同志社大学社会学会公開講演会
 
  講師・下村健一氏
  『テレビ・ジャーナリストの仕事』
〜TBS記者14年の経験から〜

日時:7月8日(木)13:00〜14:40
場所:同志社大学今出川校地
主催:同志社大学社会学会

 
【講師紹介】
 1960年、東京生まれ。東京大学法学部政治コース卒業後、85年TBS入社、報道局アナウンス班に配属。
 93年6月男性としては日本のテレビ界初の《育児休暇》を取得。96年4月ニューヨーク特派員。99年3月退社後、フリー。21世紀の日本でTVを使った新しい形の情報提供をできないかと思案中。共著に『市民選挙のノウハウ』『妻の言い分・夫の言い分』『無責任なマスメディア』などがある。
 93年10月「SOS 100円ダイヤル」で、日本ソフト化大賞、94年8月「新生党2000万円疑惑」で日本ジャーナリスト会議(JCJ)奨励賞をそれぞれ受賞。
 

★★ニュースとワイドショーの違い★★

 とかくテレビ報道で批判をあびがちなワイドショーの話から入ろうと思います。

 ニューヨーク支局に来る前、『スペースJ』という報道番組にいたのですが、その番組が始まるさらに前、3年間ほど『ビッグモーニング』(関西地区でいえばMBS、朝7時から8時半、生島ヒロシさんと寺田理恵子さんが司会をする番組)でニュースリポーターをやっていました。入社以来ずっと報道局の中にいた私にとって、それが初めてのワイドショーの経験でした。つまりワイドショーというのは、だいたい報道局とは違うセクションで作っているのですね。社会情報局とか、名称は局によって多少違いますが。それで、その社会情報局制作の『ビッグモーニング』という番組で、ネタの選び方から取材の作法から、何から何まで報道局とは違う世界で、戸惑いながらもやっていたわけです。
           
 基本的に何が違うかと言いますと、報道局だったらまだあまりにもあいまいだということで取り上げないようなテーマでも、"疑惑"という言葉を使ってぼんぼん放送してしまう、これがワイドショーというものです。したがって、その中でリポーターの役割を担った者は、非常に危うい題材について、自分の言葉でしゃべらなければならない。それだけに、ちゃんと取り組もうと思ったら報道記者よりもよほど難しい人権感覚を要求される、というのが私の体験的実感です。つまり、取材ターゲットとなった人を、"疑惑"と言って取り上げつつ、同時にその人の人権を最大限守るにはどうしたらいいのか、という離れ業を、自分の課題として日々突きつけられるのですから。それは大変しんどい作業です。

 私自身、時々本当に、目の前の仕事から「逃げ出したい」と思うことがありました。でも、「自分がここで逃げたら、結局誰か他のリポーターが代行して、被取材者をもっとひどく扱うかもしれない。それだったら、せめて自分が担当して、少しでもマシな方向に持っていきたい」などと、そんな偉そうなことを考えて、やっていました。

★★"トリカブト疑惑"報道の綱渡り★★

 それでも、例えばトリカブト事件というものがありましたね。覚えておられるでしょうか? Kさんという男性が、3人連続で奥さんを突然の心臓麻痺で失った。再婚しても再婚しても、また心臓麻痺で失った。調べてみたら、2人目と、特に3人目の奥さんには、Kさんを受取人とするかなり巨額の生命保険金が掛けられており、3人目の遺体からは猛毒のトリカブトが検出されて、保険会社が彼への保険金支払いを拒否した――という出来事があったわけですね。

 で、『ビッグモーニング』で「これはクサイ、やろう」という話になって、「下村、やれ」という指令が下りました。だいぶ前に2、3の記事がパラパラと出た程度で、まだどこのワイドショーも週刊誌も騒いでいなかった時期でした。ましてや報道局の扱うニュース番組では、まだ当分内偵取材して裏付けを固めてからでないと何も放送できないヨ、という段階でのオンエア決行でした。

 そこで私が当初、放送するたびに毎回毎回くどいように強調したのは、「心臓発作で3人の奥さんを連続で失った、大変気の毒な男性がいらっしゃいます」という切り出し方でした。この人は悲運の人なのだ、という前提をまず強調して、ただその後いろいろ疑問が出てきたのでその疑問点だけについてお伝えしていきます、と、そういう姿勢を明示しました。それがせめてもの抵抗といいますか、大きな流れに棹差す自分としてのコメントだったわけです。それでもやっぱり、VTRの中では「この人クサイな」と思わせる情報がガンガン出てくるわけですから、「Kさんが殺人犯?」という流れになってしまう。かくて、それから数日の間にこの事件には"トリカブト疑惑"という好奇心をそそる名前がつけられ、各局のワイドショーがこぞって取り上げる展開になりまして、ワイドショー同士が臨界反応のように、こんな情報もある、あんな情報もあると、どんどんエスカレートしていきました。

 私自身はとにかく本当に、徹頭徹尾《疑わしきは罰せず》という当然のルールを報道人は貫くべきだと思いましたから、社会的に糾弾するみたいなこともしてはいけないと思っていました。そもそも、たとえクロでも、人を罰することは我々の仕事ではないのですから。だから、騒ぎが大きくなるにつれ、非常に扱い方に苦しみました。

 まず私が自分に課したことは、「本当にKさんを先入観で疑ってはいけない。彼が『本当に自分はやっていない』と言うのだったら、まずはそれを信じて、周囲の噂でなく、本人と会って考えよう」ということです。つまり今で言えば、例えば和歌山のカレー事件で疑われている林真須美さんとか、オウム真理教の幹部の人などを担当している弁護士の人たちに、ちょっと似たような立場と言えるかもしれません。とにかくその被告人が言っている主張をまず全部聞いて、彼らの保護されるべき利益を最大限に守れるように、大きな流れにまき込まれないように、ということを、私も一生懸命考えました。

 実際にその"疑惑の人"といわれたKさんの家を単身で訪れて、彼と2人きりで話をする機会もありました。小さい卓袱台をはさんで、彼と私は2人きりで差し向かいになり、彼が「お茶をどうぞ」と出すわけです。仮に彼が真犯人で、じっと時効成立を待っているのだとしたら、それを暴きに来た邪魔者など、トリカブト入りのお茶で心臓マヒを装って始末しちゃおうとするかもしれない。「これは踏絵だな」と、私は思いました。ここでお茶を飲まなかったら、「下村も実は内心、俺のことを犯人だと思っている」と、彼は物凄く敏感に感じとって、もうそこから後は話をしてもらえません。私は、平気な顔で、お茶を飲みました。結果、まだ生きています。取材相手との信頼関係は、そうやって一つ一つ築いていくわけです。

 そういう事を積み重ねながら、「俺自身は、この人が言っていることを信じられるか」ということを自己検証しながら、やっていったわけです。しかし報道が進むにつれて、ついにある時、Kさんが姿を消してしまいました。私はあの時、本当に恐かったです。つまり、私自身は「こいつが犯人だ!」と指差すような報道はしていないつもりでも、とにかくこのワイドショーのエスカレートに最初に火をつけたのは私たちの番組でしたし、これで彼が失踪先で「私は潔白だ」という遺書を残して自殺でもしたら、どうやって自分は責任をとったらいいんだ、と考えると、本当にひざがガクガク震えました。

 その後、幸いそのような事態にはならず、私達の報道を見た視聴者の方々から新しい重要情報が次々に寄せられ、それがきっかけで警察が動き出し、Kさんは発見されて逮捕、という展開になりました。しかし、だから結果オーライ、などと言うわけには勿論いきません。

★★逆風の人を取り上げる難しさ★★

 自分達は、決して「正義の味方」として偉そうに振舞うべきではないと思います。メディアというのは、特にテレビはそうですけれども、1億人に聞こえる巨大なメガホンでがなり立てているわけです。こういうメガホンを持っている人間は、本当に何をしゃべるかについては慎重にならなくてはいけなくて、「俺は正義の味方だぞ」みたいな振る舞いをとった瞬間から、もうその人自身が危ない暴力的な存在になるわけです。

 私自身、そうならないように、ならないようにと、気をつけてやってきたつもりではあります。色々な事件に関わりましたが、それぞれについて本当に自分の伝え方に間違いは無かったのか、と問われれば、今でも自信がありません。

 とにかく、Kさんに限らず、"疑惑の人"とかそういう言われ方をする、いわばその時の世間の風向きの中で逆風をあびる立場にある人――"弱い立場の人"と敢えて言いますけども、そういう人を取り上げる時って、本当に難しいです。さっきもチラッと言いましたが、和歌山のカレー事件の女性についてどう取り上げるか、それからちょっと前の例では、神戸で少年の首を切って校門に置いたと世間に思われているA少年をどう取り上げるか、といったあたりは、本当にデリケートにやらなければいけないことです。どのメディアにも、いや、どこの国にも、万能薬のように適用できるズバリとした基準などありません。ケース・バイ・ケースで悩んでいくしかありません。

 ここで、アメリカの場合、少年犯罪報道がどんなふうに行われているかということをTBSのNY支局で取材してリポートしたテープがありますので、それをまず10分程ご覧いただいてから、続きのお話をしたいと思います。
     <ビデオ上映>
 この取材で、私が一番ショッキングだったのは、「手紙」の話です。放送後、視聴者の方からも、その部分に沢山反響がありました。《少年事件が実名で報道されると、本人や周囲に実際どんな影響が及ぶのか》という視点で、去年アーカンソー州の中学校で乱射事件を起こした少年の家を訪ねたのですが、ニュースで実名を知った全米の視聴者から、この家族に、山のように手紙が届
いたんですね。番組の中で一部紹介しましたが、本当にそれが、激励ばかりなんです。私もお母さんから、「どうぞどれでも好きなのを取って見てください」と言われて、ドサッと見せられたのですが、本当にどれを見ても暖かい激励ばかりで、例えば、片田舎の小さな村の教会で日曜日に集まってみんなで寄せ書きをしていたり、本当に私も久しぶりに取材で泣きました。

 オウム真理教の広報副部長の荒木氏を主人公にした『A』という優れたドキュメンタリー映画を作った森達也監督も、「このニュースを見て大変ショックだった。日本ではまずこういう反応にはならない」という趣旨のことをある文章で書いておられましたけれども、私自身もやはり、そう思わざるを得ません。あれが日本社会だったら、山のような脅迫状や非常に陰険な匿名の手紙が、殺到することになると思うんですね。

 ですから、報道のあり方について考える時には、報道する側だけではなくて、報道の受け取り手側である《社会》のあり方がどうなっているか、ということを考え合わせないと、見誤ります。このボタンを押せばこの結果が出てくる、という自動販売機ではないわけですから、他国を真似て同じ報道姿勢を取っても同じ結果が出るとは限らない、ということを、しっかりとわきまえて議論しなければいけないと思います。

★ ★オウム報道の危うさ★★

 日本の場合特にしんどいなと思うのは、米国などに比べて、もともと非常に均質な最大多数派が存在している社会ですから、ちょっと特別な目で見られてしまうような人たちをメディアがどう扱うかというのは、ものすごく難しいのです。

 先ほど、"弱い立場の人"という言い方をしましたけれども、例えばですね、え〜と、今ざっとこの部屋を見渡しますと、この中に統一協会の信者の方が、2人、3人――などと私が言い出したら、皆さん、ちょっとギョッとするでしょ。でも、ここで私が「今メガネをかけている人達が18人」と言っても、誰もギョッとしないわけですよ。この違いは何なのか?

 要するに、ある少数派が「いるよ」と聞いただけでギョッとしてしまうような異分子排除の感覚というのが、我々の心の中にあるわけです。ここで突然、バカ高い壷を売りつけ始めたりするわけじゃないんですから、統一協会の人がいたって何も困ったことはない筈なんですけれども、それでもギョッとしちゃう。そんな感覚というのを、ほとんど皆が持っているわけです。そうすると、そういう人達に関しては、メガネをかけている人についてと同程度のデリカシーでは報道できない。視聴者の過剰反応を招かぬように、もっと気を遣わなくちゃ、ということになるわけです。

 3年前、ちょうど私がニューヨークに転勤する直前のあの"オウム報道フィーバー"の頃、私はオウム教団自体よりも、世の中の反オウム大合唱のほうがずっと恐かった。明らかになった犯罪行為だけを批判するのならいいけれど、何でもかんでもオウムは悪い、それに異を唱える奴は非国民、という集団ヒステリー反応。これは本当に恐かったです。だって、オウムが全員一丸と
なって暴走した結果出る犠牲者の数と、日本社会が一丸となって暴走した結果出る犠牲者の数とでは、どっちが甚大か、明らかじゃないですか。日本社会全体がどこかに向かってバッと走る方がずっと恐い、というのはみんな学校で歴史を勉強して(或いは半世紀余り前に自ら体験して)分かってるはずなのに、どうしてこんなにすぐに大合唱してしまうのか。

 それが3年前の過去形だったら良かったのですが、今回一時帰国してみたら、またこの頃オウム報道が増えてきてるようですね。しかも今回は、彼らが何かをやったというのではなく、「どこそこにいるから追い出せ」というようなことで大合唱になっている。追い出せと言ったって、コンピューターゲームじゃあるまいし、ボタンを押して消去できるわけじゃないんだから、彼らだってある場所を追われたら別の場所に必ず移動するしかないわけです。それを考えずにただ「とにかく我々の目の前から消えてくれ」みたいな爪弾きのされ方を行く先々で繰り返し受けていたら、誰だって、観念でなく体感として、「やっぱりこの社会は潰さなきゃ」という危険な思いにかられちゃいますよ。

 こういう事を言うと、よく「オウムの奴らの人権など考慮するなら、その前にもっと被害者の人権を考えろ」と叱られます。これは、論点がずれてます。人権うんぬんの議論ではなくて、こういう爪弾き報道は《社会防衛上》問題があるのだ、と私は言いたいのです。社会を守っていく上で、こういう形でどんどん少数派(オウムに限らず)を追いつめていったらますます恐いことになるということをもっとみんな真剣に考えないと、21世紀にとんでもない事が起こるのではないか、という切迫した恐怖を私は感じています。

★ ★解決の糸口はメディア・リテラシー★★

 では、どうすれば良いのか? 「報道人が心を入れ替えればいい」と言ってしまえば、「ははーっ、仰る通り!」で話が止まってしまいます。そんな当たり前の結論以外に、我々みんなが出来る事はないのでしょうか。

 そこで、まず今日からすぐ出来る事としては、報道を付和雷同で鵜呑みにしないということ。報道が世間に引き起こす波に巻き込まれてしまわないように、自分を防衛していくしかないと思うのです。

 こういうことを報道側の立場にいる人間が言うのは、己の責任を放棄していることになってしまうので、普段は決して言えません。自分で放送しておいてそれを鵜呑みにするな、なんて、「じゃあ、お前のやっている事は何なのだ?」と言われてしまう。

 そこで、敢えて私はTBS社員としての最後の企画のメッセージを、それにしました。つまり今年3月初め、一番最後の中継リポート、もうここで何を喋っても後で社内で叱られることもないという唯一のチャンスをとらえて、カナダのメディア・リテラシーの授業を紹介したんです。
         <ビデオ上映>

私としては、大手メディア所属員の遺言として最後にこれを伝えることができて、無理にでもやってよかったと思っています。ちなみに、このとき草野満代キャスターがスタジオで持っていた『メディアリテラシー』という本は、リベルタ出版というところから出ています。もう普通の本屋さんに行っても置いてありませんが、もし興味がおありでしたら注文してみて下さい。この放送直後、いきなり注文が跳ね上がって、出版元は急きょ増刷を決めたそうですから。

それでは、ここで一度みなさんから質問をお受けして、まとまって質問をお受けしてから後半の話を組み立てたいと思いますので、何かご質問をお願いします。

★★<Q&A>★★

【Q】 ニュースの使命である真実の追求という側面と、視聴率にどうしてもしばられてしまう側面との兼ね合いについて。

【A】 視聴率というのは、メディア論では必ずネガティブなニュアンスで書かれて、「視聴率至上主義=悪」という風に直結して考えられています。これにあえて異を唱えると、視聴率というのは《支持率》であるわけです。壁に向かって話をしても仕方がないので、我々としても、少しでも多くの方に聞いていただきたい。これは、言葉をかえれば「少しでも良い視聴率を取りたい」と同じことなのです。より多くの人に伝えたいと思うことは、人に何かを伝えることを生業にしている人間としては、ちっとも悪いことではないと思います。だから、無造作に「視聴率至上主義」という言葉が批判的に使われることに関しては、いつも悲しいなと思っています。

 例えば、『ビッグモーニング』をやっていた頃に、雲仙普賢岳の噴火が起きました。大火砕流が発生する何週間も前から噴火は始まっていて、てっぺんに溶岩ドームが成長しつつありました。その時期に、大火砕流の数日前、私は番組内で、ヘリコプターによる上空からのレポートをやりました。その当時専門家たちはみんな、あの火山の性質から言って、粘着性の高い溶岩だから一気に流れ出すことはない、ドロッとしているからすぐさま麓の住民が避難する必要はない、という見解だったのです。専門家というのは、よく「なんであの時、あんな浅はかな事を言ったんだ」と後で思わせることがあるものですが、私はその時ヘリコプターから見まして、その粘着性の高い溶岩が「大きなドームを作っています。この巨大な塊がいきなり転げ落ちたら、大変なことになるかもしれません」と、専門家達の見解に背くようなレポートをしました。その数日後に、ま
さにその懸念のままの大火砕流が起こって、予言的中のような形になったのですが、残念ながらこの警告リポートの時の視聴率は1ケタと低く、見ていた人は10人に1人もいなかった。もし『ビッグモーニング』が高視聴率番組だったら、もっと多くの人にこの警告が伝わったのに、と非常に悔しい思いをしました。

 それから、松本サリン事件で当初犯人扱いされた河野義行さんのケースですが、事件の一ヶ月後、河野さんが退院された直後から、『スペースJ』では「河野さん宅にある薬品類ではサリンは作れない」ということをはっきりと申し上げていたわけです。しかし、圧倒的な「河野は怪しい」報道の中で、視聴者からは「どうして殺人者の肩を持つのだ」「下村、お前も人殺しの仲間か」という厳しい批判の手紙こそ来ましたが、「そうか、まだ河野を疑うのは早いか」という冷静なリアクションはほとんどありませんでした。この時もやはり、もっと視聴率があればな、と思いました。当時の『スペースJ』は、まだオウム報道が始まる前で、やはり1ケタの視聴率で低迷していましたから。もっと多くの人が見てくれていたら、きっと河野さんに対する犯人視一辺倒の風向きに多少はブレーキをかけることが出来たろうに、と本当に悔しかったです。

 ですから、本当に何かを人々に伝えることを目指しているジャーナリストにとっては、より高い視聴率を取ろうとするのは、当たり前のことだと思います。

 ただ、そこで視聴率を取るための《手段》を間違えることは、あり得ます。視聴率を取ろうとすること自体は何も悪くないのですが、そのためにより真実に迫ろうとするアプローチを取るのではなく、より皆がすぐ話題にしてくれそうなネタに変えてしまう、というアプローチの過ちですね。ネタの選び方や切り取り方で数字を取りにいこうとする事には、たしかに問題があります。

 そういうわけで、質問に戻ると、「真実の追求と視聴率追求との兼ね合い」というのは、実際のところ、両者は"兼ね合い"という二律背反関係にあるのではなく、本来《真実の追求=視聴率の追求》になるはずなのだ、とご理解いただきたいと思います。

【Q】 若い人にニュースを見てもらうための工夫はどうしているのか。

【A】 これは本当に難しい。まず、どの程度まで知っている人を前提に話をするか、というのは、ニュースを伝えるテクニックの中でも、最も難しいところです。例えば、先程見ていただいたメディアリテラシーの企画でも、前もって随分、日本の本社側とニューヨーク支局との間で相談しました。その結果、一番入門編ともいう辺りにレベル設定しよう、つまり「メディアリテラシーって何?」という人達を対象に作ろう、ということになって、こういう構成になったのです。これが例えば、メディアリテラシーについてもう知っていて、「あれについて報道してくれるのか、カナダからの現状が分かるのかな」という高度な関心でご覧になった方には、あの企画は物足りなかっただろうと思います。「何だこれだけか、それが今具体的にどういう問題を抱えているかについて知りたかったのに」と思われたかもしれません。ですが、日本で今どれくらいの人が
メディアリテラシーという言葉を知っているかと考えた上で、敢えてこの形にしたわけです。放送後の反響を見る限り、それで良かったなと思っています。「初めて知りました、これで興味を持ちました」という反響を随分いただいて、良かったと思いました。

 ですから、若い人に興味をもってもらう為の工夫というのも、ただド派手にやったり見た目のいいリポーターを起用したりという小手先以前に、「分かりやすく」・「知っている者の独りよがりな言葉を排して」・「せっかく映像があるのだから時には視覚的に訴えながら」といった正攻法の努力をしていくべきでしょう。当たり前のことですが、それしかないと思います。今の日本のテレビ報道は、その努力がまだまだ足りてないと思います。だから、その努力を続けていくしかないでしょう。

【Q】 少年犯罪、成人の実名報道について。

【A】 今日の講演会を主催して下さった浅野健一先生が『犯罪報道の犯罪』という本を書かれて以来、少なからぬマスコミ人が、実名報道をやっていていいのだろうかと考えています。私がTBS入社後、報道局に配属されて、当時の局長にまず読みなさいと言われたのが、その本でした。それぐらい、みんなこのテーマは考えているのです。

 私自身、全て匿名で報じた場合、果たしてニュースが伝わるのかというのは、やったことがないもので、ちょっと自信がありません。一度実験してみたいな、とは思っています。ただ、実名で報道されてしまうとその人に害が及ぶ、というのは間違いないです。

 例えば、先程の河野義行さんのケースにしても、『スペースJ』は「河野さんにサリンは作れない」と言いながら、それでも「河野さん」という実名を使っているわけで、やはり河野さんに世間の特別な目を向ける後押しをする形になっていた可能性もあるわけです。実名報道がそういったリスクを負うことは、みんな分かっているのですが、今のところ、それに変わる実験はしたことがありません。「下村が今後目指している『新しい形の情報提供』って何だ」というご質問が2,3出ましたが、その試みの際に、実はちょっと、この匿名報道の実験もやってみたいなと思っています。

【Q】 真実を追求しよう、というのが昔から報道の姿だったのに、最近なぜ急に、メディアリテラシーとか、報道を鵜呑みにしてはいけないとかいう話が出てきたのか。

【A】 基本的には勿論、メディアにいる者は、真実の追求を行っています。それをやめたら、この商売をやっている意味がなくなってしまいますから。ところが、その《信念》が「だからマスコミが伝えている事は絶対に真実なのだ」という《建前》になり、その建前が、「そう言っている以上、万一間違っても訂正しにくい」という《弊害》をもたらしてしまったのですね。

 それは、松本サリン事件の時に典型的に現れました。みんなとっくに、「河野さんはシロなのではないか?」と気付いていたのです。それなのに、どの社もなかなか謝罪できなかった。それはなぜかというと、マスコミは真実を伝えていますという神話を自分で崩すわけにはいかなくて、自縄自縛の状態になってしまっていたのです。それで、何とか他の方法でうやむやになるのを待とうと、各社、互いの出方を見ていた。しかしそこへオウム真理教に大々的な捜査が入り、逮捕者が法廷で事件への関与を仄めかす証言を始めた。それでやっと、各社横を見ながら、ある時一斉に謝罪するという形になったわけです。

 実はあれとよく似たケースは、アメリカでもありました。アトランタ・オリンピックで爆弾事件があったときも、初めはヒーロー扱いされていた第一発見者の警備員が実はFBIに疑われているということで、大々的な報道が始まりました。このリチャード・ジュエルさんと河野義行さんの話は、色々な点でよく似たケースだったのですが、途中から全く違ってきたのは、メディアが間違いだったと気付いた後の軌道修正の仕方です。これは日米で徹底的に違っていました。

 アメリカでは、犯人はジュエルさんではないと分かってくると、各社は非常に身軽に訂正を始めました。面白いことに、訂正の仕方は日本と全く異なり、絶対に謝らないのです。日本では「お詫びと訂正」というのが一語みたいにセットになっていますが、アメリカでは、新しい情報があります、という形で伝えるのです。FBIは他の線で捜査しているようで、リチャード・ジュエルは関係ないようだ、ということを、日本人の感覚としては「どうして謝らないのだ」と憤慨してしまうぐらいシレッと伝えるのです。

 日本では、そんな態度で訂正をすれば、それこそ皆さんから非難の集中砲火を浴びます。だから、訂正する以上は、お詫びを伴わざるを得ない。しかし、お詫びをすれば、自らの誤りを認めたことになり、真実を伝えているという神話が壊れてしまう。このジレンマで、決断がズルズルと遅くなる。

 誤報の被害者を日米どちらが早く救えるかといえば、明らかにアメリカ型でしょう。お詫び抜きで、とにかく訂正できちゃうんですから。日本ではそれが許されず、きちんと謝れというブレーキが掛かってしまう。この違いは非常に大きい。どうしたらいいのでしょうね。でも、アメリカ型が良いかと言えば、一概にそうでもなく、お詫びしないからロクに反省もせず、また同じような誤報をやって、また訂正するということになる。ただ、じゃあ日本のメディアはお詫びの効果で深く反省してもう過ちを繰り返さないかというと、さに非ず。また平気で、和歌山のカレー事件とか、前に反省したのかどうか分からないような報道をしているわけですから。

 そんな現実を考えると、結局、謝罪によって無謬神話の建前を壊すのはマズい、という"縛り"のないアメリカ型の方が、マシかも知れません。これは結局、訂正を聞いた時に「謝れよ」と言わない、アメリカの視聴者の気風の違いでもあります。言い換えれば、情報を受け止める側が、報道する側の上げた拳の"降ろさせ方"がうまい、という事です。そういう感覚の違いは、アトランタの現場にいて、とても参考になりました。

 直接の回答になっていないように聞こえるかもしれませんが、これが、御質問への私の答です。

【Q】 サリンは大組織でないと作りにくく、専門的知識がないと作れないことが明らかなのに、どうして松本のような間違い報道が起きたのか。

【A】 松本サリン事件に限った話ではありません。先程の火砕流のケースなども同様で、何か新しい事が起きたとき、それについて専門知識を持っている記者はなかなかいないのです。みんな普段から、幅広く全てをカバーしなければいけないという感じでやっていますから。とにかく専門家をあわてて呼んできて、ちょっと話を聞いて、もうそれで分かった気になるしかない、という状況です。ですから、あの時も結局、松本署のリーク情報にみんな乗ってしまったのでしょうね。

 警察情報のたれ流しを丸飲みし、ちゃんと独自取材していない、真実の追究を怠っているというご指摘もありましたが、それは全くその通りです。メディア論の中で、記者クラブ制度はいつも物凄く悪者扱いされますが、私は少し意見が違い、この制度にはいい所も沢山あると思っています。しかし、クラブで発表された情報が全てだという感じで報道してしまうのは、問題ですよね。クラブという制度で得られる情報の便利さは、それはそれで活かせばいいのですが、それだけによりかかってしまっては、話にならないわけです。

 松本サリンの時も、松本署で定例会見が行われていて、私も顔を出していました。他の地元の局などは、みんな夜回り等もやって会見以外の警察情報も得ていたわけですが、本当は、警察だけにブラ下がって二重三重に聞き出すよりも、一次情報こそが一番大事なのです。つまり、どの事件でもそうですが、当事者に聞くことが大事なのです。ところが、松本の時は、当事者であった河野義行さんがサリン被害で入院していたのです。それで、とりあえず取材のベクトルが警察の方に流れざるを得なかったという事情はあったのですが、それにしても、警察の発表だって、実は河野さんが容疑者だとは一言も言っていません。「被疑者不詳であの家を家宅捜索する」ということしか言ってなかったので、あれは明らかに報道陣の突っ走りでした。

 なぜそんな中で『スペースJ』が他の殆どのメディアと違うスタンスをとれたかというと、とにかく一次情報にあたらなくては、と病室の河野さんに手紙を出したことからです。「こんな報道になっていますが、河野さんご自身のお話をうかがいたい」という手紙を、最初はお返事をいただけなくて、結局3回ぐらい送ったかな。そしたら、退院後すぐに弁護士さん経由でご連絡いただけて「一度うちに来て下さい」ということになりました。そこで実際に、河野さんのお宅の薬箱や押収品のリスト等も全部見せてもらって、「これらをどう組み合わせてもサリンはできません」という報道になったのです。

 そういう、《当事者にあたる》という当たり前の作業をあまりやらない記者が多くなっているというのは、認めざるを得ません。現にあの時、我々と同じスタンスを明確に放送で打ち出していたのは、テレビ朝日の磯貝陽吾さんの昼番組『ザ・ニュースキャスター』だけでした。先程少しふれました、オウム真理教広報部副部長・荒木浩氏を追いかけた『A』という映画、これは本当にオウムの内側から外側を撮っている、内側に入りきったスタンス、カメラアングルの映画です。どうやってこの撮り方が実現したのかと森監督に聞いてみると、ただ愚直に「こういう趣旨で映画を撮りたいのだけど」という手紙をオウムに出したら、「そういう申し出は初めてだ」と言われて実現した、という経緯なのです。もう既に皆が同じような手紙を出していると思ったら誰も出していなかったということで、森さんはすごく驚かれたそうです。こんなものなのです。本当にみんな、当たり前の作業をしていないのです。

 これは別に、日本のメディアだけが悪いというのではありません。以前『スペースJ』で、医者が注射を打って患者さんが亡くなっていく一部始終を撮影したオランダの安楽死ドキュメンタリーを放送したことがあったのですが、その時も、森監督の場合と同じでした。ドキュメンタリーの中で安楽死を選んだ患者さんの未亡人に、私たちはインタビューをお願いしました。その時、世界中のメディアからその方にアプローチがあったそうですが、OKの返事を得たのは我々だけでした。インタビューの後で、「どうしてうちだけ受けてくれたのですか」と尋ねると、「手紙を書いて申し込んで来たのは貴方たちだけだったから」というお答えでした。他は電話を繰り返しかけたり、いきなりピンポーンとやってくる形だったそうです。誠実なお手紙をいただいたのでお受けしたのですと言われたときにはびっくりしましたが、どうもこういうことは世界共通のようですね。

 テレビというのは、どうしても時間がないものですから、一週間もあればお返事をもらえるかもしれないのに、とにかく待たずにすぐ行け、という指令になる。手紙という当たり前の方法は、その一週間が待てないがために、できない。今日見たい、今見たいという視聴者の要望に応えようという思いが強すぎて、相手と時間をとって誠実に向き合うことができない、ということです。

 ですから、取材者側は、その思い込みを取っ払ってしまえばいいのですね。「視聴者には一週間、場合によっては一年間待ってもらってもいいから、きちんと関係を作ってから一次情報を流そうよ」という記者が増えてきて、「それでもいいよ」という視聴者も同時に増えてくれば、この辺の所も変わってくるとは思います。

【Q】 最近の"野村サッチー"報道についてどう思うか。

【A】 実は昨日アメリカから帰ってきたばかりで、サッチー問題とかあまり分からないのですが、何かすごいことになっているらしいというのは聞いています。向こうでも日本の新聞は読めますので、その紙面の下にある週刊誌の広告で見出しを見て、何これという感じで受け止めている程度ですので、きわめて大雑把なことしか言えませんが、あれはある面で、もう沙知代さんに対するいじめじゃないですか。沙知代さんが何をしたかは知りませんが、見出し等を見ていても、よってたかってあんな事こんな事をした、と叩いてますでしょ。その読者やサッチーバッシングをしている人たちというのは、みんなとりあえず、いじめる側に寄っていればいい、と思って振る舞っている感じがして仕方がないのです。いつ流れが一変して自分がいじめられる側になるか分からないのに、とりあえずいじめる側に乗っているか、見て見ぬふりをして、いじめられる人を助けない。小学校のクラスで行われている風景と、全く一緒なのではないかと思います。一般的なことしか言えなくてすみません。

【Q】 下村が今後目指すという、「新しい形の情報提供」とは何か。

【A】 まだ具体的にはお話しできないのですが。先ほどメディア・リテラシーのビデオを見ていただきましたが、そういった受け手側の教育というところから一歩進んで、個人が情報の《発信者》になることも可能になってきています。多チャンネル化が進行すると、現在の数チャンネルだけの大メディアが出している画一的なニュースではなく、市民発のニュースというものも可能になるのではないでしょうか。最大公約数的なものを伝えるだけではない、新しい発想のニュースが、可能になりつつあるのです。アメリカでも'public access'という考え方が言われるようになって久しいですし、21世紀にメディアが新しい方向に向かおうとする中で、日本にもそういう流れが出てくるのなら、私もTBSを離れてお手伝いしたいな、と思うのです。情報の選択肢が増えれば、今までの解答集のようなニュースから、変わっていくことができるはずですから。

 私は、入社して最初の現場体験が、日本航空ジャンボ機墜落事故の御巣鷹山でした。普通なら新人研修を終えてまず地元の夏祭りなどをレポートしたりするはずが、いきなり御巣鷹山だったのです。この原体験は、非常に強烈でした。最初は、遺体が山から降りてくるたびに合掌していたのですが、たった三日後には、遺体安置所になっていた藤岡市民体育館で、並べられた棺を前に、「暑い暑い」と言ってふんぞり返って座っている自分がいたのです。たった三日なのに! メディアというのは巨大な怪物のようだけど、やっている一人一人は実は普通サイズのちっぽけな人間なのだから、そんな風に無理して仕事しながら感性をすり減らしていくんだな、と思い知りました。よほど注意していないと、感覚がどんどん麻痺してしまうのです。本当にタフな人でないと、正常な感覚では続けられない仕事だと思います。

 今メディアにいる人も、これからメディアに入ろうとする学生さんも、ニュースを見ている方たちも、そういう厳しい状況の下で、一リポーターは個人として闘っているのだな、ということを、どうか頭の片隅に置いておいて下さい。その上で、情報は鵜呑みにせず、複数の選択肢の中から自分だったらこのリポーターの情報をどう受け止めるか、という発想を持っていただきたい。皆がそのように努めることで、21世紀の日本のメディアが、洪水被害を出さない方向に向かえればいいな、と思っております。

ご静聴ありがとうございました。

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