「『イスラーム世界』とジハード-ジハードの理念とその類型」

中田 考

イスラーム世界とジハードの定義

 

「イスラーム世界」とはそもそも何を意味するか。この間には後に答えることにし、ここではとりあえず、「イスラーム世界」を伝統的イスラーム学の概念である「イスラームの家」とほぼ同義であるとし、我々の常識にもほぼ一致する「ムスリムが支配しており、イスラームの諸規範によって安寧に統治されている土地」との『イスラーム法学者語彙辞典』の「イスラームの家」の定義を採って論を進めることにしよう。

非イスラーム世界では「ジハード」は通常「聖戦」と訳され、異教徒との戦い、とのイメージが定着している。しかし伝統的イスラーム学の「ジハード」概念は、より広い意味を有しており、例えばジュルジャーニー(1413年没)の『定義集』は「ジハード」を「真の宗教への呼び掛け」としている。

遠征軍の帰還を迎えた預言者は彼らに向って、「おかえりなさい、『小ジハード』を完遂して、『大ジハード』だけを残す者たちよ」と言われた。

そして「『大ジハード』とは何でしょうか」と尋ねられると、預一言者は「自分自身に対するジハードである」と答えられた。

これはスーフィーが好んで引用するハディースであるが、スーフィズムのみに限らず、伝統的イスラーム学は、「ジハード」を「戦闘」を意味する「小ジハード」と、「克己」、「修身」を意味する「大ジハード」に分け、後者を前者の上においてきたのである。

しかしこの「大ジハード」の観念は、筆者に与えられた「『イスラーム世界』とジハード」とのテーマの「間主観的」議論には必ずしも馴染まないように思われる。したがって本稿ではもっぱら「小ジハード」に焦点を絞って、「イスラーム世界」とジハードの関係を考えることにしたい。

 

ジハードの命令と理言者によるその実践

 

宗教としてのイスラームは、全ての行為規範をアッラーとその使徒ムハンマドの命令から演繹する構成を有するが、ジハードもその例外ではない。

 

コーランとハディース

 

ジハードの義務はアッラーの御言葉であるコーランによって基礎づけられる。

コーランは預言者ムハンマドの召命後、約212年にわたって断続的に啓示されたものであり、一部の命令、禁止の規定には途中で変更が加えられており、ジハードに関する規定にも歴史的変遷を読み取ることができる。

預一言者がメディナに移住し彼を指導者とする信仰共同体を樹立するまでは、信徒たちは多神教徒による迫害を堪え忍ぶことを命じられており、戦闘は禁じられていた。

ジハードに関する最初の啓示は、以下の節といわれる。

戦いを仕掛けられた者は、(反撃の)お許しが与えられた。なぜなら彼らは不正を被ったのであるから。まことにアッラーはそうした者たちをお助けになることがおできになられる。(22章39節)

この節においてはまだジハードの許可が語られているのみであるが、以後の啓示によってジハードが義務であることが明示される。

汝らと戦う者に対して、アッラーの道において戦え。ただし度を越えてはならない。アッラーは度を越える者を愛で給わない。(2章190節)

汝らに戦いが命じられたが、汝らはそれを苦にしている。汝らは自分たちにとって良いことを嫌うこともあれば、害になることを好むこともあろう。アッラーは知っておられるが、汝らは知らないのである。(2章216節)

啓典を授かっていながらアッラーと最後の審判を信じず、アッラーとその使徒の禁じたものを禁じず、真実の宗教を信奉しない者たちに対しては、彼らが身を低めて手ずからジズヤ(人頭税)を差し出すまで戦いぬけ。(9章29節)

迫害がなくなり、宗教が全てアッラーに帰されるまで彼らと戦え。ただし彼らがやめるなら、アッラーは彼らの行うところを御覧になられている。(8章39節)

また、預言者の言行録をハディースと言うが、預言者からは以下のようなハディースが伝えられている。

アッラーの使徒は言われた。「おまえたちの財産と身体と言葉をもって、多神教徒たちとジハードを行え」(アブー・ダーウード)

アッラーの使徒は言われた。「私は人びとが『アッラーの他に神はない』と唱えるまで、私は彼ら(多神教徒)と戦うように命じられた。ただし人びとがそれを唱えれば、しかるべき場合を除き彼らの生命と財産は私によって保護され、彼らの精算はアッラーに委ねられる。」(ブハーリー)

アブー・フライラが「アッラーの使徒よ、いかなる行いが最も優れていますか」と尋ねたとき、使徒は「アッラーの信仰と、彼の道でのジハードである」と答えられた。(ブハーリー)

アッラーの使徒は言われた。「ジハードに出征せず、また出征の予定もたてずに死んだ者は、一種の偽善のなかで死んだことになる。」(ムスリム)

 

預言者のジハード

 

預言者の移住(ヒジュラ)後、メディナのイスラーム教徒は、メッカのクライシュ族、遊牧アラブの多神教徒、東ローマ帝国の同盟軍などと多くの戦いを交えることになる。

イスラームの歴史学は、預言者の在世中に行われた軍事遠征を、種言者が直接指揮をとったものを「戦役」、璽言者が参加しなかったものを「派兵」と呼び分けているが、イブラーヒーム・フサイン・アルアサルの研究によると、「戦役」の回数は27回、「派兵」は47回となる[1]

これらの軍事遠征のなかには実際に武力衝突に至らなかったものも少なくないが、イスラーム史上重要な意味を有する主要な戦いには次のようなものがある。

 

バドルの戦い

ヒジュラ暦2年、メッカから攻め寄せた約1000名のクライシュ族多神教徒軍を、メディナの314名のムスリム軍がバドルで迎え撃った戦い。メッカ側は約70名の戦死者と約70名の捕虜を残して敗走した。ムスリム側の死者は14名に過ぎなかった。

バドルの戦いに関しては以下のような啓示が下されている。

汝らが劣勢であったとき、アッラーは汝らにバドルで勝利を授け給うた。それゆえアッラーを畏れよ。おそらく汝らは感謝するであろう。(コーラン3章123節)

 

ウフドの戦い

ヒジュラ暦三年、約3000名からなるメッカの多神教徒軍をウフド山に迎え撃ったムスリム軍は、弓兵隊が預言者の命令に背いたために約70名の戦死者を出し、敗北を喫した。メッカ側は死者22名をだしただけの大勝利であったが、メディナを落とすことはできず、ムスリム側はこの敗戦をアッラーの命令に対する背反の結果として受け止め、かえって信仰を強め、結束を固めることになった。

ウフドの戦いに関しては以下の啓示が下されている。

弱気を起こしたり、悲しんではならない。汝らが信仰者であるなら、汝らこそ勝者なのである。汝らが傷を負ったなら、あの者ども メッカの多神教徒- もまた同じく傷を負ったのである。我ら(アッラ)は人間に、この様に日々を順に巡らせる。それはアッラーが信仰する者を知られるためであり、汝らの間から殉教者を選び出されるためである。アッラーは不正を犯す者を愛で給わない。(コーラン3章139-140節)

アッラーは確かに汝らへの約束を果たし拾われ、彼の御許しにより汝らは彼ら(多神教徒ら)を撃破したが、アッラーが汝らの欲しがるもの(戦利品)を目の前に見せ給うと、その後の行動に間違いを犯し、互いに争い、不服従に陥った。汝らのなかには現世を欲する者もいれば来世を欲する者もいる。そしてアッラーは汝らを試されるため、彼ら(敵軍)から退却させ給うた。しかしアッラーは既に汝らを許し結われた。アッラーは信仰者に対して恩寵を垂れ給う御方にあらせられる。(コーラン3章152節)

 

ムウタの戦い

ヒジュラ暦8年、預言者はシリアの都市ブズラーの東ローマ皇帝の総督にイスラームヘの入信を呼び掛ける使者を遣わした。ところがこの使者が殺されたことから、預言者は養子のザイド・ブン・ハリサを司令官に約3000名の遠征軍を派遣した。ムウタで東ローマ帝国軍と戦ったムスリム軍は、司令官ザイド.ブン.ハーリサら多くの武将を失う大敗北を喫した。ちなみにこの戦いはムスリム軍が初めてアラビア半島を出て東ローマ帝国軍と戦った戦争であった。

 

メッカ征服

ヒジュラ暦6年、預言者はフダイビヤの地においてメッカの多神教徒側と10年間の停戦協定を結んでいた。しかしメッカ側の同盟者であったバクル族の手によって、ムスリム側の同盟者のフザーア族の男20名あまりが殺害されたため、預言者はメッカの征討を決め、約1万名の兵士を伴ってメディナから出征し、途中で遊牧アラブ部族がこれに合流した。

預言者はメッカの多神教徒に対して、自宅、聖モスク、クライシュ族の長老アブー・スフヤーンの家に籠った者の安全を保障したため、ほとんど抵抗にあうことなくメッカを征服した。

 

フナインの戦い

預言者がメッカを征服した直後のヒジュラ暦8年シャウワール月、2万~3万人の遊牧部族ハワーズィン族とターイフのサキーフ族の同盟軍がメッカに侵攻してきた。預言者はメッカ征服のためにメディナから付き従ってきていた古参のムスリムとメッカで新たにイスラームに入信した新参のムスリム総計約1万2000名を率いてこれら同盟軍をフナインの涸れ川に迎え撃ち、これを撃破して膨大な戦利品を得た。この戦いはアラビア半島の多神教徒との間で行われた最後の大規模な戦闘となり、その後まもなくアラブの諸部族は偶像を破壊し、イスラームに入信することになる。

フナインの戦いに関しては以下の啓示が下されている。

アッラーは多くの戦場で、またフナインの戦いの日にも汝らを助け給うた。汝らは自分たちの多勢を頼みとしたが、それは何の役にも立たず、大地はその広さにもかかわらず汝らにとって狭くなり、汝らは背を向けて敗走した。しかしその後アッラーは使徒と信徒たちに平常心を授け、また汝らの目に見えない援軍(天使)を遣わされ、不信仰の輩を罰し給うた。これこそ不信仰の輩への応報なのである。(コーラン9章25-26節)

右にあげたようなコーランの啓示、預言者のハディースと、その実戦の伝承をもとに、後世のイスラーム法学のジハード理論が構築されるのである。

 

イスラーム法学のジハード理論

 

イスラームは政治と宗教を分離しない。しかしイスラームにおける「政教一致」(より正確には政教一元)」は、現実の「ムスリム」が行っている「政治」が「イスラームの政治」であることを意味するわけではなく、逆にイスラームにおいては政治のありかたが教義のなかで規定されていることを意味する。したがってイスラームにおいてはたとえ「ムスリム」を自称する者が「ジハード」と呼んで行った戦争であっても、イスラームの教義に反するものであれば、それを「ジハード」と呼ぶことはできない[2]

したがって「イスラーム世界」とジハードを論ずるためには、まずイスラームの教義のなかでジハードがどう規定されているかを明らかにしておかなければならない。

そこで本節では現代を代表するイスラーム法学者の一人ワフバ・アルズハイリーの『イスラーム法とその論拠』に基づき、ジハードに関するイスラーム法の諸規定を略述しよう。

 

ジハードの定義

 

ジハードとは語義的には「力を尽くすこと」を意味するが、イスラーム法学においては「不信仰者との戦い、その撃退のために生命、財産、言論を捧げること」と定義される。

 

ジハードの義務

 

イスラーム法学はジハードを「連帯義務」と規定する。連帯義務とは、ウンマ(イスラーム共同体)の成員の誰かがその義務を果たせば、他の成員はその義務を免除されるような義務を指す。

 

ジハードが義務となる条件

 

ジハードが連帯義務であるとは言っても、老若男女の全てがジハードに参加する義務を負うわけではない。ジハードの義務が生じるのは、(1)イスラーム、(2)成人、(3)正気、(4)自由、(5)男性、(6)健康、(7)戦費の自己充当、の7つの条件を満たす者である。

したがって「イスラーム世界」に住む異教徒、小児、狂人、奴隷、女性、身体障害者、病人、武具と糧食を自分で調達できない貧者にはジハードに参戦する義務は課されない。

 

連帯義務が個別義務になる場合

 

ジハードは連帯義務であるが、以下の3つの場合には、特定の個人を拘束する個別義務となる。

(1)イスラーム軍と敵軍が遭遇した場合、そのイスラーム軍に従軍した者には逃亡は許されない。

(2)異教徒の軍隊がムスリムの土地に侵入した場合、その土地のムスリム住民にはその土地を防衛する義務が生ずる。

(3)イマーム(カリフ)からジハードの招集を受けた者には参戦の義務が生じる。

 

ジハードの宣戦布告

 

ジハードの宣戦布告はイマーム(カリフ)の大権に属し、ウンマの成員はイマームの命令に従わねばならない。イマームがジハードを仕掛ける前に敵に開戦を通告する必要があるか否かについては学者の間で意見が分かれている。

 

戦時規定

 

(1)非戦闘員の殺害は禁じられる。したがって婦女子、老人、身体障害者、狂人、病人、修道士、農民などの殺害は禁止される。ただしこれらの者であっても作戦の立案などの形であれ、戦闘に協力した場合には殺害が許される。

(2)投石機など非戦闘員を傷つける危険のある兵器の使用、敵の城塞を焼き払うこと、敵の樹木の伐採、農作物の収奪は原則的に禁じられるが、やむをえない場合に限って許される。

(3)戦闘中は抵抗が可能であると思われる限り、戦場にとどまる義務があるが、前逃亡も許される。

 

武器売買

 

ムスリムは敵に武器や、鉄鋼など戦争に役立つものを売ってはならない。

 

終戦

 

戦争は(1)敵のイスラームへの入信、(2)安全保障付与、(3)停戦協定、(4)庇護契約の締結によって終結する。

(1)イスラームヘの入信に関しては、入信以前の宗教帰属によって次の3つのケースに分類される。

(イ)無神論者、多神教徒の場合、「アッラーの他に神はない」と証言すればイスラームに入信したとみなされる。

(ロ)唯一神教徒であっても預言の実在を認めない者は、「アッラーの他に神はない」に加えて「ムハンマドはアッラーの使徒である」と証言することによってムスリムになったとみなされる。

(ハ)いユダヤ教徒やキリスト教徒については「アッラーの他に神はない」、「ムハンマドはアッラーの使徒である」の証言だけでは十分ではなく、元の自分の宗教を捨てて初めてムスリムになったとみなされる。

(2)安全保障とは少数の敵(10人以下)に対して個人が与え得るものである。

安全保障を得た異教徒は「イスラームの家」の内部で生命と財産の安全を保障される。

安全保障を与え得る資格としては、(イ)正気、(ロ)成人、(ハ)イスラーム、(ニ)ムスリム側が弱体であること、の4つであり、狂人、小児には異教徒に安全保障を与える資格はないが、女性、奴隷はその資格を有する。一方、非イスラーム教徒は「イスラームの家」に居留する庇護民といえども敵地の異教徒に対して安全保障を与えることはできない。また異教徒に安全保障を与えることができるのは、敵の異教徒が優勢でありムスリム側が弱体である場合に限られる。

安全保障の期間の上限は1年であり、それを越えて異教徒が「イスラームの家」にとどまる場合には、ジズヤ(人頭税)を払って庇護民とならねばならない。

(3)停戦協定は、イマーム(カリフ)と異教徒の元首の間で締結され、それによって協定が結ばれた異教徒は「イスラームの家」の内部で生命と財産の安全を保障される。

停戦協定の締結には、敵の異教徒が優勢でありムスリム側が弱体であることが条件となる。

無期停戦が許されないことに関しては学者の問にイジュマー(コンセンサス)が成立しているが、停戦期間については、10年を上限とするとの説と、上限はなくイマーム(カリフ)の自由裁量に任されるとの説がある。

(4)庇護契約とは、ジズヤを払って降伏した異教徒に「イスラームの家」での庇護を与えるものであるが、庇護契約は永久契約であり、時限契約とすることはできない。また背教者、アラブ人の多神教徒に対しては庇護契約を締結することは許されない。

ジズヤの支払いの義務を負うのは、(イ)正気、(ロ)成人、(ハ)男性、(ニ)心身の健康、(ホ)経済力、(ヘ)自由の条件を満たす者であり、狂人、小果女性、身体障害者、老人、病人、貧者、奴隷などにはジズヤは課されない。

ジズヤには、(イ)互いの合意に基づく「和議人頭税」と(ロ)武力征服による「強制人頭税」がある。「和議人頭税」の額は両者の合意によって決められるが、「強制人頭税」はイマーム(カリフ)が賦課する。「強制人頭税」の額については法学派によって見解が分かれている。

 

戦利品

 

コーラン8章41節「もし汝らがアッラーを信じ、識別の日、両軍が会戦した日に我らの僕に下したものを信ずるならば、汝らが戦利晶として獲得したものはなんであれ、その5分の1はアッラー、その使徒、その親族、孤児、旅人のものであると知れ。アッラーはあらゆることが可能であらせられる。」に基づき、戦利品の5分の1が取り分けられたあとで、5分の4が戦士の間で分配される。なお使徒の死後、使徒とその親族の取り分をどう処理するかについては法学派によって見解が分かれている。

 

捕虜

 

捕虜については、(1)処刑する、(2)奴隷にする、(3)解放する、(4)金銭か捕虜交換によって身請けする、(5)ジズヤを課す、の5通りの処置のなかから最善と思われるものをイマーム(カリフ)が選択する。

ただし、(3)解放、(4)身請け、(5)ジズヤに関しては、これらを認めない学派もある。また婦女子の捕虜に関しては、彼らが戦闘に参加していたのでない限り処刑することは禁じられている。

 

イスラーム世界とジハード

 

イスラーム世界の防衛と拡張

 

預言者の存命中にムスリム軍が行った戦いは、総じて防衛的性格の強いものであった[3]

しかし632年に預言者が没し、正統カリフの時代になると、ムスリム軍はアラビア半島を出て、短期間のうちに世界史上まれにみる大征服を成し遂げることになった。ムスリム軍は634年にはカーディスィーヤの戦いでササン朝ペルシアを破り642年のニハーヴアンドの戦いでササン朝軍を殲滅しイランを征服し、636年にはヤルムークの戦いで東ローマ帝国軍を破りシリアを奪い、642年までにはエジプト全土を手中に収め、7世紀の半ば頃には東はアフガニスタンの西半分、北はタウルス山脈の南麓、西はキレナイカ以東の北アフリカが「イスラームの家(ダール・アルイスラーム)」に組み込まれた。

続くウマイヤ朝期にもイスラーム世界の拡大は続き、東方では中央アジアと西北インド、西方では北アフリカ、イベリア半島が「イスラームの家」の領域に加えられた。

預言者の治世においてジハードが、新しく生まれたイスラーム信仰共同体を防衛する役割を果たしだとすれば、正統カリフ、ウマイヤ朝治下では、ジハードによって「イスラームの家」、あるいは「イスラーム世界」が形成された、と言うこともできよう。

欧米列強による世界分割が完了する帝国主義時代以前においては、イスラーム世界は概して言えば他の文明圏に対して政治的・軍事的優位を保っていた。そして前近代にあっては、イスラーム世界の拡大はジハードによって達成された部分が大きかったのである。

11世紀にはイスラーム化したトルコ族が小アジアを東ローマ帝国から奪っていたが、1543年にオスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープルを落とし東ローマ帝国を滅ぼし、セルビア、ボスニア、アルバニア、ギリシアを征服した。

またインドでは16世紀から17世紀にかけてムガール帝国による征服によりインドのほぼ全域がイスラーム世界に編入された。

もちろんジハードによるイスラーム世界の拡大と住民のイスラーム化とは同義ではない。インドがイスラーム世界に編入された後も、住民の大半はヒンドゥー教の信仰にとどまったのであり、またインドネシア、マレーシアなど東南アジアのイスラーム化は、13世紀末から16世紀末にかけてイスラーム世界との交易やスーフィーの宣教によって平和裡に進展し、ブラック・アフリカのイスラーム化にもスーフィーとムスリム商人の果たした役割が大きかった。

またイスラーム史上、防衛型のジハードが発動した代表的な例としては、対十字軍戦争、対モンゴル戦争、そして西欧帝国主義列強による植民地支配に対する抵抗運動などが挙げられる。

西欧帝国主義列強による世界分割の過程で、トルコ、イラン、アラビア半島中央部などを除き、イスラーム世界の大半が植民地化された。ムスリム被征服民はこの植民地支配に対して、異教徒の侵略に対する防衛型ジハードの論理によって、抵抗運動を繰り広げた。防衛型ジハードによる抵抗運動としては、19世紀前半のカーディリーヤ教団によるアルジェリアでの反仏闘争、サヌースィー教団によるリビアでの反イタリア闘争、19世紀後半のスーダンのマフディー国家の樹立、19世紀に中央アジア各地で起こったナクシェバンディーヤ教団による反ロシア闘争、インドネシアでのオランダ支配に抗して行われた19世紀前半のジャワ戦争、19世紀末から20世紀初頭にかけてのアチェ戦争などが有名である。

 

イスラーム世界の境界設定

 

我々は本稿で、「克己」、「修身」の意味の「大ジハード」と区別して戦闘を意味する「小ジハード」の意で「ジハード」の語を用いているが、ムスリムの行った戦争の全てをジハードと呼びうるわけではない。

ジハードとはムスリムが異教徒に対して行う戦争であり、第4代カリフ・アリーがタルハ、ズバイル、アーイシャらと戦った「ラクダの戦い」、ムアーウィヤと戦った「スィッフィーンの戦い」、ハワーリジュ派との一連の戦いなどはジハードと呼ぶことはできない。

マーワルディー(1058年没)の『統治の諸規則』によると、ジハードとは異教徒との戦いであり、その他の戦いは「公益のための戦い」であり、「公益のための戦い」は「背教者との戦い」、「叛徒との戦い」、「群盗との戦い」に分類される。

ジハードが「イスラームの家」を外敵から防衛するものであるなら、これらの「公益のための戦い」は「イスラームの家」の内部からの崩壊を防止する機能を果たす。

ただしこれはあくまでも体制側の視点である。

イスラーム法学によると、「叛徒」とは「大義をかかげ、武力をもってイマーム(カリフ)に背く徒党」であり、「叛徒」はイスラームの信仰にとどまっているため「背教者」とは異なり、またイマーム(カリフ)が不義を犯しており自らの側に正義があると考えてイマームに背いている点で「群盗」と区別される。

しかし叛徒の側からすると、むしろ反乱こそイスラーム世界から不義と不正を除き、正義を樹立し公益を実現する唯一の手段なのである。そして「反乱」が「反乱」であるのは、それが鎮圧される限りにおいてである。イスラーム法学は武力による覇権の確立をイマーム(カリフ)位締結の一つの形式として公認する。つまり反乱は成功したあかつきには、その出自を不問に付され、今度は「叛徒」の政権が「正当な」支配権力としてイスラーム法によって聖別されるのである。

ウマイヤ朝を倒したアッバース朝革命は、「反乱」が成功し「叛徒」が正当な支配者(カリフ)に転化した典型例である。

一方「支配の正当性」の問題をよりつきつめ、「『イスラームの家』とは何か」、ひいては「ムスリムとは誰か」との、より尖鋭な問題提起を行ったのが、失敗に終わったハワーリジュ派の「反乱」である。

ハワーリジュ派とは、第4代カリフ・アリーがスィッフィーンでムアーウィヤと戦った後に、ムアーウィヤの和平提案を受け入れたことに対し、この和平を不服とし「アッラーの他に裁定なし」と唱え、アリー陣営から分離したセクトであり、ムスリムが罪を犯すとその時点で彼は不信者に転落すると考える道徳的厳格主義者であった。

「アッラーの他に裁定なし」との標語に端的に示されるように、ハワーリジュ派にとっては、支配の正当性はイスラームの教えの厳格な遵守にのみ存じ、イスラームに反した支配者とそれに従う者は共に背教者であり、この背教者との戦いこそジハードに他ならなかった。

ハワーリジュ派は同派と考えを異にする全てのムスリムを罪人、不信者とみなすようになったため、彼らにとっての「イスラーム世界」とは「ハワーリジュ派共同体」のみを意味することになった。それゆえハワーリジュ派は第4代カリフ・アリーを不信者として殺害し、ウマイヤ朝にジハードを挑んだのみならず、ハワーリジュ派に参加しない一般市民をも不信者として殺害を重ねたのである。

ハワーリジュ派のジハードは、「誰がムスリムであるのか」が「客観的」には決定できず、したがって「イスラーム世界」の範囲もまた一義的には決まらないことを明らかにした点において重要な理論的意義を有する。

ハワーリジュ派の行ったジハードは「イスラームの家」のなかで真のムスリムを不信者から選別することによって「イスラームの家」を「浄化」し、その境界を再設定することを目指した。それゆえ我々はイスラーム世界の浄化と境界の再設定を、イスラーム世界の防衛、拡大と並ぶジハードの機能の一つに数えることにしよう。

アッバース朝の権威を認めず北アフリカでイマーム(カリフ)を名乗ったイスマーイール派のウバイドッラー(934年没)の建てたファーティマ朝、16世紀初頭のイランに起こり12イマーム派を国教に定めたサファヴィー朝、ムハンマド・ブン・アブド・アルワッハーブ(1792年没)のスンナ派復古主義思想を建国の理念としたサウジアラビアなどは、イスラーム世界の浄化、境界再設定を目指すこのハワーリジュ派型のジハードによって成立したということもできよう。

またブラック・アフリカでも、異端的慣行、異教との混交と戦う「イスラーム世界の浄化、境界再設定型」のジハードによって19世紀初頭にウスマーン・ダン・フォディオがハウサ地方にソコト・カリフ国、18世紀後半から19世紀初頭にかけてラービフ・ファドゥル・アッラーがチャドにイスラーム国家を建て、ブラック・アフリカの住民のイスラーム化が進んだ[4]

 

現代のジハード

 

既に見たように、ジハードの宣戦は本来イマーム(カリフ)の大権に属する。ところが1922年にトルコに世俗主義を掲げるトルコ共和国が誕生すると、大統領となったムスタファ・ケマルは1924年にカリフ制を廃し、イスラームは名実共にカリフを失うことになった。これによってカリフの命令の下にイスラーム世界が異教徒に対して宣戦を布告する、という古典イスラーム法学の定める典型的なジハードは理論的にも不可能となった。

一方で西欧帝国主義諸国の植民地支配に喘いでいたイスラーム世界は、第1次世界大戦後の民族主義の高まりのなかで旧宗主国から独立していったが、独立を支えた論理は異教徒とのジハードではなく西欧起源の世俗民族主義であり、独立達成後権力を握った為政者たちは人為的な国境を固定化し、「イスラーム世界」の統一を妨げる政策をとった。こうした状況下で新たに独立したいわゆる「イスラーム諸国」は、シオニスト・ユダヤ教徒の入植者たちがパレスティナの地を奪いイスラエルを建国したことに対しても何ら有効な手段を講じることができなかったのである。

 

アフガニスタンのジハード

 

1979年に旧ソ連軍がアフガニスタンに侵攻すると、ソ連軍の追放、ソ連の傀儡政権の打倒、いわゆる「イスラーム諸国」の樹立を旗印に掲げる抵抗運動が国際世論の支持を受けて本格化した。彼らはムジャーヒドゥーン(ジハード戦士)と呼ばれたが、アフガニスタンのジハードには「イスラーム世界」の国々のみならず、エリトリア、カシミール、フィリピンなどからも多数のムスリム義勇兵が参加した。

アフガニスタンのアラブ義勇兵の指導者、イデオローグであり、アフガニスタンで殉死したアブド.アッラー.アッザームは1984年頃に書かれたと思われる著書『ムスリムの土地の防衛は最も重要な各人の義務である』のなかで、ジハードが現在ムスリムの間で忘れられ等閑にされている最も重要な義務である、と述べ、異教徒がムスリムの土地に侵入した場合にジハードが住民の個々人の義務になることを確認し、侵略を受けた地の住民の手によって義務が完遂できない場合にはジハードは近隣のムスリム、ひいては地上の全てのムスリムの義務になると論じる。

またアッザームによると、アラブ人に関してはパレスティナでのジハードが可能な者はまずパレスティナで、それが不可能な者はアフガニスタンで、非アラブ・ムスリムはまずアフガニスタンでジハードを行うべきである。アフガニスタンでのジハードがパレスティナでのジハードに優先されるのは以下のような理由による。

(1)アフガニスタンでは実際に激しい戦闘が継続している。

(2)アフガニスタンのジハードの目的がイスラーム国家の樹立にあり、イスラーム志向が明確である。

(3)アフガニスタンのジハードがイスラーム運動の活動家、イスラーム学者によって指導されているのに対し、パレスティナでは指導部が世俗国家樹立を目標に掲げ、共産主義者や民族主義者を含んでいる。

(4)アフガニスタンの抵抗運動はムジャーヒドゥーンが主導権を握り、非イスラーム国家からの支援を拒否しているが、パレスティナ革命はソ違に全面的に頼っているため、超大国のパワー・ポリティクスに左右されている。

(5)アフガニスタンでは中央の権威に服さない部族民の協力を得られ、国境がムジャーヒドゥーンたちに開かれている。

ムジャーヒドゥーンの抵抗により大きな犠牲を出し疲弊したソ連軍は1989年に撤退し、ナジーブッラー政権も1991年には崩壊し、ムジャーヒドゥーンの連立政権が成立した。アフガニスタンのジハードの終結に伴い、ムスリム義勇兵の一部は本国へ帰還し本国でジハードを継続することになった。

彼らのジハードはタイ、フィリピンのような非イスラーム世界では、異教徒の政府の支配に対する分離独立運動の形をとっている。他方エジプト、アルジェリア、イエメンなどのアラブ諸国では、アフガニスタン帰還義勇兵はイスラーム国家の樹立のために、世俗主義政権に対する武装闘争を遂行している。エジプトでは「イスラーム集団」、「ジハード団」などの反政府武装闘争により1993年の1年間だけでも300名以上が死亡しており、アルジェリアでは1992年1月に統一地方選挙で勝利したFIS(イスラーム救国戦線)が非合法化されて以来のイスラーム主義者の反政府闘争による犠牲者の数は3万人以上とも言われている。

異教徒の政府の支配に対するジハードは古典イスラーム法学の防衛ジハード論で十分説明が可能である。しかしムスリムを名乗る為政者の支配に対するジハードは、古典イスラーム法学のジハード理論では正当化することができない。そこでアラブ諸国での世俗主義政権とのジハードを正当化するために作り出された理論装置が、筆者が「革命のジハード論」と名付けた反体制武装闘争理論なのである。

 

革命のジハード論

 

前節で行ったジハードの機能の分類に照らすと、「革命のジハード論」は「イスラーム世界の浄化と境界の再設定のためのジハード」の理論となる。それゆえ「革命のジハード論」の信奉者は治安当局や体制側のイデオローグからムスリムを不信仰者と呼ぶ輩として非難され、しばしば「ハワーリジュ」派のレッテルが貼られている。しかし「革命のジハード論」の提唱者である「イスラーム集団」のウマル・アブド・アッラフマーン、「ジハード団」のアブド・アッサラーム・ファラジュらは自らをスンナ派の初期教父たち(サラフ)の正統な継承者であるとみなし、古典イスラーム法学の枠組みと方法論に則って彼らの議論を構築しており、ハワーリジュ派とは一線を画している。

革命のジハード論の骨子は以下のようにまとめることができる。

(1)「アッラーの啓示されたものによって統治しない者は不信仰者である」とのコーランの章句(5章44節)によって、アッラーの啓示に従って統治を行わないことは背教にあたる。

(2)したがってアッラーの命じられたことを命じず、禁じられたことを禁じない実定法(たとえば礼拝、喜捨の支払い、ジハードなどを命じず、飲酒、姦通、利子取得などを禁じない法律)に即した統治は、背教にあたる。

(3)為政者が背教し不信仰に陥った場合には、背教の為政者に対してジハードを行うことが義務となる。

(4)アッラーの啓示に反する実定法によって統治を行う為政者は背教者であり、打倒のためにジハードが義務となる。

(5)エジプト(アルジェリア、イエメン等)の為政者は、アッラーの啓示に反する実定法によって統治を行う背教者であり、打倒のためにジハードが義務となる。

革命のジハード論は、アッラーの啓示(イスラーム法)によって統治しない為政者を不信仰者とみなし、アッラーの啓示(イスラーム法)に反する実定法に基づく国家を、不信仰の国家とみなす、その意味で革命のジハード論はハワーリジュ派型の「イスラーム世界の浄化と境界の再設定のためのジハード」の理論である。しかし現代の革命のジハード論は、不信仰の為政者、不信仰の国家と、国民個々人、あるいは社会を区別し、不信仰の国家に住む国民の総体、社会全体を不信仰と断じない点においてハワーリジュ派とは決定的に異なっている[5]

革命のジハード論の重要性は、ムスリム社会とイスラーム国家を明確に区別したうえで、イスラーム国家における支配の正当性の問題を定式化したことにある。

序節において我々は、「イスラーム世界」に対して、「ムスリムが支配しており、イスラームの諸規範によって安寧に統治されている土地」との「イスラームの家」の定義を暫定的に採用した。そしてこの「イスラームの家」の定義と「革命のジハード論」のイスラーム国家観の類似性は明瞭であろう。即ち、住民がムスリムであるか否かは二義的な問題にすぎず、イスラーム法の支配こそが、「イスラーム世界」、あるいは「イスラーム国家」のメルクマールなのである[6]

「イスラーム世界」が西欧の植民地支配から名目的な独立を達成し、世俗主義に立脚する「国民国家」形成の実験が開始されて以来、半世紀が過ぎようとしている。しかしこの間に西欧先進諸国との経済格差が広まる一方であるばかりか、政治の「民主化」、「自由化」も一向に進展せず、社会的不正の蔓延に人心は荒廃し、「イスラーム世界」は今日深刻な自己反省を強いられている。革命のジハード論は、こうした救いのない「イスラーム世界」の現状に対するムスリム知識人の自己反省の一つの表現形態なのであり、体制側の厳しい弾圧にもかかわらず「イスラーム世界」全域に静かに浸透しつつあるように思われる。

 

結語

 

我々は本章でまずコーランとハディースにおけるジハードの命令、そして預言者の治世に行われたジハードの事例、イスラーム法学のジハードの諸規定を概観することによって「ジハードとは何か」を明らかにし、次いでイスラームの歴史のなかでジハードが有した意味の解明を試みた。

その結果、ジハードが、イスラーム世界の防衛、拡大の手段となったばかりでなく、「ムスリムとは誰か」、「イスラーム世界とは何か」を問い直し、イスラーム世界の境界を再設定する契機となる可能性をも有することが判明した。

また「革命のジハード論」は、いわゆる「イスラーム諸国家」の統治の内実を問うことなく、安易に「イスラーム国家」、あるいは「イスラーム世界」の呼称を使用することの不当性をも明らかにする。「イスラーム国家」、「イスラーム世界」の語の使用の問題性は、湾岸戦争に際してアラブ諸国のうちでもイスラームヘの弾圧の最も激しい世俗主義国家イラクの引き起こした湾岸戦争について、「ムスリムの西欧に対するジハードである」、といった類いの「解説」が飛び交うことになったことからも決して軽視することはできない。

「イスラーム世界」についての記述は研究者の一定のイスラーム理解を前提とせずにはありえない。そして「イスラーム諸国家」の統治の実態の分析、その基礎となる資料の批判的吟味のためには[7]、まずイスラームの国家論、統治論の基礎研究が必要とされるのである。

 

参考文献

余部福三『イスラーム全史』勤草書房、1992年

アル=マーワルディー(湯川氏訳)「統治の諸規則」『イスラーム世界』1984年

イブン・タイミーヤ(湯川武、中田考共訳)『イスラーム政治論』日本サウディアラビア協会、1995年

黒田壽郎『イスラームの反体制派』未来社1991年

古賀幸久『イスラム国家の国際法規範』勤草書房1991年

中田考「イスラーム法学における『内乱』概念」『中東学会年報』1995年

中田考「イスラーム法学に於けるカリフ論の展開」『オリエント』1995年

中田考「ジハード(聖戦)論再考」『オリエント』1992年

ムスクファー.アッスィバーイー(中田考訳)『預言者伝』日本サウディアラビア協会1993年

ØAbd All±h ØAzz±m, al=Dif±Ø Øan Ar±½µ a=Muslimµn Ahamm Fur¹½ al=AØy±n, al=Islandarµya, n.d..

Ibr±hµm Åusain al=ØAsal, al=Jih±d al=Isl±mµ, Bair¹t, 1991.

MaÆm¹d al=Kh±lidµ, Qaw±Øid Niñm al=Åukm fµ al=Isl±m, al=Jaz±Ùir, 1991.

QalØajµ, Qunaibµ(ed), MuØjam Lugha al=Fuqah±Ù, Bair¹t, 1988.

al=Sharµf al=Jurj±nµ, al=TaØrµf±t, al=Q±hira, 1938.

Wahba al=ZuÆailµ, al=Fiqh al=Isl±mµ wa Adilla-hu, vol.6, Dimashq, 1987.

 



[1]cf., Ib±hµm Åusain al=ØAsal, a=Jih±d al=Isl±mµ, pp.65-90.

ただし「戦役」、「派兵」の数え方は研究者によって異なる。例えばムスクファー・アルスィバーイーは、「戦役(ghazwa)」を26回、「派兵(sarµya)」を38回と数えている。

[2]預言者の治世においてすら、部下が軍律に背いて非戦闘員を殺害した事例が報告されているのであり、現実のジハードにおいては、ジハードの規定が完全に遵守されたことはなく、またそれは期待されるべきでもない。

全ての法秩序の妥当が当該法の一定の遵守をもって認められるのと同様に、ジハードについても、その規定がある程度まで遵守されている場合に、我々はそれを「ジハード」と認めることにする。

[3] 「防衛的性格の強いものであった」とは、敵地に遠征を行い先制攻撃を行った場合でも、その「意図」がウンマ(イスラーム共同体)の防衛のためにあらかじめ危険を取り除くことを目指す予防的なものであった、との意味であり、使徒が常に敵の来襲を座して待っていたことを意味しない。また我々は「本来イスラームのジハードは防衛戦争に限定される」とのムスリムの一部の学者の立場に与しているわけでもない。

[4]我々はジハードを①イスラーム世界防衛型、②イスラーム世界拡大型、③イスラーム世界浄化、境界再設定型に分類したが、これらはあくまでも理念型に過ぎない。特に、アッバース朝が弱体し、地方に独立政権が乱立し、スペインの後ウマイヤ朝と北アフリカのファーティマ朝の3つのカリフ国家が並存し、イスラーム世界の政治的統一が失われ、教義的にもウンマ(イスラーム共同体)がスンナ派、シーア派の諸セクトに分裂してからは、現実にはイスラーム世界の境界についてウンマ(イスラーム共同体)のコンセンサスは存在しなかったからである。

[5]現代の反体制武装闘争派のなかでも、「アル=タクフィール ワ アル=ヒジュラ(不信者の烙印と聖遷)」、「シャオキー派」などは、ハワーリジュ派と同じく、現代のいわゆる「イスラーム諸国家」の現状に対して、国家のみならず社会全体が不信仰に陥っていると考え自派を除く他のムスリムを全て不信仰者とみなす。ただし「アル=タクフィール ワ アル=ヒジュラ」、「シャオキー派」はハワーリジュ派と異なり、罪を犯しただけでムスリムが不信仰に陥る、とは考えない。

[6]例えばヤルムーク大学(ヨルダン)教授マフムード・ハーリディー(アズハル大学で博士号取得・イスラーム政治学専攻)は、その著『イスラームにおける統治の諸原則』のなかで、①主権がアッラーに属すること(イスラーム法が国法として施行されること)、②統治権がイスラーム共同体に属すること(元首が人民の選挙によって選ばれること)、③イスラーム世界の元首が唯一人であること、④元首が国法を制定すること、の4つの原則をイスラーム国家の満たすべき必要条件とし、この4つの原理の1つでも欠くなら、その国家はイスラーム国家とは言えない、と述べ、世界には現在イスラーム国家は1つも存在しないと結論している。

[7] いわゆる「イスラーム諸国」は全て世俗主義警察国家であり、厳しい言論統制が行われており、全ての出版物は政府の監督化にあって検閲を受けている。したがって「イスラーム諸国」から送られる情報は原理的に全て組織的歪曲が加えられているものと考えられなければならず、その処理には慎重を要するが、特にイスラームと政治を扱った報道、文献には注意が必要である。