち被造物による独自の執り成しの無効性、救済におけるアッラーの意思の絶対性が強調され、その大半が否定形、疑問形となっている。しかしハディースにおいては、執り成しはより肯定的に扱われている。たとえばイブン・マージャは、「最後の審判の日、3種の者が執り成しを行う。預言者たち、ついで学者たち、ついで殉教者たちである(يشفع يوم القيامة ثلاثة الأنبياء ثم العلماء ثم الشهداء)」との預言者ムハマドのハディースを伝えている。

 但し、この執成しは、不信仰者の救済には役立たない。そもそも「多神教徒に対しては、彼らが獄火の住人であることが判明した後は、たとえそれらの者たちが親族であっても、(アッラーの)御赦し乞いを祈ることは預言者にも信仰する者にも赦されない。(ما كان  للنبي والذين ءامنواأن يستغفروا للمشركين ولو كانوا أولي قربى من بعد ما تبين لهم أنهم أصحاب الجحيم)」(9章113節)との聖句により、多神教徒の救済の執成し自体が禁じられており、救済の効力はせいぜいが火獄での懲罰の軽減までである。アル=ブハーリーの伝えるハディースによると、預言者ムハンマドは不信仰のままに死んだ伯父のアブー・ターリブについて以下のように述べられている。

「最後の審判の日に、私の執成しが役立ち、火獄の浅瀬に置かれかもしれない。それは彼の足首にまでしか達しないが、彼の脳脊髄膜(meninges)まで沸きたつ。(ذكر عنده عمه أبو طالب فقال لعله تنفعه شفاعتي يوم القيامة فيجعل في ضحضاح من التار يبلغ كعبيه يغلي منه دماغه. البخاري: الرقاؤق(

 

7.中間時の民の救済

 これまで述べてきたところでは、救済の条件は信仰の存在と多神崇拝の非在であったが、例外的にアシュアリー派の救済論においては、不信仰者、多神教徒にも及ぶ場合が存在する。それは宣教の届いていない者の救済である。

イスラームはアーダム以来の全ての預言者たちの宗教であり、預言者たちのメッセージはすべて唯一神崇拝の命令と多神崇拝の禁止に凝縮される。アッラーフは、「われらはすべての民族にアッラーフを崇め、邪神を避けるようにと、使徒を遣わした(ولقد بعثنا في كل أمة رسولا أن اعبدوا الله واجتنبوا الطاغوت...)(16章36節)と仰せられており、ヌーフ、フード、サーリフ、シュアイブ等の預言者たちは彼らの民族に「わが民よアッラーフを崇めよ、お前たちには彼以外に神はないのである(يا قومِ اعبدو الله ما لكم من إله غيره...)」(7章59,65,73,85節、11章50節、11章84節)と呼びかけている。

この唯一神崇拝の命令と多神崇拝の禁止のメッセージを託されて遣わされた預言者たちの教えに従った者はすべてムスリムであり、その意味において救済が「ムハンマドのウンマ」を越えて、全ての「ムスリム/一神教徒」に及ぶ。イブン・マスウードの伝えるハディースによると預言者ムハンマドは教友たちに「私はあなたたちの数が楽園の住民の総数の半分にも達することを願っています(إني لأرجو أن تكونوا شطر أهل الجنة)」と述べた。(『日訳サヒーフ・ムスリム』(日本ムスリム協会)第1巻、182頁参照)「ムハンマドのウンマ」は天国の住民の半分を数えるに過ぎない。

 全ての預言者のメーッセージは唯一神崇拝と多神崇拝の否定、すなわち、イスラームであり、預言者たちに聴従した者たちは皆、ムスリムであり、ムスリムは全て楽園の救済が約束されている。アッラーフは地上の全ての民族に預言者を遣わし給うたが、ある民族に遣わされた預言者が逝き、次の使徒が新たに遣わされるまでの間、預言者の不在期間が生ずる場合がある。この預言者の不在期間を生きる者をイスラームは「中間時の民(ahl al-fatrah)」と呼ぶ。

 後期アシュアリー派神学は、この「中間時の民」は信仰の有無、多神崇拝の有無にかかわらず、救済される、と考える。

 アル=スユーティー(al-Suyū»ī, d.1505)はそのファトワー(教義回答)集に収められた小論「選ばれし者(ムハンマド)の両親に関する純正信者の道(Masālik al-Åunafā fī Wālidai al-Muş»afā)」において、「使徒を遣わすまでは、我らは彼らを罰しはしない (وما كنا معذبين حتى نبعث رسولا))」(17章15節)との聖句に基づき、「ムウタズィラ派と異なり(شكر المنعم لا يجب عقلا خلافا للمعتزلة)、恵みを施す者への感謝は理性のみの判断によっては義務とならない」とのアル=ファフル・アル=ラーズィーの言葉などを引いた上で、「我々の見解では、宣教が届いていないものは救済に与る者として死ぬ(من لم تبلغه الدعوة فعندنا يموت ناجيا)」とアシュアリー派の「中間時の民」の救済論を展開している。[5]またモロッコのイスラーム学者の家系に生まれ「現代のブハーリー」とも称された20世紀の代表的ハディース学者の一人故アブドッラー・アル=グマーリー(Abdullah al-Ghumārī)もまたその論文集『宗教的断想(Khawā»ir Dīnīyah』に収められた小論「中間時の民は救われる(Ahl al-Fatrah Nājūn)」の中で、「中間時の民」を「自分たちに遣わされた使徒が現存していない時代に生きた人々(الذين عاشوا في زمن لم يكن فيه رسول إليهم )」と定義し、クルアーンの章句「使徒を遣わすまでは、我らは彼らを罰しはしない(والحكم فيهم عند الجمهور أنهم ناجون ولو عبدوا الأصنام لقوله تعالى(وما كنا معذبين حتى نبعث رسولا))」と「汝の主は、[彼らに使徒が遣わされていないので]住民たちが気づかないでいる町々を、不義[つまり多神崇拝]を理由に滅ぼし給わない((...إن لم يكن ربك مهلك القرى بظلم) – بشرك – (وأهلها غافلون)– لم يرسل إليهم رسول. 」(6:131)の聖句を典拠に、「中間時の民」は多神教徒の偶像崇拝者であっても救済される、というのがスンナ派の通説であると述べ、「中間時の民」はたとえ偶像崇拝を犯しても救済される(والحكم فيهم عند الجمهور أنهم ناجون ولو عبدوا الأصنام")と明言している。[6]

 

8.宣教の届いていない地の民の救済

 ムハンマドは「万世への慈悲(رحمة للعالمين)」(21:107)として民族を越えて全人類に遣わされた最後の預言者「預言者たちの封印(خاتم النبيين)」(33:40)であり、そのメッセージ、聖法「シャリーア」は時代と場所を越えて最後の審判まで妥当する。それゆえムハンマドの召命以降には「中間時の民」はいない。しかし理念的にムハンマドのメッセージが普遍的最終的であっても、現実には預言者ムハンマドが伝えたメッセージの宣教がアラブ民族を超えて世界の隅々まで普及するには長い年月を要する。それゆえ「中間時の民」の規定は、預言者ムハンマド以降のイスラーム史においても「預言者ムハンマドの宣教の届いていない者」の範疇に適用されることになるのである[7]

初期アシュアリー派の代表的神学者の一人であるアル=バグダーディー(al-Baghdādī, d.429/1037)はその著『宗教の基礎(Uşūl al-Dīn)』の「信仰の諸原則」章(Aşl Bayān Uşūl al-Ômān)の中に「イスラームの宣教の届かなかった者についての判断」節(Mas’alah Bayān Åukm Man lam tablugh-hu Da‘wah al-Islām)を立ててこの問題を以下のように論じている。

 

 我々の学派(アシュアリー派)は、「義務は全て、それが義務であることは啓示(shar‘)によって(初めて)知られる」、と言う。また同派の考えは以下の通りである。

  難関の彼方や隔絶した土地にいて、イスラームの宣教の届いていない者については、・・・シャリーアの宣教が彼に全く届いていないなら、彼は義務を賦課された者とはならないので、彼には来世でも報奨も応報もない。[8]

(قال أصحابنا إن الواجبات كلها معلوم وجوبها بالشرع وقالوا فيمن كان وراء السد أو في قطر من الأرض ولم تبلغه دعوة الإسلام ينظر --- ولم تبلغه دعوة شريعة بحال لم يكن مكلفا ولم يكن له في الآخرة ثواب ولا عقاب. )

 また前出のアル=グマーリーも以下のように述べ、現代においても宣教の届いていない者の救済の可能性を認めている。

地上の全ての人類の基本をカヴァーしたムハンマドの遣使の後には、「中間時の民」は存在せず、その存在を仮定する余地は無い。しかしその宣教が届いていない者がいるということは有り得る。例えばアフリカ大陸の一部の未開の地で深山とジャングルの奥に暮らしており、イスラームについてもクルアーンについても聞いたことが無く、至高なるアッラーの唯一性についても何も知らない者がいたとすれば、たとえばキリスト教のような多神教を信奉していたとしても、その者が救われることは疑いない。なぜなら宣教が届いていることは、その者に義務が課されるための条件だからである。それゆえ自分の怠慢のせいでなく宣教が届いていないなら、義務が課されることはないのである。(أما بعد البعثة المحمدية التي عمت أصل أهل الأرض جميعا فلا يوجد أهل الفترة ولا محل لافتراض وجودهم. لكن قد يعبترض وجود من لم تبلغه الدعوة. فلو افترضنا وجود شخصا في مجاهل القارة الأفريقية مثلا لم يسمع بالإسلام لا بالقرآن ولا عرف شيئا عن توحيد الله تعالى وعاش بين الجبال والغابات فإنه ناج بلا شق حتى ولو اعتنق بعض الديانات الشركية كالنصرانية مثلا. ذلك لأن بلوغ الدعوة شرط في توجه التكليف للشخص. فحيث لم تبلغه بدون تقصير منه لم يكلف. )

Ibid., p.118. 

               

つまり「時間的」な過去において宣教の届かなかった世代、即ち「中間時の民」が救済される以上、「空間的」にまだ宣教の届いていない同時代人の異教徒もまた救済されるのである。

 

9.現代におけるイスラームの宣教

 アル=バグダーディー、アル=グマーリーのイメージする「イスラームの宣教の届いていない地」とは、基本的に人跡未踏の「未開」の地であり、理論的な可能性はあるにしても、あらゆる情報が一瞬の間に世界を駆け巡るIT化とグローバリゼーションの時代には、現実には殆ど残されていないように見える。しかし発表者は、イスラームの義務付加の条件である宣教は、現代の非イスラーム社会、特に歴史的にイスラーム国家との接触のなかった日本や韓国などでは未だ達成されていないと考える。ここで参考になるのは、現代におけるジハードの解除条件としてのイスラームの宣教について詳細に論じたムハンマド・ハイル・ハイカル(MuÆammd Khair Haikal)博士の以下の言葉である。

 

西洋と東洋におけるイスラームについての単なる周知(istifā½ah)は、イスラーム法学書の一部に書かれていることから理解されるかもしれないように、その周知の枠内の諸民族、諸国家に対して、その状況下では宣教が到達したとみなされ、それゆえその想定下に諸規則が施行される立証となるであろうか?それともイスラーム権力からその諸民族、あるいはその諸民族を代表する者に対して、彼らの許に宣教が届いたことが確証されるために、公式な伝達が必要であろうか?

私の考えでは、イスラーム国際法に関しては、イスラーム権力からその諸民族、あるいはその諸民族を代表する者に対して、彼らの許にダウワが届いたことが確証されるために、公式な伝達が必要である。その結果として、彼らには既述のように宣教が到達した者に対する規定が適用されるのである。

単なる周知はそこで宣教の条件がそろったことを示していない。その条件とは既述の通り明白な伝達なのである。その根拠は今日の世界の多くの地では、人々はイスラームについて聞いているが、彼らはそれについて、またその信徒について人々をイスラームから遠ざけ、それを望ませないような歪んだ考えを持っているのである。このような状態では、それらの諸民族は、「明白な伝達」の形で、イスラームが彼らに到達した、と言われない。

 宣教において「明白な伝達」の条件を適えるものは、ただ既述の条件を満たす形でのダウワの義務を負うイスラーム的権力からの公式な呼びかけ(khi»āb)だけであり、その場合には宣教された側にそれについての疑問や質問があれば、その公式権力がそれらの疑問、質問に回答を与えるのである。[9]

)- هل مجرد استفاضة شأن الإسلام

في الشرق والغرب يألف حجة على الشعوب والدول الداخلة في إطار تلك الاستفاضة, إذ تعتبر في  هذه الحال مما يبلغهم الدعوة, فتجري عليهم الأحكام على هذا الاعتبار؟ كما قد يفهم مما ورد في بعض الفقه - أم لا بد من التبليغ الرسمي من السلطة الإسلامية للشعوب, أو لمن يمثل الشعوب حتى يصدق عليهم

أنهم قد بلغتهم الدعوة؟ ...

والذي أراه أنه لا بد من التبليغ الرسمي من السلطة الإسلامية للشعوب, أو لمن يمثل الشعوب حتى يصدق عليهم أنهم قد بلغتهم الدعوة بالنسبة للأحكام الإسلامية الدولية. وبالتالي: يطبق عليهم أحكام من بلغتهم الدعوة على نحو ما تقدم بيانه...

مجرد الاستفاضة لا يدل على أن شرط بلوغ الدعوة متوفرة فيها, وشرطها هو البلاغ المبين, كما تقدم, بدليل أن بقاعاً كثيرة من العالم اليوم, يسمعون الإسلام, ولكنهم يأخذون عنه, وعن أهله فكرة مشوهة مما ينفر الناس عن الإسلام, ولا يرغب فيه. فلا يقال والحالة هذه إن تلك الشعوب قد وصلها الإسلام بصورة (البلاغ المبين).

والذي يحقق شرط (البلاغ المبين) في الدعوة إنما هو الخطاب الرسمي من السلطة الإسلامية التي يجب عليها الدعوة على وجه يحقق الشرط المذكور. حتى إذا كانت هناك تساؤلات , واستفسارات لدى من توجه اليهم الدعوة بشأنها تقدمت السلطة الرسمية بالأجوبة المعتمدة على تلك التساؤلات والاستفسرات. (محمد خير هيكل, الجهاد والقتال في السياسة الشرعية, دار البيارق, بيروت, 1996-1417, ط.2, ج.1, 772-791)

 

 

 

10.楽園の至福の先取りとしての救済

 

 イスラームにおける救済とは、火獄の懲罰を免れ楽園に入ることであり、それは一義的には来世の事柄であった。しかし一方でイスラームには来世での救済の現世における先取りの思想もまた存在する。

スーフィーであり、アシュアリー派神学者でもあったアル=クシャイリー(al=Qushairī, d.1073)は、クルアーンの聖句「その主との対面を畏れる者には二つの楽園がある」(55章46節)を釈義して、「二つの楽園とは帰依の甘味と時の安らぎの先取りの楽園と、来世にとっておかれた報償の楽園である。人々は、現世における楽園において、それぞれの心境の度合いに応じて相違しているが、それは来世においても人々の位階に応じて違いがあるのと同じである。(جنتان:جنة معجلة حلاوة الطاعة وروح الوقت مؤجلة في الآخرة وهي جنة الثواب وهم مختلفون في جنان الدنيا على قدر تفاوت مقادير أحوالهم كما يختلفون في الآخرة حسب درجاتهم.)」[10]

こうしてイスラームにおいては、第一目標は来世における楽園の救済でありながら、現世におけるその先取りとしての楽園、つまりアッラーフへの帰依の甘味と時の安らぎの味得をも目指す、来世と現世の救済の志向性の二重化が存在することになるのである。

 整理するなら、イスラームにおける救済は、(1)来世での火獄で懲罰を蒙った後での楽園への救出、(2)来世で火獄の罰を蒙ることなく楽園に入ること、(3)現世で来世の楽園の至福を先取りすること、の三段階があることになる。救済の「最小限」は(1)の火獄の懲罰を経ての救出であり、これより下には救済はなく、これが「救いに与る者」と「救いに与らない者」とを分ける分水嶺である。(2)の火獄を免れる救済、(3)現世における来世の至福の楽園の先取りは、オプショナルな救済、とでも言うことができよう。

(1)、(2)、(3)の救済は、いずれも狭義のムスリム、つまりムハンマドのウンマに属する者だけでなく、広義のムスリム、つまり預言者たちの宣教に応えた者たち全てに対して開かれているが、預言者たちの宣教を拒んだ不信仰者、多神教徒には閉ざされている。預言者たちの宣教の届いていない者に関しては、アシュアリー派の通説によると、そもそも彼らには義務負荷がなく懲罰がないため、(1)のみならず(2)の救済があることになる。

 

 

終わりに.

 以上に述べたように、イスラームの救済論の基本構図は、行為を来世での賞罰によって定義するイスラーム法学の概念構成によって理解される。つまり救済を求める行為、敬虔の善行は、目的である楽園の報償の救済に対する手段として位置づけられる。

 しかし救済論を賞罰の報償によってのみ語ることは、救済の後の行為の動機付けにおいて欠けるところがある。確かに、楽園においても位階があり、位階が高いほど大きな報償が約束されているわけではあるが、火獄と楽園の絶対的差異に比べて相対的な際に過ぎず、楽園に入ること自体が現世でのいかなる幸福とも比べようのない至福である、とされている以上、楽園の間の位階の差異に基づく報償の大きさの差異を思い描くことは不可能であり、持続的な強い動機付けを与えるようには思われない。

 前章で述べた(1)と(2)の救済、つまり火獄からの救済については、報償の言語で語ることが適当であっても、火獄からの救済以上を求める場合には、報償の言語は不適切なのである。

預言者ムハンマドについても、アル=ブハーリーが以下のようなハディースを伝えている。「預言者は両足が腫れ上がるまで礼拝に立たれました。『アッラーフはあなたが過去と未来の罪を赦し給うております』と尋ねられると、『私が感謝する僕でなくていられようか』と答えられた。(قام النبي حتى تورمت قدماه فقيل له غفر الله لك ما تقدم من ذنبك وما تأخر قال أفلا أكون عبدا شكورا (البخاري كتاب تفسير القرأن))」

 このハディースは、預言者の教友たちにとってさえ、彼のアッラーフの崇拝における献身が、賞罰の言語では理解が難しかったことを示している。

 預言者におけるアッラーフの崇拝行為は、楽園に入るための手段ではなく、感謝の表現であり、「礼拝が我が目の慰めとされた(جُعل قرة عيني في الصلاة)」(Sunan al-NasāÕī)とのハディースにあるように、それ自体が至福なのであった。それが前章で述べた救済の最後の類型としての(3)「現世における来世の楽園の至福の先取りとしての救済」であり、この類型の救済は賞罰の言語ではなく、感謝と喜びの言語で語られるべきなのである。

 現代の日本においては、アシュアリー派の宣教の届いていない民の無条件の救済の福音を伝えた後に、救済の感謝と喜びの言語で「現世における来世の至福の先取りとしての救済」へと誘うことが、賞罰の言語で来世での火獄で威嚇しそこからの救済を説くよりもより有効であると思われる。

 なぜならばこの感謝と喜びの言語による救済の語りによる説法は、日本最大の宗派であるところの浄土真宗において、「往生を求めてではなく往生の決定に対する歓喜に満ちた報恩の念仏」として、日本人の宗教意識にとって既に馴染みのものになっているからであり、来世のリアリティーが薄れる一方で、近代西欧文明の人間中心主義に染まり不信仰の罪の自覚の失われた現代日本人にとっても、さしたる抵抗感なく受け入れられるからである。ただし、この語りの有効性は、感謝と喜びを生きる模範となる宣教者の存在を前提とする。そしてこのような宣教が、マレー語で「dakwah bilhal(心境による宣教)」と呼ばれる宣教なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[11]

 

 

 

المقاصد لأبي زكريا يحيى بن شرف بن النووي

 

 

 



[1]「最大の懲罰ではなく最近の懲罰で必ずや我は彼らを罰しよう(ولنذيقنهم من العذاب الأدنى دون العذاب الأكبر...)・・・」(32章21節)

標準的な古典注釈ナサフィー著『啓示の知解と解釈の真義Madārik al-Tanzil wa-ÅāqāÕiq al-Ta’wīl』によると「最近の懲罰(العذاب الأدنى)」とは「現世での懲罰で、捕囚や彼らが被った7年にわたる旱魃の苦難(عذاب الدنيا من الأسر وما محنوابه من السنة سبع سنين)」、「最大の懲罰(العذاب الأكبر)」とは「来世での懲罰(عذاب الآخرة)」を意味する。(ÔAbd Allāh bn AÆmad al-Nasafī, Tafsīr al-Nasafī – Madārik al-Tanzil wa-ÅāqāÕiq al-Ta’wīl, vol.3, Beirut, 1996, p.421).

「アッラーは彼を最大の懲罰で罰し給う」(88章24節)の「最大の懲罰(العذاب الأكبر)」とは「火獄での懲罰(عذاب جهنم)」(ibid, vol.4, p.516)を意味する。

[2]

[3] Al=Nawawī, al=MaqāÎīd, Damascus, 1993, p.14.

[4] Ibn Rajab, Jāmi al-Ulūm wa al-Åikam, vol.2, Makkah, 1993, pp.7-8.

[5] Al-Suyū»ī, al-Åāwī li-al-Fatāwā, 1983, Beirūt, vol.2, p.206.

[6] Abd Allāh bn MuÆammad bn al-ªiddīq al=Idrīsī, Ahl al-Fatrah Nājūn, Khawā»ir Dīnīyah, Cairo, 1968, pp.116-117.

[7] 地上の全ての人類の基本をカヴァーしたムハンマドの遣使の後には、「中間時の民」は存在せず、その存在を仮定する余地は無い。しかしその宣教が届いていない者がいるということは有り得る。例えばアフリカ大陸の一部の未開の地で深山とジャングルの奥に暮らしており、イスラームについてもクルアーンについても聞いたことが無く、至高なるアッラーの唯一性についても何も知らない者がいたとすれば、たとえばキリスト教のような多神教を信奉していたとしても、その者が救われることは疑いない。なぜなら宣教が届いていることは、その者に義務が課されるための条件だからである。それゆえ自分の怠慢のせいでなく宣教が届いていないなら、義務が課されることはないのである。(أما بعد البعثة المحمدية التي عمت أصل أهل الأرض جميعا فلا يوجد أهل الفترة ولا محل لافتراض وجودهم. لكن قد يعبترض وجود من لم تبلغه الدعوة. فلو افترضنا وجود شخصا في مجاهل القارة الأفريقية مثلا لم يسمع بالإسلام لا بالقرآن ولا عرف شيئا عن توحيد الله تعالى وعاش بين الجبال والغابات فإنه ناج بلا شق حتى ولو اعتنق بعض الديانات الشركية كالنصرانية مثلا. ذلك لأن بلوغ الدعوة شرط في توجه التكليف للشخص. فحيث لم تبلغه بدون تقصير منه لم يكلف. ) Ibid., p.118. 

[8] Abū Manşūr al-Baghdādī, Uşūl al-Dīn, Beirut, 1981, p.262.

[9] MuÆammd Khair Haikal, al-Jihād wa al-itāl fī al-SharīÑah al-Islāmīyah, Beirut, 1996, vol.1, pp.772-791.

[10] Al-Qushairī, La»āÕif al-Ishārāt, Cairo, 2000, vol.3, p.511.

 

[11]