川端道喜
川端道喜というのは京都の粽屋ですが現代まで十五代つづいておりまして、今も十五代目当主が粽をつくっておられます。夏のある日、道喜で粽を買って、この粽は明日までもつでしょうかと尋ねますと、ご主人からは「それは大丈夫もちます。天皇さんだってその日にできた粽はなかなかお召し上がりになれませんよ」という返事がありました。ふつうの菓子屋の主人がこんな時に天皇さんのことを言えば、ちょっとおかしいのじゃないかということになるのですが、粽屋の道喜が言う場合には、意味があるわけです。
粽屋の道喜は室町の末期から江戸時代ずっと、そして明治二年天皇が東京に移られるまで、三百年以上にわたって毎朝御所に天皇の食事を運んだ歴史があるのです。
いま川端道喜といっておりますが、川端を名乗ったのはじつは四代目で、それまでは渡辺道喜といっていたのです。渡辺という家は元は武士でずっと以前から続いておりますが、渡辺進が京都の南の方の鳥羽で餅屋を始めて、後に、御所の近くに移り商売を続けたわけです。渡辺進は同じ鳥羽村の中村五良左衛門を婿に迎えて、そしてこの五良左衛門が渡辺道喜を名乗ったのです。この初代道喜は千利休と同門で茶を学び、利休より少し年上だったようです。『利休百会記』という茶会記のなかには道喜を交えた茶会が二回ほどあらわれております。
渡辺進と初代道喜とのあいだは、少し複雑な関係があるようです。といいますのは、このころ京都で天文五年(一五三六)に法華の乱というのがありました。法華というのは日蓮宗ですが、京都の町衆はほとんど全部法華宗に改宗してしまたったので、それでは、本願寺、比叡山などはおもしろくありません。しかも法華宗は、「禅宗は悪魔だ」とか「南無阿弥陀仏を唱えるものは地獄に落ちる」というようなことを言うわけですから、我慢できなくなって、宗教戦争が始まるわけです。法華宗の方は最初は勝っていたのですが、最後には負けて堺などに逃げてしまうわけです。天文十一年に後奈良天皇勅許の綸旨が出て、法華の町衆は京都に戻れるようになりましたが、渡辺進の名では店を続けることができませんので、中村五良左衛門を娘の婿に迎えて、そして御所の近くでまた餅屋を始めたのだと思われます。
初代道喜のころは、室町時代の末期で、応仁の乱など戦乱が続いた後ですから、諸国からの年貢も入ってきません。京都の御所は荒れ放題に荒れて天皇の食事も十分でない有様でした。天皇の食事もままにならないというときに道喜は毎朝天皇の食事を運んだわけです。
天皇の朝の食事を御朝物、略して、お朝といいますが、天皇は「お朝はまだ来ぬか」と女官に訊かれる。女官は几帳を少しあけまして、のぞいていると、道喜が届けにきたという具合です。御朝物をどのように運んだかといいますと、朱塗りの器に御朝物を入れます。御朝物というのは、大きなぼた餅を想像していただいたらいいのですけれども、粒餡を餅の外側につけたものです。だいたい野球のボールくらいのかなり大きなもので、これを六個くらい入れます。御朝物を入れた器はもう一まわり大きな朱塗りの器に入れます。そしてそれを唐櫃に入れて、唐櫃の両端に晒布を輪にしてかけ、青竹を通して二人で、御所の庭まで運んでいきます。それを長橋の局という女官の長に渡し、六個の中の二個が天皇の食膳に出るわけです。時代が下がりますと食事はしだいに豊かになってきましたので、天皇が御朝物を召し上がることはなかったようですが、しかし御朝物の献上は明治初年まで三百年ほど毎朝続いております。天皇が崩御されますと数日間休んでから、新天皇に献上をまた始めます。今でももし天皇が京都にこられることがありますと、道喜からやはり御朝物を献上しております。御朝物は塩餡ですが、敷砂糖といいまして器の蓋を裏返してそこに白砂糖を薄く敷きまして、それをまぶして食べるのだそうです。
もう一つ初代道喜が知られているのは、天文五年に織田信長が上洛して、御所の修理をしたときに道喜は工事奉行として、工事全体を監督したことです。現在も通称「道喜門」で通っております、京都御所の正面の建礼門のわきに小さな穴門といわれる門があります。これは、初代道喜が工事の時に工事用の資材を運び込むために塀に小さな門をつくったものの名残です。その後御所は何回も焼けておりますが、道喜門は今もその形で残っております。初代道喜はこのときの功績により織田信長の奉行村井長門守貞勝から、諸役免除の奉書を受けております。