この卒論は、原文は手書きだったものを「一太郎」でパソコンに入力してもらったも
のを「ワード」に変換したもので、変換の過程で脚注が消えてしまいました。その
後、卒論のオリジナル自体を紛失したため、脚注を復元できませんでした。オリジナ
ルが見つかった時点で脚注を追加したいと思います。
ともあれ、語られうるものは明らかに語られうる。そして語りえぬことについては、沈黙しなければならない。
ヴィトゲンシタイン
科学は本質的にアナーキスト的な営為である。すなわち、倫理的アナーキズムは、これに代わる法と秩序による諸方策よりも人間主義的であり、また一層確実に進歩を助長する。
P.K.ファイヤアーベント
イブン・タイミーヤの政治哲学
目次
序章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
第T部
第1章 時代背景・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
第2章 イブン・タイミーヤの生涯・・・・・・・・・・11
第U部
第1章 資料と方法・・・・・・・・・・・・・・・・・17
第2章 政治の位置・・・・・・・・・・・・・・・・・19
イブン・タイミーヤの場合・・・・・・・・・・20
支配者と被支配者・・・・・・・・・・・・・・22
第5章 国家権力:その根拠・・・・・・・・・・・・・24
被支配者の義務・・・・・・・・・・・・・・28
第7章 国家権力:その目的・・・・・・・・・・・・・30
第8章 主権者とは誰か?・・・・・・・・・・・・・・34
第9章 ウンマ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37
イブン・タイミーヤの国家・・・・・・・・・42
第11章 結論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・47
注・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49
Selected Bibliography・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・72
言葉は「意味をもた」ない。*1
言葉の意味は、それを通しての世界への決断に於いてのみ確定する。
我々は言葉に於いて自由に誤りうる。そればかりでなく、殆んどの場合実際に誤っている。
誤った知識はそもそも知識なのだろうか?そこでは何が「理解」されているのだろうか?
言葉の誤りを殊更に言いたてることにも意味はない。
言葉は道具に過ぎず、真理は語り得ない。言語は「物自体」を記述し得ない。それは、世界と言語が別物である、という単純な事実による。
我々は行為に於いてのみ世界と触れる。我々の世界理解はその中にのみ示される。
世界と一致するのは、世界を記述する言葉ではなく、世界への我々の行為である。
正しい生のみが存在する。
世界によるサンクションのみが、言葉をして我々を正しく導かしめる。*2
以上のことを前提とした上で、我々は言語の日常的な使用に戻る。
科学は、現在・現在となる未来・現在である過去の世界のみを記述する。*3それ以外の学問は全て規範学であり、解釈学に過ぎない。
勿論、両者の間に明確な境界など存在しないのだが。
学問の成立のメルクマールは、そのギルド成員間のパラダイムの共有にのみ存する。
パラダイムとは、問題を切り出し、その問題を解く機械であり、それを習得していさえすれば、誰でも頭を使わずに同じ答えを出せる機械である。*4
学問とは、人が機械と化すこと。
思想研究者は、機械を操る「人間」である。
思想研究は学問ではない。
思想研究の歴史は、理論の展開として構成されるべきではなく、アド・ホックな発見の集塊として鑑賞されるべきである。
「シーザーを理解するのにシーザーである必要はない」のだろうか。*5
シーザーを理解するとは、自己の中のシーザーを発見すること。
人は、己がシーザーであるところまでしかシーザーを理解しない。
もとより、理解は語り得るものではなく、生の中に示され得るだけなのであるが。
他人が我々に知られるのは、彼によって表現されたものを媒介してのみである。
記号として解読されるものではなく、記号として送られるものだけを我々はテキストと呼ぶ。なぜなら、世界は全て、記号の束としてのみ構成されるのだから。
人間のテキストとは、語られた(書かれた)全ての事・語られなかった全ての事・行われた全ての事・行われなかった全ての事である。
思想研究の対象は、むろん「人」ではない。また「人」のテキストでもない。
では、思想研究の対象は、単に「本」としてのテキストなのだろうか。
もとよりテキストも意味を持たない。テキストの意味は、研究者と世界との関わりの中で決まる。
従って、テキストに正しい意味などない。
彼自身にとって正しく読まれたか否か、それだけが問題なのである。
思想研究者は、テキストを通して自己を語る。或いはテキストによって変えられた自己を語る。*6
思想研究とは、自己の限界を語ること、或いは限界まで自己を語ることである。
そのためには、まず彼は語るべき自己を持たねばならない。
宗教思想が、語り得ないことを語ろうとする営みであるなら、宗教思想研究者の仕事は、語り得ることを境界づけること。勿論、その境界とは彼の限界でなくてはならない。
宗教思想研究とは、被造物の愚かさを知ることであり、愚かな被造物を知ることである。
注
序章
勿論、この序自体は意味を持たない。それが論文全体の中に置かれた時、それを正当化し得れば(そして私の生き方を------)、それだけがその意味である。
従って、この注は全くの蛇足である。
第T部
思想も人間の営みである以上、真空の中に生まれるわけにはいかず、当然、伝統と素材とに拘束される。
伝統に拘束されるという点で思想が歴史的制約を受けるのは、いかなる思想に於いても同様の運命であるが、政治思想は、その扱う素材自体が歴史的に限定されている。その意味で、扱われる思想家と研究者が(恐らく)同じ素材によって拘束されている自然科学と異なり、二重に歴史的に制約されている。
尤もイブン・タイミーヤの場合、伝統、特にコーラン・スンナからの制約が(恐らく意識的に)圧倒的なのに比して、時代の現実の政治情況からの制約は、一見殆ど感じられない。
しかし、現実の政治情況を意識的に黙殺するということ自体、時代の反映であるとも解釈し得る。ここでイブン・タイミーヤの生きた時代を簡単に振り返っておくことも、意味があろう。
この章では二次資料だけが使用され、一次資料に照合しての批判は行われない。また、包括的であることも、当然とは言え意図されていない。
イブン・タイミーヤの生まれた13世紀の東方のイスラム世界は、十字軍とモンゴルの二つの敵を相手にしていた。この両者からイスラム世界を守り、これを撃退したのが、マムルーク朝である。
マムルーク朝は異民族王朝であった。マムルークは、国土及び住民と民族を異にする外国人であり、アラビア化されず、あまりイスラム的ではなかった。彼らは軍人士族の特権階級としてエジプト・シリアを支配し、軍事と統治に専念した。人民には軍事への参加が許されず、統治者であるマムルークと被統治者である人民とは、完全に分離されていた。*1
マムルークは、少年時代に奴隷商によってエジプトへ送りこまれ、スルタンや部将に買い取られて、その所有となった。
買い取られた少年の一団は、身体検査の後マムルーク養成所に収容され、イスラームや礼儀作法などを教えられた。
彼らは成長し髭がはえ青年になると、騎士として必要な訓練を行い、武術・馬術などを教わって、この養成所を卒業するとスルタンに奉仕する諸仕務についた。スルタンは、彼らに領地や馬や衣服を与え、奴隷身分より解放して自由人とするのである。彼らの中で優秀な者は、十騎隊長、四十騎隊長、更に百騎隊長、千騎隊長となり、スルタンになることも可能であった。
エジプトとシリアに於いて、マムルークは一般住人と全く分離した軍事士族の特権階級であって、一般住民とは婚姻関係を結ばなかった。妻妾・女奴隷は、奴隷商人が持ち込む娘か、同じマムルークの女の中から選んだ。
従って、婚姻によってアラビア人などの土着民と血縁を結び、親密度を増すということは全くなかった。
マムルークには、通常の概念での家族生活というものはない。子が父の地位を受け継いでその財産を相続することもなかった。マムルークが先輩のあとを受け継ぐのである。部将が妻子と共に食事をすることも稀で、多くの場合、彼の買い取ったマムルークと食事をした。マムルークは極めて優遇されていた。*2
タイミーヤの作品は、この特殊なマムルーク朝の政治制度の下で書かれたのである。
マムルークは、上述のように民衆と完全に分離していたため、民衆に影響力を持つウラマーを社会安定化のために利用した。ウラマーは、フランクやモンゴルへの使節、スルタンのカリフへの推載、政治顧問等、重要な役割を果たした。その一方で、彼らはスルタンからの俸給、ワクフの寄進、贈物、賄賂などを受け取り、相互依存の関係にあった。*3
スンニ派・シーア派を問わず、一般にウラマーは国家権力に近づくことを軽蔑し、官職を避ける傾向にあったが、*4Nizam al-Mulk(d 1092)の教育改革の後、次第に国家の構成機構に組み込まれていった。ダマスカスでも、12世紀から13世紀にかけて、ウラマーはパートタイムの個人的仕事から、俸給を受ける職業教師となり、国家の行政を行うようになった。国家はウラマーに対し、ある程度のコントロールが可能となったのである。*5ちなみに、1260年現在のダマスカスにおける各派のマドラサその他の数を列挙しよう。34のシャーフィー派のマドラサ、35のハナフィー派のマドラサ、4のシャーフィー+ハナフィー派のマドラサ、9のハンバリー派のマドラサ、3のマーリーキー派のマドラサ、10のダール・ル・ハディース、11のハーンカー、7のリバート、8のザーウィヤ。*6これらに、スルタンや王侯・貴族のパトロンがついていたのである。その中でハンバリー派は、相対的に経済的自立を保っていた。*7
アッバース朝の崩壊後、学問の中心はカイロとシリアに移り、マムルーク朝下で王侯・貴族が学芸のパトロンとなってマドラサも栄えた。しかし、その結果、学問の創造性が失われたことは否めない。*8また、前述のようにマムルークは民衆から遊離し、彼らの福祉に意を向けなかったため、下層民の生活は悲惨であった。*9エジプトは統一されていたが、シリアは群雄が割拠して半独立の様相を呈し、*10ベドウィンは国家の支配下にはいらずしばしば掠奪を行った。更に、法学派、タリーカ間の対立もあり、社会が大きな矛盾を抱えていたことも事実であった。*11
スンニ派神学は、Fakhr al-Din Razi(d 1209)を最後に硬直・衰退の時代にはいり*12、哲学も、al-Ghazali (d 1111)の哲学無用論、Ibn・al-S_alah_(d 1243)の哲学を禁ずるファトクの後、東方イスラム世界ではすっかり影をひそめていた*13(西方にはIbn Rushd(d 1198)がいたが、彼は東方イスラム世界では影響を持つことが出来なかった。また、Suhrawardi(d 1191)に始まり、Ibn・'Arabi(d 1240)の存在一性論とも融合し、後にMir Damad (d 1630)やMulla S-adra(d 1646)に至り完成する、神学・哲学・神秘主義の混合であるヒクマ哲学は、いまだ形成途上にあった)*14。
法学では、13世紀までに、ザーヒリー派、Ibn Thaur(d 854)、al-Tabari(d 923)
の法学派は消滅しており、*15正統四法学派では既にシャリーアが確定し、イジュティハードの門は閉ざされていた。*16イジュティハードの門が閉ざされたのは、シャリーアへのアッバース朝権力の干渉を防ぐ効果を持ったとはいえ、それはシャリーアの現実からの遊離を招き、シャリーアを扱うカーディー法廷と、支配者の法を扱う「上訴」法廷の、後者の優位による併存という事態を許すことになっていた。*17
スーフィズムは、イブン・アラビーの存在一性論に於いて、思想的には堕落・腐敗の極に達し、*18一方12世紀には、トリミンガムの言う「タリーカの段階」にはいって、民衆化が進んだ。タリーカはもはや「ハーンカーの段階」の隠者の集団ではなく、親方‐弟子‐見習いのギルドの組織原則と似た、導師‐信徒‐入会者の組織を持つ、聖者を載く俗人集団であった。
この民衆化の過程で、礼拝・連禧・ズィクル・徹夜の勤行・断食など、スーフィ道の定式化が行われる一方、民間信仰・キリスト教の要素を取り込み、聖者崇拝・バラカを求める墓崇拝・占星術・占い・魔術などが流行した。ダマスカスに勢力のあったRifa'iya教団は、逸脱的行動により知られ、イブン・タイミーヤの批判を受けることになる。*19
イスラームの知的伝統の中に、我々はAhl al-H_adithとAhl al-Kalamの二つの潮流を見ることが出来る(言うまでもないが、この区別は理念型でしかない)。この対立は法学派の区別を横断し、どの法学派も内部に両者の対立を抱えていた。その中で、ただハンバリー派だけが、法学派としてアフル・ル・ハディースを代表していた。ハンバリー派は、このアフル・ル・ハディースの牙城としての役割故、その数的劣勢にも関わらず、イスラームの歴史に於いて、重要な地位を占めてきたのである。*20
しかし、ハンバリー派は、名祖アフマド・ブン・ハンバル(d 855)以来、全く変化を遂げなかったという訳ではなかった。アシュアリー派その他との論争の中で、不可避的に思弁神学の方法を使用せざるを得なかったのである。11世紀には、ハンバリー派はアシュアリー派・ムウタズィラ派的傾向を帯びるようになった。Qad_i Abu Ya'ula(d 1066)やIbn 'Aqir (d 1119)等がその代表である。この傾向は、Muwaffaq al-Din Ibn・.Qudama(d 1223)の死後、アシュアリー派の隆盛、イブン・アラビーの一元論、及び大衆スーフィズムから、教義を防衛するために、一層顕著となった。それ故、ハンバリー派は、アフル・ル・ハディースの代表者としての立場にも関わらず、必ずしも教義に於いて一枚岩であったとはいえず、内部に絶えず意見の相違を孕んでいたのである。*21
大スルタン・バイバルスは、滅亡したアッバース朝の家系から名ばかりとはいえカリフをたてて、カリフ制を復活し、更にモンゴル・十字軍と戦った。この時代はスンニー主義高揚の時代であり、ハンバリー派はシリアに於いて発展した。バイバルスの治世でもう一つの重要なのは、1265年の法制改革である。バイバルスは、それ以前のシャーフィー派のカーディー・ル・クダーによる全法学派の統轄を廃し、四法学派全てのカーディー・ル・クダーをカイロに置き、続いてシリアにも同じ制度を敷いたのである。これはハンバリー派の独立に寄与することとなった(但し、孤児・宗教財産・国庫に関する裁判に限り、従来通りシャーフィー派のカーディー・ル・クダーに管轄させたため、シャーフィー派の優越は変わらなかった)。*22
簡単にまとめよう。
1.アッバース朝カリフ制度の滅亡後、エジプトを本拠とし、アッバース朝の 家系からたてたカリフを擁する異民族王朝、マムルーク朝の下で、
2.モンゴル・キリスト教徒十字軍の外敵と、彼らと共謀するヌサイリー派ら 異端セクトと対決する、スンニ派の栄光の時代であると共に、戦乱の時代 であり、
3.支配者と民衆の遊離、都市住民・農民・ベドウィンの対立等、社会的矛盾 をかかえ、
4.ウラマーは、支配者と民衆の仲介者の役割を果たしつつも、国家機構に編 入され、権力者への依存の度を強めつつあり、
5.神学・哲学・法学は、一応その完成を見、創造性を失い、停滞・衰退期に はいっていたが、
6.スーフィズムは、イブン・アラビーとその一派の存在一性論により、教義 的に新たな局面を迎える一方、タリーカの出現・聖者崇拝・墓崇拝の流行 などにより大衆化が進行し、
7.ハンバリー派は、アフル・ル・ハディースの拠点として旺盛な活力を示し、 相対的独立を維持したが、教義的には思弁神学・スーフィズムを大幅に同 化し、変質を遂げていた。
イブン・タイミーヤが生きた時代は、このような時代であった。
行為がその人間のテキストなら、伝記はその二次資料となる。
この章では、更にその二次資料のみが、無批判に受容され、時代順に構成される。*1
Taqi' al-Din Ah_mad Ibn・Taimiyaは、1263年、ハンバリー派の学問的中心地の一つH_arranに、ハンバリー派法学派の学者の家系に生まれた。彼の祖父・伯父・父も高名な学者であり、アフマドは父を師に学問を始める。また、彼の二人の弟も、学者として終生兄と行動を共にすることになる。*2
1268年、イブン・タイミーヤは、モンゴル軍の襲撃を逃れて、一家と共にダマスカスに移住した。
彼は神童として名を知られるようになった。10代で伝承学・法律学を極め、17才にして既にファトワーを発令したほどである。また、アラビア語学・文法学・歴史学・異端学・神学にも精通しており、アラビア語以外の言語は知らなかったとは言え、哲学・論理学・キリスト教・ユダヤ教についても研究していた。
1284年、父'Abd al-H_arimが死ぬと、イブン・タイミーヤは父のあとを継ぎSukkariya学院の教師となった。そして翌85年には、ダマスカス最古のウマイヤ・モスクで、コーラン解釈の講義を始めた。*3
彼は30才以前に最後のムジュタヒドの異名をとり、既に一家をなしていた。
広い意味での、最初のミフナ(異端審問)は、1290年に起こった。イブン・タイミーヤは、ウマイヤ・モスクで神の属性について説教をしたが、彼の反対者はこれを中止させようとした。しかしこの時は、シャーフィー派のShihab Din Khuwai(d 693 AH)Sharah al-Din al-Maqdisi(d 694 AH)が彼の味方についたため、その試みは失敗した。
1291年、アッコンが陥落し、シリアに於ける十字軍の脅威は完全に終結するが、翌92年、イブン・タイミーヤはメッカ巡礼を果たす。
1294年、アラブの有力なアミールの秘書であるクリスチャンが、預言者ムハンマドを侮辱するという事件が起こった。イブン・タイミーヤは、シャーフィー派のZain al-Din Fariqi と共にこれを非難し、民衆に呼びかけた。しかし、彼らは逆に非難を受けて鞭打たれ、マドラサ 'Adhrawiyaに拘禁された。*4
彼は間もなく釈放されて学問生活に戻り、1296年には、彼の師Zain al-Din Ibn・al-Munajja(d 695 AH)のあとを継いでハンバリー派のダール・ル・ハディースの教官になった。*5
狭い意味でのミフナは、1299年、彼のハマ信条をめぐって生じた。その中でイブン・タイミーヤは、神の属性について、サラフの説を後の神学者より好んだため、他の法学者の怒りを買ったのである。ハナフィー派の法学者Jalal al-Din (d 745 AH)は彼をタジュスィーム(擬人神観説)で訴えた。イブン・タイミーヤは、始め信仰はカーディーの扱うべき問題ではないとして出頭を拒否したが、ジャラールッディーンが公然と彼の信条を非難するに及び、論争に応じた。結局、この論争は、明白なイブン・タイミーヤの勝利に終わった。*6
1299年、モンゴル軍が北シリアを襲い、ダマスカスに迫った。これを迎えうったマムルーク軍団がホムスとハマーの間で大敗し、エジプトに潰走すると、文人・学者たちはダマスカスを見捨ててエジプトへと逃げた。しかし、イブン・タイミーヤはあくまで踏みとどまり、ダマスカス住民の生命財産の安全をとりつけるべく代表団を組織し、ガーザーン汗(d 1304)と直接談判した。彼は得意の弁説で汗の非を激しく攻撃したので、他の団員は、生きて再び汗のもとから戻れるとは思わなかった、と伝えられている。
ダマスカスが占領されると、タイミーヤは住民のためにモンゴル占領軍と交渉し、特に捕虜の解放のために尽力した。ガーザーン汗は結局ダマスカス城を落とすことが出来ず、翌年本国に引き揚げたが、その後、スルタン・ナースィル・ムハンマド(d 1341)はシリアに出陣し、ダマスカスをモンゴル軍より解放した。これに対し、ガーザーン汗は、1300年と1302年の二回にわたって再び北シリアに侵入してきた。
イブン・タイミーヤは、動揺するダマスカス住民を前に、ウマイヤ・モスクからジハードの宣言を下し、シリアの将兵を激励した。ダマスカス総督al-Afram(d 719 AH)の依頼を受けて、彼はカイロに急行し、スルタンの出陣を要請した。彼の辛辣な、しかし力のこもった説得によって、負け犬さながらのエジプトのスルタンや将兵は見違えるほど雄々しくなり元気づいたという。間もなく、スルタンと彼の軍隊はシリアに向けて出陣し、これを聞いたモンゴル軍はまたシリアから撤退した。
しかし、この間にイブン・タイミーヤは、1302年、懲罰を自ら下し子供のあたまを剃った(?)として訴えられ、1303 / 04年には、モンゴルと通じQibjagをシリアの総督につけようと謀ったとの廉で訴えられた。これは後に捏造とわかり、イブン・タイミーヤの無実は立証され、彼らは厳しく罰せられたが、これらの事件は、政治的にもイブン・タイミーヤが多くの敵を持っていたことを物語っていよう。*7
1303年、モンゴルが大軍をもってユーフラテス河をおし渡り北シリアに迫ったため、ダマスカス市民は再び脅えた。イブン・タイミーヤはコーランの聖句を借りて、動揺する市民を懸命に鎮めた。民衆の一部から、ムスリム同士が殺し合うのはよくないと言う声があがった時、彼は、モンゴルのイスラムはハーリジー派であると決めつけ、強くジハードを訴えた。彼は自ら出陣して、ダマスカス郊外のムルジサファルに赴き、スルタン将兵たちにジハードを叫んで激励した。
幼少のスルタンはイブン・タイミーヤに、自らの側を離れぬように懇願したが、彼は、「スンナでは人は己の民の旗のもとに立つもの、我々はシリア軍のもの、シリア軍以外の戦列には加わらない」と答えて、スルタンのこの申し出をしりぞけた。
この時は丁度、断食月のラマダーンに入っていたのであるが、彼は予言者のハディースを引用しつつ断食を止め、「食べた方が力がつく」と、自らパンを食べながら兵士の戦列を歩き回り、兵士と共にパンと水を分かちあった。両軍はムルジサファルの野で激突し、イブン・タイミーヤは二人の弟と共にシリア軍の戦列で奮戦した。戦はマムルーク軍の大勝利に終わり、これを境にイル汗国とらの脅威は殆どなくなった。
続いて1305年、モンゴルの侵入にあったてモンゴルに共謀したシーア派のセクトの征伐のため、彼はスルタンとKasrawan攻撃に従軍した。*8
1305年、イブン・タイミーヤは、預言者の足型を刻んだとされる聖石をたたき割ったが、これはダマスカスの人々の怨みをかった。*9
1306年には、Ah_madiyaかRifa'iyaのスーフィとイブン・タイミーヤの間に公開討論が行われた。スーフィ側は、鎖を首に巻くことを正当化しようとして論駁され、ザーヒルとバーティンの区別により言い抜けることに失敗した後、奇跡を行う能力に訴えざるを得なくなった。彼らのシャイフの一人、アブドッラーは、火にはいってみせるはめになったが、イブン・タイミーヤは、彼らが火を防ぐ特殊な薬品を体に塗っていると主張し、身体を湯と酢で洗った後、シャイフと共に火にはいろうと提言した。大騒ぎをするシャイフを前に、イブン・タイミーヤは、湯と酢で指で洗った後、それをロウソクの火に焼いてみようと言った。シャイフは真っ青になって和議を請い、観衆は彼を野次り、総監は彼らに以後コーランとスンナに従うよう命じた。*10
そのすぐ後、今度はNas_r al-Manbiji(d 719 AH)とIbn・Makhluf(d 718 AH)等が、イブン・タイミーヤの“al-'Aqida al-wasit_iya”の中のアッラーの属性に対する見解を、擬人神説であるとして非難する訴えを起こした。彼らはBaybars al-Jashiqir(d 709 AH、後のバイバルスU世)の側近であり、またイブン・アラビーの信奉者であって、アラビーの教説に対するイブン・タイミーヤの攻撃をこころよく思っていなかったのである。度重なる論争が行われたが、結局結論の出ないまま、イブン・タイミーヤはカイロに召換された。しかし、裁くカーディーが彼の敵の当事者であるという理由で、彼は裁判を拒否し、カイロ城に監禁された。
彼はこの獄中で一年半を過ごしたが、この間、エジプトの反イブン・タイミーヤのウラマーたちにより追求論議を受けた。しかし、その都度エジプト側のウラマーは、イブン・タイミーヤ或いは彼の弟に打ち負かされた。*11
1307年、イブン・タイミーヤは、彼の支持者であるベドウィンの首長Hu_sam al-Din Muh_ammd Ionn・'Isaのスルタンへの取りなしにより釈放された。
釈放されるや否や、彼は再びイッティハーディーヤを攻撃し始めた。教団側はスルタンに直訴し、彼をシリアに追放するように要求した。イブン・タイミーヤは、カイロを去るか再入獄かの選択を迫られ、一旦は入獄を選んだものの、友人らの忠告を入れてダマスカスへの帰路についた。しかしその途上、再びカイロに呼び戻され、投獄された。*12
カイロの牢での監禁はゆるいものであり、彼の獄はむしろ知識人の集まるアカデミーの相貌を呈した。*13
スルタン・ムハンマドが退位し、前述のバイバルスU世が即位すると、イブン・タイミーヤへの風当たりが強くなり、彼はアレキサンドリアに追放された。しかし、この地でもイブン・タイミーヤの人気は増大し、少なからぬ信奉者を獲得することとなった。
翌年、ナースィル・ムハンマドが復位すると、イブン・タイミーヤは釈放され、スルタンに敬意をもって遇された。スルタンはこの際、今までの敵対者たちに報復すべきであると促したが、彼はこれを堅く断わり、彼ら全てを赫した。
イブン・タイミーヤは引き続きカイロに滞在し、この時期スルタンの政治顧問のような働きをした。スルタン・ナースィル・ムハンマドは、キリスト教徒・ユダヤ教徒に対し、ウマルU世(d 720)とアル・ムタワッキル(d 861)の時代に行われた後すたれていた制限を復活させたが、これはイブン・タイミーヤの提言によると言われる。彼は、トリポリの代官の人選をしたり、賄賂による任官を摘発したり、行政をできるだけシャリーアに基づいて行うように尽力した。彼の「スィヤーサ・シャルイーヤ」もこの時期に書かれたとされる。*14
しかし、この時期も決してイブン・タイミーヤにとって平穏無事に過ぎたわけではない。1311年、ミスル(フスタート)のハーキム・モスクの人間が、イブン・タイミーヤが一人でいるのを見つけ、彼を殴った。イブン・タイミーヤを支持する民衆は復讐を申し出たが、彼はこの提案を拒否し、逆にハーキム・モスクでアスルの礼拝を行い、マグリブの礼拝まで彼らと話し合った。この結果、彼の敵の追従者たちは二つに分かれ、一方は公然と自らの誤りを認めてイブン・タイミーヤの支持にまわった。
また数日後、彼の敵の一人であるシャーフィー派の法学者Nur al-Din al-Bakri(d 714 AH)が、人気のない地でイブン・タイミーヤを捕まえ、力ずくで法廷に連れ込もうとした。彼は群衆が集まり始めると逃走したが、兵士や民衆は彼に報復しようとした。しかし、イブン・タイミーヤはこれを許さなかった。*15
1313年、久しぶりのモンゴルのシリア来襲の報に、イブン・タイミーヤはスルタンと共に出陣した。しかしスルタンの大掛かりな出陣に、モンゴル軍が退却してしまったため、イブン・タイミーヤは7年ぶりにダマスカスに戻ることになった。ダマスカスに戻ったイブン・タイミーヤは、スッカリーヤ学院とハンバリーヤ学院で教職につき、また多くの著作を発表した。この時期、彼の著作の重点は神学からシャリーアに移っており、彼は時に、ハンバリー派を含む四法学派の支配的な意見や、四大イマームの意見に反する、独自の見解を公表するようになっていた。
この時期、彼はIbn・Qayyim al-Jawaziya(d 751 AH)やShihab al-Din Ibn・Murri(d ? )らの弟子を得る一方、Taki'al-Din al-'Ahna' i(d 750 AH)やJamal al-Din Ibn・Jumla(d 738 AH )などの新たな論敵も作り、'Ala' al-Din al-Qunawi(d 729 AH)等の古くからの敵も残っていた。
そして新シリア総督のSayf al-Din Tankiz(d 741 AH)は、アフラムと異なり、イブン・タイミーヤに対し冷淡であった。*16
1318年、ヌサイリー派の反乱に際し、イブン・タイミーヤは、弟子のシハーブッディーン・イブン・ムッリーの要請に応じて、ヌサイリー派についての論文を書いた。
1318年、ハンバリー派のカーディー・ル・クダー・シャムスッディーン・イブン・ムスリム(d 726 AH)は、イブン・タイミーヤに、離婚に関してハンバリー派の意見と違うファトワーの発布を差し控えるように命じた。*17イブン・タイミーヤは一旦これに同意し、間もなくスルタンからファトワー禁止の命令が届いた。しかし、イブン・タイミーヤはこの命令を無視し、「知識を隠すことは出来ない」と、再び離婚問題についてのファトワーを発した。この間の心変わりの理由はわからないが、ともかく、彼は以後再三のスルタンからの禁止令を無視して、ファトワーを与え続けたために、1320年、投獄され、スルタンの命令により釈放されるまで約6ヶ月監禁された。
1326年、イブン・タイミーヤの敵たちは、17年前彼が発した、聖者の廟を崇拝することを禁じたファトワーを取りあげ、彼を非難した。人々は彼の考えを歪曲して非難し、シリアとエジプトは騒然となった。スルタンは彼の再拘留を決定し、そのため彼はダマスカス城に監禁されることになった。彼の弟子や信奉者たちは、ロバに乗せられて市中を引き廻された後、イブン・カイーム・ル・ジャワズィーヤを除いて釈放された。*18
イブン・タイミーヤはこの監禁をむしろ喜び、牢獄の中で祈りと学問に身を捧げた。しかし、彼の敵は彼から書物と紙とインクを取りあげた。これは彼にとって最大の苦痛であった。彼の最後の著作物は、紙の切れ端に炭で書かれていた、といわれる。1328年、ダマスカス城内の牢獄で、イブン・タイミーヤは、彼の敵全てを赫して、その生涯を閉じた。
イブン・タイミーヤの葬儀には、十万の市民と一万五千の女性が参列した。それは、アフマド・イブン・ハンバルの葬儀に次ぐ数であった。*19
彼はスーフィー墓地に埋葬された。
彼の墓は民衆の崇拝の対象となった。*20
第U部
第U部の資料は、主としてアラビア語原典(と言っても刊本に過ぎないが)で通読した。それは以下の書である。
al-Siyasa al-shar'iya*1
al-Hi_sba fi al-islam*2
“al-Ma'arij al-wus_ul”*3
“al-Ih_tijaj bi al-qadar”*4
英訳でのみ読んだ次の書は使用しなかった。
“al-'Aqida al-wast_iya”
Kitab iqtida' al-s_irat al-mustaqim mukhalafa ash_ab al-jahim
また、イブン・タイミーヤの政治思想を語る上では重要な Minhaj al-sunna は、通読したが不可能と思われたために読むことを断念し、方法論的一貫性を保つため、それについての欧米文献の研究書の記述は、本論文では注の中で記すことにとどめて、本文中の論拠としては一切用いなかった。
なお、冒頭にあげた二著が、イブン・タイミーヤの政治思想を語る上で、不可欠な文献であることには、恐らく異論は出ないであろうが、“al-Ma'arij al-wus_ul” 及び“al-Ih_tijaj bi al-qadar” が選ばれたのは、偶然、私が読んだ論文の中で使えそうだったから、という以上の理由はない。この選択の当否は、本論文の結果に於いて判断されるしかない。
序章で既に述べてきたように、思想研究の対象は人でなく、自らにテキストの意味するものである。
しかし、テキストが一貫性をもつ「ひとつの」テキストとして読まれるために、そしてその一貫性を主張するために、ある程度統合されたパーソナリティー・システムを仮定することは、許されるばかりか、必要とすら言えよう。
純粋に理論的要請でしかないこのパーソナリティーを、歴史的なテキストの作者への接近のための道具と考えることは、厳に慎まねばならない。現実の人間のパーソナリティーの統合は、行動パターンの恒常性の意味ではともかく、思想・観念レベルの一貫性には殆んど影響を与えない(これは私の信念である)。
観念・思想に於いて、不協和な要素は、*5通常単に共存している、或いは、自我の防衛機構の働きで不自然に共在しているのであり、*6理論構造の中で全てが機能的統一を持っているなどということは、極くまれなケースを除いてあり得ない(対象自体、否、それを記述する言語が、公理‐演繹システムを成している領域は、現在の関心の外にある)。
しかし、一見バラバラな要素、互いに不協和な要素をそのまま記述するのでは、そもそも研究自体の存在意識が疑われよう(不協和な要素の存在を、外的要因との関連に於いて説明することも、思想研究に個有の領域ではない)。
従って、一見不協和な要素が、実は、全体にとって機能的に、高次の統一を保っているのだと言い得ることは、思想研究者にとって不可欠の要請と言えよう。しかし、それらはやはり統一を保っていないのだと言い切ることは不可能であり、いかなる思想も、解釈によって、無矛盾・完全な思想とされる可能性を有する。
以上から、思想研究と神学の方法論的近似は明らかである。思想研究者も神学者と同じく、まず全体を無矛盾の体系とみなし、見かけの不協和と格闘しなければならない。但し、神学者が必ず正典の無矛盾を証明、或いは証明したと宣言しなければならない。(さもなくば沈黙)のに対し、思想研究者はいつでもそれをやめることが許される。
しかし思想研究者は、神学者から自らを区別しようと考えるなら、不協和な要素の高次の統合を口にする場合、その機能的関連を、弁証法的統一云々などという空虚な飾り文句でなく、明晰に記述する挙証責任を負う。
以上から、理論的要請としてのパーソナリティーは歴史的著作と一致しないし、また一致させようとする必要もない、ということは明らかであろう。
理論的要請としてのパーソナリティーの統合の程度は、端的に恣意的であってよい。
という訳で、当然とは言え、異なる時期に書かれた四つの著作を、その背後にひとつのパーソナリティーを仮定することにより、ひとつのテキストとみなすことが正当化された(伝記の全てを読むことが不可能な現時点では、通時的パーソナリティーの変化を研究に組み込むことは不可能である)。
以後、イブン・タイミーヤを主語にして語るが、これは勿論、理論的に要請された、すなわち私の構成した「イブン・タイミーヤ」であることは言うまでもない(ので以後断らない)。
al-Siyasa al-shar'iyaに於いて、siyasaの語は九回現れる(他に動詞の形で二回、語根swsから派生した騎手の意で一回現れる)。このうち、siyasaが規範的意味を持たず、統治の意味で用いられる例は二例ある。そのうち一例は、彼の反対する立場に語らせている否定的な用法であり、更に一例は「非政治的」な用法、「------ 彼自身と、彼の家族と、彼の被支配者を養っていくために ------」である。残りの七例は、巻頭の「この短い論には、その中に神的政治(al-siyasa al-ilahiya)と預言者的代理(al-inaba al-nuwubiya)の統合がある」*1に典型的に見られるように、規範的な提言の形をとっている。
また、イブン・タイミーヤは支配者に対し、伝統的なイマーム・カリフの語を用いず、wali al-amr (人の事柄の世話人)を使用している。またal-Siyasa al-shar'iyaの中で、我々の考える狭義の「政治」が扱われるのは、主として巻頭と巻末のわずかな部分である、我々の考える公法・私法の問題が大半を占めている。
以上から早急に結論することは勿論できないが、イブン・タイミーヤの関心が、狭義の「政治」(我々が通常、政治という言葉を使うもの)の現実の分析にあるのではなく、「政治」のイスラーム的な理想的なあり方にすらなく、イスラームの現世における現実そのものにある、と考えることが可能であると思われる。とすれば、イブン・タイミーヤにとって、政治は当然個人的なイバーダートの延長上に位置していることになるであろう。となれば我々は、イブン・タイミーヤの狭義の政治理論を扱う前に、少しわき道にそれ(実は、当然これは「わき道」などではないのだが)、彼にとってイスラームとは何なのか、を考察する必要があろう。
W.C.スミスはイスラームに、@個人的なアッラーとの関係、Aムスリムの集合体の宗教的組織の理想、B歴史的現実・文化、の三つの意味を区別した。*1そしてイブン・タイミーヤは、勿論@Aの意味でイスラームの語を用いている。そしてその場合、dinの語もほぼ同様の使われ方をしており、@の意味ではiman、taqwaが使われる。それ故、この章では、主としてこれらの語の使われ方をふまえてイブン・タイミーヤにとってのイスラーム(スミスの言う@Aの意味、すなわち、個人或いはウンマにとっての理想としてのイスラーム)の姿を考えることにしよう。
イブン・タイミーヤにとって、アッラーの意志は*2コーランとスンナによって知られ、コーランとスンナによってのみ知られる。*3そして、それは命令と禁止として人間に知られる。すなわち、人間に客体として現れるアッラーの意志は規範体系である、ということである。
そして、その規範体系を実現していく行為がイスラームなのである。
規範体系を前にして、人間に何が要請されるのか。すなわち規範体系を実現するための条件は何か。イブン・タイミーヤによると、それは知識・善き意志・実行である。*4
すなわち、規範を実現するためには、まず認識行為が必要である。それは二重の意味に於いてそうである。まず第一に、何が規範であるのかが知られなければならない。コーランとスンナを規範体系の形に整理する作業がフィクフであり、その結果として得られた規範体系がシャリーアである。*5この意味での知識が、規範実現のための基本的な前提条件を成すことは言うまでもない。
イブン・タイミーヤは、更にもうひとつの知識を区別する。現実に人間の直面する状況は、無限に複雑な複合体であり、それは決して単一の規範の構成要件に還元し得ない(私の言語観からすれば当然ではあるが、規範もそれが言語として表されている限り、そもそも単一の意味など持たない。従って、仮に単一の規範により解釈されるにしても、そこにはひとつの決断が要求されるのであるが)。人は常に、複雑な現実を正しく認識し或いは構成し、時に相矛盾する諸規範の要請の間で、正しい価値考量をしなければならない。タイミーヤは、第一の意味の知識とともに、第二の意味の知の重要性も、十分に認めているのである。*6
第二に必要なのが善き意志である。形だけの規範の実行は、それに意志が伴わなければ偽善者に過ぎない。ここでの意志とは、その行為をアッラーのために行うことであり、アッラーの顔だけを望んで行うことであり、アッラーの愛することを愛し、アッラーの憎むことを憎みつつ行うことである。*7
第三は実行である。これは当然とは言え、基本的に重要である。規範は実行されて初めて実現するものであり、イブン・タイミーヤは、規範の実行を妨げるいかなる口実にも、断固として反対するのである。
アッラーのシャリーアの前に全ての人間は平等であり、*8そしてこれが、イブン・タイミーヤの政治思想の基底である。
規範内容の詳細は次章以下にまわし、甚だ簡単であるが、この章はこれで終わろう。
ローゼンタールは『中世イスラムの政治思想』の中で、「中世イスラムの政治思想は------- まず最初にカリフ職という一点に集中するが、事実、それはカリフ職ならびにその起源と目的に関する理論である」と述べている。*1しかし、第2章で述べたように、イブン・タイミーヤの政治理論はカリフ制の理論ではなく、また政治に関する理論でもない。すなわち、彼にとって、政治は社会の特定階層の荷う閉鎖的部分システムではなく、イスラーム実現のためにウンマ全体が参加する行為の束である、という意味である。
勿論、イブン・タイミーヤも、支配者・被支配者の区別を認める。ただその区別は相対的・連続的である。プラトン・アリストテレス的*2というより現代西欧文化圏を除き高度文明圏ほとんどで普遍的に見られる、支配するエリート・支配される大衆という実体論的二分法を、彼は採用しないのである(勿論彼にも時代的制約は免れ難いのであり、理論的に明文で排除されているわけではないが、彼が念頭に置いているのは、せいぜい都市プロレタリアートまでであり、農民・遊牧民は含まれていないように思われる)。
万人は力に応じて義務を負う。力とは、権力(sultan)と権威(wilaya)であり、権力の持ち主は他の者より力がある。そして、彼は他人にない義務を負う。なぜなら、義務のかかる対象は力だからである。*3
力に応じて義務が生じ、大きな権力にはそれに応じた義務がかかる、というのはイブン・タイミーヤの政治理論・倫理思想の中核である。「可能なことでアッラーを畏れよ」(騙し合い章16節)、「アッラーは誰にも彼の能力以上の義務を負わせることはない」(雌牛章286節)といったコーランの章句、「もし私が汝らの命令を下したなら、その命令で可能なことを行え」といったハディースが度々引用される。これらの言葉は、義務の怠慢への言い訳としても用い得るが、彼の場合、権力者への義務意識の喚起の目的と、逆に、国家が聖者の共同体或いは警察国家の方向に過度に傾かないための安全弁として、機能しているのである。
この権力の大きさに義務の大きさが対応するというイブン・タイミーヤの権力観が、現実に存在する権力に義務を配分する根拠になる(現実に存在する権力の正当性の問題は後述)。現実の支配者は、その権力の正当性の有無に関わらず、政治的責任を負うことになる。
この万人が力に応じて義務を負い、支配‐被支配の連続体的階層構造を成す、という考え方は、タイミーヤの次の二つのハディースの引用に表れている。
それは、支配者とは人々に対して、牧者の羊の群れに対する関係に立つ からである。預言者 ―アッラーよ彼に祝福と平安を与え給え― が次のように語ったように。「汝らは皆牧者である。そして、汝らは皆、汝らの羊たちに責任を負う。なぜならイマームとは、人々の牧者であり、彼は彼の羊たちに責任を負うからである。そして妻は、彼女の天の家の中で牧考であり、彼女はその羊たちに責任を負うのである。また子供は、彼の父の富の牧者であり、その羊の群れ(父の富の意であろう:筆者注)に責任を負う。そして奴隷は、その主人の富に対し牧者であり、彼は羊の群れに責任を負う。汝らは皆牧者であり、汝らは皆その羊の群れに責任があるのではないか」*4
それについて預言者 ―アッラーよ彼に祝福と平安を与え給え― は言った。
「裁判官は三人いる。そのうち二人は業火に落ち、一人は天国に入る。真実を知り、それに背いて裁く者、彼は業火に落ちる。人々の間を無知により裁く者、彼もまた業火に落ちる。真実を知り、それによって裁く者、彼は天国にはいる」スンナの人々がこれを伝えた。そして裁判官とは、二人の間を裁き、判決する者全ての名である。彼がカリフであれ、スルタンであれ、総督であれ地方長官であれ、或いはシャルウによって裁く者であれ、またその代理であれ、子供たちの習字の腕に優劣を決めたなら、その男でも同じなのである。*5
前章で見た通り、イブン・タイミーヤにとって、権力はその程度に応じた義務を負う連続体であり、政権(wali al-'arm)もそのひとつに過ぎない。
しかし現実には、国家権力は社会から分化したシステムを構成し、他の段階と異なる特質を持つ(当たり前といえば当たり前である。どの段階もそれぞれ独自な特質を持つということは、トートロジカリーに正しい)。
この特殊な権力、国家権力の理論、すなわち狭義の政治理論も、当然とは言え、イブン・タイミーヤは持っており、この章ではその目的・根拠を扱う事になる。
イブン・タイミーヤは、「権力」の根拠について、二つの理由をあげる。アクル(万里性)による論証と、シャルウ(聖教)による論証である。おおまかに言って前者は、権力の存在の理由・原因についての因果的叙述、後者は、権力の正当性の根拠についての規範的立言と言ってよかろう。*1
前者について、イブンタイミーヤはこう述べている。
政治権力(人の事柄の世話人)は、宗教の必要とするものの中で最大のものであり、それなしには宗教が実現され得ないことを知らねばならない。なぜなら人間は、互いに対する必要のために、連帯(ijtima')がなければ、彼らの公共の利益は完成しないからである。そして彼らには、その連帯に於いて、首長が必要なのである」(以後、預言者 ―彼に祝福と平安を与え給え ―ハディースが続くが、文脈から考えて、この部分は独立して取り出せる:著者注)*2
------- それは他人に対して優越を求めることは不正だからである。なぜなら、人間は単一の種であるからだ。それ故、自分が最も高い地位につき、自分に等しい者を下におこうとする意志は、不正なのである。そして、それが不正であるため、人はそのような者を憎み、彼と敵対する。 なぜなら、不正な者が征服者になろうと望む時、彼らより公正な者が、自分の同等者に征服されねばならない謂は無いからである。そして、それにも関わらず、人には ―理性によっても、宗教によっても― 或る者が或る者の上にいる事が必要である。既に我々が述べたように、身体が頭無しではよくないのと同様なのだ。*3
すべての人の利益は、この世に於いてもあの世に於いても、連帯と相 互扶助なしには完成しない。そして助け合いというのは、人々の利益を得るための相互扶助と、人々の害を避けるための相互扶助である。かかる理由から「人間は本質上都市的な存在である」と言われているのである。人が集まれば、利益を得るために行わねばならぬ事柄や、中にある有害なもののために避けなければならぬ事柄が生じる。そして彼らは、目的を命じる者と害を禁じる者に、従うものとなるのである。*4
そしてもし、命令−禁止者への服従が不可欠なら、アッラーとその使徒に服従することが最もよいことが知られる。そして彼こそ、善を命じ悪を禁じ、良いものを合法とし、忌むべきものを禁忌となした、トーラーと福音書に書かれた文盲の預言者なのである。*5
以上、アクルによる論証は、人間の連帯・相互扶助を生物学的生存の必要条件とみなし、更に、人間の連帯に於いて、権勢欲から生じる争いを抑制するために、絶対権力の成立とそれへの服従が必然とされるのである。ここでは権威への服従は、選択拒絶の対象ではなく所与の事実とされ、誰に服従すべきかが問題とされ、アッラーとその使徒への服従が最善であると論じられるのである。
後者のシャルウによる論証は、二種に分けられる。ひとつは指導者選出の義務であり、もうひとつは支配者への服従の義務である。
------ 預言者 ―アッラーよ彼に祝福と平安を与え給え― は言った。 「もし三人の人間が旅に出たなら、その一人を指導者に選べ」アブー・サイードとアブー・フライラの伝承から、アブー・ダーウードがこれを伝えている。
イマーム・アフマドはムスナドの中で、アブドッ・ラー・ブン・アムルにより、預言者 ―アッラーよ彼に祝福と平安を与え給え― がこう言ったと伝えている。「砂漠にいる三人の人間は、彼らの中から一人を指導者に任命しなければ合法的とは言えない」預言者 ―アッラーよ彼に祝福と平安を与え給え― は、旅に出ている少人数の集団に於いて、その一人を指導者に選ぶことを義務づけた。これによって、それがどんな種類の集団にも義務であることを示しているのである。*6
それについて、預言者 ―アッラーよ彼に祝福と平安を与え給え― は、彼のウンマに指導者(複数:著者注)の任命を命じた。------(以下、前述のアブー・ダーウード、イマーム・アフマドのハディースが引用され:著者注) ------ そして、もし最少の集団、最少の社会に、彼らのひとりを指導者に任命することを義務づけたなら、それは、より大きな集団に於いても、それが義務であることを示しているのである。*7
周知のように、イブン・タイミーヤはスンニ派の伝統的イマーム選挙の擬制を排している。タイミーヤのウィラーヤ、ワーリー・ル・アムルの用語法から考えて、指導者の選出は明文による宗教的義務である。ウンマに命じたのが指導者(単数)でなく、指導者たちであるのが、少し気になるが、これも、タイミーヤの階層的連続体権力観を考えれば、頂点に一人の指導者を持つ諸指導者と考えれば説明はつく。この場合、中間的権力は上からの任命によるのか、下からの選挙によるのかという点に於いて、スルタンの地位に関し、理論上の問題がなお生じるが、その点はイブン・タイミーヤ自身、ここではそこまで考えていなかったと考えてよいと私には思われる。
支配者の現実の任命の問題は、後に論ずることにし、次に支配者への服従の問題である。*8
アッラーはコーランの中で、彼への服従、彼の使徒への服従、信者のうちで権能を持つ者への服従を命じた。至高者がこう語ったように。「信ずる者たちよ、アッラーに従い、使徒に従い、汝らのうちで権能を持つ者に従え。そして、もしも汝らが何かで争ったなら、それをアッラーとその使徒の所へ持って行け。もし汝らが、アッラーと終末の日を信ずるなら、それが最善で最良の解釈である」 (女人の章59節)
権能を持つ人とは、権能の主人、権能の所有者である。そして彼は人々を指導する者であり、その権能に於いて、手と力の人(物理的実力を持つ人:著者注)と知と言葉の人(知識人:著者注)が協力する。それ故、権力者とはウラマーとウマラーの二種類である。*9
イブン・タイミーヤは国家権力の正当性を擬制の選挙に求めず、シャリーア遂行の能力と意志に求めた*10、と言われる。そして、それは彼の現実主義からも解釈されることが可能であるが、むしろ、彼の連続体的権力‐義務観の上に定位する方がより生産的であろう。
すなわち、現実の国家権力は、それが国家権力であるという事実自体により、自動的にシャリーア遂行の義務を負うと同時に正当性を付与されるのである。
この原理は、理論的に、大小を問わず全ての権力に当てはまる。従って、それは必然的に現実の秩序の肯定となる(勿論イブン・タイミーヤにとって、力が単純に現実の権力・地位と同一視されないことは言うまでもない。彼は力に、基本的には三種類を区別しているように思われる《他にもヴァリアントがあり得ることは言うまでもない。力の概念が多義的なのは、我々にとってそうであるのと同様である》。すなわち、@権力、文化の付与する力、A知、知識の与える目的実現能力、B信仰の力、である。*11しかし、それにも関わらず、力が最も明白に顕われるのは、その物象化された形態である現存する政治的権力であり、特にそれが社会・政治的文脈で使われる場合、両者が容易に同一視され得る、少くともそう読まれ得ることは否定し難いと言えよう)。
イブン・タイミーヤは現存の秩序を肯定する。
至高者は言った。「彼は汝らを地上に於ける後継者とし、或る者を或る者より高い地位にあげた。それは汝らに与えた物に於いて汝らを試みるためである」(家畜章165節)また、至高者は言った。「我らは、彼らの間でこの世の生活に於いて必要なものを分配し、或る者の地位を他より上げた。或る者が他から労働を得るためである。」*12(装章章92節)
社会秩序に於ける共時的な差異の構造は、そのまま肯定される。この意味で、彼は革命家ではないことは言うまでもなく、改革者とすら呼び難い。彼は既存の秩序の構造を変改する何のプログラムも持たない。国家制度の一要素すら廃止しようとはせず、また創説しようともしない。そして、ウンマの秩序を破壊しようとする動きには断固として反対する。彼はその意味では徹頭徹尾保守的である。
イブン・タイミーヤの目は常に与えられた「今」だけを見ており、彼にとって問題となるのはその瞬間に於ける一つの決断、行為だけなのである。しかし、我々は今やこの章の主題を遠く離れてしまった。
この書簡の主題。この書簡は、アッラーの書の中の指導者の節に根拠 を置いている。それは次の至高者の言葉である。「アッラーは汝らに、信託物をその持ち主に返すこと、そして人々の間を裁く時は公正に裁くことを命じた。アッラーはまことにそれを汝らに警告した。アッラーは、全てを聞き、全てをみそなわす御方。信ずる者たちよ、アッラーに従い、使徒に従い、汝らのうちで権能を持つ者に従え。そして、もしも汝らが何かで争ったなら、それをアッラーとその使徒の所へ持って行け。もし汝らが、アッラーと終末の日を信ずるなら、それが最善で最良の解釈である」(女人の章58-59節)学者たちは言う。最初の節は、指導者について啓示された。彼らには、信託物をその特主に返し、もし人々の間を裁くなら公正に裁くことが義務である。二番目は、軍隊その他被支配者 について啓示され、彼らには、彼らのため分配や裁定や戦闘その他を行う権能を持つ者に、彼らがアッラーへの反抗を命じない限り、従う事が義務である。もし彼らがアッラーへの反抗を命じたなら、創造者に背き被創造物に従ってはならない。そしてもし彼らが何かで争ったなら、それをアッラーの書と使徒 ―アッラーよ彼に祝福と平安を与え給え― に持ち込む。そしてもし、支配者がそれを行わなくとも、彼らは、彼らの命じることがアッラーに従うことであるなら、それに従わなければならない。なぜなら、それはアッラーとその使徒に従うことだからである。アッラーと使徒が命じたように。「敬神と神を畏れることに於いて助け合え。罪と敵対に於いて助け合ってはならない。」(食卓章2節)
そしてもし、あの節が、信託物をその所有者に返却することと、公正な裁判を義務づけているのなら、この二つは、公正な政治と正しい政府を含んでいる。*1
この部門は、支配者と被支配者の両方を含む。そして両者共、他者に返すべきものを返さねばならない。権力者と、アター(ata')についての彼の代理は、全ての権力者に、彼の権利のあるものを与えねばならない。また、徴税吏は書記と同様、権力者に、彼に与えるべきものを与えねばならない。同様に、支配者にも、彼の権利を返すことが義務であり、被支配者は、自分に権利のないものを支配者に求めてはならない。*2
それ故、預言者 ―アッラーよ彼に祝福と平安を与え給え― は、ウンマに、自分たちの上に指導者を選ぶことを命じ、指導者に、信託物をその所有者に返し、人々の間を裁く時には公正をもって裁くことを命じ、人々には、至高のアッラーへの服従の中で、指導者に従うことを命じたのである。*3
引用した前二者は、直接にはスルタンと彼の臣下、すなわち支配階級内部の事柄を扱っているが、理論的にはウンマの全成員に適用可能であり、また最後の例は、ウンマ全体が対象であろう。とすれば、イブン・タイミーヤは、支配者の義務は、正当な権利者にその権利を正しく分配し、公正に裁くことであり、人民の義務は、アッラーへの服従と矛盾しない限り、支配者に従うことである、と言っていると考えてよかろう。
詳細は省くが、al-Siyasa al-shar'iyaとal-H_isba fi al-islamの中で述べられている支配者の義務である、正当な権利をその持ち主に、という内容は、財政支出の配分の問題に過ぎない。そして公正な裁きを、という場合には、既存の経済秩序(勿論、あるべき経済秩序という意味である。但し、この場合の「あるべき」とは「理想」という意味ではなく、ソシュールの言う共時的体系の意味である。すなわち、社会の成員が暗黙に前提とし、或いは信頼して生きている秩序という意味である*4)が前提されている。
そして財政の問題は、主として国家権力内部の問題であり、社会にとっては周縁の問題に過ぎないこと、並びに人民の服従義務を考えれば、ここでもイブン・タイミーヤの保守的性格は明らかであろう。但し、ここで言う保守的性格とは、既存の政治・経済秩序の体系を守る、という意味であり、現実の情況の肯定とは区別されねばならないことは言うまでもないが。
権力にとって義務である目的は、それが失われれば明白な損失を蒙り、現世で享受したものが彼らを楽しませない、人間の宗教の改善と、それなしでは宗教が樹立されない、現世の事柄の改善である。そして、これには二種類ある。権利者への富の配分と、反抗者の処罰である。そし反抗しない者には、彼の宗教も現世も改善されるのである。*1
イスラームの権威全てにとって、その目的は、善の命令と悪の禁止だけなのである。*2
もし権利と富の目的が、アッラーに近づくことと、それをアッラーの道に使うことであるなら、それは宗教と現世にとってよいことである。*3
国家権力の目的は、第一義は、他の全ての人間行為と同様に、神への奉仕である。それを人間の側から通時的に表現すると、現世と宗教の改善となり、共時的に表現すると、善の命令・悪の禁止となるのである。
通事的な展望には、必然的に人間・社会への理解が求められる。そこで、ここではイブン・タイミーヤの社会‐人間観を見てみよう。
しかし、人はそこでは三種類に分かれる。第一の人々には、この世での権勢と、堕落への愛がまさっており、彼らは来世に於ける罪のことを見ない。権力は金(アター)なしでは成り立たないが、合法的でない金を取らなければ、彼らはその金を与えないのである。こうして彼らは、泥棒であると同時に寛大な者になるのである。彼らは言う。「自ら食べ、人にも食べさせる者以外を、人民の支配者とする事は出来ない。もし、自ら食べず、人にも食べさせない高潔な人間が支配者になったなら、有力者たちは彼に悩まされ、たとえ彼の身体か富に害を加えないまでも、彼を追放するだろう」そして彼らは現世の目先のことだけを見、現世・来世での将来のことを無視する。もし、後悔その他、彼らの罰を和げることが起きなければ、彼らの罰は、現世と来世での滅びの罰である。
他の人々には、至高のアッラーへの畏れがある。宗教が彼らに、彼らが忌むべきことと考える人の不正、禁じられたことを、行うことを禁じる。そしてこれはよいことであり、義務である。それなのに、彼らは、政治はそれら禁じられたことをせずには完成しない、と考え、政治を全く遠ざけてしまう。多分彼らの心の中には、臆病か、利己心か、彼らの持つ宗教と関連のある性質の狭量さがあるのだろう。時に彼らは義務を怠ることになり、義務を怠ることは、人々にとって、或る種の禁じられたことより害が大きい。また、義務を禁ずることもある。それを禁ずることは、アッラーの道への障害となる。彼らは考えてのことなのであろうが、恐らく、それを禁ずることが義務だ、なぜならそれは戦争なしには済まないから、そしてムスリムと戦うことはハーリジー派のしたことと同じだ、と考えたのであろう。彼らには現世も改善されず、また宗教も完成しない。尤も、彼らには多分、宗教の多くの事柄、現世のいくつかの事柄がよくなることはあろう。そして彼らは、彼らがイジュティハードし、誤ったことをした点に於いては、恐らく許され、彼らの欠点も大目に見てもらえるだろう。しかし彼らは時に、現世の生活での、道を誤った努力に於いて、最も有害なものとなることもあるのだ。そして彼らは、自分たちはよい業を行ったと考える。そしてこれが、自分自身の ために取らず、他人にも与えず、力があり堕落した者を金や便益で懐柔しようと考えず、彼らの懐柔のために金を使うことを不正であり禁じられた出費だと考える者の道なのである。
三番目は、中庸の人々である。彼らはムハンマド ―アッラーよ彼に祝福と平安を与え給え― の宗教の人々であり、民衆に対しても上流の人に対しても、復活の日まで彼の後継者である。そしてそれは、金と用益を、人々のために ―たとえ彼が有力者であっても― 必要に応じ、状況の改善のため、宗教の実現と宗教にとって必要な現世のために、使うことに他ならない。そして自らは清廉であり、権利のないものを取らない。そして彼らは敬神と善行を統合するのである。「アッラーは、アッラーを畏れる者、善事を行う者と共にいる」(蜂蜜章128節)
宗教的政治はこれなくしては完成せず、宗教と政治は、この方法でなければ改善されない。*4
それ故、人は四種類に分かれる。勇敢かつ寛大にアッラーのために行動する者、彼らは天国にはいる権利を持つ信徒である。アッラー以外のために勇敢に行動する者、彼はそれによって現世での利益を得るが、来世では彼の分け前はない。アッラーのために行為をするが、勇敢でも寛大でもない者、彼には偽善があり、それに応じて信仰の減少がある。アッラーのために行動せず、勇気も寛大さもない者、彼には現世も来世もない。*5
------- 人はそれに於いて三種類に分かれる。第一は、内乱*6を終わらせるためと称し、命令と禁止と戦闘を行う。しかし彼らの行為は、ウンマの中に生じた内乱で戦う者のように、最も大きな内乱なのである。またある人々は、それによって宗教が全てアッラーのものとなり、アッラーの言葉が崇拝されるようになる命令と禁止と戦いを、内乱を起こさないためという口実で、尻込みする。しかし彼らは、実はすでに内乱に陥っているのである。その内乱とは「バラーア章」*7で述べられた内乱であり、それには美しい姿の誘惑がはいる。そしてそれが、その節の下された理由である。
そして彼は、命令と禁止と、それによって宗教が全て彼のものとなり、アッラーの言葉が崇拝されるようになるジハード等、彼らに義務であるものを、欲望の一種に幻惑されないためといって怠る。そしてこれは、宗教的な者の多くの状態である。しかし彼らは既に、彼らがそれから逃げたと称する内乱により大きな内乱に陥っているのである。彼らの義務とは、義務を行い、禁じられたことを避けることである。そして両者は不可分なのである。彼らはただ、両者を共に行うか、共に避けるかでしか、彼らの心が彼らに従わないために、それを怠るのである。それは、権勢や富や悪い欲望を受する者の多くと同じである。もし、命令や禁止やジハードや、司令官職その他義務であることを行うなら、禁じられことを幾分か行うことは避け難いのである。それ故、人の義務とは、二つの事柄の勝った方を考量する事である。そしてもし、命ぜられたことを行うことにより得られる利益が、禁じられたことを避けることにより守られる利益より大きければ、それを、腐敗したことが混ざるのではないかと恐れて避けてはならない。そして、もし禁じられたことを避けることの利益が大きければ、それより利の少ない義務を行うことによる報賞を期待してそれを見逃してはならない。そしてこれは、善と悪の二つの事柄が組み合わせている場合に当てはまる。*8
イブン・タイミ−ヤにとって、現世は二重に意味を持つ。第一に、宗教の完成には、衣食住等まず現世的、或いは肉体的欲求の満足が必要であり、そのために現世の秩序維持が義務となる。
それなしで義務が遂行されないことは、それもまた義務である。*9
第二に、アッラーの命じた規範が実現される場は、現世に他ならない。それ故、諸規範の葛藤の生じる複雑な現実を恐れ、社会生活から遠ざかろうとする態度は厳しく断罪されるのである。
それ故、宗教と現世の改善が、権力の目的となるのである。
そしてそれを共時的な場で把えると、万人の善の命令、悪の禁止となる。
しかし、善の命令、悪の禁止を実現するということは、規範侵犯の意志と力に抗し、その規範を遵守させることである。従ってそれは苦難を伴う任務であり、力を必要とする。
------ なぜなら、アッラーは善の命令と悪の禁止を義務づけたが、それは力と権威がなければ完成しないからである。*10
信徒には地上に罪がなくなるまで試練が続くのであり、その際、彼には他の者が必要としない忍耐が必要となるのである。
そしてこれがイマーマの(必要の)理由である。*11
善の命令と悪の禁止は集団的義務であり、権力は全て宗教的職務である。*12
すなわち国家権力は、その力を強制力として、善の命令、悪の禁止に費す義務を負うのである。
具体的には、それは礼拝を中心とするイバーダードの監督・強制と、アッラーの権利を守らせ、その違反者にハッド刑を課すことであり、人の権利をタウズィール刑の制裁により守らせることであるが、その詳細な記述は本論の目的ではない。
善の命令、悪の禁止には、その遂行に際し守るべき倫理がある。
そして三つのものが必要である。知識と、優しさと、忍耐である。命令と禁止の前に知識、それに際して優しさ、その後には忍耐である。*13
以上の引用から明白なように、支配者に要求されるのは徹頭徹尾宗教的・倫理的徳であり、特殊な統治術ではない。
イスラーム教徒として当然とは言え、イブン・タイミーヤにとり、シャリーアの実現と現世の完成には予定調和が存在するのである。
「主権者」などどこにもいない、そんなものは幻想に過ぎない、と言いたい気持ちはやまやまだが、これだけ大手を振ってまかり通っている言葉に死亡宣言を下すのも空しいことだろう。
「主権者」はマヤカシに過ぎないが、たしかにそれはマヤカシとして十分有意義に使用されている。というより、マヤカシであることが「主権者」の意味である。*1勿論、イブン・タイミーヤはそんなマヤカシを共有してはいなかったが(イブン・タイミーヤに限らず、近代西欧的民主主義がはびこる以前の世界では誰でもそうなのだが《勿論、言葉自体は民主主義以前にも存在しただろうが》)、彼の政治理論の中に、我々の「主権者」の影を探してみるのも一興であろう。
勿論、ムスリムにとって唯一の主権者はアッラーである。しかしこのレベルでは、あまりに我々の「主権者」概念とかけ離れすぎていよう。同様の理由で、シャリーアも排除されるべきであろう。(これはむしろ、「法の支配」の理念との関係で述べられるべきであろう)。
となると、残る候補は、支配者、ムスリム人民、ウンマとなる。
まず支配者であるが、イブン・タイミーヤの場合、これが極めて曖昧な使われ方をしている。彼は主として「ウィラーヤ」「ウラート・ル・アムル」「ワリー・ル・アムル」を使用するものであるが、それが人間を指すのか、職務を指すのか、複数なのか、単数なのか、国家君主なのかどうにでもとれる場合が殆んどで、それは確かに、彼の連続体的権力 ―義務観からして当然とは言え、読者にとっては頗る迷惑な話で、既にお気づきかと思うが、私の用語が曖昧かつ不統一なのも、責任の一端はイブン・タイミーヤ自身にあるのである。
とりあえず、まず狭義の支配者、すなわちスルタンと考えられる者を、彼がどう考えているか見てみよう。
アブー・ムスリム・アル・フーラーニーが、ムアーウィア・ブン・ア ブー・スフヤーンのところにやってきて言った。「汝に平安あれ、使用人」人々は言った。「『汝に平安あれ、閣下』と言え」彼は言った。「汝に平安あれ、使用人」人々は言った。「『閣下』と言え」彼は言った。「汝に平安あれ、使用人」人々は言った。「『閣下』と言え」ムアーウィヤが言った。「アブー・ムスリムを放っておけ。彼は、自分の言っていることがよくわかっているのだ」そして彼(アブー・ムスリム:著者注)は言った。「あなたは、この戦利品の持主が、その管理のために雇った使用人に過ぎない。------」
人間はアッラーの僕である。そして権威者たちは、その僕へのアッラーの代理である。しかし彼らは、僕の同輩中の一人としての代理人に過ぎないのである。*2
それ故、預言者 ―アッラーよ彼に祝福と平安を与え給え― は、彼のウンマに指導者を選ぶことを命じ、指導者に、信託物を持ち主に返し、人々の間を裁くときは公正に裁くことを命じ、人々には、至高のアッラーへの服従に於いて、指導者に従うことを命じた。-------(以下、指導者を選ぶことを義務づける既述のハディースの引用:著者注)-------
それ故権威とは、それを採用した者に対する、それによってアッラーに近づく義務であり、それに於いて能力に応じて義務を行うことが最も優れたこととなる義務である。*3
どちらの例でも、支配者がその権威の正当性を任命者の権威に負うていることは、明白であろう。そこで、その任命者が直接にアッラーであれば、その時は、支配者を主権者と同定することが許されよう。さて、それは可能だろうか。
まず第一の例では、ムアーウィヤとアブー・ムスリムの挿話では、明白にアッラーのように思われる(ガニーマの主は、アッラー或いはムハンマド ―アッラーよ彼に祝福と平安を与え給え― である)。
それに続く段落でも、彼の他の人間との平等性が強調されつつも、権威者がアッラーの代理であると明言されている。
従ってこの例からは、支配者はアッラーから直接任命された、と結論することが可能のように思える。
しかし、第二の例を見ると、預言者はウンマに指導者を選ぶように命じた、とある。
両者は矛盾するであろうか。
いや、矛盾など存在しない。
アッラーが権威を任命した究極の主体であることは当然の前提なのであり、従って、アッラーが直接権威を任命したということは、他に仲介者がないことを論証することによってのみ蓋然的に推論され得るのである。よって、ウンマが指導者を任命するという例がひとつでもあれば、当然アッラーによる直接任命説は崩れることになる。
次に、イブン・タイミーヤのしばしば引用するコーランの一節、「信ずる者たちよ、アッラーに従い、使徒に従い、汝らのうちで権能を持つ者に従え」はどうであろうか。
このコーランの章句に於いて、アッラーへの服従は、それ以上いかなる根拠もたどり得ない根本規範であり、使徒への服従も、それから授権された最上級の規範である。権能を持つ者への服従も、この二つの規範と並べられている以上、疑問の余地なく、権能を持つ者の権威を直接に根拠づけることができるとみなしてよかろう。
イブン・タイミーヤによると、権能を持つ者はウラマーとウマラーである。*4 正当性の点から見れば、ウラマーとウマラー両階層を主権者とみなすことは可能である。*5
但し、イブン・タイミーヤはこの方向で理論を発展させなかった(そもそも「主権者」という概念を持たなかったのだから当然と言えば当然だが)。ここには、ホメイニー師の『法学者による統治』への理論的可能性が開かれていたのであるが。
ムスリム人民はどうであろうか。
イブン・タイミーヤに人民主権の考え方は全くない、と断言出来る。
自然状態に於ける人間の自由から基本的人権を基礎づける、という社会契約論者の発想*6は、彼には無縁である。首長のいない無秩序は端的に悪であり、首長は社会契約により生まれるのではなく、自然発生的に生じるのである。
但し、基本的人権と言うべきものは確かに存在する。特に、生存権と私有財産権は強調されている。しかしそれは既述のように、あくまでイバーダートを行う義務の反射に過ぎず、従ってそれは参政権を授権する契機を欠く、と言わざるを得ないのである。
最後に残されたのはウンマである。
既に支配者についての議論の中で言及されたが、ウンマは指導者任命の母体としての任務を負う。
ウンマのような漠然とした概念が、「主権者」の名にふさわしいのか、との疑問は、「主権者」なる語の持つ本来のマヤカシ性を認識すれば氷解する。むしろ、この曖昧なウンマこそ、現代民主主義イデオロギーの、実質を欠く「主権者」=「国民」とピッタリ対応すると言ってよいのではないか。
ウンマは確かに、ウラマーとウマラー階層と並び、「主権者」と呼ばれる資格を持つ。
それでは、イブン・タイミーヤは、ウンマをどのように把えていたのであろうか。
ウンマのイジュマーについて言えば、それは真実である。ウンマは、アッラーの御恵みにより(al-h_amd li-llah)、誤りに於いて一致しない。コーランとスンナに於いてアッラーが描いたように。至高者は言った。「汝らは、人間に現れた最上のウンマである。汝らは、善を命じ、悪を禁じ、アッラーを信ずる」(イムラーン家章110節)そしてこれは、彼らが全ての良いことを命じ、全ての悪いことを禁ずる、と述べている。それは、彼らの預言者について、アッラーの言葉の中で述べられていることと同じである。「彼は、彼らが目の前で、トーラーと福音書の中に書かれているのを見出す者であり、彼らに善を命じ、悪を禁ずる」(高壁章157節)そして彼の言葉の中で、使徒たちもそう描かれている。「そして使徒らと女信徒らは互いに友であり、善を命じ、悪を禁ずる」(悔悟章71節)もしウンマが、宗教について誤ったことを言えば、それは、それに於いて善を命じておらず、それに於いて悪を禁じていないのである。そして至高者は言った。「同様に彼らは、汝らが人々に証人となり、また使徒が汝らの証人となるように、汝らを中庸のウンマとした」(雌牛の章143節)すなわち、中庸・公正・最善である。そしてアッラーは、既に彼らを人々への証人とし、彼らの証言を使徒の証言の代理としたのである。
そしてサヒーフの伝承で、預言者 ―アッラーよ彼に祝福と平安を与え給え― がこう言ったと確証されている。「彼の側を、葬列の人々が通った。その時人々はその葬列に良い言葉を述べた。そこでムハンマドは言った。『決まった、決まった』そして、また別の葬列が彼の側を通った。今度は、人々がそれに悪い言葉を投げかけた。するとムハンマドは言った。『決まった。、決まった』人々は尋ねた。『アッラーの使徒よ、あなたの言葉〈決まった〉とは、何のことでしょうか』ムハンマドは答えた。『あの葬列には、あなた方が良い言葉で称えた。そこで私は、それは天国に決まった、と言ったのだ。そしてあの葬列には、あなた方が悪い言葉を投げかけた。そこで私は、それは業火に決まった、と言ったのだ。あなた方は地上に於けるアッラーの証人である』」そしてもし、主が既に彼らを証人と定めたなら、彼らは虚偽を証言しない。それ故、もし彼らが、アッラーが何かを命じたと証言すれば、既にアッラーがそう命じているのであり、彼らが、アッラーが何かを禁じたと証言したなら、アッラーが既にそれを禁じている、ということなのである。そしてもし彼らが、虚偽か誤ちを証言したなら、彼らは、地上に於けるアッラーの証人とは呼べないのだ。しかしアッラーは、彼らの証言に於いて、彼らを正しく導くのである。彼が預言者たちを、彼がアッラーについて告知したことに於いて、正しく導いたように。まことに預言者は、アッラーについて真実しか証言しない。同様にウンマも、アッラーについて真実しか証言しないのである。
また至高者は言った。「悔悟して私の許へたち帰る者の道に、従え」(ルクマーン章15節)そしてウンマとは、悔悟してアッラーの許へたち帰る者である。それ故、その道に従うことが義務である。
また至高者は言った。「最初の先行者は、ムハージルーンとアンサール、そして彼らに善行をもって従った者。アッラーは彼らに満足し、彼らもアッラーに満足する」(悔悟章100節)そしてアッラーは先行者たちに、復活の日まで従う者に満足する。そして彼(ムハンマド:著者注)は、彼らに従う者が、アッラーが満足するようなことを行う者であることを示した。アッラーは真実以外に満足せず、虚偽に満足しない。*1
(イムラーン家章110節、悔悟章71節の引用の後:著者注)称えられる御方は、このウンマが人間のウンマの中で最上のウンマであることを明らかにした。それ故彼らは、人間にとって人々の中でも最も幸福な人々なのであり、人々にとって最も善をなす人々なのである。なぜなら、彼らは人々への善の命令と悪の禁止に於いて、その性質に於いても能力に於いても、最も完全だからである。なぜなら、彼らは全人に全ての善を命じ、全ての悪を禁じ、それをアッラーの道に於ける彼らの身体と富でのジハードで完成するからである。そしてこれこそ、人間への恵みの完成である。*2
この本の目的は、使徒が宗教の全てをコーランとスンナによって明らかにしたということ、及び、ウンマのイジュマーに限りイジュマーは真実であるということを、述べることにある。なぜなら、ウンマは誤りの上に一致しないからである。正しいキヤースも、コーランとスンナとイジュマーの根拠となった有名な一節に一致する限り、同様である。彼の言葉、「導きが明らかにされた後に使徒から離反し、そして使徒たちの道以外に従う者を、我らはなすがままにしておこう」(女人の章115節)
人の中にはこう言う者がいる。「そのコーランの節は、問題の論点からずれている。そこでの非難は、二つのことを両方行う者に向けられているのだ。そしてそれなら議論は生じない。或いは、使徒らの道以外に信じて従い、その道が使徒に従っていたなら、それにも争いはない。また使徒らの道がコーランとスンナを示しているなら、そこにも問題はない」こういったことが、それは論点からずれている、という者の説である。
また、他の者は言う。「そうではない。それは使徒への絶対的服従の義務を示している。そして彼らは、それによって、彼らの義務と考えたものを義務だと言っているだけだ」既に彼らの教説から知ったように、彼らはそれらの問題に明白な答えを提出していないのである。
三番目の中庸の説。「その節は、信徒らの道に従うことの義務と、彼らの道以外に従うことの禁止を示している」しかしそれは、導きが明らかにされた後の使徒への離反の禁止と重なる場合である。そしてそれは確かに、前述のように、その両方の非難を示している。しかし、アッラーへの服従と使徒への服従について述べる場合のように、両者を(無批判に:著者注)並べるのは望ましくない。そこでまず我々は言おう。その非難は、@使徒への離反だけに向けられているか、彼らの道以外に従うことだけに向けられている場合、A非難は、その一つに向けられているのでない。そうではなく、その非難は、両者が揃っている場合にしろ、一方が独立であっても、両者に向けられている、という場合、B両者が 不可分であるが故に両者共に向けられている場合、の三種類の可能性がある。しかし、最初の二つは間違いである。なぜなら、非難の対象が両者のうち一つだけなら、他方について語ることは無益な空論である。そして、非難が一方に向けられていないということは、全く馬鹿げている。なぜなら、使徒への離反はそれを行う者が誰であろうと、脅しが必ず当てはまっているのだから。それが他方から独立であるにも関わらず、両者共に非難が向けられているというようなことは、その節は言っていない。なぜなら、その中での脅しは、両者の統合に向けられているのだから。
最後の場合が残る。そしてそれは、二つの記述行為は共に脅しを不可避的に招く。なぜなら、両者は互いに不可分だからである。それは同様な事が、アッラーと使徒への反逆、コーランとイスラームへの反対について、言われるのと同じである。コーランに反対する者、或はコーランから逸脱する者、彼は業火に落ちる者である、と言われているように。*3
まず、上述の用例が、イジュマー論との関連に於いて語られているせいでもあるが、*4彼の語るウンマはまず、コーランとスンナが直接指しているウンマ、すなわちサハーバのウンマであるということである。
全ての善を命じ、全ての悪を禁じ、その実現に生命と富を捧げる、地上に於けるアッラーの代理としてのウンマ。
それはサハーバのウンマであり、使徒の属性・権威(勿論、預言者性は除いてだが)を相続する後継者の地位を与えられているのは明白に思われる。
------ 彼らの証言を使徒の証言の代りとした。
アッラーは彼らの証言に於いて、彼らを正しく導くのである。預言者たちを彼らがアッラーについて告知したことに於いて正しく導いたように。
(使徒への反抗とウンマへの反抗について:著者注)両者は不可分だからである。アッラーの使徒への反逆、コーランとイスラームへの反対について言われるのと同様に。
つまり、伝統的な預言者の後継者=カリフは、イブン・タイミーヤにとって、ウンマ全体なのである。これは確かに、スンニ派の、カリフの制挙母体としてのウンマ、という法理論の中に論理的に含意されているのではあるが、この一歩は重要であり、イブン・タイミーヤは、自らのウンマ論の、伝統的カリフ論に対する代替物としての性格を意識していたと思われる*5(それを明言しなかったのは、マムルーク朝の擁するカリフへの配慮と考えれば説明がつく)。
前章で、イブン・タイミーヤの理論の中に主権者を求めるなら、ウラマーとウマラー両階層、ウンマの二つの可能性があると述べた。
そして前者がほんの示唆にとどまり、理論的発展を見なかったことを考えると、ウンマが、イブン・タイミーヤにとっての主権者である、と考えられるのではないか。つまり、イブン・タイミーヤの政治思想の、現代ムスリムにとっての豊かな可能性のひとつが、彼のウンマ主権論である、ということである。
前述のように、イブン・タイミーヤにとって、使徒の後継者としての無謬のウンマは、サハーバのウンマである。ということは、つまり、現実のウンマは、ムスリムが自らの手で、自らの決断によって、歴史の中に不断に実現して行かねばならないものなのである。*6
イブン・タイミーヤは、サハーバのウンマの全員が協力し、アッラーの意志を地上に実現していこう、という精神を現実のウンマに求めようとした。
それは、能力に応じての万人への善の命令・悪の禁止の義務づけ、万人のイジュティハードの義務、すなわち、
全ての使徒は、至高のアッラーを望み、またアッラーの許にあるものを求め、コーランとハディースを重んじ、アッラーに助力を求めつつイジュティハードを行わねばならない。そうすれば、現世は宗教に任えることになるのである。*7
の強調であり、具体的制度としては、権力者への助言となるのである。
権力者には協議が不可欠である。*8
もし、何かムスリムが争う事柄が生じたなら、彼ら全員から意見を聞くことが望ましい。そして、その意見を尊重し、その中でアッラーの書と使徒のスンナに最も近い意見を行うのである。*9
イブン・タイミーヤにとって、ウンマとは、全員が一致協力して、アッラーの意志を地上に実現して行くべき共同体である。*10従って、ウンマの内部には、イスラーム以外に忠誠の対象があってはならない。
イスラームとコーランの呼びかけから外れる者は、血縁であれ、郷土であれ、人種であれ、法学派であれ、タリーカであれ、ジャーヒリヤの特徴づけたものである。*11
ウンマは、使徒の後継者として、その権威を相続した。それ故それは、その義務をも負うのである。
今まで、我々は主としてal-Siyasa al-shar'iya al-H_isba fi al-islamを資料として使用した。しかし、この二書は、統治者を読者として念頭にして書かれたものである。ここで我々は、恐らく民衆(と言っても、恐らく都市市民階層だろうが)に非政治的文脈で書かれたと思われる論文“al-'Ih_tijaj bi al-qadar”の持つ政治的意味を考えてみることにしよう。
カダルの問題について問われたイブン・タイミーヤは答える。
イブン・タイミーヤについて、カダルの問題は、いかにそれが生きられるかの問題、すなわち、いかにその言葉を用いるかの問題に過ぎない。
アッラーの定めには二種類ある。創造と命令である。前者はアッラーの定めた出来事であり、後者はアッラーの命じたものと禁じたものである。そして人間はこれに忍耐を命じられているのである。そして彼は、彼の命じられたこと、禁じられたことに忍耐し、命じられたことを行い、禁じられたことを避けねばならない。また、彼はアッラーが彼に定めたことに忍耐しなくてはならない。*1
------ アーダムは、ムーサーが彼を非難した時、カダルを理由に論駁した。その言葉は、不幸についてであって、罪についてではない。アッラーは忍耐と敬神を命じた。そしてこれは、忍耐についてであって、敬神についてではない。「忍耐せよ。アッラーは真実を約束された。そして汝の罰の許しを乞え」*2それ故、これは不幸に際しては忍耐、過ちに対しては許しを乞うことを命じた。*3
------ 使徒は、定められたことに忍耐するように命じられている。そして同様にアッラーは言った。「汝らが耐え、神を畏れるなら、彼らの策略は汝らを少しも害さない。*4そして、敬神とは、命じられたことを行うこと、禁じられたことを避けることであり、忍耐とは、彼らの害を堪え忍ぶことである。*5
もし不信者が、ムスリムをひどく扱い、敵対すれば、ムスリムは彼らを彼らがしたように扱ってもよいが、忍耐する方がよりよい。*6
ムハージルの原理とは、預言者 ―アッラーよ彼に祝福と平安を与え給え― が確証してように、アッラーの禁じたことを避けることである。そして誰でも悪から遠ざかっている者は、人が、彼がその不信や堕落を避けているにも関わらず彼を不正に扱い、追い出し、彼が現世のいくつかの事柄を放棄せざるを得なくし、それでも彼が彼らの不正を耐え忍べば、アッラーは誠実者ユースフの場合のように、現世でよいものを与え、また来世での報賞は更に大きいのである。*7
まずイブン・タイミーヤは、アッラーの定めに、創造と命令を区別する。創造とは、時間の中に実現されるアッラーの意志である(この表現は私の表現であり、イブン・タイミーヤはこのような言い方はしない)。すなわち、それは世界である。一方、命令とは、無時間的に妥当するアッラーの意志、すなわちシャリーアである。
全ての出来事は、アッラーの創造的意志の実現、カダルとみなされ、幸運には感謝、悪運には忍耐が義務となる(広義の忍耐は幸運への感謝を含む)。
一方、自らの行為は、命令すなわちシャルウによって評価され、命令に背いた行いには悔悟が義務となる(合致した行為はアッラーから、となるのであるが)。
以上から、存在論的自己・世界の区別と、規範関連的評価‐没規範的受容の理論的対応は明らかと思われる。
こんなことは、イブン・タイミーヤに限らず、誰でも口にすることではないか、と言われるかも知れない。
その通りである。しかし、人の受け売りを条件反射的に口にすることと、自分の思想を語ることの間には大きな違いがある。
すなわち、語る内容が同じでも、語られ方が違うのである。
イブン・タイミーヤの場合、上述の存在論的自己‐世界区別と、規範関連的評価‐没規範的受容組み合わせは明白に意され、高度の一貫性をもって主張されている。(al-Siyasa al-shar'iyaではあまり感じられないが、al-H_isba fi al-islamでは明白である)。
とすると、その含意するところは重大である。
すなわち、これを論理的に詰めると、人間(自己を除く)と自然の区別がなくなるのである。人間(社会)が自然と同じ忍耐の対象なら、規範に訴えるコミュニケーションの余地はない。
もしそうだとしたら、善の命令、悪の禁止の余地もない。
これは明白に、既述のイブン・タイミーヤの政治思想と矛盾する。
そして残念ながら、この矛盾はイブン・タイミーヤには解決されていない(いや、恐らく、矛盾の存在さえ意識されていないだろう)。
勿論、人間が価値語により相互にコミュニケート、或いは操作し合うのは日常の現実であり、日常の現実は日常世界に於いては常に理論に勝利する。
しかし、日常を離れた観念の領域では、理論は現実を抹消し得る。
となると、この理論は非日常的領域では、善の命令、悪の禁止の要請を圧倒するのではなかろうか。
確かに、イブン・タイミーヤは、この論文でも、社会的責任への言及が全くないわけではない。彼は自分への攻撃と、アッラーへの敵対を区別し、アッラーへの敵対には、忍耐ではなく、怒ることが正しい態度であると認めてはいる。
しかし、アッラーへの敵対とは、具体的には何なのか。
上述の引用から明白なように、自己への不正は忍耐の対象であり、アッラーへの敵対とは考えられていない。
イブン・タイミーヤは、例として、ハッドの遂行とジハードを挙げている。
アッラーへの敵対を、狭義のアッラーへの権利(huquq al-llah)の侵害と考えれば、確かに、論理的に、ハッドの遂行とジハードが、それへの正しい対応であろう。
しかし、ハッドの遂行とジハードは、これこそ日常的な意味で国家の存在理由、国家の仕事(仕立屋の仕事が服を作ることである、というのと同じ意味で)と考えられていることではないか。*8
つまり、それは民衆に無関係な仕事として、容易に棚上げされ、無視されてしまい得る、ということである。
ここでもう一度、イブン・タイミーヤの国家の性格を考えてみよう。
国家は最大の権力である。
しかしそれだけではない。国家は他の力に勝る権力であるだけでなく、他を圧する権力、すなわち強制力としての権力なのである。*9
言い換えれば、国家権力だけが、他の意志に逆らって自らの意志を実現し得る権力なのであり、また、可能であるが故に、アッラーの命令の地上での実現の任務を負わされたのである。
国家は、最大の権力であるだけでは満足しない。国家は唯一の権力たらんと欲すのである。「有てる人は興へられて愈々豊ならん。然れど有たぬ人は、その有てる物をも取らるべし」という訳である。
となると、アッラーのカダルへの忍耐の要請の持つ意味合いは明白であろう。イブン・タイミーヤは、カダルを自らの罪の言い訳に用いることに、断固として反対した。しかし彼は、人間の責任を個人の行為に極限することにより、人間の社会的責任を哲学的に基礎づけるのに失敗した、と言ってよいのではないか。
そしてこれは、自己‐世界の存在論的区別が社会を自然と同じ所与とみなす*10
(それは勿論、人間が社会と交渉を持たない、ということではない。そうではなく、自然と同じように交渉するということである。すなわち、社会の共時的構造が、所与として受容される、ということである)ことを考え合わせれば、益々説得力を持ってこよう。
個人の持つ力は全て、アッラーと人間との超時間的な出合いの中に吸収され、社会秩序の共時的構造は、暴力を独占した国家の下に自然の如く犯し難く、個人の前に聳えたち、それを前にして人はその中にただアッラーのカダルを見、感謝と忍耐をもって額づくのである。
これは前章までで見てきた、万人が自らの能力に応じて義務を負い、善を命じ、悪を禁じ、全員がコーランとスンナの導きの許で一致協力し、アッラーの命令の地上での実現を目指し、アッラーの道にジハードを行う、というイブン・タイミーヤの国家といかにかけ離れていることか。
しかし、これがイブン・タイミーヤの国家の持つ、もう一つの顔なのである。
そしてこれは、ラウースの、イブン・タイミーヤのイマームの持つ大権の指摘にも符合するのである。*11
それでは、何故、彼の国家は全く背反する二つの顔を持つのであろうか。
これにはいろいろな答え方が可能であろう。
第一に、資料、そして視点の違いである。この章で使った “al-Ih_tijaj bi al-qadar”は、最初に断ったように政治問題を扱った論文ではなく、また読者も、政治に携る人間では恐らくない、ということである。
イブン・タイミーヤの国家の持つ二つの顔として描いた対立は、まず、実際に政治を行う(この場合の政治とは、言うまでもないが、我々が日常政治と呼ぶものである)者から見た国家と、“al-Ihtijaj bi al-qadar”を通して見た、民衆から見た国家の対立なのである。
そして、イブン・タイミーヤ自身の視点は、明らかに前者なのである。
著者は第4章に於いて、イブン・タイミーヤは、支配するエリート、支配される民衆という実体論的二分法をとっていない、と書いた。
しかしそれは、イブン・タイミーヤが、それに代えて、「国家をつくるのは君自身なのだ」というイデオロギー(勿論、これはイデオロギーであり、幻想である。国家はいつの時代も、民衆にとって所与に過ぎない。しかし、時として幻想は現実を変え得る、というのもまた事実である)を提供したことを意味しない。
彼にとって、そんなことはどうでもよい瑣末な問題に過ぎなかったのであろう。
それ故、イブン・タイミーヤの思想は、社会変革の原動とはなり得なかったのである。
しかしこの対立は、視点が異なれば見え方も異なる、というだけのものではない。これは、イブン・タイミーヤの存在論と政治論の間の実際の矛盾の反映でもあるのだ。
この矛盾は、もし彼がその存在に気づいていれば、或いは何らかの形で修繕し得たかも知れない。しかし残念ながら、彼はそれに気がつかなかった。
彼がこの矛盾を自覚しなかった理由は、二つの議論の抽象度の違い、そして、それ故両者の矛盾が、彼に現実に何の問題も引き起こさなかった、という点にあるのだろう。
最後に、それは理想と現実の対立でもある、と言えよう。それはイブン・タイミーヤ自身の、理想と現実認識との対立であると同時に、サハーバの理想のウンマと、異民族王朝マムルーク朝の現実との対立でもあるのである。
イブン・タイミーヤの国家がどちらの顔を向けるかは、我々ムスリムが人間をいかに理解するかにかかっているのである。
私は、これまでイブン・タイミーヤの政治思想の基本構造を把握しようと試みてきた。
簡単に整理しよう。
イブン・タイミーヤにとって、人間の存在の目的は、ただアッラーへの奉仕にある。
そして、それには知識と意志と行為が必要である。
知識は、コーランとスンナにより与えられ、意志とは、全ての行為をアッラーの顔を望んで行うことであり、行為は、能力に応じて要求される。
そして、能力にはそれに応じた義務がかかる、というこの考えが、権力にシャリーア遂行の義務を配分する根拠となる。
この意味で、国家権力は、権力‐義務連続体の中で量的に最大であるというに過ぎず、質的な相違が存在しない点が強調される。
しかし一方、イブン・タイミーヤにとっても、国家が強制権力であることは前提されており、その意味で、国家は他の権力と異なる唯一の権力であることを主張する。
更に、彼の存在論は、社会と自然を同一視し、社会の共時的構造を所与として把え、それを義認する。
その結果、ムスリム一人ひとりの積極的な参加により国家を監督し、その無制限な権力行為を制限するためのメカニズムを創造する、という発想は生まれず、国家への働きかけは宗教的義務の遂行の勧告に限定され、結局、その実現は為政者の個人的宗教心の有無(すなわち個人的倫理的資質)にのみ依存することになる。
また、社会構造自体の変革の発想もなく、現実の秩序維持のための保守的イデオロギーとして機能する結果となった、と言えるのではないか。
以上、イブン・タイミーヤのファンである筆者として誠に不本意なことに、極めて否定的な結論を述べざるを得なくなってしまった。
そこで最後に、何故、イブン・タイミーヤがワッハーブ運動に霊感を与え、また現在注目を浴びているのかについての私見を述べ、この論文を終わることは許されよう。
まず第一に、14世紀のマムルーク朝の国家・社会を正当化する理論は、現代の国家・社会を正当化しない、という点にあるのは明白ある。彼の議論は、コーラン・スンナに基づいた、極めて具体的・実対的なシャリーアの内容を含んでいるため、それが現代に於いては、現状否定のみならず、それに替わる一つの具体的なプログラムを提供できる(実現可能かどうかは別として)点は見逃してはならない。*1
処して、更に重要なことは、イブン・タイミーヤが我々に、今、現在の重要性を強く訴えてかけてくる、ということであろう。現在の強調は、既に述べたように、共時的構造の義認を伴いがちである。しかし、それは一方では、現在に於いて世界と歴史を超越する可能性も秘めているのである。
イブン・タイミーヤは、今、現在、我々がアッラーと向かいあっていることを教えてくれる。
今からでも遅くはない。今が悔い改めの時なのである。*2それでは、何をなせばよいのか。アッラーは既に、コーランとスンナを「導き」として下されたのである。
我々はコーランとスンナに還らなければならない。
アッラーを称えて、ここに筆を擱く。
ムハンマドとその家族に祝福と平安あれ。