シーア派法学における古典ジハード論とその現代的展開 - スンナ派法学との比較の視点から
中田考
The
Classical Theory in Shiite Jurisprudence and its Contemporary
Development – from the Standpoint of the Comparison with Sunnite Jurisprudence
Hassan Ko Nakata
Abstract
The purpose of this paper is to
clarify the world view of ‘self and others’ held by the Sunnis and the Shias by
comparing prescriptions for Jihad in Shia and Sunni jurisprudence in order to
understand the origins of a conflict which might arise between them.
What is argued in this article
is summarized as follows.
(1)
Both the Sunni and the Shia Muslims approve of each other mutually as members of
the same ‘Muslim’ community.
(2)
The Shias consider rebels against the Imam to be unbelievers by defining this
as ‘those who fight against the Infallible Imam’, but generally speaking they
are treated with tolerance as they are released after being neutralized by being
defeated and brought under control, and they are considered as possible to coexist
with.
(3)
The rules for rebels in Shia jurisprudence had been void and ineffectual for a
long time in the age of the absence of the Imam, but since the establishment of
the theory of the sovereignty of the jurist(wil±yah faqµh)
and the formation of the Islamic Republic of Iran, they have been revived in a
new form by substituting the concept of ‘rebellion against the Jurist as the unspecific
deputy of the Imam’ and ‘rebellion against the legitimate Islamic government’
for the original ‘rebellion against the Imam’. In addition, in the Iranian Islamic
Republic, the jurist has come to have the authority to declare an initiative jihad,
an authority that used to be solely the prerogative of the Imam in traditional Shia
jurisprudence.
(4)
The range of the infidels with whom coexistence in “the Abode of Islam” differs
in Sunni jurisprudence according to the different schools, but the opinion that
there is a possibility for coexistence with all infidels is gaining influence. On
the other hand, Shia classical jurisprudence has admitted only the People of the
Book, but Ayatollah Fadlullah has presented a new view that the acceptance of
all infidels depending on the situation is possible.
序.
アメリカとその同盟軍による「イラク侵略」は、異教徒の侵略者に対する抵抗を引き起こすと同時に、スンナ派とシーア派(12イマーム派)の間の「宗派対立」をも呼び覚ますことになった。この事態には、イスラーム的背景が存在することは否定できないが、イスラームに還元することもまた不可能である。
本稿の目的は、シーア派法学における「ジハード」と「叛乱」の概念の分析を手がかりに、スンナ派とシーア派の比較の手法により[1]、イスラームにおける「自己/他者」関係の規定を明らかにし、イスラーム世界の現状分析におけるイスラーム学的アプローチの有効性と限界を示すことにある。
1.イスラーム法学における「ジハード」と「叛乱」の問題構成
筆者はかつて拙稿「イスラーム法学における「内乱」概念 ― イブン・タイミーヤの批判を手がかりに ― 」において、スンナ派法学の「叛乱(baghy)」概念構成の成立を法思想史的に跡付けたが、スンナ派法学においては、ジハードが「不信仰者との戦闘」と定義され[中田
2003 :514: al-Najdµ n.d. 4:253]、「ジハード」章あるいは「戦争関連法規
(siyar)」章として独立の章として論じられるのに対して、叛乱は「法定刑(Æud¹d)」章の中に一節を設け「叛乱」節あるいは「叛徒討伐」節として論ずるのが通例であった。
シーア派では現代イランの大アヤトラの一人ナースィル・マカーリム・アル=シーラーズィーが「イスラーム法学においては、『ジハード』章(kit±b)の中に『叛徒との戦闘(qit±l ahl al-baghy)』と題する節(b±b)があるが、その(『叛徒との戦闘』の)意味は『ムスリムの正義のイマームに対して蜂起する不義の徒党との戦闘』である」[N±ir 1992/1413: 16:495]と述べている通り、叛徒討伐はジハードの一部として論じられることが一般的である[2]。
イスラーム法学上のジハードの位置づけについては、シーア派法学ではジハードが礼拝、喜捨、斎戒、巡礼と並ぶ「神事(Ôib±d±t)」の5柱(rukn)の一つ[Ibn Zuhrah
1418(h) 1:33]、あるいは10の最重要行為の一つに数えられるのに対し[3]、スンナ派では信条においても法学においてもそのような「柱」の扱いは無い。
スンナ派法学の法定刑の対象となる犯罪類型は、姦通、姦通誹謗、飲酒、窃盗、強盗、叛乱、背教の7つと数えるのが通説であるが[Al-R±fiÔµ 1417/1997: 11:69; ª±diq 2002, 4:577, ª±liÆ (d.1992) 1407/1986: 3:173][4]、シーア派では法定刑は姦通(及び同性愛)、姦通誹謗、飲酒、窃盗、強盗と数えることが多く、背教は法定刑には含まず、裁量刑の対象となる。
ジハードとは異教徒との戦争であり、戦争とは他者を対象とする対外関係の処理であるのに対して、法定刑とは、自らの共同体内部における犯罪の処分と考えられる。つまり叛乱を法定刑の課される内政・治安問題と看做すか、対外的戦争の下位区分とするかの相違には、スンナ派とシーア派の間の「自/他の境界」の認識、世界観の相違が反映されており、そのことはイスラーム法学の問題構成を調べることによって明らかにすることができるのである。
2.スンナ派ジハード論の自他認識
既述の通り、スンナ派法学において、叛徒討伐はジハードとは別のカテゴリー「法定刑」の問題、つまり対「外」的「戦争」ではなく対「内」的「治安」の問題として扱われるのが通例である。
現代のイスラーム世界で最も優れたジハードの法学的研究であるムハンマド・ハイル・ハイカルの『シャリーアに基づく政治におけるジハードと戦闘』も、スンナ派イスラーム学の標準的見解として「イスラームの擁護とアッラーの御言葉の宣揚のための戦闘」とのアル=カスタッラーニー(d.923/1517)[5]の「ジハード」の定義を引き[MuÆammad Khayr 1417/1996: 1:46]、「ジハードがアッラーの御言葉の宣揚のための不信仰者のための戦闘であるのに対して、叛徒討伐は、離反したムスリムたちとの、彼らを懲らしめ服従の統治に戻すための戦闘であるので、イスラーム法学的意味において叛徒討伐はジハードには当らない」と述べ、叛徒討伐がジハードではないことを確認している[MuÆammad Khayr 1417/1996: 1:66-67]。それはスンナ派法学においては叛徒が叛乱罪により不信仰に陥ったとは看做されないからであり、それゆえ叛徒が不信仰者でないことが強調されているのである。
「イスラームの擁護とアッラーの御言葉の宣揚のためにとの戦闘」、つまりイデオロギーの相違に基づく戦争の対象と規定することにより、ジハードは、イスラームにおける最も基本的な自他関係、即ちムスリムと不信仰者の関係を、「友/敵」関係として抽出する。
ただしスンナ派法学はジハードの対象となる不信仰者を共存可能性の有無に従って更に下位区分している。即ち税(jizyah)の支払いを条件とする庇護(dhimmah)の有無による区分である。
庇護が決して与えられないことで合意が成立している範疇は背教者であり[Wahbah
1985/1405: 6:443]、それ以外の不信仰者についてはスンナ派の間でも見解が分かれている。
シャーフィイー派の碩学アル=マーワルディー(d.450/1058)は以下のように述べている。
彼ら(不信仰者)の中で(庇護と引き換えに税が)受領される者については4つの学説がある。
第1:シャーフィイー学説であるが、それ(税)はアラブ人であれ非アラブ人であれ啓典の民からは受領され、またアラブ人であれ非アラブ人であれ啓典の民以外からは受領されない。それに血統ではなく宗教を顧慮するのである。
第2:アブー・ハニーファ(d.150/767)の述べるところによると、それは非アラブであれば啓典の民と偶像崇拝者の全てから受領されるが、アラブであれば偶像崇拝者からは受領されない。
第3:マーリク(d. 179/795)の述べるところでは、それは啓典の民であれ偶像崇拝者であれ全ての不信仰者から受領されるが、クライシュ族の不信仰者は別で、彼らからはたとえ啓典の民の宗教を奉じても受領されない。
第4:アブー・ユースフ(d. 182/798)の述べるところでは、啓典の民であれ偶像崇拝者であれ全ての非アラブから受領されるが、啓典の民であれ偶像崇拝者であれアラブからは受領されない。それに宗教でなく血統を顧慮するのである。」[Al-M±wardµ 1414/1994/:
14:284]
第1はシャーフィイー派とハンバリー派の通説になる。但し、ハンバリー派は、アル=ハサン・ブン・サワーブ(d.
268/881-2)による伝承として「 アラブ人の偶像崇拝者を除く全ての不信仰者から税は受領される。なぜならブライダ(d. 63/682-3)のハディース(ªaÆµÆ al-Bukh±rµ, kit±b al-jizyah)は、その一般原則として、全ての不信仰者からの税の受領を示しているからである。そしてただアラブ人の偶像崇拝者だけは、第1に(そもそもイスラームが)彼らの(原)宗教である、第2に彼らは預言者の出身民族である、との二つの理由により、彼らの不信仰が重大であるため、その例外とされるのである。」との名祖アフマド・ブン・ハンバル(d.
241/855)の言葉を伝えており、イブン・タイミーヤ(d. 728/1328)が、アラブの偶像崇拝者が消滅した時点で、全ての不信仰者から税の受領が可能になったと述べており、現代の学者アル=ナジュディー(d. 1392/1972)もこの説を採っている[ÔAbd
al-RaÆm±n 1406: 3:71][6]。
第2と第4の説のうち、ハナフィー派では第2のアブー・ハニーファ説が通説となる[ÔAbd al-Ghanµ 2004: 3:202, Al-ºaƱwµ 1406/1986 :282]。
第3説についてはハンバリー派の碩学イブン・クダーマ(d. 620/1223)も「マーリクからは、『それ(税)は全ての不信仰者から受領されるが、クライシュ族は別である。なぜなら彼らは背教したからである』(と述べた)と伝えられている。」[ÔAbd All±h 1410/1990: 13:208]と述べているが、クライシュ族の除外の限定のない全ての不信仰者からの受領がマーリキー派の通説となる[7]。
ここでアル=マーワルディーの述べる「啓典の民」とは「準啓典(shibh kit±b)の民」、即ちゾロアスター教徒も含むものであるが、ゾロアスター教徒を含む啓典の民以外からの税の受領を認めないことにおいてシャーフィイー派とハンバリー派は一致しているが、ユダヤ教徒とキリスト教徒の扱いにおいて両者は異なっている。
シャーフィイー派はユダヤ教徒とキリスト教徒を、(1)それぞれモーセとイエスの在世中に入信した者及びその子孫、(2)モーセとイエスの死後に入信した者に分け、(2)を(a)ユダヤ教、キリスト教が本来の教えから歪曲(tabdµl)される前に入信した者、(b)ユダヤ教、キリスト教が廃棄(naskh)された後(ユダヤ教についてはキリスト教、あるいはイスラームによって、キリスト教についてはイスラームによって廃棄、無効とされた後)に入信した者、(c)ユダヤ教、キリスト教が歪曲された後であっても廃棄(ユダヤ教についてはキリスト教、あるいはイスラームによって、キリスト教についてはイスラームによって)される前に入信した者に下位区分し、更に(c)の歪曲後廃棄前の入信者を、更に①(原始キリスト教の信者の中の)ローマ人の場合のように本来の教えを歪曲していない者に従って入信した者、②本来の教えに歪曲を加えた者に従って入信した者、③入信が歪曲後であるのか否か、あるいは歪曲を加えた者に従って入信したのかどうかが不明な者、に下位区分し、(1)及び(2)の(a)、及び(2)の(c)の①の範疇に属するユダヤ教徒、キリスト教徒からは税の受領が可能であるが、(2)の(b)及び(2)の(c)の②の範疇の者からは不可であり、(2)の(c)の③の範疇に属する者については税の受領は可能であるが、彼らの女性との結婚、彼らの屠殺した肉の食用は禁じられるとする[Al-M±wardµ 1994/1414: 14:288-290,
Shams al-Dµn 1967/1386: 8:87-88]。
一方、ハンバリー派はこうした区別をせず、全てのユダヤ教徒、キリスト教徒に対して税の受領と引き換えに庇護の授与が許されるとしている。
不信仰者には先ず、イスラームへの入信を求め、それが拒否された場合には、納税を求めることが義務であり、不信仰者が納税に応じた場合には、その受理が義務となり、庇護契約が締結され庇護が与えられねばならず、戦闘は禁じられ[MuÆammad Khayr, 1996/1417:
1:804, al-Najdµ n.d.: 4:307]、この庇護契約は一旦契約が締結されれば庇護民の側からはいつでも取消が可能であるが、ムスリムの側には取消権はない[Wahbah,1405/1985:
6:447]。
既述の通り、スンナ派は叛徒討伐をジハードと区別し、叛徒を不信仰者とはみなさない。つまり政治的な共同体の指導者への忠誠の有無は、スンナ派にとっては自他の「友/敵」区別の究極のメルクマールとはならないのである。しかしそのことはスンナ派が他の全ての分派を等し並みに自分たちと同じムスリムとみなすことを意味しない。
ジハードと「イスラームの家」での永住権に関して、スンナ派法学書が具体的な固有名を挙げてムスリム内部の分派について論ずることは稀である。例外的にオスマン朝末期以降のハナフィー派において依拠すべきとされる最も権威ある注釈書űshiyah Ibn Ô°bidµn [Wahbah,1405/1985:
1:60]は以下のように述べている。
彼ら(ドルーズ、タヤームナ)は、シリアの地において帰依(isl±m)、礼拝、斎戒をして見せているが、酒や姦通が合法であり、霊魂が輪廻転生し、神性がある人物からある人物へと(順に)宿ると信じており、最後の審判の召集、斎戒、礼拝、巡礼を否定し、それらの実体は字義とは別物であると主張し、我らの預言者(ムハンマド)について冒涜している。碩学の学究アブドルラフマーン・アル=イマーディー(d.
1051/1641)には彼らのついての長大な教義回答があり、その中で彼は彼らがal-Maw±qifの著者(ÔAdud al-Dµn al-´jµ, d. 706/1355)がカラーミタ、バーティニーヤと呼んだヌサイリー派、イスマイーリー派の信条を奉ずる者であると述べ、(スンナ派)4法学派の学者たちから引用して、納税などによっても彼らの「イスラームの家」への定住は許されず、彼らとの結婚も、彼らの屠殺した肉も許されないことを述べている。・・・[Ibn
Ô°bidµn 1966/1386: 4:244]
űshiyah Ibn Ô°bidµnはドルーズ派、ヌサイリー派、イスマイーリー派などの12イマーム派以外の所謂「異端的シーア派(ghul±h)」の「イスラームの家」内の定住が許されない旨を明言しているが、それはハナフィー派学説に照らせば、アラブの偶像崇拝者に対する規定に他ならない[8]。ここで12イマーム派以外の「異端的シーア派」のみが名指しされていることは、12イマーム派が異教徒の侵略から「イスラームの家」の防衛の責任を共に担うムスリム同胞の範疇に属することの暗黙の承認と考えることができる。
整理しよう。スンナ派において、不信仰者、あるいは「異教徒」は戦闘の対象となる他者であるが、その中にも納税に応じる限りその受理と庇護授与による「イスラームの家(d±r al-Isl±m)(≒イスラーム国家)」への編入による共存を強いられる庇護民というカテゴリーが存在し、その外延はマーリキー派学説、ハナフィー派学説、ハンバリー派の少数説においては事実上、全ての異教徒に及ぶ。シャーフィイー派学説とハンバリー派の通説では、キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒であるが、シャーフィイー派はユダヤ教徒、キリスト教徒に条件を付し、事実上、キリスト教徒の大半を排除していることになるのである[9]。
一方、ムスリムの範囲については、「異端的シーア派」が共存不能との判断が時として明言されることがあっても、シーア派12イマーム派は異教徒の外敵からの侵略に対して「イスラームの家」の防衛の責任を共に担うムスリム同胞の範疇に属することが暗黙の了解となっていると考えられる。
3.シーア派ジハード論の自他認識
シーア派法学の標準的古典Shar±ÕiÔ al-Isl±mが「ジハードをしなければならない相手について(man
yajibu jih±du-hu)は、以下の3種である。(1)ムスリムの中のイマームへの叛徒(bugh±h Ôal± al-Im±m min al-muslimµn)、(2)庇護民、即ちキリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒が、庇護契約の約款に違反した場合、(3)上記を除く様々な不信仰者」と述べている通り、シーア派法学は、「ジハードをしなければならない相手(man
yajibu jih±du-hu[10])」を(1)啓典の民(ahl
al-kit±b, kit±bµ)、あるいは庇護民(dhimmµ) [11]、即ちキリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒、(2)敵性異教徒(Æarbµ)[12]、即ちキリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒以外の全ての不信仰者(kuff±r)、(3)叛徒、の三種に分類するのが通例である[13]。
(1)キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒と(2)キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒以外の全ての不信仰者の区別は、キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒は納税によって庇護民の地位が認められるのに対して、それ以外の不信仰者にはイスラームに入信しない限り、戦争(ジハード)が不可避となることによって定義されるが、両者が共に不信仰者、「異教徒」であることは自明の前提である。
シーア派法学はユダヤ教徒、キリスト教徒について、入信が本来の教えの歪曲の前か後、イスラームによる廃棄の前か後かを区別しないので、これらの異教徒との共存の問題については、シーア派はスンナ派のハンバリー派の通説と同じ立場に立っていると言うことができる。
問われるべきは、叛徒の扱いである。既述の通り、スンナ派法学において、叛徒はムスリムであり、叛徒討伐はジハードとは別のカテゴリー「法定刑」の問題、つまり対「外」的「戦争」ではなく対「内」的「治安」の問題として扱われる。上記のShar±ÕiÔ al-Isl±mの「ムスリムの中のイマームへの叛徒」との言葉は、叛徒がムスリムであることを示しているように見えるが、以下に叛徒の規定を詳細に調べると、この言葉は「ムスリムであったがイマームに背いた者」を意味しており、イマームに背く以前の帰属を指しているだけで、叛乱時においてもムスリムとみなされることを意味していないことが明らかになる。
シャリーフ・アル=ムルタダー(d. 436/1044)はal-Inti±rにおいて、「叛徒が悪人(f±siq)ではあるが不信仰者と判断するには至らない」、との説を拒絶し、叛徒は「たとえ埋葬、相続、彼ら(叛徒)の財産の戦利品として配分において、両者(叛徒と不信仰者の敵)の規定にある程度の違いがあるにしても、不信仰(に陥った)と判断される。・・・中略・・・我々の論証の根拠は宗派(»±Õifah)[シーア派]の合意である。またイマームの無謬性を認める者は全て、彼に対する叛徒、彼への服従を放棄する者が不信仰者であるとみなしているのである」と述べ、叛徒が不信仰者である、と述べている。[14]
ここで注意すべきは、「イマームに背く者」との「叛徒」の定義が同じであっても、スンナ派法学においては「イマーム」は「カリフ」と同義でムスリムの「法的」最高権力者一般を指すが、シーア派法学における「イマーム」とは12人の無謬のイマームのみを指すことである[15]。
したがってKhaledも「(12イマーム・シーア派の)叛乱の概念は無謬のイマームが存在する時点での彼への不服従に焦点を結んでいる」と述べている通り、[Khaled
2003 :298]シーア派法学は叛徒を不信仰者と看做すが、874年に12代イマーム・ムハンマド・アル=マフディー・アル=ムンタザルが地上から姿を消して以降の「幽隠(ghaybah)」期においては、イマームが姿を隠している以上、居所の分からないそのイマームと武器をもって戦う者は定義上存在しえなくなる。従って。幽陰期において、シーア派の叛乱規定は事実上、空文化するのであるが、以下にシーア派の叛乱規定を含むジハードの諸規定を概観しておこう。
先ず、啓典の民とそれ以外の不信仰者とのジハードの規定については、シーア派の最も簡潔で標準的な古典法学綱要al-LumÔah al-Dimashqµyahは以下のように纏めている。
(ジハードは)イマーム(の存在)、あるいはその代理人(の存在)、あるいはイスラームの地を脅かす敵の侵略を条件として、必要に応じて連帯義務となり、最小でも1年に1回である。・・・中略・・・敵性異教徒との戦闘は、イスラームへの宣教とその拒絶の後に、(敵性異教徒が)入信するか、殺害される迄、義務となる。啓典の民も同様であるが、庇護の条件を遵守する場合は別である。それは貢租の支払い、我々の法規の遵守、ムスリム女性への性的な誑かしとムスリム男性の誘惑、盗賊、多神教徒のスパイの隠匿、ムスリムの恥部の暴露、イスラームの土地での悪行の顕示をしないことである。・・・中略・・・
要塞の破壊、投石器の使用、樹木の伐採など、征服戦争の方法による戦争行為は、忌避すべきではあるが許される。同様に、水攻め、火責め、毒の散布も忌避される。必要不可欠な場合を除き、子供と女性はたとえ(戦争の)手助けをしていても殺害は許されず、老衰者、真性両性具有者も同様。軍師か戦闘員であれば、修道士や高齢者も、殺害が許されない者(子供や女性)でも、武具をつけていれば殺される。彼らがムスリムを人間の盾にした場合は、可能な限り(殺害を)避ける。(人間の盾とされたムスリムの殺害が)やむを得なかった場合は同害報復刑、血讐賠償金はないが、償い(クルアーン「女人」章92節参照)が義務となる。女性と子供は捕虜として所有される。成人男性は戦争の途中で捕らえられたのであれば、イスラームに入信しない限り、必ず処刑される。戦争が終わってから捕らえられたのであれば、殺されず、イマームが彼らについて、温情をかけ釈放するか、身代金を取って解放するか、奴隷にして戦利品に参入するか、を選択する。・・・中略・・・[ÔAlµ Aghar Marw±rµd 1406(h): 273-274]。
ジハードの規定の大綱においてスンナ派法学とシーア派法学には大きな違いは無い。但し前節で既に見た通り、シーア派法学は、キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒のみを庇護民たる資格を有すると認めているが、スンナ派ではマーリキー派とハナフィー派は背教者以外の全ての不信仰者を庇護民として受け入れ、ハンバリー派でも少数説として、背教者とアラブの偶像崇拝者以外の全ての不信仰者を庇護民として受け入れることが出来る[16]。また戦争捕虜の扱いにおいて、シーア派法学は戦闘中に捕らえられたか、戦闘終了後に捕獲したかで扱いを区別し、戦闘中に捕獲された戦闘員の捕虜が全て処刑されるのに対して、終了後であれば処刑を禁ずるが、スンナ派は捕獲が戦闘中であるか終了後であるかを区別せず[Wahbah 1985/1405: 6:422]、戦闘員の捕虜については一律に、処刑、奴隷化、温情の釈放、身代金を取っての釈放の選択肢を認めている[Wahbah
1985/1405: 6:469]。
一方、al-LumÔah al-Dimashqµyahによるとシーア派の叛徒との戦闘規定は以下のようになる。
無謬のイマームに反逆する者は叛徒であり、不信仰者との戦闘と同じく、立ち戻るか殺害されるまで、その戦闘が義務となる。徒党を組む者は殲滅され、敗走者は追跡され、捕虜は処刑される。そうでない者は四散させられる。正しくは、無条件に彼らの財産が分配されることはない。[ÔAlµ Aghar Marw±rµd 1406(h): 275]
シーア派法学では、叛徒に帰投すべき友軍が残っている場合とない場合が区別され、友軍が残っている場合は敗残兵の追跡、負傷兵の殺害、捕虜の処刑が許されるが、友軍がいない場合にはそれらは許されない[17]。スンナ派には友軍の有無の区別は無く、敗残兵の追跡、負傷兵の殺害、捕虜の処刑は一律に許されない[Wahbah 1985/1405: 6:469]。al-LumÔah al-Dimashqµyahは叛徒の戦利品の分配が不可であることのみを明記しているが、同様に婦女子も戦利品とされず、この点ではスンナ派と違いはない[18]。他方、スンナ派では、叛徒との戦いで多神教徒の援助を受けることは許されないが[Wahbah 1985/1405: 6:146]、シーア派では許されている[19]。
シーア派法学が叛徒を不信仰者として規定していることは既に見たが、叛乱の規定は、スンナ派の場合とほぼ同じで寛大である[20]。帰順した場合に民事賠償(同害報復、血讐金を含む)以外に咎めが無いのは言うに及ばず、敗走した場合ですら合流して戦う友軍がいない場合には、追跡されることさえなく、そのまま放免され、多神教徒、偶像崇拝者のように殺害されるわけでもなく、啓典の民の庇護民のように税を課されるわけでもないからである。
つまり、シーア派法学において叛徒は不信仰者とされるが、たとえ一旦イマームに反旗を翻して戦いに及んだ後ですら、彼らが矛を収めさえすれば、庇護民のような税を課されることもなく、他のムスリムと同じイスラーム法上の権利を享有し「イスラームの家」の中での定住が許されるのである[21]。つまりシーア派法学も叛徒を共存が可能な対象と看做しているのである。
またシーア派法学の叛徒の規定は、初代イマーム・アリー(d. 40/661)、第3代イマーム・フサイン(d.61/680)ら歴代イマームに対して戦った者に限定され、シーア派以外のムスリム諸派の信徒全体を対象としているわけではない。
既述のようにアル=ムルタダーはシーア派の見解では、無謬のイマームの認識と服従が義務であり、その否定が不信仰である、と述べているが、その根拠は「宗派の合意」と述べているように、あくまでもそれはシーア派内部の判断であり、その見解を採らない他宗派を総体として不信仰者として断ずることを意味しない。シーア派、スンナ派を問わず、法学、神学の著述スタイルにおいては、自派の説の正しさを論証する場合においても、その説に反する説を唱える他学派をただちに不信仰者と断ずることはないのが通例である。そしてそれはまさに信仰と不信仰を主題とする神学論争の場合でも同様である。有名な例として、ここではマートリィーディー神学派とアシュアリー派の論争を挙げておこう。マートリィーディー派は「至高なるアッラーが望み給うなら私は信仰者である」との表現を認めるアシュアリー派を批判して、「マートゥリーディー学派の学説では『至高なるアッラーが望み給うなら私は信仰者である』と述べれば、不信仰者である」と論じるのが常であるが、それによって同派が、アシュアリー神学派を不信仰者と看做しているわけではないのである[22]。
見解ではなく、人を不信仰と断ずる場合の規定は、法学書の「背教」節を参照する必要がある。アル=トゥースィーは、「背教者と生来の不信仰者のイスラーム入信の言明は等しく、アッラーの他に神はないということ、ムハンマドはアッラーの使徒であること、及び、イスラームに反するいかなる宗教とも絶縁することであるが、『アッラーの他に神はないということ、ムハンマドはアッラーの使徒であると私は証言する』と言えばそれで十分である」と述べており[al-º¹sµ 1451(h.sh): 7:287-288]、またムハッキク・アル=ヒッリーも「イスラーム入信の言葉は『アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒であると私は証言する』であり、もしそれに加えて『私はイスラーム以外のあらゆる宗教と絶縁する』と述べてもそれは強調であり、前者のみで足りるのである」と述べており、スンナ派と同じくムスリムたることの要件はアッラーの唯一性とムハンマドの預言者性の承認としており、イマームへの信仰にはなんら言及していない。[al-MuÆaqqiq 1983/1403:
4:185-186]またこれらのシーア派法学の権威ある古典のみではなく、ムハッキク・アル=ヒッリーのShar±ÕiÔ al-Isl±mに対する19世紀に書かれた注釈書でシーア派における最も浩瀚な法学書であるJaw±hir al-Kal±mの著者アル=ナジャフィーも、「肉体の復活」や天使の否定は背教事項として挙げているが、イマームへの信仰の有無には触れていない。[MuÆammad Åasan al-Najafµ 1981: 43:630-631]またアル=ナジャフィーは他の箇所で、12イマーム派宗徒がイマームを否認した場合は背教が成立すると述べているが、ハワーリジュ派や過激シーア派を除けば、イマームの否認は永遠の火獄の懲罰に値する不信仰ではないと述べている[23]。
従って12イマーム派法学は、イマームへの信仰を欠くだけで他宗派を不信仰者とみなすことはなく、叛徒についても重い叛逆と軽い叛逆を区別し、イマームに対して実際に戦闘に及んでいる叛徒は不信仰者として扱うが、そうでない者は現世の規定においてはムスリムの同胞として遇し共存する道を選んだ、と言うことが出来よう。
以上のシーア派法学のジハード法規から抽出される自他認識は、次のように纏めることができよう。
異教徒のうちユダヤ教徒、キリスト教徒、ゾロアスター教徒は納税に応じる限り庇護民として「イスラームの家(d±r al-Isl±m)(≒イスラーム国家)」へ編入される。イマームの在世時には、イマームに対する叛徒は不信仰者としてジハードの対象となるが、それらの叛徒も戦いが終息し無力化されれば不信仰者の扱いは終わって放免され、また叛徒の家族に塁が及ぶことはなく、特別な税を課されることもなく、「イスラームの家」の中で、ムスリムとしての扱いを受け、平和に共存することが許されるのである。そしてこの叛乱規定はイマームの幽陰期には事実上空文化するのである。
3.シーア派ジハード論の現代的展開
現代のシーア派法学書にはジハード論を欠くものが散見される[24]。例えばランキャラーニー、タブリーズィー、イラク在住のスィースターニーらの大アヤトラの所謂『レサーレ(法学回答集』はジハード論を欠いている。[MuÆammad F±½il:1376(h.sh), Mµrz±:1375(h.sh), ÔAlµ Åusainµ:1376(h.sh)]イラン・イスラーム革命前にホメイニー(d.1989)が書いた法学書TaÆrµr al-Wasµlahも伝統的な法学書の章立てを踏襲して書かれているにもかかわらず叛乱論を含むジハード論が抜け落ちている。実はTaÆrµr al-Wasµlahは、古典シーア派法学では「法定刑(及び裁量刑)」章の中の補足として論じられるのが通例であった「自衛(dif±Ô)」に「勧善懲悪」章の中の1節を割き[al-º¹sµ 1451(h.sh): 8:75-80, Al-Shahµd al-Awwal, 1368(h.sh)
:285, al-MuÆaqqiq 1983/1403:
4:189-192, al-ÔAll±mah
1984/1404: 253]、伝統法学の射程を遥かに超える革新的な政治的闘争の方法論を編み出しているのであるが、そのイラン・イスラーム革命において果たした役割は別の場所で既に論じたので[中田 1997: 61-87]、ここでは以下に述べるシーア派法学のジハード論の現代的展開に関わる箇所だけを取り上げる。
「第1問:敵がムスリムの土地か、それによってイスラームの土地と彼ら(ムスリム)の社会が脅かされるような国境を侵略した場合、財産と生命を捧げて可能なあらゆる手段でそれを防衛することが、彼ら(ムスリム)にとって義務となる[al-Khumainµ, 1982/1403: 1:485]。
第2問:それにはイマームの存在も、その許可も、その特定代理の許可も、不特定代理の許可も条件とはならない。無制限かつ無条件にあらゆる手段によるその防衛が、全ての責任能力者に義務付けられる。」[al-Khumainµ, 1982/1403: 1:485]
「特定代理(n±Õib kh±)」「不特定代理(n±Õib Ô±mm)の概念は、既にアル=シャヒード・アル=サーニー(ÔAlµ bn AÆmad, d.970/1567)が、ジハードの開戦についてのal-LumÔah al-Dimashqµyahの「正義のイマームか彼の代理人(の存在)を条件に」の句の「代理人」の語を注釈して「それはジハードのため、あるいはより一般的な任務のために任命された特定代理である。法学者のような不特定代理については、第一の場合[先制 (ibtid±Õµ)ジハードの場合]には、(イマームの)幽陰の状況においては、彼(不特定代理)には(ジハードの)管掌(tawallµ)は許されないが、[防衛]その他の場合には、それ[イマームの存在]はその(ジハード)の合法性の条件とはならない。」[Al-Shahµd
al-Th±nµ 1983/1403:
2:381, cf., Abdulaziz 1988:110]と述べており、法学者がイマームの不特定代理であり、「イスラームの家」の防衛戦争などのやむをえない場合を除き、ジハードの開戦にはイマームの特定代理である法学者の裁可が必要であると論じていた。
ホメイニーはその「法学者の統治権(wil±yah al-faqµh)」論の中で、イマームの不特定代理としての法学者のイスラーム国家の元首として統治権を総攬することを論証することになるが、TaÆrµr al-Wasµlahにおいては、この「不特定代理」の概念と関連付けて叛乱の問題を法学的に論ずる作業は行っていない。
なお、ホメイニーはTaÆrµr al-Wasµlahにジハード章を立てず叛乱と叛徒討伐に関する節も存在しない。庇護民に対する「税(jizyah)」節は、法学書の章立ての通例に反して法定刑章の末尾の付録として収めているが、納税と引き換えに庇護民として受け入れられる範疇は、「キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒のみで、その他の全ての種類の不信仰者、多神教徒からは許されない」と述べており、シーア派古典法学の通説に従っている[al-Khumainµ, 1403/1982: 1:448]。
叛徒討伐の規定に、特定代理の概念を組み込んだのが、アッラーマ・アル=ヒッリーのTabirah al-MutaÔallimµnの注釈で現代の最も浩瀚な法学書(全26巻)の一つであるFiqh
al-ª±diqの著者[25]であり、イラクのシーア派界の最高権威であった故ホーイーに師事したアル=ルーハーニーである。アル=ルーハーニーは「正義のイマームに反逆する者全て」と叛徒を定義したアッラーマ・アル=ヒッリーの「イマームかその任じた者の呼びかけによりその者との戦いが義務となる」との言明の「その任じた者」の語について「特定(代理)であれ、不特定(代理)であれ、義務において違いなく」と注釈している[MuÆammad
ª±diq
1413(h): 13:107-108]。
またアル=ルーハーニーは「(内戦におけるジハードが許されるのは)彼らが宗教において捏造を行い、私の命令に背き、私の家族の殺害を許したためである。」との預言者のハディースを引いて、「この伝承には『イマームに直接に反逆した者』との特定がないことと、宗教において捏造を行い、ムジュタヒドたちに背き、アッラーの諸規定を改変する現代の不正の為政者たちをそれが含んでいることは隠れも無く明白である」[MuÆammad
ª±diq
1413(h): 13:111]と述べ、法学者(ムジュタヒド)に背く者を叛徒とみなし、「正しくは、無謬者への叛徒との戦いが義務であるのと同じく、その反抗者が『待ち望まれる徴(hujjah)=第12代イマーム』への反抗者とされる彼の代理への叛徒との戦いも義務である。」[MuÆammad
ª±diq
1413(h): 13:112]と述べて、第12代イマームの不特定代理である法学者に背く者もまた叛徒であると断じている。
つまりアル=ルーハーニーの許で、イマームの不特定代理である法学者の権威は、単に叛徒討伐の宣戦権を有するのみならず、その命令への背反が第12代イマームへの叛乱と等置される支配の正当性を獲得するまでに昇格しているのである。
また既述の通りシーア派法学では自ら仕掛ける先制ジハード(jih±d ibtid±Õµ)はイマームの許可を要するとするのが通説であったが[26]、イラン・イスラーム共和国最高指導者ハーメネイーは、イマームの代理の法学者には、先制ジハードの宣戦権があると述べている[27]。
第1章で「イスラーム法学においては、『ジハード』章の中に『叛徒との戦闘』と題する節があるが、その(叛徒との戦闘)意味は『ムスリムの正義のイマームに対して蜂起する不義の徒党との戦闘』である」との言葉を紹介したマカーリム・アル=シーラーズィーは、その直後に、以下のように述べている。
前述のクルアーンの節(「もし信徒たちの2党派が相争うなら両者の間を仲裁せよ。もし両者の一方が他方に対して無法を働くなら、アッラーの命に帰順するまで無法を働く方と戦え。そして帰順したなら両者の間を正義をもって仲裁せよ。・・・」49章9節)が提起しているのは別の課題、つまり信徒の二集団の間に生じた紛争であって、その紛争には正義のイマームに対する蜂起は含まれておらず、また正当なイスラーム政府(Æuk¹mah Isl±mµyah ±liÆah)に対する蜂起も含まれていない。一部の法学者やクルアーン注釈者たちはこの節に前述の問題(叛徒討伐)の典拠を見出そうとしているが、その立論は、アル=ファーディル・アル=ミクダード(d.826/1423)も(その著)Kunz
al-ÔIrf±nの中で述べている通り、明らかな誤りなのである。なぜならば正義のイマームへの反抗、蜂起は不信仰を帰結するが、ムスリムの間の内紛は不信仰ではなく、堕落(fisq)を帰結するだけだからである。」[N±ir:1992/1413: 16:495]
こうして彼は「正当なイスラーム政府」の概念を持ち込むことにより、第12代イマームを「正当なイスラーム政府」に置き換えているのである。イマームの不特定代理たる法学者に対する背反をイマームへの背反とみなしたアル=ルーハーニーの議論は古典シーア派法学の概念構成の中での展開であったが、このマカーリム・アル=シーラーズィーの議論は、古典イスラーム法学にそもそも存在しない法人概念である「イスラーム政府」を用い、政治的忠誠の対象をイマームや法学者の人格からイスラーム政府という機関の抽象的な法人格に移している点において、概念構成の根本的な変化を示している。そしてマカーリム・アル=シーラーズィーは「最後に、これらの叛徒の規定は、無謬のイマーム、あるいは正義のイスラーム政府(Æuk¹mah Isl±mµyah Ô±dilah)に対して逆らう者たちに対する規定とは別であることを再確認しておく。この後の徒党には、イスラーム法学のジハード章に述べられたより厳しく過酷な規定が当てはまるのである」[N±ir:1992/1413: 16:497]と述べ、不信仰者とのジハードと比べて寛大な古典シーア派法学の叛徒討伐規定を否定し、イスラーム政府に対する反逆者への厳罰を要求しているのである[28]。
最後にレバノンの大アヤトラ・ムハンマド・フサイン・ファドルッラーの『ジハードの書』の庇
護民と叛徒の規定を紹介しよう・
先ず庇護民の規定であるが、既述の通りシーア派法学は庇護民として受け入れられるのはキリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒だけであることで一致しているが、ファドルッラーは以下の第5代イマーム・ムハンマド・アル=バーキル(d.735)の伝承を引き、これは「合意事項ではなく(laisa mujmaÔ Ôalai-h±)」、「一般的命令であるので、為政者は誰でも状況の性格と利害の要請に応じてそれに対応することができる」[MuÆammad
Åusain
1996/1416: 368][29]と述べ、状況次第では多神教徒も受け入れることができることを示唆している。
税の受領の合法性を演繹できる伝承とは、ムハンマド・ブン・ムスリム(d.150/776-7)が以下のように言ったとの以下の伝承である。
私はアブー・ジャウファル(第5代イマーム)に「内紛がなくなり宗教がアッラーのものとなるまで彼ら(多神教徒)と戦え」の聖句(クルアーン2章193節)を告げたところ、彼は「この節の述べる将来の実相(taÕwµl)[30]はまだ到来していない。アッラーの使徒は、自らとその教友たちの(税収の)必要を鑑みて彼らに軽減措置を認められたのであり、もしその将来の実相が実現した日には、彼らからは(税は)受理されず、アッラーを唯一神とするまで、多神崇拝が無くなるまで、彼らは殺害されるのである。」と答えられました。
このハディースはこの節の啓示(tanzµl)とその将来の実相の間を分ける段階があることを明らかに示している。そしてその啓示は、その「将来の実相」の期が至るまで、つまり字義を適用することで継続する。つまり戦略的な目標の、それに応じた客観情勢の中で実践である。その時が至れば、「将来の実相」の実践の利をえるために啓示の実践は終わり、その際には両者(啓示の実践と『将来の実相』の実践)のうちで、唯一神崇拝か処刑かのどちからしか受け入れられないのである。[MuÆammad
Åusain
1996/1416: 361-362]
またファドルッラーは叛徒についても以下のように述べ、シーア派の通説に反し、叛徒がムスリムであると明言している。
「叛徒」とは聖法によってその服従が義務である無謬のイマームへの叛乱者である。・・・中略・・・al-Jaw±hirの著者(MuÆammad Åasan al-Najafµ, d. 1266/1850)は、これらの「反乱者たち」がたとえイスラームへの帰属を称しようとも不信仰者であると考えているが、我々は彼らが不信仰者により近いとはいえどもやはりムスリムであると考える。[MuÆammad
Åusain
1996/1416: 417, 中田 2006: 176-180]
ちなみにファドルッラーは啓典の民の女性との婚姻の是非についても、合法であるが自粛すべき(jaw±z Ôal± kar±hµyah)とのシーア派の多数説[MuÆammad
Jaw±d 1998/1404: 5:209]と異なり、クルアーン5章5節「・・・おまえたち以前に啓典を授かった者たちの貞淑な女性たち(は許されている)・・・」を典拠に、「それゆえ彼女ら(啓典の民)との婚姻は許される。」[MuÆammad Åusain 1998/1419: 8:55-56]と許容を断じており、現代のシーア派の大アヤトラの中で、自他の境界設定における包括主義的傾向において際立っている。
以下にシーア派ジハード論の現代的展開を纏めよう。ホメイニーの法学者の統治権理論によるイマームの不特定代理である法学者の権威の昇格に伴い、法学者の命令に背く者がイマームに背く叛徒とみなされるようになり、更にイラン・イスラーム共和国の成立により、イスラーム政府に反逆する者も叛徒とする議論も登場することになった。シーア派法学の叛徒論はイマームの幽陰により長らく空文化していたが、ここに叛徒の規定が新たに現実性を帯びて復活したのである。一方、シーア派法学においては、「イスラームの家」の内部で庇護民として共存が許されているのは啓典の民、即ちユダヤ教徒、キリスト教徒、ゾロアスター教徒だけであり、また叛徒はムスリムではなく不信仰者とみなされたが、レバノンの大アヤトラ・ファドルッラーが、啓典の民以外の異教徒も庇護民として受け入れることが可能であり、叛徒もムスリムとみなすとの新説を唱えているのである。
結論
我々は、スンナ派とシーア派12イマーム派の法学の比較分析により、以下のことを明らかにすることができた。
(1)両派は互いを「ムスリム」共同体内部の分派として相互承認している。
(2)シーア派はイマームに対する叛徒を「無謬のイマームに対する反逆者」との定義により不信仰者とみなすが、制圧し無力化した後は放免するなど、概してその処遇は寛大であり、共存が可能な対象と看做されている。
(3)シーア派の叛徒規定は、イマームの幽陰期において、長らく空文化していたが、法学者の統治論の確立とイラン・イスラーム共和国の成立により、「イマームへの叛逆」を「イマームの不特定代理たる法学者への叛逆」、「正当なイスラーム政府への叛逆」と読み替えることにより、現代において装いを新たに復活した。またイラン・イスラーム共和国において、法学者は伝統法学ではイマームの大権であった先制ジハードの開戦権をも手にするに至った。
(4)「イスラームの家」の内部に定住を許し共存が可能な異教徒の範囲は、スンナ派では法学派毎に見解が分かれているが、全ての異教徒が可能との説も有力であった。シーア派では古典法学では啓典の民のみしか認めていなかったが、現代においてレバノンの大アヤトラから状況次第では全ての異教徒の受け入れが可能との新説が提示されている。
以上の分析を踏まえて、イラクにおける「宗派紛争」なるものを再考するなら、ホメイニーの法学者の統治論の確立によるシーア派法学者の地位の向上を背景に、シーア派法学者の承認する政府が成立したことにより、その法学者、あるいは政府に反抗するスンナ派の叛徒を不信仰者と断じジハードを敢行するための理論的準備が整った、と言うことは可能である。しかしシーア派法学における叛徒の扱いは概して寛大であり、非戦闘員の婦女子まで無差別に殺害する凄惨な暴力を正当化するものではない。
またスンナ派法学には、非12イマーム派の「異端的」シーア派についてはそれを共存不可能な敵とみなす見解が確かに存在するが、12イマーム派に対しては、その信条を理由に戦闘、殺害を許す学説は存在しない。そして叛徒をそもそも不信仰者の「他者/敵」と看做さないスンナ派法学はシーア派以上に叛徒に寛大であり、スンナ派法学の叛徒討伐規定が遵守されていたならば、今日のイラクの内戦状況が現出することはありえなかった、と言うことができよう。
また本稿はレバノンのヒズブッラーの精神的指導者ファドルッラーがシーア派法学史上画期的な「包括主義者」であることを明らかにしたが、それはヒズブッラーを「イスラーム原理主義のテロ組織」と非難することが的外れであることの傍証ともなっている[31]。
本稿でおこなったように、スンナ派とシーア派のジハードと叛徒討伐の規定の比較を通じて、スンナ派とシーア派の「あるべき」自他認識の構造、自他の共存のあり方、そしてその現実との乖離の幅を示すことは、イスラーム学がなしうることであり、またなすべきことでもある。他方、そうした乖離の由って来たるところの解明の有効な方法論を有さず、「あるべき」あり方の具体的な実現の方法を提示することもできないとのイスラーム学の限界もまた常に自覚されている必要があろう。
文献リスト
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中田考1997 「シーア派法学における「善の命令と悪の阻止」理論の発展とホメイニーによるその革新」
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MuÆammad Sharµf ÔAdn±n al-ªaww±f 2006/1426 Baina
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al-Mas±Õil al-Fiqhµyah Alllatµ Kh±lafa fµ-h± al-ShµÔah al-Im±mµyah al-Madh±hib al-ArbaÔah al-Sunnµyah,
MuÆammad ª±diq al-Åusainµ al-R¹Æ±nµ 1413(h) Fiqh al-ª±diq,
Mu»af±
al-Suy¹»µ
al-RuÆaib±nµ
1415/1994 Ma»±lib ¸lµ
al-Nuh± fµ SharÆ Gh±yah
al-Muntah±, Beirut, 6 vols.
N±ir
Mak±rim al-Shµr±zµ 1413/1992
al-Amthal fµ Tafsµr Kit±b All±h
al-Munzal, Beirut,
MuÕassasah al-BaÔthah, 20 vols.
ª±diq ÔAbd al-RaÆm±n al-Gharay±nµ 2002 al-Fiqh al-M±likµ,
4 vols.
ª±liÆ bn Ibr±hµm al-Bulaihµ 1407/1986 al-Salsabµl fµ MaÔrifah al-Dalµl űshiyah Ôal±
Z±d al-MustaqniÔ,
Shams al-Dµn MuÆammad bn Abµ al-ÔAbb±s AÆmad bn Åamzah ib Shih±b al-Dµn al-Ramlµ al-Munµ al-Mirµ al-An±rµ Al-Sh±fµ al-ªaghµr (d. 1004/1596) 1386/1967
Nih±yah al-MuÆt±j,
Wahbah al-ZuÆailµ 1985/1405 Fiqh
al-Isl±mµ wa-Adillatu-hu,
8 vols.
Y¹suf al-BaÆrainµ n.d. al-Åad±Õiq al-N±½irah fµ AÆk±m al-ÔUtrah al-º±hirah,
MuÕassasah
al-Nashr al-Isl±mµ, 25 vols.
(同志社大学神学部)
[1] スンナ派法学とシーア派法学の包括的な比較研究としてはMuÆammad Sharµf ÔAdn±n al-ªaww±f著Baina al-Sunnah wa
al-ShµÔah – al-Mas±Õil al-Fiqhµyah Alllatµ Kh±lafa fµ-h± al-ShµÔah al-Im±mµyah al-Madh±hib al-ArbaÔah al-Sunnµyah があるが、ジハード、叛徒討伐は扱っていない。
またイスラーム法学の叛乱規定を網羅的に論じたKh±led Abou El Fadl著 Rebellion
& Violence in Islamic Law には強盗と叛乱の比較はあるが、ジハードと叛乱討伐の関係が見落とされているため、スンナ派とシーア派の自他認識の相違が十分に捉えられていない。
[2] 例えばal-º¹sµ (d. 460/1067), al-Nih±yah. al-Jumal wa al-ÔUq¹d. Ibn al-Barr±j (d. 481/1089-90). al-Muhadhdhab.
al-R±wandµ (d. 573/1177-8), Fiqh
al-QurÕ±n. Åamzah bn ÔAlµ (d. 585/1189), al-Ghunyah.
Ibn Idrµs (d. 597/1201), al-Sar±Õir. ÔAlµ bn Abµ al-Fa½l (d. 566/1170-1 after),
Ish±rah al-Sabq. Ibn Åamzah (d. 560/1165), al-Wasµlah. al-MuÆaqqiq al-Åillµ (d. 676/1277), Shar±ÕiÔ al-Isl±m. YaÆy± bn SaÔµd (d. 689/1290), al-J±miÔ li-al- Shar±ÕiÔ. al-ÔAll±mah al-Åillµ (d. 726/1325), Qaw±Ôid al-AÆk±m. al-Shahµd al-Awwal (d. 786/1384),
al-LumÔah al-Dimashqµyah. al-Jih±d min ArbaÔah wa-ÔIshrµn Matn Fiqhµ min Silsilah al-Yan±bµÔ al-Fiqhµyah, 1406(h),
但しal-Jumal wa al-ÔUq¹d, al-Wasµlah, Qaw±Ôid al-AÆk±m, al-LumÔah al-Dimashqµyahではb±bでなくfal、Shar±ÕiÔ al-Isl±mではruknの語を用いているが、実質的に差異はなく、al-ªahrashtµ (d. 460/1068), Ib±Æ al-ShµÔah, al-MuÆaqqiq al-Åillµ, al-Mukhtair al-N±fiÔ, al-ÔAll±mah al-Åillµ,Tabirah al-MutaÔallimµnはジハード章の中で独立の章立てとしては特に節を設けることなく叛徒討伐の規定を述べている。
またIbn al-ªal±Æ, al-K±fµではジハードはkit±bではなく、falであり、叛徒討伐には独立の章立てはない。またIbn
al-MuÔallim(d.413/1022), al-MuqniÔahではジハードは勧善懲悪(amr
bi-maÔr¹f wa nahy Ôan munkar)の付論として扱われ、叛徒討伐の規定も明記されていない。なお上記の法学書は、シーア派の古典法学綱要14点のジハード関連章節を収録したアンソロジー[ÔAlµ Aghar 1406(h)]による。
またal-Sharµf al-Murta½±(d.436/1044), al-Inti±rにはジハードの章はなく、「敵対者
(muƱrib)(ここでは「叛徒」と同義)の設問」の中で「預言者の敵対者の道を歩み、公正なイマームと戦い、彼に反逆し、彼への服従の義務から外れ、彼への服従を放棄する者については、不信仰に陥ったとの判断を受けることは12イマーム派特有の見解の一つである。」と述べている。[ÔAlµ Aghar 1406(h) :19]
[3] スンナ派の5行はジハードを信仰告白に替えた「信仰告白・礼拝・浄財・斎戒・巡礼」である。
一般的にはシーア派では信と行の要綱を(1)(神の)唯一性、(2)(神の)正義、(3)預言者職、(4)イマーム職、(5)来世の5信、(1)礼拝、(2)斎戒、(3)巡礼、(4)浄財、(5)五分の1税、(6)ジハード、(7)勧善、(8)懲悪、(9)(神と神の友への)忠誠(tawallµ)、(10)(神と神の敵との)絶縁(tabarruÕ)の10行に纏める。[MuÆammad ÔAlµ 1383(h.sh): 5-6]
[4] 但し別の数え方もある[Wahbah
1985/1405 :6:13]。
[5] 没年、出版暦は先がヒジュラ暦、後が西暦、無記は西暦、(h)はヒジュラ暦、(h.sh)はイラン・ヒジュラ太陽暦。
[6] ハンバリー派の通説については [ÔAbd All±h 1417/1995: 10:394,
al-Bah¹ti 1402/1982:
3:117-118]。
[7] アル=ダルディール(d. 1201/1786)は「たとえクライシュ族であっても(受領可)」と明言しており、アル=ドスーキー(d.
1230/1815)は「通説では彼らから税を受領できる」、と注釈している[al-Dus¹qµ n.d.: 2:201]。4学派の通説については[MuÆammad Khayr,
1417/1996: 3:1456-1457]。
[8] またハンバリー派の ムスタファー・アル=スユーティー・アル=ルハイバーニー(d.
1240/1824-5)のGh±yah al-Muntah±は「背教者」章の中でカルマト派を不信仰者と断じており、ハサン・アル=シャッティー(d. 1274/1858)によるその注釈Ma»±lib ¸lµ al-Nuh±はヌサイリー派、イスマーイーリー派、ドルーズ、タヤームナなどの名を挙げ、「・・・どれも似たような信条を有しており、ムスリムたちは彼らが不信仰者であることで合意しており、彼らが不信仰者であることを疑う者もまた彼らと同類の不信故者なのである、なぜなら彼らはユダヤ教徒やキリスト教徒より不信仰の度が激しく、啓典の民とは異なり、彼らとの結婚は許されず、彼らの屠殺肉は食べられず、税を納めようと免税であれ、『イスラームの家』の内部での定住は許されないからである。」と述べている。[Mu»af± 1994/1415:
6:282-285]
[9] 但し庇護とは、共同体レベルの子々孫々に及ぶ永住権であり、個人レベルの1年以内の一次的な滞在の安全保障(am±n)に関しては「多信教徒の一人が汝の許に保護を求めるなら、彼がアッラーフの御言葉を聞けるように、保護してやれ」(クルアーン9章6節)を典拠に全ての不信仰者に与えられことがスンナ派とシーア派の双方によって認められている。
[10] al-Nih±yah, al-SarÕir, al-Wasµlahでは「戦闘(qit±l)」、「闘い(muj±hadah)」の語が「ジハード」と互換的に用いられており,またal-Nih±yah, al-SarÕirでは不信仰者との戦闘、戦いが義務であるのに対して叛徒との戦闘、戦いは単に「許されている」に過ぎない[ÔAlµ Aghar
Marw±rµd
1406(h): 50,53,173,195]。
[11] キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒をal-Mukhtair al-N±fiÔはahl al-Kit±b, Qaw±Ôid al-AÆk±mはdhimmµと呼んでおり、al-LumÔah al-Dimashqµyahは宗教名を挙げずにただkit±bµの範疇名のみを使っている。他の法学書は、キリスト教徒とユダヤ教徒を「啓典を持つ(la-hu kit±b)民」、ゾロアスター教徒を「啓典に類する物(shibh
kit±b)を持つ民」として区別した上で、ジハードと庇護の規定においては両者は等しい、と論ずる[ÔAlµ Aghar
Marw±rµd
1406(h): 72, 87, 127, 158-159, 167, 191, 202, 226, 245, 273]。
[12] 但し「敵性異教徒(Æarbµ)」の語を用いているのは、Qaw±Ôid al-AÆk±mとal-LumÔah al-Dimashqµyahのみであり、単に「啓典を持たない者」、「キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒を除く残りの不信仰者」と呼ぶことが一般的である[ÔAlµ Aghar
Marw±rµd
1406(h): 50, 61, 72, 87, 127, 158, 167, 192, 203, 227, 244, 273]。
[13] 但しal-Nih±yahでは不信仰者との戦い(qit±l, muj±hadah)が義務であるのに対して、叛徒との戦闘は「許されている(j±za)」に過ぎない。
al-º¹sµのal-Mabs¹»は例外的に独立の「背教者との戦闘」章(kit±b Qit±l Ahl al-Riddah)を設けているが、内容は他書の背教節と殆ど同じであり、戦闘に関する記述は、「ムスリムがユダヤ教であれ、キリスト教であれ、ゾロアスター教であれ、邪教(zandaqah)であれ、無神論(jahd)であれ、理神論(taÔ»µl)であれ、偶像崇拝であれ、いかなる不信仰であれ、イスラームから不信仰に転向した者は、決してその改宗を認められず、処刑しなければならない。・・・中略・・・」との背教の規定の後に続く、「背教者たちが城砦を構えていれば、教友たちの合意に基づき、イマームは敵性異教徒の生来の不信仰と戦う前に彼ら(背教者)との戦闘に取掛からなくてはならない」との一文に過ぎず、ジハード章の不信仰者との戦闘の規定の補足と言うべきものである[al-º¹sµ 1451(h.sh): 8:71]。
[14] [ÔAlµ Aghar Marw±rµd 1406(h): 19]。またal-º¹sµも叛徒討伐の典拠となるクルアーンの節「もし信徒たちの2党派が相争うなら両者の間を仲裁せよ。もし両者の一方が他方に対して無法を働くなら、アッラーの命に帰順するまで無法を働く方と戦え。そして帰順したなら両者の間を正義をもって仲裁せよ。まことにアッラーは公正な者たちを愛し給う」(49章9節)が「無法を働く党派」即ち「叛徒」を「信徒たち」即ち「ムスリム」と呼んでいることから、叛徒をムスリムと看做すスンナ派の論証を「我々の見解では誤りである(Ôinda-n± b±»il)」断じている[al-º¹sµ 1451(h.sh): 7:262]。
またアル=ムルタダーは「我々(シーア派)の見解では、アッラーを知ること、預言者(ムハンマド)を知ることが義務であり、彼への服従が課されるのと同様に、イマームを知ることが義務であり、彼への服従が課される。またそれら(アッラーと預言者の認識と服従義務)の知を否定し、疑うことが不信仰であり、その(イマームの認識とその服従義務の)知も同じなのである。」と述べている[ÔAlµ Aghar Marw±rµd 1406(h): 19]。また19世紀の碩学アル=ナジャフィー(d.1266/1892)も「イマーム職に関する我々の原則に反する」として叛徒がムスリムであることを否定している[MuÆammad Åasan al-Najafµ 1981: 21:323]。
[15] シーア派法学の定義でも「イマーム」は、以下の文献にあるように通常は「公正なイマーム」と表現される。Cf., al-Sharµf al-Murta½±, al-Inti±r. al-º¹sµ, al-Nih±yah. al-Jumal wa al-ÔUq¹d. Ibn al-Barr±j, al-Muhadhdhab.
al-R±wandµ, Fiqh al-QurÕ±n. Åamzah bn ÔAlµ, al-Ghunyah. Ibn
Idrµs, al-SarÕir. ÔAlµ bn Abµ al-Fa½l, Ish±rah al-Sabq. al-MuÆaqqiq al-Åillµ, Shar±ÕiÔ al-Isl±m. al-ÔAll±mah al-Åillµ, Qaw±Ôid al-AÆk±m[ÔAlµ Aghar Marw±rµd 1406(h): 19,34,88,157,173,
185, 195, 216, 225,267]. 稀な場合として単に形容詞なしの「イマーム」である。Cf., Ab¹ Zakariy± Yahy± Ibn SaÔµd al=Hudhalµ(d.689/1290), al-J±miÔ li-l-Shar±ÕiÔ[ÔAlµ Aghar Marw±rµd 1406(h): 238].「無謬の(maÔ¹m)イマーム」と明記しているal-LumÔah al-Dimashqµyahは例外であるが、上述のアル=ムルタダーの言葉にあるように、「イマーム」が無謬の12イマームを指すことは暗黙の前提である。
[16] 字義通りにはハナフィー派は「背教のアラブの多神教徒以外について」との限定を付けている。またアラブの多神教徒、偶像崇拝者は初代カリフ・アブー・バクル(d.634)の背教戦争以降は存在しないため、実際にはハナフィー派とハンバリー派の少数説では全ての不信仰者を庇護民として受け入れている。なお、シャーフィイー派はシーア派と同じくキリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒のみに庇護民の地位を認めている[MuÆammad Khair,1996/1417:
3:1456-1457]。
[17] Cf., al-Nih±yah, Shar±ÕiÔ al-Islam, Qaw±Ôid al-AÆk±m[ÔAlµ Aghar Marw±rµd 1406(h): 54, 217,
267].
[18] Cf., Shar±ÕiÔ al-Islam, Qaw±Ôid al-AÆk±m[ÔAlµ Aghar Marw±rµd 1406(h): 217, 267],
[Wahbah 1985/1405: 6:146]。
[19] Cf., [al-º¹sµ 1451(h.sh): 7:274], Shar±ÕiÔ al-Islam, Qaw±Ôid al-AÆk±m[Alµ Aghar Marw±rµd 1406(h): 217, 267].
[20] Khaledも「叛徒の処遇に関するシーア派の言説は実質的にスンナ派の教説と類似している。」「叛徒に適用される交戦規定はむしろ寛大である。」と述べている。[Khaled
2003 :219,221]
[21] 「要するに文献上『休戦の時代(zam±n al-hudnah)』と呼ばれる今の時代においては、彼ら(叛徒)に対して、浄化、屠殺肉の食用、結婚、財産の不可侵などにおけるムスリムの諸規定の全てが適用されるが、真実が勝利する時が至るまでであり、その時には、彼らには敵性不信仰者の諸規定が適用されるのである。」[MuÆammad Åasan al-Najafµ 1981: 21:337-338]
Khaledは叛徒の戦死者の埋葬についてのアル=トゥースィーの言葉を解釈して「死んだ叛徒は不信仰者であるため葬儀の礼拝を挙行されてはならない。それゆえ、叛徒は現世の(temporary)法律上は外面的には信徒のままであるため、地上ではムスリムとして扱われるが、来世に関しては彼らは内面的には不信仰者であるため、彼らの法律行為は無効である。」と述べているが、アル=トゥースィーが「葬儀の礼拝が挙げられない」と述べているのは、叛徒一般についてではなく、その中でも叛徒討伐戦における戦死者の場合である。問題は現世の判断と来世の判断の相違ではなく、イマーム軍と実際に矛を交えている戦闘状態にあるか否かの相違である。つまり、イマームとの実際の戦闘にその時点で従事しているのでない者とは異なり、イマームに背いて現実に戦闘中であった叛徒は現世の規定においても不信仰者なので、葬儀の礼拝が行われないがことが特に明記されているのである。アル=ナジャフィーは「第一は葬礼が挙げられる者で、それは二つの信仰告白を明言した者全てである」とのアル=ムハッキク・アル=ヒッリーの言葉を注釈し、「叛徒の戦死者はその不信仰故に葬礼を挙げない」とのアル=トゥースィーの言葉を引き、「叛徒討伐においても一般論により、また万全を期して(iÆtiy±»)、葬礼が挙げられる」との説と対比し、「後者においては前者と異なり、その叛逆(baghy)が不信仰にまでは達していない者が意図されているのであれば、矛盾は解消される」と述べており、叛徒の戦死者の中にも重罪で不信仰者の扱いを受ける者とそうでない者の区別があることを示唆している。[Khaled 2003 :223-224, al-º¹sµ 1451(h.sh): 7:275-278, MuÆammad Åasan al-Najafµ 1981: 12:2]
なお葬儀の礼拝を行わないことは必ずしも叛徒を不信仰者とみなすことにはならない。スンナ派ハナフィー派でもアリーの洗礼に倣い叛徒には葬儀の礼拝を行わない。[ÔAbd
All±h bn MaÆm¹d bn Mawd¹d n.d.:1:98]
[22] 例えばアブー・アル=ムイーン・アル=ナサフィー(d.508/1115)は「ハディース学派(この文脈では法学的にはシャーフィイー派、マーリキー派、ハンバリー派に属するアシュアリー神学派)は『私は至高なるアッラーが望み給うなら私は信仰者である」と言う』・・・中略・・・『至高なるアッラーが望み給うなら私は信仰者である』と述べれば、その者は不信仰者である。なぜなら彼は自分の信仰を疑っているからである。」と述べている[Maym¹n
2000/1421: 153-154].
またウマル・アル=ナサフィー(d.537/1142)は「『アッラーが望み給うなら私は信仰者である』と言うべきではない(l± yanbaghµ)」と述べており、アル=タフターザーニーはそれを注釈して「なぜならもしそれが疑念に基づくのであれば確実に不信仰であり、礼節等(中略)によるのであるなら疑念であるとの誤解の余地があるので避けるのがより相応しいからである」と述べている。[al-Taft±z±nµ 1329(h)
1:186]
[23] アル=ナジャフィーは12イマームへの信仰について、特殊12イマーム派的信仰(µm±n akha)とは、12人のイマーム全員への信仰であることを明らかにし、この特殊12イマーム派的信仰が神事(Ôib±d±t)の有効性の条件であると述べているが、同時にイマームへの信仰の欠如によって義(Ôad±lah)は失われるが、火獄への永住を帰結する不信仰が確定するわけではない、と述べている。[MuÆammad Åasan al-Najafµ 1981: 13:273, 3:39,
13:273-274.]
12イマーム派以外の宗派の「不信仰」については、アリーと戦ったムスリム(ahl al-qiblah)についての「彼らが不信仰者か」との質問に対するアリーの「彼らは諸規定に対して不信仰であり、また御恩に対して不信仰に陥っているが、それは預言を否認し、イスラームを認めない多神教徒の不信仰とは違う」との回答が引用されているのが参考となろう。
[MuÆammad
Åasan al-Najafµ 1981:
21:338]
彼はまた既述の「第一は葬礼が挙げられる者で、それは二つの信仰告白を明言した者全てである」との句から除外される範疇として、過激シーア派(ghul±h)とハワーリジュ派のみを名指ししている。[MuÆammad Åasan al-Najafµ 1981: 12:2]
他方、特殊シーア派的信条に関しては、「宗徒による(min dhµ al-madhhab)一時婚のような宗派の自明事項の否認によっても背教が成立する。なぜなら『宗教(dµn)』とは『人がよって立つところのもの(m± huwa Ôalai-hi)』だからである。12イマーム派宗徒による彼ら(12イマーム)の一人の否認もその中に入ろう。」[MuÆammad Åasan al-Najafµ 1981: 41:602]
と述べ、シーア派信者がそれを否認した場合は、背教となる、としている。
またアル=アッラーマ・アル=ヒッリーも、イマームと武力によって戦ったのではなくそのイマーム位を認めなかっただけの者に関しては、不信仰者とみなすより、悪人とみなす方がより有力である、と述べている。[al-ÔAll±mah 1399/1979: 423]
[24] 但し前近代に書かれた浩瀚な法学書でもY¹suf al-BaÆrainµ(d.1186/1772)のal-Åad±Õiq al-N±½irah fµ AÆk±m al-ÔUtrah al-º±hirah(25vol.)及びÅusain al-BaÆrainµ(d.1216/1802h)によるその補遺ÔUy¹n al-Åad±Õiq al-N±½irah(2vol.)のようにジハード論を欠くものもある。
[25] アル=ルーハーニーはコム在住の大アヤトラの一人であるが、彼のホームページ(http://www.rohani.ir/home/)によると、1926年に生まれ、ナジャフの故アル=フーイー(d.1992)の弟子である。
[26] 「(ジハード開戦には)その(イマームの)許可と存在が条件となることを示す伝承は、先制ジハードのことを指していると解釈される。」[MuÆammad Åasan al-TarƵnµ 1995/1416: 3: 621, cf., Al-Shahµd al-Th±nµ: 2:381, Abdulaziz
1988:110].
[27] 「質問1083:無謬のイマームの幽陰期における先制ジハード(jih±d ibtid±Õµ)の規定は何でしょうか。有資格の権力を持つ法学者、つまりムスリムの統治者(walµ amr al-muslmµn)は、その決裁が許されるのでしょうか。
回答:ムスリムを統治する有資格の法学者が公益がそれを要請すると判断した場合にはその裁可が許されるとの説は無理ではない。いやむしろその説がより有力なのである。」
Ô±lµ al-Åusainµ
1996: 317]
[28] 但し、マカーリムはその『レサーレ(法学回答集』においては、ジハード章を設けておらず、ホメイニーと同様に「勧善懲悪と自衛」章を立てて、自衛の一形態として防衛ジハードについて論じているが、その内容はホメイニーの言葉の簡潔な要約に過ぎない。但し、ホメイニーは防衛ジハードには「イマームの存在も、その許可も、その特定代理の許可も、不特定代理の許可も条件とはならない」と伝統法学の用語で論じていたが、マカーリムは「聖法の統治者(Ʊkim-i sharÔ)の許可の必要はない」と述べ、「イマーム」と「イマームの代理」に替えて「聖法の統治者」という新しい用語を導入している。[Mak±rim 1376: 481]
[29] なお本書は、故アル=フーイーの『ジハードの書』に対するムハンマド・フサイン・ファドルッラーの注釈の草稿を息子のアリー・ファドルッラーが編集したものである。
[30] taÕwµlの意味については、拙稿参照。[中田考1988:
p.4]
[31] 「イスラーム原理主義」なる概念をファドルッラーの思想に当てはめることの不適切については、拙稿「イスラーム原理主義 - 歪められた実像」で既に詳しく論じた。[中田
2006: 176-180]