Modern Islamic Political Theory of BaiØa(2) 「現代イスラームのバイア論(2)」
Hasan Koh Nakata 中田考
Contemporary muslim scholors such as ØAbdullah ØUmar ad=Dumaijµ, and AÆmad ªiddµq ØAbd ar=Rahm±n analyze the process of the establishment of Ab¹ Bakr’s caliphate to find that the caliph making process is composed of two stages, i.e., “BaiØa of inauguration” and “BaiØa of obedience”.
“BaiÙa” of inauguration” makes a person the caliph conclusively and it is performed only by “leaders who unite and bind”, while people’s “BaiØa of obedience” is just the expression of their submission to the caliph and it is an obligation on them rather than their right.
Muslim scholars are now trying to definite the notion of “leaders who unite and bind” normatively in
order to organize them into the caliph electoral college. But it is more
fruitful to consider “leaders who unite and
bind” supporters of the temporal power, and study
the phenomena of the genesis of the power positively from this viewpoint.
Here is the last of a two-part article on the
caliph making process known as BaÙa, written by Hasan Koh Nkata who majors
in Islmic philosophy at the Cairo University’s doctor course.
6.
前節ではファトヒー・アブド=ル=カリームによる「バイア一元論」を紹介した。ファトヒーは、カリフ任命の「覇権」説について、更にそれを、
A.「覇権」がカリフ位締結の様態の一つだと考える者
B.「覇権」がカリフ位締結の唯一の様態だと考える者
に分けるが、Bは実際には現代の研究者ØA1µ ØAbd ar=R±ziq(d.1966)ただ一人だと言う。確かにイスラーム法学の展開の中で、「覇権」によるカリフ位締結は、あくまで変則的実態とするのが定説であった。しかし15世紀以降のハナフィー派法学には、Bの意味の「覇権」説の萌芽が見られる。at=Tamart±shµ(d.1596)のTanwµr a1=ab±rは、カリフは貴人(ashr±f)と有力者(aØy±n)とのバイア及び、彼の権勢(qahr)と力(jabar¹t)への恐れによって臣民(raصya)の間に彼の支配(Æukm)を貫徹することにより、カリフになるのである。そして人々がバイアを行っても、彼の弱さから彼等の間にその支配を貫徹できなければカリフとはならないのであると記し[13]、カリフ位の締結の要件として、バイアと「支配の貫徹」の二つを挙げた上で、両者を比較検討し、「支配の貫徹」こそカリフ位締結の真の要件であると結論している。またTanwµr a1=ab±rの注釈ad=Durra
al=mukht±rには特に付加えるところは無いが、更にその注釈であるイブン・アービディーン(d.1836)のRadd
a1=mukht±r、「彼の支配を貫徹することにより」の句を注釈し、……つまり彼はバイアの存在に加えて、彼の「支配の貫徹」を条件付けているのであり、またそれは明らかに後継者指名の場合にも条件となるのである。いや彼はバイアや後継者指名など無くとも、「覇権(tagha11ub)」、「支配の貫徹」、「権勢」によってカリフとなるのであると明言し[14]、バイアや後継者指名は「支配の貫徹」を伴わなければ、カリフ位を締結せしめないが、「支配の貫徹」はバイアや後継者指名なくして、カリフ位を締結させるとし、「支配の貫徹」こそカリフ位締結の真の要件であることをより際立たせているのである。
これらの議論をファトヒーの議論と比較するなら、ハナフィー派の「覇権」説の方がより説得力があると思われる。なぜなら「実力」とはそもそも、支配の貫徹を可能とする力を指すのであり、「覇者」とは実効的支配を行う者を指すのであり、ファトヒーが「実力」と「支配の貫徹」を分けること自体が誤っているからである。
「実力」、「覇権」による「支配の貫徹」は確かに可能である。しかしそれがバイアなくして長続きしない、ということも、西欧によるイスラーム世界の植民地化の歴史、という限界状況を考えるとき自ずから明らかになろう。圧倒的武力を背景にすれば、異教徒ですら支配を貫徹することが出来る。しかしそれが被支配者に受入れられていなければ決して安定したものでありえないのも又事実なのであり、その意味では「ムスリム全体、一体性の統合は、ムスリムがその覇者にバイアを行うことによってしか達成されない」とのファトヒーの言葉は正鵠を射ているのである。
ファトヒーの誤りは、彼自身が「バイアによるカリフの任命」についての議論で行った「締結バイア」と「服従バイア」の区別をここで怠っていることから生じている。つまり「解き結ぶ者」を「ウンマの全ての階層(»abaq±t)と党派(fiÙ±t)の代表者たち[15]」、「バイア」を能動的な「選択」と見做す以上、「覇者」に対する消極的承認という意味でのバイアは、それによって初めてカリフが選定される「解き結ぶ者」による「締結バイア」と言うことは出来ないのである。それはむしろ「服従バイア」なのである。従って最終的にカリフを決めるのが「服従バイア」に先立つ「締結バイア」であったように、「覇者」の場合も、彼のカリフ位の締結は「服従バイア」に先立つ「覇権」、「支配の貫徹」によると考えるのが妥当ということになるのである。
7.
現代のバイア論は、「解き結ぶ者」の行う「締結バイア」こそ、カリフ位の根拠であり、従ってカリフ選定の主体が「解き結ぶ者」に他ならず、一般ムスリムではない、と言う。また概ね現代の研究者は、「解き結ぶ者」概念を、アル=マーワルディーの線に添った再定式を試みる。例えばエジプトの学者ムハンマド・デイヤーウッ=ディーン・アッ=ライイスは「解き結ぶ者」を論じた節で、アル=マーワルディーの挙げる「カリフ選挙人」[=解き結ぶ者]」の三つの資格を引用した後、記述のアン=ナワウィーの「解き結ぶ者」の定義を批判して以下のように論じる[16]。
「選挙人について言えばそこで考慮されねばならない資格は三つである」続いて彼(アル=マーワルディー)はそれらを以下のように明らかにする。
第一に、「公正」の条件を満たすことである。(「公正」の意味するところは、「廉直(istiq±ma)」、「誠実(am±na)」、「敬神(waraØ)」、あるいは今日的用語で言うなら、「敬虔(taqwa)」と「秀れた人格(a1=akh1aq a1=fa±½i1a)」となる)。
第二に、カリフの資格に適う者を見付けることが出来るだけの知識である。
第三に、カリフ位に最も適しており、諸利害の調整(tadbµr a1=ma±1iÆ)に最も通じ、勝れている者を選べる見識である。
……この表現は、確かにある程度は[「解き結ぶ者」の意味を]明らかにしてはいる。少なくともイスラーム学者については明瞭である。しかし我々は後の二つが何を指しているのかを決定できない。なぜなら「諸侯であること(riy±sa)」、「名士であること(wij±ha)」が何を意味するかを明確に理解することが出来ないからである。おそらく「ウンマの指導者たち」、「ウンマの中のエリート階層(a1=Øan±ir a1=b±riza)」、あるいは「その利害を代表する者」などを意図しているのであろうが、ともあれ、アル=マーワルディーの定める諸資格を満たすことが必要なのである。
現代イスラーム政治学は、「徳と見解を兼ね備えた選挙人」という古典的理想と、ファトヒーの「ウンマの全ての階層、党派の代表」という表現により明確な、現代的「代表」の概念をr解き結ぶ者」に二重に投映し、そうした「解き結ぶ者」の組織化を実現し、カリフ選定をその組織の手に委ねる道を探るという方向を取るのである[17]。
筆者はカリフ論の展開と言う点からは、これは理論的後退であると考える。即ち古典イスラーム法学のカリフ論は、徳と見識を兼ね備えた「解き結ぶ者」の選定、あるいはそうして選ばれた前任カリフによる後継者指名によるカリフ位締結という、理想主義的プログラムから出発し、「覇権」による「カリフ位締結」を変則的事態として容認する段階を経て、「覇権」、「支配の貫徹」こそが「カリフ位」の本質であることを洞察するに至っていた。
ここでハナフィー派の「覇権」説の持つ意義は極めて大きいと思われる。なぜならカリフ位が本来「解き結ぶ者」の選挙、あるいは前任カリフの後継指名、の産物であり、「覇権」によるカリフ位があくまで変則的事態と考えられる限り、カリフ研究は、カリフ資格、「解き結ぶ者」の資格、カリフ締結手続きの確定、といった法学的視点に拘束されるのは当然であり、「覇権」のような法学的思考に馴染まぬ純粋に政治的概念は関心外に置かれることにならざるをえないからである。ところが、一度カリフ位の基礎が「覇権」に他ならないことが認識されれば、カリフ位の締結を、「覇権」の成立と、その正当性の獲得という社会現象として把握することが可能となるのである[18]。
こうしてカリフ「覇権」説によって初めてカリフ論は「カリフ位はいかに締結されるべきか」を問うイスラーム法学の規範的アプローチの呪縛から自らを解放し、カリフ位の要件である「覇権」、「支配の貫徹」の成立の客観的条件を実証的に研究する道を開かれたのである。ところが現代の「バイア一元論」はその道を閉ざし、カリフ論を再び規範論の枠組みに閉込めてしまうものなのである。
8.
西欧民主主義思想の影響化に成立した「バイア一元論」は、「解き結ぶ者」を「ウンマを代表すべき人々」と考える。しかし「解き結ぶ者」をそのように把握するならカリフ論は、現実から遊離した空論となり、せっかくの「バイアの二重過程」の発見の意義も失われてしまう。「二重バイア論」はむしろ、一握りの実力者の手によってカリフ位が決り、一般ムスリムはそれに事後的に服従する状況の表現と考えてこそ、歴史的にもムスリム世界の政治過程を理解する極めて有効なモデルとなりうるのである。
我々の現在の課題は、イスラーム世界に於いて現実に誰が「解き結ぶ者」であるのか、また「解き結ぶ者」はいかにしてカリフを選ぶのか、換言すれば、覇者を覇者たらしめる権力基盤は何であるのか、覇者になるためにいかなる属性が評価されるか、などの「覇権」成立のメカニズムを解明することなのである。そしてそのメカニズムが「客観的」に明らかにされて初めて、それをイスラーム的理想に服せしめる現実的方策の探求も可能になるのである。
「バイア二重過程論」は、正統カリフのカリフ位締結の伝承の分析から「解き結ぶ者」と「一般ムスリム」の役割の違いを明らかにしたのであり、イスラームに於ける「覇権」生成の実証的研究の第一歩と見なすことができる。しかしそれは古典イスラーム法学のハナフィー派にその萌芽の見られたカリフ位「覇権」説に接合されねばならない。即ち「締結バイア」及び、その主体たる「解き結ぶ者」の性格規定は、法学的規範論ではなく、実証的政治過程研究の枠組みで深化されねばならないのである。(おわり)
[13]
Ibn ØAbidµn, Radd
a1=mukht±r,
[14] ibid., p.263.
[15] FatƵ, ØAbd a1=Karµm, op. cit., p.190.
[16]
MuÆammad ¼iy±Ù ad=Dµn ar=Raiyis,
an=NaÃarµyat as=siy±sµya a1=is1±mµya,
pp.223-224.
[17]例えばその先駆的作品の一つ、故as=Sanh¹rµ(d.1971)のFiqh a1=Khi1±fa wa Ta»auwur-h±, Cairo, 1989, p.136,は,「選挙人 ―つまり『解き結ぶ者』― を疑いの余地のない明確な形で決めるため、選挙人の成員を確定することが必要である。なぜならそれを確定しなくては、真の組織だった選挙は不可能だからである。」と述べている。
[18] ここでは議論を簡略化するため、あたかもカリフ論が直線的に発展したかのような記述になったが、実際は変化は極めて緩慢かつ、破竹的である。ハナフィー派の「覇権」説も、伝統的カリフ論の枠組みからの決定的訣別とは言い難く、あくまでもその萌芽と言いうるに過ぎない。例えばad=Durr
a1=mukht±rは『礼拝の書』の「指導職(im±ma)」章冒頭で、「指導職には『小指導職』と『大指導職』があり、『小指導職』とは礼拝の先導職であり、『大指導職』とはカリフ位である」、とし、カリフの条件を挙げており、これはむしろ伝統的議論への回帰と言える。
また6章で引用したat=Tamart±shµの言葉自体、じつは「スルタン[=覇者]」の語を「カリフ(im±m)」に替えただけで、Q±dµ Kh±n(d.1196)のa1=Fat±w± al=Kh±nµyaの殆ど文字通りの借用なのである。Shaikh Niñm, a1=Fataw± a1=Hindµya,
つまり、単に事実として存在するスルタンに対しては可能であった、「『覇者』を覇者たらしめるものが、バイアや後継者指名にありえない」という認識が、法学的概念たるべき「カリフ」にも当てはまる、ということが認められるまでに4世紀の時間が必要だったの
である。