イスラームのロジック

 

前書

 21世紀の日本はイスラームとの衝撃的な出会いによって幕を開けた。

 1月には正月開け早々、インドネシアで、現地の「味の素」が製造過程に豚の酵素を使用していた事実が明るみにで、現地法人の日本人役員が逮捕され、街頭での抗議行動が報道じられた。

  4月には、アフガニスタンのバーミヤンの仏像がターリバーン・イスラーム政権によって破壊されると報じられると、国際的な非難の中で、日本でも官民をあげた抗議の声が沸き起こった。

  5月には、富山でパキスタン人のモスクから、イスラームの聖典クルアーンのウルドゥー語訳が盗まれ、破断され路上に投棄され、在日パキスタン人たちが、東京で抗議デモを行い、外務省に押しかける姿がテレビで大きく映し出された。

そして9月13日、ワシントンの国防総省と、ニューヨークの貿易センター・ビルにハイジャックされた旅客機が突っ込み、日本人数十人を含む数千人の犠牲者が出るテロ事件が発生し、それをアメリカがイスラーム武装闘争派ネットワークの反抗と断じ、戦争を宣言し、日本政府もアメリカに同調した。

これらの一連の事件は、21世紀の日本は、好むと好まざるとにかかわらず、もはやイスラームを無視しして済ませることはできない事実を我々の眼の前に突きつけるものであった。

ターリバーンの仏像破壊のエピソードが、人類学者青木保の『異文化理解』(岩波新書、2001年)の巻頭にも引用されているように、イスラームが異文化であることは、自明のようにも見える。しかし本書はそうした立場を取らない。

 法哲学者土屋恵一郎は、インドネシア人男性と結婚してインドネシアに渡った日本人の元ゼミ生の帰国歓迎会で、豚肉入りサラダを彼女のお皿の上に渡そうとし、「イスラム教徒だから」と言って断られた体験を『ポストモダンの政治と宗教』(1998年岩波書店)の冒頭で紹介し、その時の衝撃を以下のように述べている。

 

 「あっ、そうか」と小さく叫んでしまったのは、私である。

 それは迂闊にもまったく予想していないことだった。

 イスラム教の聖典である『コーラン』に、豚肉を食べることを禁ずる言葉があることを知らなかったわけではない。インドネシアにイスラム教が勢力をもっていることを知らなかったわけでもない。ただ、もっと単純に、日本人である彼女がインドネシア人と結婚したことで、「イスラム教徒」になったことにまったく考えがおよばなかったのだ。「日本人」であることと「イスラム教徒」とを結びつける回路がまったく私のなかになかったのだ。・・・中略・・・

 そこには、「日本人」は変わりなく「日本人」であるという固定観念があった。・・・中略・・・自分がどの世界に属しているのかという「アイデンティティー」の根拠は、つねに変化しているのだし、移動しているのだ。・・・

 

 

 この挿話は、日本における従来のイスラーム認識の在り方の問題点をはからずも浮き彫りしている。

 「イスラーム教では豚肉はタブーである」、「イスラーム教はインドネシア人の多数を占める宗教である」といったイスラームに関する我々の知は、「客観的知識」として「異文化」のカテゴリーの項目にファイルされ、その時点でイスラームは「我々」「日本人」とは無関係なものとなり、両者の観念連合の回路は遮断される。つまり異文化としてのイスラーム認識には、イスラームを我々自身の主体的問題として考える契機が欠けているのである。

 ところが日本神道や、ユダヤ教、ヒンズー教のような民族宗教と違って、イスラームが普遍宗教であるとすれば、このような態度は対象の正しい認識を妨げるものである、と言うことができよう。イスラームを正しく理解するためには先ず、全人類に向けられた普遍的メッセージとしてイスラームに向き合う必要がある。

 とはいえ普遍的メッセージとしてイスラームを理解する、ということは、イスラームを、慈悲、寛容、正義等の内容空疎な抽象概念に還元することでもなけば、イスラームの中に日本文化を読み込む日本宗教の万教同根的発想の安易な折衷を意味するわけでもない。

 普遍的メッセージとしてイスラームを理解するとは、異文化と対峙する緊張感を失わず、イスラームと日本文化の双方を相対化した上で、日本語によって「イスラームのロジック」を再構成する道を模索することを意味し、そしてそのことが本書の目的となる。

 有限な生物の情報処理能力に比して環境世界はあまりに複雑であり未来は不確定である。それゆえ生物には環境制御のために世界の複雑性と未来の不確定性を縮減する必要が生ずる(N.ルーマン)。生物はそれぞれの種に固有の複雑性、不確定性の縮減装置を有するが、人間においては縮減は感覚器による縮減(身分け)、言語による(言分け)の二重構造を有する(丸山圭三郎)。この二重の縮減によって過剰に複雑な混沌(カオス)は有意味な構造を持つ「宇宙秩序(コスモス)」として立ち現れるが、複雑性、不確定性の言語による縮減によって人間は「自然(ピュシス)」を越えて、より複雑な世界、すなわち「社会秩序(ノモス)」をも認知、構成、制御することが可能になる。

人間の世界認識は、環境世界の複雑性の過剰を無意味な混沌として捨象、隠蔽し、認識処理可能な有意味なコスモスにまで縮減することによって始めて成立する。従って世界の開示と世界の隠蔽は表裏の関係にあり、有限な人間の言語の本質に属する。言語・文化とは世界を開示しつつ隠蔽するものであるならば、日本語もその例外ではありえない。

 日本語というヴェールは先ず、日本語の描く世界が「日本語の描く世界」でしかなく「世界」自体ではないという自明の事実を我々の意識から隠蔽する。我々はこの隠蔽作用に抗し、日本語で書かれ理解されたイスラームが、日本人の目に映る、あるいは日本文化の枠組に嵌め込まれたイスラームでしかない、との前提を常に意識化し続けなくてはならない。

 とは言え、「日本語で理解されたイスラームが、日本人の目に映る、あるいは日本文化の枠組みに嵌め込まれたイスラームでしかない」、との「事実」を見据えることは異文化理解のペシミズムを必ずしも意味するわけではない。

 言語・文化は永遠不変ではなく、常に生成変化しており、自文化と異文化には永久不変の境界、堅牢な壁は存在しないからである。イスラーム世界でも何世紀にもわたるイスラーム文化の同化の努力の結果、ペルシャ語、トルコ語、マレー語等がイスラームを表現し得る媒体に鍛え上げれれていったことが何よりもこのことを示している。

 目を我が国に転じても、日本は漢字を取り入れ中国文化を学ぶ過程で漢字という中国語の文字コードを用いて書かれた作品をそのまま語族を異にする日本語コードを用いた訓読の「漢文」に変換する希有な解読技術を発明し、漢字文化圏の一部と正当に見做しうる文化を育むことに成功している。

 「日本語で理解されたイスラーム」と「イスラーム」とは確かにどこかで重なり合っており、重なる領域を増やしていくことはきっと可能に違いない。たとえそれを判定する最終審級がこの世に存在しなくとも。

 日本人による「異文化」としてのイスラーム理解が、イスラームのメッセージの普遍性を覆い隠すヴェールであることは既に述べた。しかしイスラーム世界ではちょうど逆のことが生じる。イスラームと自文化の同一視もまたイスラームのメッセージの普遍性を隠蔽する別種のヴェールである。

 イスラームとはアラビア語では「アッラーフへの絶対帰依」を意味する。しかしイスラーム世界においてのイスラームとは、そのような実存的決断に基づく絶対者との関係であるよりは、まず自分が生み落とされた所与の現実、自明の日常世界の一部である。ところが通常その両者、いわば「信仰としてのイスラーム」と「文化としてのイスラーム」の乖離は意識化されないままに混同され、特定の時代の特定の地域のイスラーム文化でしかないものが、その文化の担い手にはあたかも普遍的に妥当するイスラームであるかのように映る、という現象が生ずる。このような個別文化の独善的ショービニズムもイスラームの普遍性を覆い隠すベールなのである。

 それゆえ日本文化の中で「イスラームのロジック」を再構成するとの我々の目的を達成するためには、その前提として、イスラームを異文化とみなす「不変の日本」の幻想の呪縛から逃れると同時に、個別イスラーム文化の掲げる普遍性要求をも拒否しなくてはならない。

 イスラームの理解を妨げるヴェールはこれらに尽きるわけではない。

 戦後日本のイスラーム学は、欧米のオリエンタリズムの輸入から出発した。欧米のオリエンタリズムは、十数世紀にわたる西欧キリスト教世界のイスラームへの根深い敵意と蔑視の刻印を色濃く残すばかりか、イスラーム世界の植民地主義的支配のための道具でもあった。日本のイスラーム学は、このような西欧のオリエンタリズムの価値観を内面化することにより、西欧文化のレンズを通して見たイスラームを日本文化のレンズを通して見ることにより、いわば二重のヴェールによって対象を覆い隠しているのである。

 それゆえ「イスラームの理解」はこれらのヴェールの層を剥がしていくことことから始まらねばならない。そしてこれらの作業を通して行われる「イスラームの理解」はもはや「他者の理解」ではない。解釈学の使命が他者の生の追体験ではなく「地平融合」(ガーダマー)にあることが明らかにされた現在、日本に於けるイスラーム研究の目的も、他者の思想体験の再構成としての「イスラームの理解」から、日本文化とイスラーム文化の「地平融合」へと再設定されねばならないのである。

 しかし自文化の源流の研究を自認する西欧古典学の出自故に、ともすれば予定調和的に「地平融合」を前提しがちな西欧の「解釈学」と、我々のイスラーム研究とでは、その内実も自ずから異ならざるをえない。本書の目的とする「地平融合」とは、先ず何よりも解釈学的反省、つまり日本語/文化が隠蔽するものを、イスラームを触媒にその異化作用によって明るみに出すことにある。

 言語文化の隠蔽作用は、言語・意識上の隠蔽にとどまらず、時としてその言語が構成する世界像を脅かす「逸脱」への社会的抑圧にも転ずる。それゆえ本書の目指す解釈学的反省の射程は狭義の「文化」を越えて社会・政治にも及ぶことになろう。

 1999年のインドネシアのスハルト政権の崩壊によって1兆円とも5兆円とも言われる想像を絶するスハルト一族の汚職、不正蓄財が白日の下に晒されたが、現在のイスラーム世界の国々は、王制であると共和制であるとに関わらず、例外なく構造的に腐敗した軍事独裁政権であり、言論の自由は存在せず、マスコミや出版は政府の厳しい統制下にあり、独裁者の批判者は物理的に抹殺され、闇から闇へと葬られる。

 このような世界では、権力による人権蹂躙、言論の弾圧の客観的情報が外部に漏れ伝わってくるのは、権力が弱体化し、弾圧が緩んだ時であり、従って人権蹂躙、言論弾圧の「客観的」情報か伝えられる国ほど、相対的に政治的自由が存在し、逆に体制が抑圧的であればあるほど、「客観的」には人権蹂躙、言論弾圧は「見いだされず」、自由、平等、民主主義の存在が吹聴される、という逆説が生じる。

  自由な発言と対等な討議に基づく間主観的な合意形成による「客観的」認識の達成が、権力関係の介在による抑圧のない理想的コミュニケーション状況(ハーバーマス)において初めて可能になる以上、抑圧的体制下では、言論は構造的に歪んだものとなり、それは必然的に認識の歪曲を生み出す。

  「政治的『争点』の範囲そのものを管理する権力」の存在するところでは、たとえ「意志決定過程が多元的であるとしても、それは、紛糾を招きかねないような争点が、権力によって予め排除されているから」に他ならず「権力をおよぼされている人々は、自らの利害の争点化」自体を、「権力によって阻止されて」いるばかりか、自らの真の利害について認識することを「権力によって阻まれている可能制すらある」(杉田敦『権力の系譜学』岩波書店63-64頁)。

 国家は本質的に暴力機構であり、まさに暴力の独占こそが「近代国民国家」の本質をなすとも言える。しかし国家が暴力装置であることにおいては本質的に同一であっても、自由・民主主義体制を取る「西側先進」諸国と、旧共産圏及び第三世界の国々の間では国家の暴力性の表象には顕著な差異が見られる。前者の国々では既に「国民」形成の過程で、政権へのラディカル(根底的)な反対者、異質な要素の根絶は予め完了しているため、現行の秩序の維持には「通常「犯罪者」に対する以外には「生の暴力」は顕在化しない。これらの国々では現在は「シビリアンコントロール」の理念が名実ともに浸透しており、市民の日常生活の中では軍や警察の姿はあまり目立たず、国民の自発的な合意、「社会契約」のフィクションが支配の正当性の根拠として強調され、国家が暴力装置であることは隠蔽される傾向が強い。

 他方、旧共産圏及び第三世界の国々の間では、国家の支配は剥き出しの暴力性の誇示によって支えられており、イスラーム世界の諸国家もそうである。これらの国々では、そもそも多くの場合為政者は軍部の出身であり、軍と警察が政権の主たる支持基盤であるという意味で、国家は出自からして明白な軍事・警察国家であり、また街角の隅々まで制服の警官と軍人が配備され市民を威嚇し監視の目を光らせており、戒厳令体制が常態であるなど、国家の暴力性は可視的であるばかりか、むしろこれみよがしに強調されている。つまりこれらの国々は言葉の本来の意味でテロ(恐怖政治)国家なのである。そして剥き出しの暴力によって体制が維持されるテロ国家である点においてはイスラーム世界の国々は、サウディアラビア、モロッコなどの王政諸国の、伝統に依拠する「専制」体制も、イラクやリビヤのような共和制国家の、人民の名によって支配する全体主義的「独裁」体制も、また政治体制のイスラーム化が謳われているイランやスーダンの「イスラーム国家」体制も、世俗主義のトルコのケマリスト体制も、全て共通しているのである。

 100万人を越える殉死者を出した独立戦争の末の1962年のアルジェリアの独立をもって、西欧帝国主義列強によるイスラーム世界に対する直接的植民地経営はほぼ姿を消し、1991年にはソヴィエト連邦の崩壊により、ムスリムが多数を占める中央アジアの5つの共和国がロシアの支配から独立した。しかしイスラーム世界の直接的な植民地支配の終焉は、より隠微な間接的な政治・経済・文化的支配に取って代わられただけであった。

 つまり今日のイスラーム世界の抑圧は、欧米による外部からの「隠微な」間接支配と、内部の軍-治安警察国家群の支配階層による「露骨な」強権的弾圧という重層構造を有していることになる。

 イスラーム世界の外と内からの言論と認識の重層的抑圧に基づくイスラームに関する情報の構造的歪曲、ディシプリンとしての欧米オリエンタリズムと我々の世界認識の基底にある日本文化という二重の認識枠組の介在による誤解の増幅。

 イスラームの認識を歪めるこれらのヴェールを仮に「空間的」と呼ぶとすれば、イスラーム認識には「時間的」なヴェールもまた存在することを忘れてはならない。

  「『最後の時』が間近に迫る時、知識は滅び、無知が蔓延り、騒乱や流血の暴動が増えるだろう」

 「アッラーは学者たちを死に絶えさせることでイスラームの知を取り去り、無知な者を人々の指導者につけ給う。彼らは知識もなく人々に教義を説き、自ら迷妄に陥ると同時に人々をも惑わせる。」

 預言者ムハンマドの言葉である。

 イスラームの使信、メッセージはアダム以来、アブラハム、モーゼ、イエスなどの預言者たちによって段階的に人類に伝えられてきたが、最後の預言者ムハンマドをもってその最終形態を取る。そして預言者ムハンマドの逝去後には、イスラームの使信を保持・伝承すべきムスリム共同体の間でも、その知は徐々に失われていく。ムスリム共同体はイスラームの知を喪失するのみならず、それを歪曲、改変することによって、真のイスラームのメッセージを隠蔽する。ムスリム共同体による歪曲、改変から生ずるノイズは歴史と共に増幅され、厚いヴェールとなってイスラームの原メッセージを覆い尽くす。そのノイズの堆積こそが、既に述べたイスラーム世界の抑圧の現状であり、またムスリム諸民族の個別文化の独善的ショービニズムなのである。

 「全体は部分から認識されるが、そもそも部分が認識されるためには全体が認識さればなならない。あらゆる理解には「先行理解=先入見(vorurteil)」が前提されており、そうして齎された理解は次なる理解のための先行理解=先入見となる。」 

 我々の認識が、「解釈学的螺旋(hermeneutishe Spirale)」に則り、「先入見と理解」と「全体と部分」の間を往復しつつ進展するものであるなら、我々のイスラーム理解は、先ずイスラームを認識の対象としようとする20世紀に生きる日本人としての我々自身の認識視座、我々のイスラームに関する個別の事象の認識を成り立たしめる「イスラーム」そのものの漠然としたイメージ、「先行理解=先入見」への反省から出発するべきであろう。

 そこで本書では、類書とは逆に、イスラームの教義、歴史の先んじて「イスラームと現代世界」、「イスラームと日本」を論じ、我々の認識の依って立つ場を明らかにし、しかる後に、イスラームのメッセージがいかにして我々の許に伝えられたか、という問題意識に沿って、アッラーフ、預言者ムハンマド、ウンマ(イスラーム共同体)の歴史、の順にイスラームの教義と歴史を解説する構成を取る。

 本書は安易な「イスラームの理解」の主張を方法論的に拒絶し、日本文化の解釈学的反省を目標に掲げる。しかしこのことは日本文化の閉空間への自閉の主張を意味しない。

 「語り得ること」と「示され得る」ことを区別したヴィトゲンシュタインにならって言うならば、本書の目的は、日本語/日本文化の中では未だ「語ることが出来ない」イスラームの存在を本書の彼方に「指し示し」、その探求へと読者を誘うことにある。

 

1.イスラームと現代世界

 本書では、預言者ムハンマドの時代から説き起こし現代イスラームに至る、類書の構成とは逆に、現代から話を始める。何故か。

 時間は不連続な不可分の点の系列であり、世界はこの不連続の時間の点の系列の中において、一瞬語毎に無から創造されその度に消滅し、それを繰り返す。イスラーム神学で言うところの「時間原子論」である。

 過去は存在しない。存在するのは「過去の痕跡」を刻んだ「今」のみである。過去とは、遺跡、文書、記憶の等、現存する事物から再構成された架空の表象に過ぎない。他方で、森羅万象は過去の痕跡を刻み込まれており、現在の世界の総体が過去の世界の痕跡に外ならない。

 ここにも解釈学的循環の変奏が顔を出す。我々の語る「過去」は、我々の意識に現前するものの総体「原-現在」から、特定の表象が「過去」として切り分けられ再構成されたものであり、同時にこの「過去」と照合することによってのみ特定の表象が「現在」として再構成される。現在とは「原-現在」と「現在」の二重構造を持ち、「過去」はこの構造中に組み込まれており、この二重の「現在」の理解なくしては「過去」の理解もあり得ない。

 「過去」の理解が「現在」の理解と不可分であるなら、「イスラームの歴史」の理解も、「現代」の理解を前提とする。現代世界の記述をもって本書を始める所以である。

(1)「現代」の光と闇

 我々は「現代」を、科学、ハイテク、消費、平等、民主主義、自由、脱産業化、情報化、国際化等のイメージと共に「自由で豊かな」世界として描きがちである。しかしそれは現代の一面に過ぎず、「『豊かな社会』の高度化しつづける消費水準が、世界の半分の飢えをつくりだすメカニズム」(見田宗介『現代社会の理論』岩波新書92頁)により、世界人口の20%を占めるのみの所謂「先進国」の住民が商業エネルギーの80%を消費する一方で、世界人口の半数がハイテク製品は言うに及ばず十分な食物にも事欠く生活を送っており、世界人口の約5分の1が1日当たり1ドル以下の生活費で暮らす「絶対的貧困」の状態にあり、飢餓人口は約8億人を数える。

そしてこれらの国々では通常、経済的貧困のみならず、軍事独裁体制化の圧政下での言論の自由、政治参加の抑圧、そして時としては数十家族で国土の大半を所有するに至る凄まじい社会経済的不平等が存在している。そして国家とは単独で存在するものではなく、世界を覆う国民国家システムの一部としてしか存在しない以上、非西欧諸国のこうした体制は、西欧諸国の外交的認知と経済援助によってのみ存続している、つまり西欧諸国によって不断に再生産されているのである。

 残りの世界に貧困、抑圧、不平等、独裁を割り振り、「先進諸国」のみが「繁栄」、「自由」、「平等」、「民主主義」の達成を誇らかに謳歌し、その事実自体を意識化に抑圧し隠蔽している世界システムこそが「現代」なのである。

 我々の「現代」は「世界」から「非-現代」を排除することによって成立する。「現代」とは西欧文明の恩恵に与かる地、即ち「欧米(+日本)先進国」であり、「非-西欧文明」は「野蛮」、「未開」、「伝統」として「現代」と対立する「非-現代」として表象されるか、あるいは端的に意識から隠蔽される。そしてこの「認識上の」歪曲、隠蔽は、「現代」の持つ構造的矛盾、つまり「現代」の「闇」を外部化し、「非-西欧」に押し付ける「現実の」政治/経済/文化/社会/環境における支配と搾取の構造と軌を一にしているのである。

 中国、インド、アフリカ、そしてイスラーム世界での思想的営為に一瞥もくれることなく欧米の思想を紹介しただけのものが「現代思想」として通用する今日の日本の思想状況もまた、この「現代」の認識構造の必然的帰結である。

  闇は「未だ」光が届かぬ所ではない。光と闇は現代が同時に生み出した不可分の一対であり、「現代」の光と闇を共に見据え、我々はイスラーム世界を我々の住むこの「現代」の不可分の構成部分として把握する。

 

2)「野蛮」の現代

 「防衛大学の教科書にも引用されている米年報「ワールド・ミリタリー・アンド・ソーシャル・エクスペンディチャーアズ」によれば世界の推定戦死者数は次のように増えてきた。

 十六世紀、百六十万人。

 十七世紀、六百万人。

 十八世紀、七百万人。

 十九世紀、千九百万人。

 二十世紀、一億七百八十万人。

 この数字は、文明が進歩するほど戦死者が増え、二十世紀という文明の頂点が史上最悪の野蛮な世紀となったことを示している。」(1999年8月15日付朝日新聞日曜版)

 中東史家三木亘は「野蛮」を「価値観の違う文明・文化の一方的押しつけ」(55頁)と定義し、「『文明』が過飽和になると『野蛮』が生み出されていく」と言い(15頁)、近代西欧文明を野蛮の「全面発生期」、第一次世界終結後現在に至るアメリカ、ロシア、日本という「近代西欧文明の破産管財人が主人面をする」時期を「『野蛮』のまっただなか」と呼び(16頁)、近代西欧文明は「人類破滅にいたる袋小路」を招来し「役目を果たし終え」、「ローカルな文化に沈降しつつある」と分析する。

 この「野蛮」は、おそらく近代西欧キリスト教文明の性格に直接に由来するものであろう。

 アメリカの政治学者ダルマイヤーは言う。

 

  コロンブスの後悔を記念するムードの最中にあって、われわれは思わず知らず罪悪感と共犯意識に襲われ、そしてさいなまれている。われわれは人類の歴史の中でも類まれなほどの恐るべきジュノサイド実行者の血を引く者ではないのかと。ヨーロッパによる新世界へ向かっての拡張、というよりむしろ、ヨーロッパ勢力によるアメリカ大陸の「征服」によって、わずか一世紀足らずの期間に、殺戮、飢餓、疫病により、約7000万人もの先住民が命を失ったことをわずかは知っている。これを証拠たてる歴史資料を突きつけられると、打ちのめされてしまうほどの思いがする。(F.ダルマイヤー『オリエンタリズムを越えて』新評論、2001年、28頁)

 

 このスペイン人の征服は、キリスト教信仰の「学者、僧侶、商人」の「三位一体」によって遂行されたが、近現代の西欧による世界征服は、その世俗化形態たる「知識人、宣教師、企業家」の「新三位一体」によって推し進められたからである(同上、36-37頁参照)。

 そして「価値観の違う文明・文化の一方的押しつけ」である「野蛮」は、西欧文明の産物「国民国家」自体が本質的に内包する属性である。というのは、「国民国家」とは多様性を暴力的に抹消し、均質的「国民」を創出することによって初めて成立したのであり、「現代」とは、この西欧起源の「国民国家」システムが世界中を覆い尽くしつつある過程であるからである。

 

・・・フィクションとしての契約によって国家を形成する。そういう契約国家というものの中身は・・・中略。・・・現実には、国民国家のなかに含まれたさまざまな民族が存在することを無視したり、あるいは文化を異にする人々の生活世界というものを叩き壊して、無理に同質化していったという、そういう幻想の共同体の形成のプロセスがあり・・・ 

・・・原理的なところでは、同質化することが原理的に不可能なヘテロジーニアス(heterogenerous)な諸個人あるいはエスニシティー(民族性・ethnicity)というものを、同質的な市民へと作り換えるという、そういう機能を果たしたというのが近代の国民国家だったということである。国家は、ある意味では、無理にでも、異質な諸個人を同質的な諸個人に作り変えていく・・・(今村仁司『近代性の構造』講談社選書メチエ、198-199頁)

 

 西欧文明の嫡子たる「現代」は「光」と同時に「闇」を共に生み出し、認識と現実の両レベルにおいて「闇」を「非-西欧」に割り振る構造を有することは既に見た。現代の生み出す最も深い「闇」である戦争もこうして「非-西欧」が引き受けさせられる。

 十数万人のムスリム人が民族浄化の名の下に殺戮された旧ユーゴスラビア紛争(ボスニア/コソヴォ)は記憶に新しいが、いずれも100万人以上のムスリムの犠牲者を出したイギリスからのインド/パキスタン独立、フランスからのアルジェリア独立戦争、ソ連からのアフガニスタン解放闘争などにおける殺戮が、かつてイスラーム世界に押し付けられた「闇」のもたらしたものであり、現在、この構造が最も顕在化するのが、共産主義崩壊後、今や西欧文明の唯一の競合者となったイスラーム世界なのである。

 1990-1年の湾岸危機-戦争は、共産主義崩壊後の新たな「仮想敵」(そして中古武器の蕩尽の場)を求める欧米により周到に演出されたショーであった。十数万人のイラクの民間人を死に追いやったこの戦争を主導したアメリカから、異なる文明間(特に西欧文明とイスラーム文明)の抗争の必然を唱える「文明の衝突理論」(ハーバード大学教授サミュエル・ハンチントン)が現れ(93年)、西欧とイスラーム世界の相互不信が激化する中で、98年の国連総会でのイランのハータミー大統領の提案により2001年が「文明間の対話の年」とされた。このことは十数世紀にわたって異なる民族、宗教、文化の共存するシステムを構築してきたイスラーム文明と、他者の存在を否定し自文化を力づくで一方的に押し付ける「野蛮な」西欧文明の発想の違いを象徴的に表しているようで興味深い。

 

3)唯物論の世紀

 20世紀は唯物論の世紀として幕を開けた。懐疑の3巨匠マルクス、フロイド、ニーチェが思想的にそれを準備し、唯物論イデオロギーに立脚し宗教撲滅を目指したソヴィエト連邦と中華人民共和国の成立が制度的にそれを裏付けた。

 しかし1970年代になるとフランスの宗教学者ジル・ケレルが「神々の復讐」と呼んだ宗教復興現象が地球規模での顕在化した。1990年に唯物論の一方の旗手ソ連は脆くも瓦解したが、ソ連の崩壊は、70年にわたる唯物論イデオロギーの教育にもかかわらず、ロシア正教こそがロシアのアイデンティティーの基底にあること露呈した。99年には、未だに唯物論を公式イデオロギーに掲げる唯一の大国中国でも、会員総数1千万人とも言われる「法輪功」の活動禁止事件が起き、宗教復興現象の世界性を改めて印象づけた。

 20世紀は唯物論の世紀として幕を開け、宗教復興によって幕を閉じた。

 宗教復興現象は、キリスト教、ヒンドゥー教、ユダヤ教等にも及んでいるが、最も顕著なのが、イスラームである。

 ソ連の崩壊は、共産主義陣営に対する自由主義・民主主義陣営の勝利として理解された。しかしイスラーム世界においてはソ連の崩壊は、イスラームのジハードの抵抗によるアフガニスタン侵略の失敗を機に、イスラーム世界を支配する二大勢力、即ちアメリカとソ連の両極の一方が消滅した、と見做された。

 イスラームを「仮想敵」とする西欧の世界観に照応する形で、イスラーム世界でも、ソ連の崩壊はイスラームに対する無神論の敗北を意味し、次なる敵はアメリカ-イスラエルに代表されるユダヤ-キリスト教世界のである、との世界認識が一定のリアリティーをもって流布している。これはハンチントンの以下の認識とも一致する。

 

  湾岸戦争の最中、モロッコの著名な学者マーディ・エルマンジャはこの戦争を「文明間の最初の戦争」と呼んだ。だが、実際にはこれは二番目の戦争だった。

 最初の戦争は、1979年から89年までのソ連とアフガニスタンの戦争(アフガン戦争)である。どちらの戦争も、一国が他の国を直接侵略したことから始まったが、それが変化して広い意味で文明間の戦争と考えられるようになった。」(サミュエル・ハンチントン『文明の衝突と21世紀の日本』集英社新書159頁)

 

 「事実」はともあれ、これが「現代世界」の自己理解に他ならないのである。宗教は消滅しつつある、という19世紀的幻想に未だ支配され、「神の死」が無邪気に語られる日本の「現代思想」の不毛性を露呈させる場が、イスラーム世界なのである。

 

4)宗教と政治

 西欧近世のローカルな体験から生まれ唯物論へと連なる西欧近代啓蒙主義は、多くの俗信を生み出し、そのいくつかは現在まで生き残っている。宗教の政治への介入は信教の自由の弾圧と悲惨な内戦を導くので宗教を国家から排除すべきである、との「政教分離原則」もこうした古色蒼然たる俗信の一つである。

 現代史はむしろその逆こそが事実であることを教えている。第一次世界大戦、第二次世界大戦は、政教分離を達成した西欧列強の手によって引き起こされた。主因を経済要因に求めるかナショナリズムに求めるかについては意見が分かれるとしても、二度にわたる世界大戦の原因が「政教一致」にあったのではないこと、「政教分離」原則が戦争の阻止に何らの役割も果たさなかったことには疑いの余地はない。

 また現代の「野蛮」は、平時における無抵抗な市民の虐殺を頻発させた。犠牲者の数が十万人単位のものは枚挙に暇がないが、百万人単位の犠牲者を出す事態となるとその数も限られており、ナチス治下のドイツ、スターリン体制化のソ連、大躍進/文化大革命期の中国、ポル・ポト体制下のカンボジアが挙げられるのみであろう。そしてこれらの体制がいずれも、市民の虐殺と平行して政教分離の名の下に信教の自由を奪い宗教を弾圧してきた体制であったことは今となっては既に明らかである。中国に至っては1944年の民国政府統計局の発表では4810万人を数えたイスラーム教徒数は、共産主義革命後の1954年版『時事手冊』では1000万人以下にまで激減しているのである(加地伸行『現代中国学』中公新書、159-160頁)。

 現代の「野蛮」は、あらゆるものを「客観化/モノ化(objectivation)」し、普遍、即ち個性なき「原子/個人(individual)」の集合に還元する西欧近代自然科学に由来する。

  ベンヤミンの洞察に因りつつ杉田敦の言う如く、「そもそも戦争と革命の20世紀などがあらわれたのは、神が失われ、すべての秩序が世俗化したことに原因があった」(杉田敦『権力』岩波書店72頁)のである。

 「野蛮」の真相を隠蔽する「政教分離原則」の俗信の存在は、「現代」を理解する妨げにしかならない。

 また政教分離の名による宗教の排除が、経済の分野における「発展」すらも保証しないことは、19世紀のヨーロッパ列強の中で唯一「発展途上国」の経済レベルに転落したのが、ソ連体制下で唯物論に基づき宗教の国家からの排除を最も進めたロシアであることからも明白であろう。

  インドの政治心理学者アーシシュ・ナンディは『非宗教主義の政治学と宗教的寛容さの回復』において次のように述べている。

 

  宗教的寛容さを脱エスニックで中産階級に属する政治家、官僚、知識人などの小グループの誠実さや良心の上に築き上げようとしても無駄である。寛容の哲学、シンブリズム、神学が市民の信念としてうちたてられなければならない。この道の方がはるかに現実味のある事業なのだということに、われわれはもうそろそろ気づくべき時ではないのか。また同時に、南アジアの国家体制が宗教的寛容さを、ヒンドゥー教、イスラム教、仏教、シーク教徒たちの日常の姿から少しでも学んでくれるよう望みたい(逆に一般のヒンドゥー教、イスラム教、仏教、シーク教徒たちが、これらの国が手をかえ品を変えて持ち出してくる、見てくれのよい非宗教的理論から寛容さを学んでもらっては困るのだが)(F.ダルマイヤー『オリエンタリズムを越えて』新評論、2001年、63頁)。

 

 

 地球規模での宗教復興現象、特にイスラームの「復興」を理解するにあたっては、「政教分離原則」のような俗信から解放され、複雑化した現代世界システムにおける政教関係の実相を、事柄に即して見据えねばならないのである。

 

5)資本主義、あるいはマモンの支配

 精神分析学者岸田秀の言う通り、「人間は本能の壊れた動物」であり、あらゆるものを欲望の対象とすることができる。現代資本主義は不断の成長のイデオロギーを必要とするが、それは欲望の自然と文化の拘束からの解放、絶えざる肥大化によって可能となる。

 今村仁司は言う。

 

消費社会の「消費」は、モノもひとも環境もすべてひっくるめて記号化し、消費物にしてしまいます。役立ちを求めての消費ではなく、いわば消費のための消費です。モノの尊厳は尊重されず、モノに付着する記号性だけが重視されます。」(『現代思想の展開』1995年講談社学術文庫143頁)

 

 欲望がモノを離れて浮遊し記号化することによって、消費は肥大化のサイクルに入り込む。欲望の対象の記号化の最も抽象化された形態は古来貨幣であった。本来交換価値である貨幣が欲望の対象化(objectivation=モノ化)することによって、終に欲望は消費それ自体からさえも乖離し手段と目的の転倒が起こり、蓄財の自己目的化が生ずる。これが「人は神に仕えると同時にマモン(富)に仕えることはできない」(マタイ6:24、ルカ16:13)と、預言者イエスが警告したところの物神崇拝である。

 現代資本主義において、貨幣は「金」の希少性という自然的制約すら失い、仮想空間において文字通り無限に肥大化する。実体を失った記号に躍らされる肥大化した欲望が、マモンに仕えて狂奔する姿を、我々はバブル経済の破綻によって間の当たりにした。

 イスラームは、現世を否定せず、自然的欲望の禁欲を説かない。しかし「人の富とは自分が実際に使ったものだけである。蓄財とは死んで相続人の手にわたるものでしかない。」との預言者ムハンマドの言葉が示す通り、イスラームは欲望の記号化による物神崇拝を断固拒否する。

 イスラームが利子の取得、証券の先物売買、即ち、貨幣が貨幣を生む、即ち貨幣がモノを離れて記号化し自己増殖することを禁ずることは広く知られている。

 利子の禁止が、欲望の記号化に対する個人のレベルでの法的なブレーキであるとすれば、金銀本位制が国家レベルでのブレーキとなる。そしてイスラーム解放党の経済論が明らかにした通り、金銀本位制こそ、イスラームの通貨制度なのである。

 

5)リヴァイアサン

 西欧近代政治学の父とも呼ばれるホッブスは、国家を地上における不死の神「リヴァイアサン」と呼んだ。

 それはそれは後に「国民国家」の観念に結晶化し、現代に至って世界を覆い尽くすことになる現代「国家」の本質を正確に言い当てていた。

 既に述べたように、存在する社会集団と個人の多様性を暴力的に抹消し無理やりに均質化することによって成立した「国民国家」は、「国民主権」、「一般意志」等のフィクションの下に、「国民」の集合体、総意の化身として、人格化、神格化される。

 アメリカの宗教社会学者ユルゲンスマイヤーが指摘する通り、世俗的ナショナリズムは「信仰の表現」であり、教義、神話、倫理、儀礼を持つ「部族宗教」の一種である(M.K.ユルゲンスマイヤー『ナショナリズムの世俗性と宗教性』、玉川大学出版部、28-29頁)。

 「ネーション(ネーション・スティツ)」は自ら不死の神となることにより、人々が自らと他者の命を生け贄に捧げる対象となる。「過去2世紀にわたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。」(土屋健治『インドネシア思想の系譜』珪草書房、44頁)

 出生、死亡、婚姻、離婚、居住、職業、年収、今や「国民」の生活の全ては、この架空の「国家」の管理下にあり、そしてその「国民」自体が学校教育によって「国家」の手によって不断に創出されているのである。そして「国家」に馴致された「国民」はこうした国家管理を当然のこととして受け入れており、「国家」の「実在」は疑われることなく自明視される。

 イスラーム法はそもそも法人概念を持たない。後に見るように、イスラームの世界観においては、被造物の中で人間のみが義務賦課と引き換えに自由意志を与えられ、それゆえ人間は自ら義務を負う存在としてただ一人アッラーフの前に立つ。イスラーム法の概念構成には、「国家」が入り込む余地はない。

 「国家」を表す現代アラビア語は「ダウラ(daulah)」であるが、中世アラビア語ではこの「ダウワ」は王朝を意味したが、「ダウラ」の原義は「循環、交替するもの」である。

 地上における不死の神「リヴァイアサン」たる西欧国民国家概念ほど、イスラームの世界観から遠いものはないが、それは範疇を全く異にする、という意味ではなく、むしろ範疇を同じくして対極にあるものの関係にある。

 ユルゲンスマイヤーが引用するトックヴィルの予言「十九世紀には、世俗的ナショナリズムという「奇妙な宗教」が、「イスラームのように、その使徒たち、戦士たち。そして殉教者たちをともなって全世界を席巻するだろう」」(ユルゲンスマイヤー43頁)は恐らく当人が考えていた以上に世俗的ナショナリズムとその祭神「国民国家」の「真実」を言い当てていたのである。

 

6)現代の偶像

 始めに神はアダムに事物の「名」を教える。

 

  彼はアーダムに全ての名前を教え給うた。(クルアーン:2章31節)

 

 「名」は知の初めである。しかし一方で「名」は時に虚空に幻影を映し出し、「市場のイドラ」となって認識を曇らし、偶像となって人を隷属させる。

 

 アッラーフの他に汝らが崇めているものは、汝らと汝らの父祖たちが命名したただの名前に過ぎない。(クルアーン:12章40節)

 

 異文化理解は先ず相手の言葉に耳を傾けることから出発する。しかし自称が必ずしも真実を表す実像とは限らない。それゆえ我々は先ず、名が体を表すか否かを吟味しなくてはならない。「必ずや名を正さんか・・・名正しからずや即ち言順(したが)わず。言順(したが)わずや必ず事成らず。」(『論語』、子路篇)

 現代のナショナリズム、国民国家観を支える「唯物論」、「無神論」、「無宗教」は、世俗主義を掲げ自らが宗教とは別の何かであるとの自己規定に立つ。しかし果たして本当にそうであるのか。

 ユダヤ系の社会心理学者エーリッヒ・フロムは言う。

 

 現代をも含めて人間の歴史の中で今日にいたるまでいかなる偶像が崇拝されてきたのかを逐一はっきりとつきとめなければならない。かつては偶像は動物、木、星、男または女のかたちをしたものなどであった。それは、バアルとか、アンタロテとか呼ばれ、またその他幾千という名で知られてきた。今日、それらは、名誉、国旗、国家、母、家族、名声、生産、消費といったいろいろな名で呼ばれる。けれども正式の礼拝は神であるというたてまえからいって、今日の偶像が人間の崇拝のほんとうの対象となっていることはなかなか見破られない。・・・中略・・・かつてアズデック族が神々に捧げた人柱と、戦争のさいにナショナリズムや主権国家という偶像に捧げられる現代の人柱の愛だには、われわれが考えるほどのひらきが実際にあるのだろうか。(E.フロム『ユダヤ教の人間観』河出書房新社、63頁)

 

 イスラームもまた、アッラーフに仕えるか、自己の欲望に仕えるか、のいずれかの二者択一が人間存在であると、と考える。

 

 自己の欲望を自分の神とする者を汝らは知っているか」(25章43節)

 

   偶像とは、自己の欲望の投影に他ならず、偶像崇拝者とは自らの欲望を神に祭り上げてそれに仕える我執の虜に過ぎない。「唯物論」、「無神論」、「無宗教」等は人間の我執の幻影への隷属、形を変えた偶像崇拝なのである。

 権威からの解放を目指す近代の試みが、「「主」と「奴」との闘争というテーゼは、民主主義において、すべての人間が「主」になることによって決着がついたのではなく、実はあらゆる人間が「奴」となることによって思いもかけない結末を迎えつつある」という「ニーテェの診断」(佐伯啓思『イデオロギー/脱イデオロギー』岩波書店155頁)も根本的にはこの同じ事態を指している。

 偶像崇拝と戦うことにおいては、無宗教者とあらゆる宗教の信徒が結束することができるとし「偶像学」の必要性を訴えるフロムは言う。

 

 偶像学は、疎外された人間は必ずや偶像崇拝者のは、その人は自己の生きた力を自分の外にある物の中に移入することによって自己を貧困化するとともに、自分を少しでも保持し、ぎりぎりのところで自己の同一性を保とうとして偶像崇拝におちいらざるをえなくなるからである。(『ユダヤ教の人間観』64頁)

 

 現代とは新たな偶像崇拝の時代である。全てのものが貨幣に換算され欲望の対象となり人を支配する「物神=マモン」となる「資本主義」、人間生活の全領域を管理する「地上の不死の神=リヴァイアサン」たる「国民国家」に崇拝を捧げるナショナリズム、マモンの支配「資本主義」とリヴァイアサンの支配「ナショナリズム」という、本質的には自我の投影、神格化である偶像崇拝の二大形態が地上を覆い尽くしつつあるのが、この「現代」という時代であり、この現状認識に立たずしては、なにゆえ今日「イスラームの脅威」が喧伝されるのかは理解できない。

 

7)イスラーム世界の植民地化

 イスラーム世界の「現代」は内発的にもたらされたものというよりは、ヨーロッパから力づくで押し付けられたものである。

 1683年、オスマン帝国は神聖ローマ帝国(ハプスブルク朝オーストラリア)の首都ウィーンを包囲した(第二次ウィーン包囲)。この時点ではまだイスラーム世界は、ヨーロッパにとって「現実の脅威」であった。

 しかしこの1683年から99年にかけての神聖ローマ帝国との戦いの敗北後、イスラーム世界と西欧の関係ははっきりと逆転する。オスマン帝国は、1699年のカルロヴィッツ条約によってハンガリーの大部分、トランシルバニア、クロアチア等の神聖ローマ帝国への割譲を余儀なくされるが、それ以降、マッカ、マディーナを擁し文字通りイスラーム世界の中核を成したオスマン帝国はキリスト教世界(ロシアを含む)に対して守勢に立ち、徐々に領土を蚕食されていく。

 東南アジアでは、10世紀以来イスラーム化が進行していたフィリピンが、1571年のマニラ占領以来スペインによって植民地化され、次いで1600年にイギリスが東インド会社を設立したのを期に、オランダ、フランス、デンマークが東インド会社を設立しマレー半島、インドネシアの植民地化を進めていったが、最も重要であったのはオランダ東インド会社であった。一方、イギリスは1791年にペナン島を、1824年にマラッカとシンガポールを獲得した。

 インドでは、1707年にアウラングゼーブ帝が死ぬとムガール帝国は急速に求心力を失い地方政権が分立する状況になっていた。そのインドで東インド会社による貿易独占を手掛かりに覇権を握ったのはイギリスであった。イギルスは1757年のプラッシーの戦いの勝利によってフランスの勢力を駆逐し、ベンガル地方を植民地化していったのを手初めに、1775年から1818年にかけての3度のマラータ戦争、1845年~49年のスィク戦争でパンジャーブを支配下におさめ、1858年には実権を失い年金生活を送っていたムガール皇帝を廃位すると同時に東インド会社から統治権を剥奪し、女王の名においてイギリス政府が直接統治することになり、ここに名実ともにインド全土の植民地化が完成した。

 カージャール朝イランは、二度にわたる戦争でロシアに敗れ。1828年のトルコマンチャーイ条約で、アルメニアのエレヴァン等アラス川以北の領土を失い、在留ロシア人に対する治外法権を認めさせられたが、これは欧米列強による不平等条約の嚆矢となった。 またロシアは1552年にモスクワ大公国のイワン雷帝がカザン・ハーン国を滅ぼして以来、中央アジアの諸ハーン国を次々と支配下におさめ、また19世紀半ばにはカフカース地方への植民を進め、1877年にはダゲスタンの征服を完了した。

 一方、北アフリカの植民地化は、1798年のナポレンのエジプト占領に始まる。エジプトはナポレンの撤収後、ムハンマド・アリー朝がイギリスとフランスの影響圏となったが、イギリスはウラービー革命を機に1882年にエジプトを植民地化した。フランスは1830年にアルジェリアを占領し、チユニジア、モロッコを植民地化し、イタリヤは1911年にリビア占領を開始した。

 また北アフリカの植民地化と平行して帝国主義列強によるアフリカ分割の中で、アフリカのムスリム国家、ムスリム社会も全て西欧の植民地支配を被ることになった。

 こうして20世紀初頭には、イスラーム世界で名目的にであれ独立を保っているのは、トルコのオスマン朝、イランのカージャール朝、そしてアラビア半島のサウディ・アラビアのわずか3国を数えるのみとなっていたのである。

 

8)独立、あるいは植民地支配の内面化

 ヨーロッパによるイスラーム世界の植民地化は、ムスリムに対する経済的収奪、政治的抑圧に止まらず、露骨なムスリム、あるいはイスラーム自体の抹殺政策に及ぶこともまれではなかった。

 例えばアルジェリアを支配したフランスは1832年に首都最大のカシュターワ・モスクを教会に転用するため徴用すると布告し、モスクを守るべく立て籠もった4000名のムスリムを全員焚殺し、虐殺されたムスリムの遺児たちは教会に奪いされらた。こうして1830年の時点でアルジェリアの首都アルジェに105あったモスクの数は1962年の独立時には8つにまで減っていた。

 こうした植民地政策下の西欧化の強制とイスラームの弾圧は、イスラームの宗教・教育・文化・政治・経済の統合的なシステムを破壊し尽くした。

 エドワード・サイードが明らかにした通り、こうした西欧のイスラーム研究、いわゆる「オリエンタリズム」はこうした植民地支配の道具であり、20世紀前半のオリエンタリストたちは植民地行政官、宣教師として支配の障害となるイスラームの無力化、殲滅政策の立案に関わっていた。中でも有名なのはオランダのインドネシア支配に奉仕したS.ヒルフローニェであり、ムスリムを詐称し聖地マッカに潜入しそのインドネシア人コミュニティーの動向をスパイし反植民地運動を監視しつつ、植民地支配に都合よくイスラームを歪曲する植民地政策に奉仕した。後に見るように戦前の日本の「回教研究」も世界観の基本構造は異なるものの、植民地支配の道具、という点においては西欧のオリエンタリズムと軌を一にしていた。

 西欧による露骨の植民地統治は第二次世界大戦後の民族主義の高揚によるアジア・アフリカ各地での相次ぐ植民地の独立により1960年代に(ブルネイの独立、アラブ首長国連邦の独立など委任統治の終了はその後も続く)、ロシアによる植民地統治は90年のソ連崩壊によって終わりを告げるが、イスラーム世界が自立性を取り戻したことを意味しない。

 西欧近代主権国家概念における主権はそもそも国内的に最高、対外的に独立権力を意味する。つまり主権国家の概念はそもそも単独では存在し得ず、複数の主権国家が互いに「独立」を承認し合う国際システムの存在を前提とする。そしてそのシステムとは30年戦争を終結させた1648年のウエストファリア条約によって成立した西欧国際社会の秩序であり、帝国主義の時代とは、この西欧国際社会システムが地球を覆い尽くす過程でもあり、それは第二次世界大戦の戦勝国による新たな世界分割カルテルである国際連合(=連合国)の成立によって一応の完成を見た。

 イスラームにはそもそも国家の概念が存在しないことは既に述べた。イスラーム世界各地の旧宗主国からの「独立」とは、イスラーム世界の自立/自立性の回復などでは全くなく、むしろ西欧的国際システムの承認に他ならなかった。つまり西欧の植民地支配からの独立とは、イスラーム世界が西欧国際システムの価値観を内面化し、システムの一部に自ら組み込まれたことを意味し、その国際システムの価値観の内面化を準備したのが、植民地統治下の「近代化(=西欧化=イスラーム殲滅)」政策だったのである。

 イスラーム世界の独立とは西欧植民地支配の内面化による完成であり、イスラーム世界の「現代」とは、この「内なる植民地支配」からの脱却の道の模索の時代相なのである。

 

9)イスラエル、最後の植民地

 「内なる植民地支配」の時代、イスラーム世界に最後に残された露骨な外国支配の植民地、それがイスラエルである。

 「ユダヤ人とアラブ人」の対立の構図は問題の本質を隠蔽するヴェールである。パレスチナの地を占領しイスラエルを建国したのはポーランド人、ロシア人、ドイツ人・・・、つまりヨーロッパ諸国民であり、イスラエルとはヨーロッパ人がパレスチナに作った植民地、ヨーロッパの最後の橋頭堡であった。

 近代「国民国家」とは、国民の殉死、献身を求める「偶像神」であることは既に見た。ユダヤ人とは、この国家という「偶像神」に全面的忠誠を捧げない「非国民」として、「ユダヤ人」の名をつけられ、それぞれの祖国から排除された存在である。

 ユダヤ人とは、西欧「民族主義」の矛盾であり、西欧の生み出した闇である。既述のように西欧に生じた内部矛盾、闇を西欧の外に外部化し、「非-西欧」に押し付けるのが「現代」であり、イスラエルとは、イスラーム世界に押し付けられた西欧の内部矛盾なのである。

 イスラエル/パレスチナ研究者臼杵陽は、イスラエルの建国理念シオニズムの創始者テオドール・ヘルツル(1860/1904)の思想の分析から、イスラエル建国の本質を析出して述べる。

 

 ・・・ヘルツルにとって解決しなければならない緊急課題は、ロシア帝国領から流れ込んできた大量の東方ユダヤ人(OstJuden)の「同胞」の処遇であった。東方ユダヤ人たちは伝統的なユダヤ教信仰(神秘主義的なハシディームであれ、トーラーに固執するミトナゲディームであれ)にしがみついているため無知蒙昧ノ状態から脱出できない「アジア」的な存在としてヘルツルの眼には映った。ドイツ的同化ユダヤ人であるヘルツルにとって「ユダヤ人国家」は、同化ユダヤ人と東方ユダヤ人を同一視する反セム主義に対するラディカルな解決案(東方ユダヤ人の国際ゲットー化!)であり、その青写真は同化ユダヤ人の安定した地位を脅かしかねない「同胞」の東方ユダヤ人難民に対する処方箋というきわめて実際的な関心に支えられていた。

 だからこそヘルツルその人も非シオニスト同化ユダヤ人には「狂信的」シオニズトとみなされていたにもかかわらず、「ユダヤ国家」の予定地としては必ずしもパレスチアにこだわってはいなかった。アルゼンチンでもよかったのである。晩年には帝国主義大国イギリスの提案したウガンダ案までもその実現のために奔走した。」((臼杵陽『見えざるユダヤ人』平凡社選書、45頁-46頁)

 

 一方で、祖国の出自を隠蔽し「ユダヤ」の名を冠した植民者たちによって、アラブのパレスナの地に「イスラエル」が樹立されたことにより、イラク、モロッコ、イエメン、エジプト等のアラブ諸国では、先祖代々その地に住み着いていた数十万人にものぼる数のアラブ/ユダヤ人(ユダヤ教徒)たちが(イスラーム世界にはそれ以前にはただ宗教帰属としての「ユダヤ教徒」のみが存在した)、アラブ人同胞の憎悪をかい、祖国を追われ、イスラエルに移住を強いられることになった。こうしたアラブ/ユダヤ人(ユダヤ教徒)の中には、PLO(パレスチナ解放戦線)幹部イラン・レヴィーのようにイスラーム教徒やキリスト教徒のアラブ人と共にパレスチナ解放運動に身を投じた者さえいる。

 こうした数十万人のアラブ/ユダヤ人(ユダヤ教徒)たちの存在そのものが、アラブ人とユダヤ人の対立の構図で中東紛争を考えることの過ちを、何よりも雄弁に証ししているのである。

 一方で、イスラエルは、イスラーム世界の「内なる植民地支配」を「真相」を隠蔽し、イスラーム世界の「敵」を演じる役目を負わされて、イスラーム世界の中心部に打ち込まれた楔でもある。

 アメリカの最大の援助対象国は現在でもイスラエルである。世界の人口の5分の1が1日あたり1ドル以下(=1人当国内総生産365ドル以下)で暮らす絶対的貧困状態にある中、1人当たり国内総生産が1万6000ドルにも達するイスラエルに対して、年間206.90ドルもの援助(1997年)を行っている(ちなみに97年の時点での第2位のボスニアで66.67ドル、第3位のパレスチナは27.78ドルに過ぎない)(立山良司『揺れるユダヤ人国家』文春新書、178頁)

 たかだか人口約500万人、面積約2万平方キロほどのイスラエルという植民地国家自体は問題とするには足らない。真の問題はイスラエルが存在することによって、この「他者」、「異物」、「外敵」イスラエル及びその背後にある欧米に、内政、外政の全ての問題の責任を転嫁し、「客観的」な自己認識、真摯な自己批判を封殺する現在のイスラーム世界の認識構造である。

 

 現代の南アジアの民衆がさまざまな問題で苦しんでいるとすれば、、その大部分は、植民地支配の遺産のせいというよりも、独立後の歴代内閣の責任である。少しでもまともにものを考えようとするインド人は、こう考えていると言ってよい。そしてもっとラディカルな人たちは、現代の問題の淵源を、民族主義そのものの歴史のなかに求めようとしている。彼らの間には、現代のさまざまな問題は民族主義の失敗によって惹き起こされた、という痛切な自覚がある。(佐藤正哲/中里成章/水島司『ムガル帝国から英領インドへ』 - 世界の歴史14 中央公論社 215頁)

 

 インドでは芽生えつつあるこうした自己認識がイスラーム世界に生まれることを妨げるために、イスラエルは存在し続けなければない。

 全章で見た通り、イスラーム世界における独立国家の誕生は、イスラームの世界観に対立する国民国家システムの導入、植民地支配の内面化でしかなかった。しかしイスラーム世界の中心部におけるイスラエルというヨーロッパの植民地、あからさまな「異物」の存在は、「内なる植民地化」の現実をかすませ、目を逸らさせる機能を果たす。

 イスラームの世界観に対立する「近代国民国家」である、という点において、イスラエルと他の近隣諸国には何らの相違も存在しない。国法がイスラーム法ではなく世俗法、「人定法」である、という点で、イスラーム世界の国々もイスラエルと変わるところはない。また婚姻法、離婚法等の家族法の一部の領域のみではオスマン朝で成文化されたイスラーム法の規定が実定法に取り込まれて準用されている、という点でも、イスラエルもまたオスマン朝のイスラーム家族法を継受しており、他の国々と変わるところはない。

   イスラーム世界の「内なる植民地支配」の事実を隠蔽するために欧米がイスラエルを必要とする一方で、イスラーム世界の抱える構造的矛盾、文化、社会、経済、政治、山積する問題矛盾から目を逸らさせるためにイスラーム世界の支配階級もイスラエルの存在を必要とする。この欧米とイスラーム世界の支配階級の間の密かな共犯関係の存在こそ、中東問題を解決の糸口の見えない難問たらしめている真の原因なのである。

 

10)エルサレム、イスラーム第3の聖地?

 「エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラームの3宗教の聖地であり、それゆえにその帰属をめぐって中東問題が紛糾している」

 「中東問題」が不断に紡ぎ出す言説の一つである。

 エルサレムは確かにユダヤ教の聖地であった。イスラエルのソロモン王の神殿での犠牲こそ、古代ユダヤ教の祭祀の核心であった。しかしバビロニアによるソロモン神殿破壊(前587年)と補囚は、神殿の意義への内省を強い、70年のローマによる神殿破壊後のユダヤ教においては、律法の学習がエルサレム神殿で犠牲に取って代わり、神殿は祭儀的意味を失った(W.D.デーヴィス『ユダヤ教の国土観』教文館158-160頁)。

 イスラエルの地に植民国家を樹立するというシオニズムの理念は、メシアの到来を待ち望んできたユダヤ教2000年の信仰を裏切るものであった。

 

救世主(メシア)が再来(ママ)してユダヤ民族が贖罪され日までユダヤ教徒は祈り続ける、という伝統的な信仰のあり方をシオニズムは根本的に否定したのであった。・・・中略・・・したがって、伝統的なユダヤ教徒は、シオニズムを神をも恐れぬ背信行為だとみなし、徹底した反対の態度表明を行ったのである。(臼杵陽『原理主義』岩波書店、68頁)

 

 シオニズムの本質はヨーロッパの植民地であり、既述の通り、その候補地にはアルゼンチンやウガンダも挙がっており、ユダヤ教の聖地イスラエルであることは必ずしもその必要条件ではなかった。それはエルサレムについても同様で、エルサレムに聖地性を与える鍵「シェキーナー」の座たる「神殿」はエルサレムの建国後も現在に至るまで再建されておらず、神殿の後には現在はイスラームのアル=アクサー・モスクと金のドームが聳えているのである。

 ひるがえってイスラームにおいてはどうか。

 イスラームは宇宙の中に、特別に祝福された空間の存在を認める。この意味ではエルサレムもまた祝福された空間の一つと言うことはできる。しかしこのような聖地は世界各地に無数に存在する。確かにエルサレムは最初のキブラ(礼拝の方角)、預言者ムハンマドの昇天の場であり、またマッカの「聖モスク」、マディーナの「預言者モスク」と共に、エルサレムの「アル=アクサー・モスク」への参詣を促された、との預言者ムハンマドの伝承も伝えられており、エルサレムはこのような諸聖地の中では格の高い聖地ではある。しかしエルサレムはマッカ、マディーナが「聖地」であるのと同じ意味では決して「聖地」ではないのである。

 マッカとマディーナの聖地はアラビア語では「Æaram」と呼ばれる。「Æaram」とは「禁域」を意味する。マッカとマディーナが「禁域(Æaram)」であることは、以下のような預言者ムハンマド自身の言葉によって明示されている。

 

 イブラーヒーム(アブラハム)がマッカを禁域であると述べた、私はマディーナ、即ちこの二つの山に囲まれたこの良き土地を禁域であると宣言する。ここではどんな樹木も伐採されず、いかなる狩猟も許されない。」(ムスリム)

 

 イスラームにおいて、「禁域」である、ということは、イスラーム法上、樹木の伐採や狩猟等の特定の行為がその地で禁じられることを意味する。マッカ、マディーナが異教徒禁制の地である、というのも、このイスラーム法の「禁域」の数ある規定の一つである。

 エルサレムはそもそも預言者ムハンマドの時代にはまだローマ帝国の支配下にあり、「禁域」とはなりようもなく、第二代カリフ・ウマルの時代に征服された後も、異教徒禁制とは無縁なムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒が共存し、キリスト教徒の巡礼で賑わう国際都市であり続け、また樹木の伐採や狩猟が禁じられる「禁域」となることもなかったのである。

 以上から分かる通り、エルサレムはマッカとマディーナと共に「3大聖地」と並び称することのできるような「禁域」ではない。

  そしてエルサレムのモスクでの参詣だけを取るならば、この現在もアル=アクサー・モスクと岩のドームがエルサレムの中心に旧ソロモン神殿跡に位置を占め、今日でもムスリムの参拝者で賑わっているのである。

 「エルサレムはイスラーム第3の聖地」との言説もまた、「中東問題」をショーアップし、イスラーム世界の内部矛盾からムスリム大衆の目を逸らせるために、仕組まれた装置の一つなのである。

 

11)OIC、イスラーム世界の分断恒久化装置

 ハンチントンがイスラーム文明と西欧文明の衝突を唱える遥か四半世紀前、日本の比較文明学者梅棹忠夫は既に「地中海・イスラム世界をおおう、新しい「巨大帝国」の再建」を予言していた。

 梅棹は、古代以来西欧と日本を除く旧世界には中国世界、インド世界、ロシア世界、地中海・イスラム世界、という4つの自己完結的な単位があり、近世になってそれが清帝国、ムガル帝国、ロシア帝国、トルコ帝国においてその構造が完成したとし、「植民地主義者のつごうからつくられた」「たいして根拠のあるものではない」「こまかな国境わり」を超えて「おのおのの「世界」の再建」の過程にある、とする。

 

 ロシア・ブロックがまず、革命による厚生策に成功する。中国、インドも着々と効果をおさめつつある。四つのうち、いちばん事態がおくれているのが、地中海・イスラム世界である」との梅棹の現状分析から30年以上が経った今、イスラーム世界は未だに分裂を続けている。(梅棹忠夫『文明の生態史観』中公文庫、197-199頁)。

 

何故か?

 それはイスラーム世界の支配層が分裂の恒久化を図っているからに他ならない。文明の衝突を唱えるハンチントンも、湾岸戦争に関して「イスラム政府の意見は最初は分かれていたが、アラブ人やイスラム教徒の意見は、初めから圧倒的に反西欧だった」(『文明の衝突と21世紀の日本』、165頁)と認めている通り、イスラーム世界においては政府と民衆の意志の間には大きな乖離が存在する。

 民衆レベルにおいては、民族、国家を超えたイスラームの同胞意識と、国境を越えてて縦横に張り巡らされたイスラーム学、親族関係、交易などのネットワークに支えられたイスラーム世界の統一への志向性が存在する。そして既存秩序の改編を迫り支配層の既得権を脅かすこのイスラーム世界の統一への民衆の動きを押さえるべく結成されたのがOIC(イスラーム諸国会議)なのである。それは以下に見るような、OICの創設の経緯からも明らかである。

 1950年から60年代にかけて、アラブ世界では旧ソ連の支援を受けたエジプトのナセルや、シリア、イラクのバアス党などが独立の余勢をかってアラブ社会主義によるアラブ世界での覇権の確立を目指した。そしてこのアラブ社会主義による既成秩序への挑戦に対抗して、湾岸の王制諸国を糾合し、イスラーム外交の名の下にアラブ社会主義を共産主義=無神論と断じるイデオロギー闘争を展開したのがサウディアラビアのファイサルであった。そしてエジプト・シリア統合の失敗、シリア・イラク両バアス党の分裂、エジプトのイエメン内戦への介入の失敗、そして67年の第3次中東戦争の敗北などによって、アラブ社会主義は最終的に自壊した。そして財政・外交的支援を条件にナセルがファイサルの軍門に下り、アラブ社会主義陣営が覇権への野望を放棄することによって、ファイサルの「イスラーム」外交が結実したのが、69年のOIC(イスラーム諸国会議機構)(2000年現在加盟国52国)の創設決定だったのである。

 従ってOICとは、その出自からして、イスラームの連帯を謳う憲章とは裏腹に、イスラーム世界の統一とは真っ向から対立するベクトルを有するものである。つまりOICの内実は、「相互に主権を尊重する」との美名の下に、加盟諸国の支配者の間で結ばれた「互いの縄張りを犯さない」との「紳士協定」、イスラーム世界の再統合の阻止、分裂の現状の固定化し既得権を守るためのカルテルである。そしてその機能はムスリム民衆の目からウンマの分裂の現状を隠蔽し、あたかも連帯が存在しているかのような幻想を与え、ウンマの連帯意識に適当なはけ口を与えることにある。OIC憲章が「聖地エルサレム」の保護、パレスチナ人の闘争の支援を殊更に強調しているのも、ソ連のアフガニスタン侵攻、セルビア人によるボスニア、アルバニ人の虐殺、ロシアのチェチェン侵攻等、ことあるごとに「外敵」に対して実効力のない非難決議を乱発するのも、民衆のイスラーム連帯意識の高揚を抑制するための「ガス抜き」としてのみ理解できるのである。

 

12)イスラーム・テロ

 世界を震撼させたアメリカの同時多発「テロ」事件の勃発後、「イスラームとテロ」をめぐる言説が世界のマスメディアを覆い尽くした。

 先ず、テロリズムに関する鵜飼哲の言葉に耳を傾けよう。

 

 フランス革命期のジャコバン派の恐怖政治を指した「テルール」から十九世紀ロシア無政府主義者の「テロル」を経て今日の「テロリズム」まで、この言葉の意味や用法の変遷はそのまま近代の政治空間の構造転換を裏面から照らし出す。「国際テロ」「テロリスト国家」といった最近の派生語は、内戦的現実を糊塗するためのこの言葉が第二次世界大戦を経て冷戦後の世界的な政治空間に投射されたことを示している。こうして農民ゲリラから主権国家までが「国際警察」の取り締まりの対象になる。

 たしかに暴力的事態が突発すると人の心は恐慌を起こし、その事態の原因に眼を向けられなくなる。だが、「テロリズム」は学問用語というより一種の罵倒語であり、政治的背景を持った暴力を犯罪のコードに転写するための装置である。この言葉の濫用は悪魔払いの儀式に似ている、この言葉自体は何も教えてくれないのだから。したがって、この言葉を目にしたら、それがそのつどどんな問題を隠しているのかを考えてみなければならない。もちろん、隠蔽されていればつねに正しい問題というわけではないが、すくなくともそれが隠蔽されるのはなぜかと問うことは、今日の私たちの政治的知性にとって欠かすことのできない訓練である。(1998年9月28日毎日新聞夕刊鵜飼哲「欧州を覆った内戦的状況」)

 

 イスラームとテロを結び付ける言説が隠している問題とは何であろうか?

 近代国家は、対外的には軍隊、対内的には警察という形で国家が暴力を独占することによって成立する。従って国家をテロ組織と呼ぶことはむしろ同義反復でしかない。

 にもかかわらず特定の国家をテロ国家と呼ぶ用法が今日では横行している。その主たる発信源はアメリカにある。アメリカは定期的に世界の「テロ組織」、「テロ国家」のリストを発表する。このテロ国家リストの常連は、イラン、イラク、リビヤ、キューバ、北朝鮮である。5か国のうち3か国までをイスラーム世界の国が占めるこのリストの中身の妥当性を問う前に、一国家に過ぎないアメリカが、他の主権国家をテロ国家と断定することの妥当性が先ず問われなければならない。

 繰り返すが、国家が暴力装置であることは、自明の前提であり、暴力装置であることをもって特定の国家をテロ国家と呼ぶことは端的にナンセンスである。特定の国家を特に「テロ国家」に分類するには、それ以上のメルクマールが必要である。

 「テロリズムとは、国家の秘密工作員または国家以外の結社、団体等が、・・・計画的に行った不法な暴力」(『国際テロリズム要覧2000』11頁)との公安調査庁の定義に照らしても、「テロ国家」の呼称が意味を有するのは、他国に対して不法な武力行使を現実に行った場合に限られる。しかし国連に様々な国境紛争を「解決」する権限がないことからも明らかなように国際社会には国内社会とは違い、何が不法であるかを一義的かつ公権的に決定する司法機関が存在しないため、国連決議を経た武力行使のみを合法的武力行使、そうでないものを不法な武力行使と呼び分けるのが、唯一の「法的」に「客観的」な区分となる。また現実に不法な武力行使を行ったか否かの事実の認定も、同様に国際社会にそれを公権的に決定する司法機関が存在しないために、当事国が事実を否認する限り不可能である。したがって諜報機関による「秘密の」破壊工作への関与は、「法的」に「客観的」なテロ国家の認定の基準にはならない。

 従って客観的に「テロ国家」と呼びうるのは、自国の領域外で国連決議を経ない武力行使を公然と国家の名において行った国、と言うことになろう。

 こうして見てみると、アメリカが「テロ国家」と呼んでいる国のうち、自国の領域外で国連決議を経ない武力行使を公然と国家の名において行った国と呼べるのは、クウェイトを占領したイラクだけであり、それ以外の国については、破壊工作を行ったとのアメリカ側の一方的非難に基づいており、当事国は否定していることからも、アメリカ政府関係者はともかく我々が「テロ国家」と呼ぶべき理由は何もない。

 そもそも諜報機関の破壊工作をもってテロ国家と呼ぶことができるならば、アメリカこそ、ニカラグアの反政府コントラ支援、旧ソ連占領時代のアフガニスタンでの反政府ムジャーヒドゥーン支援等、こうした破壊工作の「常習犯」なのである。ちなみにキューバは1999年、59年の革命以来アメリカがキューバに対して行ってきた破壊活動について、解禁されたばかりの米政府のキューバ関係公文書を援用し、死者3478、後遺症に悩む負傷者2099名と算定し、損害賠償請求を行っている(『現代用語の基礎知識2000』301頁)。

 現在、自国の領域外で国連決議を経ない武力行使を公然と行っている国は、国境紛争の延長上に1974年以来国連決議を無視して北キプロスの占領を続けるトルコ、48年以来パレスチナの占領を続けるイスラエル等を除けば、古くはリビヤ元首カッザーファイー大佐の暗殺のためにその私邸を空爆し家族を殺害し、1998年8月にはアフガニスタンとスーダンの民間施設を証拠も開示せずテロ関与を決めつけた上で国連に諮ることなく一方的に空爆し、多くの民間人の犠牲者を出しているアメリカ一国のみである。

 

 アメリカが定期的に世界の「テロ組織」、「テロ国家」のリストを発表するのは、「世界の保安官」(88頁)との自意識に基づくが、実は「いまやアメリカの方が「無法者の超大国」(『文明の衝突と21世紀の日本文明』72頁)、テロ国家なのである。この意味では2001年の国連人権委員会の改選でアメリカが落選したことは当然であり、むしろ遅きに失したとさえ言えよう。

 「現代」は繁栄、自由の光の部分と、絶対的貧困、圧政の闇を共に生み出し、後者を、非-西欧に押し付ける構造を有する。この世界システムの支点に位置する「唯一の超大国」、「覇権国家」アメリカは、「無法者の大国」、「テロ国家」の素顔を隠して「世界の保安官」を演ずることによって、「非-西欧」の貧困と圧政を生み出しつつ西欧に繁栄と自由を割り振るこの世界システムを「物理的」に軍事力の行使によって防衛しすると同時に、イデオロギー的には、このシステムに対する異議申し立て者を「テロリスト」に仕立て上げ、国家をあげてのテロ・キャンペーンを行うことにより、異議申し立ての機会を封じこめ、現代の闇、システムの暗部を隠蔽し、システムの自己イメージの管理、統制を行っているのである。

 国防総省の攻撃は片隅に追いやられ、パレスチナの民衆を虐殺するイスラエルに膨大な武器と資金援助を与えてきたアメリカの富の象徴、ユダヤ資本支配の象徴であるニューヨーク貿易センタービルに集うアメリカのエスタブリッシュメントたちは無辜な市民の犠牲者として大々的に報じられる一方で、イスラエルの爆撃で家を失い家族を殺されたパレスチナの民衆、アメリカの経済封鎖と旱魃のために100万人にものぼる飢餓者を出した上に、今またアメリカの爆撃の恐怖に晒されるアフガニスタンの民衆は、テロリストの共謀者の汚名を着せられ、意識から抹殺される。これこそが、イスラームとテロを結び付ける言説が隠している問題の正体である。

 

 一般に、カオス(無秩序)をノモス(秩序)に転換するときに、すなわち秩序をつくり出すときには、暴力がはたらかざるをえず、その意味では、人間社会と共に暴力はある。しかるに、一旦秩序が成立すると、秩序は自らが暴力の所産であることを絶対に認めようとはせず、法を全面に立てることによって、自らの暴力的な起源を隠蔽しようとする。・・・

 ・・・それゆえに秩序に挑戦する試みは犯罪とされ、それに対しては「法維持的暴力」、つまり軍隊や警察による暴力が加えられることになる。(杉田敦『権力』70-71頁)

 

 「イスラーム・テロ」が語られるとき、その背景にある「テロリスト」とされた者たちに加えられた凄惨な暴力を思い浮かべる想像力、知性を欠く者には、現代のイスラームの実相を知ることは決してできない。

 

(13)イスラームの脅威

 

 現代の権力は「政治的「争点」の範囲そのものを管理する。・・・中略・・・権力をおよぼされている人々は、自らの利害の「争点化」自体を権力によって阻止されている。(杉田敦『権力の系譜学』岩波書店、64頁)。

 

「テロリズム」とは、搾取、抑圧、不平等、権力関係の存在が「争点化」するのを阻止し、善良な市民の安全を脅かす「治安問題」として争点を設定し直すために用いる権力の常套句である。

 

 本書を読んだ後、映画「アルジェの闘い」で、マシュ将軍率いるフランス空挺部隊により拘禁されたアルジェリア民族解放戦線の幹部が、記者団からの爆弾闘争は卑怯じゃないかという質問に、もし爆撃機を私たちにくれるならすぐさま爆弾闘争はやめると応えるシーンを思いだした。暴力はいかなる目的があろうと行使すること自体が否定されるべきであるという常識の欺瞞が、この応答により暴露されている。(冨山一郎「ほん『暴力の文化人類学』」『民博通信』no.83, 1999, p24頁)

 

 権力側が「テロ」と呼ぶ現象は、二つの暴力装置間に圧倒的な力の不均衡が存在する場合に発生する。彼我の力が均衡している場合に生ずるのは正規戦であり、テロではない。冷戦構造化の西欧の「仮想敵」超大国ソ連は、アメリカのレーガン大統領が命名したように「悪の帝国」ではあっても、「テロ」国家ではなかった。

 冷戦終了後、イスラーム世界は共産主義陣営に代わって、欧米-自由主義陣営の「仮想敵」になったが、両者の間にはいくつかの重要な相違が存在する。

 第一に共産主義には、明確なメンバーシップと規則を定めた国際的組織「共産党」が存在した。ところがイスラームは教会、公会議、教皇のような宗教組織も聖職者階級も持たず、政治的にも統一組織は存在しない。

 第二に共産主義には、ワルシャワ条約機構のような集団防衛のための軍事ブロック・地域国家連合が存在した。他方、イスラーム世界の国家機構OICは既述の通り軍事同盟の性格は皆無である。

 第三に共産主義には、国際組織共産党を統括する中核国家ソ連が存在した。ところがそもそも国民国家の概念と対立するイスラームには、イスラーム運動を統括する国家はあり得ず、むしろイスラーム世界の既存の諸国はイスラーム運動を弾圧しイスラームの実現を阻止する最大の要因の一つとなっている。

 第四に共産圏は、欧米(自由主義/資本主義世界)を壊滅させるにたる数百発の大陸間弾道弾ミサイル搭載の核兵器を保有した。しかるにイスラーム世界には、パキスタンがせいぜいインドとの地域紛争でしか使用できない数発の核兵器を開発したにとどまる。

 第五に共産圏には、宇宙開発、軍拡等において欧米と競合する科学・技術力が存在した。しかしイスラームには、21世紀を迎える現在においても、先進国に数えられる国は一つもない。

 第六に最終的には破綻したとはいえ、共産圏は、ある時期まで欧米の資本主義世界と競合する経済圏であった。しかし現在のイスラーム世界は経済圏ではなく、またそのような経済力を持ったことはない。

 要するにイスラーム世界は、かつての共産主義が有したような仮想敵としての脅威の実体を欠いているのである。

 にもかかわらず、イスラーム世界が仮想敵と見做され、イスラームの脅威が喧伝されるのは何故か。

 イスラーム世界が西欧にとって脅威であるのは、イスラーム世界が西欧に異義申し立てを行う「道義的力」であるからに他ならない。

 アメリカの同時多発「テロ」の特徴は、いみじくも山内昌之が「意思力」と呼んだ実行犯の道義的確信にあった。「繁栄、自由、平等、民主主義」とその対となる「貧困、抑圧、不平等、独裁」を同時に生み出し、「貧困、抑圧、不平等、独裁」を外部化し「非-西欧」に押し付け隠蔽し、自らの内部での「繁栄、自由、平等、民主主義」の達成を誇らかに謳歌する「現代」世界システムの欺瞞を明るみに出し、西欧による非-西欧の支配、抑圧を告発する「道義的力」こそ、軍事力、経済力、科学技術力、外交力の全てを欠くイスラームの有する唯一の力なのである。

 但しここでイスラーム世界が「道義的力」である、というのは、あくまでも「異義申し立て」の「ネガティブな力」であって、現在のイスラーム世界の放つメッセージの内容そのものが、西欧の価値観を脅かす競争相手としてのポジティブな「道義的力」を有している、という意味ではない。

 現代の権力とは「政治的『争点』の範囲そのものを管理する」権力であることは既に見た。

 イスラームを否定し「民主主義」を支配の正当性の根拠に掲げるイスラーム世界諸国では、「政治的争点の範囲の管理」は通常、イスラーム主義者を議会に登場させないための露骨な暴力による選挙の「管理」によって行われる。

 カザフスタンの選挙を分析した岡奈津子「1999年カザフスタン議会選挙-民主化の演出と投票結果の改ざん」(『ロシア研究』30号2000年4月、73-92頁)は、まず反対派を候補者名簿から外し、次に立候補を認めた場合でも、選挙戦においてマスメディアを与党に有利に利用し、有権者を与党に投票するように買収、あるいは威嚇し、次いで選挙においては選挙管理委員を与党陣営で固め投票を操作し、最終的にそうして得られた選挙結果を更に与党に有利なように改ざんする、といった与党による「選挙管理」の実態を明らかにしている。カザフスタンは決して最悪の例ではない。むしろこのような研究を行い得るだけ、カザフスタンには相対的に大きな言論の自由と民主主義が存在する、と言える。イスラーム世界の多くでは、イスラーム主義者には政治参加の自由の保証はおろか、普通の市民生活すら許されず投獄されるか、物理的生存すら許されずに抹殺されることも通例だからである

 例えば2000年6月10日、1970年にクーデターで政権を掌握して以来、反対派の血の弾圧で独裁政権を維持してきたハーフィズ・アサド・シリア大統領が急死すると、同日シリア国会は大統領候補の資格年限を40歳から34歳に引き下げる憲法改正を行い、27日国会は34歳になる故ハーフィズ・アサドの息子バッシャール・アサドを大統領候補に指名し、7月11日シリア国営放送は、バッシャールが94.6%の投票率、97.29%の支持率で大統領に信任されたことを発表する。これが典型的なアラブの「合法的」「民主主義」の姿である。

 民主主義の枠組を認め議会内での合法的政権獲得を目指し総選挙で勝利したアルジェリアのFISが軍のクーデターで禁止され、死者10万人とも言われる内戦を招いたことも、イスラーム世界でイスラーム主義の主張を合法的に「争点化」する道が閉ざされていることを劇的に示した例であった。

 先ずイスラーム世界の内部で、西欧の傀儡の「民主主義」政権によってイスラーム主義の「争点化」を封じ込め、更にそうした傀儡「民主主義」政権の暴力と弾圧による支配の実態自体を西欧の人々の目から隠す。このような二重の隠蔽に訴えてまで、なぜ西欧はイスラーム主義の主張の争点化を恐れるのか。

 西欧は「繁栄、自由、平等、民主主義」の自己イメージと、「非-西欧」の「貧困、抑圧、不平等、独裁」をもたらした元凶としての実像との乖離、矛盾、偽善と欺瞞を隠蔽するために、それが「争点」に上ることを自体を予め防止する必要がある。西欧が作り出し現代世界を覆い尽くしたかに見えた国民国家システムの管理の網の目をかいくぐり、西欧の実像を暴き欺瞞と偽善とを告発し、それを「争点」に掲げることをやめないイスラーム・ネットワークの「道義的力」によって、無理やりに自己の実像と向き合わされることへの恐怖、自己イメージの崩壊の恐怖こそが、イスラームの脅威の実体なのである。軍事力、経済力、科学技術力、外交力の全てを欠くイスラームへのヒステリックな反応、イスラームの脅威の喧伝の真の理由は、自らの「不正」の影に脅える西欧がイスラーム世界に投影した虚像であることを見抜くことによって、初めて理解可能になる。

 イスラームとテロを結び付ける言説が隠している問題とは、西欧にとっての真の脅威とは、テロそれ自体ではなく、テロ「事件」報道によってイスラーム世界の怨嗟の声が西欧の人々の目に晒され、西欧の隠蔽している「不正」が「争点化」されること、即ち自己欺瞞の破綻への脅威であるということである。西欧において「イスラーム・テロ」の語法が「学問用語というより一種の罵倒語」でしかなく、かくもヒステリックであり、現象自体が決して「客観的」分析の対象とならないのは、自分の影に覚える西欧にとって、その認識が自意識の根幹に関わる問題だからなのである。

 

(14)イスラームの現代

 

 預言者ムハンマドは言われた。「食事客たちが大盆に互いに呼ばわり群がるように、諸民族が互いに呼ばわり汝らに群がるようになるだろう」

 ある者が尋ねた。「それはその時(ムスリムの)数が少ないせいでしょうか」 預言者は答えた。「その時、汝らはは多数である。しかし汝らは流れに浮かぶ塵芥のような塵芥なのだ。そしてアッラーは汝らの敵の心から汝らへの恐怖を取り除かれる。そしてまたアッラーは汝らの心に弱さを投げ入れられる。」

 そこである者が尋ねた。「アッラーの使徒よ、その弱さとは何でしょうか」

 彼は答えた。「現世への愛と死への嫌悪である。」(アフマド・ブン・ハンバルの伝える預言者ムハンマドの言葉)

 

 後世のイスラーム世界が拡大の後に堕落、弱体化し、異教徒の諸民族によって征服、分割、支配されることは、イスラームの世界観には当初より織り込み済みである。

 末世においてはイスラームに対する無知と混乱が蔓延る。イスラームを歪曲する支配者たちと、彼らに躍らされる愚民の群れ。

 

 イスラームを知る者はいなくなり、人々は無知な者たちを頭に仰ぐようになり、これらの無知な指導者たちは問われるままにイスラームの知識もなく教義判断を下し、自ら迷妄に陥ると同時に人々をも惑わす。(アフマド・ブン・ハンバルの伝える預言者ムハンマドの言葉)

 

 イスラームの視点から「イスラームの現代」を認識することは、現代のムスリムと同一化することでも、感情移入することでもない。現代の時代相をイスラームの枠組みの中で認識すること、つまり準拠枠を「聖別されたイスラーム初期世代」に設定し、それに照らして現代のムスリムを「無知と混乱の極みにある塵芥の如き存在」として把握することこそ、イスラーム的視点からの現状認識なのであり、そしてこの現実を直視するムスリムの声のみが、耳を傾けるに値する。しかしそのような自己認識を持つ者の数が絶望的に少ないからこそ、「イスラームの現代」は無知と混乱を極めているのではないか。

 イスラーム諸国会議機構、イスラーム大学、イスラーム・センター・・・、同時代人の口にする「イスラーム」とはむしろ正しいイスラーム認識を妨げるノイズであり、ヴェイルでしかないこと。我々のイスラーム認識は、先ずそこから始まらなくてはならない。

 確かに我々に身近なキリスト教や仏教の比較して、イスラーム復興現象の活力は刮目に値する。しかしそれは我々の「末法」、「世紀末」を準拠枠にとってこその見え方に過ぎないことを忘れてはならない。イスラームの理解を目指す以上、我々は「イスラーム復興現象」をオリエンタリズムの先入観を排して我々の「同時代現象」として把握すると同時に、イスラーム的視点から「イスラームの現代」の無知と混乱をも冷徹に見据えなくてはならない。

 耳を澄まし目を凝らし、声高にイスラームを叫ぶ者たちのかき鳴らすノイズの洪水の中から、無知と混乱の絶望的状況下で、真のイスラームを守り伝えようとしている者たちのかぼそい声を拾い上げ、書き記すこと。「イスラームの現代」を語る、とはそういう営みでしかありえないのである。

 

2章.日本とイスラーム

(1)多神教と一神教

 

 我々日本人の大半は多神教徒である。仏教も神道も多神教に属する。・・・その我々にとって、一神教を理解することは容易でない。(東長靖『イスラームのとらえ方』山川出版1頁)

 

日本人、あるいは日本文化は多神教徒である、それゆえ一神教は理解しにくい。イスラームの理解が困難なのは、イスラームが一神教であるからである。

 イスラームの通俗的入門書にもよくみられる言説である。

 一見当然に思えるこうした説明も、客観的な事実の記述というよりも、それ自体がイスラームの主体的理解の可能性を最初から拒否し予め遮断するイデオロギー性を帯びた言説、イスラームの理解を妨げるヴェイルの1種なのではないか。

 日本の多神教的宗教風土に一神教が受け入れられないとの例証としては、日本においてキリスト教が根付かなかったことがあげられるのが常である。

 しかしキリスト教が16世紀に日本に伝えられてから僅か2世紀あまりのうちに37万人にものぼる信者を獲得し「キリシタンの時代」を現出したことは、むしろその反証となっている。

 日本の多神教、汎神論的伝統を強調する山折哲雄などは、この「キリシタンの時代」について、日本にキリスト教が定着しなかった説明として「やがてキリシタン禁制の時代を迎え、キリスト教の勢力は急速に衰えました。宗門改めに続き、寺壇制度が確立するに及んで、キリスト教伝播の息の根が止められたからであります。」(山折哲雄『宗教の力』PHP研究所、38-39頁)との説明を与えているが、ここには重大な事実の隠蔽がある。

 それは踏み絵などによる内心の信仰の審問、爪の間に針を刺す、銛先を付けた焼いた竹で身体を引き裂く、硫黄入りの熱湯を浴びせる、手足を切り取る、穴に逆さ吊りにする、焼きゴテで烙印を押す等のおよそ考え得る限りの拷問を加えての棄教の強制、棄教拒否者に対しては生きたまま焚殺する等の物理的抹殺、というキリスト教徒に対する弾圧、殺戮、「宗教浄化」の歴史である

 日本におけるキリスト教弾圧は、その規模、組織性、徹底性のいずれにおいても、秦の始皇帝の焚書坑儒、デキウス帝以降のローマ帝国のキリスト教迫害、中世ローマ・カトリックの異端審問、近世プロテスタントの魔女狩り等にも匹敵する世界宗教史上もまれにみる残虐な迫害であった。そして当時の日本には「邪教」たる「一神教徒」が抹殺されることに、「他宗教への寛容」、「人間の尊厳」、「思想の自由」等の観点から異を唱えた宗教者の存在は仏教にしろ神道にしろ一人も記録されていない。

 キリスト教は日本の多神教的宗教風土に適合しなかったために「自然」に消滅したのではない。キリスト教の浸透を恐れる支配階級の「一部」の武士と僧侶(政治家と知識人)の共謀によって「作為的」に抹殺されたのである。言い換えれば、キリスト教の消滅は多神教的「宗教」風土によるというよりは、他人の内心の信仰に干渉し異質な者を抹殺することをためらわない政治家と、それに異を唱えることなく黙認する知識人たちが作り出した「政治」風土のせいであったのである。そしてその政治風土は明治維新後の立憲君主制下、第二次世界大戦の敗戦後の象徴天皇制下でも、無意識下に潜行し希釈化されつつも現在に至るまで大きく変わってはいないように思われる。

 そして更に根源的な問題として(仏教、神道=多神教)vs(キリスト教、イスラーム=一神教)という二項対立構図がそもそも成立するのか、ということ自体が問い直されねばならない。

 2億人弱という世界最大のムスリム人口を要するインドネシアは、憲法において「唯一至高神(ketuhanan yang maha esa)」への信仰を国民生活の基礎として位置づけ、一神教のみを公認しているが、その「一神教」の範疇にはイスラーム、カトリック、プロテスタントと並んで、仏教とヒンドゥー教が含まれているのである。

 また唯一神道(吉田神道)の継承者であると同時にムスリムでもある澤田沙葉は「吉田神道によれば“天地創造の神を崇拝するのが天児屋根命以来の正しい神道の伝承であり、教えである”」(澤田沙葉『イスラーム案内』クルアーン研究所、203頁)と述べ、唯一神道を一神教とみなしているが、この澤田の思想は、神道家側からも「たいへん興味深いことに、『ホダイビーヤ協会』会長の澤田沙弥葉氏は、マホメットが大天使ガブリエルの導きにより昇天し、天の玉座で受けたと言われるイスラム教徒の奥義は、何人にも明かすことが許されないとされているが、その奥義とは日本神道のことであると言い切っている(『自然医学』平成3年10月号)」(中矢伸一『真正日本神道』KKベストセラーズ、217頁)との評価を得ている。

事実、吉田兼倶の「大元尊神」(山田孝雄『神道思想史』、神祗院、68,69,78頁)、慈遍の「天譲日天狭霧地禅月天狭霧尊」(玉懸博之「中世神道における国家と宗教 - 慈遍の日本神国観をめぐって」、源了圓、玉懸博之共編『国家と宗教』思文閣出版、142-143)等を唯一神とみなすことは、知的アクロバットではなく、さほど困難ではない。それゆえ虚心に見ると、多神教的伝統を有する日本にとっても、イスラームの理解は決して困難とは言い切れない。

 事実、梅棹忠夫のような比較文明学者も「世界のいずれかの宗教を選ばなければ死をあたえる、というような状況におかれたとしたら、わたし個人はイスラームをえらびます。イスラーム教徒はまことに清潔な宗教ともうしますか、そこでは人間個人個人が唯一神であるアッラーと一対一で対面するというかたちになっております」(梅棹忠夫『近代世界における日本文明』中央公論新社、2000年、137頁)とイスラームへの共感を示しており、「【イスラム教】は絶好の宗教の手本」と呼ぶ社会学者小室直樹は、イスラームこそ逆に最も理解が易しい宗教であるとさえ言う。

 

 宗教とは何かということを述べるには、本当ならイスラム教から入るのが一番理解しやすい。

 イスラム教は、「宗教の戒律」と「社会の規範」と「国家の法律」が全く一致する。つまり、人々の生活の規範がすべて矛盾なく連関するからで、こういう宗教は、原始宗教を別にすれば、他にはユダヤ教以外には見当たらない。

 逆にいうと、人々の生活の本来の姿から見れば、キリスト教や仏教は実は非常に奇妙な宗教なのだ。しかし、そのいかにも奇妙だということが、本来の宗教に最も近いイスラム教をしっかり理解してからでないと理解できない。したがって、本来はイスラ教から入るのが一番いいということになる。(小室直樹『日本人のための宗教原論』徳間書店2000年、67頁)

 

 日本におけるイスラームの理解の促進のためには、「仏教、神道は多神教である」という前提、あるいは「多神教」、「一神教」といった西欧に生まれた宗教学の概念自体による日本宗教、イスラームの分析の有効性が先ず問い直されねばならないのである。

 

(2)末法と信仰

 日本人にとってイスラームの理解が困難なのが、多神教的宗教風土のせいでないとすれば、真の困難はどこにあるのか。日本最大の宗教集団である浄土系仏教の浄土真宗を手掛かりにこの問題を考えてみよう。

 「仏教に長いこと 培われた精神的風土に生きる日本人の立場から、そしてまた一人の仏教徒として、コーランを考え理解してみたいと思った」(狐野利久『コーランの思想と親鸞の思想との対比』文栄堂、5頁)と述べ、仏教徒(真宗門徒)として主体的に真宗とイスラームの比較研究を行った狐野利久は「日本人のイスラームの宗教に対する理解は、西洋を媒介とした理解が多いせいか、筆者自身も誤解していたところがかなりあった。ところが、『コーラン』を読んでみて、意外にも親鸞の思想に類似しているところがあって驚いている。」(狐野利久『比較文化入門』北星堂、370頁)とイスラームと真宗の類似の発見への驚きを表明する。

 狐野がイスラームについて考えるきっかけは、文部省の在外研究員としてイギリスに一年間留学して、たまたまロンドン在住のイスラーム教徒の家庭に下宿することになったことにある。狐野はそこで家族の一員としての待遇を受け、その理由を「かたやアッラーであり、かたや阿弥陀仏であっても、イスラームすることにおいては同じであるという共通の場があるから」と思い至り、コーランと親鸞の思想の比較を考えたという(同上190-191頁)。

  狐野利久は、啓示の神たるイスラームの人格神と理念に過ぎない阿弥陀仏の根本的相違を説くイスラーム学者井筒俊彦の仏教理解を禅的仏教観に基づく誤解であるとして、「阿弥陀仏が我々人間の言葉で「設我得仏・・・不取正覚」、或いは「若不生 不取正覚」と語りかけたものが本願である」とし、「比較思想史的に考えれば、啓示と本願は同じ」と述べる。(『コーランの思想と親鸞の思想との対比』、22-23頁)

 更に狐野は真宗を「同じ一神教である親鸞の阿弥陀仏に対する絶対帰依」(『コーランの思想と親鸞の思想との対比』4頁)と述べ、「イスラームの宗教はユダヤ教やキリスト教と同じセム系の宗教でありながら、兄弟宗教よりも親鸞の念仏の思想に近い・・・コーランの思想と親鸞の思想とにおいては、宗教の本質とも言うべき絶対帰依という点においては変わるところがない。」(『コーランの思想と親鸞の思想との対比』、184頁)と結論する。

 この狐野の真宗-イスラーム理解と、以下の『未来の親鸞』における吉本隆明の言葉を比較してみよう。

 だいたい<浄土>というものはあるのかどうか、<浄土>へ行くとはどういうことなのか。現代はそういう信仰のうすれた時代で、そういう疑問がいまさしあたりいないということでお話ししているわけですが、そんなことはまったく信じられないことです。

 ・・・現在ぼくらは末法どころじゃなく、末法のまた末法にいるというふうにいえるとおもいます。たとえば、ぼくは死んだ後に実体的に<浄土>があって、そこにじぶんたちがいくんだというふうに少しも信ずることができません。

    ・・だから全部比喩としか受けとれなくなってしまっている。(吉本隆明『未来の親鸞』春秋社40、127、128頁)

     

 信仰を持たない吉本は「浄土」を比喩としてしか理解できないことを率直に表明しているが、人格神たる阿弥陀如来に至っては、比喩としてすら理解する意志もないようであり、話題にすらなっていない。

 真宗門徒の狐野にとっては、絶対帰依の信仰を共有し相互理解が成立する相手は、不信仰の現代、「末法のまた末法」、末法の果ての日本の哲学者である吉本や井筒ではなく、むしろ異国のイスラーム教徒なのである。

 日本人にとってイスラームの理解が困難なのではない。イスラームの理解に困難を感じるのは、末法の果てに生きる「現代の」日本人である。そして「現代の」日本人にとって理解が困難なのはイスラームだけではなく、あらゆる形態の生きた信仰であり、前近代の日本の仏教、神道の信仰ですらもはや比喩としてしか理解されなくなっているのである。 確かにイスラームの理解に困難は存在する。しかし「多神教=日本vs一神教=イスラーム」という対立軸の設定は、理解を助けるよりも、真の困難を隠すことによって理解の困難を一層助長するに過ぎない。そして現代と前近代の日本、不信仰と信仰の間に横たわる巨大な断層の存在を隠蔽しているもの、それこそ、「不変の日本」というナショナリズムのイデオロギーなのではないか。

 そこで以下に我々は、日本のナショナリズムが顕示的に「神話」であった時代、国家神道体制下の日本のイスラーム理解を見ることにしよう。

 

(3)日本ナショナリズムとイスラーム

 ・イブラヒムは1909年3月12日の明治の元勲伊藤博文との会見の模様をその日本滞在記『ジャポンヤ』に記録している。

 伊藤は「イスラームは、とくに東洋の民族の間でよく広まっているようですので、日本人にも容易に受け容れられると思います」と述べ、アブデュルレシトにイスラームの本質について説明を求めた。アブデュルレシトは答えた。

 「・・・要点は、この二つの言葉によって教えられております。それは『ラーイラーハ・イッラーラー、ムハンマド・ラスールッラー(アッラーフの他に神はなく、ムハンマドは神の預言者なり)』です」

 伊藤から「なんとおっしゃいました。もう一度ゆっくり言っていただけますか」と聞き返されたアブデュルレシトはこの信仰告白の言葉をゆっくり3度繰り返した。伊藤はこのアラビア語の信仰告白句を彼の後について繰り返した。

 そこでアブデュルレシトが「こうしてこの言葉の意味を認められましたならば、閣下をムスリムと呼ぶことができます。閣下はこの時点からムスリムになられたことになります。ムスリムになるということは、すべてこれだけのことなのです」と言うと、伊藤は「なんということ。承服できないことはひとつもない。これは大変気に入った」と答えた。

 アブデュルレシトはその後も伊藤からこの時の信仰告白に反する言葉を一度も聞かなかったという(伊藤は同年10月朝鮮で暗殺される)。(アブデュルレシト・イブラヒム小松香織・小松久男訳『ジャポンヤ』第三書館、143-144頁参照)

 不信仰の現代日本人の抱く「信仰」に対する心理的障壁は、西欧化以前の日本の伝統的教育の中に育った伊藤にはない。それはイスラームの「信仰」に対してであれ同じである。

 「東洋の民族の間でよく広まっている」宗教、とのイスラーム観は、当時イスラームがインド、中国の宗教的伝統の一部として認識されていたことを考えるとき、伝統的に支那(中国)天竺(インド)伝来の宗教としての仏教を受容してきた明治の元勲にとってはむしろ極めて自然なことだったのかもしれない。

 とはいえこれをもって伊藤がイスラームに「改宗」した、とは必ずしも考えるべきではなかろう。開国以降「いつしか、宗教や信仰に関する二者択一の態度、即ちキリスト教的思考を唯一の鏡にして、我々の内面をのぞきこむ」ようになる以前の「伝統的日本人」の多くは、神道も仏教も同時的に信じていたからである(山折哲雄『近代日本人の宗教意識』岩波書店、5頁)。

 このような伝統的な宗教意識を基礎に、国家神道の神話をイデオロギーとするナショナリズムによる国民形成の要請と、列強諸国からの信教の自由の保証を求める圧力の間で、考え出されたのが「神道非宗教論」である。「神道非宗教論」とは神道は通常の意味の宗教を越えた大道であり、朝憲(国家の掟)であって教憲(宗教)ではなく、従って神道を国民に強制しても信教の自由になんら抵触することはない、との考え方であり、神道論者たちが先鞭をつけ、島地黙雷ら浄土真宗の僧侶らによる側面支援の下に成立し、文相井上毅らによって政策に移されたものであった。

 大日本回教協会から、イスラームが日本の「国体と背馳する所なきや否やに関して」調査を委嘱され、『神道の根本研究』、『日本学の基礎体系』の著者にして『日本教典』の編者でもあった日本精神学の権威原正男を国体とイスラームの関係について以下のように述べている。

 

  我が国においては、古来儒仏二教が重視され、それ等は我が国に於て保護を受けて発達し、明治になってからは、キリスト教徒でも政治軍事の機関に入ることを許され、キリスト教信者の外人をも政府の重要機関に雇い入れたこともある。然るに我が国においては神祗を崇び祭祀を重んずることにおいては何人と雖も秋亳も此れを冒すことは許されない。是と同じに回教国に於ては『アルラーの他に神なし、マホメッドは神(アルラー)の預言者なり』という信念を冒すことは許されない。之を冒すことは宗教上の背教者たるのみならず、回教国の謀反人となる。然し異教徒と雖も此根本義に反抗するに非ざるものは、其治下に移住することを許され、有能の者は高位高官に登ることも出来たのである。

 古来、我が国で八百万の神ありと信じ、それを崇めることは国家存立の一つの要素となっている。然るに回教に在ってはアルラーの他に神(イラハ)が無いと信ずることは、回教成立の第一の要素であり、又回教国存立の第一の条件となって居る。・・・

  ・・回教国は我が国と同じく宗教的信念に基づき成立しているのである。然かも両者とも祭官政治、僧侶政治の国ではない。換言すれば、政治、軍事は特殊の祭官又は僧侶に依って行われるのではない。それらの分野は比較的自由の立場にあって、宗教的掣肘を受くることもなくその機能を発揮することが出来るのである。(原正男『日本精神と回教』大日本回教協会発行 誠美書閣版、93-94頁)

     

 この原の見解を読む限りでは、「神道非宗教論」に基づく国家神道体制下の日本人にとっては、イスラームはむしろ現代の我々よりも違和感なく「理解」が容易であったようにさえ思われる。

 

(4)イスラームと国家神道との共存

 

  ・・回教徒又は回教国に八百万の神の信仰を持たしむることは回教を消滅せしめることであり、回教国を崩壊せしむることである。又我が国においてもアルラーの他に神なしということを一般的に認めることは我が国の存立の根本精神の破壊であって直に国家の壊滅となる。此等は何れも動かすべからざる根本原理である。唯如何にして回教国及び回教徒をして我が国存立の根本精神を理解せしめ尊敬せしむることを得るか、又如何にして我が国は回教を理解し、回教徒を許容するを得るかと云うことは尚考究すべき問題である。(同上94頁)

 

 原は更に「客観的」なイスラーム「理解」を超え、「主体的」なイスラームとの「共存」の道を模索する。原は本居宣長の説に拠り「尋常ならず可畏(かしこき)をカミと云ふ」とし定義した上で、以下の如く結論する。

 

 ・・・カミとは日本思想、日本精神における言葉であって、それは猶太教、キリスト教、回教にも當て嵌まらぬのである。随ってイヤヴェは日本語のカミに當て嵌まらぬ。故にイヤヴェやアルラーを神と訳したことに大なる不用意があると云わざるを得ない。カミちは八百万の霊的存在に共通に当てはまる普通名詞であり、イヤヴェは唯一つを指す固有名詞であり、アルラーは或はアルとイラハの結合であるとするも、回教に於いてはすでに固有名詞となったのである。而して回教では、それを唯一つの霊的存在であると主張するのである。カミとは普通名詞であって、カミには八百万あるも、其多くの中には、イヤヴェに厳密に該当し、アルラーに該当するものは全く無いのである。そこでキリスト教で唯一のイヤヴェを信奉したとて、それは日本のカミを信奉したことでもなく、又同時に日本のカミを否定することにもならぬ、それと同じで回教で唯一のアルラーを信奉したとて、日本のカミを信奉したことにもならず、又日本のカミを否定することにも為らぬ。それは全く別の事柄である。(同上258頁)

 

 自己と他者の思想のそれぞれの依って立つ基盤に無反省に、八百万の「カミ-ガミ」の神道を多神教、唯一の「イラーフ」の崇拝のイスラームを一神教と、両者の間の相違を素朴に結論して事足れりとするのではなく、イスラームと神道が別個の概念体系であるが故に、「カミ」と「イラーフ」の意味にはズレがあり、従ってアッラー唯一崇拝と八百万のカミの尊崇は同じレベルで真偽/優劣を決すべきものではなく、両立も可能である、と原は考える。この理解は、T.クーン以来の科学哲学の「通約不可能性」概念にも通じるものであり、当時としては先進的な着想であろう。

 アラビア語の一次資料でなく欧米語の二次資料のみに基づく分析の限界があり(日本語の「神」の語とアラビア語の「アッラー」の語については、後に人類学者大塚和夫が「アッラー、神、アラーの神」(『異文化としてのイスラーム』同文館287-338頁)において精緻な分析を加えることになる。)、また大東亜共栄圏建設への手段という政治的動機が背後にあったとしても、原のこのイスラーム理解は、神道とイスラームを共に相対化しつつ共存の論理を構築する解釈学的試みとして、思想史的には一定の評価が与えられてしかるべきであろう。

 

(5)初期日本人ムスリムのイスラーム理解

 それではこの国家神道体制下で実際にイスラームに入信した日本人はどのようにイスラームを理解していたのであろうか。

 大正13年に中国山東省のモスクで入信し同年メッカ巡礼を果たした日本ムスリムの先達ノラー・モハメッド田中逸平は、以下のように自らのイスラーム理解、入信の経緯を以下のように、語っている。

 

 我が皇国の道は甞て儒、道、仏、耶の諸教を「摂取不捨」以て大道倶通の精神を示し、「我道一以貫之」の事実を顕現したが、未だ天方末世の聖人モハメッドに依りて明白にされたるイスレアムの貴教は、我が神ながらの道の真髄と同一不二なる真理を知るの機縁が至らなかった。余の曩(さき)に主張した「皇国神道の大陸的使命」は、正に『天御中主神はアルラホなり』との信仰を以て世界のイスレアム教徒との精神的結合を謀るにありと知った。(田中逸平「イスラム巡礼白雲遊記」前嶋信次編『メッカ』芙蓉書房、昭和50年、169-170頁)

 

 田中逸平は臨済宗の家に生まれ、漢学塾に学び、父親から神道禊教の修法を受け、海老名弾正からキリスト教を学んだ。明治35年に北京に渡り不快な歳月を過ごした中で、時々モスクに遊びに出掛け慰められた記憶を胸に、20年の求道の末に、「真に道を求めんとすれば師に附かねばならぬ」と決心し、南大寺の曹鳳麟アホンに師事しその指導の元に入信し、巡礼を果たす(同上169-170頁)。そして大正13年7月に巡礼を果たして中国に戻った田中逸平は、同年11月青島神社に奉告し、「大亜細亜主義即日本主義即惟神道」なる論文を『日本及び日本主義』に寄稿している(同上174頁)。

 この田中のイスラーム入信は日本的宗教混淆と否定的に把握されるべきではない。むしろイスラーム史的に見ると、彼のイスラーム受容は極めて「まっとう」なものであり、高く評価すべきであろう。

 中央アジアのトルコ民族のイスラームへの改宗は10/13世紀頃に起こった。11世紀にマフムード・カシュガーイーが編纂したトルコ語/アラビア語辞典は既に、トルコ語で「神」を意味する「テングリ」をアラビア語の「アッラーフ」と翻訳している。

 トルコ人の大多数はハナフィー派法学を受容したが、このハナフィー派法学は「トルコ人の地では、コーランやイスラームの掟をいささかも知らずともムスリムたりうる」とのハナフィー派法学名祖アブー・ハニーファ(767年没)の言葉に基づく「リベラル」な教えであり、「このように儀礼の遵守において寛容でリベラルな性格が、事実複雑な教義は理解せず、『アッラー以外に神はなし』というシャハーダ(信仰告白)のみを口にした大多数のトルコ人にとって、改宗を用意した一要因であったはずである」とトルコ史家安藤志朗が述べているように、トルコ人たちはアッラーフを自国語のテングリとして理解し、その唯一性のみを認めることによって、イスラームの教義の詳細など知らずに、ムスリムとなっていったのである。(安藤志朗「トルコ系諸王朝の国制とイスラーム」、堀川徹編『世界に広がるイスラーム』栄光教育文化研究所、238-239頁)

 イスラーム世界でも現代に至るまで、アッラーフは、アラビア語の「アッラーフ」と共に、「ペルシャ/ウルデゥー語では「ホダー」、現代トルコ語では「タンル」(テングリの訛った形)、マレー/インドネシア語では「ツハン」とそれぞれの言語で「神」を指す名称で呼ばれている。つまり彼らもまた、自分たちの「神」が本当はアッラーであることと考えてイスラームを受け入れてきたのである。

 

 イブン・ファドラーンの『ヴォルガ・ブルガール旅行記』(西暦10世紀)によれば、トルコ族がイスラーム教徒に近づくため、「アッラーの他に神なし、ムハンマドはアッラーの使徒なり」という聖句を称えたり、イスラーム教徒が神を賛える(タスビーフ)のを聞くと、真似てその通りに言ったという。(堀川徹「中央アジアの遊牧民とスーフィー教団」、堀川徹編『世界に広がるイスラーム』栄光教育文化研究所、271頁)

 

  トルコ族のイスラーム化は9世紀から12世紀頃にかけて徐々に進行したが、トルコ族の入信におけるイスラーム理解の実態が推察できよう。

 一方で田中は「真に道を求めんとすれば師に附かねばならぬ」と決心して導師に師事してイスラームを学んだ、と言う。書籍の独修ではなく、師匠との全人格的な関係の中で教えを身につける、という学問の姿は、明治維新以前の日本の古典教育のあり方であると共に、後に見るようにイスラームの知の伝承形態でもあった。

 また1910年に日本人ムスリムとして最初のマッカ巡礼を果たしたオマル山岡光太郎は、1959年に大阪の養老院「福生院」で亡くなるが、養老院でも酒も煙草もたしなまず日々の5回の礼拝を欠かすこともなかったと伝えられている(『ムスリム・ニッポン』206頁)。

 こうしてみると、最初期の日本人のイスラーム受容はむしろまっとう過ぎるほど、「まっとう」なものであったことが分かるであろう。

 次にアフマド有賀文八郎(1868-1946)の著したイスラーム入信のハンドブックの「入教誓約書」を見てみよう。

 

 私儀イスラムの教義を了解し、其の真理を確信致し候につき、誠心誠意イスラムに帰依し、ムスリム兄弟主義に加盟すべく茲に約仕候

一.唯一真神を崇拝し、ムハムマッド師をこの世における最後の予言者なりと信ず

二.唯一真神に撰定されたる予言者及びその使徒等を信ず

三.唯一真神によりて啓示されたる種々なる経典、其の中に最も神聖なる香蘭経を此の世に於ける最後の聖典として完全無欠なるものと信ず

四.霊的存在なる唯一真神の従僕たる天使等を信ず

五.人間の行為を起す知からは唯一真神の賜物なれども、各々自己の所為と行動に対しては責任を負うべきこと

六.復活の日のあることを信ず

七.審判の日の来るべきことを信ず

なお良心に誓いて左の絛項実行致すべく候

一.唯一真神のほかに神なぢ、ムハムマッド師は其の予言者なり、と明らかに唱ふべきこと ラー・イラハ・イツラツラー・ムハンマッド・ラスールツラー(アラビア原語)二.日々五度必ず祈祷を捧ぐべきこと

三.ラマザンの月中は勉めて断食を行うこと、其の間は勉めて自制習慣を涵養し、罪悪に陥らざるよう努め、昼間の飲食を断ち、性交を慎むべきこと

四.自分の貯へたる財産中より貧者に対し喜捨を行うべきこと

五.資力ある者はメッカの聖殿へ巡拝すべきこと

なお左の道徳を実行致すべき候

一.天皇陛下に忠誠を尽くすべきこと

二.親に孝を尽し、親類縁者および隣人に親切なるべきこと

三.総べての信者と兄弟関係を結び、四海同胞の精神を養成すべきこと

四.総て事を為すに厳正公平なるべきこと

五.人造物を礼拝せず、イスラム教の禁ずるところを犯さず、香蘭聖典を道徳の標準とし、予言者ムハムマッド師を一生万事の模範と仰ぐべきこと

 此の神聖なる大義を遂行するため唯一真加味のご加護あらんことを(小村不二雄『日本イスラーム史』、358-360頁)

 

 この入教誓約書は、信条、勤行、道徳の三部構成からなるが、信条、勤行は後にみるスンナ派の6信5行の翻案であり、極めて「正統」である。違和感を感じるのは、道徳の部の第一項「天皇陛下に忠誠を尽くすべきこと」であるが、これも非-イスラーム世界では、現地の権力に従う、というのはイスラームの伝統の一つであり、オランダ統治下のインドネシアで結成された「イスラーム同盟」の第一回大会で、「オランダ国旗と女王に忠誠である」が宣言されたように(永積昭、『インドネシア民族意識の形成』東京大学出版会、1980年、154頁)、植民地支配下のアラブ、インド、インドネシア等のムスリムたちもまた、西欧列強の植民地権力に「忠誠を尽く」していたのである。

 また第二章で既に見たように、「独立」後のイスラーム世界でも各国の憲法自体が「国民主権」や「国民国家」など「天皇陛下に忠誠」と同様にイスラームと相矛盾する原理を謳っている。例えばインドネシアでは1984年に、非イスラーム的建国五原則「パンチャシラ」をあらゆる国内団体の唯一の組織原則とせよとの法律が定められると、同国最大のイスラーム団体「ナフダトルウラマー」はこれを受け入れ、パンチャシラを組織原則とすることを綱領に入れている。

 つまり有賀の「入教誓約書」に「非イスラーム的要素」があるとすれば、それは特殊日本的というよりもむしろ、現代世界の全てを覆う「国民国家」のイデオロギーの反映なのである。あるいは、現代世界に共通の現象として、「国民国家」の理念の混入という歪曲がイスラームに生じており、それが日本においては「天皇」への言及という形をとって現れているのである。

 なお敗戦後の日本の象徴天皇制については、国王を「『信徒の長』(カリフの別称)にしてウンマ(宗教共同体)の一体性の象徴」と規定するモロッコ憲法に影響を与えた可能性が、比較憲法学者西修によって指摘されている(加地伸行(編著)『日本は「神の国」ではないのですか』小学館、2001年、251頁)。

 

(5)日本とイスラームとの接触

  イスラームは人類の始祖アーダムの教えである。預言者ムハンマドが説き明かした実定宗教としてのイスラームを狭義のイスラームと呼ぶなら、人類生誕以来の天啓の教えの全てを広義のイスラームを呼ぶことができる。

 アッラーフは、クルアーンの中で、「まことに我ら(アッラーフ)は全ての民族に、アッラーフを崇拝し邪神を避けるようにと、使徒を遣わした・・・。」(16章36節)と述べており、日本にも使徒が遣わされ、広義のイスラームが伝えれているはずである。

 しかし残念ながら古事記や日本書紀といった現存する「神話」の中に「実証的」にイスラーム伝来の痕跡を見いだすことはできない。

  勿論、古事記に現れる天御中主などの造化神たちが、・天照大神らの神統譜の神々と根本的に異なり、「生みも生まれもしない独神(ひとりがみ)」とされているのは、「言え。アッラーフは独りなるお方、・・・生みも生まれもしない。」(クルアーン112章1,3節)を思い起こさせるが、いかせん相違の方が大きすぎよう。

 預言者ムハンマド以降の狭義のイスラームについて述べるなら、日本とイスラームの関係は新しく、また浅い、と言わざるを得ない。

 日本におけるイスラーム受容は当然のことながら日本文化の枠組の中で行われたが、それ自体はイスラームの拡大/拡散の歴史の一般的パターンであり、決して特殊なケースではない。むしろ最初期の日本人ムスリムのイスラーム理解は、おおむね正確であり、その受容は極めて「まっとう」なものであった、とも言える。

 とはいえ、それは初期日本人ムスリムの全てが正しくイスラームを理解し真摯に入信したことを意味しない。事実、日本人ムスリムとして最初にマッカ巡礼を果たした山岡光太郎の巡礼は日本軍の情報将校福島安正の意を受けてのものであり、その後も日本軍の中国、南洋の対ムスリム工作要員としてイスラームに入信した者が多かったのも事実である。

 事実、こうした工作要員らの殆どは日本の敗戦と共に雲散霧消し、田中、有賀、山岡ら初期日本人ムスリムの中で現在に至るまでムスリムの家系を保っている者は誰もいない。しかしこのことも日本におけるイスラームの質的特殊性に由来する、というよりもむしろ量的問題に還元される、つまり、単に当時の日本社会においてムスリムが超極少数派であり、コミュニティーを作るにも至っていなかったために、非イスラーム社会に飲み込まれた、というのが実情に近い。そこで本節では日本においてムスリムが圧倒的に少数である歴史的背景を概観しておこう。アジアにおける武力征服によるイスラーム拡大はインドをもって終わり、中国本土に及ぶことはなく、中国は幾多の異民族王朝の興亡をみたが、イスラーム系の王朝は逐に成立しなかった。それでも中国にはトルコ系のムスリム民族が少数派として常に存在し、「回族」と呼ばれるイスラームを受け入れた漢族の少数派も存在した。しかし朝鮮半島には、近代に至るまでこのような少数派としてのムスリムすらも存在しなかった。つまり中国と朝鮮が大陸ルートにおいては、日本とイスラーム世界を隔てる大陸ルートの二重の障壁でとなっていたのである。

 一方、南洋では、13世紀から14世紀にかけて中東、南アジアのムスリム商人の活動によりスマトラ西南部を中心にイスラームが受け入れられていきましたが、マラッカ王国のイスラーム王朝の成立により、15世紀以降、周辺地域(現在のマレーシア、インドネシア、シンガポール、ブルネイ、及びタイとフィリピンの一部)のイスラーム化が本格化します。しかし丁度この時期は、いわゆる「大航海時代」、つまり西欧によるアジアの植民地支配の始まりでもあり、南洋ルートのイスラームの東漸はフィリピンをもって終わる。16世紀に日本に姿を現したのはムスリム商人ではなく、西欧のキリスト教の宣教師だったのである。

 このように大陸ルート、南洋ルートの双方が閉ざされていた結果、日本は明治維新に至るまでイスラーム世界との人的交流を一切経験することがなかった。唯一の例外は、元寇で、1275年に元朝のフビライが日本に派遣した5人の使節の中に2人のムスリムがいたことが資料的に確認される。ちなみにこの2人は時の執権北条時宗の命により、他の3人の使者と共に滝の口で斬首刑され、これが第二次元寇、弘安の益の発端となった。日本とイスラームとの最初の遭遇は、幸せな出会いと呼べるものではなかったのである(『日本イスラーム史』、19頁)。

 

(6)戦前の日本のイスラーム

 江戸時代にはユーロッパを介してイスラーム世界の事情が断片的に明らかになりつつあったが、日本とイスラーム世界の真の交流が始まるのは明治以降である。

 明治5年には後の外務大臣の林薫によって本邦初の預言者伝「馬哈黙伝」が出版され、明治25年には山田寅次郎、有賀文八郎の二人がイスラームに入信している。これが日本人のイスラーム入信の嚆矢とされており、また明治43年には山岡光太郎が日本人初のメッカ巡礼を果たす。

 昭和に入ると、昭和6年に日本初のモスクが名古屋に、昭和10年には神戸、12年には東京にもモスクが建設される。また昭和8年に「イスラム学会」、11年に「日本回教文化協会」が創立された。12年には小林哲夫が参謀本部の奨学生日本人として初めて世界最古のイスラーム大学であるエジプトのアズハル大学に留学している。また13年には「大日本回教協会」が創立された。

 この大日本回教協会は戦前戦後を通じて最大のイスラーム関連団体であったが、非ムスリムの前内閣総理大臣林銑十郎陸軍大将を初代会長に迎え九段の軍人会館で開会式を行ったことからも明らかなように、戦前の日本とイスラームの関わりの軍国主義的性格を象徴する団体でもあった。

 事実、同協会は会則第2条に「本会は世界における回教の教団教徒と親睦融和を図り相互の福祉を増進するを目的とす」(『日本イスラーム史』、424頁)と定めると共に、方針として「皇道精神に基き回教諸民族と密接なる融和を図り相互の文化通商、親善及び福祉を増進し以て世界平和、人類幸福に寄与せんとす」(同上、423頁)と唄い、その国家神道色を隠していない。

 この時期に設立された多くのイスラーム関連団体主目的は、日本のアジア侵略の地ならしのためのイスラーム圏宣撫工作にあり、東京モスクの建設も黒竜会や玄洋社などの右翼団体の暗躍によるものだった。

 例えば陸軍には回教別班という特務機関があったが、そこに帰属していたアブデル・ハメッド小野信治は『新亜細亜』(昭和17年6月号)に「インドネシア回教工作について」なる一文を寄せ、現地人の信奉するイスラム教は絶対放任し彼らの指導者たるキヤイ(地元のムスリム有力者)を重視してキヤイその者を傀儡(把握)すること、などの具体的提言を行っている。                                                                 但し彼ら工作員の中には、ムスリムの独立を真摯に企図していた者もあった。たとえば「皇兵あらたに皇民皇土をつくる」と題したジャワ島のムスリム対策のパンフレットの作成者の一人であったアブドル・ラフマン市来竜夫などは、敗戦後もインドネシアに残り、独立戦争に参加し、昭和24年1月9日オランダ軍との戦闘で壮絶な戦死を遂げている。(田澤拓也『ムスリム・ニッポン』小学館151-157頁)

 陸軍参謀本部の嘱託であり3回のマッカ巡礼を果たしたサーリフ鈴木剛は海軍に入る甥の一彦に、「これだけはお前に教えておいてやる。危険に直面したときも、とっさにこの言葉を口にすれば助かる。役に立つ言葉だから、と。」と言って、イスラームの信仰告白句「アッラーは唯一の神であり、マホメットはその使者なり」を教えた。(『ムスリム・ニッポン』、161頁)

 また戦前の日本のムスリム共同体において最も重要な役割を果たしたのは、中央アジアのトルコ系の亡命者/移民であった。ここでは昭和5年に東京回教団を組織したアブドルハイユ・クルバンガリー、昭和9年に「イデル・ウラル・トルコ・タタール協会」を設立したアヤス・イスハキ、井筒俊彦がアラビア語の手ほどきを受けた東京モスク初代導師アブドッラシード・イブラーヒームの名をあげておこう。

 

(7)戦後日本とイスラーム

 戦前の日本のイスラーム諸団体は軍国主義に奉仕するものであったため、敗戦後、占領軍司令部によって解散させられる。

 戦後のイスラーム団体は、軍事色を失い純粋な学術団体と宗教団体に分かれて、今日に至っている。前者の代表が1963年創立の社団法人「日本イスラム協会」であり、後者の代表が1952年創立の宗教法人「日本ムスリム協会」である。

 一方で、高等教育機関におけるイスラーム研究の制度化は相対的に立ち遅れが目立つ。現在に至るまでイスラーム研究を表看板とした学科組織は、1982年に東京大学文学部に開設されたイスラム学科、92年に東北大学大学院に開設されたイスラーム世界研究科、93年に九州大学文学部に開設されたイスラーム文明科、の僅か3つを数えるに過ぎない。 戦後の日本のイスラーム教徒は、アブドッラシード・イブラーヒームに師事したサーディク今泉義雄モスクを会長に発足した日本ムスリム協会を中心に活動を再開した。

 日本ムスリム協会はイスラーム学の研修のためにアラブ諸国を中心に多くの留学生を派遣している。現在までに日本人ムスリムでエジプトのアズハル大学、マッカのウンム・アル=クラー大学、マディーナのイスラーム大学等のイスラーム学部を卒業した者の数は10名を越えるが、その殆どが同協会に所属している。

 70年代に入ると石油危機、オイルショックにより石油収入が激増したアラブ湾岸産油国等からの資金援助によってイスラームの「宣教」がビジネスとして成立する状況が世界的に生じ、日本でも75年のイスラミックセンター・ジャパン、78年の日本イスラーム教団等多くの団体が生まれ、82年にはサウディアラビアのイマーム・ムハンマド・ブン・サウード・イスラーム大学の東京分校「アラビック・イスラミック・インスティチュート」が開設される。上述の日本ムスリム協会もこの時期を境に、それまでほぼエジプトのアズハル大学だけであった留学生の派遣先が、湾岸産油国の諸大学へと多様化する。なお2000年に再建された東京モスクはトルコ共和国の宗務庁の管理下にある。

 80年代後半になると外国人不法就労者が急増するが、イスラーム世界出身者としてはパキスタンとイランが圧倒的多数を占めた。イスラームには、入信を「公認」する「公的」教会制度がなく、また日本にも宗教人口を登録する制度が存在しないため、正確は把握は不可能であるが、10万人前後と推定される日本のムスリム人口の大半はこうした外国人不法就労者であり、また日本人ムスリムの9割以上が外国人ムスリムと結婚した女性であると考えられている。

 在日ムスリムの大半が外国人ムスリムであることから予想される通り、日本のイスラーム状況は、世界のイスラーム状況を反映している。在日外国人ムスリムの中でインド亜大陸出身者の割合が高いことから、日本においても最も活動的な団体は、インド亜大陸で活動の盛んなジャマーアテ・イスラーミーとタブリーギー・ジャマーアであり、現在日本各地にある数十カ所のモスクの中で約半数は、両者のいずれかの系列の活動の拠点ともなっている。一方でムスリム外国人留学生の間では、ジャマーアテ・イスラーミーと共にアラブのムスリム同胞団の影響が強い。

 とはいえ、外国人ムスリムの絶対多数はイスラーム学の素養を欠き、それぞれの母国の慣習、伝統とイスラームとの区別が出来ず、また区別ができないことの自覚すらない。

 日本ムスリム協会第4代会長アブー・バクル森本武夫は、1984年の時点で、「現在我が国内には残念ながら信頼に足るイスラームの教育機関も施設もなく」(『イスラーム入門』、1998年、中大生協出版局、206頁)と慨嘆していたが、21世紀を迎える現在もその状況は全く変わっていない。

 それゆえ現在の日本のムスリムの間では、絶対多数を占める外国人ムスリムの間のイスラームに対する無知と歪曲が、日本人ムスリムに伝えられて増幅され、拡大再生産される状況が定着している。

 

(8)日本のイスラーム理解を巡る理論状況

 

 まことに我ら(アッラーフ)は全ての民族に、アッラーフを崇拝し邪神を避けるようにと、使徒を遣わした・・・。(クルアーン16章36節)

 

イスラームは人類の始祖アーダムの教えであり、預言者ムハンマドが説き明かした実定宗教としてのイスラームを狭義のイスラームと呼ぶなら、人類生誕以来の天啓の教えの全てを広義のイスラームを呼ぶことができる。アッラーフがクルアーンの中で、全ての民族に使徒を遣わした、と明言されている以上、日本にも使徒が遣わされ、広義のイスラームが伝えれていることになり、イスラームを信ずる以上、初代日本人ムスリムたちが記紀神話の「生みも生まれもしない独神(ひとりがみ)」である「造化神」の教えの中にイスラームの痕跡を見いだしたのはむしろ当然とも言える。既に述べたように、それは宗教混淆というより、むしろイスラームの教義の展開、深化である。

 

   ・・・イスラムの教えは、マホメットが創始したものなんです。マホメットというのは預言者です。預言者とは、神の言葉を預かる人のことです。預言者マホメットは、誰の言葉を預かったかというと、これはアラーの言葉を預かったわけです。

 では、アラーの神とは、いったい誰であったのか。「アラー」とは、別名「エホバ」とも言われます。その神の正体は、「正義の神」とも言われます。「裁きの神」とも呼ばれます。そしてイエス様があるときに、「我が父」と呼んだ神でもある、とみうふうにも言われています。そして、その人の最近、有名になった名前は、「アール・エル・ランティ」とも言います。ということは、その人は「高橋信次」でもある、ということであるわけです。

 まぁ、ここまで話すのにずいぶん時間かかりましたけれども・・・・・・。要するにだ、マホメットが神と言ったのは私のことなんです。・・・

 そこでね、まぁ結局はどういうことかというと、マホメットは今から千四百年程前の人だけどね、そのマホメットにコーランつくらしたのは、私です。・・・

 ・・・それからもうひとつ、イスラム教の特徴といえるものをあげるとするならば、唯一なる神ということを、ひじょうに強調していますね。もう唯一なる神、これ以上の神はない、ということを言っていますし、その傾向性は高橋信次にもあるでしょう。それは注意深く、私の霊言集を読んでこられ、そして他の霊人の霊言を読んできた方であるならば、その傾向ははっきりと感じとっておられるでしょう。「我(わ)れ以外に神なし」という気持ちが、言外に滲み出しているかもしれません。・・・

 ・・・そういう意味で、私が唯一の神ということを明言しているわけです・・・」(大川隆法『アラーの大警告』幸福の科学出版、1991年13-4,17,19頁)

                                                                                 これは公称300万人の信徒を抱える新宗教屈指の大教団「幸福の科学」の教祖大川隆法の言葉である。

 自分がアッラーフであり、自分以外に神はなく、ムハンマドにクルアーンを作らせたのは自分であるというのである。これはアッラーフが唯一神であり、ムハンマドがその使徒であるとの最高の信仰の形態なのだろうか。

 こうした言葉が霊言として尊ばれる日本文化において、イスラームを理解するためには、いかなる学問的態度が要請されるのであろうか。

 世界的意味論学者井筒俊彦のクルアーン、神秘主義研究を例外として、戦後のイスラーム研究の再出発の主役は歴史研究者であった。板垣雄三、三木亘らによるイスラーム文明史の研究は、西欧のイスラーム研究の背景にある「オリエンタリズム」への鋭い問題意識を特徴とし、それゆえイスラーム文明という歴史現象に対する「対象についての客観的知識」の蓄積であるにとどまらず、イスラーム文明を鏡とする西欧文明批判ともなっており、現代日本のアイデンティティーを問い直す契機をも宿す優れた研究が生まれている。

 73年のオイルショックの後のイスラームへの関心の増加に伴って、イスラーム研究の方法論には、従来の歴史学に加え、宗教学、人類学等が加わる。

 最初に、プロテスタント神学を出自とし概念構成において最も文化=イデオロギー的偏向の強い宗教学に目を向けよう。宗教学のイスラーム研究はオリエンタリズムの「正嫡」であるが、世界システム論の主導者ウォーラースタインが指摘する通り、そもそもオリエンタリズムとは「教会に出自を持ち」「福音伝道の補助者として自己を正当化した」キリスト教的偏向を有すると同時に、「近代とまったく対立し、それゆえ科学的エートスのうちにほとんど捕捉されることはなかった」(ウォーラースタイン『科学をひらく』藤原書店、1997年、51-53頁)と言われる西欧の学問体系の中でも最も「遅れた」学問領域であった。イスラームをフィールドとする宗教学者中村廣二郎は言う。

 

 イスラームという宗教にどのようにアプローチするかである。まず、確認すべきことは、イスラームにはさまざまなイスラームがあったし、また現にそうであるということである。そして研究者はそれらすべてのイスラームを真実のイスラームとして、等距離で接しなければならないということである。

 ・・・イスラームの最小限の要件として、唯一なる神、その使徒ムハンマド、および彼が伝えた啓示(コーラン)への信仰を考えておけばさしあたり十分ということである。・・・・このようなスタンスを取ることによってわれわれは特定の立場を前提とする独断を避け、どのような分派やセクトの主張にも、またいかなる神学的変化にも、それがムスリムとして真摯なものである限り、公平かつ謙虚に理解することができるのである。(中村廣治郎『イスラームと近代』岩波書店、15-17頁)

 

 このような個人の内心の「信仰」を基準とするアプローチが有効なのは、信仰を知識、行為と対立的に把握した上で信仰の決断を宗教の神髄とするプロテスタントの一部のセクトのみである。この方法論はユダヤ教、ヒンドゥー教、神道のような民族宗教を分析し得ないのみならず、キリスト教についてすら、宗教帰属が個人の主観的信仰ではなく教会による秘跡の「客観的」手続によって決まるカトリックにも適用できないのである。

 中村のような自己の立場の党派性(宗教学の出自)に無自覚な立場に立つ限り、そもそもイスラームの理解はおぼつかず、ましてや「独断的判断を避け・・・公平かつ謙虚に理解する」ことなど不可能であることは、彼自身が自己の考えに合わない立場を「頑迷で旧套を墨守するばかり」(同書、196頁)と平然と断じて、そのことに矛盾を感じてすらいないことからも明らかであろう。

 このような中立性の僭称は、儒教研究者澤井啓一が言うところの価値中立と同時代のコモンセンスとの取り違えに過ぎない。

 

 ・・・本当に価値中立的な立場が保証されているのかと言えば、さきほどの「テキスト論」を持ち出すまでもなく、それが不可能なことは誰の目にも明らかであろう。かりに、ある研究者が価値中立的な立場をとっていると考えていると考えるならば、実際には存在しているにもかかわらずその姿を見ることができない透明人間となるようなカモフラージュを行って、-ないしは、そうしたカモフラージュを行うことができたと思い込んで-、同時代のコモンセンスを語っているにすぎない。つまりは、価値中立としうことと同時代のコモンセンスとを取り違えることによって、「実証的」に明らかにされたことに研究者の介入がないと誤認しているだけのことである。価値中立ということは、せいぜいのところ、同時代における特定のイデオロギーに加担していないという意思表示にすぎず、時代そのもののイデオロギー性、すなわちコモンセンスを回避できたということではない。・・・つまり思想史研究は、依然として「近代」が生み出した歴史主義的なコモンセンスに従属させられているのである。(澤井啓一『<記号>としての儒学』光芒社2000年、101-103頁)

 

  一方、現在の日本のイスラーム研究において最も先鋭な方法意識の所有者である人類学者大塚和夫もまた、研究対象を中村と同じく「時代や地域の状況に応じてさまざまな現れ方をしてくる『小文字で書かれた複数のイスラーム(islams)』」とする。しかし大塚は、その選択自体を「イスラーム的基礎知識の蓄積」の欠如の産物として相対化し(大塚和夫『異文化としてのイスラーム』同文館、1989年、149頁)、更に「・・・私はある意味で、本質主義的なイスラーム把握をしていることを認めざるをえない。すなわち、『世俗的』なムスリムの生き方も、『シンクレティズム的』なイスラームのあり方も、諸イスラームというカテゴリーのなかに強引に引きずり込んでしまい、そのヴァリアントと位置づけてしまうのである。・・・しばしば、本質主義は、研究対象となっている人々の文化把握のあり方を特徴づけるものとして使われがちであるが、別のところで指摘しておいたように、研究者自身の用いる概念にもその性質は十二分に見いだすことができるのである。」(13-14頁)と述べ、「複数の小文字のイスラーム」という概念を使用すること自体が、イスラームに対するそれ自体一つの恣意的な本質主義的決断に基づくことを自覚しているのである。

 真に「公平かつ謙虚」なイスラーム理解の可能性が見いだされうるとするならば、それは自らの認識の限界に関する痛みを伴う自覚の上に立ったこの大塚の方法が指し示す方向においてしかないように思われる。

 

(9)教科書におけるイスラーム

 

「イスラム」とは、唯一神アッラーに絶対的に帰依するとの意味である。したがって、唯一絶対・全知全能の神アッラーに帰依し、なにごとも神の御心のままと考えて、おのれを空しくして生きるのがイスラムの生活である。・・・中略・・・

 イスラムが帰依する神は、ユダヤ教やキリスト教の神と同じ天地万物の創造主であるが、神と人間とのかかわりについてのとらえ方は異なっている。神の偶像化がふさわしくないとして禁じられているのは同様であるが、キリスト教のような「神の子」は存在せず、ムハンマドもまた、モーゼやイエスとならぶ預言者のひとりとして、神の啓示を伝えるものにすぎないとされる。・・・中略・・・

 聖典の中心をなす「コーラン」は、ムハンマドにくだされた神の啓示をあつめたものとされ、信仰上のきまりばかりでなく、政治の戦争処理の規則、民事・裁判の法律までもふくんでいる。イスラム教の特徴は、宗教的な勤め(六信・五行など)が強調されているとともに、宗教と俗事が区分されず、宗教が日常生活のすみずみに及ぶ規範となっていることにある。・・・(高等学校 倫理 第一学習社 平成9年2月10日発行 50-51頁)

 

 高校の倫理の教科書のイスラームに関する記述であるが、「おのれを空しくして生きる」というがイスラームの文脈で多用されるものでないことを除けば、イスラーム自体に関する知識としては「客観的」にバランスよく纏まった優れた要約と言うことが出来る。

 しかし世界史の教科書となると、イスラーム史の位置付けには大きな問題がある。代表的高校の世界史教科書6冊(『詳説世界史』、『要説世界史』、『詳解世界史』、『高校世界史』、「新選世界史』、『高等学校世界史』)を取り上げた謝世輝は、日本の高校の世界史教育のヨーロッパ中心主義の偏向を指摘する。特に謝が日本の世界教科書の欠点として指摘するのはイスラーム文明が世界史において果たした役割と、イスラームによる世界の一体化、の2点についての言及の欠落である。

 

 8世紀の半ば、バグダードを首都とするアッバース朝が成立する。それ以前のウマイヤ朝がアラブ人の特権支配国家であり、「アラブ帝国」と呼ばれるのに対し、アッバース朝はムスリムの平等を原則として成立し、繁栄したため、「イスラム帝国」の名で知られる。以降、分裂・消長を繰り返しながらも広範な地域に浸透し、時代的には、中世はもとより、近世にその最高潮を迎えるオスマン・トルコ帝国に至るまで、イスラムの基本原理は受け継がれていくのである。

 では、イスラム世界がこのように繁栄し、広範に浸透した理由は何か。一つは、平等を基本精神とし、非ムスリムとも融合政策をとったこと、もう一つは、官僚機構と軍事力を整備し、中央集権的に行政を安定させたことである。

 後者の一環としての、経済・国家のシステムの一例を紹介しよう。すでに8世紀末のアッバース朝において、官僚と軍人に対し、毎月一定の貨幣による俸給が支払われていたのでさる。つまり月給システムだ。・・・

 「アッバース朝とは月給をもらう職業軍人よりなる常備軍を備えた国家なのである。貴族や封建騎士ではなく、官僚と常備軍にささえられた国家とは、近代ヨーロッパが理想とした国家であり、それは十九世紀になってやっと実現する。アッバース朝はそのような国家を八世紀には実現していたことになる」(佐藤次高・鈴木董編『都市の文明・イスラーム』講談社現代新書、89頁)・・・

 アッバース朝の意義、すなわちイスラム文明が後世に残した世界史的(文明史的)役割を、もう一例紹介したい。それ「現代都市生活の原型」が、早くもアッバース朝において出現していたという事実である。

 現代都市生活の基本とは、いわば「個人の自由」の保障だろう。もちろん個々人には、それぞれの共同体(組織・集団)に組み込まれて生活している。最小単位は「家族」であり、頂点には「国家」がある。ただし私たちは、それぞれの共同体に100パーセント隷属し、束縛されているわけではない。たとえばサラリーマンなら、ある企業(組織)に属して、そこから給料をもらう。しかし職場を離れれば、生活は自由である。つまり、個人と組織のかかわり方は「限定的」である。

 ひるがえって、中世以前の世界では、人々は共同体のなかに100パーセント埋没していた。そうしなければ生活が成り立たなかった。いわば「ムラ社会」が洋の東西を問わず、一般的であった。

 ところが、これと様相を一変させる生活様式が、八世紀のアラビア周辺で始まったのである。

 たとえば当時、住居(アパート)や店舗の賃貸制度が普及しはじめ、だれでも自由に都市に出入りし、自由に生活できた。町をいくつもの、今日でいう不動産業者と個人の自由契約によって成立し、全体の管理者はいない、人びとは、誕生から教育、結婚、死亡という一生を通して、政権と無関係に(なんらの介入なしに)、自分の生活を営むことができたのである。

 中世ヨーロッパには「市民権」というものが登場する。しかしこれは、きわめて閉鎖的であり、差別的なものであった。市民権を持たない人間にはなんの権利も与えられなかった。「そういう制度を発達させたヨーロッパ社会は、実は非常に遅れた社会であり、自由な空間を設定していたイスラムの都市の方がはるかに都市性が豊かであった」(新しい文明を語る会編『シルクロードと文明』の名かの後藤明著「都市文明とイスラーム」より)

 イスラムによる「世界の一体化」に話を進めよう。中世を通じて、東はインド、東南アジアまで、西は広大なアフリカ大陸の半分以上もの地域にイスラムが浸透したことを、地図で確かめていただきたい(地図省略)。

 このイスラムの拡大が「世界の一体化」の名に値する理由をはじめにあげるならば、まず、その広大な地域に、イスラム型とでも言うべき共通した政治・経済・社会システムが行き渡り、類似した社会様式が浸透したことである。そして、先に記したイスラム世界のうちの大半の地域において、今日でもなお、主主の形態の違いはあるにせよ、イスラムは力強い活動を続けているのである。

 さらに大事な点は、これらの社会システムや生活様式の普及は、イスラムによる強制というよりは、その土地のもともとの住民の社会・生活パターンを損なうことのない「自発的な」形で進められたことである。この点こそ、近代におけるヨーロッパにおける「一体化」とは、本質的に異なるものである。近代の「一体化」は、産業革命を契機とする西欧諸国の経済的要請に促された、世界の「市場化」がその本質であった。西欧以外の諸国は、自発的にではなく、好むと好まざるとにかかわらず、「植民地化」も含めて、世界市場に組み込まれていったのである。(謝世輝『これでいいのか世界史教科書」光文社、1994年、139-146頁』

 

 日本は明治以来、学問をヨーロッパから輸入してきた歴史があるため、既述のように日本の中東・イスラーム史家の一部には優れた業績があるものの、日本の史学界の一般認識のレベルではイスラーム史もまたヨーロッパの視点から見たイスラーム史の翻案の域を出ていない。ところがヨーロッパとイスラーム世界の関係は、ヨーロッパとインド、中国等他の文明圏との関係とは全く異なる歴史を有し、それゆえヨーロッパのイスラーム認識には、単なる自己中心史観による他文明の軽視とは違う特別な歪曲が存在する。そこで次節ではヨーロッパとイスラームの歴史的関係、ヨーロッパのイスラーム認識の特徴について概観しよう。

 

(10)イスラームとヨーロッパ文明

 山本雅男の定義によると地理上のヨーロッパとは「ソ連領のウラル山脈および黒海西岸から西、アフリカ大陸のサハラ砂漠より北、北西太平洋岸に向かって広がるユーラシア大陸の最西部および沿岸の諸島をヨーロッパと指す。」(山本雅男『ヨーロッパ「近代」の終焉』講談社、1997年、69頁)彼はまた「地理的に定義されたヨーロッパは、なにも西側ヨーロッパ、西欧だけに限られたものではなく、東欧と呼ばれた地域や地中海沿岸のアフリカ大陸までをも含むことに注意しなくてはならない。」とも指摘する。

 ところが地中海に面するモロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビヤ、エジプト、シリア、トルコといった諸国はムスリムの国々である。つまりイスラームとヨーロッパの関係を理解するためには、ヨーロッパを単純にキリスト教文明圏とみなす我々の常識を先ず根本的に見直す必要があるのである。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラームの「一神教諸派複合」を文明の基礎とする西アジア・北アフリカ・地中海・ヨーロッパを「西洋」として括り、「儒教、仏教、道教複合」の「東洋」、仏教・ヒンズー教複合の「南洋」と対置する中東史家三木亘によれば、「中世のヨーロッパはアラブ・イスラーム教徒主導下の一神教諸派複合文明と言える「西欧」の普遍文明の、むしろ周辺の一要素」であり、文明としてのヨーロッパというようなアイデンティティーが生まれるのははるか後世、十八世紀か、ピレンヌさん自身の時代(Henri Pirenne, Mahomet et Carlemagne, 1937)」である。(三木亘『世界史の第二ラウンドは可能か』平凡社、1998年、33-34頁)

 何ゆえヨーロッパとイスラーム世界を同一の文明と呼ぶことが可能なのか。それは西欧思想の2大源流はヘブライズム(ユダヤ思想)とヘレニズム(ギリシャ思想)である、と言われるが、ヘブライズムとヘレニズムはイスラーム文明の源流でもあるからである。ヘブライズムとは要するに旧約聖書の思想を意味し、それはイスラームと起源を同じくする古代中東のアブラハムの伝統の一部であり、ヘレニズムもまたイスラーム文明の支柱の一つを成している。順に説明しよう。

 

  アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、・・・

 

 日本語の新約聖書の冒頭、マタイの福音書の1章1節は、このように始まる。何故「アブラハム」なのだろうか。新約聖書の冒頭に置かれた「アブラハム」とは一体何者か。

 アブラハムは「ノアの箱舟」で有名なノアから数えて11代目(創世記によると。ルカの福音書では12代目)の子孫である。アブラハムはエジプト人の婢女ハガルとの間に、長男イシュマエルをもうける。旧約聖書の創世記には次のように言われている。

 

ハガルは、アブラム(アブラハムの旧名)に男の子を生んだ、アブラムはハガルが生んだ男の子をイシュマエルと名づけた。ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。(16章15-6節)

 

 マタイ伝にあるイサクの名はここに初めて現れる。このアブラハムの嫡男イサクの子孫が「イスラエル(イサクの嫡男ヤコブの別名)の民」、即ちユダヤ人であり、アブラハムの長子イシュマエルの子孫がアラブ人なのである。

 マタイ伝がアブラハムに至るイエス系図をその冒頭に置いたのは、モーゼの律法に基礎を置く既成のユダヤ教に対してその正当性を主張するために、モーゼより更に溯るユダヤ教の大祖アブラハムの教えの正統な継承者であるとの原始キリスト教会の自己理解を表現している。有名なフランスの哲学者パスカルの回心体験における「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者、学者の神ではない」との言葉の意味も、こうした文脈に置かれて初めて理解される。

 イスラームもまたアブラハムの宗教の再興を謳う。

 

  アブラハムはユダヤ教徒ではなくキリスト教徒でもなかった。彼は邪教を離れたムスリムであり、多神教教徒ではなかった。」(クルアーン3章67節)

 

 ムハンマドは、アブラハムの長男イシュマエルの子孫、即ちアラブ人に遣わされた預言者であった。イシュマエルの子孫たちは、アブラハムの教えを報じていたが、西暦1世紀の末頃にマッカのカアバ禁殿の守護職アムル・ブン・ルハイユによって偶像崇拝が導入されたと言われる。「イスラエルの民」、つまりイサクの子孫たちがアブラハムとの契約を破り、バアル神、アシュタロテ神等の偶像崇拝に陥ったのと同じことが、イシュマエルの子孫にも起こったのである。イサクの子孫たちをアブラハムの正しい教えに引き戻すために幾多の預言者たちが遣わされたように、イシュマエルの子孫たちをアブラハムの教えに立ち返らせるために預言者ムハンマドが遣わされた。それ故、クルアーンにはサーリフ、シュアイブ等のイシュマエルの子孫、即ちアラブ人の預言者たち共に、ヤコブ、モーゼ、ダビデ、ソロモンらイサクの裔、ユダヤ人の預言者たちの物語が満ちているのである。

  イスラームはユダヤ教徒の「教祖」モーゼ、キリスト教の「教祖」イエスを、「イスラエルの民」を正道に戻すために遣わされた「民族的」預言者とみなす。ムハンマドはアラブに遣わされた預言者である。但しムハンマドのメッセージはアラブ民族のみではなく人類全体に向けられたものと理解されているのではあるが、これについては後述しよう。

 キリスト教はヨーロッパ経由で日本に齎された。それゆえキリスト教徒はヨーロッパの宗教である、といった誤ったイメージが日本には定着している。しかしイエスの活動したキリスト教の発祥の地は中東であり、今日に至るまで最も古い形態のキリスト教が保存されているのはイスラーム世界においてである。イエスの時代には聖書ヘブライ語は日常語としては既に死語となっていた。イエスが話していた言葉はヘブライ語でもなく、ましてや語族の違うインド・ヨーロッパ語族に属する新約聖書のギリシャ語でもなく、ヘブライ語やアラビア語と同じくセム語族に属する当時の中東の共通語アラム語であった。そして今日にいたるまで、シリア正教会の典礼ではイエスが語ったアラム語が用いられており、信徒は立っては跪きひれ伏し、イスラーム教徒と同じ姿で礼拝を捧げているのである。

 本来のイエスの説いた教えは、中東のアブラハムの伝統に連なるセム語文化圏の宗教であり、今日のヨーロッパ化されたキリスト教とは全く異っており、むしろイスラームに近いものであったのである。

 一方ヘレニズムについても「アリストテレスの論理学書『オルガノン』 - 中略 - はアラビア語の文法と並んで、イスラム世界における人文研究の基礎としての地位を占めるにいたった。そしてこの状態は現在まで続いている。」(『アラブの歴史』(上)599-600頁)

 預言者ムハンマドの宣教開始時の中東で「文明」と言えばローマ帝国とササン朝ペルシャであったが、ムハンマドの生まれたアラビア半島はこの両帝国の支配にも服さない、いわば文明の辺境に位置した。しかしそれはアラビア半島がこの2大文明圏から全く孤立していたことを意味しない。イスラームは成立当初よりヘレニズム文化と関係を有していた。ムハンマドは12歳と25歳の時、隊商貿易のため、当時のローマ帝国の領土であったシリアのブスラーの町に旅している。またローマ(東ローマ)出身のギリシャ人スハイブの名がムハンマドの高弟の中に数えられている。

 ムハンマドの直弟子の時代にはヘレニズム世界の北半分はイスラーム世界に組み込まれる。シリアの征服は初代カリフ・アブー・バクルの時代に始まるが、第2代カリフ・ウマルの時代には、キリスト教最大の聖地エルサレムはムスリム軍によって占領され、次いでエジプトもイスラーム国家に編入されたが、ヘレニズム文化というと我々はついついギリシャ本土を思い浮かべがちであるが、ヘレニズム時代にギリシャ古典を研究する文献学の中核を占めたのはユークリッド、アルキメデス、アポロニウス、プトレマイオスなどにより代表されるエジプトのアレキサンドリアの学者たちであり、地理的にもこのエジプトこそがヘレニズム文化の中心地だったのである。

 ヘレニズム世界の南半分がイスラーム帝国の支配下に入ったことは、世界史に大きな影響を与えることになる。即ち反知性主義的な西方キリスト教会の支配下で衰退の一途を辿っていたギリシャ文化の遺産がイスラーム文明によって継承されたのである。

 ヘレニズム文化が本格的にイスラーム文明に同化されるのは、「翻訳の時代」とも呼ばれる約1世紀(750~850)で、この時代に、シリアのキリスト教徒やサービ教徒の翻訳家たちの手によって、ユークリッドの『幾何学原理』、プトレマイオスの『天文学大全』、ガレーノスやヒッポクラテスの医学書、そして『範疇論』、『命題論』、『形而上学』、『自然学』、『霊魂論』等アリストテレスの現存したほぼ全著作(『アリストテレスの神学』として知られたプロティノスの作品等の偽書を含む)がアラビア語に翻訳された。これらのギリシャ語作品の中にはアポロニウスの『円錐論』第5、6、7巻のようにギリシャ語原典は失われ、現在ではアラビア語訳のみが保存されているものもある。

 この時代の西欧にはこれらのギリシャの学術文献は殆ど知られていなかった。西欧は11世紀以降、イスラーム世界を通じてこれらのヘレニズム文化を知り、ヘレニズム文化及びそれを発展させたイスラーム文化が11~12世紀の「翻訳の世紀」にアラビア語訳から、あるいはギリシャ原典からラテン語に訳され、それが西欧のルネサンスを準備することになったのである。

 ギリシャ文明の延長上に西欧を位置付ける西欧の自己イメージ、歴史観は今日修正を迫られている。科学史家伊藤俊太郎が以下のように指摘する通り、西欧のギリシャ文化継受は、イスラームを経由したものである。

 

  我々は、西欧文明というと、ユークリッドやアルキメデスや、アリストテレスくらいは、はじめから知っていた、早くからギリシャ科学、ギリシャ文明はヨーロッパに入っていただろう、と思いがちなんですね。特にヨーロッパの学者はギリシャ以来三千年の西欧文明と言うわけですが、とんでもないことで、そのところに実は大きな断絶があるのです。ギリシャ科学は、西欧世界ではいったん途絶えてしまいます。・・・中略・・・12世紀になってはじめて、彼らはアラビア語を一生懸命勉強してアラビアの科学や哲学の文献をラテン語に翻訳する、またギリシャ語からも翻訳する、そういう大運動を起こしまして、そこでギリシャやアラビアの進んだ学術の成果をわがものとし、その後の発展の知的基盤を獲得するということになったのです。(伊藤俊太郎『12世紀ルネサンス』1993年岩波書店、13-14頁)

 

 西欧思想の2大源流と言われるヘブライニズムとヘレニズムは実はイスラームもまた共有する伝統である。いや、むしろイスラームこそヘブライニズムとヘレニズムの正当な継承者なのである。西欧はヘブライニズムの正当な継承者たる「キリスト教徒」、ヘレニズムの遺産たる「文明」の担い手としての自己のアイデンティティーを確立するために、どうしても一旦イスラームを「邪教」、「未開」として否定し、貶めねばならない内在的必然性があったのである。

 

   ですから西欧文明なるものの形成そのものが、このような異文明圏との接触を通じて、初めてかちとられたものであるということが、忘れられてはならないと思うのです。ヘーゲル以降の十九世紀につくり出された西欧中心主義の歴史観は、このような事実をしばしば覆い隠してしまい、ヨーロッパ文明の単純な連続性というようなドグマをつくってしまいます。(『12世紀ルネサンス』、268頁)

 

 伊藤俊太郎が看破したように、西欧科学はイスラーム科学の影響無しには存在し得なかったが、それを認めることはギリシャ文明の正嫡としての西欧のアイデンティティーの根幹を揺るがすことになり、それゆえ西欧は殊更に西欧へのイスラームの影響を隠蔽し「異質なイスラーム」というオリエンタリズムの言説を紡ぎ出し続けねばならないのである。

 

(11)十字軍パラダイム

 12世紀が、西欧がイスラーム文化を吸収し、イスラーム文化を通してギリシャ科学を発見した異文化間文化交流の時代であったと同時にイスラームによって侵食される一方であったキリスト教世界の反撃の開始、十字軍の時代でもあったことが忘れられてはない。

 十字軍とは1095年に教皇ウルバンが南東フランスのクレルモンで「聖墓への道を確保し、それを邪悪な種族から奪い返し、かれらを服従させるよう」にキリスト教信徒たちに訴えたことに始まり、11世紀末から13世紀後半すぎまで前後8回にわたって行われた聖地回復のための遠征であった。1099年7月15日にエルサレムを攻略した十字軍は、2日間にわたって老若男女の別なくムスリムのみならずユダヤ教徒をも殺戮したが、この時に殺害されたムスリムとユダヤ教徒の数は4万人ほどでその殆どが非戦闘員であった。(島田壌平『イスラム帝国の遺産』1980年平凡社150-151頁参照)

 律法を持たない「無法」なキリスト教徒の十字軍の野蛮さは、最後の普遍宗教としてのイスラームが、異教徒を庇護民として受け入れる他宗教との共存のシステム、非戦闘員の殺害の禁止などを法制化しており、また概して実際にも守られていたのと好対照を成してていた。

 また一方、イベリア半島では、イスラームの支配を脱するための再征服レコンキスタ運動が展開されたが、レコンキスタもまた十字軍の名で呼ばれた(小学館『万有百科大事典』4巻256頁)。実際にはレコンキスタは11世紀に至って後ウマイヤ朝(755-1031年)が没落し始めると共に進展し、13世紀中葉までにはグラナダを除いてスペインの再征服はほぼ完了した。(『アラブの歴史』下397頁)最後に残ったグラナダのナスル朝も、最後の21代スルタン・ムハンマド・ブン・アブドッラーが、キリスト教徒の征服者の法律下で人格を保護され宗教の自由を持つことを条件に、1492年、アラゴンのフェルディナンド王に降伏して滅亡した。しかしムスリムの信仰の自由の保証は守られず、1501年以来、スペインのイスラーム教徒に対しては強制改宗か追放からの二者選択を迫る勅令が発布され、1609年のフィリップ3世による最終的なイスラーム教徒追放令により、約50万のスペインの全イスラーム教徒が追放されスペインにおけるイスラーム教徒の「民族浄化」は完了したが、グラナダ陥落以来、この間に約300万のイスラーム教徒が処刑か追放の運命にあったと見積もられている(同403-404頁)。レコンキスタの結果として、スペインは宗教の共存を許すイスラームの統治システム下の多元社会から、カトリック教会の異端審問の嵐の吹きすさぶ全体主義社会に変質するのである。

 

西欧内部のユダヤ人もふくめてイスラム世界を敵対視する、この十字軍思想は、イベリア半島におけるレコンキスタや、十五世紀以降の、いわゆる大航海時代戦略を支え、以後曲折はあっても、現代西欧の対パレスチナ政策や、アメリカの対中東政策にまで尾をひいています。(『世界史の第二ラウンドは可能か』44頁)

 

 三木亘が指摘する通り、イスラームを敵対視するこのヨーロッパのイスラーム認識の基調低音となる「十字軍パラダイム」がこの時期に形成されたのである。

 

(12)日本とオリエンタリズム

 我々は前節までに、ヨーロッパのイスラームに対する特殊な認識構造 - オリエンタリズム - の発生を歴史的に跡付けた。即ちヨーロッパ世界は、自らのアイデンティティーの核であるヘレニズムとヘブライズムの正嫡がむしろイスラーム世界であり、ヨーロッパはイスラーム世界を通じてそれを学んだ、という歴史を隠蔽するために、イスラームを不当に軽視、蔑視する知の様式 - オリエンタリズム - を発展させたのである。

 ところが、このオリエンタリズムの認識構造は、我々「日本人」の自己認識

にとっても決して無縁ではない。  科学史家伊藤俊太郎は言う。

 

ところが日本人の日本史研究は、えてして朝鮮や中国のことを問題としないで、日本の中だけで考えてゆく傾向があったし、いまでもそういうことが残っているかもしれません。そして朝鮮から影響を受けた、などということはなるべく隠してきました。・・・

それと同じように、ヨーロッパの研究者の間には、西欧文明がアラビアから大きな影響を受けたなんてとんでもない、という気持ちがあるように思います。アラビアなんて石油だけの国ではないか、そこの文明からいろいろなものをもらって自分たちの文明の基盤ができたなどいうことがあってたまるかという自尊の念がどこか頭の端にあって、それで、そうした事実をひたかくしに隠すか、隠しきれなければ、それを最小限に押さえるとか、過小評価してしまう、あるいはその文脈をそらしてしますというようなことがあると思うのです。たしかに日本古代史における『朝鮮問題』と西欧中世史における『アラビア問題』というのは似た側面があります。(『十二世紀ルネサンス』、26頁)

 

 中国、朝鮮の認識が難しいのは、それが日本人のアイデンティティーに係わる問題だからである。そしてそれは単なる「文化」の問題ではなく、現在にまで禍根を残す植民地支配の歴史を隠蔽、あるいは正当化するイデオロギーとして、国際政治の「現実」に大きな影響を今も及ぼしていることが忘れられてはならない。

 

エドワード・サイードさんが「オリエンタリズム」と名付けているこのコンプレックスは、日本列島人の対中国意識とたいへん似ています。ヨーロッパ人・日本列島人、とくにその知識層は十七、八世紀ごろまで、それぞれイスラム文明、中国文明の影響、刺激をうけて文明を形作ってきたところから、むしろ畏敬の念を持ってそれを見てきたのですが、ひとたび軍事的に制覇すると、一点、これを差別、侮蔑の対象とするようになった。(世界史の第二ラウンドは可能か』31-32頁)

 

 イスラームをヨーロッパの眼差しから解放し、それ自体として認識することは、我々が内面化したヨーロッパの眼差しから我々自身を解放し、他者から学ぶことなくしては存在しえなかった日本文化の自己認識の問題でもあるのである。

 

(13)文明の対話、宗教の対話

 イスラーム学者でもあるイランのハータミー大統領が、1998年の国連総会において「文明間の対話」を提唱し、2001年を「文明間の対話の年」とするイニシアティブを取ったことは、前章において既に述べた。

 ハータミーの「文明間の対話」論は、ハンチントンの「文明の衝突」論へのアンチテーゼとして生まれた。しかし勿論、西欧にも他者との「対話」の発想がないわけではない。 山折哲雄は、近代日本におけるキリスト教と仏教の対話の歴史について、それが「外国産のキリスト教が「文明」と共に日本にやってきて、日本の土着の宗教と対話を交わそうとし」(『近代日本人の宗教意識』岩波書店1996年241頁)て始まったと述べ、それを「一神教的なキリスト教が多神教的な性格を内包する仏教に「対話」という名の宣教を押し付けるパターンとみることができる」と把握する。

 つまり西欧文明における他者との対話とは、キリスト教=文明による異教=非-文明への非対等な啓蒙=宣教であり、それは宗教間の対話の形式によって始まったのである。(イスラーム世界におけるジェブベトパシャ、ルナン/アフガーニー論争)

 山折は、こうした宗教対話を「エリートたちによって、なかば非公開的に密室の中でおこわれてきた」(250頁)、「血を流すような対話」(254頁)と批判し、以下のようにスペインのバルセロナのモンセラ修道院の訪問の体験からむしろ無言の民衆の宗教的実践の中に、宗教の共存の可能性を見いだす。

 

モンセラ修道院の黒いマリアと奈良東大寺に祀られている大仏は宗教的会話を交わす必要がないであろう。幼いキリストや十字架のキリストと釈迦誕生仏のあいだにおいても、そこにはあえて対話的緊張をかき立てようとする試みは生じないにちがいない。というのもそこには、民衆の進行を基盤にした宗教的現象の同時存在が自然の形でみられるからである。宗教的対話の緊張感ではなく、たんなる宗教的共存の親和感がみとめられるだけだからである。(252-3頁)

宗教的共存は、宗教的対話などなくとも微動だにしない基盤のうえに打ち立てられていた。(250頁)

 

 一方イスラーム世界は、異教徒を庇護民として受け入れ、十数世紀にわたって多宗教の共存を現実に実現してきた。このイスラーム世界の伝統を受け継ぐイスラーム学者ハータミー大統領の「文明の対話」の呼びかけを、日本の新聞は評して述べる。

 

・・・来日したイランのハタミ大統領の東京工業大学での記念講演「日本詩とイランの神秘主義」・・・。この学識あふれる講演は、こんなふうに始まる。

「日本から学ぶのは、秋風のささやき、木々の落ち葉、肌寒い夕暮れの光景がいかに内的な思索の契機になるかということです」・・・

「西欧には異なる言葉に隔てられた二つの文化の間の対話は不可能とみなす人たちがいる。だが、イランの神秘主義と禅はともに、言葉以前の意識、無言の間合い、沈黙によって『永遠の言葉』に達するのです。」・・・

「文化の対話を通じてのみ世界の困難は解決できるのです」

一世を風靡したハンチントン・ハーバード大学教授の「文明の衝突」論に対して、ハタミ氏はかつて国連総会演説で「文明間の対話」を唱えた。それはかくも深い認識に裏付けられているわけで、・・・

・・・ハタミ氏を擁するイラン国民をちょっぴりうらやましくもある。(早野透「ポリティカにっぽん」『朝日新聞』2000/12/19)

 

イランのハタミ大統領の東工大での講演を聞けば、その中でのイスラム神智学への造詣と信頼は深く、それ故可能になる仏教等の日本思想との比較における洞察の深さは、「神の国」の首相のレベルとはくらべものにならない。目前の学生たちに向かって、一国のリーダーが、それも「美」について心から心から熱く語りかけるこの姿勢は何だろう。そのおかげで質問が殺到し、講演時間を延長したとのことだが、醒めた日本の学生に訴えかけた者、それは何よりも人間としての「立ち姿」そのものの美しさの違いであっただろう(『毎日新聞』上田紀行「世紀がわりの論壇」2000/12/27)。

 

 山折による知的エリートによる宣教の一形態としての宗教対話と、民衆の無言の実践における宗教共存の対立の止揚。ハータミーの言う「無言の間合い、沈黙による永遠の言葉」、そして彼の「立ち姿そのもの」による対話こそが、その可能性を指し示しているのではないか。

 

(13)イスラーム・日本文化の現在

 明治維新以来、イスラーム世界との人的交流も芽生え、イスラームについての知識の蓄積は徐々に進んできている。

 日本におけるイスラームの学問的理解は、東京大学、東北大学、九州大学等の高等教育機関にイスラーム研究を専門とする学科組織も設けられ、倫理の教科書をひもとけば、中等教育の場でも既にイスラームの教義の要諦がほぼ正確に教えられる段階に至っている。

 また日本在住のムスリムの数は十数万人を数え、日本各地に数十のモスクが建ち、本書の冒頭に紹介したように、今や日本人の間にもムスリムの隣人を見いだすことはそれほど稀ではなくなった。

  しかしこれまでとは違ったレベルでのイスラームの日本文化への浸透現象が生じつつあるように思える。

 

智から一から道から聴きな

かみひとつ ひとつかみ 地球

かみひとえ な たとえ

伝える ひとへ

かみひとつ ひとつかみ 地球

声 はじける 

みんなのもとへ

・・・

ラーイラーハイッラッラー イッラッラー

(注:アッラーフの他に神はなし、アッラーフの他に)

たかい きたかい恐山クライマー

木漏れ日 影 光 そのとき

笑 怒 涙 一吹き

ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーム 

(注:慈悲遍く慈愛深きアッラーフの御名によりて)

・・・・

かみひとつ ひとつかみ 地球

・・・

       Say Salam

 

 和製ラップ「かみひとつ」(Twigy)の歌詞にちりばめられたアラビア語は、単なる音飾ではない。それは歌詞カードの最終頁の謝辞の冒頭の句、「Twigy Special thanks to Creater Allah」からも明らかである。といって、この歌をイスラーム思想の表現と考える必要もない。そもそもTwigyがムスリムであるか否か、と問うこと自体、意味があるまい。

 勿論ここにはネーション・オブ・イスラームの影響を読み取ることは可能であるが、そもそもネーション・オブ・イスラームのラップにしてから、イスラーム文化というよりも、第一義的にアメリカの黒人文化の一部なのである。

 日本はかつて中国、朝鮮を介して、仏教、儒教、道教の、欧米を通じてキリスト教の諸概念を取り入れ、今やそれらの諸概念は仏教徒、キリスト教徒を越えた日本人共通の文化の一部となっている。

 今やイスラームも狭いムスリム・サークルを越えて日本文化の構成要素となる段階に達した、あるいは日本文化もイスラーム的諸概念をも組み込み得るまでに成熟した、と言うことができる。我々は「かみひとつ」をその先駆的業績に数えることができよう。

 また一方で日本思想は、イスラームの核心にある「神の唯一性」認識の深化の契機ともなるような高度に普遍的な「人格神神学」をも生み出す段階に達している。

 <私>の存在の神秘をめぐって執拗な思索を繰り広げる永井均は、デカルト、ヴィトゲンシュタイン、クリプキ、デカルトなどの議論を踏まえてデカルトの「我思う故に我あり」の省察が「神学的前提にまで波及する」(永井均『<私>の存在の比類なさ』勁草書房、1998年、57頁)とした上で言う。

 

<私>とは唯一者であり、「最も重要な意味において隣人をもたない」もののことであった。「他の<私>とは、だから、矛盾表現であり、他の<私>の存在とは、一個のパラグックスでしかありえないはずなのである。唯一者の複数性。隣人をもたないものの隣人。たとえそのようなものがどこかに存在するとしても、それが<私>の世界の中に登場してくることは原理的にありえないはずなのだ。他者が存在するとは、しかしそのような不可能性が存在するということ、すなわち<私>の世界の中に登場してくることが原理的にありえないものが存在するということに、ほかならないのではなかったか。・・・(49頁)

<私>であるという奇跡が<人>の持ついかなる物理的・心理的諸性質によっても規定され得ない・・・中略・・・そしてこの場合、創造者がたとえばスピノザ的な「神あるいは自然」でありえなかったことも、また理の当然であった・・・(58頁)

<私>の存在は奇跡であるから、その創造者は「神」でなければならない。そしてもしそうだとすれば、神とは<私>を識別できる唯一の他者であることになるはずだ。・・・(59頁)

 

 永井の思想は既成宗教の枠組を越えた「一神教神学」の歴史の中でも最も独創的な貢献の一つに数えられよう。

 日本文化とイスラーム文化の地平融合を我々は今、目前としている。

 

第3章.アッラーフ

 人類初の宇宙飛行に成功した旧ソ連の宇宙飛行士ガガーリンは、「宇宙の何処にも神はいなかった」とのメッセージを宇宙から地球に送った。ガガーリンは、旧ソ連の信奉する共産主義の唯物論を証明したと確信してこう述べたのである。

 しかしムスリムが、この言葉を聞けば、これこそイスラームの正しさの証しである、と考える。なぜなら 「神は何処にも存在しない」との命題こそイスラーム神学の礎石だからである。

元日本赤軍の重信房子は、パレスチナでの生活体験から、以下のような親子の対話を伝えている。

「お母さん、月に人間が行ったら、アッラーはいなかったって。どこにいるの?」

「おまえね、アッラーの姿は見ることはできないものだよ」(重信房子『りんごの木の下であなたを生もうと決めた』、幻冬舎、2001年、90頁)

 唯物論を信奉した旧ソ連は今はなく、一方でイスラームは世界中で復興を遂げつつある。 同じ前提から出発した唯物論とイスラームはどこで分かれるのか。

 

1.アッラーフ

 イスラーム神学は、存在者(mauj¹d)を(1)「空間を占めるもの」、(2)「空間を占めるものに依拠するもの」、(3)「空間を占めず、また空間を占めるものに依拠する属性でもないもの」に三分する。

 「空間を占めるもの」は「物体(jism)」と呼ばれ、(2)「空間を占めるものに依拠するもの」は「偶有(‘ara½)」と名付けられる様々な属性である。例えば「人間」は「物体」であり、「男性」、「老人」、「賢者」、「白人」等の様々な偶然的性質「偶有」が宿る。物体の部分もまた同様で「目」も「碧眼」、「近眼」等の「偶有」が宿る。そして物体にはそれ以上分割することのできない最小単位があり、それは「原子(jauhar fard)」と呼ばれる。なお「偶有」には物体に固有の性質だけでなく、物体間の様々な「関係id_ fa」も含まれる。

 そしてこの「物体」と「偶有」の総体が「宇宙(‘±lam)」であり、「空間を占めず、また空間を占めるものに依拠する属性でもないもの」こそが宇宙の創造者、即ちイスラームの認める唯一神「アッラーフ」なのである。

 

 「宇宙」という語で我々はアッラーフ以外の全ての存在者を意味する。そして我々は「アッラーフ以外の全ての存在者」という言葉で、物体の総体と偶有の総体を指す。」(al=Ghaz ±lµ , al=Iqti­± d fµ al=I‘tiq±d, Cairo, n.d., p.29)

 

 神と宇宙の存在の根本的乖離。これがイスラーム神学の基本前提となる。

 アッラーフは時空の創造者であって、時空によって拘束されることはない。宇宙であれ、異次元であれ、いかなる場にもアッラーフは存在しない。

 時空を超越したアッラーフの存在は、そもそも「何処に」と答えられるようなものではない。アッラーフは何処にも存在しない。

 木石、天体は言うに及ばず、いかなる人間、天使、悪魔、あるいは宇宙人、異次元生命体、超常生命体であれ、それがどのように我々のような通常の人間を越えた能力、性質を帯びようとも、時空の中に存在する限り、それは被造物である過ぎない。そして時空の中に存在するいかなる被造物をも神とすることを決して許さない。これこそがイスラームの根本教義である。

 

2.偶像崇拝の否定

 

 あなたには私のほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは自分のために偶像を作ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。・・・(申命記5章7-9節)

 

 モーセの十戒は、多神崇拝、偶像崇拝の禁令をもって始まる。

 セム系一神教の最新ヴァージョンにして、世界史上最後に現れた普遍宗教でもあるイスラームは、多神崇拝、偶像崇拝の否定を最も研ぎ澄まされた表現に凝縮する。

 イスラームの信仰告白は「アッラーフの他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒なり。」の二つの告白からなるが、後述のように、究極的にはその第一段、「アッラーフの他に神なし」に還元される。

 日本語とアラビア語の構文は文法構造が根本的に異なるので、これでは真意が伝わりにくい。そこでアラビア語の原文に戻して説明しよう。

 「アッラーフの他に神なし」はアラビア語の原文では、「l± il±h ill± All±h」である。

 文法構造が日本語よりはまだアラビア語に近い英語に置き換えると、l± は no、il±h はgod、ill± はbut、 All±hは宇宙の創造者たる唯一神の固有名を意味する。

  従って「アッラーフの他に神なし」は、更に「no god」と「but All±h」の二つの文に分解される。butには英語でも「しかし」の他に、否定詞の後に続く場合の「~以外に」の意味があるが、アラビア語でも同じである。

  実は「l± il±ha ill± All±h」の後段の「ill± All±h」は、All±hが前段の判断には含まれない、との留保に過ぎず、All±h自体の存在判断は含んでいないのである。

 つまり「l± il±h ill± All±h」は、より正確には「神は存在しない。しかしアッラーフについては別である(判断留保)。」という意味なのである。

 イスラームの根本教義の更に核心には、「no god」、「神はなし」との神の否定があるのである。

 森羅万象の全てから神性を剥奪し、神は存在しない、どこにも神は存在しない、との認識に先ず立つこと。イスラームはこの神の否定から出発する。

 

3.「神」とは何か

 イスラームは神の否定から出発する。では「神」と訳したアラビア語の「il±h」はそもそも何を意味するのか。

 大塚和夫は「アラーの神」という表現の分析を手掛かりに、「<アッラー>という言語記号が超自然的諸存在を意味する他の言語記号ととる関係性の特徴を「排他性」、<カミ>のそれを「包括性」と名づけ、後者の包括性こそが問題の「アラーの神」という表現を成立させる基盤である」(『異文化としてのイスラーム』326頁)と分析し、「アラビア語の「アッラー」を、日本語の中で「神」と訳した場合には、はなはだしい意味上のズレが生じうる可能性があり、それはある文脈では「誤解」とさえいわざるを得ないかもしれないのである。」(同、324頁)と述べている。

 我々は先ず日本語の「神」の語との比較により、アラビア語の「il±h」の意味を明らかにしよう。

 日本の「神」とは本居宣長が言うように本来「常ならざるもの」を意味した。常ならぬ年を経た古木、巨大な石、美しい山、などは「神々しい」存在、即ち「神」とされる。

 一方アラビア語では「il±h」とは、イブン・タイミーヤ(1328年没)によれば「ma`b¹d(崇拝の対象)」を意味する。アラビア語の「神」の概念は、そもそも事物の「客観的」な性質ではなく、人間との関係性によって成立する。我々が崇拝することによって「神」は初めて「神」となる。

 つまりアラビア語の「l± il±h(神なし)」は、一見、客観的な存在判断を示す叙述文のように見えるが、同時に実は「我々は何物をも神として崇拝してはならない」との規範をも示しているのである。

 イスラームは、「神」が我々人間との関係性においてのみ存在することを確認した上で、「神」の客観的実在を否定し、我々が観念的に作り上げた「神々」の幻想を打破せよ、と教えているのである。

 そして「ma`b¹d(崇拝の対象)」とは三語根「‘bd」から派生する受動分詞であるが、「‘bd」とは「奴隷として仕えること」を意味する。つまり「崇拝する」、とは文字通りには「奴隷として仕える」ことであり、10世紀のスーフィーアル=ハキーム・アル=ティルミズィー(ヒジュラ暦320年没)は「アッラーフの他に神なし」の信仰告白句を「その帰結は自由と隷属からの解放である(thamrat-hu al=Æurrµya wa al=khur¹j min al=riqq)」と解説している。つまり「l± il±h(神なし)」とは、実は、人間は何物にも隷従してはならない、との人類の解放、自由の宣言でもあるのである。

 但し、ここでこの「解放」、「自由」を近代西欧的「自由」と考えてはならない。イスラームのいう「隷従からの解放、自由」とは、間の権利ではなく、むしろ義務である。つまり、パラドクシカルに響くかもしれないが、我々は言わば「自由である義務」があるのである。アッラーフはいかなる罪をも御赦しになられるが、決して多神崇拝だけは御赦しにならない。イスラームにおいては、人間は自由である義務があるのであり、自由でないことは決して許されないのである。そして我々の考えるような「自由」とは、後に見るように、イスラームにおいては、単なる自らの物欲を「神」の座に祭り上げ、その奴隷となっている状態に過ぎないのである。

 

4.神の「存在」

 旧約聖書は、神がホレブ山で火の中からモーゼに自らの名を明かし、「有りて有る者(yjehaveh 'asher yjehaveh」(出エジプト記3章14節)と告げた、と記している。

 「存在」を欠くものは神たりえない。イスラーム神学では、「存在」を神の本体(dh±t)に係わる唯一の属性として、「本体属性(­if±t dh±tµyah)」と呼び、神の属性の筆頭に数える。

 既述のように、イスラーム神学は、存在者(mauj d)を(1)「空間を占めるもの」、(2)「空間を占めるものに依拠するもの」、(3)「空間を占めず、また空間を占めるものに依拠する属性でもないもの」に三分する。

 人間、地球、太陽、・・・。「空間を占めるもの」とは、それが存在しないこともあり得るもの、存在することも存在しないこともどちらも可能な、偶然的に存在する「可能存在者」である。「空間を占めるもの」とは、時のある時点で生成しある時点で消滅するもの、無より生じ、無に帰すものである。

 「空間を占めるもの」とは空間と時間において有限である、つまり一定の空間と時間においてのみ存在する以外は無に他ならないものであり、「空間を占めるものに依拠するもの」は尚更そうである。

 場所を占めるものは、いかに広大であろうとも有限である限り、無限を前にすればその大きさはゼロに過ぎない。時の中に生成消滅するものは、いかに悠久の時を経ようとも有限である限り、無限の時間の中では、その存在はやはりゼロ、無にすぎない。

 

 夜の帳が彼(アブラハム)を覆った時、彼は一つの星を見て言った。

 「これが我が主である」

  しかしそれが沈むと言った。「私は沈むものを愛さない」

  次いで月を見て言った。「これが我が主である」

  しかしそれが沈むのを見て言った。

「我が主が私を導き給わなければ、私は迷える民の一員となっていたでしょう」

次いで太陽が昇るのを見て言った。「これこそ我が主である。これが最大である。」

 しかしそれが沈むのを見て言った。

「我が民よ、私はあなたがたが崇拝しているものと絶縁します」(クルアーン6章76-78節)

 

 宇宙に存在するものは全て時空の束縛を受けているが故に完全な「存在性」を欠く。完全な「存在性」を欠くもの、空間において不在となり、時間において無に帰するものは決して「神」たり得ない。それゆえ宇宙の中にはどこにも「神」はいない。

 これがイスラーム神学の出発点となる。

 クルアーンのアブラハム(イブラーム)の物語は、この命題の神話的表現、いやイスラーム神学こそがこの物語の哲学的表現なのである。

 

5.神の属性

 アリストテレス論理学がイスラームの人文学の基礎となったことは既に述べた。アリストテレス論理学の扱う範疇は「必然」、「可能」、「不可能」の3つの様相を含むが、イスラーム神学はこの様相論理を用いて神の存在を論証する。

 時空の中にある存在者の全て、そしてそれらの総体としての宇宙自体が、生成消滅する有限なもの、可能存在者に過ぎないことを立証した後、イスラーム神学は、それらの可能存在者の存在のための全き存在者の存在の不可欠性の証明に論を進める。

  全き存在者とは、無と有のいずれでもありうる可能存在者とは違って、必ず存在しなくてはならない必然存在者である。

 この必然存在者をイスラーム神学は宇宙の「作り手(s_ ni‘)」と呼ぶ。

 イスラーム神学は、神たるべき「宇宙の作り手」、全き存在を有する「必然存在者」が、論理的に備えるべき属性を「否定的属性」と呼ぶ。否定的属性とは、宇宙に存在するもの全てから神性を否定することから導出される属性であり、それは、(1)時において始点を持たないこと、即ち「無始」、(2)時において終点を持たないこと、即ち「無窮」、(3)生成消滅するものと共通点を持たないこと、即ち「非生成」、(4)他の何物にも依存しないこと、即ち「自存」、(5)無比であること、即ち「唯一性」の5つを数える。

  イスラーム神学は、「必然存在者」、「宇宙の作り手」たる神の属性を(a)本体的属性、(b)否定的属性、(c)有意(ma`±nµ)属性、に分類する。

 (a)本体的属性、(b)否定的属性については既に見たが、イスラーム神学の列挙する(c)イデア属性とは、(1)能力、(2)意志、(3)知識、(4)生命、(5)聴力、(6)視力、(7)言語能力、の7つである。

 否定的属性が有限な存在者との断絶をネガティブに浮き上がらせる属性であったとすれば、有意属性は有限な存在者との具体的な関係をポジティブに記述する属性である。

 自らの思うがままに何事をも為し得、万事を見聞し森羅万象に通暁し、人類に自ら語りかける神。実はその一つに言語能力が数えられていることに象徴されるように、有意属性とは何よりも神の御言葉、神が人類に下した啓典クルアーンの描く神の属性である。

 イスラーム神学では、神の属性(­if±t)は「御名と属性(asm±’ wa ­if±t)」と御名と共に論じられるのが通例である。クルアーンとハディースの挙げる神の御名の数は99とも言われるが、ここでは、神名が最も纏まった形で列挙されているクルアーンの章句をあげておこう。

 

彼こそ、彼おいて他に神はなく、幽玄界と現象界の通暁者、慈悲遍く慈悲深いアッラーフにおわす。

 彼こそ、彼をおいて他に神はなく、王、至聖者、平安、信仰の授け手、総括者、威力者、尊厳者、超絶者であるアッラーフにおわす。アッラーフは人々が併置するものから隔絶して誉むるべきかな。

 その彼こそ、彼をおいて他に神はなく、創造者、造物者、造形者であるアッラーフにおわす。最美の諸名称は彼に属する。諸天と地にあるものは彼を称え奉る。彼こそは威力者、英主におわす。(クルアーン第59節22-24節)

 

.神学の論理構成

 イスラームの第一信仰告白「アッラーフの他に神はなし(l± il±h ill± All±h)」は論理的には、神の存在判断は含まない。20世紀後半の最大の分析哲学者と言われるW.V.クワインが渇破した通り、それは厳密に定式化すると、「アッラーフの他に神はない、と述べることは、何であれ神があるならば、その神はアッラーフと同じ(アイデンティカル)である、ということを肯定しているのである。」(原訳はアラー) W.V.クワイン、吉田夏彦・野崎昭弘、『哲学事典』白揚社1994年、134-5頁)を意味する。

 これを敷延するなら、仮に神が存在するならば、神は「斯く斯く然々」の属性を帯ねばならず、そのような「斯く斯く然々」の性質を帯びるものは全てアッラーフと同一である、ということになり、事実イスラーム神学は基本的にそのような構造を有している。

 既述のように、イスラーム神学は、「(宇宙の)造り主(­±ni`)」について議論を展開する。

 神の存在証明の議論において創造神を指示する語として、アッラーフでもなく、またクルアーンにおける同義語の「創造者(kh±liq)」、「造物者(b±ri')」、「形成者(f±»ir)」、「造形者(mu­auwir)」でもなく、クルアーンに現れない「造り主(­± ni‘)」がイスラーム神学の専門用語として選ばれていることに我々は注目しなくてはならない。

 イスラームの出発点は神の否定にある。「存在」をキーワードに、時空のうちに有る全ての生成消滅する可能的存在者からの神性の剥奪、現象界における神の存在の否定の上に、可能的存在者のネガとして「あるべき」神を論理的に構成する。本体的属性、否定的属性の定式化における神学の主たる作業はその構成にあり、その帰結が「(宇宙の)造り主(­±ni‘)」なのである。

 一方、有意属性の定式化においての神学の主目的は、この「造り主(­±ni‘)」が、クルアーンの描写するところの神にしてそのクルアーンの啓示者でもあるアッラーフに他ならないことの立証にあるのである。

 イスラーム神学の主たる使命とは、現象界の存在者の存在様態の経験的分析から論理的に構成した抽象的で無機質なネガティブな「造り主(­±ni‘)」たる「神」を、クルアーンが生き生きと描くところの、人間と交信する「アッラーフ」と同定することにあり、それゆえ存在証明における神は通常、クルアーンの用語ではない「造り主(­±ni‘)」と呼ばれるのである、属性論の構造は更にそれを明白に物語っているのである。

 

.理性の神、啓示の神

 イスラームは発生論的に、無神論を一旦くぐり抜けた上で、あるべき「造り主」を措定し、それをアッラーフに同定する構造を持ち、そして実際にイスラーム神学は基本的にそのような構図を有する。しかしそれはムスリムのが日々の生活における信仰の形態もまたそうであることを意味しない。

 後期神学は、既述の1つの本体的属性(存在)、5つの否定的属性(無始、無窮、非生成、自存、唯一性)、7つの有意属性(能力、意志、知識、生命、聴力、視力、言語能力)の13の属性に加えて、イデア属性の様相である「能者であること」、「意志者であること」、「知者であること」、「生者であること」、「聴者であること」、「正眼者であること」、「話者であること」を別の7つの有意的属性として立てて属性の数を20とし、そしてアッラーフについて(A)必然的であること、(B)不可能であること、(C)可能であること、の3つのカテゴリーを設定した上で、上記の20の属性を持つことを「必然であること」、この20の属性のそれぞれの否定を「不可能であること」、全ての可能な事象の作為と不作為を「可能なこと」とし、合計41の命題を全てのムスリムがアッラーフについて知るべき信条とする。

 このような「無味乾燥」な神学の「造り主」は、「我らが人間を創造したのであり、我らは彼の魂が囁くことをも知っている。我らは頸動脈よりも彼の近くにいます。」(カーフ50章16節)とクルアーンが生き生きと描く、被造物と隔絶しながらも人間に内奥に最も近しく臨在感ある存在としての「アッラーフ」の間には明らかな距離がある。

 既に信仰を得たムスリムにとっては、アッラーフの実在はこの上もなく確かなものであり、また理性により論理的に抽象されたあるべき「造り主」とクルアーンの描くアッラーフをさいたる違和感なく同定することができた。

 しかし理性の要請とクルアーンの文言が明らかにすると矛盾すると感じられる場合もあった。

 例えば「慈悲深き御方は玉座に座し給う(istaw±)」といったクルアーン中の一見、擬人神観を含むかのようなの章句をいかに解釈するかである。

 この問題について、イスラーム思想史の中でも対立する3つの立場が生まれた。

 第一は、具象的な表現を抽象概念として比喩解釈する立場である。上記の章句であれば、ここで言う「istaw 」の意味は、文字通りに「座す」ではなく、「支配する」である、といった風に比喩的に解釈するのである。しかしこの種の比喩解釈は語学的に無理がある上に、クルアーンの表現の持つ豊かな意味が失われてしまうという欠陥があり、次第に淘汰されていった。

 この章句について問われて、スンナ派4大法学祖の一人、マーリクは「istiw± '(istaw±の動名詞)は理解できるが、それが『如何に(kaif±yah)』かは理解できない。この問題について問うことは先例に背く。」と答えたと伝えられている。スンナ派の主流はマーリクに従うが、そ言葉の解釈をめぐって更に二つの立場に分かれる。

 第一は、istaw を本義「座す」に取ること、比喩解釈を共に否定し、その真意は人間には知り得ない、とする立場である。これがスンナ派の多数説となる。

 第二は、言葉の意味と指示内容を区別する字義解釈の立場である。この立場では、クルアーンの表現は全て字義通りの意味を持つが、その指示内容は分からない。istaw もここでは、その本義の「座る」の意味で用いられているが、その具体的な指示内容、アッラーフが「如何に」座っているのか、は人間には了解できないのである。この立場は前近代においては少数派であったが、クルアーン、スンナの文献学的に厳密な字義解釈が重んじられる現代においてねその支持者を殖やしつつある。

 次に別のクルアーン解釈の具体的例に即して、スンナ派とシーア派で明確に立場が分かれている問題を取り上げよう。

アッラーフを肉眼で見ることが可能か否か、所謂「見神」問題である。

 「その日顔は輝く。その主に見(まみ)えて。」(復活75章21-22節)

の句の「見えて」と訳した(n±Ãirah)の解釈をめぐり、初期の解釈としては、(1)「主に見(まみ)えて」、(2)「主からの褒賞を見いだして」、(3)「主からの褒賞を待って(tantaÃir)」、という3つの説が伝えられている。

 スンナ派は、(1)「主に見(まみ)えて」の解釈を採用する。その典拠は「復活の日に我々は我らの主に見えるのでしょうか?」と尋ねられて、預言者ムハンマド(s)が「雲がかかっていなければ太陽と月を見るのに障害があるか」と尋ね返され、人々が「いいえありません」と答えると、「復活の日、そのようにあなたがたは主に見える」と答えられた、との『サヒーフ・アル=ブハーリー』、『サヒーフ・ムスリム』等の正伝承集の収める伝承である。スンナ派は「肉眼で(`iy±n)」の語を加え「心眼で見る」との比喩解釈の余地を封じた上で、その具体的な『如何に(kaifµyah)』は現時点では分からない、との立場を取る。

 現代でもスンナ派神学の教科書として使われているアル=ラカーニーの『宝玉』は「(アッラーフ)が肉眼(ab­±r)で見られること。但し具体的様態は不明(bil± kaifah)。」と述べ、見神を全てのムスリムが信ずべき信仰箇条の一つに数えている。

 一方、シーア派は、視認が成立するためには、(1)対象に向き合うこと、(2)対象に光が当たること、が必要であるが、アッラーフは空間の中に存在しないので、どちらも不可能である、と論じ、「アッラーフに肉眼で見える」との解釈を非合理的であるとして退ける。

 理性により見神を否定するシーア派は、初代イマーム・アリーがこの句を「主からの褒賞を待って(tantaÃir)」と解釈したとの伝承に基づき、n±Ãirah の語を、同じ語根nÃrから派生した「待つ(tantaÃir)」の意味に読み替え。

 このようにクルアーンの文言の字義を重んずる立場と理性的推論の結果を重んじる立場は論争を繰り返しつつ、今日に至るまで対立を続けている。

 

.創造と立法、存在と当為

 

 創造と命令は彼にこそ属するのではないか。万世の主アッラーフこそいと尊きかな。 (クルアーン7章54節)

 

創造と命令、この相異なる二つの原理によって、アッラーフは世界と関わる。

  アッラーフの創造と命令によって、存在の領域と当為の領域が成立する。

 

(アッラーフが)何かを望み給えば、それに「有れ」と言えば、即ちそれは生じるのである。(36ヤースィーン章82節)

 

 論理的に考えうるあらゆる事象、可能世界の全ては、永遠の相においては、アッラーフの知識の中に含まれている。これらの中で、アッラーフが現実に生起することを意志したことだけが、存在を与えられる。これが創造であり、アッラーフのこの意志を「存在付与的意志(ir±dah kaunµyah)」と呼ぶ。 宇宙の森羅万象は全てこの「存在付与的意志」の所産である。アッラーフの存在付与的意志の対象は存在し、その対象とならなかった事象は無にとどまる。

  一方、アッラーフが被造物の行為への意志を介して生起を望む事象については、当為の領域が成立する。アッラーフの命令と否定命令(禁止)が、この当為の領域であり、それを普遍化、範疇化したものが、聖法となる。この意味でのアッラーフの意志は「規範的意志(ir±dah shar‘µyah)」と呼ばれる。

 アッラーフの存在付与的意志が必ず実現されるのに対して、規範的意志の実現は、人間の意志に委ねられている。つまり人間がその意志に服し、その実践を意志して初めて、規範的意志は実現し、人間が反抗すればアッラーフの規範的意志は実現しない。

 アッラーフは、規範的意志の対象となる行為、即ち命令の実践、禁止の回避を愛で嘉みし、それに反する行為、つまり命令の不履行、禁止の侵犯を怒り憎み給う。

 存在付与的意志の対象たる存在が必ずしもアッラーフの愛で嘉みし給うところとはならず、逆に規範的意志の対象たる行為が必ずしも生起するわけではない。人間がアッラーフの命令に背き、殺人、窃盗、姦通、飲酒などの罪を犯すことは、アッラーフの御心に適うことではないが、人がそれを決意し実行に移せば、アッラーフの存在付与的意志により、その悪行はその人間の行為として生起する。またアッラーフは人間が礼拝、喜捨などの善行を行うことを欲し給うが、その人がそれを決意し実行に移さない限り、存在付与的意志の対象とはならずそれは生起しない。

 存在付与的意志と規範的意志というこの二つの意志は互いに還元されることのない、独立の違う範疇の意志である。

 アッラーフは、その二種の意志に対応し、宇宙の存在付与者、創造主であると同時に規範定立者、立法者である。

 アッラーフの存在付与的意志は森羅万象に関わるが、規範的意志は人間のみが関与する。

 

 まことに我らは天と地と山々に信託を提示したが、それらはそれを恐れそれを引き受けることを断り、人間がそれを引き受けた。・・・(33部族連合章72節)

 

 「信託(am±nah)」とは自由意志を意味する。天と地にあるものは全て、掟を守れず禁を犯し懲罰を受けることを恐れ、自由意志の代価に掟を課されることを断ったが、アーダムは自ら掟を守ることを約した。

 自然はアッラーフが自然に課した法、即ち「自然法則」に従い、それから逸れることは決してない。人間もまた自然の一部で有る限りにおいては、自然法則に従う。しかし自然法則が不可侵であるのに対して、アッラーフが人間に課した掟である人間の「法」を人間は破ることができる。アッラーフの規範的意志たる聖法に従うか背くかを自由意志に委ねられていることが、人間を他の被造物から分かつ。

 人間はアッラーフの存在付与的意志の発顕たるこの宇宙と、その規範的意志の表現たる聖法を介して、アッラーフと対峙する。自然法則従う自然の一部であると同時に、自らの決断により聖法に従うための自由意志の寄託者である、との人間の実存の二重性は、アッラーフのおける存在付与的意志と規範的意志の相異性に由来するのである。

 

.タウヒード

 イスラームの根本教義は、多神崇拝の否定、アッラーフの唯一性にある。

 「唯一とすること」をアラビア語でタウヒードと言うが、タウヒードはイスラームのアルファにしてオメガ、第一歩であると同時に終着点でもある。

 イスラームはタウヒードを「主性におけるタウヒード(tauƵd al=rub¹bµyah)」と、「神性におけるタウヒード(tauƵd al=il±hµyah)」に区分する。

 主(rabb)とは語義的には、養育主を意味する。「主性におけるタウヒード」とはアッラーフが、万物の唯一の創造主であり、アッラーフのみが森羅万象を司っており、何物もアッラーフの意志なくしては一瞬たりとも存在し得ないことを悟ることである。

 「神」とは崇拝されるべき対象であることは既に述べた。「神性におけるタウヒード」とはアッラーフのみに崇拝を捧げることを意味する。

 アッラーフには創造主としての側面と、立法者としての側面があった。

 「主性におけるタウヒード」とは、創造主としてのアッラーフの認識に主として関わり、知的、理論的なアッラーフの理解の深化の終点である。

 「主性におけるタウヒード」をイスラーム神学は、アッラーフが(1)本体において部分を有さず単一であり、(2)属性において無比であり、(3)行為において単独である、の認識として定式化する。

 (1)本体において部分を有さず単一である、とはアッラーフが分割可能な諸部分の複合体でなく、不可分な単一の実体であることである。いかなる意味においてであれ、「父と子と聖霊の三位一体」といった神の一体性を危うくする発想は峻拒される。

 (2)属性において無比である、とは、アッラーフの属性が被造物の属性とが、名称は同じであっても、質的には隔絶していることを意味する。アッラーフの「慈悲」、「叡知」は、人間の「慈悲」、「叡知」の間の差は量的な相対的な差異ではなく質的な絶対的な相違であり、アッラーフの「手」、「顔」と人間の「手」、「顔」の関係もこれと同じである。

 (3)行為において単独である、とは、アッラーフのみが、唯一の自足的な能動的行為者であることを意味うする。被造物の運動は全てアッラーフの不断の創造によって生成するという意味で受動的なものに過ぎず、真の行為とは言えない。宇宙における因果は因も果も共にアッラーフの被造物であり、因もまた果に対して相対的に因として創造された偶因(sabab)に過ぎず、果の存在の真の原因(musabbib)はアッラーフなのである。

 神学者のタウヒードにおいて、最も重要なのが、行為におけるタウヒードであり、偶因に目を奪われず、真の原因たるアッラーフにのみを仰ぎ見、依り頼むことが、神学者のタウヒードの究極の理想となる。

 「主性におけるタウヒード」が主としてアッラーフの創造の認識に関わる理論的営為であるとすれば、「神性におけるタウヒード」は主としてアッラーフの立法に従う実践的営為である。「神性におけるタウヒード」とは、アッラーフの規範的意志に従うことであり、アッラーフの意志に従った形で、アッラーフのみに崇拝を捧げることである。

 前節で見たように、アッラーフの存在付与的意志と規範的意志が、重なり合いながらも相互に独立の意志であり、互いに還元し得なかったように、「主性におけるタウヒード」と「神性におけるタウヒード」も相互還元のできない二種の異なる実践である。

 確かに、アッラーフの唯一性の認識は唯一神崇拝に先立つ必要があり、「神性におけるタウヒード」は「主性におけるタウヒード」を前提とするが、アッラーフの唯一性の認識が必然的に唯一神崇拝を帰結するわけではない。悪魔はアッラーフの全知全能を知悉しながらも、アッラーフの規範的意志に背き「神性におけるタウヒード」を拒否したために、呪われて火獄に落とされ、預言者 ムハンマドが宣教を開始した当時のアラブの多神教徒たちも、アッラーフが創造主であることを知りながら、多神崇拝に耽っていた。ムスリムと不信仰者を分けるイスラームのメルクマールはあくまでも「神性におけるタウヒード」なのである。

 思想史的には「神性タウヒード/主性タウヒード」論は、アシュアリー/マートリィーディー派神学のタウヒードの批判的超克を目指してイブン・タイミーヤ(1328年)によって唱えられ、その後のワッハービー/サラフィー派「神学」の基礎となる。注目すべきは、アシュアリー/マートリィーディー派神学の古典標準教科書『宝玉』のアル=バージューリー注釈の現代のムハンマド・アディーブ・アル=カイラーニーとアブド・アル=カリーム・タッターンによる1972年刊行の要約であり、「神性タウヒード/主性タウヒード」論をアシュアリー/マートリィーディー派神学のタウヒード論に組み込んでいるのである。ここに我々は積年の対立を越えたスンナ派神学の2大潮流の接近、融合の兆しを見いだすことができる。

 

10.神の存在構造

 森羅万象は、ただ「有れ」とのアッラーフの創造の御言葉によって生成する。

 万物は、アッラーフの創造の御言葉によって初めて「存在」を与えられることになるのであるが、実はこうして宇宙の中に存在せしめられる以前から、それらは全て、時の一点において「存在」の世界に呼び出されるべく予定されて、永遠の過去から永劫の未来に至りアッラーフの知識の中に恒存している。我々のこの世界に存在するものだけではない、全ての可能世界の事物もまたアッラーフの知識の内部においては恒存しているのである。

 被造物と創造主、世界とアッラーフを峻別するイスラームは、その論理を突き詰めることによって、被造物が全て神の御許にあるのを見い出す。

 「まことに我々はアッラーフのもの。アッラーフの御許にぞ、帰り行く。」(クルアーン)

 また人類については、クルアーンはその誕生を、神話的表現で以下のように描いている。

 

 そして汝の主が、アーダムの子孫の腰から、彼らの子孫を引き出し、彼らに自分自身に対して、「我こそは汝らの主ではないか」と証言させ、彼らが『誠に。我々は証言いたします』と答えた時(の事を思い起こせ)。 (7.高壁章172節)

 

アッラーフは、人類の始祖アーダムが世界に現れた時点で、彼が実際に結婚して子供を生む以前に、彼の腰からその末裔に至る子孫たちを次々と引き出し、彼らにアッラーフが自分たちの主であることを証言させた。我々人類はこの世に生を受ける前に、始祖アーダムと共に既にアッラーフとの対面を済ませているのであり、つまり我々は、この世に現存するか否かにかかわらず、いつでも存在の世界に呼び出されるように、アッラーフの知の中に恒存している。そして特に外界に存在を与えられた存在様態が、この現世での生、来世における復活なのである。

 既述のように、アッラーフは「本体」において単一であり部分を有さない。いかなる教義もこの根本教義に反してはならない。森羅万象、全ての可能世界のアッラーフの知の中における恒存も、アッラーフの「本体」の単一性を犯してはならない。

 このアポリアに、イスラーム思想史は、神の構造化をもって対処した。

 この時空の現象界においては、万物は生々流転する。しかしアッラーフの知の世界においては、万物はその生成から消滅までの全ての相が、時空を越えて凝縮された形で恒存する。言い換えれば、それは永遠なるイデアの世界である。

 時空の中で無数の「多」に分節された事物が生成流転する現象界を、より上位の事物の永遠不動のイデアの顕現、そしてそれらを究極的には「一なる絶対者」の顕現として構成するネオ・プラトニズム的流出論モデル。このモデルによってイスラーム思想史は「一から多が生成される」メカニズムとして神を構造化した。井筒俊彦はイスラームの流出論の構造を以下のように析出する。

 

存在モデルとしての三角形の頂点を・・・イブン・アラビーは、三角形の頂点に、・・・「存在」、純粋な存在、つまり絶対不可視状態(ghaib)における存在をおきます。ということは、三角形の全体を生命的エネルギーとしての「存在」の自己展開の有機的体系とみることであります。この頂点をイブン・アラビーは述語的に、絶対的一者(aÆad)と呼びます。この図に示されていますように、三角形の頂点がアハドです。アハドとはアラビア語で一ということ。しかし、イブン・アラビーの考えでは、これは数の一ではなくて、むしゼロであります。・・・ここでいう存在零度、存在のゼロ、零度の存在性とは形而上的な意味での絶対の無です。しかし、絶対の無ではあるが、そこからいっさいの存在者が出てくる究極の源としては絶対の有であります。・・・このアハド=絶対一者を頂点としてそこに広がる形而上的領域を存在のアハディーヤの領域(aÆdµyah)の領域、つまり絶対一者性の領域と呼びます。・・・この絶対的一者は自らのうちに現象的存在の次元で自らを顕そうとする強力な根源的傾向があります。この存在的衝動とでもいうべきものに言及した有名な「ハディース(Æadµth)」があります。・・・神がこう言います。・・・「私は隠れた宝物であった。突然私の中にそういう自分を知られたいという欲求が起こった。知られんがために私は世界を創造した。・・・一者そのものに内在するこの本源的な存在的衝動をイブン・アラビーはナファス・ラフマーニー(nafas raÆm±nµ)、「(神の)慈愛の息吹」と申します。・・・この「神の慈愛の息吹」が、まず最初に発現してくるところ、つまりいちばん上のアハディーヤの小さな三角形の底辺の線に当たるところ、これをワーヒド(w±Æid)と申します。・・・ワーヒドというのはアラビア語では一ということであります。ですが、神秘哲学の述語としてはアハドはいっさいの数の系列を越えた一、つまりゼロということでありまして、ワーヒドのほうは純然たる数としての一です。アハドを「絶対一者」と訳すとしますと、ワーヒドのほうは「統合的一者」とでもしたらよいかと思います。・・・そしてこのワーヒド、つまり神の内部構造を存在論的に領域化して考えたものをワーヒディーヤと呼ぶのであります。神学的、宗教的に申しますと、このワーヒディーヤは神の自意識の世界ということになります。神の自意識は外面的には何の区別もありませんけれども、内面的にはすでにさまざまに分かれております。別の言い方をしますと、存在はこの段階において潜在的に分節されております。この潜在的な分節が、もう一段下の存在領域、すなわちカスラ(kathrah) -カスラというのは「多数」ということですが- 多者の世界、多者の次元で現実的に現れてくる、それが宗教でいう神の世界の構造ということであります。(『イスラム哲学の原像』、122-128頁)

 

 このような構造が現実に存在されるのか、それとも単なる人間の思惟の中にのみ存在する虚構に過ぎないのかについては、今日に至るまで、イスラーム学者の間で激しい論争が続いている。

 

11.慈悲の神

 キリスト教の神の「裁く神」の側面を「父なる神」と呼んで違和感を表明したのはカトリック作家遠藤周作であった。キリスト教の神は、苛酷の砂漠の自然を象徴する旧約聖書の峻厳な「父なる」神であり、優しい自然に育まれた日本人には慈愛深い「母なる神」が相応しい、ということである。自らの「母なる神」のイメージをイエスに投影することが日本人カトリック作家としての遠藤周作の終生の課題であった。

 苛酷の砂漠の峻厳な神、これはキリスト教の旧約の神であると同時に、日本人の抱くアッラーフのイメージでもあるだろう。

 しかしクルアーンの描くアッラーフは、何よりも慈愛の神なのである。

 「主の御名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)との戒律に忠実なあまり神の本名を忘れ去ったユダヤ/キリスト教とは対照的に、イスラーム教徒は万事をアッラーフの御名を唱えることによって始める。イスラーム世界はアッラーフの御名に満ち満ちている。アッラーフには多くの属性があり、アッラーフは99の美名を有する、とも言われることは既に見た。

 イスラームでは、これらの美名を優美(jam±l)系列の名と荘厳(jalµl)系列の名に分ける。「荘厳者(jalµl)」、「死を与える御方(mumµt)」、「審判者(Æakam)」などが荘厳系の名であり、「慈悲遍き御方(raÆm±n)」、「柔和なる御方(wad¹d)」、「平和を与える御方(sal±m)」等が優美系の名である。

 アッラーフには、「母なる神」に通じる優美系の名によって表される優しさの側面と、荘厳系の名が表す「父なる神」と呼ばれるにも相応しいような厳しさの側面がある。優しさだけでも、厳しさだけでもなく、その両者を併せ持つのがイスラームの神アッラーフであるが、どちらが優るのか、と敢えて問うなら、優しさ、慈悲であることは疑念の余地がない。

 ハディースは「我が慈悲は我が義憤に勝る」とのアッラーフの御言葉を伝えている。

 また「慈悲者」は99の美名の中でも格別なアッラーフの別称である。クルアーンは「言ってやれ。アッラーフに祈れ。あるいは『慈悲遍き御方』に祈れ。何に祈ろうとも、アッラーフには数々の美名がある」 (17「夜の旅」章110節)

 また何よりもクルアーン自体が、「慈悲遍き慈悲深いアッラーフの御名において」の句から始まっており、アッラーフの最も重要な属性が慈悲であることを示している。

 「慈悲遍き(raÆm±n)」と「慈悲深い(raƵm)は共に「慈悲(raÆmah)」の派生語であるが、「慈悲遍き」は太陽が善人の上にも悪人の上にも照り、雨が義人の上にも罪人の上にも降り注ぐように、善悪を越えた万物への慈悲を意味し、慈悲深いは善、正義を行った者に豊かに報奨を恵む公正の慈悲を指すと言われる。クルアーンは、アッラーフの限りない慈悲を人間に思い起こさせることから始まる。

 「慈悲遍き慈悲深いアッラーフの御名において」の句は、クルアーンの冒頭に読み上げられるばかりではない。ムスリムは食事を始める前に「慈悲遍き慈悲深いアッラーフの御名において」と唱える等、何事であれ大切なことは、この句を唱えることをもって始める。

 今この瞬間にも世界中で、何十万、何百万人ものムスリムが、アッラーフの大慈に縋り、「慈悲遍き御方」の御名を呼び、祈りを捧げているのである。

 

12.救済

 日本ではイスラームは戒律の宗教として知られている。浄土真宗の悪人正機説という極端な戒律否定思想を生んだ日本仏教、そして律法を貶めるキリスト教の色眼鏡を通してイスラームを見ると、イスラームが戒律の宗教に映ることは理解できる。

 イスラームは、信仰と行為、内面と外面を二項対立的に把握し、外面的行為の価値を否定する発想を取らない。

 「信仰し善行に勤しむ者には大いなる褒賞がある」

 信仰は善行を伴って完成する。クルアーン全編を通じて繰り返される基調低音である。全き信仰は善行となって現れ、善行を伴わない信仰は不完全である。

 しかし信仰と善行のどちらが救済の要件であるか、との問題設定を敢えて行うとすれば、疑念の余地なくそれは信仰である。信仰のない偽善者が地獄の最下層に落とされるのに対して、ムスリムはたとえ姦通や窃盗の大罪を犯そうとも、アッラーフ以外に神はない、との信仰の上に死ぬ限り、天国に入る。この意味では戒律ではなく信仰こそが救済の要件である。

 ある時、預言者ムハンマドの許に、彼のおじのハムザを殺した多信教徒から質問が届く。

 彼はイスラームの入信を考えているが、クルアーンに「(慈悲深き御方の僕とは)アッラアッラーフと別の神に祈らず、正当な理由による以外にアッラーフが禁じ給うた殺人を犯さず、姦通を犯さないものたち。しかしそれらを犯した者は罪(の罰)を負い、アッラーフは復活の日にその者に懲罰を倍加され、屈辱にまみれ罰の中に永遠に留まる。」(25「識別」章68-69節)と述べられた全ての罪を犯したけれども、罰を免れる可能性はあるのか。

 そこでムハンマドは「但し悔い改め、信じ善行を行った者たちは別である。そうした者たちには、アッラーフは彼らの犯した悪行を善行と取り替え給う。アッラーフは寛恕者にして慈悲深き御方のおわす。」(25「識別」章70節)の節を教えた。

 すると男は、この節には善行が条件となっているが、自分は善行を行えるか自信がない、もっと優しい御言葉はないのか、と再度、質問をよこした。

 ムハンマドは「・・・アッラーフは他の神と並べられることは許さないが、それ以下のことなら御望みの者を赦される・・・」(4女人48節)の節を書き送った。

 すると男は、私は自分がそのアッラーフの御望みの赦される者に入るかどうか分からない、もっと寛大な節はないか、と再度質問をよこした。

 ムハンマドは「言ってやれ。『自らに悪事を尽くした我が僕たちよ。アッラーフの慈悲に絶望してはならない。まことにアッラーフは罪を全て赦し給う。まことアッラーフこそ寛恕者にして慈悲深き御方におわします。」(4女人48節)の節を書き送った。

 それを聞いた男は、これこそ私の求めていたものだ、と言って、その場で入信した(アブー・ハニーファの伝える伝承より)。(al=N±bulsµ, Asr±r al=Sharµyah, pp.94-95.)

 しかし、イスラームでは人は信仰によって救われる、という言い方も、キリスト教的/仏教的発想の枠組を出ていない。

 「アッラーフの慈悲に絶望してはならない。・・・まことにアッラーフこそ寛恕者にして慈悲深き御方におわします。」

 正しくは、人はアッラーフの慈悲によってのみ救われる、とイスラームは教えているのである。

 海の孤島の山頂で500年にわたり勤行に明け暮れ、跪拝したまま死んだ行者がいた。復活の日、アッラーフは、「我が慈悲により我が僕を楽園に入れよ」と、この行者を楽園に連れて行くよう天使たちに命じた。ところが彼は3度にわたって「我が主よ、私の行いによってにして下さい」と求めた。そこでアッラーフは天使に、「我が僕のために、彼に対する我が恵みと彼の行為を天秤にかけよ」と命じ給うた。すると目を授けた恵みだけで500年間の崇拝の重さに達してしまい、身体の残りの部分の恵みの分が足りなくなった。アッラーフは、「我が僕を火獄に入れよ」と天使に命じ給い、彼は火獄に引き立てられた。そこで彼が「あなたの御慈悲によって楽園に入れて下さい。あなたの御慈悲によって楽園に入れて下さい。」と呼び求めると、アッラーフは彼を楽園に入れ給うた。

 大天使ガブリエル(ジブリール)は、この話を語り終えた後、ムハンマドに「ムハンマドよ、万事はアッラーフの慈悲によるのである」と述べた(アル=ハーキムの伝える伝承より、ジャーミウルウルームルヒカム、7-8頁)。

 救済はひとえにアッラーフの慈悲による。しかしそれだけにはとどまらない。

 「万事はアッラーフの慈悲によるのである。」イスラームにおいて、アッラーフの慈悲は、救済論のみならず宇宙論にも中心的位置を占める。

 イブン・アラビーが世界の創造の原理を『慈愛の息吹(nafas rah_m n )』と呼んだことは既に触れた。自足的超越的絶対者たるアッラーフが、この移ろいゆく儚き現象界を創造したこと自体が、その無償、無限の慈悲、慈愛の賜物に他ならないのである。

 

14.神に至る道

 イスラームとはアッラーフへの絶対帰依を意味した。

 しかし、絶対者たる創造主アッラーフに帰依する、とは何を意味するか。

 アッラーフへの帰依の究極には何があるのか。

 

     至高なるアッラーフは仰せられた。

   「我が近侍に敵対する者に、私は宣戦する。

   我が僕(しもべ)が、私が彼に義務として定めた私にとって好ましいことを行って私に近づき、更に我が僕が自発的な任意の善行によって弛まず私に近づき、私がその彼を愛でるようにまでなるなら、私が彼を愛する時、私は彼の見る目、彼が聞く耳、力を振るう手、歩む足となり、私は彼が私に求めるものは必ず授け、私に庇護を求めるものからは必ず庇護しよう。」(アル=ブハーリーの伝えるハディース)

 

 イスラームは、アッラーフに至る4つの道を見いだした。

 第一は、啓示の解釈学、哲学的推論によってアッラーフの実相を究め尽くすことこそ、イスラームの最高の形態であるとの立場である。

 第二は、あらゆる人間の行為をアッラーフの啓示に照らして決疑論的に類型化し、一挙一投足に至るまで神意に沿った完璧な行動プログラムを練り上げることを目指す立場である。

 第三は、修行によって、悔悟、謙譲、アッラーフへの愛、畏怖、信頼、希望といった心的階梯を登りつめ、自我を滅却し、アッラーフへの想いのみで心を満たし、神に帰一することを究極の帰依とみなす立場である。

 第四は、アッラーフの御心、即ち規範的意志を地上において実現、し神の国を樹立するために、アッラーフの敵との戦い、ジハードに生命を捧げることこそ最高の神への献身であるとの立場である。

 大まかには第一は、理論的認識を貴ぶ神学者、第二は規律に則った実践を重視する法学者、第三は主意的体験に価値をおくスーフィー、第四は地上の政治秩序に定位する聖戦士の立場の立場と言うこともできる。

 神学者については、既述のように、神が必然的に備えるべき属性を、1つの(a)本体的属性:「存在」、5つの(b)否定的属性:(1)「無始」、(2)「無窮」、(3)「非生成」、(4)「自存」、(5)「唯一性」、7つの(c)有意(ma‘ n )属性:(1)能力、(2)意志、(3)知識、(4)生命、(5)聴力、(6)視力、(7)言語能力、といった形で規定し、それぞれについて詳細な証明と考察を加えていった。

 法学者は、必ず行うべき「義務行為」、行うことが望ましい「推奨行為」、価値中立的な「許認行為」、行わないことが望ましい「自粛行為」、決して行ってはならない「禁止行為」という行為の5範疇を設定し、狭義の宗教儀礼のみならず、売買、貸借、婚姻、離婚、窃盗、傷害、殺人、姦通、殺人、訴訟、カリフ=元首選出、内乱、戦争、価格統制等、あらゆる領域の人間の行為を、この5範疇に割り分けていった。

 スーフィーは、瞑想、禁欲、隠遁、時祷などの神事を修行法として練り上げ、悔悟、謙譲、無私、神への愛、神への畏怖、神への信頼、神への希望といった心理、精神階梯を分析、体系化する一方で、また神秘直観、霊験、神の近侍のような概念を理論化していった。

 聖戦士たちは、アッラーフの敵との戦いにおける殉死こそ最高の献身と心得、アッラーフのみを念じ、カリフの権威の下に、イスラーム法の施行されるイスラーム国家の拡大のために、遠い異国での厳しい行軍をも苦とせず苛酷な戦闘に邁進した。

 勿論、これらの4つの立場はあくまでも分析的区別であり、互いに排他的なものではなく、三者は補完的なものと理解されており、神学、法学、スーフィズムの全てを学び修めたイスラーム学者が、異教徒の戦いの最前線に立ち、防人(ムラービト)となり、ジハードに参戦することは珍しくなかった。

 神の命令へのどうような服従、いかなる神への想いも、そもそもその対象たる神を正しく認識していなくては無意味であるのみならず、多神崇拝に堕しかねない。それゆえ法的に正しい「正」の実践の道にある者も、精神の階梯の修行者も、常に立ち止まって自らの道が正しいか否かを、「正統な」神学的信条に照らして、チェックする必要がある。

 またスーフィズムは礼拝、喜捨、斎戒等の法学的に正しい、望ましいとされた行為を修行道に組み込んでいった一方で、法学はイスラーム法の禁ずる酒や麻薬を用いた瞑想、去勢のような過度な禁欲を禁ずる等、修行道を逸脱から守り、一定の枠をはめる機能を果たした。

 スーフィズムと神学の関係は、スーフィーは神秘体験を神学的概念操作によって理論化し、修行によって辿る精神階梯を神の顕現の世界の隗層と対応させ、修行論、精神階梯論と宇宙論、神論の融合を成し遂げていったのである。

  またジハードは、自然の好戦性の発露であってはならず、あくまでもアッラーフへの献身としての精神修養、自己鍛練が求められ、神学の規定するカリフの権威に従い、イスラームの戦時国際法に則って遂行されねばならない。また異教徒との戦争である「小ジハード」と対置された自我との戦いである「大ジハード」は、スーフィズムの好む主題でもある。

  神に至る道のこの4つの立場は、全て預言者(SA)の示した模範にその原型を有している。それゆえ次章以下で我々は預言者(SA)の示した範例とその歴史的継承を概観しよう。

 

4章.預言者ムハンマド

 イスラ-ムの教義は「アッラ-の他に神はない。ムハンマドはアッラ-の使徒である。」という信仰告白の表現に凝縮される。

 ムハンマドの使徒性は、アッラ-の唯一性に次ぐイスラ-ムの根本教義である。それゆえイスラ-ム教徒たちが、今日に至るまで「ムハンマド」を主題に、不断の考察、探求を重ねて来たことは当然と言えよう。

 イスラ-ム学は当初より厳密な資料批判の手続きに則り、「歴史的」に真正な伝承を捏造された伝承から区別し、ムハンマドの「歴史的」実像を保存してきた。従って「史的ムハンマド」は、モ-ゼ、仏陀、孔子、イエスなどの場合とは異なり、「現代の」歴史学、文献学の批判的方法を用いることによってのみ、神話の彼方におぼろげにその実像を垣間見ることができるような伝説上の存在ではない。

 しかしそのことはムハンマドが、「現代の」歴史学の認めるところの「歴史上の人物」に還元しうることを意味するわけではない。

 

1.預言者とは何か

 日本語の「預言者」とは、ユダヤ/キリスト教に由来するヘブライ語(nabi')の翻訳語であり、「旧約」聖書に描かれた「神の託宣を語る者」、即ち「ヤハウゥの代弁者」たちを指す。ユダヤ/キリスト教と同じ伝統を共有するイスラームにおいても、「預言者(nabµy)」の語の基本的意味は同様である。

 マイモニデス(1204年没)の信仰の13原則が、預言書への信仰の義務を説くほか、モーセを最大の預言者と位置づけ、モーセがシナイで授かった律法(トーラー)の永遠の妥当性を定めていることから分かるように、ユダヤ教では「預言」は神と人とを繋ぐ極めて重要な概念である。他方、キリスト教では、イエスが預言者ではなく「神の子」とされ、神と人の仲介者とされたため、「預言」の地位は相対的に貶められる。

 イスラームは「預言」を神と人の関係の鍵概念として厳密に再定式する。

 アッラーフは存在論的に世界と隔絶した超越神であると同時に、世界とコミュニケーションを行う人格神でもある。そしてイスラームにおいては、「預言」が神と人間のコミュニケーションの範型となる。

 ムハンマドが最後の預言者であることは、イスラームの根本教義の一つである。しかし一方でイスラームは、神とのコミュニケーションの可能性を全ての時代の全ての人間に対して認めてもいる。これは「預言者」と「使徒」、「聖者」の概念上の区別によって可能になる。

 イスラームにおいては、「預言者」とは「聖法の啓示を授かった者」を意味する。預言者は一方で聖法の啓示によって、単なる霊感の所有者たる聖者とは異なり、他方、他者への聖法の宣教の義務の不在によって「使徒」と区別される。

 つまり預言者の中でも特に固有の聖法の啓典を授かり、その宣教を命じられた者が、使徒と呼ばれるのであり、全ての使徒は預言者でもあるが、全ての預言者が使徒であるわけではなく、預言者の数は124,000人、使徒の数は313人とも言われる。使徒の中でも最も卓越した者が、「重責の主」と呼ばれる5大使徒であるが、上位から順に並べるとムハンマド、イブラーヒーム(アブラハム)、ムーサー(モーセ)、イーサー(イエス)、ヌーフ(ノア)となる。ちなみにクルアーンに名指しで言及された啓典はムーサーの『律法』、ダーウード(ダビデ)の『詩篇』、イーサーの『福音書』、ムハンマドの『クルアーン』の4書のみであり、クルアーンに名前が記されている預言者は、新旧約聖書に登場する人物と同定可能なアーダム(アダム)、イドリース(エノク)、ヌーフ(ノア)、イブラーヒーム(アブラハム)、ルーツ(ロト)、ヤークーブ(ヤコブ)、イスマーイール(イシュマエル)、イスハーク(イサク)、ユースフ(ヨセフ)、アルヤサア(エリシャ)、イルヤース(エリヤ)、ムーサー(モーセ)、ハールーン(アロン)、ダーウード(ダビデ)、スライマーン(ソロモン)、ユーヌス(ヨナ)、アイユーブ(ヨブ)、ズー・アル=キフル(エゼキエル)、ザカリーヤー(ゼカリア)、ヤフヤー(ヨハネ)、イーサー(イエス)の21人、クルアーンのみに現れるサーリフ、シュアイブ、フード、ムハンマドの4名の、合計25名である。

 「預言者」は「使徒」よりは広い概念であるが、「聖者」よりは狭い概念となる。イスラームの「聖者(walµy)」は動詞「waliya(近くにある)」から派生した名詞で原義は「ちか(近/親)しい者」であり、転じて「神にちかしい者」即ち「聖者」を意味するようになった。

 預言者や使徒がアッラーフからの一方的な選び「召命」によって社会規範たる聖法の啓示を授かるのに対し、聖者は個別の事象に関する霊感を授かるに過ぎず、その位階には修行の結果によって達することも可能である。

 アッラーフの人類に対する使徒、預言者の派遣は「諸預言者の封印」(クルアーン33章40節)ムハンマドをもって終わり、彼の後にはもはや預言者は決して現れてはならず、彼が授かった啓典クルアーンは最後の啓典であり、彼に啓示された聖法は最後の審判に至るまで人類全てに妥当する究極の法となる。しかし個人のレベルでは、人は誰でも修行を積むことによってアッラーフからの霊感を賜る「聖者」となる道は原理的に開かれており、神と人とのコミニケーションは絶えることはない。

 預言者は神の選び、召命によるが、イスラーム神学は、預言者の必要条件として正直、誠実、宣教、賢慮の4つを数える。即ちアッラーフの御言葉を託される預言者は、決して虚言を吐かず、不行状がなく、真実を包み隠さず述べ伝え、何者にも欺かれぬ叡知の持ち主でなければならない。またイスラームは超人的性質を預言者性の必要条件とはしない。従ってイスラーム神学上、飲食、睡眠、結婚など一般人の日常生活において許されることは全て、預言者にも許されることになる。

 イスラームは全ての預言者、使徒への敬愛を命ずるが、現実に信徒の生活を拘束するのは最後の預言者ムハンマドの齎した聖法である。それ故、イスラームにおいて、定冠詞(al)を付けて単に「預言者(al=nabµy)」、「使徒(al=ras¹l)」と言った場合、それは通常ムハンマドを指し、教義学における考察の対象となるのも、ムハンマドの授かった預言、啓示に他ならないのである。

 

2.預言者の召命

 ムハンマドは預言者としての生涯に多くの啓示を授かる。一冊の啓典としての『クルアーン』は、こうした啓示の一部をなす。といっても『クルアーン』は一度に啓示されたわけではなく、天使ジブリ-ル(ガブリエル)が啓示を携えて最初にムハンマドのもとに降臨した610年ラマダ-ン月17日(月曜日)以来、632年に亡くなるまでの22/3年の間に断続的に少しづつ下されたのものである。

 召命以前のムハンマドは「正直者」の異名をとる商人であった。ムハンマドはマッカの支配的部族クライシュ族の名門ハーシム家の出身であったが、父アブド・アッラーフは彼が生まれる前に亡くなり、母アーミナも幼くして世を去り、祖父アブド・ル・ムッタリブ、その死後はおじアブー・ターリブの許で養われた孤児であった。幼少時は牧童なども経験したが、早くも12歳にしてシリアへの隊商に随行し、誠実で有能な商人の評判をかちえ、25歳の時、年上の未亡人の女性実業家ハディージャと結婚する。

 ムハンマドは40歳になる頃から、山に篭もって瞑想にふけることが多くなるが、最初の召命体験はこの山篭もりの瞑想中に生じた。

 預言者の言行録(ハディース)集成『サヒーフ・アル=ブハーリー』に収められたアーイシャの伝えるハディースによると、クルアーンの啓示は以下のように始まった。

 

 使徒がヒラ-山の洞窟で山篭りされていたとき、真理が到来した。即ち天使が現れ、使徒に「読め」と語りかけたのである。

 使徒自身はその状況をこう語っている。

 

 「私は読めません」と言うと、天使は、私を掴み、覆いかぶさり、苦しくなると離し、また「読め」と言った。私はまた「私は読めません」と言ったが、天使はまた私を掴み、覆いかぶさり、苦しくなると離しまた「読め」と言った。私はもう一度「私は読めません」と言ったが、天使は三度私を掴み、覆いかぶさり、苦しくなると離し、「読め。創造を成された汝の主の御名に於いて読め。凝血から人間を創造された御方。読め。汝の主は最も尊い御方。筆とる術を教えられた御方。人間にその知らぬことを教えられた。」[クルアーン96[凝血]章1-5節]と言ったのである。」

 

 この伝承は、預言者としての召命がムハンマドにとって予想外であったことを物語っている。この伝承は、神の啓示に際して「私は若くてどう語っていいか知りません」と応えたユダヤの預言者エレミヤの召命体験(エレミヤ書1章6節)を思い起こさせよう。

 こうして最初の啓示を授かったムハンマドは、妻ハディ-ジャのもとに戻り、彼女に自らの召命体験を物語り「私は自分が恐ろしい」と語った。するとハディ-ジャは「アッラ-にかけて、アッラ-はあなたを決して辱められません。あなたは親族を大事にし、万人に親切にし、貧者に施し、客をもてなし、不幸に見舞われた者を助けてきたではありませんか。」と言った。

 そしてハディ-ジャは、キリスト教徒で聖書に通じた従兄弟のワラカを審神者として招き、ムハンマドの体験の判定を依頼した。そこでムハンマドの話を聞いたワラカは、「それはモ-ゼに降臨したのと同じナームース(啓示伝達の天使ガブリエル)である」と断定した。

 ムハンマドの召命の伝承は、先ずムハンマドの召命が彼自身が望んだものというよりも神の選びの結果であったこと、そしてその召命の真性性の判定基準が、先ず良識に適った過去の正しい行状であり、次いで過去の聖書の預言者たちの諸事例との合致であったこと、つまりいかなる随祥、超常現象、奇跡でもなく、理性による判断であったことを示している。

 奇跡物語の欠如はムハンマドの宣教の顕著な特徴となっている。病気治し等の奇跡に満ち満ちた聖書のイエスの福音書に比べてムハンマドの伝記には奇跡は殆ど登場しない。また福音書においては、奇跡は福音の真理の証であり、イエスの奇跡を目の当たりにすることによって多くの人々が信仰した、と記述されている。

 他方、クルアーンにはムハンマドの奇跡物語はほぼ皆無であり、唯一の例外とも言うべき「時は近づき、月は割れ。しかし徴を見ても、彼らは背を向け、『束の間の魔術だという』」(クルアーン54[月]章1-2節)との、月の分割の奇跡においても、奇跡の位置づけは福音書とは全く違う。たとえ明白な奇跡を見せつけられたとしても、心の頑なな不信仰者は決してイスラームの使信を受け入れない、と、奇跡によって人は信ずるのではない、ことが明らかにされているのである。

 後のイスラーム学は、内容のみならず詩的韻律の美しさにもおいても完璧なクルアーンそれ自体が、人知を越えた奇跡である、としてクルアーンを預言者ムハンマドが授かった最大の奇跡と呼ぶことになる。

 預言者の神授の使命の証しである奇跡をアラビア語ではムウジザと呼ぶ。ムウジザとは字義通りには「相手を無力にするもの」を意味する。つまりその預言者の業が、人力の及ばぬ神の御業に他ならぬと認めざるをえなくさせるもの、預言者の宣教の反論を不可能ならしめるもの、を意味する。

 ムーサー(モーゼ)の時代のエジプト文明は魔術に優れ、それを誇っていたために、ムーサー(モーゼ)は預言者の徴として、人の業を超えた方術の奇跡を授かった。イーサー(イエス)の時代のギリシャ文明は優れた医術を誇っていたために、イーサー(イエス)は預言者の徴として、いかなる名医にも直せない足萎えを歩かせ、死者を蘇らせる奇跡を授かった。ムハンマドの時代のアラブは詩を尊び詩才を誇っていたために、アッラーフはいかなる詩人にも真似のできないクルアーンを預言者の証しとしてムハンマドに授けられた。そしてアラブ文学史上、なお今日に至るまで、クルアーンに匹敵する完璧なアラビア語の作品は一つとして未だに現れていない。ムスリムがクルアーンを永遠の奇跡と呼ぶのはそのためである。

 

3.ムハンマドのシャリーア

 

 我らは汝(ムハンマド)を万事のシャリーアの上に置いた。それゆえそれに従え。 (クルアーン45章18節)

 

 既に述べたように「使徒」とは「固有の聖法の啓典を授かり、その宣教を命じられた者」であった。「聖法」を意味するアラビア語は「シャリーア」の原義は「水場に至る道」であったが、転じて「救済への道」、「教えの道」を意味するようになる。シャリーアは「聖法」とも訳されるが、それはシャリーアが信仰箇条だけでなく、多くの戒律、社会規範を含んでいるからである。

 それゆえ「ムハンマドはアッラーフの使徒なり」とのイスラームの信仰告白の後段は、ムハンマドが授かったシャリーアの遵守の誓約を含意する。

 律法を敵視するキリスト教を出自とする宗教学は、法、戒律を忌むべき束縛、瑣末に拘泥する愚昧な形式主義として描き、「法」が古来より誇るべき文明の象徴であったことを見過ごしがちである。

 「東京全市は、11日の憲法発布をひかえてその準備のため言語を絶した騒ぎを演じている。到るところ、奉勝門、照明(ルビ:イルミネーション)、行列の計画。だが滑稽なことには、だれも憲法の内容を御存じないのだ。」との『ベルツの日記』を引き(『天皇と日本の近代(下)「教育勅語の思想」』、講談社現代新書、2001年、296頁)文庫、明治憲法を「原理的に天皇を祀り主とする、すべてのひとびとが神々にたてた〈御誓文〉」、「ヤハウェならぬ現人神の、七十ろく箇条からなる律法」(天皇と日本の近代(上)憲法と現人神』、講談社現代新書、2001年、257頁)と規定する八木公生もまた、この法の宗教的、祝祭的性格を指摘しているのである。

 西欧と対等の文明国の仲間入りするために憲法制定を急いだ明治の日本、アメリカから授けられた「民主憲法」を後生大事に奉る戦後の日本と、日本近代史はこの文明の象徴としての「法」の機能を鮮やかに映し出している。

 「法」が文明の象徴であったとの認識を欠いては、なにゆえアラブがアッラーフの使徒ムハンマドの宣教をかくも熱狂的に受け入れたのかは理解できない。

 成文法を待たないムハンマド出現以前のアラブの多神教徒は、天啓の聖法『律法』を持つユダヤ教徒、『福音書』を持つキリスト教徒、いわゆる「啓典の民」に対して劣等感を抱き、天啓法を持たない自らを一段劣る無学、無法の未開の民とみなしていた。

 ムハンマドはこの未開のアラブの民に聖法を、しかもユダヤ教徒の『律法』、キリスト教徒の『福音書』にも優る最善の聖法、シャリーアを齎した。こうしてムハンマドのシャリーアの下に団結し「文明化」され「法治国家」の「国民」となったとの誇りと自信を持つことによって初めて、アラブ・ムスリムは当時の先進文明であったローマ帝国の領土の大半、ペルシャ帝国の征服、イスラームに基づく新秩序の樹立という大事業を臆することなく粛々と成し遂げることができたのである。

 シャリーアとは語義的には「教えの道」を意味するが、具体的にはクルアーンと預言者のスンナ(言行)の教示の総体を指す。

 上記のクルアーンの句「我らは汝(ムハンマド)を万事のシャリーアの上に置いた。それゆえそれに従え。」の「それに従え」の命令の主体はアッラーフであり、客体はムハンマドである。シャリーアの立法者はアッラーフであってムハンマドではない。

 確かにムハンマドはシャリーアの権威に服する。しかし他のムスリムたちから見た場合、シャリーアに服するムハンマドの姿はそれ自体が倣うべき模範となる。

 

  そしてアッラーフと使徒に服従せよ・・・。(クルアーン3章132節)

 

信徒たちはアッラーフに服従するムハンマドに服従することによりアッラーフに服従する。

 妻アーイシャがムハンマドについて「彼の人格はクルアーンでした」と語っている通り、信徒にとっては、クルアーンの教えの神髄を体現するムハンマド自身が、第二のクルアーンとも呼ぶべき無謬の権威であったのであり、それゆえ預言者ムハンマドの預言者の言行(スンナ)の記録(ハディース)は、イスラーム法上、クルアーンに次ぐ第2の法源の地位を獲得するのである。

 

4.クルアーンとハディース

 シャリーアとはクルアーンとスンナからなる。言い換えれば、預言者ムハンマドの啓示(wah_y)には、最終的に1冊の書として纏められる形で下された一群の明示的なアッラーフの御言葉の束とてのクルアーン、と、預言者の言行スンナの中に読み取り得るアッラーフから預言者に明に暗に示された教導の2つの形態があったことになる。

 クルアーンとは本来的に天地の創造に先立ち天の書板に書き記された1冊の「書物」であり、それが啓示を司る天使ジブリールによって、22/3年間に分けて段階的にムハンマドに下され、ムハンマドの逝去の直前に最後の章句が下され、啓示を司る天使ジブリール(ガブリエル)の指示により、現行の順序に編集されて現世でも現在ある形の通りに1冊の書物に纏められたものである。

 ただし、「1冊の書物」とはいっても、ムハンマドに下された啓示が、自動書記のような形で文字に書き留めれたわけではない。そもそもムハンマドは文盲であり、彼の啓示は人々に声を出して読み聞かされ、それを人々が復唱し暗唱した上で人々に伝える、という口承によって保持されていた。しかしムハンマド逝去後の「背教戦争」によってこうしたクルアーン暗唱者たちの多くが戦死したため、クルアーンの伝承にノイズが生じるのを恐れた第3代カリフ・ウスマーンの治世中にクルアーンの結集が行われ、文字によって書き留められた現在のクルアーンの原本が成立したのである。このウスマーンの命令によって作成されたクルアーンの写本をウスマーン本と呼ぶが、ウスマーン本は6冊作成され、当時の主要都市に配布されたが、そのいくつかは今に至るまで現存し保管されている。

 第3代カリフ・ウスマーンは、後述の通り最初期に入信し、20年以上にわたってムハンマドに付き従った高弟の一人であった。つまりクルアーンは、ムハンマドの逝去後30年あまりの多くの直弟子たちが生存中に、自らも高弟の一人であったカリフの命令によって国家事業として欽定版のテキストが作られたのである。ここにイスラームの経典クルアーンと、教祖の死後、数百年を経て、なおテキストの決定していなかった仏典、新訳聖書との決定的な相違が存在する。

 一方でスンナについては、ムハンマドの召命に先立ってどこかに『スンナ』という書物が存在したわけではなく、またムハンマド自身が「これが『スンナ』である」と述べた書物があるわけでもない。あくまでもスンナとは、あくまでも弟子たちが伝えた折々の彼の言行が、後の世になって集成者たちによる真贋の判定を経て厳選されて纏められたものであり、集成者たちの収録したスンナの範囲はそれぞれの集成者によって全く異なっており、1冊の『スンナ』、あるいは『ハディース』というものがあるわけではない。

 例えばスンナ派では最も権威があるとされており、邦訳も存在する『サヒーフ・アル=ブハーリー』は、ハディース集成者のアル=ブハーリーが収集した約100万のハディースの中から、真正と判定したハディース約7300のみを収録している。

 この『サヒーフ・アル=ブハーリー』の収める最初のハディースは以下の通りである。

ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・アル=タイミーが私に以下のように語ったと、ヤフヤー・ブン・サイード・アル=アンサーリーが言った、と、スフヤーン(ムハンマド・ブン・ウヤイナ)が我々に伝えた、と述べた、アル=フマイディー・アブド・アッラーフ・ブン・ズバイルが我々(アル=ブハーリー)に伝えた。

 (ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・アル=タイミーは)アルカマ・ブン・ワッカース・アル=ライシーが、「私は、ウマル・ブン・アル=ハッターブ(アッラーフが彼を嘉し給いますように)は説教壇の上から、以下のように言うのを聞いた」と

 「私はアッラーフの使徒(アッラーフが彼に祝福と平安を賜りますように)が『行為はただ意図による。誰にも意図したことのみが帰される。ヒジュラ(マディーナへの亡命:後述)が現世を手に入れるため、女性と結婚するための亡命であった者は、ただ彼がそのためにヒジュラしたもののためにヒジュラしたに過ぎない。』と言われたのを聞いた。

 

 このうち、「ムハンマド → ウマル・ブン・アル=ハッターブ → アルカマ・ブン・ワッカース・アル=ライシー → ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・アル=タイミー → スフヤーン(ムハンマド・ブン・ウヤイナ) → アル=フマイディー・アブド・アッラーフ・ブン・ズバイル → アル=ブハーリー」 という伝承者の名前を伝える部分を「伝承経路(イスナード)」と呼び、ムハンマドの言行を伝える「アッラーフの使徒 - アッラーフが彼に祝福と平安を賜りますように - が『行為はただ意図による。誰にも意図したことのみが帰される。ヒジュラ(マディーナへの亡命:後述)が現世を手に入れるため、女性と結婚するための亡命であった者は、ただ彼がそのためにヒジュラしたもののためにヒジュラしたに過ぎない。』と言われた」を「本文(マトン)」と呼ぶ。

 またシーア派の尊重するアル=クライニーの『ウスール・アル=カーフィー』が預言者から伝える最初のハディースは以下の通りである。

 アリー・ブン・イブラーヒーム(ブン・ハーシム・アル=クンミー)経由、その父(ハーシム・アル=クンミー)経由、アル=ナウファリー(フサイン・ブン・ヤズィード)経由、アル=スクーニー(イスマーイール・ブン・アビー・ズィヤード)経由で、アブー・アブド・アッラーフ(フサイン・ブン・アリー) - 彼に平安あれ - は、「預言者 - アッラーフが彼に祝福と平安を賜りますように - が『あなたがたに誰かについて行状の良さを伝えられたとしたら、その者の理性について調べなさい。なぜなら人はただ彼が理解したことによってのみ賞罰を受けるのだから。』と言われるのを聞いた」と述べた。

  「伝承経路」は「ムハンマド → (フサイン・ブン・アリー) → アル=スクーニー(イスマーイール・ブン・アビー・ズィヤード) → アル=ナウファリー(フサイン・ブン・ヤズィード) → (ハーシム・アル=クンミー) → アリー・ブン・イブラーヒーム(ブン・ハーシム・アル=クンミー) → アル=クライニー」であり、『あなたがたに誰かについて行状の良さを伝えられたとしたら、その者の理性について調べなさい。なぜなら人はただ彼理解したことよってのみ賞罰を受けるのだから。」が「本文」である。

 以上の2例からも分かるように、「伝承経路」と「本文」の組み合わせが「1つ」のハディースであり、そのようなハディースの集成が、アル=ブハーリーによるもの『サヒーフ・アル=ブハリー(アル=ブハーリーによる真正伝承)』、アル=クライニーによるものは『アル=カーフィー(十全)』とそれぞれ呼ばれている。そしてスンナ派ではアル=ブハーリーの『サヒーフ・アル=ブハリー』を初めとして、『サヒーフ・ムスリム』、『スナン・アル=ティルミズィー』、『スナン・アブー・ダーウード』、『スナン・アル=ナサーイー』、『スナン・イブン・マージャ』の6書、シーア派では『アル=カーフィー』を初めとして、『アル=タフズィーブ』、『アル=イスティブサール』、『マン・ラー・ヤフドゥルフ・アル=ファキーフ』の4書が高い権威を有するハディース集と認められている。

 このようにクルアーンとハディースは共にイスラームの聖典(ナッス)と呼ばれるが、その成立の過程も、書物としてのあり方も全く異なるのである。

 

4.預言者伝

 預言者ムハンマドの家系から説き起こし、誕生、預言者としての召命、聖遷、多神教徒との戦い、マッカ再征服、逝去といった形で、時系列に沿って編まれた「伝記」としては、最古のものは、イブン・ヒシャ-ム(ヒジュラ暦213 or 218年没)が再録したヒジュラ暦2世紀の伝承学者イブン・イスハーク(152年没)の「預言者伝」である。

 キリスト教に於いてイエスの「伝記」である「4福音書」が「聖典」とされたのと異なり、イスラ-ム学の伝統の中では、ムハンマドの「伝記」 - 文学的創作としての伝記とは勿論異なる - は、「ムハンマド」研究の中心とはならなかった。イスラ-ム学の中でのムハンマド研究の中核はハディ-ス学である。 ハディ-スとは、上述のアル=ブハーリーとアル=クライニーが伝えたハディースの例からも分かる通り、ハディース伝承者たちは、殆どの場合、日時を伝えていない。またハディ-ス学の関心は主として伝承者の記憶力、正直さなどの吟味に基づく伝承批判にあり、ハディース学者たちもハディースの語られた日時、場所等の文脈の同定にはそれほどの関心を抱いていない。この意味で、ハディースはムハンマドの言行の日時を確定し、時代順に再構成した、といった意味においての「歴史的記録」ではない。

 ハディ-ス学に於けるこの「歴史的関心」の稀薄さは、イスラ-ム学が「ムハンマドの言行」を、時代を越えて妥当する「超歴史的」な模範=規範とみなすことと相関する。それはハディ-ス集成に於いて、フィクフ(イスラ-ム行為規範体系)の主題にほぼ対応する主題別に配列された「アル=ムサンナフ(分類されたもの)」形式が主流となったことからも明らかである。即ちハディ-ス編集の主たる目的は、ムハンマドの行為を「歴史的」に記録することでなく、「超歴史的」な模範として呈示することにあったのである。

 イスラ-ム法学は確かにムハンマドの言行を、時代と場所を超えて全てのムスリムを拘束する「超歴史的」な行動規範として定式化した。

 しかしイスラ-ム法学に於いては、ムハンマドの言行が「超歴史的」規範であるとしても、次節で触れるスーフィズムの超越的ムハンマド観とは異なり、ムハンマド自身はあくまでも「歴史的」な存在である。即ち、ムハンマドは西暦622 年にマディ-ナで没した「歴史的」存在であり、それゆえ歴史学的に正当な手続きを経て、この「歴史的」ムハンマドに遡りうる信憑性を有するハディ-スだけが、イスラ-ム法学の法源となりうるのである。

  ハディ-ス学が過去に無数の『ハディ-ス集成』とその注釈、伝承者研究の膨大な蓄積を産出したのに比して、前近代においては、イブン・イスハークの預言者伝以来、預言者伝の領域では目をひく業績は生れていない。預言者伝という著述形式が新たに脚光をあびるのは、今世紀前半のインドに「伝記(sira)運動」と呼ばれる預言者伝の研究の興隆以来であった。少し遅れてアラブ世界にも同様の動きが見られ、また今日では、欧米のムスリム学者の手になる優れた研究も生れつつある。

 この現代イスラ-ム学の預言者伝形式の選好はには2つの理由があるように思われる。

 第1に、 西欧によるイスラ-ム世界の植民地支配の現実により、イスラ-ム世界の西欧に対する科学的、政治的、軍事的劣位が暴露され、近代科学的世界観がス-フィ-的な「神話的」ムハンマド像に代わり、過去の偉大なイスラ-ム帝国の創設者、一人の人間としての「史的ムハンマド」へ新たな関心が呼びさまされたことが挙げられる。つまり先ず、「客観性」を装うオリエンタリストによって「粗野な贋預言者」、「性的に放縱な野心家」にまで貶められたムハンマドのイメ-ジを救うためには、史的なムハンマドの「実像」を明らかにする必要があったのである。なぜなら問題になっているのは歴史的に存在したムハンマドの生涯であり、超越的、神話的なムハンマドの威光ではなかったからである。

 第2に、それはイスラ-ム世界が18世紀以来徐々に西欧により植民地化され、1924年にはオスマン朝カリフの廃位により、イスラ-ム法の支配とイスラ-ム共同体の一体性の象徴であったカリフ制(=イスラ-ム国家)自体が消滅する危機的状況下にあって、ムスリムたちが、メッカでの迫害、聖遷後のメッカの多神教徒、マディ-ナのユダヤ教徒、偽信者との戦いの困難な戦いを通じてイスラ-ム国家の基礎を確立したムハンマドの生涯に、イスラ-ム国家再建の指針を求めるようになった結果である。つまり伝統的イスラ-ム学が、イスラ-ム法を護持するイスラ-ム国家の存在を前提に、イスラ-ム法の法源としてのムハンマドの言行(=ハディ-ス)の研究に力を注いできたのに対して、イスラ-ム国家の不在の現状にあって、イスラ-ム国家の再建の指針を求めるには、ムハンマドの個々の言行の「集成」より、その生涯の全体を - イスラ-ム国家建設のダイナミックな過程として - 統一的に把握しようとする「伝記」の形式の方がより適切であったからなのである。

 

5.超越的ムハンマド

 ハディース学におけるムハンマドが、信徒にとっての超歴史的模範でありつつつも、あくまでも「歴史的存在」であったのに対して、「超歴史的存在」としてのムハンマド像を発展させたのはス-フィ-ズムである。

 仏教でも、仏陀を、起源前5~6世紀頃に生きた歴史的な仏陀シャ-キャムニ(=色身、父母身)と、永遠不滅の法(ダルマ)と一体化した超歴史的な仏陀(=法身、実身)に区分する思想が生れた。また小乗仏教の「法を説く導師」としての仏陀に対し、大乗仏教は、超歴史的に存在し、祈願者に応答する仏陀、「救済者としての仏陀」である久遠仏を考えることにより、仏陀を信仰の対象とした。

 ス-フィズムもまた、ムハンマドを6~7世紀にアラビア半島に生きた単なる「人間」とは考えない。

 

 「アダムがまだ土と水の間にあった時、私は既に預言者であった」

 

 これはムハンマドの言葉とされるハディ-スである。

 また教友の一人ジャ-ビルに、

 「アッラ-が最初に創造されたものは何でしょうか」

と尋ねられた時、ムハンマドは、

 「ジャ-ビルよ、それは汝の預言者(ムハンマド)の光である」

と答えたとも伝えられている。

 

 ス-フィズムは、これらのハディ-スについて思索を重ね、ムハンマドの本質を、世界の創造に先立ち存在し、むしろ世界創造の原因ともなるような超越的な存在(=ムハンマド的光)と考え、仏教における仏陀の「色身/法身」の区別に近い、二重の存在としてのムハンマド観を発展させた。現代のスーフィー・イドリース・シャーもまた、イブン・アラビー(西暦1240年没)のムハンマド観について言う。「ムハンマドには、二つのヴァージョンがある。一つは、メッカとメディナで暮らしていたムハンマドであり、もう一つは、永遠なるムハンマドである。彼(イブン・アラビー)が語っているのは後者のほうのムハンマドである。」(イドリース・シャー『スーフィー』国書刊行会、2000年、181頁)

 またス-フィズムは、最後の審判に際する救済に於けるムハンマドの執成しの役割を強調し、ムハンマドへの執成しの祈願の功徳を説いた。それゆえス-フィズムでは祈願に応える超越的な救済者としてのムハンマド像が前景に現れることになった。

 このようにムハンマドはス-フィズムに於いて、ある意味では大乗仏教に於ける仏陀にも似た超越的存在とされていったのである。

 このように「史的ムハンマド」と「超越的ムハンマド」が重ね合わせられていたのが、前近代のイスラ-ム世界のムハンマド観の特徴であった。

  このような超越的ムハンマドは、超歴史的存在として、篤信者にとっては臨在する同行者となる。

 シャーズィリー教団の名祖アブー・アル=ハサン・アル=シャーズィリー(1258年没)は、「もし私が一瞬であれ預言者様のお姿を見失ったとしたならば、私は自分を生者のうちには数えない」と述べた。

 またリファーイー教団の名祖アフマド・アル=リファーイー(1178年没)が、マディーナの預言者廟に参詣した時には、預言者ムハンマドが墓の中からリファーイーに手を差し伸べ、それはその場に居た全ての人々によって目撃されたと言われる。

 また現代においてもなお同様に「15回呼吸する間であれ、アッラーフの使徒様のお姿が見えなくなれば、私は自ら死んでしまうだろう」との言葉をエジプトのスーフィー・アフマド・ラドワーン(1967年没)は残している。このアフマド・ラドワーンの弟子もまた預言者の姿を拝した経験をアメリカの人類学者ヴァレリー J.ホフマン対して以下のように語っている(Valerie J.Hoffman, Sufism, Mystics, and Saints in Modern Egypt, Columbia, 1995, pp.65,162-163, 268-269)。

 

 私はアフマド・ラドワーン先生が亡くなった後、預言者様への思慕を募らせ、その声を聞くようになり、やがて預言者様のお姿を見えるに至りました。

 預言者様に「アッラーフの使徒様、神秘的開示は何処にありましょう?」と尋ねました。

 彼が指さすと、山々と丘陵が俄に引き寄せられ、アスワン州のアル=キルハの町が眼前に現れ、ムハンマド・アブー・アル=フツーフ・アル=アラビー先生の家を見ました。そこで光景が変わり、同じ風貌と服装の二人の人物を見ました。私はどちらが預言者様でどちらがアル=アラビー師か分からず混乱しました。そこでアル=アラビー先生は脆弱な一面を示したので、私はそちらがアル=アラビー先生で、もう一人が預言者様であることが分かりました。私はアル=アラビー先生の所に行き、彼にキスし、彼が亡くなるまでお側にお仕えしました。

 

 預言者ムハンマドはこうして今もなお、ムスリムの間に生き続けているのである。

 

6.宣教の開始

 我々は前近代においては、「史的ムハンマド」はあくまでも「超越的ムハンマド」の存在様態の一つ相と理解されていたことを確認しつつ、「史的ムハンマド」の生涯に戻ろう。

 既に見たように、預言者ムハンマドが最初に啓示を説いた相手は妻のハディージャであった。召命から初めの3年の間は、ムハンマドは家族などのごく親しい者にのみ、イスラームの教えを伝授した。この最初期のイスラームの入信者の中に、後に初代カリフとなる2歳年下の親友アブー・バクル、彼が誘った名門ウマイヤ家の貴公子で後に3代カリフとなるウスマーン、4代カリフとなるムハンマドの従兄弟で女婿のアリーらがいた。

 信者の数が30人ほどになった時、ムハンマドにマッカ市民を前にして公然とイスラームの教えを説くようにとの啓示が下った。

 当時のマッカはアラビア半島の諸部族の部族神の偶像を祭るカアバ神殿を要する門前町であった。カアバ神殿には360体の偶像が安置され、巡礼の季節には、半島の各地から集まる巡礼たちで賑わい、大きな市が立ち、マッカは彼ら巡礼の落とす財貨で栄えていた。

 これらの偶像の神威を否定するイスラームの教えは、カアバ神殿の偶像のもたらす利権で潤っていた町の有力者の経済的基盤を根底から揺るがすものであり、ムハンマドとイスラームの信徒団はマッカの多神教徒たちから激しい迫害を被ることになる。

 迫害が激化し、信徒の中から殉教者が出るに及んで、ムハンマドは100名足らずの信徒を紅海を挟んだ対岸のエチオピアに亡命させる。当時のエチオピアはキリスト教王国で善政が敷かれていたからだという。ムハンマドは少年時代から東ローマ帝国領シリアへの隊商貿易などで広い世界を知っており、「アラブ」の枠を超えた視野から発想することのできる国際人であったのである。

 召命から10年目、西暦610年、孤児であったムハンマドの叔父で育ての親であったもあったアブ-・タ-リブが、そして同年、最初の信徒であり良き理解者でもあった最愛の妻ハディージャも亡くなった。それゆえこの年は「悲しみの年」と名付けられる。

 当時のアラビア半島には中央集権国家、いやそもそも「国家」というものは存在しなかった。「アラブ」は離合集散を繰り返す多くの諸部族の構造を欠く集合体でしかなく、王もいなければ、国防にあたる常備軍、治安を司る警察もおらず、常設の法廷も存在しなかった。

 国家を欠くアラブの部族社会において、警察に代って個人の生命の安全を保証したのが、部族による血讐システムであった。つまり部族のメンバーが他の部族から殺害された場合、メンバーを殺された部族はその部族の名誉にかけて相手方の部族のメンバーを殺害し、部族間の勢力の均衡を維持する、というシステムである。ムスリムたちの中で迫害の犠牲となって殉教者となったのは、有力な部族の庇護を受けない社会的弱者たちであった。

 この血讐システムの要は部族の名誉を命よりも重んずる部族意識にあった。ハーシム族に属したムハンマドは偶像崇拝を否定し、偶像崇拝者であったハーシム族の先祖たちが地獄に落ちると宣告し、先祖と先祖伝来の部族の宗教を侮辱した。アブー・ターリブはハーシム族の族長として、甥のムハンマドを庇護したが、アブー・ターリブの死後、ハーシム族の族長になったアブー・ラハブはムハンマドを部族の名誉を汚す裏切り者であるとして、彼への庇護を取り消した。

 ハーシム族の集団的庇護を失ったムハンマドと彼に従うムスリムたちへの迫害がますます激化する中、ムハンマドはアウス族、ハズラジュ族の2大部族の抗争に倦んだヤスリブの町から調停者、指導者として招かれることになる。

 殺人犯の処罰ではなく無差別な敵対部族員の殺害による勢力均衡の回復を計る血讐安全保障システムは部族間抗争の強力な抑止力となったが、一端、相互報復が作動を始めると復讐の連鎖がエスカレートし悪循環を断ち切ることができなくなるという大きな欠陥を有していた。丁度、この時ヤスリブではアウス族、ハズラジュ族の2大部族の間で収拾のつかない復讐の悪循環が生じ、平和の回復のために、強力な権威を有する調停者を必要とする状況が現出していた。

 ヤスリブがこのような事態に陥っていた時、召命後11年目を迎えたムハンマドは例年のように巡礼の儀礼中、カアバ神殿に詣でた諸部族の巡礼たちの間をめぐり、イスラ-ムへの帰依、偶像崇拝の中止を宣教していた。そしてこの時ムハンマドの教えを聞き、入信した者の中に、ヤスリブから来たアウス族とハズラジュ族の巡礼団がいたのであった。彼らはヤスリブに戻ってヤスリブの部族民たちにイスラ-ムの教えを伝えた。

 その翌年の巡礼月に、12人のヤスリブの部族民の代表者がマッカに預言者を訪れ、彼に忠誠を誓った。そして更にその翌年の巡礼月には、男性73人と女性3人とも言われるヤスリブの使節団がマッカを訪れ、ムハンマドに服従し、武力をもって預言者とその教えを守護することを誓い、ムハンマドは彼らの中から各部族の指導者12名を選んだ上で彼らをヤスリブに送り返した。

 こうしてマッカでの多神教徒による迫害が強まる中で、ヤスリブでは預言者ムハンマドの受け入れの準備ができあがっており、ついに召命後12年目、西暦622年、信徒団を先にヤスリブに逃した後、ムハンマドはアブー・バクルと二人、ヤスリブに移住する。マディーナの信徒たちは、詩を合唱し、娘たちはタンバリンを打って、喜びを表し、彼を迎えた、と言う。

 これが世に言う「ヒジュラ(聖遷」=亡命)であり、以降、マッカからヒジュラしたマッカの信徒たちを亡命者、彼らを迎え入れたヤスリブの信徒たちを援助者、預言者ムハンマドを迎えたヤスリブは「預言者の町(マディーナ・アル=ナビー)」、略してマディーナと呼ばれるようになる。

 

7.ヒジュラと国家の建設

 ヒジュラはイスラーム史における分水嶺となり、イスラームは、このヒジュラの年をもって、イスラーム暦元年と定める。誕生でも召命でもなく

 ヤスリブに定住したムハンマドはマッカから亡命したムスリム信徒団と、マディーナ在住のアラブのムスリム、多神教徒、ユダヤ教徒の諸部族の間で、集団安全保障協定を締結する。所謂、「マディーナ憲章」である。

 

 現代の研究者はこの文書を「マディ-ナ憲章」と呼んでいる。以下はイブン・イスハ-クの『預言者伝』の収録する「マディ-ナ憲章」の主な条文である。

 

 慈愛遍く仁愛厚きアッラ-の御名において

 これは、預言者ムハンマドによる、クライシュ族(の亡命者)とヤスリブの民と、彼等に従い、提携し、共に戦う信徒、ムスリムの間の文書である。

 これらの者は、他の人々と区別された一つのウンマ[共同体]を構成する。

 クライシュ族の亡命者は自分たちの「血の代償」の慣習法に従って、お互いの間で「血の代償」を履行し、信徒の間での良識と正義に則って、捕虜を身請する。

 アウフ族は自分たちの「血の代償」の慣習法に従って、お互いの間で従来通りの「血の代償」の支払いを履行し、各支族が信徒の間での良識と正義に則って、捕虜を身請する。 - 中略[以下同じ文言が各氏族について繰返される] -

 信徒たちは、困窮した同胞を見捨てず、彼に相応の身代金、血の代償金を与えねばならない。

 信徒は、別の信徒の解放奴隷と、彼[その解放奴隷の元の主人の信徒]との敵対関係に於いて同盟を結んではならない。

 敬虔な信徒たちは、信徒であっても和を乱す者、信徒の間で不正な暴力、犯罪行為、乱暴狼藉をはたらく者とは対決し、たとえそれが自分たちの誰かの実子であろうとも、全員でその者に対処しなくてはならない。

 信徒は不信仰者のために信徒を殺してはならないし、(信徒と不信仰者の争いで)信徒に敵対して不信仰者を助けてはならない。

 アッラ-の安全保障は単一であり、最低位の者にも全体に対して効力を有する。

 信徒以外の者に対して、信徒は相互に安全を保障しあう。

 我々に服属するユダヤ教徒には、扶助と平等が与えられ、不正を被ることも、その敵に援助が与えられることもない。

 信徒たちの和平は一つであり、アッラ-の道の戦闘に於いては、公正で全員一致でない限り、どの信徒も他の信徒と歩調を合せず単独で和平を結んではならない。

 我々と共に出撃する遠征隊は、隊伍を組まねばならない。

 信徒たちは、アッラ-の道に流された血のために、集団で復讐の義務を負う。

 敬虔な信徒たちは裁量、至善の導きのもとにある。

 多神教徒はクライシュ族の財産や人身を保護下におくこと、また信徒に敵対して介入することは許されない。

 故なく信徒を殺害した証拠のある者は、殺された者の親族の[血の代償金の受取か、恩赦の]了承が得られた場合を除いて、同害報復刑に処される。信徒は全体でこの犯罪者に当らねばならず、刑を執行しないことは許されない。

 この協約の内容を承認し、アッラ-と最後の審判を信ずる信徒には、罪人を助け、庇護することは許されない。罪人を助け、庇護する者には、最後の審判の日にアッラ-の呪いと御怒りがあり、悔悟も償いも受入れられない。

 何事であれ、汝らの意見が割れた場合には、その問題(の解決)は尊くも畏こきアッラ-と、ムハンマドに委ねらる。

 ユダヤ教徒も戦争に参戦する限り、信徒らと共に戦費を負担しなくてはならない。

 アウフ族のユダヤ教徒は信徒らと並ぶ一つのウンマである。

 自由民であれ解放奴隷であれ、ユダヤ教徒とムスリムは、それぞれ自分たちの宗教を保持する。但し不正をはたらき、罪を犯す者は別で、その者は自分と自分の家族を滅ぼすのみである。

 アンナッジャ-ル族のユダヤ教徒もアウフ族のユダヤ教徒と同じ権利と義務を有する。 - 中略[以下、各氏族のユダヤ教徒たちがいずれも同じ規定に服すことがそれぞれの名をあげて確認される] -

 彼等(信徒たち)の誰もムハンマドの許可なくして出征してはならない。

 ただしそれは傷害への報復を妨げるものではない。他人を殺す者は自らも殺される。ただし不正を犯した者に対しては別であり、アッラ-はこの協約に忠実な者を嘉し給う。

 ユダヤ教徒は自分たちの戦費を負担し、ムスリムも自分らの戦費を負担する。但しこの協約を締結した者と戦闘に入る者に対しては、両者は協力しあわねばならない。両者の間では協議と忠告がなされねばならない。敬虔は不義と相容れない[人は他人の罪を負わされることはない」。

 誰もその同盟者の罪を負わされることはない。

 不正を被った者は援助されねばならない。

 ユダヤ教徒も戦争に参戦する限り、信徒らと共に戦費を負担しなくてはならない。

 ヤスリブの内部は、この協約の当事者にとって聖地である。

 この協約の当事者の間に、悪影響の予想される事件や紛争が生じた場合は、その問題はいと尊くも畏こきアッラ-と、アッラ-の使徒ムハンマドに委ねられる。

 アッラ-はこの協約の内容を誠実に順守する者を嘉される。

 クライシュ族と、彼等を援助する者には保護は与えられない。

 ヤスリブを急襲する者に対しては、彼等(信徒たち)は相互に助合わねばならない。

 彼等(ユダヤ教徒)が和平を求められれば、相手が和平を結び、それを維持する限り和平に応じ、それを維持せねばならない。もし彼等(信徒)が同様なことを求められれば、宗教(イスラ-ム)のために戦う者を除き、ムスリムも彼等に同様に対応しなくてはならない。

 全ての人々は、自分の属する側で自分の分担を負う。

 アルアウス族のユダヤ教徒は自由民も解放奴隷も、この協約の民と同じ権利義務を負い、この協約の民から全く誠実な扱いを受ける。

 敬虔は不義と相容れない。人は他人の罪を負わされることはない。

 アッラ-はこの協約の内容を誠実に順守する者を嘉される。

 但しこの協約は、不正をはたらく者、罪を犯す者を保護するものではない。

 マディ-ナに於いては、不正をはたらく者、罪を犯す者を別として、出ていく者も、留まる者も安全である。

 アッラ-は敬虔で、神を畏れる者の庇護者であられ、ムハンマドはアッラ-の使徒である。

 

 「マディーナ憲章」は、ムハンマドに司法、行政、外交の最高決定権を委ね、対外的には団結して外敵にあたる集団安全保障、対内的には無差別血讐システムの廃止、犯罪者の引き渡しと罰則の規定、信教の自由、正義の原則、財産権の保証、戦費負担の義務などを定めるものであった。

 既に述べたように、当時のアラブは国家を有さなかった。その意味で、マディーナ憲章は、国家を創設する社会契約の名にふさわしい。そしてこの時点においてマディーナには、ユダヤ教徒のカイヌカーゥ、ナディール、ハイバルの3大部族のユダヤ教徒の部族、マディーナのアウス、ハズラジュの2大部族内にもイスラーム未信の多神教徒と部族が3部族あったと言われる。つまりムハンマドは、マッカからの亡命者とヤスリブのムスリムだけではなく、ムスリムと非ムスリムの多神教徒、ユダヤ教徒が、自発的な合意により、諸共同体の基本権と義務を定める社会契約「マデイーナ憲章」の締結により、「立憲連邦国家」とも言うべき政体を創立したのであった。

 マデイーナ憲章の締結は、イスラームにおける「国家」の原型となったばかりでなく、イスラームにおけるムスリムと異教徒との共存の最初の試みでもあった。

 このマディーナ憲章を基に、現代トルコのイスラーム思想家アリー・ブラチュが、多数の集団がそれぞれ広範な法的自治権を有する「イスラーム的多元モデル」と呼ばれる国家モデルを提示し、他方インドネシアのイスラーム思想家ヌルコリシュ・マジドも契約に基づく法の支配する倫理的社会「市民社会(=マディーナ的社会)マシャラカト・マダニー」論を展開していることは、このマディーナ懸賞をていることは、マディーナ憲章が、単に憲政史上の金字塔としての歴史的意義を有するのみならず、民族問題への有効な処方箋を持たない現代国民国家システムに対する一つの有力なアンチ・テーゼとして、今なお価値を失っていないことを示しているとも言えよう。

 

8.イスラーム国家の確立

 マディーナ憲章締結の時点においては、なるほどムハンマドは司法、行政、外交の最高決定権を委ねられてはいたが、彼の性格は統治者というよりも調停者であり、諸部族の自治権はなお大きく、マディーナに生まれた都市国家は、部族連合の色彩を色濃く残していた。またユダヤ教徒と多神教徒を数多く抱え、まだ社会規範に係わる啓示がまだ少なかったこともあり、当初は全体としてのこのマディーナの都市国家はまだイスラーム国家と呼び得る実体を備えていたとは言い難かった。

 マディーナに移住したムハンマドの最初の事業はモスクの建設であった。それ以前のマッカでは、ムハンマドと信徒たちは、ある時は、信徒の家に集まり、ある時は、偶像の館と化していたカアバ神殿の境内で礼拝をしており、自分たちのモスクを建造することはなかった。また週に1度金曜の日中に町中の信徒が大モスクに集まって行う金曜集合礼拝が義務付けられるのも、マディーナにイスラーム国家が成立してから後の事である。

 しかしこの新しい国家の建設は障害なしには進められなかった。ムハンマドと信徒たちはマッカの多神教徒の襲撃を迎え撃たねばならなかった。

 最初の戦いは、ヒジュラ暦2年に起きた年バドルの戦いであった。バドルの戦いは約1000名の多神教徒軍を300名あまりのムスリム軍で迎え撃った戦いであったが、多神軍はアブー・ジャハルら有力者約70名の戦死者を出して敗走した。預言者ムハンマドはマディーナに移住してから逝去までの後半生をイスラーム国家のための戦いのうちに終えることになる。バドルの戦い以来、預言者自らの参戦した戦役は20回あまりにのぼる。

 このバドルの戦いの中で、預言者ムハンマドの宗教/政治的権威の性格を知る手掛かりとなる、以下のような興味深い伝承が残されている。

 使徒が軍を進め、バドルの地に近い水場に到着し、そこに野営しようとした時、教友の一人アル=フバーブが進み出て、預言者に次のように尋ねた。

  「アラーフの使徒様。この場所は、至高なるアッラーフがあなたにここで止まることを命じられたのでしょうか。それなら、我々はここから前にも後ろにも動きますまい。それとも、ここで停まったのは、あなた様ご自身の判断、戦略、作戦でしょうか。」

 預言者が「いやこれはわたし自身の判断、戦略、作戦である」と答えると、アル=フバーブは、バドルの水場から、多神教徒の敵軍を遮断できる戦略的により良い他の場所にまで軍を進めて野営するように献策した。

 このエピソードは信徒たちにとって、預言者の政治的権威において「宗教的」権威と「世俗的」権威が概念的に明確に区別されていたことを示している。預言者の政治的決定には、アッラーフからの天啓の指示による神的命令の執行、個人的判断に基づく人的裁定、という二つの異なる種類のあることになる。前者が全てをみそなわす神の命令の代弁に他ならないが故に議論の余地のない絶対的権威であるのに対して、後者はあくまでも人間の決定である。それゆえ採用するかしないかは最終的に預言者の判断によるとしても、進言、議論の対象となるのである。つまり預言者の政治的権威には、超越的起源に由来し理性を越えた神的かつ絶対的な「宗教的」権威と、理性的議論の対象となる人々に推戴された為政者としての「現世的」権威があったのである。預言者ムハンマドの統治には、巫(シャーマン)王的側面と、同輩中の第一人者としての政治軍事指導者の側面が同居していた、と言うこともできるであろう。

 ムハンマドはマッカの多神教徒と戦いつつ、内なる敵と戦わねばならなかった。内なる敵とは、マディーナの偽信者たちとユダヤ教徒たちであった。

 偽信者の中はアブド=アッラー・ウバイユであった。ウバイユは預言者ムハンマドが裁定者としてマディーナに招かれた時、マディーナの王になろうと画策していた。預言者ムハンマドの来訪の後、アブド=アッラー・ウバイユは形式的にはイスラームを受け入れたが、預言者のせいで王になり損ねた恨みを忘れず、マディーナに生まれたイスラーム国家の獅子身中の虫として、外敵と通じてイスラーム国家の崩壊を策し続けた。しかし使徒はこれらの偽信者に対しても、外面的にイスラームの信仰を表明している限り、内心の背信を理由に背教の罪を問うことはなく、外患罪によって処刑されることもなかった。

 一方、ユダヤ教徒については、外敵に通じムスリムを危害を加えマディーナ憲章に背いた彼らを、預言者ムハンマドは徐々に排除していった。最初に追放されたのはカイヌカー族であり、次いでアル=ナディール族が戦闘の後に降伏し追放された。最後に残ったクライザ族も、ヒジュラ暦5年にムスリム軍と多神教徒の部族連合軍との戦闘中に、マディーナ憲章を破棄し多神教徒側についたため、ムスリム軍は部族連合軍を撃退したのち、クライザ族の砦を包囲し無条件降伏させ、戦闘員を処刑し、非戦闘員の子女を奴隷とした。

 イスラーム史において、ユダヤ教徒とムスリムの関係は概して良好であった。15/16世紀のスペインの異端審問、異教徒追放の嵐の中で、イベリア半島を追われたユダヤ教徒をオスマン・カリフ帝国が暖かく迎えたことは有名であるが、イスラーム史を通じて、ムスリム諸王朝でユダヤ教徒は医師、政商として重用されていた。ヨーロッパで間歇的に繰り返された「ユダヤ人」の集団虐殺「ポグロム」はイスラーム世界では全く報告されていない。

 イスラームの発想では、預言者ムハンマドの時代、初期イスラーム史は、他の時代とは全く違う聖史として規範的価値を有する。1300年以上にわたるムスリムとユダヤ教徒の共存の歴史にもかかわらず、現在のイスラーム世界おいて、「反イスラエル=反シオニズム=反ユダヤ」の政治的言説が官民を問わず圧倒的に支持されているのは、規範的歴史たる預言者の時代の戦史から抽出された「狡猾な不倶戴天の敵」とのユダヤ教徒のイメージが、パレスチナのムスリムの虐殺、追放、弾圧の上に成立したユダヤ国家イスラエルに投影され増幅されたからに他ならなない。

 ユダヤ教徒の追放によってマディーナは、マイノリティのエスニック・グループの異教徒の存在しないイスラーム国家となった。そしてこの頃には、マディーナのムスリムとマッカの多神教徒の力関係は、完全にムスリム側が優位となっていた。預言者の眼差しは既にアラビア半島をこえ、東ローマ帝国、ペルシャ帝国、エチオピア帝国等の外の世界に向けられていた。ヒジュラ暦8年(西暦630年)、預言者は諸皇帝、諸王らにイスラームへの入信を呼びかける書簡を送る。

 東ローマ帝国皇帝への手紙は以下の文面であった。

  

 慈悲遍く仁愛厚きアッラ-の御名によりて

 アッラ-に使徒ムハンマドより、東ローマ皇帝ヘラクレイオスへ

 (アッラ-の)導きに従う者に平安あれ

 私はあなたをイスラ-ムの教えに招く。

 イスラ-ムに入信せよ。さすればあなたは安全となろう。

 イスラ-ムに入信せよ。さすればアッラ-はあなたに2度の報酬を与う。

   もし背を向けるなら、あなたは臣下の罪をも負うこととなろう。

「啓典の民よ。我々とあなた方の間で共通の『我々はアッラ-以外のなにものをも崇拝せず、また同位に配しません。またアッラ-以外に、我々の同輩である人間を主としません。』との言葉のもとに来たれ。もし彼等が背き去るなら、『我々はムスリムである』と証言して言うがよい。」(3.イムラ-ン家章64節)cf. Sahih Muslim, vol.12, pp.107-109.

 

 ムスリムの歴史家の伝えるところでは、この書簡を受取った皇帝はマッカの多神教徒の指導者アブ-・スフヤ-ンを召喚し、預言者について質問し、その返答を聞いて「もしお前の言うことが本当なら、まことに彼は預言者である。私はその者が現れるのを知っていたが、お前たちの間から現れるとは思っていなかった。もし私が彼に近付けると分っていれば、私は彼に会いたいと思ったことだろう。また私が彼の側にいたなら、彼の両足を洗ったことであろう。彼の権勢は私の足下にまで及ぶことであろう。」と述べた、と言われている。cf. Sahih Muslim, vol.12, p.107.

 

 同年、マッカに向かったムスリム軍に対してマッカは無血開会城する。20年にわたるイスラームに対する迫害、6年に及ぶ戦争にもかかわらず、預言者はマッカの多神教徒たちに、いかなる処分も行わず損害賠償も求めない過去の罪に大赦を与えた。この大赦から除外されたのは、マディーナで殺人を犯して背教しマッカに走った者など15名だけであったが、その多くも後に処罰を免じられ、実際に処刑が執行されたのは総計4名に過ぎなかった。

 ムハンマドは、マッカ征服に際しての大赦にあたってイスラーム入信を条件としなかったため、マッカ征服の時点ではマッカの住民たちの大半は多神教徒のままであった。ムハンマドはマッカに入るや否や、カアバ神殿に詣で、そこに安置されていた360体にのぼる偶像を全て破壊した。マッカの住民たちは、そろってアッラ-とその使徒に服従するとの忠誠の誓いを立て、イスラームに入信したのはその直後のことである。

 

9.使徒の崩御 

預言者によるマッカ征服の直後、アラブ遊牧民ハワーズィン族、アル=ターイフのサキーフ族の連合軍がマッカに来襲した。預言者はマディーナから引き連れてきた信徒と新たに加わったマッカの新入信者たちを引き連れて迎え撃ち、これを打ち破り、膨大な戦利品を手にした。ところが使徒がその戦利品をマッカの新入信者たちに分け与え、マディーナから随行した古参の援助者たちは何一つ配分に与らなかった。そのため一部の援助者の中には、故郷のマッカに錦を飾った使徒の心はマッカの同郷人のもとに戻ってしまい、もうマディーナの援助者たちのことなど顧みられなくなった、などと不満を述べる者が現れた。そこで預言者は援助者たちを集め、戦利品を分配は、信仰のまだ弱い新入信者たちのため現世利益の褒賞であったことを教え、「私は汝らを信頼していればこそ、汝らは何も与えないで済ませていたのだ。援助者たちよ、汝らは、他の人々は戦利品として羊とラクダを持ち帰るが、汝らはアッラーフの使徒と共にマディーナへの帰途につくことで満足はしないのか」と尋ねた。これを聞いた援助者たちは感涙にくれて、「我々はアッラーフの使徒様が、我々への戦利品、分け前であることに満足です」と答えた。

 こうして預言者はマッカを後にしてマディーナに戻ったが、翌年9年、巡礼の儀を果たすため、マッカに詣でため再びマッカに向かう。これが預言者が召命後に行った最初で最後の巡礼となる。預言者がその年に巡礼を行う、との噂が人々の耳に届いたため、アラビア半島の隅々から、信徒たちが巡礼に押寄せた。その数は一部の歴史家たちによると14万人に達したと言う。

 この巡礼における説教の中で、預言者は自らの死期の近いのを予見して「来年以降この場所で汝らに会うことはおそらくあるまい」と述べていたが、マッカでの巡礼を終えてマディーナに帰還して間もなく病の床につく。

 病に倒れる前のある夜、預言者は教友の一人アブ-・ムワイハバと共に墓地を詣で、死者たちの冥福を祈られた。アブ-・ムワイハバは、その時の会話について以下のように伝えている。

  

「アブ-・ムワイハバよ、私はこの世の財宝の鍵と、この世で永く生きて天国に入れる許しを戴き、それを取るか、それとも天国で我が主と拝謁できることを選ぶか、どちらかの二者択一を与えられた。」

と言われた。それを聞いたアブ-・ムワイハバは「あなたは私の父と母より大切な御方です。どうかこの世の財宝の鍵と、この世で永く生きた後天国に入ることを選んで下さい。」と頼んだが、使徒は「アッラ-にかけて、アブ-・ムワイハバよ、私はもう天国での我が主への拝謁を選んでしまったのだ。」と答えた。

 使徒はこう言うと、死者たちへの御赦しをアッラ-に祈られたあと、墓地をあとにされた。そしてアッラ-が使徒を御許に召されることになる病苦が使徒を襲ったのは、丁度その夜からでした。cf. ar=Rau½ al=Unuf, vol.4, p.247.

 

 使徒は妻ア-イシャにみとられて亡くなった。使徒の臨終の様子をア-イシャは以下のように伝えている。

 

 使徒はスィワ-ク[木の歯ブラシ]で、そのとき初めて見るほどに強く歯を磨かれ、それを下に置かれました。そして私は使徒が私の胸で(急に)重くなられたのを感じました。それで私が使徒の御顔を覗きこみますと、使徒は既に目を閉じられ、「いや、天国の最高の伴侶を」と言われました。

 私は「真理を授けてあなたを遣わされた御方にかけて、あなたは選択を与えられ、すでにお選びになられました。」と言いました。そして使徒は天に召されたのでした。cf. ar=Rau½ al=Unuf, vol.4, p.259

 

 アッラ-の崩御の報が流れたとき、多くの主だった古参の教友たちでさえ恐慌状態に陥った。後に第二代カリフとなるウマルでさえ、「使徒は今はただお隠れになっただけで、やがて自分たちのもとにまた帰って来るのだ」と口走る有り様であった。

 初代カリフとなったアブ-・バクルだけが冷静で、死装束に包まれ寝所に横わったアッラ-の使徒にくちづけし、こう語りかけられた。

 

アッラ-の使徒よ、あなたは私の父や母より愛しい御方です。生も、死も、あなたにはなんと素晴らしいことでしょう。アッラ-があなたに定め給うた死をあなたは既に味わわれ、もはやあなたは決して死を味わわれることはありません。アッラ-の使徒よ、あなたの主の御許で、我々のことを思起こして下さい。

 

 そしてアブ-・バクルは人々に対して「人々よ、ムハンマドを崇拝していた者にとって、まことにムハンマドは逝かれた。しかしアッラ-を崇拝していた者にとっては、まことにアッラ-は生きておられ、死に給うことはない。」と言い、「ムハンマドは一人の使徒に過ぎない。彼以前にも使徒たちが逝った。もし彼が死ぬか、殺されるかしたら、お前たちは踵を返すのか。しかし誰が踵を返したとて、アッラ-を損なうことはできない。しかしアッラ-は感謝する者たちに報い給う。」(3.イムラ-ン家章144節)のクルアーンの一節を読み上げた。アブ-・フライラはウマルがこう語ったと伝えている。

 

 アッラ-にかけて、私はアブ-・バクルがこの節を読み上げたのを聞くや否や、驚きのあまり、両足で立っていることが出来ず、地に倒れ伏しました。そして私はアッラ-の使徒が本当にもうこの世にはおられないということを理解したのです。

 

5章.ウンマの歴史

 前章で既に見たように、マディーナに都市国家を建設してから後のムハンマドは、信徒から忠誠誓約を得た為政者として政治的権威を有することになった。

 しかし何よりもムハンマドは絶対唯一神アッラーフの人類に対する啓示を授かった使徒であり、アッラーフは単なる抽象的な存在原理、宇宙法則のようなものではなく、人知を越えた英知と意志を有し、善と悪を定め、善に報い悪を罰する立法者、裁定者たる人格神でもあることから、使徒は善悪の基準を知る者にとして、法/道徳的権威を有した。

 また使徒は、常人の知り得ぬ、天国と火獄、過去と未来、天使、悪魔、幽精等、幽玄界の神秘を知る者、また神意の体現者たる人々の模範として、信徒に対して超越的霊的権威を有していた。

 預言者ムハンマドにあってはこれらの権威は彼の一身の中に不可分な形で統合されていた。しかし彼の死後、時代が下るに従ってこの統合は崩れ次第に分化、拡散していく。

 預言者の授かったシャリーアの遵守の誓約によって結ばれた「宗教=法共同体」、わけても預言者ムハマドに従う人々、ムスリムの共同体をアラビア語で「ウンマ」と呼ぶ。

 本章では、預言者の権威の継承という視点から、預言者逝去の後のウンマの歴史を通観することにしよう。

 

(1)預言者の後継

 預言者の死後、マディーナのイスラーム国家は分裂の危機を迎える。

 預言者の娘ファーティマ、娘婿アリーらの遺族が葬儀の準備に追われていた時、マディーナの「援助者」は、自分たちの将来を決めるべく、町の有力者サアド・ブン・イバーダを囲んでサーイダ族の屋形に集っていた。それを聞きつけたアブー・バクル、ウマル、アブー・ウバイダら、マッカからの亡命者の長老たちは、サキーファに駆けつけた。援助者たちは最初、自分たちは独自の指導者を立て、亡命者たちも彼ら独自の指導者を立てるのがよい、と主張した。激論が続いたが、最終的には、アラブの名門であり預言者の出身部族でもあるクライシュ族の亡命者の指導者でなければ、アラビア半島の全てのアラブ部族を従えることはできない、のウマルの説得が功を奏し、サーイダ族の屋形の援助者たちは、亡命者の最長老アブー・バクルに忠誠を誓うことになる。サーイダ族の屋形を後にしたアブー・バクルはモスクに向かい、説教壇の上で、マディーナの住民全ての忠誠の誓いをうける。ここに預言者の後継者「カリフ」が誕生する。アブー・バクルは忠誠を誓った人々を前にして、以下のカリフ就任演説を行った。

 

  人々よ。私はあなたがたの中で最良の者であるからといって、あなたがたの上に立つわけではない。それゆえ私が正しければ私を助け、私が誤りを犯せば私を正して下さい。まことに信義こそ安全であり、虚言は裏切りである。あなたがたのうちの弱者は私にとっては強者である。アッラーフが望み給うなら、私は弱者にその権利を得させよう。あなたがたのうちの強者は私にとって弱者である。アッラーフが望み給うなら、私は強者にその義務を果たさせよう。アッラーフの道でのジハードを怠る民を、アッラーフは必ず卑しめ給おう。人々の間に不品行が蔓延すれば、アッラーフは必ずや彼ら全てに災害を及ぼし給おう。私がアッラーフとその使徒に従う限り私に従いなさい。もし私がアッラーフとその使徒に背いたなら、あなたがたには私に従う義務はない。さぁ、あなたがたの礼拝に向かいなさい。アッラーフはあなたがたに慈悲を垂れ給おう。

 

 こうしてイスラーム国家の最初の分裂の危機はひとまず回避される。しかしアブー・バクルのカリフ選出に際して、預言者の遺族が相談に与からなかったことが、後に禍根を残すことになる。

 幼少時より預言者の養子として育てられ、妻ハディージャの次にイスラームを受け入れた男性で最初の信徒であり、預言者の従兄弟にして娘婿でもあったアリーは、アブー・バクルのカリフ位選任に不満を抱き、忠誠の誓いを拒否する。預言者の出身氏族ハーシム家の主だった人々、アリーの心酔者たちもこれに従った。

 預言者の娘ファーティマが、父の遺産の分与をアブー・バクルに求めたのを、アブー・バクルが拒んだことが事態を悪化させた。預言者から聞いた「我ら預言者は遺産を残さない。我らの遺したものは喜捨となる。ムハンマドの遺族は、ここにある財産の中から取ることができるだけである。」との言葉が、アブー・バクルの遺産分与拒否の理由であったが、ファーティマはこの仕打ちに怒り、生涯にわたって二度とアブー・バクルと口を聞くことはなかった。

 ファーティマは預言者の死後半年ほどで父の後を追うように亡くなる。アリーは、ファーティマの葬儀にあたって、自ら葬礼を執り行い、アブー・バクルの出席を拒んだ。しかし預言者の愛娘ファーティマの死後、人心が離反するのを感じたアリーはアブー・バクルを訪問し、和解を申し出、翌日、モスクで公衆を前に、忠誠の誓いを果たす。マディーナのイスラーム国家の分裂は取り敢えず回避されたのである。

 しかし、イスラームに入信して日も浅く、イスラームの知識も乏しく理解も浅かったアラブ遊牧諸部族は、イスラームから離反する。所謂「背教戦争」である。

 「背教戦争」のきっかけは、遊牧アラブ諸部族が、礼拝の義務だけを追認し、法定喜捨の国庫への納入を拒否したことである。生前の預言者ムハンマドは政治的権威、宗教的権威を一身に体現するカリスマ的指導者であった。そして中央集権国家による統治の経験を有さない遊牧民たちは、「個人」と「公職」を区別する近代的市民的思考法とは縁が薄かった。

 法定喜捨は、イスラーム国家の長としてのムハンマドが、シャリーアの定める義務たる納入と配分の執行者として徴収するものであったが、多くの遊牧民たちはそれをムハンマド個人への貢納として理解していた。ムハンマドに納めていた喜捨の納税義務は彼の死と共に消滅する。遊牧民たちはこう考えたのである。

 遊牧諸部族による喜捨の支払い拒否という事態への対応をめぐって、マディーナでは意見が割れる。和平派の代表は後に第二代カリフとなるウマルであった。

 ウマルは戦いを主張するカリフ・アブー・バクルに対して述べた。

 

   アッラーフの使徒様が、「私は人々が『アッラーフの他に神はない』と証言するまで戦うように命じられた。そして『アッラーフの他に神はない』と証言した者は、その証言に伴う義務を除いて、その身命と財産の保全を私によって保証され、その裁きはアッラーフに委ねられる。」と言われたというのに、どうしてあなたは彼らと戦うのですか。

 

 これに対してアブー・バクルは、「アッラーフに誓って、私は礼拝と喜捨を区別する者と戦う。なぜならば喜捨とは、『アッラーフの他に神はない』との証言に伴う財産にかかる義務だからである。」と返答し和平派を論破し、「背教者」の討伐を決める。アラビア半島全土を揺るがした「背教」戦争は、多くの教友の犠牲の上に、イスラームによるアラブの再統一によって終わる。アラビア半島の再統一を果たしたアブー・バクルは、2年あまりの短い治世を終え病没する。

 アブー・バクルは臨終に当たってウマルを第2代カリフに指名する。

 第2代カリフ・ウマルはキリスト教徒のペルシャ人の奴隷の凶刃に斃れるが、死に臨んで、ウスマーン、アリー、アル=ズバイル、タルハ、アブド・アル=ラフマーン、サアドの6人の長老たちを指名し、彼らの間で協議して次期カリフを選ぶように遺言し、結果的にウスマーンが第3代カリフに選任される。

 第3代カリフ・ウスマーンが反徒によって殺害されると、イスラーム国家の首都マディーナの信徒たちの忠誠の誓いを受けてアリーが第4代カリフに就任する。アリーの就任に当たっては、第3代カリフの親戚でシリア総督であったムアーウィヤがアリーにウスマーン殺害者の処罰を求めたが、アリーがそれを拒否したことから、アリーのカリフ位の正当性を認めず、内乱となる。

 アリーはムアーウィヤとの戦いの途中に、離反した分離派ハワーリジュ派の刺客によって暗殺される。このアブー・バクルからアリーまでの4代のカリフをスンナ派では正統カリフと呼ぶ。またシーア派にとっては、アリーは初代のイマームであり、政権を担ったただイマームである。

 アリーの死によって、後世のムスリムたちが模範と仰ぐ預言者の薫陶を受けた教友たちの理想の時代は名実共に幕を下ろし、イスラーム史は規範的「英雄時代」、「黄金期」から没価値的「歴史」へと移行する。

 

(2)スンナ派とウンマ

 人口に膾炙した預言者ムハンマドの有名なハディース「最善の世代は我が世代である。その次はそれに続く世代であり、そしてその次はそれにまた続く世代である。」にある通り、イスラームは下降史観をとる。

 スンナ派は、預言者の時代のウンマ、特に最後の正統カリフ・アリーの暗殺までの時代を、ムスリムの最善の世代、理想社会と考える。

 スンナ派イスラームの考える理想社会とは、犯罪も不正も争いも存在しないユートピア、桃源郷ではない。預言者と正統カリフの時代にも、殺人、強盗、窃盗、姦通、飲酒等の罪を犯す弱い信徒はやはりおり、それどころか4人の正統カリフにいたっては3名までが己の天寿を全うすることすらできず暴漢により殺害されているのである。

 にもかかわらず、いやそうであればこそ、預言者と正統カリフ時代は、スンナ派信徒の考える理想社会であった。

 

  ・・・犯罪が公共的な健康の一要因であり、およそ健康な社会にとっての不可欠な部分をなしている・・・ ・・・犯罪は必然的かつ必要なものである。(デュルケム『社会学的方法の基準』岩波書店1982年、153,157頁)

 

 フランス社会学の祖デュルケムが鋭く洞察した通り、一定率の犯罪の存在は、健全な社会の指標であり、犯罪の不在こそがむしろ病理である。犯罪の不在とは、官僚と秘密警察の網の目による市民の一挙手一投足にいたる監視による古典的全体主義、あるいは、オーウェル/フーコー的な匿名のシステムによる人間精神の管理統制の別名であり、またそうした体制の自画自賛の広報、「大本営発表」に過ぎない。

 スンナ派イスラームの考える理想社会とは、むしろ善行と悪行の選択が個々人に委ねられ、また為政者の身の安全よりも市民の抵抗権が優先される社会なのである。

 スンナ派の考えでは、無謬性は預言者だけの属性であり、最後の預言者ムハンマドの後には、無謬の指導者は存在しない。スンナ派は、使徒の無謬性は、個人ではなくウンマ全体が継承したと考える。

 「我がウンマは誤りにおいて一致することはない」との預言者のハディースは、ウンマの無謬性を言い表していると解釈される。ムスリム個々人は過誤を免れ得ないが、ムスリムのウンマ全員が過ちを犯すことはありえない。イスラームの使信が歪曲、改変されることがないように、ウンマの中には必ず真理を護持する者がいなければならない。

 ウンマのコンセンサス(イジュマーゥ)は古典イスラーム法理学において、クルアーン、預言者のハディースに継ぐ、イスラーム法の第3法源の地位を獲得したのは、このウンマの無謬性の帰結である。

 ローマ・カトリック教会の教皇無謬説は有名であるが、教皇の無謬性は、信仰と道徳の領域についてに限られる。スンナ派におけるウンマの無謬も同様である。

 クルアーンは預言者ムハンマドについて「彼らが律法と福音書の中に見いだす善を命じ悪を禁じる文盲の預言者にして使徒・・・」(7章157節)と、その「勧善懲悪」の使命を強調する一方、ウンマもまた「汝らは人類の出現した最善のウンマであり、善を命じ、悪を禁ずる・・・」(3章110節)と、使徒の勧善懲悪の使命を受け継ぐがゆえに、人類最善の共同体の地位を約束される。ウンマの無謬性は、使徒の無謬性と同じく、イスラームの広宣、教義の領域における無謬性であり、ウンマは使徒亡き後のその継承者なのである。

 アッラーフの全人類に対するメッセージの護持、広宣の使命を担い、全体としては無謬の共同体でありながら、個々人をとってみれば、誰もが過ちを犯す常人に過ぎず、中には悪人、犯罪者、偽善者さえも当然のこととして存在するような「全体社会」がスンナ派の考えるウンマである。

  最後の正統カリフ・アリーの治世に末に、いかなる悪行であれ一つでも罪を犯せばもはや背教者としてウンマから排除される、厳格主義的な「聖徒の結社」ハワーリジュ派が生まれる。イスラーム史上最初の分派の出現である。

 ついで、アリーを預言者ムハンマドの教えを誤りなく伝えるためにアッラーフによってその後継者に親任された無謬の教主(イマーム)であったと考えるシーア派が生まれる。

 ハワーリジュ派の「聖徒の結社」にも加わらず、シーア派の無謬の教主の教義もも奉じず、ムスリムの大勢についたものたちが、スンナ派を形成することになった。

 ハワーリジュ派は初期に消滅し、スンナ派とシーア派がイスラームの2大宗派となり、その状態は紆余曲折を経て、今日に至るまで続いている。

 ムハンマドは預言者、アッラーフの使徒であると同時に、マディーナのイスラーム国家の元首であった。即ち、アッラーフの啓示の「依り代」であり、瞑想、勤行に励む修道者の模範、祭礼、葬礼、巡礼、日々の礼拝を指導する説教師、祭司であると同時に、アッラーフの命令を法として布告する立法者、それに従って人々の争いを捌く裁判官、喜捨、戦利品を徴収し分配し公共事業を行う行政官、自ら剣を取る戦士にして戦争を指揮する将軍、あらゆる領域の指導者性を一身に兼ね備えた統合的なパーソナリティーであり、また全ての権威を一身に体現するカリスマであった。そして正統カリフら、彼の薫陶を得た高弟たちの多くもまた、修道者、祭司、説教師、行政官、裁判官、将軍を兼任する統合的なパーソナリティーな持ち主であった。しかし預言者たちの高弟たちが世を去りウマイヤ朝時代になると、こうした人格の統合は失われ、専門分化が生ずる。

 イスラームの初期「列伝」文学を研究したマイケル・クーパーソンは、ヒジュラ暦2-3世紀西暦8-9世紀には、イマーム・アル=リダー、カリフ・アル=マームーン、アフマド・ブン・ハンバル、ビシュル・アル=ハーフィーの伝記に主として依拠し、シーア派のイマーム、アッバース朝(スンナ派)カリフ、イスラーム学者、禁欲者(初期スーフィー)の間の預言者の正当な後継者としての権威をめぐる対立を描いている。

 その後の歴史の展開の中で、政治的実権を欠くイマームがなお理念的には預言者の全ての権威を継承したと考えるシーア派に対して、スンナ派では、預言者の権威は、カリフを頂点とするウマラーゥが政治的権威を、ウラマーゥ(イスラーム学者)が学的権威を、スーフィーが精神的権威をそれぞれ担う形で継承された、との認識が徐々に一般化していくのである。

 

(3)カリフと政治的権威

 カリフとはアラビア語のハリーファが欧米語に入って訛ったものであるが、ハリーファとは「後継者」を意味する。

 スンナ派の政治的最高権威をカリフと呼ぶのは、預言者ムハンマドの跡を継いだアブー・バクルが、「ハリーファ・ラスール・アッラーフ(アッラーフの使徒の後継者)」を名乗ったことに由来する。確かに、ハリーファの称号は、今日に至るまで、スンナ派の政治的最高権威の意味で使用され続けているが、必ずしもそれは唯一の称号でもなければ、スンナ派の独占物でもない。

 第2代カリフ・ウマルは最初「ハリーファ・ハリーファ・ラスール・アッラーフ(アッラーフの使徒の後継者の後継者)」と呼ばれたが、長すぎて実用に適さないため、アミール・アル=ムゥミニーン(信徒たちの司令官)の称号が好まれるようになり、以後、アミール・アル=ムゥミニーンはカリフの別称となる。また法学文献では、政治的最高権威は、「イマーム(指導者)」、あるいは「イマーム・アゥザム(最も偉大な指導者)」と呼ばれ、「カリフ」という呼称は稀にしか用いられない。

 またシーア派で、彼らの教主を「イマーム(指導者)」と呼ぶが、イマームはハリーファ・ラスール・アッラーフでもあり、シーア派文献にも「カリフ」と呼ぶ用例も稀ではあるが存在する。

 しかし本書では、慣用に従い、スンナ派の政治的最高権威を「カリフ」、シーア派の教主を「イマーム」と呼び分けることにしよう。

 スンナ派神学は、預言者たちの次に優れた人間は教友であり、教友の中での順位は、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーの順、つまり正統カリフの就任順である、ことで合意している。神学におけるこの正統カリフ観は、人類の中でも預言者に継ぐ高い境位を正統カリフに付与し、その権威を認めるものではある。しかしあくまでもその権威は、預言者の薫陶を受けた最善の共同体としての教友のウンマの権威を前提としてのものであり、カリフはあくまでも同等者の中の第一人者に過ぎない。

 しかしカリフ観は、時代が下がると明らかな変質を遂げる。

 第四代カリフ・アリーの死後に、カリフ位に就任したムアーゥヤは正統カリフの慣行を破り、息子のヤズィードにカリフ位を世襲させる。ウマイヤ朝(661-750年)の成立である。ウマイヤ朝に代わって旧ペルシャ帝国の故地にアッバース朝(750-1258年)が成立すると、ペルシャの王権神授説、専制君主制度の影響を受けて、カリフは「アッラーフの使徒の後継者(ハリーファ・ハリーファ・ラスール・アッラーフ)」に代わって「アッラーフの代理人(ハリーファ・アッラーフ)」を号するようになる。

 特に 第7代カリフ・アル=マームーン(在位813-833年)は「導きのイマーム」として、スンナ派の学者たちを弾圧し、自らムウタズィラ派神学を「公定教義」に定め、政治的権威と宗教的教義の独占を試みた。

 スンナ派とカリフとの軋轢は、第10代カリフ・アル=ムタワッキル(在位847-861年)が、スンナ派教義に復帰することで修復され、「アッラーフの代理人」としての「カリフ位」は、スンナ派の学者たちによって改めて法学的に定式化されることになる。

 イスラーム法学において最初にカリフ論を定式化したアル=マーワルディー(1031年没)は『統治の諸規則』の冒頭の序言でカリフ職を定義して言う。

 

 威力にこよなきアッラーフはウンマに対して預言者職を継ぎ、イスラーム共同体(millah)を束ねる為政者を任命され、行政(tadbµr)が神法の定めた宗教(dµn mashr¹)から派生し(ya­duru)、見解が公権解釈に纏まるために彼に政治を委ねられた。カリフ職(im±mah)はイスラーム共同体の基礎がその上に据えられ、ウンマの利害がそれによって調整される土台であり、カリフ職によって公務が安定し、そこから個別の諸公職(wil±y±t)が派生する(­adarat)。

 

 アル=マーワルディーのこの短い序言には、流出論的権威観が凝縮されている。

 カリフ職は預言者職の後継として預言者の政治的権威の全てを継承する。この論理構成においては、あらゆる下位の司法、行政、軍事等の政治的権威は、カリフの政治的権威の派生物にすぎないのである。

 このことの意味は、前近代のイスラームの存在論を特徴付けていた流出論パラダイムを参照することによって、より明瞭になる。

 イスラーム世界に政治学をも包摂するネオ・プラトニズムの流出論パラダイムを導入したのは、アル=ファーラービー(950年没)である。アル=ファーラービーは、為政者と宇宙の第一原因(神)との類比関係について言う。

 

  第一者とはそこからあらゆる存在物が存在へともたらせる者である。

・・・すなわち第一原因の他の諸存在物に対する関係は有徳都市の王の他の諸部分に対する関係と同じである。質量をもたない諸存在者[離在的諸知性]の位置は第一者[第一原因]に近い。その下に諸天体がきて、さらに諸天体の下に質量的諸物体がくる。これらの存在者のおのおのは第一原因を模倣し、それを指導者とみなし、それに従う。・・・有徳都市もこれと同様でなければならない。すなわち、都市のすべての部分は彼らの行為によって、位階秩序に従って、都市の第一支配者の意図するところを模倣しなければならない。・・・

・・・彼こそが他のどんな人間もその上に支配力をもたない支配者であり、イマームである。彼こそは有徳都市の第一支配者であり、有徳な民族共同体の支配者であり、全居住可能世界の支配者である。」 130ファーラービー「有徳都市の住民がもつ見解の諸原理」竹下政孝監修『中世思想原典集成  - イスラーム哲学』平凡社、2000年、78、126-7、130頁

 

 第一者が下位の存在者の存在の根拠となり下位の存在者の階層秩序が第一者からの段階的に流出によって成立し、位の存在者は常に上位の存在を参照し服従する、とのこの流出論パラダイムを、イスラーム政治理論/国法学において法学的に精緻に定式化したのが、「最も優れた裁判官(aq   al=qu  t)」の異名をとったシャーフィイー派大法学者アル=マーワルディーだったのである。

 アル=マーワルディーの体系では、カリフの権威は、無謬の絶対的権威「預言者職」を継承するものとされ、更にそれがアッラーフによって任命された、とされることによって、神の権威に由来することになる。

 ここまでは、政治思想史的には一種の王権神授説とみなされるが、このマーワルディー学説を特殊イスラーム的にしているのが、「行政が神法の定めた宗教から派生し」の一句である。マーワルディーの体系においては、カリフの権威は確かに神に由来するのではあるが、概念的には、それは直接に神の権威を反映するものではなく、聖なる天啓法シャリーアという法システムを媒介として間接的に神の権威に接合されるのである。

 カリフ職を法体系の中に位置付けるアル=マーワルディーは、カリフの「正当性」を、資格条件と就任手続によって、法学的に規定することに成功する。

 彼によると、正当なカリフとは、カリフの資格を有し、有資格な選挙人によって選任されるか、あるいは前任のカリフによって後継者に指名されて後を継いだ者である。ここで言う選挙人の資格とは、(1)公正さ、(2)カリフ資格の知識、(3)政治的に有能なカリフを選び得る見識、の3条件であり、カリフの条件は(1)公正さ、(2)イスラーム法の知識、(3)五感の健全、(4)四肢の健全、(5)公共の福祉を齎す英知、(6)武勇、(7)クライシュ族の出自、の7条件である。

 カリフ選挙人による選任と前任カリフによる指名が、正当なカリフの就任手続とされるのは、正統カリフの前例による。つまり、「サーイダ族の屋形」での合議の結果としてのアブー・バクルに対するカリフ選任と、ウマルの指名した6人のカリフ選挙人によるウスマーンのカリフ選任の故事が、カリフ選挙人による選任の正当性の根拠となり、アブー・バクルによるウマルの後継指名が、前任カリフによる指名の正当性の根拠となったのである。

 こうして成立したカリフ位は、全ての政治的権威、権能をそのうちに包括しているが、それは委任(tafw  )の法的手続きによって、軍事司令官、裁判官、知事等の下位の権威に委託され、この手続きの繰り返しにより、次々と下位の権威が派生し産出されることにより、カリフを頂点とし一兵卒、小吏に至るまでの政治秩序の位階構造が産出されるのである。

 アル=マーワルディーにおいては、カリフ有資格者が、選挙人によって選任されるか、前任のカリフによって後継者に指名されれば、彼と忠誠契約を交わすことが義務となり、カリフ位は締結されるとされ、カリフ位締結が、選挙人による選任、前任カリフによる後継者指名自体によるのか、あるいはそれを受けての忠誠契約によるのかは曖昧であった。この点を明確化し、忠誠契約によってこそカリフ位締結が完了することを立証したのが、アル=マーワルディーと同次代人で同じく裁判官でもありハンバリー派の大法学者であったアブー・ヤァラー(1039年没)であった。

 ここに典型的な統治契約論としてのイスラーム古典国法学のカリフ論が完成する。即ち、カリフ位自体は、神が立てた制度として正当性の根拠を人ではなく神におき、また一切の他の政治的権威がそこから派生する権威の究極的根拠として存在論的に卓越しながらも、その権威を直接に神ではなく神法シャリーアに由来せしめることにより、法学的定式化に服することになる。それゆえカリフ位自体は、神が立てたものであっても、個々のカリフ自身は何らかの超越的な方法で直接的に神から名指しで親任されるわけではなく、一定の資格を満たし、合法的手続により選任され、臣民の忠誠契約を受ける、という一連の法的手続きによって初めてカリフに就任することができるのである。

 ところがアル=マーワルディー以降のスンナ派カリフ論においては、武力による覇権、実行支配の確立が、選挙人による選任、前任カリフによる後継者指名と並び、カリフ位締結の第三の合法的手続として認められ、この覇者のカリフ位についてはカリフ資格を満たすことが正当性の条件から外される。

 こうしてスンナ派では、有資格者が選任され忠誠契約が締結される、という統治契約論は理念としては維持されるが、覇者の実行支配を追認し正当性を認め革命権を封ずる「保守的」政治論が支配的となる。

 前近代のイスラームにおいて、このカリフ論と全く別の論理構成を持つ政治論を構築したのが、ハンバリー派の大学者イブン・タイミーヤ(d.1326)である。

 イブン・タイミーヤは『シャリーアに基づく政治(al=Siy sah al=Shar‘ yah)』他、多くの政治に関する作品を残しているが、それらの中で、カリフの資格、就任手続については一切語らない。

 イブン・タイミーヤにとって、預言者の政治的権威の継承者はウンマそれ自体に他ならない。彼は言う。「ウンマの無謬性があればイマームの無謬性は不要である。・・・ウンマの無謬性が預言者職を継承したのである。」

 ウンマは預言者から「勧善懲悪」に使命を継承するが、「勧善懲悪」こそが、全ての政治的権威の存在理由であり、ウンマの全成員が各自の力に応じてシャリーアに則り「勧善懲悪」に努めることがシャリーアによる政治であり、即ちイスラーム政治の理念である。

 イブン・タイミーヤのシステムにおいては、政治的権威の源泉はウンマであって、カリフではない。即ち、ウンマの成員は全て、自らの力に応じた政治的権威を本来有するのであり、カリフからの授権によってカリフの政治的権威を分有するわけではない。このシステムにあっては、為政者は最大の政治的権威でこそあっても、あくまでも同輩中の第一人者に過ぎず、政治的権威の源泉ではない。そしてまたこのシステムにおいては支配の正当性は、合法的手続によって就位したカリフの正当性にではなく、シャリーアの施行にある。シャリーアに背く統治をした為政者は支配の正当性を失い背教者として放伐と対象となる。

 イブン・タイミーヤの政治理論は前近代においては顧みられることがなかったが、現代において革命のジハード論として蘇ることになる。

 ここでカリフ制度の実態に目を転ずると、日本史において政治の実権が天皇から武家に移ったように、イスラーム史においても、アッバース朝の盛期を過ぎると、次第に傭兵団に実権が移ると同時に、中央の支配が地方に及ばなくなり、942年にシーア派のブワイフ朝が首都バグダードを征服すると、カリフは政治的実権を失った。しかし権力者がカリフの任命によって支配の正当性を得る、というイスラーム法上の理念は維持された。

 モンゴルによって第56代カリフのアル=ムウタシム・ビ・アッラーフが1258年に殺害されアッバース朝が滅亡すると、スンナ派の政治的権威としてのカリフ位はマムルーク朝に、そして1517年にマムルーク朝を滅ぼしたオスマン朝に移るが、1923年にトルコ共和国を建てたムスタファ・ケマルがオスマン朝最後のカリフ・アブド・アル=マジードを廃位した。

 アッバース朝カリフの滅亡以来、スンナ派ではウンマ全体の合意を得たカリフは存在せず、1923年以降、現在までカリフは空位である。しかし1377年から1417年までの「大シスマ(分裂)」他の無数の対立教皇の存在、南北朝の天皇の対立が、法制度としてのローマ教皇制、天皇制の否定とはならないように、カリフの乱立、空位の「事実」はそれだけでカリフ制度の消滅を意味するわけではない。

法制のレベルでは、前述のイブン・タイミーヤを唯一の例外として、スンナ派法学はアッバース朝滅亡以降も、カリフ制度を一度も否定することも、その代案を示すこともなく、現実のカリフ制の有為転変から超然と一貫してカリフ制度を維持しており、国籍を越えて東はインドネシアから西はモロッコまでイスラーム学者の養成機関の存在するところでは今でもカリフ擁立の義務とその職務が教え続けられている。この意味で、スンナ派世界においては、今日に至るまでカリフ制度は厳然と存在しているのである。

  

(4)ウラマーゥと学的権威

 アラビア語では「知識」、「学問」を「イルム」、学者を「アーリム」、その複数形を「ウラマーゥ」という。

イスラーム学の認識論は、人間の知の有限性の確認を出発点とする。

 人間の知識は、天性によってアプリオリに知られる生獲知と、考察によって得られる獲得知に2分されるが、獲得知は更に理性によって知り得るものと、伝聞によって知り得るものとに二分される。「理性によって知り得るもの」に関わる学問は「理性の学(ウルーム・アクリーヤ)」と呼ばれるが、「伝聞によって知り得るもの」に関わる学問は「伝承の学(ウルーム・ナクリーヤ、ウルーム・サムイーヤ)」、あるいは「シャリーアの学問(ウルーム・シャルイーヤ)」と呼ばれる。シャリーアとは既述の通りクルアーンとはハディースの教えの総体であったが、「伝承の学」が別名「シャリーアの学」とも呼ばれるのは、伝聞資料の中でも、アッラーの御言葉「クルアーン」とその使徒ムハンマドの言行録ハディースの重要性が、他を圧しているからである。

 このような設問と考察は幾つかの学問に整理されるが、例えば14世紀の『諸学の鍵』は、当時のイスラーム世界に存在した学問を先ず「シャリーア学及び関連アラビア語学」、「異人(主としてギリシャ人)の学」に二分する。「シャリーア学及び関連アラビア語学」、「異人の学」は上の「伝承の学問・シャリーアの学問」、「理性の学問」に対応している。

 更に『諸学の鍵』は「シャリーア学及びアラビア語学」を(1)法学、(2)思弁神学、(3)文法学、(4)書記学、(5)詩学、(6)史学、に6分し、「異人の学」を(1)哲学、(2)論理学、(3)医学、(4)数学、(5)幾何学、(6)天文学、(7)音楽、(8)力学、(9)化学に9分する。

ウラマーゥは、「学者」一般を指すが、このイスラーム世界の知的伝統の中では、特に「シャリーア学及びアラビア語学」、あるいは「伝承の学問・シャリーアの学問」の専門家がウラマーゥと呼ばれる。(他方、「異人の学」の専門家は「賢者(単数ハキーム、複数フカマーゥ)」と呼ばれる)

ウラマーゥはシャリーアの守護者として、アッラーのアッラーの使徒の権威を継承する。クルアーン第4章59節の「信仰する者よ、アッラーに従い、アッラーの使徒と汝らのうちで権威を有する者たちに従え」(4章59節)の「権威を有する者たち」の語は、ウラマーゥを指すものと言われる。スンナ派の標準的注釈書『ナサフィー(1316年没)注釈』を紐解くと、この句は「王侯、あるいはウラマーゥである。なぜならウラマーゥの命令は王侯によって執行されるからである」(`Abd All±h bn AÆmad al=Nasafµ, Tafsµr al=Nasafµ, vol.1, Beirut, 1996, p.339) と解説されており、ウラマーゥが王侯の上に立つとの理念が表明されている。

「ウラマーゥは預言者の相続人である」とのハディースもまた、ウラマーゥによる預言者の権威の継承の理念を示している。アラブ最高の歴史家イブン・ハルドゥーン(1406年没)は言う。

 

「ウラマーゥは預言者の代理人である」というムハンマドの言葉を理解するためには、次のことを知らねばならない。すなわち今日やすこし以前の法学者たちは、主として信仰のうえで守るべき行為やイスラーム教徒相互間の関係のあり方を決めるという点でシャリーアを代表する者たちであって、人々の行動の規範となる規則を定める。これが彼らの最大の目的であって、彼らの資格は限られたものであり、ある一定の条件においての専門家にすぎない。他方、初期の宗教家や敬虔なイスラーム教徒は、あらゆる面でシャリーアを体現し、シャリーアそのものであり、シャリーアにもとづく道を熟知していた。シャリーアを伝達によらずに体現する人々は「相続人」と呼ぶことができる。たとえばそれはアル=クシャイリーの『書翰』に記されているような人々であり、[学知と神智の]二つの知識を併せ持つ人こそがウラマーゥで、真の「相続人」である。すなわち第二世代の法学者や最初期のイスラーム教徒、四法学者の祖師たち、および彼らを手本としてその足跡をたどったひとたちである。(イブン・ハルドゥーン著森本公誠訳『歴史序説』岩波書店、1979年、449頁、一部改訳)

 

 イブン・ハルドゥーンの理解によると、社会分化が進んだ14世紀にあって「専門人」と化していたウラマーゥは既に預言者の相続人たる資格を失っていると考えていたが、かつての法学祖たちは「預言者の相続人」と呼ばれるに相応しかったことを認めている。

 アッバース朝第7代カリフ・アル=マームーンが、スンナ派の学者を弾圧し、政治的権威と宗教的権威をカリフの手に統合、預言者の権威の完全な継承者たる地位を目指したことは前節で既に述べた。このアル=マームーンの弾圧に敢然として抵抗し、クルアーンとハディース、そしてそれに由来するウラマーゥの宗教的権威を守ったのが、ハンバリー派法学祖のイブン・ハンバル(855年没)であった。  

彼がスンナ派の信仰の擁護のために果たした役割を称え、彼の同時代人のハディース学者アリー・ブン・アル=マディーニー(84年没)は、以下のように述べたと伝えられている。

 

アッラーフの使徒の後に、イブン・ハンバルほどにイスラームに尽くした者はいない。初代カリフ・アブー・バクルでさえ彼に及ばない。なぜならアブー・バクルには彼を援助する者、同志がいたが、イブン・ハンバルには援助する者も同志もいなかったからである。

アッラーフは2人の男によって、イスラームに栄光を与え給うたが、最後の審判に至るまで、第3の男は出まい。その2人とは「背教戦争」の日々のアブー・バクル、とアル=マンスールによる「異端審問」の弾圧の日々のイブン・ハンバルに他ならない。

 

 イブン・ハルドゥーンの言うところの「あらゆる面でシャリーアを体現し、シャリーアそのもの」であったようなイブン・ハンバルらの教父たち(サラフ)の努力によって、カリフの「教権」奪取の野望は挫かれ、シャリーアの権威はウラマーゥの手に残された。

 その後の歴史の中で、ウラマーゥは、イブン・ハンバルに見られたような「預言者の後継者」に相応しい人格の統合性を失う。イスラーム教育機関、イスラーム法廷、モスクなどの制度化に伴ってウラマーゥは教師、裁判官、説教師などの専門人に堕していく。しかし、そのような制度化によって、ウラマーゥが、社会の中に確固たる地位を確立したのもまた事実であった。

最後のカリフ帝国であったオスマン朝においても、制度的にウラマーゥ階層の頂点にあったシャイフ・アル=イスラームは、理論上、カリフの改廃権を有していた。

制度化は、ウラマーゥが「官職カリスマ」となったことを意味しない。ウラマーゥの権威は、カリフ権から派生するものではなく、その他の制度上の地位から生ずるのでもなく、シャリーア自体の権威に由来する。具体的には、個々のウラマーゥの権威は、彼の師事したウラマーゥの系譜の終点に位置する預言者ムハンマドの権威に由来する。ウラマーゥの権威の源泉は、預言者ムハンマドを介して開示された聖なる「知」にあり、それを裏付けるものは、預言者に遡るパーソナルな「知」の相伝の学統なのである。そしてこの学統は、カリフ帝国の制度的枠組みを遥かに超え、イスラーム世界中に張り巡らされたネットワークを構成していた。

それゆえ1923年にオスマン・カリフ帝国が滅亡しても、預言者の「教権」の継承者としてのウラマーゥの権威、ネットワークは大きく損なわれることなく、今日に至っている。

たとえば、クルアーン読誦の第32代伝承者ハビーバ中田香織の免許状には、その免許が預言者ムハンマドに遡る継承の系譜が以下のように記されている。

 

私(アブド・アッラー・アル=ジャウハリー)は、いかなる地域、いかなる土地に滞在しようと、「聖クルアーン」を読誦し、また他人の読誦を聞いて認可することをハビーバ中田香織氏に許可する。

また私はハビーバ中田香織氏に、私が彼女に許可したのと同じことについて他人にも許可を与えることを許可する。

そして私はハビーバ中田香織氏に、私も我が師アーミル・ブン・アル=サイイド・ハフィード・ウスマーン師を前に同じように聖クルアーンを読みあげて免許を得たことを伝えた。そして彼(アーミル師)も彼の師ハンマーム・ブン・クトゥブ・ブン・アブド・アル=ハーディー師を前に同じように聖クルアーンを読みあげて免許を得たことを伝えた。そして彼(クトゥブ師)も・・・・

 

30.アーミル・ブン・アル=サイイド・ハフィード・ウスマーン

29.ハンマーム・ブン・クトゥブ・ブン・アブド・アル=ハーディー

28.アリー・スバイウ・ブン・アブド・アル=ラフマーン

27.ハサン・ブダイル・アル=ジュライシー

26.ムハンマド・アル=ムタワッリー・アル=アズハリー

25.アフマド・アル=ドッリー・アル=トハーミー

24.アフマド・ブン・ムハンンド・ブン・サルムーナ

23.イブラーヒーム・アル=ウバイディー

22.アブド・アル=ラフマーン・アル=ヤマニー

21.シャハーザ・アル=ヤマニー

20.ナースィル・アル=ディーン・アル=ティブラーウィー

19.アブ・ヤフヤー・ザカリヤー・アル=アンサーリー

18.アブー・アル=ナイーム・リドワーン・ブン・ムハンマド

17.ムハンマド・アル=カリキーリー

16.ムハンマド・ブン・ムハンマド・ブン・ムハンマド・アル=ジャザリー

15.アブー・ムハンマド・アブド・アル=ラフマーン・ブン・アフンド・ブン・アリー・ブン・アル=ムバーラク・ブン・マアーリー・アル=バグダーディー・アル=ワースィティー

14.アブー・アブド・アッラー・ムハンマド・ブン・アフマド・ブン・アブド・アル=ハーリク・アル=ミスリー・アル=サッバーグ

13.アブー・アル=ハサン・アリー・ブン・シュジャーウ・アル=カマール・アル=ダリール

12.アブー・アル=カースィム・ムハンマド・ブン・アル=シャーティビー

11.アブー・アル=ハサン・アリー・ブン・フザイル

10.アブー・ダーウード・スライマーン・ブン・ナジャーフ

9.アブー・アムル・ウスマーン・ウスマーン・サイード・ダーニー

8.アブー・アル=ハサン・ターヒル・ブン・ガルブーン

7.アブー・アル=ハサン・アリー・ブン・ムハンマド・ブン・サーリフ・アル=ハーシミー

6.アブー・アル=アッバース・アフマド・ブン・サハル・アル=アシュナーニー

5.ハフス・ブン・スライマーン

4.アブー・バクル・アースィム・ブン・アブー・アル=ナジュード

3.アブー・アブド・アッッラー・ブン・ハビーブ・アル=サラミー

   ↓         ↓     ↓                    

2.ウスマーン  アリー イブン・マスウード ウバイイ ザイド・ブン・サービト

1.            預言者ムハンマド

 

カリフ国家消滅後、イスラーム世界には非イスラーム的世俗国家が分立する状況になり、殆どの国で、司法はウラマーゥの手を離れた。公教育においても宗教教育の比重の減少に伴い、教育部門におけるウラマーゥの役割は限定的なものとなった。しかし西欧化にともなう大衆教育の普及により、学校制度に組み込まれることによって、数的にはむしろウラマーゥの需要は増加傾向にあり、世界的なイスラーム復興現象の中で再び影響力を増しつつある地域もみられるのである。

 

(5)スーフィーと精神的権威

 前節で引用したイブン・ハルドゥーンの言葉の後段に着目しよう。

 

シャリーアを伝達によらずに体現する人々は「相続人」と呼ぶことができる。たとえばそれはアル=クシャイリーの『書翰』に記されているような人々であり、[学知と神智の]二つの知識を併せ持つ人こそがウラマーゥで、真の「相続人」である。すなわち第二世代の法学者や最初期のイスラーム教徒、四法学者の祖師たち、および彼らを手本としてその足跡をたどったひとたちである。

 

ここに挙げられている「アル=クシャイリーの『書翰』」とは、11世紀に書かれ今日に至るまでイスラーム大学で教え続けられているスーフィズムの古典教科書であり、「シャリーアを伝達によらずに体現する人々」、「[学知と神智の]二つの知識を併せ持つ人」とは、後世の分類では、ウラマーゥというよりはむしろスーフィーと呼ばれる人々である。

しかしイスラーム暦の2、3世紀頃までは、両者はまだ未分化であり、「シャリーアを体現し、シャリーアそのもの」であった「第二世代の法学者」、「四法学派の祖師たち」は、預言者や教友たちと同じく、ウラマーゥであることとスーフィーであることを、不可分に一人の人格の中に統合し、十全な意味で「預言者の相続人」の権威を有していた。

しかし、その後、学問が分化し、ディシプリンが確立していく中で、イスラーム法学(イルム・アル=フィクフ)と「スーフィズム(イルム・アル=タサウウフ)」は別個の学問となっていくが、後世においてもなお、ウラマーゥがスーフィーを兼ね、一身にシャリーアを体現することが理想である、との理念は失われることはなかった。

スーフィズムの発生の説明に関しては、法学の形式主義に対する反動、といった説明がなされることが多い。たとえば本邦の代表的スーフィズム研究者である東長靖は述べる。

 

決まりはつねに形骸化する可能性をもっている。イスラーム法も例外ではない。イスラーム法は、心の内面よりはむしろ、そとにあらわれた行為をもって価値判断の基準とする傾向がある。これに対して、そういう形ではなく、内なる「心」こそがより大事なのだ、という主張があらわれてきた。これをスーフィズムと呼ぶ。(東長靖『イスラームのとらえ方』山川出版社,52頁)

 

 ここには、「律法」の宗教「ユダヤ教」から「愛の宗教」キリスト教へ、という西欧宗教学の歴史発展図式、あるいは「戒律」の小乗から、「慈悲」の大乗へ、との日本仏教の自己認識が投影されている。このような理解では、初期スーフィズムが「禁欲主義」として始まったことも、後期スーフィズムが日常生活の細部にわたるとした独自の戒律をつむぎだしていったことも説明できなくなる。

 既述の通り、イスラーム法学は行為を必ず行うべき「義務行為」、行うことが望ましい「推奨行為」、価値中立的な「許認行為」、行わないことが望ましい「自粛行為」、決して行ってはならない「禁止行為」の5範疇に分類する。

 義務行為とは「それを行わなければ来世での懲罰の対象となる行為」、「推奨行為」とは「それを行えば来世で報奨を得られるが、怠っても懲罰は受けない行為」、「許認行為」とは「行っても行わなくても来世での懲罰も報奨もない行為」、「自粛行為」とは「行っても懲罰はないが、行わなければ報奨を受ける行為」、「禁止行為」とは「行えば来世で懲罰を受ける行為」である。

 また「義務行為」、「推奨行為」が有効であるためには、それをアッラーフのご満悦を得るために行うとの「意図(ニーヤ)」を持っていることが、条件となる。

 スーフィズムは、単に義務を行い、禁止行為を避け、天国の報奨を得ることに飽き足らず、禁止行為、自粛行為は言うに及ばず、許認行為すら避け、義務行為を果たした上で、あらゆる推奨行為をも行おう、との完全主義者の運動として始まった。それが初期禁欲主義者たちであった。

 次いでスーフィズムは、行為に伴う心の状態の分析に取り掛かったが、それは「形」に対して「心」を重視する、といったものではなく、むしろ、それは、「心」をも「形」に対応させる、つまり特定の心の状態をもたらすための行法の形式を定める、という方向性を持つものであった。それが「修行者の作法(アーダーブ・ムリード)」と呼ばれるものである。「修行者の作法」は、瞑想の行法、導師に接する心得、特定の日時に読み上げる時祷、聖者廟の参詣の式次第など、さまざまな作法を含むものであった。

 イブン・ハルドゥーンが預言者の「真の相続人」と呼んだようなスーフィー導師の周囲には、弟子たちが集まり、そこは修行場になり、修行者の作法が整えられていき、12、13世紀には、やがてイスラーム世界全域に広がるカーディリー教団、ナクシュバンディー教団、シャーズィリー教団などの大教団が相次いで成立する。   

 これらの教団においてスーフィーの導師たちは、弟子たちにとって、まさに預言者ムハンマドの継承者に他ならなかった。あるインドのスーフィーは言う。

 

(我が師が)語るとき、あたかも預言者が語っているかのようだ。私の心は花のように開く。 Arthur F. Buehler, Sufi Heirs of the Prophet, South Carolina, 1998, p.20.

 

そしてスーフィーの導師たちは、ウラマーゥたちの学統と同様に、自らの神智の権威を預言者ムハンマドに連なる法統の正統性に求めた。これらの法統は現在も切れることなく続いており、アメリカでインターネットのサイトを運営する現代の著名なナクシュバンディー教団の支教団ハッカーニー教団の導師であるムハンマド・ナーズィム師は、預言者ムハンマドから数えて40代目の導師にあたる。

 スーフィズムの理解においては、預言者ムハンマドは、歴史的存在であると同時に、超越的存在であることは既に述べた。スーフィーが自認する「預言者の後継者」とは、この「超越的ムハンマド」の後継者なのである。

 カリフの権威、ウラマーゥの権威が、現世を越えなかったのに対し、スーフィーの権威は、この世を越えたものである。

 スーフィーはこの世の王国を超えた隠れた王国を構成する。

この王国のヒエラルキーの頂点に立つのは、枢軸(クトゥブ)であり、その下には3人の代理人(ヌカバーゥ)、4人の楔(アウタード)、7人の篤信者(アブラール)、40人の補佐人(アブダール)、300人の善人(アフヤール)が続き、彼らは枢軸を中心として定期的な会合を持ち、世界の秩序を支えていると言う。(竹下正孝「後期スーフィズムの発展」中村廣二郎『イスラム・思想の営み』筑摩書房149頁)

スーフィーの権威は、一義的には、超越的なものであったが、本来、聖俗を分けないイスラームの歴史においては、スーフィー教団が同時に地上の王国をも志向することも稀ではなかった。特に、イスラーム世界がヨーロッパ列強の帝国主義的侵略により蚕食され、イスラームの政治的権威が消滅したところでは、スーフィー教団が、抵抗の主体となった例が多かった。

リビヤではイタリアの支配に抵抗したサヌースィー教団は、独立後教団王国を樹立した。英領インド、ロシア、中国ではナクシュバンディー教団による抵抗運動が目を引いたが、それは今日の中央アジアのイスラーム主義反政府運動の源流ともなっている。

 

(6)カリフの消滅からシャリーアの主権へ

 1923年にオスマン・カリフ国が消滅すると、スンナ派イスラーム世界は政治的権威を失うことになった。

 既述のようにスンナ派の伝統政治思想は、カリフ論に集中していた。カリフが消滅した現代において、にわかに重要性を増しつつあるのが、イブン・タイミーヤの知的遺産である。

 イブン・タイミーヤのシステムにあっては、政治の主体は、カリフではなく、

ウンマ(ムスリム共同体)であり、体制の正当性の根拠は、預言者の後継者としてのカリフの正統性にではなく、シャリーア(イスラーム法)の施行にある

 スンナ派の現代イスラーム政治論は、西欧の民主主義をウンマ主体論に、法の支配の理念をシャリーア主権論に読み替える。

 シャリーアは永遠に妥当する普遍的な法として国家の上に立ち、国家の支配の正当性を基礎付ける。

 政治の主体はウンマ全体が担い、特定の階層、家系が統治権を独占することはなく、ウンマは元首を選出し、シャリーアの枠内で立法を行い。

 現代スンナ派世界のイスラーム国法学者マフムード・アル=ハーリディーは、 このことを、(1)主権(siy±dah)はシャリーア(shar‛)に帰属、(2)権力(sul»±n)はウンマに帰属、と表現する。

 アル=ハーリディーの説明によると、シャリーアの主権とは、シャリーア(イスラーム法)が立法、司法、行政の全ての唯一の最終根拠であることを意味する。西欧型民主国家の議会に、国民主権、民主主義、人権などの原則に抵触する立法の権限が無いのと同じく、イスラーム的統治制度においては立法府と言えどもシャリーアに抵触する立法は許されないのである。

 第2原理の「権力」はウンマに属する」は、選挙権、国政参加権、革命権に相当する。ウンマの権力は、国民投票(バイア)、合議(シューラー)、元首に対する監督、の3つの概念を基礎とする。国民投票よってウンマは国家元首を選出し、ウンマによって選出された元首はウンマと協議しなくてはならず、ウンマの多数意見は拘束力を有する。また元首に対する監督は革命権を含意し、元首が不正を働く場合には、ウンマには元首の廃位が義務付けられる。

 このように見ていくと、スンナ派の現代イスラーム国家論は、西欧型民主主義国家と、構造的に同型であることが理解できる。すなわち、西欧型民主主義国家においては、生存権、財産権、自由権などを含む自然法が最上位の規範となり、自然法から派生する人民主権の原理に基づき社会契約によって国家が定立されるのに対し、イスラーム国家においては、神の定めたシャリーアが最上位の規範となり、シャリーアの命ずるカリフとウンマの統治契約によって国家が定立され、統治契約と同様にシャリーアから派生するウンマの国政参加権によって、ウンマが国政に参与するのである。

 イスラームと西欧型民主主義国家は、法が国民に政治権力を授権する、という論理構造を共有するが、この同一性は、次節以下で詳論するシーア派の教権制、王権神授説と比較するとより明白になるであろう。

 スンナ派のイスラーム政治論においては、イスラーム国家のメルクマールはシャリーア(イスラーム法)の施行にある。旧ヨーロッパ宗主国の法を継受した国々は、その国家体制の「イスラーム性」を否定される。

 但し、「イスラーム性」の否定に関しては、シャリーアに反する国家の位置付けにおいて、それを「不完全なイスラーム国家」と考え、漸進的にイスラーム化を図る立場と、イスラームに敵対する「反イスラーム国家」として即時打倒が必要と考える立場が存在する。後者の立場がイスラーム主義反体制武装闘争派である。

 またイスラームの政治主体はウンマ、全イスラーム教徒の単一の共同体であって、その元首は一人のカリフである。現在の「国民国家」の枠組み内では、十全なイスラーム国家は実現されない。ここでも既存の国民国家をイスラーム国家化していき、最終的にイスラーム世界を統一する「カリフ国家」を樹立しようとする漸進主義の立場と、一挙に単一のカリフ国家を樹立しよう、との立場が存在する。

 前者の立場の例としては、アラブ世界最大のイスラーム主義社会運動としての「ムスリム同胞団」がある。同胞団は、先ずイスラームの理想を体現する個人を、次いでムスリム家庭を、ついでイスラーム社会を、ついでイスラーム国家を作り、その後に全イスラーム教徒のカリフ国家を樹立しよう、との戦略を取る。

 後者の立場を取るのが、「政党」組織の国際ネットワークを有する「イスラーム解放党」であり、イスラーム世界全域の政府上層部や軍部を主たる対象としたカリフ国家樹立のための教宣活動を通じて、全ムスリムが集うべきカリフ国家を一挙に樹立しようと考える。

 ウンマ全体が選んだ一人の元首の下に、全てのウンマが結束し、シャリーアを最上位の法源とする単一の「カリフ」国家を再興することが、スンナ派のイスラーム政治思想の理念型となる。

 現在のスンナ派世界のイスラーム主義運動は全て、この理念型からの偏差によって分析することができよう。

 

(7)イマームとシーア派

 預言者ムハンマドの後継者が彼の従兄弟であり娘婿でもあったアリーであった、と考える党派がシーア派となったことは既に記した。シーアとはアラビア語で党派を意味し、「アリーの党派」を意味すす「シーア・アリー」が略して「シーア(党派)」となった。

 シーア派の発生は預言者ムハンマドの生前に遡る。彼の最初で最後の大巡礼となった「別離の大巡礼」の帰路、彼はガディール・フンムの地で、教友たちを前にして述べた。

 

私はお前たちに二つの重大なものを残す。アッラーフの書クルアーンと我が一族である。この二つに縋っている限り、お前たちは決して道を踏み外すことはない。

私を庇護者とする者は、誰でもアリーが庇護者である。

アッラーフよ、アリーを愛する者を愛し、アリーに敵対する者を敵とし給え!

 

アリーは預言者ムハンマドの甥であり、また彼の養子として幼少時よりその薫陶を受けて育ち、預言者が「知識の町」であるのに対し、「知識の門」と称され、預言者からクルアーンの隠された秘義を授かった者とみなされていた。

アリーを慕うアリーの党派の教友たちは、これをもって、預言者ムハンマドがアリーを後継者に指名したものと考えた。しかし歴史の展開は、既に述べたように、預言者の逝去後、主だった教友たちはアブー・バクルを選出し、アリーもまた彼に忠誠の誓いを捧げた。

また第2代カリフ・ウマルは臨終の席で、次代カリフを選ぶ6人の選挙人を指名したが、その一人であったアリーはウスマーンをカリフに推戴する。

アリーはウスマーンが叛徒に襲われ非業の死を遂げた後、第4代カリフに就任したが、アリーの治世は内乱に次ぐ内乱で、彼自身、政敵ムアーウィヤとの闘争の最中に、「異端」ハワーリジュ派の刺客の凶刃に斃れる。

アリーの長男ハサンは、アリーが亡くなると、政敵ムアーウィヤにカリフ位を禅譲し、ウンマは再統一される。

ムアーゥイヤが亡くなり、不品行な息子のヤズィードがカリフに就任すると、ハサンは既に亡くなっていたが、アリーの次男フサインが異を唱えて決起するが、ヤズィードの差し向けた大軍に包囲されイラクのカルバラーゥの地で敗死する。

フサインの非業の死を契機に、「アリーの党派」とムスリムの多数派との乖離は決定的になる。多くの研究者は、カルバラーゥの地におけるフサインの「殉教」をもって、シーア派が成立した、と考えている。

シーア派は預言者の後継者が誰であるか、においてのみ、スンナ派と見解を異にするだけではない。シーア派とスンナ派では、預言者の後継者の性格が全く異なる。

先ずシーア派の考える預言者の後継者「イマーム」は、アッラーフから直接任命される。シーア派の伝承によると、預言者ムハンマドが、初代イマーム・アリーのみならず、次はハサン、次はフサイン、次はアリー・ブン・フサイン、次はムハンマド・ブン・アリー、次はジャアファル・ブン・ムハンマド、次はムーサー・ブン・ジャアファル、次はアリー・ブン・ムーサー、次はムハンマド・ブン・アリー、次はアリー・ブン・ムハンマド、次はハサン・ブン・アリー、次はムハンマド・ブン・ハサン・アル=マフディー、と12人のイマームの全てを名指して伝えていた、とさえ言われる。

第4代イマーム・アリー・ブン・フサイン以降の歴代イマームたちは、時のウマイヤ朝、アッバース朝政権の厳重な監視下に軟禁状態におかれ、政治活動から遠ざけられていた。シーア派の伝承によると、初代アリーが暗殺され、第3代フサインが戦死しただけでなく、第2代イマーム・ハサンは毒殺され、その他のイマームたちもいずれも、敵の手にかかって殉教を遂げたとされる。

第12代目イマーム・アル=マフディーは敵の手を逃れ、874年に地上から姿を隠す(小幽隠)。その後しばらくはアル=マフディーの代理人を称する者を介して彼の意思はシーア派信徒らに伝えられていたが、その代理人を通じた交信も941年をもって終わり、アル=マフディーは「大幽隠」と呼ばれる状態に入る。彼が次に姿を現すのは、最後の審判の前に地上に正義をもたらすために再臨する時と考えられている。

シーア派によると、このようなアッラーフから直接任命されたイマームたちは、預言者と同じく無謬で神智と奇跡的能力の持ち主と考えられている。

つまり、シーア派のイマームは、スンナ派のカリフとは違い、同輩の中の第一人者としてウンマによって選任された政治的指導者ではなく、神によって任命され超常的な宗教的カリスマをもつ教主であったのである。

 現実政治においては、シーア派のイマームは、初代イマーム・アリーのスンナ派第4代カリフとしての短い統治期間を除き、政治権力を握ったことはなかった。しかし現実の権力の有無は言うに及ばず、存在と不在とにすらかかわらず、シーア派信徒にとってイマームこそが神の正義を体現する唯一の正統な政治的指導者なのである。 

 イラン・イスラーム革命において、イランの民衆は、指導者ホメイニーを、このようなイマームの代理である信じて熱狂的に受け入れた。

 峻厳な正義の執行者としてのホメイニーの姿は、外の世界でも知られているが、次のような詩の作者である神智者としての彼の側面を知る者は少ない。

 

「酔い痴れた者の親密さのうちに」

 

修道者の傍らに、我らは平安を見いださなかった

修道場に彼からの呼び声は聞こえなかった

神学校では愛する者についてなにも読まず

モスクの光塔に彼の声は聞き取れなかった

書物の山の中、我らは覆われた美顔を拝することはできなかった

文書のうちに行く先のてがかりはみつからなかった

偶像の館で、我らの時はむなしく過ぎた

敵たちの間には薬も苦痛もなかった

愛に酔い痴れた者たちの一団に私も加わり

愛する者の園のバラの香りと名残を見つけよう

「我ら」や「私」は理性の産物、そしてくびき

酔い痴れた者には、「私」もなければ「我ら」もない

(ホメイニ詩集『愛の杯』より、Imam Khomeini, Sabwµy-i

`Ishq, Tehran, 1994, p.17)

 

イラン・イスラーム共和国最高指導者の晩年の姿がここにある。

 

(8)イマームの幽隠から「法学者の権威」へ

 シーア派のイマームは信徒の霊的指導のみならず、理論上はウンマの政治的指導者でもあった。シーア派法学は、1)ジハードの宣戦、2)戦利品の分配、3)金曜集団礼拝の先導、4)宗教的判断、5)イスラーム刑法法定刑の執行、6)宗教税の徴収、をイマームの大権であるとする。

 しかし、シーア派を国教とするサファヴィー朝がイランに成立し宗教制度が整う16世紀の半ば頃には、シーア派法学は、上記のイマームの大権のうち領土拡大のための攻勢的ジハードの宣戦を除く全ての職務について、シーア派のイスラーム法学者による代行を認めることになる。これが「不特定代理」の理論である(松永泰行「ヴェラーヤテ・ファギーフとは何か?」『中東研究』№.455, pp.18-19)。

 「不特定代理」の理論とは、特定の法学者ではなく法学者全体が、イマームによって、彼の不在中の代理人に任命された、という考え方である。

 この「不特定代理」の理論を発展させて、「法学者の権威(ウィラーヤ・ファキーフ)」理論を構築したのが、1979年のイラン・イスラーム革命の指導者ホメイニーであった。

 ホメイニーによると、イマームには超人的・霊的権威(ウィラーヤ・タクウィーニーヤ)」と法的・政治的権威(ウィラーヤ・イウティバーリーヤ)の二重の権威があったが、後者の法的・政治的権威はイマームによって、法学者に全面的に委任されたとされる。

 ホメイニーの「法学者の権威」論によると、法学者は、この権威(ウィラーヤ)を行使し、イスラーム政体を樹立し運営する職務を追う。

 シーア派のイマームの権威は預言者の権威と同じく神与の絶対的権威であり、シーア派イマーム論は一種の王権神授説である。ホメイニーの「法学者の統治論」も、このイマームからの統治権の委任を根拠とする以上、王権神授説のヴァリアントであると同時に、同時に特定の聖職者階層が政治を担う、という意味において典型的な教権制でもある。

 この「法学者の権威」論とスンナ派の「シャリーアの支配」論とを比較対照すると、両者の特徴がより明確になる。

 シャリーアの支配論においては、伝統的スンナ派カリフ論と異なり、イスラーム国家(カリフ国家)の支配の正当性、あるいは「イスラーム性」の基準は、預言者の後継者としての元首(カリフ)の正統性ではなく、国家の立法、司法、行政の基礎がシャリーアに基づくこと、すなわちシャリーア主権の有無にある。

具体的な政体は、シャリーアによって、参政権を授権されたウンマ全体が決定する。

 一方で、「法学者の権威」論においては、イスラーム法学者の権威は、預言者の後継者としてアッラーフが直接に任命したイマームの権威の延長であり、「イスラーム政体」の「イスラーム性」の基準は、その政体の最高指導者が「イスラーム法学者」であること、換言すれば、法学者の人格それ自体となる。

 このように王権神授説に基づく「人」の支配であり、また聖職者が統治する教権制であるシーア派の「法学者の権威」論と比較するとき、法の支配とウンマ(全共同体)の参政権に立脚するスンナ派の「シャリーア主権」論と西欧型民主主義国家論との構造的同型性はもはや明らかであろう。

ホメイニーによると、法学者はシャリーアの効力を停止し、自らの裁量による法令を発する権限を有する。その意味で法学者はシャリーアの上に立つ。但し、法学者がシャリーアの効力を停止する権限を持つのは、あくまでも彼がシャリーアに通暁した「法学者」であるからに他ならず、つまりシャリーアの奥義を知る神智を授かったイマームの代理人であるからこそシャリーアの文言を超えた判断が下せるのである。法学者の人格に依存する「法学者の権威」論は「人の支配」ではあるが、「法」学者の支配である限りにおいて「法の支配」でもあるのである。

 また「法学者の権威」論を唱えるホメイニーを最高指導者に戴いたイラン・イスラーム共和国は、「共和国」体制を選択したことにおいて、その正当性の根拠に一定の民意を組み込む理論的余地を残している。

 特にホメイニーの後を継いだ現在の最高指導者ハーメネイーが、イマームの霊的権威と政治的権威を分けた上で、政治的権威は、人民の支持によって始めて発効するとし、また「不特定代理」の理論にかんしても、法学者全体への不不特定代理は神意としながらも、最高指導者たる個々の法学者の選出は人民の意志による、とし、「法学者の権威」論と西欧型の民主主義理論との折衷を図っていることは注目に値しよう。

 

6.結び

本書は、類書のように、イスラームの理解を謳うことはしない。むしろ、イスラームの理解の絶望的な困難は、預言者ムハンマドの召命から今日に至るイスラームの歴史が明らかにするところである。にもかかわらず、イスラームが信徒の心を捉えて離さず、いかなる困難にもかかわらず、真のイスラームを求め、守り伝えることに身を捧げる者が耐えないこともまた歴史の教えるところである。

イスラームの理解の困難と、困難にもかかわらず惹きつけてやまぬその魅力の秘密を明らかにすることが、本書の目的であった。

 預言者ムハンマドは末世について予言している。

 

 イスラームを知る者はいなくなり、人々は無知な者たちを頭に仰ぐようになり、これらの無知な指導者たちは問われるままにイスラームの知識もなく教義判断を下し、自ら迷妄に陥ると同時に人々をも惑わす(ハディース)

 

 私もまた、自ら迷い他人をも惑わす者の一人ではないのか、との懼れは常に心を離れない。 

異文化を知るとは自文化を知ることである、とはよく言われる。

 人はそれぞれ自分の器でしか他人を測ることしかできない。

 我々の目に映るイスラームは所詮、我々の鏡像に過ぎない。

 自己を知るとは、自己の目に映る世界が自己でしかないことを知ることである。それゆえ自己の知を究める者は、世界の限界に達し、世界の限界こそが、神に他ならない。

 

「己を知る者は神を知る」(ハディース)

 

 世界を離れてイスラームがどこかにあるわけではない、イスラームとは世界の姿であり、神を知る者にとって、世界と己は一つである。結局は、世界を知ること、己を知ることを置いて、イスラームの理解は存在しない。

 本書はイスラームの理解ではなく、イスラームに向き合うための心の備えを与えるものである。ここから先にはマニュアルはない。一期一会の出会いがあるだけである。本書がきっかけとなり、読者諸賢に素敵な出会いが訪れるなら、筆者にとって望外の喜びである。

 拙い作品だが、筆を取ってから今日まで、3年の歳月が経ってしまった。まがりなりにも書き終えることができたのは、遅筆の著者を温かく黙って見守ってくれたメチエ編集部の山崎氏の忍耐のおかげである。この場を借りて謝辞を述べたい。