「イスラームにおける異教徒の共生」

同志社大学神学部教授 中田考

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西欧では、宗教戦争の結果、公的な場では政治と宗教の話題をしないエチケット確立したが、イスラームはアッバース朝(750-1257年)時代の宗教間対話の失敗により、宗教を「私事」とする棲み分けと共存のシステムを確立した「大人の宗教」である。今日の西欧の唱導する「宗教間対話」はイスラームに1000年以上遅れた試みであり、やはり失敗して、イスラーム型の棲み分けと共存のシステムに落ち着くことが予想される。本稿は、その予想のスケッチである。 

1.イスラームにおける異教徒との共生

(1)マディーナ憲章モデル(社会契約モデル)

 預言者ムハンマドは故郷のマッカで多神教徒たちの迫害を受けていたときに、ヤスリブ(後のマディーナ)の町からから首長(調停者)として招かれ、アラブのユダヤ教徒、多神教徒も含むヤスリブの諸社会集団と社会契約(マディーナ憲章)を結ぶことにより、預言者ムハンマドを元首(調停者)とする安全保障共同体、都市国家を形成した。
 これをマディーナ憲章モデルと呼ぶ。マディーナ憲章モデルにおいては、各社会集団は自発的に平等な能動的アクターとして新設の都市国家に参加した。
 しかしこのマディーナ憲章モデルは長くは続かず、次節で述べる統治・君臣契約のカリフ・庇護民モデルに変質する。直接の原因はアラブ・ユダヤ教徒の諸部族が憲章に違反して脱落した結果であるが、変質のより本質的な原因は、能動的なアクターによる自発的な契約による国家創設という社会契約モデル一般のフィクションが契約当事者に限ってのみしか機能せず、一世代の経過を待たずして既存の国家への忠誠以外の選択肢が消滅することによるのである。

(2)カリフ庇護契約モデル(イスラーム国際法モデル)

 マディーナ契約は国家なき部族社会であったアラブ民族に「都市国家」をもたらした。最初は諸部族の連合の性格が強かったこの都市国家は、短期間の間にペルシャ帝国の全土、東ローマ帝国の先進文明地帯の南半分を併合し、急速に中央集権的な官僚国家に変質を遂げた。この過程で、西欧の国家学の国家の三要素、①国土にはダールルイスラーム、 ②国民にはウンマ(イスラーム教徒の共同体)、 ③主権にはカリフ制が大まかに対応する国家モデルが成立した。本稿では、異教徒との関係に焦点を当ててこの国家モデルを「カリフ庇護契約モデル」と呼ぶ。
 ダールルイスラームとは、イスラーム公法が全住民を律し、私的領域においては各宗教共同体がそれぞれの宗教法による自治を享受し、イスラーム法の支配に積極的にコミットする者(ムスリム)が能動市民として安全保障(治安・軍事)の責任を負い、それ以外の異教徒は兵役義務を免じられ武装解除され受動市民として租税を納めるだけで生命・財産・名誉の安全を享受する法治空間・安全保障体制のことである。
 このダールルイスラームにおいては異教徒は、この安全保障体制を認めて定住する場合は、カリフと庇護契約を結び、庇護民として自治権(独自の宗教裁判所を有する)を持つ。
 ダールルイスラームの外の異教徒が個々人で、短期間、ダールルイスラームに入国する場合には、カリフの許可は必要とせず、ダールルイスラームの住人であるムスリムの誰であれ、一人が御許引受人になって安全保障を与えれば、その異教徒は安全保障所持者としてダールルイスラームに1年未満の滞在を許される。この異教徒の安全保障所持者は一人のムスリムの身元保証によって全てのムスリムがその安全を保証する義務を負うことになる。
 ダールルイスラームの外は法の支配の及ばないダールルハルブ(戦闘地域、無法地帯)であるので、ダールルイスラームの外の異教徒には安全は保証されない。ただしイスラームは非戦闘員の殺害を禁じていますので、ダールルハルブであっても非戦闘員は殺されることは原則としてない。なおイスラーム法における非戦闘員とは、女子供、老人、僧侶である。
 ただしカリフが和平協定を結んだ国は、和平協定の有効期間は戦闘が禁じられ、異教徒の生命、財産、名誉は侵害は禁じられる。
 イスラームの使命は、一義的には、宗教としてのイスラームへの改宗を求めることではなく、この法治空間、安全保障体制の世界への拡大なのであり、そこではイスラーム公法の支配に服する限り、異教徒も宗教的自治を認められるのである。 

2.イスラームにおける宗教対話

 初期イスラーム時代には宗教的対話は存在せず、一方的呼びかけと、ユダヤ・キリスト教側の質問に対する応対があっただけであった。
 アッバース時代にギリシャ文化、イラン文化、ヒンドゥー文化、ヘブライ語聖書がアラビア語に翻訳され、この翻訳を元に「宗教間対話」が行われたが、なんら実りある成果はうまれず、相互不干渉が確立されたのであり、これがイスラーム国際法のカリフ庇護民モデルの理論的基盤となっているのである。
 長文となるが以下に若林啓史『聖像画論争とイスラーム』知泉書館2003年(pp.158―169)から、このアッバース朝における宗教対話の様子を引用しよう。 

「二教義論争の盛行
 アブー.クッラの活躍した八世紀後半から九世紀にかけては、東方キリスト教世界、イスラーム世界を問わず宗教や宗派を超えた教義論争が盛んに行われた。これらの論争は、各派の学者たちにそれぞれの思想の発展.深化という豊かな実りをもたらした。その背景には、立場の異なる者の間の対話を成り立たしめる基本的な相互理解と、特定の規準に束縛されず理性の行使を尊重する気風が存在した。さらに時代が下って各宗派の教義が固定化に向かうと、こうした前提は崩れ始め、論争は生彩を失ってしまう。
 当時のキリスト教の代表的な宗派であるネストリオス派、単性論派、皇帝派一カルケドン派一問のキリストをめぐる論争が、アブー・クッラの同時代人であるシリア教会のアブー・ラーイタの短篇の中に遺されている。この作品ではキリスト教の三宗派の意見をムスリムの大臣が聴取する設定によって各派の立場が要約されており、時代の空気を伝える好例として全文を引用する。
「ネストリオス派の府主教アブディーシューウ、皇帝派の主教アブー・クッラとヤコブ派のアブー・ラーイタは、ある大臣のもとに参集したと伝えられる。〔大臣は、〕彼らが一人ずつ簡潔な言葉で自らの信条を表明し、各人が自分の同僚に反論しないよう求めた。
 ネストリオス派の府主教は一語った。『私はキリストが二つの位格(shakhş)より成る〕と申します。〔すなわち、〕父とその性質(ţabī'ah)やあらゆる属性(şifah)において等しく、〔父から〕不断に生成され続けている位格と、様々な罪を除いてあらゆる人格を共有する、マリアから産み落とされた人間としての位格です。そしてキリストの名は、二つの位格のどちらかをおいて片方に帰属するものではなく、その両方に〔帰属する〕のです。ゆえに、キリストは神と人間という二つの性質を備えた二つの位格なのです。その証明は、〔このようです。〕我々は万物を見ますと、総じて必ず実体(jawhar)と偶有('arad)に分かたれますが、その分かたれたものは一般的('āmmī)なものか個別的(kh'āşş)なものかいずれかでなければなりません。既に我々はキリストが偶有ではないと合意していますから、〔キリストは〕すべからく実体であることになります。そして我々は、その実体が一般的か個別的かいずれかでなければならないと気付きます。もし仮に、神と人問とに別々に分かたれて〔その実体に〕付された名が一般的実体の仕方で付されたとしますと、キリストの名は父と子と聖霊を包含し、またすべての人間を包含しなければならないことになります。これがあり得ないことから、別々の名はそれぞれの位格そのものに付されたに過ぎないと証明されます。これは、〔キリストが〕神的実体と人的実体という二つの個別的な位格である実体〔から成ること〕を必然とするのです。』
 皇帝派の〔主教は〕語った。『私はキリストが単一の位格であり、神性と人性の両性を〔有していると〕申します。ゆえに〔キリストは、〕神性において神であり、人性において人間であり、二つの異なる面から神と人問である単一の位格なのです。その証明は〔このようです。〕我々は既にキリストが唯一であり、ある性質において神、ある性質において人間であると合意しています。そして、ある性質において神である者は、ある性質において人間である者か、そうでないかのいずれかでなければなりません。もし仮に、〔その者が〕単一の位格であってその性質において神であり、その性質において人間でなければならない者ならば、これは我々の言説に〔他なりません。〕もし仮に、ある性質において神である者がある性質において人問である者ではなくかつある性質において神である者が無始の神の子であり、キリストはその性質において神であるならば、キリストは神の子ではなく、神の子はキリストではなくなります。これはキリスト教の立脚するところと矛盾します。』
 ヤコブ派の〔神学者は〕語った。『私はキリストが単一の位格であり、神的かつ人的な単一の性質を〔有している〕という考えを選びます。なぜなら私は、神的位格が人的〔位格〕と名称や実質において区別がなくなるように結合したと主張するからです。ゆえに〔キリストは、〕単一の位格、単一の性質〔から成る〕のです。その証明は〔このようです。〕我々はキリストが数において唯一であると合意しています。そして我々は論理に従い一というのが一者なのか、一類なのか、一種なのかいずれかでなければならないと気付いています。キリストが種や類において単一であるということは判断基準の上からあり得ないため、〔キリストは〕単一の位格、単一の性質を〔有していることが〕残るのです。また、我々は数が個別性、すなわち位格において個々のものに用いられ、無始の位格はその生成以後の限時的位格と結合していることに気付いているので、これら両者が名称や実質において分離することはあり得ないのです。分離がなくなれば、数の根拠はその原因がなくなって消えるのです。もし仮に、結合状態において二で分離状態において二であるというなら、結合状態は分離状態のうちにあり、分離状態は結合状態のうちにあることになってしまうでしょう。このことは名称においても、実質においても妥当します。』すると大臣は彼らの陳述に満足し、彼らを厚く遇して帰らせた。神に永久なる感謝を。」
 この著作は立場の異なる論者の考えを並記しているに過ぎず、本来の対話とは趣を異にする面もある。三宗派の代表がキリストの位格と性質の概念に議論を絞っている点で対話の前提が成立しているが、自らと異なる意見に対しては反論していないからである。しかし、このように共通の問題を探究すること自体が次の段階の活発な論争への準備となった。 
 それでは、当時の教義論争は議論の相手にどこまで根源灼な批判を許容していたのであろうか。イスラーム帝国の政教両面において最高権力者であったカリフと、キリスト教徒の対話がその限界を端的に示している。ティモセオスⅠ世(在位七九九-八二一二年)はネストリオス派のカトリコスに就任する前に、カリフ・マフディーと教義をめぐって対談したと伝えられる。その対談録から、ティモセオスがカリフに対して、預言者ムハンマドの出現が新約聖書に予告されていないと断言している箇所を引用する。
 その頃のムスリム学者には、福音書のヨハネ伝で聖霊を指して用いられる「弁護者」(παράκλτος)という語は「賞讃された者(περικλυτός)、すなわちアラビア語の「ムハンマド」の誤りであ、ムハンマドの出現は新約聖書に予言されているとの説をなす者があった。「…そして〔カリフ.マフディーは〕私〔ティモセオス〕に、『汝はムハンマド―彼に平安あれ―についての証左を見出さなかったのか。』と重ねて尋ねた。そこで私は彼に、『全く〔ありません。〕神を愛される王(カリフ)よ。』と答えた。すると彼は私に、『それではファラークリート(al-faraqlit)は何者か』と尋ねた。私は彼に、『ファーラクリートとは神の霊のことです。』と答えた。王は私に、『神の霊とは何か。』と尋ねた。私は彼に答えた。『神の霊とは何か。』とは、イエス・キリストが我らに教えた通り、神性を有し発出される特質をもつ神なのです。押すると我、の偉大な王は私に、イエス・キリスト―波に平安あれ―が語ったのは誰についてであるか。」と言った。私は彼に答えた。『イエスは天に昇る時弟子たちに言いました。”私は汝らに父から発出される霊、〔すなわち〕弁護者を遣わそう。世は〔この霊を〕受け容れることができ貧が・それは汝らのところで汝らの内にあって神の深みに至るまですべてのことを教え、すべてのことを試す。それは私が汝らに話したすべての真理を汝らに思い起こさせる。それは私に栄光を与える。私のものを受けて汝らに告げるからである。"一ヨハネ伝(一四章二六節、十六章五-十五節)』すると我らの王は私に言った。『これらすべてはムハンマド―彼に平安あれ―の到来を示している。』私は彼に答えた。『もし仮にムハンマドがファーラクリートであったならば、ファーラクリートは神の霊ですから、ムハンマドは神の霊で入間のようには限定されないことになります。従ってムハンマドは非限定で書、非限定な一存在一は視覚によって捕捉されないため、ムハンマドは視覚によって捕捉されないことになります。視覚で捕捉されないものは、形態を持っていないため、ムハンマドは形態を持っていないことになります。形態を持っていないものは〔何らかの要素から〕構成されていないため、ムハンマドは構成された〔存在〕でないことになります。もしムハンマドが〔何かから〕構成され、形態を持ち、可視であり、限定されているなら、彼は神の霊ではなく、神の霊でない者はファーラクリートではないのです。よってムハンマドはファーラクリートではありません。次にファーラクリートは天、つまり父の性質に由来していますが、ムハンマドは地、つまり人間の性質に由来しています。よってムハンマドはファーラクリートではありません。ファーラクリートはまた、神の深みを織っています。(コリント前書二章一〇節)しかしムハンマドは物事が成就する〔原因〕や〔人々が〕信仰する〔対象〕についても無知であると認めています。よってムハンマドはファiラクリートではありません。さらにファーラクリートはキリストが〔弟子たちに〕説いて語った通り、弟子たちと共にあって彼らの内にいましたが、(ヨハネ伝一四章一六節参照)ムハンマドは弟子たちと共におらず、彼らの内にもいませんでした。よって彼はファーラクリートではありません。また、ファーラクリートはイエス―彼に平安あれ―が天に昇ってから十日後に弟子たちに顕現しましたが、(使徒行伝二章一―四節)ムハンマドは六百余年の後に現れました。よってムハンマドはファーラクリートではありません。加えて、ファーラクリートは神について弟子たちに、〔神は一三つの位格をもつと教えましたが、(ヨハネ伝一六章二二節参照)ムハンマドはこれを信じません。よって彼はファーラクリートではありません。それから、ファラクリートは弟子たちの手によって多くの奇雌や帥微を顕わしましたが、ムハンマドは同僚や従者の手によって何一つ神徴を顕わすことがありませんでした。よって彼はファーラクリートではありません。また、ファーラクリートは父と子とその性質において等しく、そのため預言者タビデが神の霊について"〔主の〕霊により天地の万象は創られた"(詩篇三三章六節)と語ったように、天の万象の創造主としても知られるのです。ムハンマドは創造主ではありませんから、よって彼はファーラクリートではありません。もし福音書に彼についての記述があったとすれば、律法や諸預言者の書にイエス―彼に平安あれ―の到来について明瞭に記されているように、聖典にその到来や名や民族や部族が明らかでなければなりません。彼についてこのようなものは何も書かれていませんので、彼への言及は福音書に全く存在しないのです。』」
 カリフは完膚なきまでに論破されて不満の色を見せるが、ティモセオスはひるまず追い打ちをかける。
 「王は私に言った。『汝らの聖典にムハンマド―彼に平安あれ―についての証拠・証明は数多くあったのだ。ただ汝らが聖典を損なって改竄したのだ。」私は彼に答えた。『王よ、我々が聖典を改竄したという事実はどこからお聞きになったのですか。我々が自分たちの聖典を改竄したことをあなたに示した、改竄のない聖典はどこにあるのですか。それをお示し下さい。我々はそれを見てそれを拠にし、改竄された聖典は放棄しましょう。ところで、福音書が改竄されているとあなたはどこからお聞きになり、我らにそれを改竄するどのような実益があるのですか。もし福音書にムハンマドの記述が見出されたのであれば、我々はそこにある彼の名を除いたりせず、"彼はまだ到来していない。彼はあなたがたの語る者のことではなく、これから来ることに決まっている"と言ったでしょう。あたかも、ユダヤ教徒が律法や諸預言者の書からイエス―彼に平安あれ―の名を省くことができず、"キリストは未だこの世に到来せず、〔これから〕来るだろう"と言って我々に敵対し、眼を具えず白昼に太陽の顕現を否定する盲人に似ているのと同様です。このように我々もまた、聖典にあるムハンマドの名を除くことができず、ユダヤ教徒のように〔到来する〕時や人物についてあなたがたと議論したはずです。しかし、私は真実を申しますと、仮にムハンマドの到来について福音書に一つでも予言を見出したとしたら、私は福音書を放棄してコーランに従い、律法や諸預言者の書から福音書に移ったようにこれからそれへと移ったでしょう。』」
  ティモセオスの率直な発言はカリフの公正な態度に対する信頼の現れであり、たとえ最高位権力者が相手であったとしても対等の立場から忌憚のない弁論が許容された論争のあり方が典型的に示されている。・・・(pp.158-165)
 ・・・この対談にみられる当時の教義論争は、アブー・クッラがコーランを引用し、ムスリム神学者が聖書を引用してそれぞれ相手の受け容れている言辞を前提とした上で、問答を通じて派生する帰結が相手の前提と矛盾することを指摘し、あるいは自己の立場と矛盾しないことを争う点に特徴があった。遠征途上のカリフの軍営内での対話であったにもかかわらず、イスラーム教徒、キリスト教徒の立場はあくまで公平に扱われ、議論の優劣は証明の一貫性・合理性に求められている。アブー・クッラがアレキサンドリアやアルメニアで繰り広げた教義論争もこのような形式で進められたものと想像される。ただし、イスラーム帝国内でのキリスト教徒とムスリムの間の対話は、体制を揺るがすほどの影響を及ぼすものではなかった。東ローマ帝国における公会議を舞台とした論戦や、イスラーム帝国でのムウタズィラ学派をはじめとする学派間の争いの熾烈さとは一線を画し、一定の枠内にとどまる対話であった。その意味でイスラーム世界で行われたキリスト教徒とムスリムの対話は、ムスリム支配者の寛容さを示すと同時に、彼らの絶対的優位を前提として統制された論争であった面は否定できない。(pp.167-168)

 また現代のパレスチナの研究も、権力の不平等が存在する場合には対話がかえって衝突を激化されるケースがあることを示している[1]
 従ってイスラーム文明の経験に学んで対話から「宗教」を除くことによる共存のシステムを再構築する方が現実的であると考えられる。筆者はモスクとバザールという二つの中心を持つイスラーム都市との古典的イスラーム都市論を読み替えたバザール・モデルと呼びたい。つまりモスクに象徴される私的空間においては宗教共同体は相互に不干渉を貫き、バザールに象徴される公共空間においては平等な対話と協調がなされるのである。これは市場経済をモデルとする近代西欧の市民社会=公共圏論に近い立場であるとも 

2. 現代におけるイスラームの宗教対話

 現代においてイスラームとキリスト教の対話は数多く行われており、本稿では省略する。
 一方、イスラームとユダヤ教の対話は殆ど行われていない。数少ない例を論じたものとして、John Bunzul(ed.), Islam and the Political Role of Religions in the Middle East, Gainesville, 2004 を挙げておこう。
 イスラームと仏教の対話としては、“The Buddhist-Muslim Dialogue”, 2003/ May 5-7, Paris(UNESCO’s Inter-religious Dialogue Programme)、“Conference for Buddhist-Muslim Dialogue”,Malaysia, Indonesia, USAなどの例がある。 
 イスラームと儒教の対話は“Civilisational Dialogue between Islam and Confucianism”, 12-14 March 1995(Centre for Civilisational Dialogue, University of  Malaya)があり、その成果は Osman Bakar, Islam and Confucianism, Centre for Civilisational Dialogue, University of Malaya, 1997 に纏められている。
 また日本おけるイスラームの宗教対話の例としては、WCRP(世界宗教者平和会議)は第1回京都会議(1970年10月16-21日)以来イスラームの代表を招いており、1987年8月3‐4日の比叡山開創1200年記念を機に始まった「比叡山宗教サミット」(世界宗教者平和の祈りの集い)も初回以来イスラームの代表を招いており、2002年8月3‐4日15周年記念は特に「平和への祈りとイスラムとの対話集会」と題し、イスラームとの対話をメインテーマに掲げるものであった。
 2004年5月29-30日にイマーム・イスラーム大学(サウジアラビア)東京分校で開催されたサウジアラビア主催の「日本とイスラーム(サウジアラビア)の文化対話プログラム」では、WCRP日本日本委員会事務総長が「日本人の諸宗教とイスラーム教との対話」と題して発表している。

結び:殊更に行う「対話」のいかがわしさ

 筆者は諸宗教の信者が日常生活の中で自然な形で交流、対話をすることに異議を唱えるものではない。しかしイスラーム地域研究者としての学問的研究に加えて、イスラーム教徒として数々の「宗教間対話」と称するものに参加してきた経験から、殊更に「宗教間対話」と銘打って行う「対話」にはいかがわしさを感じざるをえない。
 というのはそのような「対話」には、強者の側には、そのような対話に応じることによって寛容のイメージを振りまき、利権の現状の維持に正当性を与えることができるという、リップサービスだけで済むなら安いもの、との動機が、そして弱者の側には、失うものはないので駄目元で言ってみて要求が通ればごね得で儲けもの、との動機が見え隠れするからである。



[1] cf., Rabah Halabi(ed), Israeli and Palestinian Identities in Dialogue – The School for Peace Approach, 2004, pp.42-43.