修士論文
中央アジアにおけるイスラーム解放党
同志社大学大学院 神学研究科
組織神学専攻 一神教学際研究コース
博士課程(前期)
2005年度 302番
原田恭介
目次
序 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
1. 解放党とは?
① ナブハーニーと解放党の創立 ・・・・・・・・・・・・・・7
② 国際性とその影響力 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
③ 目標 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 11
④ 革命思想 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12
⑤ 武力闘争についての立場 ・・・・・・・・・・・・・・・・13
2. 解放党の組織形態
① 基本構造 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
② メンバーシップ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
③ 資金について ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23
3. 『イスラームの制度』に見る解放党の基本思想
① 一般的特徴 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
② 信仰の道 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25
③ イスラームの知的統率 ・・・・・・・・・・・・・・・・・26
④ ダアワの伝道手段 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27
⑤ イスラーム文明 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
⑥ イスラームの制度 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
⑦ 憲法と法規 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29
⑧ 憲法草案 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
4. 中央アジアにおける解放党
① 中央アジアのイスラーム復興 ・・・・・・・・・・・・・・33
② 中央アジアへの進出 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・35
③ 活動・主張 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・36
④ 支持基盤 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・38
⑤ クルグズスタンにおける解放党と社会の関係 ・・・・・・・40
5. 中央アジアで解放党が拡大できた理由
① 解放党の伸張と社会運動理論 ・・・・・・・・・・・・・・42
② 解放党の思想と中央アジア固有の環境の間の親和性 ・・・・45
終わりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・52
地図 フェルガナ盆地 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・54
脚注 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・55
参考文献 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・69
序
2001年の同時多発テロ以降の「テロとの戦争」を挙げるまでもなく、イスラーム主義運動の国際的な伸張に対する警戒は、このところますます強まっている。世界には様々なイスラーム主義運動が存在し活動しているが、なかでも近年にわかに注目を集めるようになったグローバルなイスラーム主義運動が、解放党(Hizb al-Tahrir)[i]である。最近、アメリカの権威ある国際政治評論誌Foreign Affairsに、アメリカへの憎悪を組織的に煽っているとして、解放党に対して断固として戦うよう、アメリカ政府に提言した論文が掲載されたが[ii]、このことは、解放党への監視が強化されつつあることを物語る。
現代イスラーム世界の種々様々なイスラーム主義運動のなかでも、解放党は明晰なイデオロギーと強固な組織体系を有する点で特記に値する。解放党は、カリフ制国家の樹立、イスラーム法の施行とパレスチナの解放を政治目標として、半世紀以上前にパレスチナで結成された政治運動である。この組織は、現代世界のすべての国家とそれらの間の関係を根本的に規定している国民国家のシステムを、反イスラーム的であるという理由のみならず、欧米各国の植民地に対する軍事・政治・経済・文化的な支配の道具だとして、それを根底から拒絶している。民主主義や資本主義といった概念も、強者が弱者を搾取するための不正義な手段にすぎないとして強く非難する。
解放党は、緩やかな改革主義を否定し、革命を起こし政権を奪取することでカリフ制国家の樹立を目指す。しかしその急進的な主張にもかかわらず、解放党自らは武装闘争の可能性を否定している。党員は党の活動によっていかなる弾圧を被ろうとも、暴力的手段に訴えることは禁じられている。また彼らは9.11の暴力行為を非難するが、一方で、パレスチナ、アフガニスタン、イラク、チェチェン共和国などにおけるムスリムの武力闘争は、侵略者に対するレジスタンスであり許されるばかりかそれらはムスリムにとっての義務である、としてそれを正当化する。この主張を理解するためには、解放党の「非暴力主義」の背景にある、イスラーム法におけるジハードの概念を参照しなければならない。
解放党は厳格なヒエラルキーと区域分割のシステムによって、他のイスラーム主義組織から区別される。組織の基本構造は、党の活動方針を全面的に決定する中央指導委員会、国民国家の領域を統括する地域委員会、主要な都市に設置される地区委員会、の三段階のトップダウン型の縦割りシステムと末端の勉強サークルである。こうした組織原理は、アラブの民族主義運動や社会主義組織に影響を受けたものと考えられる。
ソ連崩壊後にイスラーム復興現象が社会の様々な領域で観察された中央アジア[iii]は、解放党が近年急速に基盤を広げることに成功した地域である。解放党は、ウズベキスタンを中心に、クルグズスタン・タジキスタン・カザフスタンなどに支持基盤を持っている[iv]。政治的な活動の機会が極度に制限された中央アジア諸共和国において、解放党は過去に培ってきた地下活動のノウハウを生かして、プロパガンダおよびメンバーの徴募・訓練を効果的に遂行している。中央アジアでの解放党の勢力拡大のピークは過ぎたと言われるが、それでも、イデオロギー闘争を粘り強く一貫して続けているという点では、現地におけるあらゆる反体制派の中でも、最も注目すべき組織の一つである。
解放党が中央アジアで短期間のうちに一定数の支持者を獲得できたことについて、多くの専門家たちは、貧困・失業・政治的な自由の欠如などといった現代中央アジア社会の抱える諸問題が、主要な原因であると主張する。例えばアハメド・ラシッドは、「この間にも、アラブ世界直輸入の単純かつ一元論的なイデオロギーは、人気を集めている。過酷なストレスの時期に、人々は単純なわらにすがりたいからである」「絶望的な境遇にある中央アジアの若者にとって、単純思考の、腐敗することのないHTの活動家―恵まれたときなら目もくれない相手―が救世主に見えるのだ」[v]といったように、人々が解放党に惹かれる理由は、中央アジアの閉塞的な社会的環境にあると言及している。
社会の様々な困難や矛盾が一つの政治運動の原動力となることは、イスラーム主義運動に限らず、すべての政治運動に共通して言えることであり、そのような例は人類の歴史においても枚挙に暇がないだろう。中央アジアにおける近年の解放党の伸張も、一見するとこのような理屈で単純に説明できるかに思われる。ところが、上のような説明では、(1)なぜ、多様な形態をとりうる政治運動(様々な流派のイスラーム主義運動だけでなく、民族主義運動や社会主義運動などもありうる)の中で、解放党という中東生まれの特殊な組織が勢力を伸ばすことができたのか、(2)どうして、中央アジアと同じように貧困や政治的抑圧で苦しむ他の地域のムスリム住民の間で、解放党の勢力が弱い、もしくは無視できるほどに小さい地域があるのか、(3)何ゆえ、ある程度の経済水準を維持し政治的表現の自由を享受している欧米在住のムスリムの間で、解放党が一定の支持を得ているのか、といった疑問に答えることはできない。
これらの問題を説明するためには、中央アジアの貧困や独裁・抑圧的な政治体制に関しての議論だけでなく、解放党独自の思想や組織論について正確に言及し、それがどのように人々に受け入れられるのかという点について考える必要がある。筆者は、解放党のイデオロギーや大衆動員の方法論と、中央アジア固有の社会構造やメンタリティーとの間にある種の「相性のよさ」が存在するとの仮説によって、この社会現象をより整合的に理解できると考える。すなわち、中央アジアにおいては、貧困や政治的不自由によって鬱積した感情が偶然に解放党の支持に繋がった、という従来主流であった見解を相対化し、解放党には合理的・主体的な判断によって支持されだけの資質があり、それが中央アジアで受け入れられた、という点を明らかにするのが、本論文の目指す議論である。
本稿の構成は以下の通りである。まず1章において、解放党の歴史、国際性、基本的な政治目標とその手法を述べる。2章では、解放党の活動の維持・拡大を可能にした組織論について考察する。3章では、解放党の基本文献である『イスラームの制度』を分析する。4章では、中央アジアにおける解放党の活動について叙述する。5章では、なぜ中央アジアで解放党が一定の支持を獲得できたのか、という問題に対して一つの見解を与える。
1.解放党とは?
①ナブハーニーと解放党の創立
タキー・アル・ディーン・アル・ナブハーニーは1909年、北パレスチナ・ハイファ近郊のイジュズィム村でイスラーム学者の家系に生まれた。父はイスラーム学の学者であり教師であった。彼の母もまたイスラーム諸学に精通していた。彼女の父シャイフ・ユースフ・アル・ナブハーニーは多作な学者であり、オスマン朝各地で実績を残した優秀な裁判官であった。このような知的環境が、幼いナブハーニーの性格と将来を決定した。彼は12歳で既に、クルアーン全章を完全に暗誦できたという[vi]。
1928年から4年間、ナブハーニーはカイロのアズハルで学び、卒業と同時にパレスチナに戻り、教育相管轄下のイスラーム学の講師になった。彼はイスラーム教育現場への植民地主義の影響を嫌い、1938年、ハイファ・イスラーム法廷の職員に転職した。40年には同判事補に昇進し、45年にはラムラのイスラーム法廷判事、48年にはエルサレムの法廷判事に任命された[vii]。ナブハーニーはパレスチナで判事を務める傍ら、Jam`iyyat al-I`tisam(遵奉協会)というイスラーム団体の補佐官として仕えていた[viii]。ナブハーニーは50年に判事を辞任し、エルサレム地方議員に二回ほど立候補したが、結果的に当選することはできなかった。その後、アンマンのイスラーム大学で教鞭をとりながら、解放党結成の準備を進めた[ix]。
解放党創立以前、ナブハーニーはパレスチナにおいて、アラブ民族主義者たちと近い関係にあった。ナブハーニーはアラブ軍団の司令官アブド=アッラー・アル・タルの腹心であり、彼の庇護の下で活動するバアス主義知識人たちと親密に交流していた。アラブの統一とパレスチナ解放を革命的プロセスによって達成しようとするバアス主義の主張に、ナブハーニーは深く共感していた。しかしながら、バアス主義者の世俗主義的志向と、彼のイスラーム主義は、根本的な点で相容れなかった[x]。
ナブハーニーはムスリム同胞団創立者ハサン・アル=バンナーと接触を持ち、同胞団の著名なイデオローグであるサイイド・クトゥブの影響を受けたが、この組織に加入したことはなかった[xi]。解放党の結成期にナブハーニーは、バンナーとその支持者たちの運動を批判していた。多くの同胞団の活動家が結党直後の解放党に参加した[xii]。同胞団統合の試みは何度か行われたが、実現することはなかった。活動範囲が重なり合う解放党と同胞団は、以後激しく反目しあうようになる。
ナブハーニーは1949年に解放党を創立する[xiii]。ナブハーニーは、イスラーム学校の同僚アサド・ラジャブ・バユウド・アル=タミーミーとアブド・アル=カディーム・ザッルームを解放党に引き入れ、解放党結成の公式宣言に向け、彼らとともに支持者集めに奔走した[xiv]。ナブハーニーは、52年にエルサレムで解放党の結成を公式に宣言し、党首ナブハーニー、副党首ダウード・ハマダーン、会計長ガーニム・アブドの名を連ねて、内務省に合法政党の登録を申請したが、二度にわたって却下された。党の綱領がいくつかの憲法の条項と相容れなかったのが、申請却下の理由とされた。創立メンバーは、再び内務省に登録許可を求めたが、53年、それが原因で彼らは二回逮捕された[xv]。当局の警戒が強まるにも関わらず、解放党はパレスチナで多くの勉強サークルを立ち上げることに成功した。53年の時点で解放党は、パレスチナの諸都市のみならず、ベイルート、ダマスカス、クウェートなど国外に支部を開いていた[xvi]。党の指導部は、運動の急速な拡大に自信を深めていた。
1954年解放党はヨルダン国会議員選挙に5人の候補を送ったが、当選したのはアフマド・ダーウールだけであった。56年の選挙で当選したのもダーウールだけであったが、歯に衣着せぬ政権批判のせいで、彼は議席を剥奪され禁固2年の刑に処された。以後解放党は、ヨルダン国政に参加していない[xvii]。
ナブハーニーは、ヨルダン治安当局の妨害から逃れるため、53年にダマスカス、56年にはベイルートに移動し政治的自由を享受したが、その後解放党に対する締め付けが厳しくなり、彼は潜伏生活を余儀なくされる。73年に彼はイラクを旅行中に、同国の治安機関に監禁され激しい拷問を受けた[xviii]。ナブハーニーは77年に死去し、アブド・アル=カディーム・ザッルームが党首を引き継いだ。ザッルームは2003年に死去し、アター・アブー・アル=ラシュタが現在の解放党の最高指導者である。
②国際性とその影響力
パレスチナで誕生した解放党は、世界各国に支部を置き活動する、真に国際的なイスラーム主義運動である[xix]。依然不明な点もあるが、ヨルダン、シリア、レバノン、イラク、イエメン、UAE、マグリブ各国、などのアラブ圏諸国、パキスタン、バングラディシュ、インドネシア、マレーシア等の南アジア、旧ソ連の中央アジア共和国、欧米諸国、トルコ、ロシア、スーダンなど、世界40ヶ国[xx]で活動していると言われている。英国支部は解放党の欧米に対する情報発信基地として重要な機能を持つ。インドネシアやバングラディシュで解放党は、公然と選挙活動を行い大規模な街頭デモを組織している。中央アジアでは、最も有名で影響力を持つイスラーム組織に成長した。解放党は一般的に、アラブ世界より非アラブ世界において活発である。これは、ムスリム同胞団がアラブ人を主体に組織されているのと対極的である。
解放党は創立直後から現在に至るまで、党のイスラーム思想と相容れない体制(=すべてのムスリム国家)と妥協することなく活動してきたため、非暴力運動であるにも関わらず、ほとんどのイスラーム圏の国々では禁止されている。またドイツでは反ユダヤ主義を禁止する法律によって、解放党は非合法化された[xxi]。イギリスでも、2005年のロンドンの爆弾テロ直後から、解放党禁止の声が急激に高まった(解放党がこのテロに関わった具体的な証拠は全く知られていない)。
解放党はインターネットを使ったイデオロギー宣伝が得意であり、そこで党の著作やリーフレットは様々な言語に翻訳され世界に発信されている。現代の通信技術のグローバル化は、解放党のさらなる国際化と組織化に与すると考えられる[xxii]。
解放党の公式ウェブサイト[xxiii]は、アラビア語、英語、ドイツ語、トルコ語、ロシア語、ウルドゥー語の六つの言語で作成されており、そのメディアオフィスはそれに加えてデンマーク語、フランス語、マレー(インドネシア)語で運営されており[xxiv]、また公式サイト以外に、英国解放党[xxv]、インドネシア解放党[xxvi]が独自のウェブサイトを有している。
③目標
解放党は、以下のように自己定義している。「解放党は、イスラームの原理に立脚した政党である。政治こそがその活動であり、イスラームが基盤である。解放党は、イスラームの問題をウンマが自身の問題として引き受けるように、人民の中で、人民とともに、自らの活動を営んでいる。その目標は、イスラームのウンマをカリフ制に導き、アッラーフより賜ったものによる統治に導くことである。解放党は政党であり、聖職者、教育、福祉などの結社ではない。イスラームのイデオロギーが、その精神であり、核であり、生である」[xxvii]。
ムスリム共同体(ウンマ)の置かれた現況に対する悲観的な認識のもとに、解放党は設立された。「党は、イスラームのウンマが陥った衰退の状態からウンマを目覚めさせ、不信仰の国家のもくろみ、法、システムの影響からウンマを解放する目的で創立された」[xxviii]。
次いで解放党は、自身の目標を掲げる。「解放党の目的は、イスラーム的生活様式の再興であり、全世界へのイスラームのメッセージの普及である」「その目標は、すべての事項がシャリーアの原理により決定されるイスラーム国家・社会における、イスラーム的生へのムスリムの回帰を内包する」「イスラーム国家とは、カリフの活動がアッラーフの書と彼の使徒のスンナに基礎を置く、という条件の下で、ムスリムがカリフを選び彼に忠誠を誓う、カリフ制国家である」[xxix]。
以上から、衰退したムスリム共同体を復活させ、カリフ制国家の樹立とシャリーアの施行を実現し、世界にイスラームを宣教することが、解放党の目的であることが明らかである。一つ注意しなければならないのは、「解放党は政党であり、聖職者、教育、福祉などの結社ではない」が意味することである。これは、解放党が教育や福祉などに従事しない、という意味ではなく、それらの問題は政治の枠組みで解決するべきである、との主張なのである。
④革命思想
解放党は、預言者ムハンマド召命後のイスラーム国家建設に向けての奮闘を見習い、以下の三段階の革命プロセスを提示した。
(1)修養の段階
党はその思想と手法によって、個人を徴募し、彼にイスラーム的思考を植え付け、組織の基盤を作り出す。この段階は、ムハンマドのメッカ布教の最初の三年間をまねているとされる。党の活動は、個人に対する精神的啓蒙に限定され、秘密裏に遂行される。
(2)ウンマとの交流の段階
党は、社会がイスラームを受け入れ、生・社会・国家の領域において、イスラームを打ち立てるようにウンマを促す。この段階で党の活動は公然のものとなる。活動内容は、①個人を対象にしたサークル活動、②集会や出版物を利用した大衆の啓蒙、③不信仰の思想・システムに対するイデオロギー闘争、④帝国主義・植民地主義に対する闘争と、不信仰の法を施行するムスリム国家の為政者への挑戦、⑤シャリーアに従った福祉活動。この段階において党は、いかなる弾圧を被ろうと、決して暴力を用いることはないとされる。ムハンマドがメッカ布教を公に開始してから、メディーナにヒジュラするまでの期間がモデルである。
(3)政権奪取の段階
党は、ダアワ(宣教)を安全に遂行するための庇護と、カリフ国家樹立のための助勢(nusrah)を求める。預言者がアラブ部族にダアワのための保護を要請したこと、第二次アカバの誓いによりメディーナの民がムハンマドに助力し、そこでイスラーム国家が生まれたことが、この段階のモデルとされる。権力奪取に際して、党自身が武力闘争に従事する代わりに、助力者によるクーデターが想定されている[xxx]。
⑤武力闘争についての解放党の立場
解放党は、カリフ制イスラーム国家樹立という政治目標において、武力闘争の可能性の放棄を宣言している。西側のメディアにおいては大抵の場合、解放党は「平和的運動」と報じられているように、このイデオロギーは、研究者や専門家のみならず広く知られている。事実、解放党は組織としては一度も武力闘争に関わったことはない[xxxi]。また、党イデオロギーの堅固さから考えて、このポリシーを近い将来改変するとも考えにくい。
一方で、ウズベキスタンのイスラーム運動の専門家であるバフティヤール・ババジャノフは、ウズベキスタン国内で発見された解放党のリーフレットの内容の分析を通じて、党が最近数年間で平和路線を変更し急進化したと結論付けている[xxxii]。ババジャノフが問題にしているリーフレットの一つは2003年に発行されたもので、イラク戦争のジハードに関する以下のようなものである。「イラクにおけるジハードへの参加を望むムスリムを妨害しないように勧告する。これを妨害する統治者は、カーフィル(不信者)であり、したがって、このような統治者の行うあらゆる妨害に対する戦いは、シャリーアの観点から宗教的な義務(fard)である。同じくアメリカとの外交関係の断絶ならびにアメリカ軍がムスリム諸国の空域と海域、領土を利用することをできなくさせるあらゆる措置もまた義務である」「これらの支配者は、ムスリムの病弊の源である。彼らを打倒せよ!ジハードの大義を忘れ、不信者のご機嫌をとるようになったこれらの汚らわしいハンたちを駆逐せよ!カリフの統治を復興し…(ママ)諸君とともにジハードを行うカリフを選出せよ」[xxxiii]。
イスラーム法学は伝統的に、ジハード(異教徒との戦い)を「攻撃型」と「防衛型」に類別してきた。「攻撃型」ジハードは、イスラームの宣教とダール・アル=イスラーム(イスラーム法が施行され、ムスリムによって治安が維持されている領域)を拡大するため、カリフの命令によって遂行されるものである。カリフ不在の現代においては、このタイプのジハードが起こりえないことは明らかである。一方の「防衛型」ジハードは、敵がダール・アル=イスラームに侵略したときに発動されるものであり、戦いへの参戦はムスリムの連帯義務(郷土の防衛は個人義務)である[xxxiv]。
防衛ジハードがイスラーム法上ムスリムの義務であることと、解放党の独自の思想・活動とは区別して認識せねばならない。そもそも上記のリーフレットは、法的な義務を妨害する為政者を断罪しているだけであり、彼らに対して武力蜂起を呼びかけていると解釈することには無理がある。
もう一つのリーフレットは、解放党機関紙al-Wa’y 170号(2001年6月)である[xxxv]。「アッラーフの名における自己破壊の一般原則」と題された記事は、イスラエル占領下のパレスチナで起こったいくつかの自爆闘争に関する、ウラマーたちのファトワー(法学裁定)への反論として書かれている。まず記事は、(1)自爆は敵の戦闘員に対してのみ許容され、一般市民の殺害は許されない、(2)自爆を容認する論拠はシャリーアに存在せず、自爆は自殺として考えられるため例外なく禁止、という二種類のファトワーを紹介した後、(3)カーフィルに対する闘争手段に制限はなく、自爆作戦もシャリーアの上で認められる、との自説を展開する。この著者によれば、今日のパレスチナのように、敵が「大量破壊兵器」を使用してくるのであれば、それに対抗する手段を用いることは不可避であり、その結果敵の戦闘員のみならず市民を巻き添えにして死亡させることも許される、とされる。
その主張は過激であるものの、これはパレスチナにおける自爆闘争を、防衛ジハードの観点から議論したにすぎず、解放党自身の政治活動とはやはり無関係である。「党が、党自身を守るため、または、支配者たちに対する武器として、物理的な力を使わないという事実は、ジハードの議論とは関連がない。なぜなら、ジハードは、審判の日まで続けなければならないからである。それゆえ、イスラームの国を不信者が攻撃したときに敵を追い出すことは、ムスリム市民にとって義務となる。その国における党のメンバーは、ムスリムたちの一部であり、敵と戦い、彼らを追い出すことは、他のムスリムたち同様義務となる」[xxxvi]と、解放党が宣言しているように、解放党の政治闘争とジハードは厳密に区別して理解する必要があるのである[xxxvii]。
ところで、カリフ国家の建国を目指す政治闘争において解放党は武力闘争の放棄を宣言しているが、これは革命における武力の行使を徹頭徹尾禁止していることを意味するわけではない。現代世界でカリフ国家を樹立するためには、最低でも現行のムスリム諸国の政権のいずれかを打倒し、その領内のガバナンスの確立が必要となる。解放党の革命理論には三つの段階が設けられているが、最終の「政権奪取」段階において解放党は、政権奪取のため実力者に革命の助勢を要請すると宣言している[xxxviii]。このプロセスが武力によるクーデターを排除するものではないことに注目する必要がある。
解放党によると、為政者を武力で打倒することがムスリムの義務となるのは、ダール・アル=イスラームにおいて支配者が明白な不信仰(クフル)を現した場合である[xxxix]。解放党は、現代のムスリム居住圏には、ダール・アル=イスラームは存在しないと考えているので[xl]、為政者を武力で打倒する義務はムスリムにはないことになる。この文脈で中田考は、解放党は不信仰の為政者の放伐の義務を否定しているのであって、党がそれにたいして「禁止」を唱えているわけではないことを指摘する。そして解放党は、第三者への助勢要請によって軍事クーデターを引き起こし、カリフ国家樹立の最終段階の完成を目標にしている、と結論付ける[xli]。
これまでの議論を整理すると次のようになる。解放党は、カリフ国家樹立にむけた政治活動において、党自身が軍事作戦を遂行する可能性を否定している。ただし、革命の最終段階においては、軍事力を行使できる実力者に、党への助勢を要請するとしている。これらの議論はあくまで、イスラーム国家建国のための闘争であって、ムスリムの地に侵略してきた敵に対抗するための防衛ジハードは、別の次元で論じなければならない。防衛ジハードは、イスラーム法上ムスリムの義務であり、解放党も無条件にこれに従う。以上の一般原則は、解放党の政治活動の成否がどうであれ、容易に変容することはないと思われる。
2.解放党の組織形態
①基本構造
本節では、解放党の組織構造について叙述する。
タジ・ファロウキの研究は、筆者が入手した資料の中では唯一、解放党の組織構造について詳細に言及したものである[xlii]。それゆえ本節では、彼女の議論に依拠しながら解放党の組織構造を明らかにする。しかしながらここで注意しておくべきことは、この研究は現実に存在する組織の形態を観察し記述したものではなく、解放党自身が「あるべき組織形態」として定めた規範を、われわれに紹介しているに過ぎないという点である[xliii]。秘密組織たる解放党が正常な組織運営を行っている限り、外部の者がその実態を実証することは原理的に不可能である。ここに、解放党の組織を論ずる困難さが横たわっているが、本稿において、安全性と安定性を考慮して採用したと考えられる解放党の組織論を明らかにすることは、無駄な試みではないと思われる。以上の原則を確認したうえで、解放党の組織論について叙述する。
ナブハーニーは、解放党の基礎的なシステム(組織構造、メンバーシップ、党員のリクルートなど)を創設するに当たって、1930年代にアラブで現れた、厳格なイデオロギー統制と高度な中央集権制を基調とするナショナリストの政治組織をモデルにした[xliv]。
ピラミッド型の組織は、以下のように、三階層の監督組織と末端の勉強会によって構成される。
(1)amirを長とする中央指導委員会
(2)mu`tamadを長とする地域(wilaya)委員会(5人から10人)
(3)naqibを長とする地区委員会(5人)
(4)mushrifを長とする勉強会(5人の初学者)
組織の活動の単位は、少人数から成る細胞であり、それぞれの細胞長のみが、上部組織にアクセスすることができる。命令系統は垂直に繋がっているが、横向きの関係が禁止されているわけではない[xlv]。
中央指導委員会(lajnat al-qiyada)は、解放党の最高意志決定機関であり、党結成時点で成立した最初の細胞組織を原型とするイスラーム学者の集団である。委員会は数名の委員から構成され、常に一定の人数を維持している。ナブハーニー生存中は、中央指導委員会は彼の亡命先(エルサレム、ダマスカス、ベイルート等)に置かれたが、現在の所在地は秘密にされている。中央指導委員会は、党内の諸規則や憲法草案などの作成・修正の一切の権限を独占する[xlvi]。中央指導委員は、最高指導者amirによって任命される[xlvii]。
地域委員会は、現行の国民国家の一国から数カ国に相当する領域を管理する組織であり、中央指導委員会の命令を受け地方でそれを実行する役割を持つ。地域委員会は、党の実質的な活動を担う中核とされるため、その意義は強調される。地域委員会は、少なくとも一月に一回は会議を開催しなければならない。勉強サークルの管理など、比較的小規模な事柄に関しては、下位の地区委員会が担当する[xlviii]。
地域委員会のリーダーmu`tamadと地域委員は、その地域の党員によって二年に一度の選挙で選ばれる[xlix]。すべての党員は被選挙権を持つ。投票方法や、候補者の告示などに関して、細かい内部規定が存在する。また、選挙のプロセスや結果に疑問を持った党員は、地域委員会にクレームすることができる。地域委員ポストが空けば、月例会の際に選出される。地域委員会を組織するには、その地方に15人以上の党員が住んでいることが条件となる[l]。
Mu`tamadは、中央指導委員会から当該地域の監督の全権を委任される。中央指導委員会がmu`tamadに下す指令は、彼が無条件に履行しなければならないものと、彼の裁量に委ねられたものがある。前者の場合、mu`tamadは地域委員と協議せずに実行できるが、後者の場合、地方委員会での議論が必要となる。地域委員会は、その地方の状況を反映した内容のリーフレットを独自に考案し、配布することができる。ただしそれは、特定の文章形式に従って書かれ、中央指導委員会の検閲を受けなければ、解放党の名を使うことは許されない[li]。
地域委員会は、それぞれの都市部にnaqibをリーダーとする地区委員を任命する。地区委員は年次更新される。naqibは、彼の地区の活動報告、党員の意見・質問などをmu’tamadに伝えなければならない。地区委員会は、それぞれの都市や農村の地区における党のルーティーンワークに責任を負っている。その最も重要な任務は、勉強サークルの組織と監督である。毎週開かれる集会では、それぞれのmushrifが監督している勉強サークルの進展具合、メンバーの入会・脱退などの具体的状況がnaqibに報告される。地区委員会は、勉強サークルで所定の学習を終えた新人を、正式党員として認めるかどうかの判断を下す権限を持っている[lii]。
解放党の勉強サークル(halqa)は、党員の教育とリクルートを目的とした、党の末端組織である。その細胞組織の運営規則は、バアス党との共通性が認められる[liii]。勉強会のメンバー(daris)は、指導者を除き、正式な党員ではない。勉強サークルでは、ナブハーニーのNizam al-Islam(イスラームのシステム)を約一年間かけて読解し、これが終わると、Mafahim Hizb al-Tahrir(解放党の諸概念)、ついでal-Takattul al-Hizbi(政党構成)へと読み進まれる。これらのテキストは、個人で読むために書かれたものではなく、勉強会の中で、指導者の解説を交えながら読まれるようにデザインされている[liv]。
勉強サークルには、厳格な運営規律が存在する。読書会は厳粛な雰囲気で行われ、それが終わるとグループは即時に解散する。サークルは週一回の割合で開催される。新人が、熱意、党への関心度、治安機関による危険性がないこと、など一定の基準を満たせば、監督者はその者に勉強会の参加を認める。勉強サークルの定員は、指導者を除き、5人が理想とされるが、政府の役人や軍人など、社会的に重要な職に就いているものに対しては、マンツーマンの指導がなされることもある。参加者は、遅刻や欠席が一定の回数を超えると、勉強会への参加を断られる。15分以上遅れると、参加不可能である。監督者は、サークルのメンバーから寄付を集める責任を負う[lv]。
世界中に散らばる解放党のすべての地域支部が、上記のような規則に厳密に従って活動しているかを検証することは不可能である。そもそも、例えば、マスコミに頻繁に登場し党の意見を公然と言い放つ英国解放党と、メンバーシップが当局に知られただけで誘拐や拷問の恐れのあるウズベキスタン解放党の組織形態・活動は、必然的に異なってくる。しかしながら、解放党の全体主義的傾向から考えて、こうしたモデルを一つの理念型として捉えることは、党を理解する上での一つの有効なアプローチだと考えられる。解放党の組織運営上の内部規則は、一朝一夕で完成したものではなく、様々な困難を解決するための試行錯誤を経て、洗練されていったものと捉えるべきだろう。
②メンバーシップ
解放党はメンバーシップを厳格に定めており、党員になるには、いくつかの基準を満たし所定の訓練を修了しなければならない。
党員になるための客観的な資格は、(1)ムスリムであり、(2)15歳以上で、(3)他の政治組織やイスラームに相容れない団体に加入していないこと、である[lvi]。以上の条件を満たしていれば、性別・国籍・マズハブ(法学派)などの相違は問われない。女性の党員は、女性だけから成るサークルに属さなければならない。女性のサークルを監督するのは、彼女たちの夫、彼女たちと結婚することができない近親者の男性、または他の女性のリーダーである[lvii]。
党の基礎的な学習を終えた党員候補は、イスラームのアキーダ(信仰箇条)を奉じ、シャリーアの義務を履行し、党の訓練において成熟し、党の思想・理念を受け入れたと判断されれば、正式な党員となる[lviii]。正式な党員になるには通常、勉強サークルで1年から2年ほど学習しなければならない。党員の資格ありと判断されたものは、naqibの前で以下のような宣誓を行い、正式な党員として認められる。
「アッラーの名において、私は、イスラームを守り、その信仰を守ることを誓います。私は、言葉と行為において、解放党の目標・思想・原理を受け入れ、それに従うことを誓います。私は、党が指導した行為の正しさを認めることを誓います。私は、私が納得できない、党の指導者たちの決定さえも、実行することを誓います。私は、党の計画の実現に向け、私の全てを注ぐことを誓います。アッラーは私の言葉の証人です」[lix]。
上の宣誓から明らかなように、解放党は、党内の意見の統一を極めて重視する。党員は、党の思想や出版物における見解を、自分自身の意見として受け入れねばならず、それに個人的な解釈や新しいものを付け加えることは禁じられている。ナブハーニーは、その理由を以下のように説明する。第一に、すべての政党は、ある思想を土台に形成された個々人の集まりである。したがって、党が出した見解のすべては、それぞれの党員の見解になる。党員が、党の採った考え以外を支持するのは不可能である。党の思想に対する異存を一つでも持ったものは、党を構成する一部ではなくなる。第二に、解放党の目的は、すべてのムスリムの究極の福利の実現であり、これを達成するには、すべての党員の政治思想を統一しなければならない[lx]。このように、ナブハーニーは、党内における異論を排除することで党の分裂を予防し、組織をより堅固にしようと考えていた。党の規律を破ったものに対しては罰則が規定されており、その違背の程度よって、追放・活動停止・一時的な活動停止、の三種類の制裁[lxi]が課される。
しかしこうした党の全体主義的傾向は、党員が党の思想・判断に疑問を持つことを一切許さない、ということを必ずしも意味するものではない。解放党の指導部は、すべての党員に、疑問に思った党の思想・判断などを議論する権利を与える。こうした場合、党員が納得するよう、党員たちの間で討議することを勧められる。それでも党員が納得しない場合、彼は自分の意に反してでも、党の意見に従わなければならない。党の見解に対して明確な拒否が認められた場合、しかるべき手段がとられる[lxii]。一方で、解放党の指導部も、党の採用しているテキストや見解に拘束される。もしも、この規律が破られたと認められた場合、党員は指導部の意見に従う義務はなく、彼らにそれらの撤回を迫ることができる[lxiii]。
以上の考察から、解放党は党内の思想の統制を図るため、党員に対して高度な規律を要求していることが明らかになった。メンバーの絶対数より、その質を重視して党員を徴募・訓練するのが、解放党の手法と言えるだろう。
③資金について
党の内部規則によると、解放党の活動資金は、党員と勉強サークルでの学習者の自発的な寄付と、ナブハーニーの著作の売り上げによって成立している。また、シャリーアで合法と見なされる範囲においてのみ、非党員からの寄付も認められている。書籍の販売による利益は限られていると考えられるので、事実上安定した資金源は、党員と党員候補からの寄付ということになる。党は、寄付を「自発的」なものと規定するが、現実的には所得に応じた一定の割合の「賦課金」が、各人に課せられていると考えられる[lxiv]。党員・党員候補から集められた寄付金は、党指導部が任命した代理人によって地域委員会の下に集められ、適所に再分配される。解放党内の資金の流れが、国際的に環流しているのか、それぞれの地方で完結しているのか、といった問題を解く手掛かりはない。
解放党は、ザカートやサダカ[lxv]などの喜捨を、党の活動やそれによって受難した党員の家族の支援のために用いるのを禁じている。このことは、イスラーム法ではザカートやサダカの受給者が明確に定められているため、たとえ解放党員による喜捨であっても、解放党という特定の組織のために使われてはならない、ということを意識的に主張したものと考えられる。また、解放党の財源は、党の活動の結果迫害をうけた党員の家族を助けるためには使われないという。タジ・ファロウキはこれを、預言者のスンナに由来するものだと解釈している。預言者はメッカ宣教時代に、多神教徒から迫害を受けた教友の家族にたいして、「ヤースィル家の人々よ、耐え忍べ。お前たちが出会う場所は天国である」と言い、自分が物質的に彼らを助ける力がないことを認めた[lxvi]。これは、メッカ期における預言者の行動の追随という解放党の自己規定との整合性を図ったものと考えられる。
解放党の活動が活発な地域では、資金源やその規模に関して様々な憶測がなされている。その一方で解放党は、武力闘争を展開している組織などと比べると、格段に低い資金で組織を運営することができる。というのも、党員はそれぞれの居住地において、自分の職から収入を得ているため、党のイデオロギーさえ信じることができれば、その活動に無報酬で従事できるからである。解放党の活動で必要な資金は主に、党の啓蒙書、定期刊行物、リーフレットなどの印刷・配布などであるが、これらは例えば、武器や弾薬の購入費・メンバーの軍事訓練・彼らの生活費用などを必要とする武装闘争組織が準備しなければならない資金より、明らかに小規模で済むに違いない。
3.『イスラームの制度』に見る解放党の基本思想
①一般的特徴
解放党の勉強サークルで、初学者が最初に読むテキストは、ナブハーニー著『イスラームの制度』(Nidham ul Islam)であり、標準的な修了期間は一年間である[lxvii]。本書におけるナブハーニーの主張の大筋は、ウンマよる、イスラームのアキーダ(教義)とそこから生じるシステムの受容、そして、このシステムの運用のための、イスラーム国家の樹立の必要性である。この著作は、解放党の入門教科書にもかかわらず、解放党に関する記述は一切存在しない。とはいえ、同書のなかでもとりわけ解放党色が強くユニークと思われる箇所は、イスラーム国家の骨格を規定した「憲法草案」[lxviii]である。本書はすなわち、(1)なぜ今カリフ制国家樹立が必要なのか、(2)その国家における具体的な政治機構とはいかなるものか、を議論したテキストである。以下では、同書の英語版[lxix]に基づき、とりわけ重要と思われる章をいくつか絞って、解放党の基礎的なイスラーム思想を示したい。
②信仰の道
ナブハーニーは、イスラーム的思考の最初の一歩であり基礎となるのは、アキーダの受容であると主張する。アキーダは、人間・生・宇宙の有限性と、これらの作り手の必然性と完全性を明らかにするものである。その一方で、森羅万象すべては、創造者の直接的な存在証明とされる[lxx]。
次いでムスリムの義務は、知性を十全に用いたイマーン(信仰)の強化であることが明らかにされる。ただし、人間の知性には限界があるため、人間は、創造者との間に正しい関係を獲得するために創造者に由来する正しいシステムを必要とする。これが、人民に預言者が使わされた理由である[lxxi]。
ナブハーニーは次いで、クルアーンはアッラーフ自身の言葉であり、ムハンマドやアラブ人の創作ではないことを指摘する[lxxii]。
アッラーフへのイマーンは、理性的な方法と、クルアーンとハディース・ムタワーティル(信憑性に疑問の余地のないだけの多数の伝承者によって伝えられたハディース)の文言から明らかに証明されたものを通してのみ、確立されなければならず、これ以外のものを信仰の源泉にすることは許されないとされる[lxxiii]。
イスラームのアキーダが、アッラーフ・人間・世界の関係を明らかにすると、アッラーフのシャリーアへの服従の義務は必然となる[lxxiv]。
③イスラームの知的統率 (al-Qiyadatul Fikriyyatu
fil Ismam)
この章の前半でナブハーニーは、イスラームを資本主義、共産主義に次ぐ、第三のイデオロギー(mabda’a)として位置づけ、資本主義と共産主義との比較を通して、これらに対するイスラームの優位性を説く。以下がその要点である。
世界には、資本主義・共産主義・イスラームの三つのイデオロギーのみが存在する[lxxv]。西洋に起源を持つ資本主義(自由主義・民主主義は、資本主義の一部と見なされる)は、宗教の生の領域からの分離がアキーダである。ここで、宗教は個人と創造者の関係の間にのみ働き、宗教は国家の領域から排除される[lxxvi]。共産主義のアキーダは、創造者の否定、すなわち唯物論であり、この哲学がすべてのシステムの土台となる。共産主義は個人を社会の不可分な構成分子として見なし、信仰や所有の自由を否定する。ここで国家は聖化される[lxxvii]。イスラームのアキーダは、宇宙・人間・生は創造者によって創造されたという事実であり[lxxviii]、また、アッラーフ・諸天使・諸啓典・預言者たち・来世・カダル(神の予定)を信じることである[lxxix]。
資本主義と共産主義は、人間の生み出した思想に自らを捧げることが最高の価値である、という点で一致しているが[lxxx]、イスラームは、アッラーフの満悦を得ることが至高の善であると考える。資本主義・共産主義は、すべての人間の宗教的な本性(fitrah)に逆らっている。イスラームのみが、人間の本性と一致する、正しい知的統率である[lxxxi]。
次いでナブハーニーは、ムスリムが、預言者のヒジュラから1918年のオスマン朝解体まで、イスラームの実践、すなわちシャリーアの履行が一貫して可能だったことを強調する。歴史を振り返れば、イスラームのシステムの運用が不適切に行われたケースがあるとはいえ、イスラームの国々でシャリーア以外の法が施行されたことはないとされる[lxxxii]。
シャリーアの諸規則には、社会・経済・教育・外交・統治の五つの領域が存在するが、ナブハーニーがここでとりわけ力説するのは、統治に関する領域、つまりカリフ制国家の骨子である。彼は、イスラーム統治の八つの柱として、(1)カリフ、(2)カリフ代理補佐官、(3)カリフ執行補佐官、(4)ジハード司令官、(5)知事、(6)判事、(7)国家の諸部局、(8)ウンマ評議会、を挙げる[lxxxiii]。ついで、バイア(契約)によるカリフ職の締結の必要性について言及される。イスラーム史を通じてカリフの世襲は一切存在せず、すべてのカリフはバイアを通じて任命されたとされる[lxxxiv]。
この章におけるナブハーニーのもう一つの主張は、イスラームのシステムを理解するために必要なのは、歴史資料ではなくフィクフ(イスラーム法学)研究である、という点である。そもそも歴史書には当時の政治状況が反映されており、信頼できるものではない[lxxxv]。過去の高い名声を誇るカリフに関する歴史研究もその例外ではない[lxxxvi]。シャリーア施行に必要なテキストは、イスラーム世界で蓄積されたフィクフ研究以外にありえない[lxxxvii]。法学者ナブハーニーは、イスラーム世界内外における、歴史とシャリーアの混同を厳に戒めるのである。
④ダアワの伝道手段
ダアワ[lxxxviii]の基本は「預言者の模範の追従」である。ダアワの伝道者は、権力・習慣・伝統・人々の反応などに影響されることなく、イデオロギーを掲げて戦わなければならない[lxxxix]。なぜなら預言者は、アラブの習慣・伝統・宗教・教理に左右されることなく、多神教徒のクライシュ族に挑んだからである[xc]。
ここで重要なのはカリフ制とダアワの関係である。預言者はメディーナで国家を創立し、そこでイスラームを実践した。それゆえ、カリフ制国家不在の今、イスラーム的な生き方の再開のためには、イスラームの実践と世界にそのメッセージを伝えるためのイスラーム国家の樹立が不可避となる[xci]。ナブハーニーにとっては、ダアワとカリフ制国家の樹立は、不可分の関係にあるのである。
⑤イスラーム文明(al-haDarah al-Islamiyyah)
はじめに、文明を意味する二つの言葉hadarahとmadaniyyahの区別がなされる。前者は、生に関する全体的な観念であり、後者は、物質的・技術的な側面を意味するとされる。ナブハーニーはここで、西洋のmadaniyyahを利用することは何も問題ないが、西洋のhadarahに関してはイスラームと根本的に対立しているので、いかなる場合においても禁じられる、と訴える[xcii]。
この区別を説明するために、彼は次のような例を持ち出す。写真自体は、西洋のmadaniyyaであり合法であるが、裸の女性の写真は、それを芸術と考える西洋のhadarahが生み出したものであり、女性の名誉の保護と社会への有害な性衝動の防止を命ずる、イスラームのhadarahと対立するため、禁じられなければならない[xciii]。つまり、西洋のmadaniyyaは、イスラームのhadarahに抵触しない範囲で利用されなければならないのである。
⑥イスラームの制度
この章の議論は、聖と俗、魂と肉体、宗教と政治といった二元論は、神と人間の正しい関係を生の全域において打ち立て、人間に対して常に神への服従の意志を要求するイスラームの原則に反するゆえ、拒絶されなければならない、ということである。ここで生と宗教の分離を主張する者は、すべて西洋の手先であると見なされる[xciv]。聖職者や精神的権威はイスラームに存在する余地がないので、こうした組織があれば排除しなければならない。その一例として、「モスク省」の廃止や、「シャリーア法廷」と「市民法廷」の分離の解消などを訴えている[xcv]。
⑦憲法と法規
ナブハーニーは、イスラーム国家の原理を、本来イスラームに存在しない憲法という形で制定することの根拠を示す。その理由は、共通の具体的な規範を定めることが、国家の統合に必要だからである。イスラーム憲法の源泉は、言うまでもなく、クルアーンとハディースであるが[xcvi]、ここで問題となるのは、包括的なイスラーム憲法の導入が、ムスリムの利益になるか、という点である。
皆がムジュタヒドであったサハーバ(預言者の教友)世代においては、すべての領域の規範を細目にわたって定めることは、イジュティハードの可能性を妨げるため行われなかった。しかし、信徒のほとんどがムカッリドである場合、特定の諸規則を定めることは国家の義務となる[xcvii]。なぜなら、様々な問題に対して、それぞれの裁判官が異なる見解を出していては、国内の混乱は必至だからである。イスラームの無知が蔓延した今日においては、取引や刑罰に関する各種の法規を統一することは、国家の義務である。ただし、アキーダとイバーダート(神に対しての人間の行為を定めた規範であり、人間同士の関係を規定する「ムアーマラート」の対概念)に関してはその例外である[xcviii]。
⑧憲法草案
ここには、ナブハーニーの理想とするイスラーム国家の概要が示されている。憲法草案は186条で構成され、内訳は、一般原則(15条)、統治システム(8条)、カリフ(17条)、代理補佐(7条)、執行補佐(3条)、ジハード司令官(5条)、軍隊(10条)、司法制度(20条)、州知事(9条)、国家の省庁(6条)、ウンマ評議会(7条)、社会制度(11条)、経済制度(46条)、教育政策(11条)、外交(11条)である。
憲法草案を通読すれば、解放党が理想とするイスラーム国家の大枠を理解することができる。しかしながら、憲法草案の全域を詳細に分析することは、本論文の主たる目的から考えて不必要なので、ここではとりわけ重要と考えられる、「一般原則」「統治システム」「カリフ」を扱い、これらから憲法草案の傾向の一側面を示したい。
(1)一般原則
まずこれまで強調されてきたように、イスラームのアキーダが、国家の礎であることが宣言され(第1条)、イスラーム統治論の基礎概念である、ダール・アル=イスラームとダール・アル=クフル[xcix]の区分の導入(第2条)、カリフのシャリーア執行権(第3条)、カリフがイバーダート(ザカートとジハードを除く)とアキーダに干渉することの禁止(第4条)、が明記される。次いで、イスラーム国家のすべての市民の平等(第5、6条)、非ムスリムの信教の自由および、彼らに適用される法とその範囲(第7条)が述べられる。アラビア語の公用語化(第8条)、イジュティハード(クルアーン、スンナに規定のない事項における裁量)の集団義務(第9条)、聖職者階級の禁止(第10条)、国家のダアワ機能(第11条)、そして、シャリーアの法源(第12条)、罪が裁判で立証されない限り全ての市民は無罪である原則と、拷問の厳禁(第13条)、禁止の根拠が明確でない限りすべての行為は自由であること(第14条)、それ自体ハラーム(禁止行為)を導くものの禁止(第15条)が明記される。以上が一般原則である[c]。
(2)統治システム
前の一般原則に続き、国家の統治の基本的な枠組みが示されている。
イスラーム国家の統治システムは中央集権制であり連邦制ではない(第16条)。統治職[ci](カリフ、カリフ補佐官、知事、市長)の資格は、ムスリム・男性・自由人(非奴隷)・正気・信頼・能力である(第19条)。統治システムの四大原理は、(1)主権は人民にではなく、シャリーアに属す、(2)権力はウンマに属す、(3)一人のカリフを任命することはすべてのムスリムの義務である、(4)カリフのみがシャリーアの諸原則を採用する権利を持ち、彼が憲法・各種の法規を制定する(第22条)。ムスリムはイスラームの教義に基づき政党を結成する権利を持つ。政党結成は国家の許可を必要としない(第21条)。
第22条の四つの統治原理はイスラーム国家の構成に必要不可欠とされ、これが一つでも欠けると、その国家はもはやイスラーム国家ではなくなる[cii]。第21条の政党結成の権利に関する条項は、明らかに解放党を意識したものであると考えられる。
(3)カリフ
カリフに関する諸規定は、比較的具体的なものが多く、ナブハーニーがカリフ制を最重要視していることが看取される。
すべての正気な成人ムスリムは、カリフ選挙とバイアへの参加の権利を有する(第26条)。バイア契約がある人間によって合法的に締結されれば、他の人民のバイアは、契約のバイアではなく、服従のバイアとなる。それゆえ、服従せず反抗しうるものはバイアが義務となる(第27条)。カリフ職が空けば、3日以内に新しいカリフを任命しなければならない(第32条)。カリフは、(1)候補者の公告、(2)選挙人の投票、(3)至急のバイア契約、(4)ウンマへの告知のプロセス、を経て任命されなければならない(第33条)。カリフの権力は、シャリーアの諸規定の制定、内政・外交・戦争、人事の統括、国家予算の配分など、国家のすべての機能に及ぶ(第35条)。カリフに特定の任期はない(第38条)。カリフの廃位が必須となる条件は、(1)カリフの背教・精神異常・大罪(fisq)などによってカリフ契約が無効となった場合、(2)何らかの理由によりカリフ職遂行の能力が欠如した場合、(3)カリフの側近による実権掌握、もしくは敵の征服によりカリフのシャリーア執行能力が消滅し、かつその回復の可能性がない場合、である(第39条)。
カリフ制度の定式化自体はもちろんナブハーニーの業績ではなく、これらの草案に見られる規則の多くは、アル=マーワルディー(974-1058)『統治の諸規則』によって詳しく論じられている[ciii]。ナブハーニー独自の試みというのは、中世より連綿と続くカリフ統治論を憲法という近代的な概念に翻訳することで、明瞭で高度に統一された法規を示すことであった。
ここまで見てきたように、『イスラームの制度』の主張はカリフ制イスラーム国家樹立の必要性である。そこで全てのシステムの根拠となるのはイスラームのアキーダであり、西洋起源の思想は徹底的に排除されなければならないとされる。国法は無論シャリーアだが、実際に国家を正常に機能させるためには具体的な法規を定める必要があり、その典拠となるのは古くから蓄積されてきたフィクフ研究である。
すべての解放党員は、同書の思想をよく理解し自分のものとして受け入れることが要求される。それゆえ本書は、解放党の基本思想を知るための極めて重要な資料なのである。
4.中央アジアにおけるイスラーム解放党
①中央アジアのイスラーム復興
解放党が中央アジアに浸透した背景には、イスラームを取り巻くこの地域独特の社会・政治的な文脈が存在する。本章ではまず、ソ連解体期のイスラーム復興について概観しておこう。
イスラームはソ連時代を通じて、共産主義の無神論イデオロギーの敵として徹底的に抑圧された[civ]。ソ連政府はイスラーム法を社会のあらゆる面から取り除き、モスクやマドラサ(宗教学校)を破壊し、イスラームの学問を伝える知識人を殺害し、女性からイスラーム服を剥ぎ取り、すべての宗教儀礼を禁止した。中央アジアのムスリムはソ連内部に隔離され、その外部に広がるイスラーム世界との交流を失った。
しかしながら、ペレストロイカ末期からソ連崩壊期にかけての中央アジアでは、社会の様々な側面でイスラーム復興と呼べる現象を観察することができた。70年以上にわたる執拗な反宗教政策にも関わらず、ソ連は人々からイスラームを消し去ることができなかったのである。多くのモスクが再建され[cv]、クルアーンやイスラーム関連冊子は街にあふれ、イスラーム的な宗教儀礼も公然と行われるようになった。この地で豊かな伝統をほこるスーフィー文学やタリーカ(スーフィー教団)の再興もイスラーム復興の象徴のひとつと言えよう[cvi]。
こうしたなか、イスラーム法を復活させ、社会や政治にイスラームの規範を打ち立てようと試みるグループ(「ワッハービー」[cvii])の活動が活発になってきた。たとえば、90年代初頭にナマンガンで生まれたムスリム青年組織アドーラット(正義)は、シャリーアを人々に守らせることを主な活動としていた。彼らは街に出て、酒を飲んでいるものや取引の秤をごまかしているものなどを捕らえ私的に罰したり、麻薬売買や警官の収賄の摘発をおこなったりした[cviii]。こうしたグループの活動は、社会の犯罪や不正を激減させることに成功したが、当局はグループの影響力を危険視し、「ワッハービー」らを大量に逮捕し非登録のモスクを閉鎖するなどの弾圧を始めた。彼らの一部は地下に潜行したり国外に脱出したりして、後のウズベキスタン・イスラーム運動(IMU)[cix]などの反体制武力闘争組織を形成することになる。
ソ連解体直後のタジキスタンでは、イスラーム的倫理の回復を掲げた政党、イスラーム復興党が、中央アジアの中では唯一結成に成功した。結成後短期間で多くの支持者を得たイスラーム復興党は、議会政治の枠内で政治活動することを宣言した。しかし旧体制派の硬直した態度により、他の世俗主義の反体制派とともに、タジキスタン内戦[cx]を戦うことになる。この内戦でイスラーム復興党は、反体制諸派の中心的な役割を果たした。内戦ではタジキスタン内の勢力だけでなく、ウズベキスタンから逃れてきたワッハービーらの一部も参戦した。彼らの活動は中央アジアの各政権に極度の警戒を与え、国内のイスラーム主義者への弾圧を強化させる要因の一つとなった。
こうしたイスラーム復興の政治的な側面が顕著に見られた90年代前半においても、解放党は中央アジア政府関係者の間でもほとんど認知されていなかった。それには次の二つの可能性があると筆者は考えている。一つは、タジキスタン内戦下のイスラーム勢力や、フェルガナ地方のワッハービーたちにのみ注意が払われていた、ということである。当局の仕事は治安対策と反体制思想の取締りであり、イスラーム運動の類型にはそもそも関心がなかったと思われる。もう一つの可能性は、中央アジアの解放党の活動が、対社会宣教を伴わない秘密裏の第一段階であったことが挙げられる。いずれにしろ、解放党の草創期における中央アジアが、イスラーム主義の空白地帯でなかったことだけは間違いない。社会のイスラーム化には関心があるが、暴力的なイスラーム運動を嫌ったムスリムが、解放党の明晰なイデオロギーと平和的な手法に惹きつけられた、と考えることは難しくない。
②中央アジアへの進出
中央アジアに解放党が移入された時期を正確に知るのは、組織の性質上、非常に困難であるが、全く手掛かりがないわけではない。ラシッドは、1995年に、ヨルダン人サラフディンが、二人のウズベク人と共に、解放党の細胞第一号を作ったと述べている[cxi]。ヴィターリー・V・ナウームキンは、ヨルダン人イーサム・アブー・マフムードとアブドゥル・カーディム・ザッルーム(当時の解放党最高指導者)が1991年に、党の最初の細胞組織をナマンガンやアンディジャンに創立したという、ある裁判記録を紹介している[cxii]。さらには、ソ連解体からさかのぼること数年前の1986年の時点で、解放党の組織が現地で既に活動していたことを示唆する情報も存在する[cxiii]。
このように、解放党が中央アジアで活動を始めた時期については、専門家の中でも様々な意見が存在する。しかしながら、解放党が現地社会に存在感を示すようになったのは、90年代後半以降である。1999年の2月に、タシケントで政府機関を狙った爆弾テロ事件が起こり、100人以上の死傷者を出した。この事件の直後から、当局は大規模な取り締まりを開始し、多数の解放党員を逮捕・起訴し死刑を含む有罪判決を下した。カリモフ大統領は、解放党が、IMUやエルク党(ウズベキスタンの世俗主義政党)の指導者と共に、事件の立案・実行に関わったとして非難した。これ以後、解放党のメンバー(と見なされたもの)は、ウズベキスタンにおける政治弾圧の最大のターゲットとなった[cxiv]。ウズベキスタンでの活動が大きく制限された一方、クルグズスタン南部で解放党は、最近数年間で勢力を大幅に拡大することに成功した。
③活動・主張
解放党員の任務は、党のイデオロギー宣伝、新しいメンバーの徴募・教育、イスラームおよび党の思想の学習である。彼らは、党の規律に従い、5人から7人の小規模な細胞単位で活動している。このサークルはハルカもしくはドイラ(共に「円・サークル」を意味する)と呼ばれており、サークルのリーダーのみが上級サークルを知っていると言われる。こうした特殊な組織構造のおかげで、あらゆる反体制運動に対し厳しい取締りをしている中央アジア国家において、解放党は地下活動を維持することに成功している。
中央アジアの解放党の主要な活動の一つは、党の主張を盛り込んだリーフレットなどを住民に配布し、その思想を彼らにアピールすることである。リーフレットは、警察や治安機関の目から逃れるため、夜間に秘密裏に配布される。それらは、戸別の郵便受けに入れられたり、民家の壁や警察署の壁に貼られたりする[cxv]。
リーフレットの議論は、イスラームの基本教義の遵守を訴えるもの、ムスリム世界で起こっている事件・出来事などの分析(パレスチナ問題やイラク戦争から、オペックへの原油輸出価格の引き上げ要求など)、中央アジア政権(主にウズベキスタン政権)のムスリムに対する抑圧など多岐にわたり、クルアーンやハディースがしばしば引用される[cxvi]。内容の性質から考えて、外国の上級組織の指導者が執筆している場合もあれば、現地支部の党員によって書かれたものもあると考えられる。こうした出版物の結論には次の句が共通して見られる。「ウンマは、シャリーアに従って統一されたカリフ制の下で生きるべきだ」[cxvii]。
また、中央アジアにおいて解放党は、反ユダヤ主義的な態度で知られる[cxviii]。例えば、ウズベキスタン・カリモフ大統領は、「全身全霊でイスラームを憎み、クルアーンとムハンマドに憎悪を抱く、シャイターン・ユダヤ人である」として表現される[cxix]。
ある中央アジアの解放党メンバーは言う。「我々は、アフガニスタンとイラクで侵略者アメリカに向かって銃を手にとり戦っているムスリムたちを支持する。しかし、我々の綱領によれば、我々は教育的な活動にのみ従事しなければならない。これが、我々の組織のメンバーが軍事作戦に参加できない理由である。我々と、アフガニスタン・イラクで戦っているムジャーヒディーン(ジハード戦士)は、異なる任務を負っているが、同じ目標に向かって奮闘しているのである」。その一方で解放党員は、国家への暴力は明白に非難する。それゆえ彼らは、ウズベキスタン政府に対して武力闘争をしているIMUの活動を非難する。IMUメンバーは、ウズベク人ムスリムの兵士の殺害により罪に陥っている、と解放党は考えるのである[cxx]。
中央アジアの解放党員は、その活動地を越え密接に連携して行動することがある。2003年9月に解放党は、ウズベキスタンの刑務所におけるムスリムへの拷問に抗議するために、地域を越えたデモを組織した。あるメンバーは以下のように述べた。「厳格な規律は、我々の組織の特徴の一つである。我々は、独立して行動するよりも、外国から受ける明瞭な指令に従うのを好む。それぞれの共和国内で責任を負っているのは、na’ibである。彼らは、諸州の責任者amirたちを監督する。このようなヒエラルキー・システムは、五人のメンバーから構成される下層の細胞組織まで、全ての面に共通する」[cxxi]。
その一方でフェルガナ地方では、解放党員の一部が党から離脱し独自の共同体を結成した。その中でも有名なのは、「アクラム派(Akramilar)」(指導者アクラム・ヨルダシェフに因む他称)と呼ばれる組織である。ババジャノフは、アクラム派が解放党の三段革命論に影響を受け、社会をイスラーム化するための五段階のステージを設計したと述べている。彼らはまた、解放党の政治思想において欠落していた生産組織の具体的な形態を提示しそれらを実際に運用した[cxxii]。実際にアクラム派は、政治運動というよりむしろ、共同体の成員のあいだの相互扶助を目的とした組織と言われるが、解放党の影響も少なからず受けているといえるだろう。
④支持基盤
中央アジアにおける解放党のメンバー総数数万人のうち、多くはウズベキスタンで活動しており、その数は、約15,000人から20,000人と見積もられている[cxxiii]。ウズベキスタン以外にも、クルグズスタン南部、タジキスタン、カザフスタン南部において、ウズベク系住民を中心に広い支持基盤を持っている。解放党の支持者の多くは若者であると考えられる。彼らの教育水準は、中等学校から大学卒業者まで様々であるが、上級指導者の多くは高学歴なものが多い。
解放党はイデオロギー上、すべてのムスリムに門戸を開いているとされるが、エヴゲーニー・ノヴィーコフによると、中央アジアの解放党は、(1)失業者、年金生活者、学生、シングルマザーなどの社会的弱者、(2)監視・弾圧から党の細胞を守ることができる地元の体制の代表者、(3)機密情報へのアクセスを容易にする治安関係の役人、などのリクルートにとりわけ力を入れているという[cxxiv]。
中央アジアでは近年、男性の解放党活動家のみならず女性の活動家も存在感を強めている。これは、中東で解放党の女性のサークルの存在がほとんど報告されておらず、その影響も無視できるほどに小さいのと対照的である[cxxv]。ナウームキンは、解放党の女性メンバーにインタビュー(実際のインタビューワーは彼に協力した女性)し、彼女らを以下のように描写している。
クルグズスタン領ジャララバードに住むウズベク人ズィミーラは、32歳の専業主婦であり、夫の影響で解放党に参加した。インタビュー当時、彼女はdaris(予備課程の学習者)であった。彼女は、現在の国のすべての病害は政府の誤った形態からもたらされており、その唯一の解決法は、カリフを長とするイスラーム国家の樹立しかない、と考えている。ズィミーラの隣人ラーノもまた、解放党員の妻である。彼女は短期間でmushrif (darisの指導者)になった。ラーノは、女性たちの間に解放党の思想を広めるのは、男性たちに対してより容易だと考える。その理由は、女性は男性より宗教的であり、また多くの女性は職についていないため、有害な世俗的影響を受けることが少ないからである。一方で彼女は、若い女性のほうが年配の女性より入党させやすいと考える。年配の女性は、男性と親しくすることの禁忌、スカーフで髪を余すことなく覆うこと、といったシャリーアの規範に従うことを望まない。ソ連時代無神論教育を受けた彼女らは、党の思想を受け入れないのだという。彼女たちは、党員の数に関心があるわけではなく、またできるだけ多くの参加者を集めているというわけでもない、と言う。彼女たちの目標は、人々の宗教的質問に答え、彼らに社会の真の状況を伝えることである。それゆえ、ラーノは、党員と話した全ての人間が解放党に参加する必要はない、と考えている。それより重要なのは、ムスリムがシャリーアにしたがって生きることの必要性を理解することである、と信じている[cxxvi]。
女性たちの間で解放党の思想を広めているのは、主に逮捕された男性党員を家族に持つ女性メンバーである。中央アジアにおいては、男性が女性に接する際のモラルは、治安関係者の間であっても総じて守られる。彼女たちはこの伝統をうまく利用して党の活動に従事しているのである[cxxvii]。
⑤クルグズスタンにおける解放党と社会の関係
中央アジアの解放党員の多くはウズベキスタンの住民であるが、反体制運動に対する取り締まりが過酷な同国では、人権団体や政府機関と近い関係にある専門家などの報告を含めても、解放党の活動についてアクセスできる情報は量・質ともにかなり限られている。その一方で、イスラーム主義者に対する抑圧が相対的に弱く、報道の自由もある程度確保されているクルグズスタンにおいては、解放党に関する議論も比較的オープンに行われており、その情報量も少なくない。それ故本稿では、クルグズスタンでの解放党の活動に関する記述が大きな割合を占めることを断っておく[cxxviii]。以下では、具体的な事例を交えてクルグズスタン社会と解放党の関係を描写する。
解放党がクルグズスタン南部のフェルガナ盆地周辺で有名になったのは、タシケントの爆発事件以後の1999年からである。クルグズスタン内務省の公式記録によると、党員数は約2500人と見積もられており[cxxix]、20~35歳の男性がその多くを占めている。ウズベキスタンの場合と異なり、彼らのなかに教育水準の高い者はあまりいないと言われる[cxxx]。メンバーの多くはウズベク系だが、クルグズ系、スラブ系の活動家も報告されている[cxxxi]。
クルグズスタン政府の解放党に対する態度は両面的である。たとえばアカエフ大統領(在職1990-2005年)は、メンバーと対話するそぶりを見せる一方で、治安当局がメンバーの強硬な逮捕を中止することもない。しかしながらウズベキスタンの場合とは異なり、党員が裁判に訴えられるケースは多くない。例えば、2002年にオシ地方で起訴されたのは、24人で、そのうち7人は、2から3年の禁固刑であった。一般的な刑罰は、200米ドル程度の罰金刑である[cxxxii]。
メンバーの逮捕・弾圧に対しては、住民の反対運動が起こっている。カラスウでは逮捕されたメンバーの女性親族が抗議運動を組織した。ウズベキスタンの監獄で死亡しシャヒード(殉教者)として宣言された解放党員の葬儀には、公式に場所が発表されていないのにも関わらず、クルグズスタン・ウズベキスタン両国から約2000人の参列者がやってきたといわれる[cxxxiii]。
宗務局に公式に登録されたイマーム(モスク導師)たちは、解放党に対する反宣伝活動に従事するよう圧力をかけられているが、彼らの大半は解放党員との論争から距離を置き、中立的な立場を守っている。彼らの多くは公的には解放党イデオロギーに反対を表明しているが、それと同時に、解放党に対する強行的な手段にも抗議している[cxxxiv]。
公式イマームたちと解放党員との対話の試みは何度も行われている。クルグズスタンのムフティーであるキサムバイ・アッジは、解放党を非難するための講演会を開いた。ところがこれを聴いた解放党員は、ムフティーが党を攻撃するためにクルアーンの章句を曲解したとして、彼を激しく非難した。さらに彼らはムフティーに対し、政府の役人・報道関係者と共に公的な場で討議するよう要求した。しかし、両者の衝突の危惧という建前から、党メンバーの公の場での論争は認められなかった[cxxxv]。
地方政府は、解放党のメンバーが夜間にビラを貼りまわるのを防ぐために、自警団を創立し街を彼らにパトロールさせた。NPO・報道機関なども、「解放党との闘争」に動員された。前者は、例えば、若者のためのレジャー施設を立ち上げ、後者は、解放党員に論壇を与えないように命じられた[cxxxvi]。
クルグズスタンでは、解放党の存在を悪用した事件がしばしば発生する。不良警官が市民から賄賂を巻上げるために使う手口は、ターゲットに麻薬を忍ばせるというものが主流であったが、最近では解放党のビラが使われるようになった。モスクのイマームでさえ解放党を利用する。オシのあるモスクのイマームのポジションを巡り、二人の候補が争っていたが、そのうちの一人がライバルを、解放党に同情的だといる理由で、彼が党員でないのにも関わらず告訴した。被告は罰金刑で済んだが、彼はイマーム候補から去らなければならなかった[cxxxvii]。
政府関係者がが解放党を悪の根源のように表現する一方で、クルグズスタン市民の多くはこうした見方に同意しない。あるアメリカ人ジャーナリストが、ビシュケクの女子大学生に、解放党の主張の脅威について質問したところ、彼女はこの質問が冗談かどうかを逆にジャーナリストに問い返してきた。彼女は、ジャーナリストがこれまで出会ったクルグズスタン市民と同様に、解放党を合法化し選挙に参加させるべきだと考えている[cxxxviii]。最近ではクルグズスタンの学者や専門家のあいだでも、政府は解放党を合法化し民主主義的な舞台で彼らとイデオロギー闘争すべきだ、との意見が出されている[cxxxix]。
以上で、クルグズスタンにおける解放党と社会のかかわりの一側面を示した。実際に解放党がクルグズスタンに広範な影響力を持っていると判断することはできないものの、反体制運動としての存在感は、現地社会においてはかなり高いと言うことができるだろう。
5.中央アジアで解放党の支持が拡大した理由
①解放党の伸張と社会運動理論
解放党が中央アジアに浸透し一定の支持を獲得したことについて、中央アジアの貧困問題や政治的抑圧に関して言及するだけでは、何の説明も与えていないことを、序章で既に述べた。しかしながらその一方で、中央アジアの様々な社会的困難が、解放党の活動に好適な条件を提供しているのもまた確かであろう。
カラギアンニスは、いくつかの社会学的な分析概念を使うことによって、これを理論的に説明しようと試みる。彼は、中央アジアでの解放党の活発さを説明するために、解放党を一つの「社会運動」[1]として扱い、それに社会運動理論を適用して議論を組み立てた。この試みは、中央アジアにおける解放党の受容を、一定の概念を用いて理論的に分析したものであり、これまでしばしば見られた、中央アジアでの解放党の伸張に関する場当り的な主張とは一線を画す。本節では、カラギアンニスが彼の一連の論文[2]のなかで応用した社会運動理論(「構造的機能論」、「資源動員論」、「政治的機会論」、「フレーミング論」[3])について取り上げ、その有効性と限界を示したい。
「構造的機能論」は、ある社会における経済や政治的領域の制度的な不均衡は、社会の成員の不満を助長させ、集団行動を発生させる、という主張である。この論を中央アジアの解放党に応用すると、ソ連解体後に著しく悪化したこの地方の経済状況や社会保障システム、富の再分配や政府機関の雇用などにおける地方や民族間での大きな格差などが[4]、社会の成員のシャリーアの下の平等を一貫して訴える解放党の拡大を助けた、という説明が可能である[5]。
「資源動員論」によれば、すべての社会運動は、運動のために必要な社会の人的・財政的資源を動員している、というものである。この理論によれば、中央アジアの解放党は、(1)地下モスクや友人・知人のネットワークを通じて党の活動に必要な人材を徴募し、(2)メンバーへの賦課金や外国からの金銭の受領によって必要な財源を確保し[6]、(3)メンバーに集団的なアイデンティティーと連帯意識を与える[7]、といった点で現地の資源を動員することに成功している[8]。
「政治的機会論」は、社会運動の高まりを説明するために、社会運動の外部における環境に焦点を当てるものである。中央アジアの各共和国では、程度の差はあれ、一党独裁の権威主義体制が敷かれている。それゆえまともな野党は、ほとんど、もしくは全く機能しておらず、すべての反体制派に対して露骨な弾圧が行われている。このような政治的自由が著しく制限された環境において、解放党は人々の政治的な要求をうまく利用することである種の政治的はけ口になっている、というのがこの理論で説明できることである[9]。
「フレーミング論」によると、多くの社会運動は、支持を動員するために、その社会に内在する文化や価値観と一致したやり方で情報を処理する解釈的枠組を利用している。例えば解放党は、ウズベキスタンのカリモフ大統領を「イスラームを憎む邪悪なユダヤ人」、タジキスタンのラフモノフ大統領を「植民地主義者ロシアの忠実なエージェント」などと呼び、現地のムスリムたちにとって倒すべき敵であることを明確にする。また、中央アジアとは直接利害関係のないパレスチナ問題やチェチェン紛争などの話題も、イスラームに対する不信仰者の侵略行為として、イデオロギー闘争のために積極的に援用される[10]。
これらの議論は、中央アジアが社会運動を発達させる条件に富んでいることを示す上では説得力がある。だが、その社会運動が、なぜイスラーム主義運動の形で進展したのかをうまく説明することはできない。ましてや、解放党という特殊な組織の発展を説明するには遠く及ばない[11]。やはり、解放党の活力を理解するためには、解放党のイデオロギー・組織構造を正しく理解しなければならない。さらには、次節で見る、解放党と中央アジアの間の相性の良さ、という視点も、それらの関係の理解に役に立つだろう。
②解放党の思想と中央アジア固有の環境の間の親和性
前節で見たように、社会運動理論の見地においては、現在の中央アジアには社会運動を生み出す土壌が十分に存在する。だがそれを指摘したところで、解放党という特殊なイスラーム主義組織が、この地で一定の支持を得ていることは説明できない。そこで本節では、解放党の思想や活動方法と中央アジアの人々や社会の間には何らかの親和性がある、という仮説を立て、それを支えるいくつかの根拠を示す。以下では、(1)解放党の資本主義批判、(2)共産主義の革命的イデオロギーの影響、(3)住民の生活を圧迫する国境線の存在、(4)解放党のスーフィズム批判の欠如、という四つの視点を立て順に考察していく。
はじめに、解放党の資本主義批判は、現代中央アジアにおいてどういった意味を持つのかを考えたい。かねてより、資本主義の欠陥を訴えてきた解放党の主張は、過去十数年の中央アジアの人々の社会的経験と符合する。ソ連解体による社会主義の瓦解の後、新たに導入された市場経済化[12]が、共和国独立後の経済的混乱の解決に機能しないことを痛感した中央アジアの人々にとっては、解放党の資本主義批判は異質なものではない。
ナブハーニーは『イスラームの制度』で、資本主義を、生から宗教を排除し、人間を感覚的な快楽の追及に駆り立て、創造者と人間の関係を断ち切る思想、と位置づけそれを批判した[13]。これは主として、イデオロギーのレベルで資本主義を批判したものであるが、『イスラームの経済制度』においては、より経済思想的な観点から資本主義を批判して議論に奥行きを与えている。ナブハーニーの経済思想的な資本主義批判にはいくつかのポイントが存在するが、そのうちの一つは、彼の示す「イスラームの経済原理」との比較の上で示される。
ナブハーニーによると、イスラームにおける経済の基本原理は、すべての個人の基本的な需要を完全に満たすことを保障し、さらにそれぞれの個人の贅沢をできる限り可能にすることである[14]。この論の前提は、経済活動の対象となる物・サービスを、個人にとって(1)基本的な必需(最低限の衣食住など)と(2)それ以外の贅沢、に二分していることである。人間にとっての基本的な必需品に対する要求は増えることがないが[15]、贅沢品に対する要求は大きく変化する。そこで経済の問題で最初に解決しなければならないのは、個人の最低限の必需を満たすことである[16]。一方で、資本主義経済の主要な目標は、国家における生産力をできる限り増やし、国全体の富を増加させることである。ここで問題なのは、国全体の経済力の増強に成功したとしても、すべての個人の基本的な必需を満たすとは全く限らないということである[17]。そもそも資本主義においては、商品やサービスの生産に寄与する能力のない人間は、生きるに値すると判断されない[18]。こういった点において、資本主義は根本的な欠陥を抱えているという。
解放党は「90年代初頭のソ連の崩壊は、単に国家が壊滅しただけでなく、国際的にも、世界的にも、イデオロギーとその目標の失敗だったのである」[19]と主張する。その結果、解放党によれば、「国際上の舞台では、二つのイデオロギー、イスラームと資本主義が残った」[20]のである。社会主義に代わって中央アジアに導入されてきた経済システムが社会にもたらした矛盾は、イスラームと資本主義の不可避的な衝突という言説に一元化される。十数年前までは皆が似たような水準で生活していたのにもかかわらず、現在では、日々の食すら満足に満たせない人がいる一方で、高級な外車が街を走り500ドル以上もするような携帯電話が売られる。これは単に貧困の問題ではなく、システムの欠陥だと受け止めざるを得ないだろう。富める者が贅沢をする前にすべての個人が最低限の需要を満たさなければならない、という解放党の経済思想は、現代中央アジアにおいて強い説得力を持つに違いない。
次に示したいのは、中央アジアの人間にとって、解放党の思想の主柱の一つである「イデオロギーに基づく革命」、あるいは「革命的イデオロギー」という発想を理解するのは難しいことではない、ということである。十数年前までは、旧ソ連領のすべての人民はマルクス・レーニン主義理論をすべての基盤にした教育を受けており、共産主義社会に向けた革命の継続の必要性を教え込まれた。そのため、解放党の革命志向は、中央アジアにおいてはマルクス主義的な比喩を伴って語られることすらある。旧共産圏を除けば、マルクスやレーニンの名がイスラーム主義者の言説の中で肯定的に語られることを想像するのは難しい。以下ではそのユニークな例を検証する。
宇山智彦は2005年の秋、ウズベキスタン国境に近い、クルグズスタン南部の町で解放党の活動家「A」にインタビューしている。Aは、タクシーの中でも運転手や他の乗客を気にせずに、公然と解放党について語る熱心な活動家である。彼はウズベキスタンでの解放党への苛酷な弾圧について、「カリモフ(ウズベキスタン大統領)は弱い人間だから政治力よりも暴力に頼る取締りをするが、これは党への注目を高め、宣伝になるから好都合だ」「(弾圧される)個人ではなくイデオロギーが大事なのだ」[21]、と理念優先の活動家精神を披露する。
このインタビューで興味深い点は、Aがレーニンやマルクスの名を頻繁に引き合いに出すことである。「かつてレーニンが短期間で多くのことを達成したのと同じように、十年間であらゆることができる。知恵を使って、国(将来のイスラーム国家)のために働くことが必要だ」「マルクスは貧民が増えることによって周期的に革命が起きるといった。今、貧民がどれほど多いことか。必要なのは、民主主義の原則ではなく、新しい文明、新しい原則としてのイスラームだ」「彼(レーニンについて:原田注)の存在自体は歴史の過ちだが、人々が飢えていてもまず政治変革に着手した点は評価できる。今も、経済ではなく政治を考えるべき時だ」[22]。Aはまた、ムスリムの団結を世界プロレタリアートの団結になぞらえた比喩なども用いる。こうしたマルクス主義的な例えは、Aがソ連時代に受けた教育に由来していると推測される。中央アジアでは、共産主義の革命論と解放党のそれが、修辞的に相性の悪くないことを示唆している。
もう一点解放党と中央アジアの親和性について指摘すべきことは、人間・物資・金銭の移動を制限し住民の生活を圧迫している複雑な国境線[23]の存在が、解放党のコスモポリタニズム的主張の正当性を際立てていることある。ここで特に強調したいのは、フェルガナ盆地(地図を参照)を歪に分断している国境の機能が、近年過去に類を見ないほど強化されている現状である。
1991年に各共和国が独立すると、検問所や関税事務所がそれぞれの国境に設置されたが、しばらくは人や物の移動に大きな制限を加えられることはなく、住民の生活に深刻な影響を及ぼすことはなかった。ウズベキスタン・クルグズスタン・タジキスタンから構成されるフェルガナ盆地では、依然として国境を越えた人々の繋がりは非常に強かった。異なる共和国の都市間を連絡するバスはこれまで通りに運行し、「国際結婚」もごく普通に行われ、商人たちは国境を股に掛けて日々の生計を立てた。それでも、共和国の間の社会システム(通貨、教育機関、電話回線など)の差異化が進むことにより、住民は次第に不便を感じるようになった[24]。
だが1990年代末から、フェルガナ盆地の境界の大半を占めるウズベキスタン‐クルグズスタンの国境線の機能は、それまでと比べて格段に強化された。その結果共和国間を繋ぐ多くのバスは国境を越えることを許されなくなった。その理由を、ウズベキスタン・カリモフ大統領は、「クルグズスタンは貧しい国であり、彼らの面倒を見るのは私の仕事ではない。毎日5000の人々がオシからアンディジャンにやってくる。もし彼らが皆パンを買えば、私の人民に十分に残らないだろう」[25]と述べた。ウズベキスタンによる人・物の越境の制限は、クルグズスタンのリベラルな経済政策に圧力をかける目的でかねてより強化されてきた。この政策は、IMUの武力攻勢の激化によって劇的に強化された[26]。二国間の交通は著しく制限され、国境地帯には鉄条網が張られ大量の地雷が埋設された。人々は、向かいの国に住んでいる親戚の結婚式や葬儀にすら出席するのが難しくなった。越境貿易で生計を立てていた商人は仕事を失った。国境地帯では人や家畜が地雷によって殺傷された。
フェルガナ盆地の分断化と、この地で解放党の支持層が厚いことは無関係ではない。解放党の最終目標は、現在の分断されたムスリム諸国を、単一のカリフ制イスラーム国家に統一することである。そもそも解放党の思想には画定した領土の概念が見られない。解放党の想定するイスラーム国家においては、通常外国と見なされるような土地であっても、そこがイスラーム世界[27]であれば、その国を外国のように扱ってはならないとされる[28]。この理念が、上記のカリモフ大統領の発言とは対極的なのは明らかであろう。こうした主張は、地域の分断化に悩まされるフェルガナ地方の住民にとって魅力的な理念として理解されるに違いない。
最後に指摘すべき点は、多くのサラフィー主義者たちが反イスラーム的であるとして非難するスーフィズム的な儀礼や慣行が、中央アジアでは日常的に行われているが、解放党がそれらに関して干渉することはないということである。これは、現地の宗教的伝統を重んじるムスリム住民が、解放党を疎ましく思わないことの一要因である。
イスラーム初期の原理や精神への回帰を訴える「サラフィー主義者」と呼ばれる人々は一般的に、ズィヤーラ(聖者廟への参詣行為)を、唯一神崇拝から逸脱するものとして強い嫌悪感を示す。その一方で、中央アジアには過去の偉大なスーフィたちの廟が点在し、現在に至るまで現地のムスリムの崇敬の対象となっている。中央アジアのイスラーム学者の多くは、伝統的にハナフィー学派の立場から、ズィヤーラ(明らかに反イスラーム的と考えられたものを除く)といった儀礼に対して寛容であった[29]。しかしながら、1980年代にムジャッディディーヤ(革新派)と呼ばれる、非合法なイスラーム教育を受けたウラマー(イスラーム学者)たちがフェルガナ盆地で成長すると、彼らは先人たちの寛容すぎる態度を公然と非難し始めた[30]。ソ連解体期には、ムジャッディディーヤと伝統派の間には深刻な分裂が発生し、ズィヤーラの合法性の是非などをはじめとする両者の間の教義論争は常態化した[31]。
中央アジアにおいては、スーフィズム的な儀礼の可否を巡って伝統派と改革派が鋭く対立することもあったが[32]、解放党がこうした論争に対し明確な立場を示すことはない。そもそも解放党には、伝統イスラーム諸学において不可欠な学問であるスーフィズムへの言及が完全に欠落している[33]。
解放党は一般的に、主張・思想に柔軟性がなく極めて非妥協的なイスラーム主義運動と見なされている。確かに解放党は、カリフ制イスラーム国家の再興とシャリーアの実現という政治的な理念を掲げ、それに対しては一切妥協しないことを宣言している。しかしながら、カリフ制を骨子としたイスラーム統治論以外の点においては、ムスリムの間のアキーダ(神学)やイバーダートの相違を認め、それらを統一する一般的な規範の定立を否定する[34]。死者の墓に訪れる行為は、フィクフ上イバーダートに分類されるため[35]、解放党は自己規定により言及できない可能性が高い。
解放党のスーフィズム批判の欠如は、中央アジアの「ワッハービー」らサラフィー主義者たちと対比したとき、豊かなスーフィズムの伝統を誇りに思う中央アジアのムスリムから疎ましがられない要因の一つと見なすことができる。解放党の指導者たちが、ズィヤーラなどの儀礼に関して快く思っているとは到底考えられないものの、それを黙殺するのも解放党の戦略の一つであると見なすことができるのである。
以上の考察から明らかになったのは、中央アジアには、貧困や政治的抑圧といった種々の社会的困難の他にも、解放党という特殊なイデオロギーを持った組織の進出を助けるいくつかの要素が存在しているということである。本節で提出した中央アジアと解放党の間の親和性という議論を、前節で述べた社会運動理論の応用と、1章から3章で扱った解放党のイデオロギーや組織論と合わせて考察すれば、解放党が中央アジアで一定の支持を得ている理由がかなりの程度明らかになると思われる。
終わりに
本稿は、解放党がいかなる思想を持って活動しているのか、そしてこの組織が中央アジアというコンテキストの中でどのように土着化したのか、という点を議論したものである。筆者は解放党自身が主張する論理をできるだけあるがままに提示することに努めた。この点に関してはある程度の基準は達成されたと言えよう。中央アジアにおける解放党については、その存在感を強調するためにいくつかの際立った事例を引用した。これによって地域における解放党の一側面を描写できた。だがその一方で、本稿で言及できなかった地域社会と解放党の間に存在する複雑さ・ニュアンスといったものが犠牲になったのも確かであろう。
以後の課題を述べる。個々の解放党支持者は、どれほど党のイデオロギーの理解やプロパガンダという点において訓練されていたとしても、一人の生ある人間である。彼らには家族がおり、社会生活において無数のリスクに晒されている。それでも解放党への支持を選んだ動機は、当然一様ではないはずである。こうしたミクロな多様性に注目することによって、地域研究としての解放党研究の進展が期待されるだろう。本稿は、解放党の基本文献に顕れている思想が、解放党の中央アジア支部が現地で実際に主張していることと同一である、という前提のもとに議論を展開した。筆者は、解放党の全体主義的な体質から、その傾向はかなり高いと蓋然的に判断して研究を進めたが、これには一定の留保が必要だったかもしれない。この疑問を解決するためには、地域間の解放党(中央アジア内だけでなく他のイスラーム地域の支部も含め)の主張の比較研究が必要だろう。さらには、反体制派を抑圧している中央アジア各国政権の「弾圧する側の論理」を、冷静に分析することもまた必要である。解放党自身がしばしば非難するような、弾圧の原因を為政者のサディズムに帰するようなやり方では、彼らの行動の本質を見誤るであろう。この点を正しく理解するためには、フィールドでの情報収集が欠かせない。また現代の世界には様々な形態のイスラーム主義運動が存在するが、その内部における解放党の相対的な立場を知るためには、他のイスラーム主義運動との比較分析が必要となるだろう。
最後になるが、何ゆえ解放党がこれほどまでにカリフの擁立に固執するのかという点について述べたい。その理由はただ一つであり、解放党はカリフ不在ではシャリーアの施行が不可能であると考えているからである。シャリーアの施行できない事態がイスラーム主義者にとって最悪の不正義であることは、ここでことさら強調する必要はあるまい。解放党は、世界中に散らばるイスラーム主義者の周辺に過ぎない。しかしながら、彼らはシャリーアの施行が最優先の課題である、という認識においては一致しているのである。
地図 フェルガナ盆地

UNEP/GRID-Arendal, Topography and
hydrography of the
[1] 既成の組織の領域の外部における集団的な活動を通じて、共通の利益や目標を追求する、集団的な試み。社会運動は、他のタイプの集団的行動(例えば強盗団)と、(1)高度な内部組織、(2)長期的持続、(3)社会を再組織化するための計画的な試み、といった点で区別される。以上のクライテリアを満たしているため、解放党は一つの社会運動として見なすことができるとされる。Karagiannis, Emmanuel 2006b “The Challenge of Radical Islam in
[2] Ibid., pp. 1-20, Karagiannis,
Emmanuel 2005 “Political Islam and Social Movement Theory: The Case of Hizb
ut-Tahrir in
[3] 社会運動理論については、大畑裕嗣・成元哲・道場親信・樋口直人編 2004 『社会運動の社会学』有斐閣、が優れた入門書である。「資源動員論(Resource
Mobilization Theory)」は同書97-112頁、「フレーミング論(Framing Theory)」は118-132頁、「構造的機能論(Structural - Functional Theory)」と「政治的機会論(Political Opportunity Theory)」は140-153頁を参照。ただし同書では、カラギアンニスが「構造的機能論」および「政治的機会論」と呼ぶものにたいして、それぞれ「構造的ストレーン」、「政治的機会構造」という術語を充てている。
[4] 一般的に中央アジアでは、各共和国の国家機構(政治家、役人、司法・教育・研究機関など)における名称民族の割合は、それぞれの国内における非名称民族の人口比より明らかに高く、非名称民族が差別感を感じる原因の一つになっている。岡奈津子 2004 「民族と政治:国家の『民族化』と変化する民族間関係」岩崎一郎・宇山智彦・小松久男編『現代中央アジア論:変貌する政治経済の深層』日本評論社、92-93頁。クルグズスタンやタジキスタンにおいてもウズベク系住民は相当数存在する。それゆえ「構造的機能論」の立場からは、非名称民族のウズベク系住民の間には、社会運動を活性化させる素地が存在する、という主張ができる。
[5] Karagiannis, 2005, op. cit., p. 141, 2006b, op. cit., p. 6.
[6] 財源については、実証性の高い議論はなされておらず、その理論付けはやや強引である。経済的苦境や失業率の高さが解放党の伸張を助長する、と述べておきながら、メンバーから供出される賦課金が解放党を支える、という議論にあまり説得力はないように思われる。
[7] この意味において、解放党が彼らの中に浸透できたということは、彼らの間に何らかのアイデンティティーの危機が認められてしかるべきであるが、それが具体的にどういったものであるかは述べられていない。
[8] Karagiannis, 2005, op. cit., pp. 142-143, 2006a, op. cit., pp. 269-270, 2006b, op. cit., pp. 7-9.
[9] Karagiannis, 2005, op. cit., pp. 143-144, 2006a, op. cit., pp. 271-272, 2006b, op. cit., pp. 9-10.
[10] Karagiannis, 2006a, op. cit., pp. 272-274, 2006b, op. cit., pp. 10-11.
[11] カラギアンニス自身も、社会運動理論だけで解放党の進展を説明することはできないと認めている。彼は上記の論文の中で、これらの理論を補う形で、「解放党のイデオロギーの役割、動員力」について述べている。Karagiannis, 2005, op. cit.,
pp. 144-146, 2006a, op. cit., pp.
274-277, 2006b, op. cit., pp. 11-16.
[12] 中央アジアの市場経済化についての概説は、小松久男・梅村担・宇山智彦・帯谷知可・堀川徹編 2005、前掲書、228-231頁を参照。
[13] An-Nabahani 2002, op. cit.,
pp. 38-53.
[14] An-Nabahani, Taqiuddin 1997 The
Economic System of Islam, Fourth edition,
[15] 家族構成や生活スタイルの変化量に応じて、「基本的な需要品」は変動するにちがいない。ナブハーニーはこの点を無視している。
[16] Ibid., p. 26.
[17] Ibid., p. 27.
[18] Ibid., p. 31.
[19] Hizb ut-Tahrir 1996 The
American Campaign to Suppress Islam, p. 4. http://www.khilafah.com
(accessed
[20] Ibid., p. 5.
[21] 宇山智彦 2006 「ヒズブッタフリール(解放党)メンバーとの出会い」『スラブ研究センターニュース』104号、14頁。
[22] 同上。
[23] この問題を考える前に、現在の中央アジア共和国間の国境画定について触れなければならない。19世紀半ば以降中央アジアを植民地支配していた帝政ロシアがロシア革命により倒され、ボリシェビキが中央アジアに支配を確立すると、ソビエト政権は1924年中央アジアに民族別の領域区分を定めた。現在の中央アジアの民族と国家の原型はこの時点で成立した。小松久男・梅村担・宇山智彦・帯谷知可・堀川徹編 2005、前掲書、493、496頁。フェルガナ盆地では、国境線は民族分布や地理的・歴史的な地域の繋がりを軽視して定められた。ソ連時代の共和国間の国境画定(厳密に定められることはなかった)は、常に微妙な政治問題を孕んでいたものの、ソ連体制下の社会的機能を妨げることはなかった。たとえば、農業や産業における土地利用や労働者のアクセスなどにおいては、かなりフレキシブルな対応がなされていた。それゆえ、住民は国境の存在をほとんど意識することなく日常の暮らしを営んでいた。Megoran, Nick 2002 “The Borders of Eternal Friendship?: The Politics
and Pain of Nationalism and Identity along the Uzbekistan-Kyrgyzstan Ferghana
Valley Boundary, 1999-2000,” (Ph.D. dissertation,
[24] Ibid., pp. 43-44.
[25] Ibid., p. 45.
[26] ウズベキスタン政府を打倒するために国境を破壊しようとしたIMUの活動は、皮肉にも目標と全く反対の結果をもたらした。
[27] 実は、何が「イスラーム世界」なのかを定義するのはかなり難しい問題である。ここではさしあたり、ムスリムが近代以前から住んでいた土地と考えておこう。
[28] 憲法草案第184章、An-Nabahani 2002, op. cit., p. 162.
[29] ソ連時代にこうした儀礼は、許容できない文化的遅れであるとして当局によって執拗に妨害された。国家機関である宗務局も、ズィヤーラを不法とする法学的根拠を提出しなければならなかった。その中には、アフマド・ブン・ハンバルやイブン・タイミーヤの著作の引用例も見られた。ババジャノフ 2003、172-173頁。
[30] 地元共産党は、ズィヤーラを禁止させるために、彼らをマスコミで発言させるなどして利用した。ババジャノフはこれを、「無神論者と原理主義者の奇妙な同盟」と呼ぶ。Бабаджанов 1999b, op. cit., p. 126.
[31] ムジャッディディーヤのリーダーたちは、ソ連崩壊後にムスリムの政治組織の設立を主張するグループの指導者となり、ワッハービーと呼ばれた。1979年のイラン・イスラーム革命やアフガニスタンにおけるムジャーヒディーンの武力闘争が、彼らの政治思想に影響を与えたと考えられる。ババジャノフ 2003、前掲書、176-177頁。
[32] ただし、現地のタリーカが必ずしもズィヤーラを認めているわけではない。フェルガナ盆地で影響力のあるナクシュバンディー教団のいくつかの支流は、ブハラにある教団の名祖バハーウッディーン・ナクシュバンド廟へのズィヤーラであろうとも、避けるべきであると考えている。Zarcone 2006, op. cit., p.
4.
[33] 中田 1997、前掲書、45頁。ただしラシッドは「HTはスーフィズムそのものとスーフィ神殿での礼拝など、中央アジアに長い歴史を持つスーフィズムの影響力に激しく反発している」と書いている。ラシッド 2002、前掲書、185頁。本書で彼が、解放党とスーフィズムの関係について言及しているのはこの箇所だけだが、その根拠は示されていない。解放党が明確にスーフィズムそのものを否定している、との説を、筆者はこの一文を除いてこれまで目にしたことがない。ただし、解放党指導部が言わないことを、現地の党員が独自に主張している可能性は排除できない。
[34] An-Nabahani 2002, op. cit.,
p. 112. 解放党は、近現代のサラフィー主義者たちが否定するスンナ派四大法学派の伝統の権威を全面的に受け入れるのみならず、シーア派の法学祖ジャアファル・サーディク(十二イマーム派)とザイド・イブン・アリー(ザイド派)の権威すらも認めている。中田 1997、前掲書、44-45頁。これはなによりも、互いに異なる様々なムスリムの教義的な伝統に対しての解放党の柔軟性を示している。
[35] 中田 2003、前掲書、Ibn al-Naqib and Keller 1994, op. cit.
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[i] 「イスラーム解放党(Hizb al-Tahrir
al-Islami)」とも通称される。
[ii] Baran, Zeyno 2005 “Fighting the War
of Ideas,” Foreign Affairs, 11/12,
pp. 68-78.
[iii] 「中央アジア」という地域名称は、一般的に現代では、ウズベキスタン、カザフスタン、クルグズスタン、タジキスタン、トルクメニスタンの五つの共和国の領域をさす。ただし、現代の国境が画定される以前については、アフガニスタン北部や新疆などの周辺地域を含意していることもある。小松久男・梅村担・宇山智彦・帯谷知可・堀川徹編 2005 『中央ユーラシアを知る事典』平凡社、338頁。
[iv] トルクメニスタンは近年鎖国状態で情報統制が非常に厳しいので、同国における解放党の活動の有無は不明である。なお中央アジアに限らず、ロシア、ウクライナ、アゼルバイジャンなどのCIS諸国においても、解放党の活動が報道されている。
[v] アハメド・ラシッド(坂井定雄・伊藤力司訳) 2002 『聖戦:台頭する中央アジアの急進的イスラム武装勢力』講談社、204頁。「HT」はHizb al-Tahrirの略。
[vi] Hizb ut-Tahrir Britain, “Sheikh Muhammad Taqiuddin al-Nabhani.” http://www.hizb.org.uk/hizb/index.php?option=com_content&task=view&id=126&Itemid=90
(accessed
[vii] 中田考 1997 「イスラーム解放党のカリフ革命論」『イスラム世界』49号、40頁。
[viii] 1941年創立のこの団体は、イスラームの祝祭を組織していたが、後に第一次中東戦争(1948-49)の義勇兵を訓練する軍事キャンプとして機能した。Taji-Farouki, Suha 1996 A
Fundamental Quest: Hizb al-Tahrir and the Search for the Islamic Caliphate,
[ix] Ibid., p. 5.
[x] Ibid., pp. 3-4.
[xi] 中田 1997、前掲書、41頁。
[xii] Taji-Farouki, op. cit., p. 6.
[xiii] 中田 1997、前掲書、41頁。
[xiv] Taji-Farouki, op. cit., pp. 5-6.
[xv] Ibid., p. 7.
[xvi] Ibid., pp. 8-9.
[xvii] Ibid., p. 11.
[xviii] Hizb ut-Tahrir
[xix] 中田考は解放党を、「世界で唯一の国際イスラーム政治組織。これ以外の俗に「イスラーム原理主義」と呼ばれている運動、組織はすべて、単に不完全なイスラーム政治運動というより反イスラーム運動であり、イスラーム国際ネットワークを構成するエスニック団体」と断言している。中田考 2005 「『自由民主主義』の失敗-イスラーム解放党の非合法化を中心に」『CISMOR部門研究会2アメリカのグローバル戦略と文明の共存(同志社大学一神教学際研究センター、10月15日)』における配布資料。
[xx] Cohen, Ariel 2003 “Hizb ut-Tahrir: An Emerging Threat to U.S.
Interests in
[xxi] Lambroschini, Sophie 2004 “Hizb ut-Tahrir appeal highlights German
dilemma,” International Relations and
Security Network, Dec 27. http://www.isn.ethz.ch/news/sw/details.cfm?ID=10029 (accessed
[xxii] アメリカでは、解放党のメンバーから成るラップ・ミュージックのグループが、インターネットを通じて自身の作品を配信していた。彼らは、現代イスラーム世界の沈鬱や真のイスラーム国家の必要性などを、シンプルな歌詞で表現し、若いムスリムをターゲットに効果的に解放党のメッセージを伝えようとしていた。 Gruen, Madeleine 2004 “Demographics and Methods of Recruitment,”
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Report), The Nixon Center, September, pp. 116-123.
[xxiii] http://www.hizb-ut-tahrir.org/ (accessed
[xxiv] http://www.hizb-ut-tahrir.info/english/index.html (accessed
[xxv] http://www.hizb.org.uk/hizb/index.php (accessed
[xxvi] http://www.hizbut-tahrir.or.id/main.php (accessed
[xxvii] Хизб-ут-Тахрир. Ознакомление с Хизб-ут-Тахрир. http://www.hizb-ut-tahrir.org/russian/htm/tareefmain.htm (accessed
[xxviii] Ibid.
[xxix] Ibid.
[xxx] Hizb ut-Tahrir 1999 The
Methodology of Hizb ut-Tahrir for Change,
[xxxi] ここではもちろん、解放党がイスラーム主義武装闘争派諸集団と一切連絡関係がない、ということを言っているのではない。
[xxxii] ババジャノフ、バフティヤール(小松久男訳) 2003 「ソ連解体後の中央アジア:再イスラーム化の波動」小松久男・小杉泰編『現代イスラーム思想と政治運動』東京大学出版会、190頁。
[xxxiii] 同書、188-190頁。
[xxxiv] 中田考 2001 『イスラームのロジック』講談社、242頁。
[xxxv] Naumkin 2005, op. cit., pp.
154-155. 現地人の中には、解放党員を含めて、この記事が解放党の平和的なイメージを傷つけるために捏造されたと考えるものもいる。Ibib. 確かに、解放党の似非出版物、しかも本物の出版物をベースに技巧を凝らして捏造された出版物が、ウズベキスタン国内に出回っている可能性は大いに考えられる。例えば、ババジャノフは、国内で入手した解放党の刊行物から、解放党のファトワーと伝統的なスンナ派の法判断が相違する例を議論するために、「女性との挨拶は、握手を伴うものばかりでなく、キスをしあうものですら許される」という「解放党のファトワー」を引用している。Бабаджанов, Бахтияр 2001 О деятельности
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Москва: Центр Карнеги. 2001. С. 159. あるフィクフ(イスラーム法学)上の規定を理解するには、最低限の個別の状況の説明が不可欠であるが、彼はそれに言及していないため、ファトワーの正確な見解は分からない。自然に考えると、おそらく男性と彼が結婚することのできる女性(=近しい親族ではない女性)との関係に関する法判断と思われる。確かにナブハーニーは欲望を抱かないという条件で女性と握手することはハラーム(禁止行為)ではないと述べているが、キスに関しては姦通の前兆となる可能性があるので、ハラームとの見解を示している。An-Nabahani, Taqiuddin 1990 The
Social System in Islam, 3rd edition, London, Al-Khilafah Publications, p57. この例が意味するのは、中央アジアにおいて「解放党」の名が出版物に記されているからといって、必ずしも真正なものとは限らないということである。
[xxxvi] Hizb ut-Tahrir, “Definition,” op. cit.
[xxxvii] ジハードの議論も解放党の思想の一部だ、と言ってしまえばそれまでかもしれないが、その場合、解放党に関しては何も語っていないことになる。というのは、解放党が「ムスリムはシャリーアを遵守せよ」と主張しているからといって、イスラーム主義組織たる解放党について、「解放党は『ムスリムはシャリーアを遵守せよ』という思想を持っている」と語ったところで、同語反復以上の意味は与えられないからである。
[xxxviii] Hizb ut-Tahrir 1999, op. cit., pp. 38-39.
[xxxix] Ibid., pp. 21-22.
[xl] Ibid., p. 10.
[xli] 中田考 2002 『ビンラディンの論理』小学館、107-108頁。
[xlii] Taji-Farouki 1996, op. cit.
[xliii] 党内向けに執筆されたアラビア語資料を基に論を組み立ていると思われるが、その具体的な典拠は、一部を除き明らかにされていない。
[xliv] バアス党の組織論については、Abu Jaber,
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[xlv] Taji-Farouki 1996, op. cit.,
p. 115. しかしながら、現代中央アジアのように、解放党への弾圧が過酷な状況では、組織の機密性重視の観点から、細胞の間の水平的な連絡関係は存在しないと言われる。
[xlvi] Ibid., p. 117.
[xlvii] Naumkin, Vitaly V. 2005 Radical
Islam in
[xlviii] Taji-Farouki 1996, op. cit., p. 117.
[xlix] Abedin, Mahan 2004 “Inside Hizb ut-Tahrir: An Interview with
Jalaluddin Patel, Leader of the Hizb ut-Tahrir in the
[l] 地域の党員数が250人以下ならば、地域委員のポストは5人、251人から500人の場合、50人の党員ごとに一人の地方委員が選出される。もし地方に500人以上の党員がいれば、10人の地域委員に加え、党員500人に一人の割合で地域委員のポストは増加する。Taji-Farouki 1996, op. cit.,
p. 118.
[li] Ibid., p. 123.
[lii] Ibid., pp. 123-124.
[liii] Abu Jaber 1966, op. cit., p. 140.
[liv] Taji-Farouki 1996, op. cit., p. 126.
[lv] Ibid., p. 127.
[lvi] Ibid., p. 132.
[lvii] Naumkin 2005, op. cit.,
pp. 171-173, Hizb ut-Tahrir, “Definition.”
http://www.hizb-ut-tahrir.org/english/english.html (accessed
[lviii] Taji-Farouki 1996, op. cit., p. 133.
[lix] Novikov, Evgenii 2004 “The Recruiting and Organizational Structure
of Hizb ut-Tahrir,” Terrorism Monitor,
Vol.2, Issue22, November 18. http://www.jamestown.org/terrorism/news/article.php?articleid=2368890
(accessed
[lx] ここで彼は、フィクフの原則を用いて例証する。ムジュタヒド(クルアーンとスンナから独自の法判断を演繹することができる者)は、自分の出したイジュティハード(クルアーンとスンナから独自の法判断を演繹すること)の結果を放棄することを禁じられているが、これには、例外がある。ある法的裁定において、すべてのムスリムの福利のために、彼らを統合しなければならない場合がそれである。同様に、ムカッリド(ムジュタヒドの見解に従う者)が、あるムジュタヒドの見解を、すでに実行してしまった場合、それを放棄することは禁じられている。しかし、その判断が、すべてのムスリムの福利に関わる場合、別の判断に切り替えることが可能とされる。
Taji-Farouki 1996, op. cit.,
p. 137.
[lxi] (1)追放:党を分裂させ破壊しようと試みる者、当局にためにスパイする者、は追放される。追放されると、二度と復帰することはできない。この処分は、党の中央指導委員会のみが行使可能である。(2)完全な活動停止;規律に反抗した者、シャリーアの定める義務を履行しない、もしくはそれが禁止した行為を行った者、当局との対峙の際弱さを見せ服従した者、などが対象。活動停止から一年後、党指導部が復帰の許可を出し、対象者が新たに宣誓を行えば、党への参加が認められる。この処分を三度受けたものは、自動的に追放処分となる。(3)一時的な活動停止:軽微な違反・不品行・怠惰などを行ったものが対象。当局に対して解放党への所属を拒否したり、他のメンバーの間に不和の原因を作ったりしたものも対象になる。停止期間が終わると自動的に党に復帰する。新たに宣誓を行う必要なない。この処分は、地方委員会の裁量で下すことができる。Ibid., p. 141.
[lxii] Ibid., p. 138.
[lxiii] 解放党指導部は過去に、クルアーンに触れるには、ウドゥーゥ(儀礼的な身体の浄化行為で礼拝の必要条件)が有効でなければ許されない、という主旨のリーフレットを発行した。ところが、解放党にはイバーダート(神と人間の間の関係を定める法規範)に関することに言及しない、という規則がある。「浄化」はフィクフの主題においてはイバーダートに分類される。それゆえ、党の指導部は、党員の意見を受け入れ、扱うべき話題を誤ったことを認め、この見解を撤回した。Ibid., p. 138.
[lxiv] Ibid., p. 131.
[lxv] サダカは、イスラームにおける五行の一つで、ムスリムの法定義務浄財に定められる。対象となる財や受給資格者などは厳密に定式化されている。中田考 2003 『イスラーム法の存立構造:ハンバリー派フィクフ神事編』ナカニシヤ出版、262-264、427-449頁、Ibn al-Naqib, Ahmad ibn Lu’lu’ and Keller,
Nuh Ha Mim, 1994 Reliance of the
Traveller: The Classic Manual of Islamic Sacred Law, Maryland, pp. 244-276等を参照。クルアーンにおいてはザカートとサダカは同義的に用いられるが、法学用語としては前者が法定義務であるのに対し、後者は自発的な浄財を意味する場合が多い。中田、同書、262頁。
[lxvi] Taji-Farouki 1996, op. cit., p. 131.
[lxvii] Taji-Farouki 1996, op. cit.,
p. 126.
[lxviii] 「憲法草案」は、解放党のメディアオフィスでも閲覧可能である。以下のサイトを参照のこと。 http://www.hizb-ut-tahrir.info/english/constitution.htm
[lxix] An-Nabahani, Taqiuddin 2002 The
System of Islam (Nidham ul Islam),
[lxx] Ibid., p. 7.
[lxxi] Ibid., pp. 11-13.
[lxxii] Ibid., pp. 14-15.
[lxxiii] Ibid., p. 16.
[lxxiv] Ibid., p. 11.
[lxxv] Ibid., pp. 37-38.
[lxxvi] Ibid., p. 39.
[lxxvii] Ibid., pp. 41-42.
[lxxviii] Ibid., p. 42.
[lxxix] Ibid., p. 48.
[lxxx] Ibid., p. 41.
[lxxxi] Ibid., p. 57.
[lxxxii] Ibid., p. 58.
[lxxxiii] Ibid., p. 61.
[lxxxiv] Ibid., p. 62.
[lxxxv] Ibid., p. 69.
[lxxxvi] Ibid., p. 68.
[lxxxvii] Ibid., p. 69.
[lxxxviii] ダアワとはイスラームへの呼びかけを意味するが、ナブハーニーはこの言葉を、「布教」の意味以外に、ウンマをイスラーム的な生き方に連れ戻す、といった意味でも用いる。
[lxxxix] Ibid., p. 74.
[xc] Ibid., p. 75.
[xci] Ibid., p. 77.
[xcii] Ibid., p. 81.
[xciii] Ibid., p. 84.
[xciv] Ibid., p. 90.
[xcv] Ibid., p. 92.
[xcvi] Ibid., p. 111.
[xcvii] イジュティハード・ムジュタヒド・ムカッリドについては脚注60を参照。
[xcviii] Ibid., p. 112.
[xcix] ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)は、イスラーム法が施行されムスリムによって治安が維持されている領域であり、その対概念であるダール・アル=クフル(不信仰の家)はイスラーム法が施行されておらず、不信仰者によって治安が維持されている領域である。ダール・アル=クフルは、ダール・アル=ハルブ(戦争の家)と呼ばれるものと同義である。
[c] Ibid., pp. 115-118.
[ci] ここで示される四つの職以外のすべての国家のポスト(諸部局の長や役人)は、性別や宗教に関わらず、すべての有能な臣民に対して開かれているとされる。Ibid., p 140.
[cii] この四つの原理は、解放党のイスラーム政治論のメルクマールであり、現代イスラーム政治理論に多大な影響を与えている重要な概念である。第一原理は「法の支配」を意味すると同時に、シャリーアに抵触するいかなる法規の制定も許されないことを示している。第二原理は、選挙権、国政参加権、革命権を意味する。第三原理は、ウンマ成員の平等と複数のイスラーム国家の並立の否定を意味している。第四原理は、紛争の調停とカリフ国家の一体性の保持のために、カリフのみがシャリーアの立法を許されていることを意味している。中田考 1996 「イスラーム主義とシャリーア」山内昌之編『「イスラム原理主義」とは何か』岩波書店、100-102頁。
[ciii] アル=マーワルディー(湯川武訳) 2006 『統治の諸規則』慶應義塾大学出版会。
[civ] しかしながら、ソ連の対イスラーム政策には、政治状況によって変化するという側面もあった。第二次世界大戦中のドイツの侵略に応じて、ソ連政府は、中央アジアの兵力・労働力・資源を確保する必要性から、イスラームに対して妥協策を打ち出し、1943年、タシケントに中央アジア・カザフスタン・ムスリム宗務局を設立した。小松久男 2004 「中央アジアにおけるイスラーム復興」片倉もとこ・梅村担・清水芳見編『イスラーム世界』岩波書店、86、87頁。この組織は、イマームの養成や中東諸国との交流(ソ連はこれらの国に社会主義を輸出する際、イスラームを弾圧していないことをアピールする必要があった)などの任務を負ったが、基本的には政府機関であり、体制には従順主義を貫いた。それゆえ、宗務局はムスリムの権利を守るというよりむしろ、イスラームをソ連体制の下で監視するために機能したと考えるべきである(ただし、宗務局はソ連政権の単なる手先ではなくイスラームを守護する意志を少なかれ持っていた、という可能性を指摘する研究もある。詳しくはBennigsen, A. and Wimbush, S. E. 1985 Mystics and Commissars: Sufism in the Soviet Union,
[cv] たとえばウズベキスタンの場合、1989年に全土で300しかなかったモスクが、93年には6000にまで激増した。小松2004、前掲書、88頁。
[cvi] Zarcone, Thierry 2006 “Bridging the Gap between Pre-Soviet and
Post-Soviet Sufism in Ferghana Valley (Uzbekistan): The Naqshibandi Order
between Tradition and Innovation,” Kisaichi Masatoshi (ed.), Democratization and Popular Movements in
the Muslim Countries: Civil Society Reconsidered, London, Routledge Curzon,
pp. 1-11や、Бабаджанов, Бахтияр 1999a Возрождение деятельности
суфийских групп в Узбекистане// Центральная Азия и Кавказ. №.1(2). С. 181-192などを参照。
[cvii] サウディアラビアの厳格なワッハーブ主義者に因む侮蔑的表現。現地では「原理主義者」程度の意味に用いられる。
[cviii] 小松2004、前掲書、91-92頁。
[cix] タヒル・ヨルダシェフ、ナマンガニー(9.11後のアフガニスタン戦争で死亡)らが1996年に結成した反体制のゲリラグループ。最盛期には数千人の戦闘員を擁したと言われる。タリバーンやアル=カイーダと共闘関係にあり、バトケンで日本人技師誘拐事件を起こしたことで有名な組織である。詳しくはラシッド 2002、前掲書を参照。中央アジアの解放党はIMUとの関係が常に疑われているが、解放党はこの組織との協力関係を否定している。
[cx] タジキスタンで1992年から97年まで続いた内戦。死者6万、難民30万の犠牲を出した。ソ連時代から続く根深い地域閥間の対立が主要な原因と考えられている。帯谷知可 2004 「宗教と政治:イスラーム復興と世俗主義の調和を求めて」岩崎一郎・宇山智彦・小松久男編『現代中央アジア論:変貌する政治経済の深層』日本評論社、121-124頁。
[cxi] ラシッド 2002、前掲書、181-182頁。
[cxii] Naumkin 2005, op. cit., pp.
141-142. しかしながら、その居住地さえ秘密にされていたザッルームが、独立直後のウズベキスタンを直に訪問したと考えるのはかなり難しい。
[cxiii] Зайнабитдинов, Саиджахон 2005 Община «Акромия» -
Тенденциозное творчество узбекских спецслужб и политологов. Фергана. Ру.
05. 04. http://www.ferghana.ru/article.php?id=3629 (accessed November 29, 2006)
[cxiv] 米国の人権擁護NGOヒューマンライツ・ウォッチは、ウズベキスタン政権の宗教弾圧を世界で最も深刻なものとして告発している。ウズベキスタンでは2001年の時点でおよそ7000人の政治犯が収監されているが、少なくとも半数以上は解放党との関係で罪に問われている。Human
Rights Watch 2004 Creating Enemies of the
State: Religious Persecution in
[cxv] ラシッド 2002、前掲書、183頁。
[cxvi] Naumkin 2005, op. cit., p. 164.
[cxvii] Rotar, Igor 2004a “Hizb ut-Tahrir in
[cxviii] 解放党が、中央アジアのユダヤ人固有の歴史を考慮しているとはほとんど考えられない。中央アジアにはユダヤ人のコミュニティが2000年以上前から存在している。この地にイスラームが到着してからは、ユダヤ人はムスリム王朝のもとで庇護民として共同体を維持した。ロシア帝国がトルキスタンの支配を確立した後には、多くのヨーロッパ系のユダヤ人が中央アジアに流入した。ユダヤ人はソ連の過酷な宗教弾圧を生き延びたが、ソ連解体期までに彼らの大半はイスラエルやアメリカに移住した。小松久男・梅村担・宇山智彦・帯谷知可・堀川徹編 2005、前掲書、458-459頁、Wikipedia contributors 2006 “Bukharan Jews,”
Wikipedia, The Free Encyclopedia, http://en.wikipedia.org/wiki/Bukharan_Jews (accessed
December 20, 2006)
[cxix] Rotar, Igor 2004a, op. cit.
[cxx] Ibid.
[cxxi] Ibid.
[cxxii] Бабаджанов, Бахтияр 1999b Ферганская долина: Источник или жертва исламского
фундаментализма?// Центральная Азия и Кавказ. №.4 (5). С. 129-130. ババジャノフは、ヨルダシェフが自著Йимонга
йул(信仰の道)において、カリフ制の必要性とイスラーム化のための五つのステージを議論していると書いている。だがこれに対しては深刻な疑問が呈されている。サイドジャハン・ザイナブッディノフは、ババジャノフの読んだと思われる『信仰の道』とは完全に「別バージョン」の『信仰の道』をインターネットの記事で公開している。同書では、クルアーンの章句の引用を交えた基本的なイスラームの知識が述べられているに過ぎない。扇動的な記述は皆無で、社会のイスラーム化どころか、カリフに関しても一切述べられていない。彼によれば、ヨルダシェフは以前解放党員であったが、1988年には既に脱党しており、その後は地元のウラマーとして地道にイスラーム教育活動に従事していたという。ちなみにヨルダシェフは、1999年のタシケント・テロ事件の犯人の一人として有罪判決を受け服役中である。Зайнабитдинов 2005, op. cit.
[cxxiii] Naumkin 2005, op. cit., p.
158、ババジャノフ 2003、前掲書、187頁。ただし、解放党の初学者やシンパサイザーなどを含めた値は、もっと大きなものになると思われる。
[cxxiv] Novikov 2004, op. cit.
[cxxv] Taji-Farouki 1996, op. cit., p. 145.
[cxxvi] Naumkin 2005, op.cit., pp. 171-172.
[cxxvii] Novikov 2004, op. cit.
[cxxviii] クルグズスタンの前ムフティーであったサディクジャン・カムルッディンは、一定の人口に対する解放党の影響力は、ウズベキスタンよりも、クルグズスタンのほうが大きいと考えている。この意味における、中央アジアの共和国内における解放党の影響力に関しては、クルグズスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタンの順に評価することができる。タジキスタン、カザフスタンにおいても、ウズベク人が解放党の主要メンバーだったが、現在彼らは、それぞれの共和国の名称民族(例えばタジキスタンにおけるタジク人)の党員のリクルートに力を入れている。Rotar, Igor 2004b “Hizb ut-Tahrir Today: An Interview with Sadykzhan
Kamuluddin by Igor Rotar,” Terrorism
Monitor, Vol.1, Issue13, March 11, p. 2.
http://www.jamestown.org/images/pdf/ter_002_005.pdf (accessed
[cxxix] クルグズスタン国内の解放党員の数を9,000人から16,000人と見積る専門家も存在する。Каримов, Данияр 2006 Улугбек Орозалиев: Партия
«Хизб ут-Тахрир» может стать популярной в Кыргызстане в ближайшие годы. ИА «24.kg», 19. 09. Бишкек. http://www.24.kg/glance/2006/09/19/7164.html (accessed
[cxxx] ただし現地指導者の中には、ロシア語に加え、英語やアラビア語に堪能な者もいる。Ibid.
[cxxxi] Сагнаева, Сания 2002 Религиозно-оппозиционные группы в Кыргызстане:
Хизб-ут-Тахрир// Религиозный экстремизм в Центральной Азии. Душанбе: OSCE.
С.64-65.
[cxxxii] しかしながらクルグズスタン司法当局は、外国の司法当局の違法行為を見逃すことがある。ウズベキスタン当局がクルグズスタン領内でウズベク系クルグズスタン人を拉致し、ウズベキスタンに移送して裁判を行うといったケースがいくつか確認されている。Сагнаева 2002, op. cit., pp. 67-68.
[cxxxiii] Ibid., p. 68.
[cxxxiv] Ibid.
[cxxxv] Ibid., p. 69.
[cxxxvi] Ibid.
[cxxxvii] Ibid. p. 70.
[cxxxviii] Schmidle, Nicholas 2005 “
[cxxxix] Каримов 2006, op. cit.